日常



ブルマが重力室にやってきたのは、訓練開始から5時間経った頃だった。
それはちょうど、2度目の休憩時で、胡座をかいて進化について思索している真っ最中だった。
背後でドアをノックする音がしたので、何事かと思いそちらに振り向くと、分厚いガラスのはめこまれた小窓から、ブルマがこちらを覗いているのが見えた。
ベジータはギョッとして、目をこすった。見間違いではないのかと思ったが、確かに女がそこにいる。
素早く時計に目を走らせると、午後2時すぎを表示していた。

今日は平日だ。
だから、この女は一日中仕事のはずだ。こちらから呼び出してもいないのに、一体何の用なのか……。

ベジータは、手に持っていたタオルで、身辺の床をさりげなく拭った。吐いた血を、ブルマに見られる訳にはいかない。吐血がバレてしまえば余計な世話を焼かれてしまうからだ。
血で汚れたタオルは握り潰し、ゴルフボール大に圧縮してポケットに隠した。それから、床のすみに畳んでおいた長袖のパーカを羽織った。体中を覆っているおびただしい内出血斑を隠すためだ。腕を通すと、布の繊維がポロポロと床に落ちた。
丈夫な生地で仕立てられた服だとブルマからきいていたが、高重力の中に置きっぱなしにしたせいなのか、何十年も使い古したように損傷している。
ベジータは舌打ちした。
あの女が苦言を呈してくる“ネタ”が、こうしてまた増えてゆく。
文句を言われるのを想像しただけで、ウンザリしてくる。
この上着は後で処分しようと決めた。

「お水買ってきてあげたわよ~」

ドアを少し開けると、そこには朝食時と変わらず、だらしないノースリーブと短パンを身につけたブルマが立っていた。ペットボトルを持って、胸元でプラプラと揺らしている。ベジータは、その透明の水を見た途端、猛烈な喉の渇きを覚えた。思わず手を伸ばして受け取ろうとしたが、手の甲全体に広がっている紫色の内出血斑に目がとまり、すぐに引っ込めた。
皮膚の異変を見られる訳にはいかない。

「そのへんに置いておけ」

努めて冷静に命じて、顎でブルマの足元を指す。
手で受け取れない以上、仕方がない。今すぐ水を補給するのは断念し、ベジータは重力室のドアを閉じかけた。
が、その瞬間、手元で耳障りな金属音が鳴った。見ると、ドアの隙間に鉛色の物体が挟まっている。
それは、ちょうど、ブルマの二の腕と同じ太さの金属棒だった。

「ちょっとさあ、あんたに話があるんだけど」

棒を突っ込んできたブルマは、ドアの隙間から、まあるい目を覗かせて、ベジータを見つめてきた。
反射的に目を伏せた。
ベジータはこの目を見ると、奇妙な目眩に襲われる。
苛烈な訓練で精神を鋭利に研ぎ澄ませた所に、この目を見せられると、ぐんにゃりと覇気が抜けてしまう。
何故ならその、安穏と潤った瞳の色が、訓練の場にはあまりにも不釣り合いだからだ。

まるで“世界平和”をそのまんま具現化したような双眸だ。

違和感云々どころの話では無い。
自分の挑んでいる世界とは、まるで次元が違っているのだ。
訓練で焦っている最中などは、殺してやりたいと思うほど、腹立たしい目の色だった。

「今は話している暇がない。後にしろ」

ベジータは目を伏せながら、吐き捨てるように言った。そしてドアに挟まっている金属棒に、勢いよく手刀を打ち込んだ。綺麗に切断された破片が、ガラガラとやかましい音をたてて床に転がる。
ベジータは改めてドアを閉めようとした。
しかし、隙をつかれて新たな金属棒が突っ込まれ、それを阻止されてしまった。ドア口で圧迫された棒は、メキキ!と軋みながら、斜めにひんまがった。
ドアの隙間からは、飴玉のような瞳がのぞいていた。
目が合ってしまった。
グラリと目眩が襲う。

「なによ。どうせ休憩してたんでしょー?話ぐらいいいじゃないのー」

艶のある唇が開く度に、甘い香りが忍び寄る。
朝はつけていなかった香水だ。
嬌声かしましい宴に漂う、快楽の香りだ。
ベジータの顔が急激に歪む。
冗談では済まされない。生と死の狭間を行き来する過酷な訓練場に、こんなにふざけた不浄の空気を入れる訳にはいかない。
苛立ったベジータは、声を荒げた。

「用件なら紙に書いてドアに掲示しとけばいいだろ。とっとと職場に戻れ、バカ女」

しかし、言い終わらぬうちに金属棒がもう一本ねじ込まれた。その突拍子もない無い行動に、ベジータは言葉を失った。呆気にとられて見ていると、ドアの隙間に次々と金属棒が差し込まれてゆく。最終的には7本の棒が突っ込まれた。
青い目は相変わらずこちらをじーっと覗き見ている。
女の行為を、少々不気味に思ったベジータ。その青い目を慎重に観察してみたが、やはり目眩が邪魔をして、何を考えているやらさっぱりわからなかった。
いいや、分かりたくもない。
とにかくこの女には、出来るだけ関わりたくないのだ。
さっさと追っ払わねばならない。排斥するための文句を、必死にひねりだす。

「仕事はどうしたんだ。サボりか」

眩暈をこらえて、懸命に睨みながら詰問すると、ブルマはあっけらかんとして答えた。

「あら、カレンダー見てないの?今日から年末年始でうちの会社は休みなのよ」
「……。年末年始が、一体なんだというんだ?何故休みになるんだ?」

ベジータは少し首を傾げた。するとブルマは一瞬驚いたように目を丸くした。

「ええ?何故って言われても。そりゃあ社則で定められてるからじゃないの?他の会社も似たようなもんよ?そんなの普通じゃないの」
「……。それで、てめえの所はいつまで休業するんだ?」

“普通”の意味がよくわからなかったが、ベジータは遇えてそこは掘り下げなかった。無駄な問答は省きたい。

「えーと、今日から年明けの4日までの1週間。…あー、でも5、6が土日だから、もうちょっと延びるわねえ、占めて10日間ぐらい?」
「……」

ベジータは絶句してしまった。
普段の土、日、祝日の休暇が許されているだけでも驚きであるのに、年末年始のまるまる1週間以上、仕事の放棄を許可する会社の在り方が、とても信じられない。
そもそも、1日たったの8時間労働で、何が生産出来るというのだろうか?
フリーザ軍の厳しい労働体制しか知らないベジータは、たちまちに混乱してしまった。

「社員総員でしょっちゅうサボっている癖に、よくも利益が出るもんだな……」

恐る恐る口にしたその言葉に、決して悪意を込めた訳ではない。心底、不思議に思って漏れた一言だったのだ。しかしブルマは、この台詞が気に食わなかったのか急に目をつり上げて、

「失礼ねッ。誰もサボってやしないわよ。しっかりと休みが取れるのは、それだけ、私を含めた社員の能力が高いからじゃないの!」

と、重力室のドアを平手打ちしながら怒鳴ったのだ。

「それに、会社が休みでもねえ、“コレ”の管理があるから私は休めないのよ!?家事もあるし~!あんたが居るから長い旅行にも行けやしないわ!あー腹立つわね~。腹立つから大掃除手伝ってよ。今日はあんたに、これを言うために来たのよッ」
「何……?何だ、大掃除とは?」

耳慣れない単語に、ベジータが眉をひそめてきくと、ブルマは深く一呼吸おいてから声を張り上げた。

「大掃除っていうのはねえ!1年の最後に普段出来ない所を綺麗にする“地球の行事”よ!高い場所の拭き掃除とか、重い粗大ごみ運びとか、あんた向けの仕事が山程あるのよ!ウーロンが抜けて人手がないから、今日からやって頂戴!」

ベジータに、新たな眩暈が襲い掛かった。
つきつけられた依頼があまりにもくだらなすぎて、頭がついてゆかなかった。
そんなしょうもない“地球の行事”ごときに、何故サイヤ民族の自分が関わらねばならないのか、理由がわからないし、理解が出来ないし、到底納得もいかない。

「掃除屋を雇えば済む事じゃねえか」

すさまじい眩暈の最中にあってもベジータは、至極常識的な提案をしたつもりだった。しかしブルマは更に怒りを倍増させて反論してきた。

「そんなの雇うの、絶対に嫌よ!」
「何故だ」
「何故ってあんた、人件費がかかるからに決まってんじゃないのッ!お金が勿体ないでしょ~!?」

ブルマは腰に両手をあてて、憮然として怒鳴った。
ベジータは、己の耳を疑った。ブルマの胸元にキラキラ光っている、大粒のダイヤモンドと、怒りに満ちた青い目を、何度も何度も見比べる。ブルマが放った、訳の分からない言い分に、ベジータはますます混乱してきた。

「何?一体、何を言ってるんだ?人件費なんぞてめえにとっちゃ塵みてえな金額だろうが」
「塵ですって~?よくも言えたもんだわ!うちは現在、誰かさんのせいで大幅に節約せざるを得ないのよ!この重力室、実はすっごい電気代かかってんのよ~!?あんたが重力室使う前は、家に宝石商呼んでアクセサリーとかゆっくり選べてたのにさあ!今じゃバーゲンでセール品の争奪戦ばっかりよ!別に嫌いじゃないけどさあ!」
「……」

嫌いじゃないなら別にいいじゃねえか、と思ったが口にするのはやめた。とりあえずこの意味の解らないやり取りを、早く終結させたかった。
ベジータはどうすればこの女を追い払えるかと知恵をしぼった。イライラが先立ってしまい、後頭部をかきむしった。

「その、首にぶら下がってるデカイ宝石を売って……金に換えればいいだろう簡単な事じゃねえか。今すぐ売って来い、早く行きやがれ、この変な棒を持ってこの場から消えろ」
「なんで売らなきゃいけないの!嫌よ!あんた、無料で間借りしてる身分なんだから、そのあたりわきまえて少しは家の事を手伝いなさい!」
「断る」

本格的に馬鹿らしくなってきたので、ベジータは問答無用とばかりに金属棒を叩き折り始めた。するとそれを見たブルマが、突然、冷めた声でこう言った。

「あっそう。家主の言うこときかない訳~?じゃあ金輪際あんたには、ご飯も重力室も世話してやんないけど、それでもかまわないのね~?」
「……」

金属棒を折るベジータの手が、ピタリと止まった。
下を向いていた黒目が鋭い光を取り戻し、ブルマの面を真っ向からとらえた。対して、ブルマは気丈にも、ふてぶてしくベジータを睨み返して、指までさしてきた。

「今日の清掃箇所、メモしてこのドアに貼っておくわ。やらないとご飯抜きだから」
「おい、まさか、このオレを、脅しているつもりなのか……?正気か?殺されたいのか?」
「あら、言う事聞けないの?じゃあこの水もお預けよ」
「……」
「あ~あ。水道菅の工事、まだ終わってないのよねー。断水って困るわねほんとにー」
「……その水は置いていけ」
「大掃除してくれる?だったらいいけど~?」
「……」

ブルマがベットボトルの蓋をあけて、今にも床にこぼそうとしている。いう事きかないとこの水捨てるわよ、というジェスチャー。
ベジータは、ドッと沸き上がる怒りに、顔を歪ませた。
女に対するはっきりとした殺意が、胸の中に充満していた。
しかし、喉は、痛いぐらいにカラカラに渇いている。
水だけは、今はどうしても諦めきれない。
野外で一番近くにある、公園の水飲み場まで飛ぶパワーですら、今の自分には全く残されていないのだ。女の手前、平気を装っているが、重力で傷めすぎた体は、ゆっくりと歩行するだけで限界だったのだ。



「オレは一体、誰を殺せばいいのだろうか……。やはりあのブタか?本来ならあのブタが、この雑用をこなしているはずだろうしな……。無論、最も死ぬべきはあのアマに決まっているが、夫妻が居ないうちは殺す訳にもいかん……。畜生、ブタ野郎……どこに行きやがった」

ブツブツと、独り言が止まらない。
度重なるストレスの為である。

水を得た後、ベジータは、女をぶち殺したい衝動を抑えながら新たな提案を出してみた。掃除ぐらいなら、家事用のロボットを使えば十分事足りるのではないか、と。しかしブルマは、『ああ、あのロボットね、もう型が古いし故障ばっかりするし、昨日粗大ごみに出しちゃった~。新型ロボットって結構高いのよ、当分買えないわ~』とサラリと返してきて、却下となった。
とても富豪とは思えない台詞である。全く腑に落ちないのだが、ブルマと会話すると物凄く長引くので、ベジータは諦めて、死んでもやりたくなかった清掃作業にとりかかった。

「ロボットぐらい直せばいいだろう、いやその前に、科学者なら一から自分で作れよクソ女め、富豪の癖に変な所でケチるんじゃねえ、電気代が気になるならこのクソ暑い暖房を切って冬服を着ればいいだろうが、ふざけやがって、ぶっ殺されてえのか」

忌々しい調子で独り言を続けながら、高い天井の電球の交換を行う。こんなものは、脚立があればバカでも出来る仕事である。単純すぎる作業をずっとやっていると、脳が朽ちてしまいそうで恐怖すら感じる。
ベジータは素早く舞空しながら、電球交換と埃払いをこなしていった。自分なりにタイムリミットを設けて、スピード勝負のつもりで作業してゆく。そうでもして、過集中をしていなければ、怒気が暴発して、建物ごと爆破してしまいそうだった。

「すっごい!もうここまで出来ちゃったの!?やっぱり速いわねー!」

ふいに、下方からブルマの声が聞こえた。突然の事で、冷水を浴びせられたような戦慄が駆けた。うわっ!と心中で叫びながら見下ろすと、声の主は、満足げにこちらを見上げていた。
たちまちに顔が熱くなった。
指示通りに労働している様を、女に見られてしまった。しかもご丁寧に“評価”までつけられてしまった。完全に、相手が「主」でこちらが「従」の図式となっている。気がおかしくなりそうだ。自分より程度の低い民族女にこき使われて、誉められるなど、これ以上の屈辱がどこにあろうか。

「あんたって、こういう所でも真面目なのねー、ちゃんと綺麗にしてくれてるから感心しちゃったわ~。ウーロンに任せたら、あいつ絶対手抜きするからさあ」

その刹那、脳の一切合財が、耳の穴から噴き出すのではないかと思う程の、激烈な衝撃がベジータを襲った。
女の言う「ウーロン」とは、例の、取るに足らないブタを指している。
ソレと一緒に並べられて比較をされているのが、信じられない。
驚きである。
なにやらパキパキと音をたてて発狂しそうな予感にベジータは震えあがった。そして懸命に考えた。ブルマのキチガイレベルの発言を分析し、解明し、消化しようと頑張った。

――“ウーロン”と自分は客観的に捉えれば、一体どんな存在であろうか?
ふたつの存在に、果たして、毛ほどでも共通点はあるのだろうか。
相違点をあげるなら、いともたやすい。
すなわち、ウーロンはブタで、オレはサイヤ人だ。
ゲスなブタと高貴なサイヤ人だ。
有り体に表現すれば、ゴミと皇帝である。
ゴミと皇帝だ。
誰がどう見てもゴミと皇帝だ。
もう死ぬほどゴミと皇帝だ。
全宇宙が爆発するんじゃないかというぐらい厳然としてゴミと皇帝である。
それは間違いなく、客観的事実であり、水と油に負けんぐらいに二者の違いはハッキリしている。そこに、混じり合う余地などないはずだ。

……しかし何故?

何故にこの2つの存在が、女によって同列に並べられて語られているのだろうか……?
何故ブタとオレが、同じ比較の天秤にかけられている?
この女の頭がおかしいのか?
それともオレの認識、世界観が、この地球に適応できていないのか?
……。
……。
わからない。
なんという事だろう。
かつてない奇問怪問だ。
それがまるで渦を巻きながら頭を切り裂いてゆくようだ。
しのごの言ってる場合じゃねえな、やはり殺すべきか、この女。
オレの正気を保つためにも。
あ、いや、待て待て、冷静になれ、状況の整理。状況の整理を……、落ち着け今のオレはどうなっているんだ……?
……。
……。
ブタと比較された、という奇怪な現象を解明すべく、現在オレの脳内では、情報伝達物質が忙しく駆け巡っている。
物凄く高速に駆け巡っている。
笑いが止まらぬ程に高速だ。
しかし妙だ。
終着点が見当たらないではないか。
思考は闇雲に暴走するばかり、このまま考え続ければ、シナプスが焼ききれて狂気に陥り、腐った脳みそが耳から大噴出するかもしれん。
腐るばかりでなく大噴出だぞ?
洒落にならんぜ。
死んじまうじゃねえか。
……。
……。
ちょっと待てよ。
もしかするとこの女、その非力さゆえに、意図的に、訳の分からぬ台詞で相手の脳を狂わせブチ壊そうと画策しているのではあるまいか?
それが並みの地球人の、闘い方だとしたらどうだろう?
ならば、これはオレに対する、宣戦布告という事になる。もう既に、女との闘いは始まっているのかもしれない。
オレはコイツと闘うべきなのか。
しかし闘うといってもどのように?オレがサイヤのやり方をとれば圧勝してしまうのだが、その闘い方は正しいのだろうか。
こういう例ではどうすべきなんだろう。
オイ教えろカカロット。
地球育ちのくそったれめ。
死ね。

という具合に頭がヘンテコになってきたので、ベジータは舞空が出来なくなった。
ふんわりと、羽毛のように床に着地する。
するとブルマが手を伸ばしてきて、ベジータからゴミ袋を受けとった。
ベジータは夢の中にいるように、濁った目でそれを見ていた。

「ご苦労さま~、すっかり終わったわね~!あ、晩ごはん出来てるわよ?たまには一緒に食べない?」
「……」
「ねえ、ちょっとベジータ聞いてる?どうしたの?お腹すいてないの?全く、あんたってば本当に何考えてんだか分かりゃしないんだから~。後で食べるの?そんじゃ、ラップしとくからちゃんと食べなさいよ?」

一方的に喋り倒し、ブルマは踵を返して立ち去った。
ご機嫌よろしく鼻歌混じりだ。
ベジータは、その場で、しばらく魂が抜けたように放心していた。手が小刻みに震えて、頭の後ろが石になったように麻痺し、何も考える事が出来なかった。

衝撃が強すぎた。

ブタと比較された、たったこれだけの事象が、……例えるならば対フリーザ戦の何十倍ものストレスを、ベジータの脳に与えたのであった。

訳の分からぬままに、サイヤの足は自室に向かっていた。颯爽として気高きはずのそれは、今や夢遊病者の足取りとなっていた。フラフラと部屋に入るとドアに鍵をかけ、ベッドに腰掛けて、ブルマの食事が終わるのをひたすらに待った。
その間、何の感情もわいてこなかった。ベジータは、ひび割れた泥人形のように茫然と待ち続けた。



ふと我にかえると、家の中は静まりかえっていた。
耳を澄ますとドアの向こうには静寂が漂っており、ブルマが部屋に引っ込んだのを示している。
……ヤツはもう眠ったのかもしれない。
そう直感し、ベジータはそっとドアをあけてみた。人影は無い。廊下に、微かなシャンプーの香りが残っている。
きっと女は、今日という一日を終えて眠ったのだ。
ベジータはグーと腹を鳴らしながら足早にキッチンへ向かった。裕に十人はかけられる、大きくて頑丈なテーブル。その真ん中に残されている、名も分からぬ料理の数々。ナイフ、フォーク、コップ、バナナの束。
小さいメモ用紙が、いつもの席の前に置いてあるのに気づいた。冷蔵庫の中にデザートがあるとの伝言だった。冷蔵庫を覗くと、赤と白の縞模様をしたブロック状のものが入っていた。
甘い匂いが鼻につく。
すると、唐突に、大量の唾液があふれ出てきた。

食の本能にベジータの全身が支配され、無我夢中の貪り食いが始まった。
訓練で体力を削り、女との対峙で神経を削り、精も根も尽きたベジータに、朝食時のような厳戒制御などきかなかった。
だから夕食はいつも一人。
誰にも見られる事なく、短時間で完食を目指す。
夕食の内容は、朝のそれとは桁違いに、豊富で美食であったので、食いながら涙を堪えるのは不可能だった。
なるべく早く完食を試みるも、泣きが入ってしまっていちいち目頭を押さえる始末。食っては止まり食っては止まりで、なかなか終わらない。

「……なんでこんなに美味いんだ」

冷たいドリアを前にして、ベジータはうなだれる。
のどから漏れる声は小さく、掠れきって震えていた。軍隊時代の、凄惨極まる食生活が脳裏をよぎり、惨めな気分に襲われる。何年も食わされ続けた、悪臭交じりの不味い飯。フリーザに飼われて、命令に従い続けた屈辱の年月。
それでも胸のうちでは己の魂をかたく守り続けた。フリーザに心からの忠誠など誓わなかった。サイヤの血族としての誇りだけを支えにして、泥沼の中を生き抜いてきたのだ。
それこそ文字通り、泥水を啜りながらだ。

「それなのに、何故」

と呻いて、乱暴にフォークを突き刺す。冷蔵庫の中にあった赤と白のシマシマブロック。
それが崩れて、サンドされたフルーツが剥き出しになった。

「てめえだけが、のうのうと、この地球で、オレを差し置いて自由を満喫し、食い物にも恵まれて……」

朝に嗅いだ、豊潤な香りがたちこめた。
平たくカットされた美しい苺が、クリームの中から顔を出していた。

「何故だ、何故だ、何故……」

ザクザクと、フォークが突き刺さる。まがまがしい仕草に殺気が混じる。
ブロック状に整形されていた手作りのミルクレープが、バラバラのズタズタになって皿の上でカオスの模様を描いている。天上の花畑だか、繁華街の吐瀉物だかわからないキテレツな色模様。
そこにたった一粒、透明の水玉がポロリと落ちた。
ベジータは、そこだけすくって現象を隠滅するように口にねじいれた。
涙の味は異様にしょっぱくて、口の中で、違和感たっぷりに浮いていた。
その残酷な塩味は、ベジータの、分散しまくった思考を一点に集結させた。
あらゆる負の感情が塩味を核にして集まり、ある一個の結晶体となって、ようやくとっちらかった頭の中はまとまったのだ。

「カカロット、貴様、よくも」

ベジータの網膜にユラリと、男の像があらわれる。
悟空だ。
能天気に笑いながら、晴天の下、なぜか美味そうな麺を食っている。隣には悟空の餓鬼がいる。餓鬼も同じ麺を食っている。そして悟空に向かって「お父さん美味しいね」とか言って微笑んでいる。
幻覚が鮮明すぎて、ベジータはうわああと叫んだ。

「クソ……、下級戦士ごときが!このオレよりもはるかに豊かな生活を続けていたなど、絶対に捨て置けるか!貴様は死刑だぁーー!それも生半可なやり方では済まさんぞ!サイヤ人として生まれた事を後悔するがいい!」

必ずこの手で殺してやる、と宣言すると、ベジータは冷えきった夕食を残らず食って食器を全部片付けてシャワーを浴びて自室に入って「ぶっ殺す」と叫んでベッドにもぐった。

明日も、真剣な闘いやら女とのくだらない闘いが、イヤほど待ちかまえている。しっかりと休養しておかねば、とても身がもたない。
合理的な考えに落ち着いた為、ベジータは冷静を取り戻した。
そうして、ストンと眠りに落ちた。悟空に対する殺意は、うまく働けば、精神安定剤がわりになった。

彼の気づかぬ所では、夜更けであるのに、静かに活動する者がいる。

……自室でじっと息を殺していたブルマは、ため息をつくと、コンピューターのスイッチを切り、ベジータの後を追うようにして眠りについた。


【完】

2014年2月4日
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