日常
プルルル
プルルル
『ほい、こちらはドンピシャ電話占い相談室』
「も、もしもし?」
『誰じゃ?』
「オレだ、ウーロンだよ」
『……。この回線は貧乏人は使用禁止となっておる。さらばじゃ』
「ちょちょ、待ってくれよ!この電話、カプセルコーポレーションからかけてんだ!だから、1分間3000ゼニーの超ボッタクリ回線でも大丈夫だ!切らねーでくれ!」
『それをはよう言わんか。しかしおぬし……、なぜこの電話番号を知っておる?この番号はVIP会員しか知らんはずじゃが……』
「あんたの弟の、亀仙人からこの番号聞いたんだ。オレの大事なパンティーコレクションと引き換えに……うぅッ」
『そうやって弟の名前出されると毎度の事ながら死にたくなるわ』
「占いババ!早速だけど占って欲しい事がある!オレはどうすればカプセルコーポレーションから逃げられるんだ!?なんでかわかんねーけど、逃げても逃げても毎回ブルマに捕まっちまうんだ!一体どーなってんだあ!?」
『……やれやれしょうがないのー。電話占いをするには、回線を通じてお前の“気”を拾わねばならん。決して受話器を置くでないぞ?そのまま耳に当てて待っておれ』
「ああ、サンキュー!」
……2時間後。
『はあ~どっこらせと。さて、ウーロンや、占いの結果がやっと出たぞい。おぬしの腕時計には、追跡用センサーがつけられとるようじゃ。腕時計を外せば上手く逃げられるじゃろうて、ホッホッホ』
「お、おっせーんだよクソババア~!どんだけ待たせてんだよこれじゃ便所にも行けねーじゃねーか!!」
「電話越しでは水晶玉の映りが悪くての。どうしても時間がかかってしまうんじゃ」
「嘘つけ!ホーイホイって声、殆ど聞こえなかったぞ!?絶対喫茶店とか行ってただろ!占いだけなら、本当は数秒で出来てたんだろこの強欲ババア~!」
『おお!?こりゃいかん!占いに没頭しておったらもうこんな時間じゃ!エステの予約があるから切るぞ。さらばじゃ』
ガチャン
◇
ウーロンが逃げた。
ある晴れた冬の朝の事だった。
朝食作りの手伝いを命じていたのに、家中探してみても姿が見えない事に気づいて、ブルマが騒いだのが始まりだった。
「ウーロン、どこに隠れてんの!出てきなさい!」というバカでかい声で、その朝ベジータは目を覚ました。
このような雑音で目覚めさせられるのは不快なのだが、いつもの事なので文句を言う気も失せていた。
ベッドから起きあがると身支度を済ませ、とりあえずキッチンに向かう。
ブルマが言うには、その逃亡はブリーフ夫妻の失踪以来、13回目の事だったらしい。すぐにジェットフライヤーで追ったが、不吉な数字が暗示するかのように捕獲に失敗し、逃してしまったようだった。
ウーロンの部屋には、何故か、愛用の腕時計が全て残されたままだった。
時計愛好者のウーロンが腕時計を忘れてゆくなど、あり得ない事だとブルマは驚いていた。
「まさかあいつ、時計に仕込んでおいたセンサーに気づいたのかしら?でも、あんな小さなモノをどうやって見つけたのかしら……素人目には分からないはずなのに……」
手ぶらで帰ってきたブルマはいつまでも首を傾げて不思議がっていた。
一方のベジータは、ウーロンの行方など露ほども興味なかった。早く朝飯を食いたい一心で黙ってキッチンのテーブルの席に座っていた。
ウーロンの逃亡のせいで、その日の朝食は普段より1時間も遅れた。おまけに、出来上がり配膳されたのは非常に手抜きなメニューだった。
その内容は、切っただけの大量のフランスパンと、30パック分のゆで卵、それからミキサーしたイチゴミルクが6リットルほど。普段ならば、フランスパンは数種類のサンドイッチに、卵はオムレツに、イチゴはシリアルと一緒にヨーグルト和えにされて食卓に並びそうなものだった。
ベジータが、ボウルに山盛りになっている大量のゆで卵を無表情で見つめていると、「これでも栄養はあるんだから文句言わないでよね!」と、ブルマが防衛線を張り巡らせながらスライスしたフランスパンを皿にのせて寄越してきた。
ところで、ベジータはこのフランスパンがとても苦手だった。
地球のパンにはいくつも種類があるようだが今まで食ってきた中ではフランスパンがダントツに苦手だった。
その理由は、固くて水分が少なく、咀嚼に時間がかかるからである。
スライスしたものを焼いて、バターやジャムを塗りたくって配膳されたりもするが、どう調理されようと咀嚼に時間がかかるのは同じだった。
そんな強豪パンを短時間で胃袋に落とすには、水などでふやかして咀嚼回数を減らすしか無い。
「水が無いぞ」
席を立って冷蔵庫を開けたものの、いつものペットボトルが見当たらない。ベジータは、ブルマの不手際を批難する意味を込めて、冷蔵庫のドアを勢いよく閉めた。かなり大きな音が鳴ったが、ブルマは特に気にするわけでもないようだった。
「ああ、水はちょうど切らしてるのよね。今日買ってくるわ~」
と慣れた口ぶりで答えながらフランスパンにジャムを塗っているのが、子供のお絵かきのように呑気である。当然ながら反省の色など全く見えない。
居候の癖に云々…と言い返されるのが鬱陶しいので、ベジータはそれ以上文句をつけずに黙り込んだ。
仕方なく水道の水を飲もうかと思ったが、シンクの蛇口に変な貼り紙がくっついているのが見えた。
「……なんだこれは?」
「あっ、それねえ」
頬っぺたの中でフランスパンをモグモグ噛みながら、ブルマがベジータに振り向いた。
「今ねえ、水道管が工事中で飲み水が出ないのよ~。かわりにイチゴミルク飲んでくれる?いっぱい作ってあるから」
「……」
よく見ると、蛇口の貼り紙にはマジックで“断水中”と書いてある。
ザワッと背筋が寒くなる。
最悪だ、とベジータは思った。
水が無いという事はつまり、フランスパンを、ミキサーしたての新鮮なイチゴミルクだけで胃に流し込まねばならないという事だ。
これは相当の覚悟が必要かもしれない。
1週間前に出された、コーンポタージュとの取り合わせよりはマシかもしれないが、今回は水が無いのだからリスクは同等だ。
ベジータはじわじわ浮いてくる冷や汗を感じながら、シンクの前で立ち尽くした。
いっその事、朝食を後にしようか……とも考えた。
しかし腹が減りすぎていてブルマが食い終わるまで耐えられそうに無い。それに朝食を拒否すると、この女はやたらとうるさく詮索してくるので面倒なのだ。必ずと言っていい程、病気を疑ってくる。「サイヤ人がご飯食べないなんておかしいわ、どこか悪いんじゃないの?」と。
「うーん?ちょっと砂糖少なかったかしら~」
どうしようかと悩んでいると、ブルマがイチゴミルクの入ったガラス製のサーバーの中に砂糖を入れだした。スプーンでかき混ぜては、味を確かめている。
それを見たベジータは、テーブルに戻り素早くサーバーをぶん取った。
「貸せッ」
「ああ、ちょっと!」
まだ甘味が足りないのよ~、と砂糖を入れようとしてくるブルマの手を、蝿を追い払う仕草でつっぱねる。ベジータは、空のグラスにドバ!とイチゴミルクを注ぎ、ブルマの前まで滑らせて、サーバーを自分の手元に置いて占領した。そして「それがお前の分だ。足りるだろ」と言い放ち、イチゴミルクの中に食卓塩を振りはじめた。
ブルマはサーバーを指差して叫んだ。
「違う!それ砂糖じゃなくてお塩よ!」
「知ってる」
「ちょっと何してんの!そんなの入れたら不味くなっちゃうじゃないのッ」
「これから大量の汗をかくのだから、このぐらいの塩分補給が必要なんだ。味なんかどうでもいい」
「バカね~、塩ならゆで卵につけて摂ればいいじゃないの!」
「腹の中に入れば同じだろ。いちいち食い方にまで干渉してくるんじゃねえ」
「うわー気持ち悪~い。あんた一体どういう味覚してんの~?そのイチゴ、とびっきり美味しくて有名なやつなのに、値段も高かったのに。それじゃ味が台無しじゃないの~」
こんな食事風景見たら作ってくれた農家さんが泣くわよ、などと説教を始めるブルマを無視して、ベジータはイチゴミルクの味を改悪し、フランスパンの摂取に挑んだ。
このCCは世界屈指の富豪だけあって、食卓にあがるものは全て一級品で揃えてある。たかだかフランスパンひとつとってみても、5つ星レストラン並みの味を持っているのだから侮れない。
『うちにはねえ、世界中のパン屋さんがこぞって新作のサンプルを送ってくれるのよ~。その中で一番美味しいパン屋さんを選んで配達をお願いしているの。おほほほ』
と、以前ベジータに話し聞かせたのはブルマの母である。こちらから探し求めずとも、パンの意匠どもが自信作を寄越してくる訳だ。カプセルコーポレーションの社長夫人のメディア力は半端ではない。それが得意先となればそこらへんの高級デパートに卸すよりも知名度や利益が手っ取り早く見込めるのだから、パン業者がやっきになって売り込むのは道理である。
これはパンに限らず他の食材にも当てはまった。
おかげでベジータは、食事中には全力をかけて心頭滅却しなければならなかった。
……長らくフリーザ軍に従じていたベジータは、幼少期を境に、王族にふさわしき“美食”という文化を奪われ続けてきた。遠征先では、軍から配給された不味い携帯食しか食えなかったし、足りない分はその星で手当たりしだい探し出すしかなかった。
戦争には期限がある。
未知の星の動植物を、ゆっくり調べて吟味する暇はない。食えそうだったら何でも食うしかないのだ。
基地に帰ったら帰ったで、無茶苦茶不味い食事が用意されていた。戦闘員の食糧の為に……特に大食らいのサイヤ人の為に多額の財を費やす程フリーザは親切ではなかった。
美味いものを食いたいなら、働いて金を稼ぎ、自腹をきって売店等で購入するしか無い。しかしどれだけ稼ごうが、ベジータが嗜好品を腹一杯食う事は叶わなかった。
サイヤ人の舌と胃を満たすだけの食材も調理の技術も、フリーザの軍隊には十分に備わっていなかったのである。
そうして本来肥えているべき王族の舌は、いかに不味いモノを大量に食せるかという方面に特化して鍛えられてしまい、美味いモノに対する耐性が根こそぎ奪われた。
そこへ、いきなりカプセルコーポレーションの食事である。
カルチャーショックでは済まされない深刻な味の落差が、ベジータを襲った。
長年、悪食に馴らされ続けてきたベジータは、この家の食事を初めて口にした時、頭の中に爆弾を投げ込まれたような衝撃を受けて身動きが取れなくなった。
……ヒトにとって、食とは何なのか?
という原点にまでさかのぼる程に、理不尽かつ捌ききれない驚愕の美味に打ちのめされてしまったのである。味覚とは五感の1つであるので、何か味わえば一瞬にして本能に突き刺さってしまい、舌と脳の間に理性が食い込む余地は無かった。いかな強固な理性を持ち合わせたベジータであっても、カプセルコーポレーションの食事には打ち克つ事が出来なかったのである。
何を口にしても美味すぎて、勝手に涙がにじんでくる。
それはほぼ生理的な反応であったため、なかなか制御が出来ず、食事の途中で退座するのはしょっちゅうだった。
そんな時は、何気なく、夫人が残りを冷蔵庫に保存してくれたので助かった。
味に馴れるためには、経験を積むしかない。
逃げてばかりでは勝てないのである。
ベジータは誰も居ない時間を狙ってはキッチンへ行き、残りの飯を食って舌の鍛練に取り組んだ。
しかし、それが出来たのも、夫妻が居た頃までだ。
「よく噛んで食べないとダメよ。ねえ、聞いてるの?あーっ、今のゆで卵、丸ごと飲まなかった?そんな食べ方じゃ喉に詰まって危ないじゃないの。全くもう、親からどんな躾受けてきたの?」
……と、今の相手はこのように、四六時中うるさい女なのである。
このブルマという女は、夫人とは対照的に、好奇心が非常に強く、くどくど干渉してきていつまでも黙らない。
夫人の目は開いてるのか閉じてるのか分からない感じだったので視線があまり気にならなかったが、この女の目は大きくて覗き見根性丸だしだから、近くにいるだけで、鑑賞用のペットにされてるような気分になってくるのだった。
一言で言って、かなり居心地が悪い。
ウーロンが逃げたのもあって、ブルマの干渉は増えてしまっている。
一見どうでも良い役立たずのブタだと思っていたが、今はその存在の価値が解る。ウーロンというブタは、ベジータにとっては、女からの干渉を減らす盾の役目を果たしていたのだ。
なんとかして食事以外の事象にブルマの興味をそらしたい。
フランスパンが、美味すぎる。
咀嚼用のイチゴミルクを不味くするために、塩を入れてみたが無駄だった。
逆に、塩味がパンの甘みを強調してしまっている。
香り高いイチゴミルクには程よいとろみがある。それがパンに浸み込むと口の中でホロホロと崩れて、芳醇な風味が口腔内に大発生した。
もはや噛む事すら怖ろしい。
丸飲みするしかない。しかし飲み込む際に、馥郁とした風味が鼻腔の中に否応無く侵入してくるので、これには泣きそうになった。
喉越しの感触もたまらなく心地よい。
唸り声が出そうなのをこらえると、ギリギリと歯が鳴った。 その音が聞こえてしまったのか「ん?」とブルマが顔を覗き込んでくる。異変を察知されてはいけないと思ったベジータは、適当な話を振ってごまかそうとした。
「……ブタは、どこに行ったんだ」
「ああ。ウーロン?どこ行ったのかしらね、結局わかんなかったわ。でもいいの、あんなヤツどこに行こうが」
「連れ戻さないのか。ああいう小間使いがこの家には必要ではなかったのか」
「もう要らないわ~。私自身、随分と家事に慣れてきたしね~」
「……」
「ウーロンがどうしたっていうのよ?」
「別に」
「あっ、もしかして食べたかったの?ダメよ、ウーロンって多分人間だと思うから」
「誰が食うか、あんな妖怪ブタ」
「……なんかあんた、いつもよりも機嫌悪いわね。やっぱりイチゴミルクが不味かったんでしょ。塩なんか入れるからよ。コーンポタージュあるけど飲む?」
「要らん」
「オレンジジュースも作れるけど?」
「……」
「バナナセーキも出来るけど?あんたサルの尻尾あったんでしょ?結構好きなんじゃないの?バナナ系」
……食い物の話に戻ってしまった。
フランスパンを泣かずに食う、という難業に全力を注がなければならないから、これ以上違った話題を振る余裕が無い。それに、普段から無口な者がどうでもいい事柄を喋りまくれば、女の好奇心に火をつけてしまう可能性があった。
事態を変えたくとも、下手に動けない。
「ねえあんたさあ、なんか喋ったら~?ホントに何考えてるのかしら。だんまりしながらご飯食べてても美味しくないじゃないの。あ、また卵丸飲みしたわね~!ちゃんと噛みなさいよ!それ、1個200ゼニーする高級卵なのよ!ゆで卵だからってバカにしないでよ美味しいんだから!」
「……」
(なぜこんな面倒な事態に陥ってしまったんだ……。誰のせいでこうなっちまったんだ畜生。……コイツを大人しくさせる方法は無いものだろうか。さもなくば、オレはそのうち正気を失って、コイツを殺しちまうかもしれん……)
伏し目がちのベジータの視界には、フランスパンをちぎるブルマの指がある。こんなに細くて頼りない指なのに、あのデカイ機械装置を操るのが、未だに信じられない。
重力室の管理がこの女につとまるなど、ベジータは思いもしていなかった。
そもそも機械は男が発明し製作するものであり、女は全く違った方面に卓越するという固定観念があった。子を産み、コミュニティーを作り、安全な場に棲息するのが女の特性であり、リスクを伴う戦闘や未知への挑戦である発明等に情熱を傾ける者は滅多に居ないのだと。
……少なくともフリーザ軍には、男と肩を並べて働く女など居なかった。
ベジータが、ブルマの不手際に文句を言えたのは、ブリーフ夫妻が失踪してからたったの1ヶ月間だけであった。
当初のベジータは、ブルマに苦情や嫌味をぶつけて抑圧し、躾けてやろうと目論んだ。共に生活するには、軽口が過ぎて不快な女だったからである。しかし、見事にあてが外れてしまった。
表面上チャラチャラしていながらも、柳のようにしたたかな精神が、この女の根幹には息づいていたのだ。叩いても叩いても飛び出てくる釘のようなものだった。
こいつは口だけではない、本当に出来る女だと気づいた時には、後の祭り。こちらが虐めた分、技術を向上してくる女に対して文句のつけどころは無くなってしまっていた。
ベジータは困り果てていた。
たかだか地球の女風情が、対等に張り合ってくるのがサイヤの男としては耐えられないのだ。今、重力室を管理する技術を持っているのはこの女だけだから、どんなにムカついても殺す訳にはいかない。しかし生かしておけば毎日毎日うるさく詮索してくるわ、だらしない格好で目の前をうろつくわ、食事は苦行になるわで、心休まる暇がない。
「……食事中は静かにするのだと父から教わった。だからオレは一切無駄話はしない」
ブルマのマシンガントークの隙間になんとか口を挟んで、ベジータは、フランスパンの美味と格闘をしながら冷静を装った。
そんな気苦労など知らずに、女はあっけらかんと質問をぶつけてくる。
「それって、大声で騒ぐのがダメってだけでしょ?あんたって食べてる時、いっつも黙り込んでるわよね。一体何考えてんの~?」
「そっちこそ、何度同じ質問を続けりゃ気が済むんだ。そんなに退屈ならテレビと喋っていろ。低俗な人間に相応しい番組がいくらでもあるだろ」
「あぶなっ……!あんたっ!何すんのよ!この美貌に傷でもついたらどーしてくれんの!?」
ブルマにテレビのリモコンを投げつけて不意をついた隙に、ベジータは最後のフランスパンを口に詰め込み、イチゴミルクで一気に飲み下した。舌から喉へ、心地よい食感が通り抜けてゆく。脳天を串刺しにするような素晴らしい味に、鼻がツンと痛くなった。顔の表皮に微弱な電流が走り、目頭に熱いものが押し寄せてきた。ついには瞼から生理的反応の涙がにじんできた。それを悟られまいと、素早く顔を背けて席を立った。だが、立ち上がる際に椅子が後方に倒れてしまった。ベジータは己の狼狽がバレるのではないかと危惧し、ごまかしの為にその椅子を蹴っ飛ばした。
――てめえの相手が面倒だから、オレはこの場を立ち去るんだぜ――
そんな糾弾を背中で演じながら、ズカズカとキッチンを立ち去る。すると、すぐに後ろから「待ちなさい!椅子を直してから行きなさい!なんて行儀が悪い奴なの!」というブルマの怒鳴り声がした。ベジータは何も言い返せなかった。フランスパンの最後の攻撃である、“味の余韻”に苦しめられていたから反論どころでは無かった……。
水さえあればフランスパンに勝てたかもしれないのに、と心底思う。キッチンを出た途端に脱力し、ガックリと首が垂れた。
緊張の反動なのか、廊下を歩く足が少しふらついた。あてがわれた自室にたどり着くと、ベジータは、枕に顔を押し付けて、涙腺を死滅させるつもりでグイグイと圧迫し続けた。
◇
ベジータのCCでの生活は、まさしく己との戦いに終始する。
1日の大半を、訓練という名の“拷問”に費やす。
毎日毎日、重力室の中で自分に問い続ける。
滅茶苦茶に痛め付けて、体に自白させようと試みる。
千年にひとりと言われた伝説の鍵が、この肉体、あるいは精神の奥深くに、絶対に隠されているはずだと。
あの下級戦士になれたのだから、サイヤの頂点に位置する自分がなれない筈は無いと、ベジータはかたくなに信じていた。しかしどんなに厳しい訓練を課しても、何の変化も見られない。一体どうすれば良いのか、見当がつかなかった。
考えても分からないなら、ひたすら試行錯誤を繰り返すのみだった。ベジータはあらゆる方法を試した結果、超化の鍵は生と死の狭間にあるのではないかと盲信するに至った。
ナメック星でフリーザに胸を撃ち抜かれた時、今度ばかりは助からないとベジータは思った。心臓が機能しなくなり、脳に残された血液がみるみると爛れてゆく中、朦朧としながら言葉を交わしたのが悟空だった。その時ベジータは、この世で最も気高い王族でありながら、最も卑しむべき下級戦士に、フリーザの討伐を涙しながら託したのだ。
思い出せば腹がたつ。
悔しくてたまらない。
あんなクズ戦士に命懸けの頼み事をするなど、自分は気でも狂っていたのかと今では思う。
だがそれは死の淵にいたから、体も心もほころびだらけだったからこそ、たががはずれて言えた事ではなかろうか?
死に際に、そのように思いがけぬ“奇妙な現象”が起きるのだとしたら、もしかすると超化の鍵もその状態の中で見いだせるかもしれない。そう仮定すれば、死に近い場面を何度も再現し続ける価値は十分にあるような気がした。
それは何度も迷い、考え直し、やっと捻り出した手段だった。とてもリスクの高いやり方だし死んでしまってはもとも子もないのは分かりきっている。だからこの手段に踏み込むまでには幾度も思索を重ねた。
しかしそんなベジータの選択を、あの女は“自殺行為”の一言で一蹴してしまう。
考え無しの愚かなやり方だと、簡単に言ってのけるのだった。
こちらが出血したり床に這いつくばる姿を見せれば、勝手に重力室の電源を落とすし、勝手に医者を呼んで治療にあたらせて、目指す“閾”への道を断絶してしまう。
なんにも分かっていない。
理由をつぶさに説明した事もあるが、あの女は聞き入れようとしない。死の間際を目指す訓練というのは、地球人の理解の範疇を大きく超えているようだった。
分からせるのは無理なのだと早々に諦めた。
その代わりに、決まり事を共有して自他の境界を守ろうとした。
「こちらから呼ぶまで手出しをするなと言ってるだろ」
とベジータは何度も伝えた。しかし女はここでも聞き分けがなく、
「だってあんたをほっといたら死んでしまいそうだもの」
と返してくるばかりだ。
女の干渉は、ベジータにとって許容しがたいものとなってきていた。
ベジータは、枕を壁に投げつけると、訓練の準備を整えた。ドアを開けて廊下を見回し、ブルマの気配が無いのを確認してから速足で重力室に向かう。あの女とは無駄に遭遇したくないから、こんな小さな行動にも神経を使わねばならない。
歩きながら、ふと、ウーロンのビビり顔を思い出す。こちらから、暴力をふるった事も怒鳴った事も無いのに、やたらと怯えまくっていた変なイキモノ……。
さして気にもとめていなかったが、あのブタも同じように、自分との遭遇を嫌がり、神経症的な生活を余儀なくされていたのかもしれないとベジータは思う。
かと言って、同情は絶対にしない。
よくも逃げやがったなドヘタレ卑怯ブタめ、と純粋に怒りがわいてくるだけだった。ブタが居なくなった分、女の関心が自分に向いてしまっているからだ。
ベジータはムカついてきた。
「あのブタ野郎、どこに行きやがったんだ。くそったれ。夫妻はいつになったら帰ってくるんだ。いっその事、オレが探しに行ってみるか……?しかし、連中の小さな気を探り出すのは……」
ベジータは、そこで言葉を切って唇をかむ。
それは砂漠に落とした砂粒を探すような、途方もない行為である。
この地球上で、戦闘力を持たない人間を“気”で探し出すのは不可能なのだ。
重力室の前まで来ると青い溜め息が出た。夫妻がいた頃は、もっと自由で気楽だった。干渉が少なかったから、やりたい放題が許されたのだ。しかし今は全く違う。プライベートな時間も空間も、あの女にむしり取られているようなものだ。
「クソ……」
メンテナンスがきちんと完了された重力室を見ると、満足というより、腹立たしさが上回る。あの女の、薔薇のように誇らしげな面がよみがえってきて、馬鹿にされてるような気さえしてくる。
あのアマ、殺せないのなら、黙らない口の中に鋏を突っ込んで、声帯を切り取ってやろうか?
……そんな雑念ばかりわいてくる。
雑念は訓練に支障をきたす。ベジータは頭を振って気を取り直し、重力室の扉に手をかけた。
「……早いとこ目的を果たして、こんな施設からはおさらばだ」
憎々しげに呟いて中に入り、前日よりも50増しの重力設定をして、実行ボタンをなぐりつけた。
重力室の中、低い電気音が唸り始めた。
やがて、ギン!と空気が密になり、足裏がグズグズに潰れてしまいそうな圧迫感が降りかかってきた。 腕が重くて、持ち上げるのも困難な程の高重力。法則にならって、体中の血液が足に向かって逆行してゆく。横隔膜は重りを吊るされたように下垂して、浅い呼吸しか出来ない。
重力室内で一番気をつけなければならないのは、脳貧血だった。高重力空間で立ち続けていると、すぐに体液が下に落ちてしまう。落ちた血を上半身にあげる為には、腹から脚にかけて強く力を入れなければならない。特に脚の筋肉は心臓に次ぐ重要な血液ポンプだ。力を抜けばそこで終わりだ
やがてプツプツと、肩のあたりから泡の弾ける音が鳴り出した。
毛細血管がつぶされる音だった。
体のあちこちに、赤黒い痣が生まれ広がり、斑になってゆく。
それは傍目には醜い変貌なのだが、ベジータは意に介さない。一晩眠れば消えてなくなる軽傷だからだ。
200Gの重力の中で、いつまで肉体を保てるか試してみる。重力コントロールパネルにある、デシタル表示の時計を睨みつけて、限界がやってくるのを待つ。
5分程たった頃、軽く吐き気がしてきた。血が下半身に下がりすぎて脳に届いていないからだった。ベジータは力を入れ直した。するとブチブチ!と体中から糸が千切れる音が鳴り、全身を鞭で滅多打ちにされたような激痛が襲いかかった。重力負荷にやられた細い血管が、体内でことごとく破裂している。舌の表面はざらざらに爛れて、鉄の味が口に充満した。
各種内臓、主要血管、神経系統、脳……。
この4つを最低限守ることだけ考えた。ベジータは、圧殺されそうな重力に耐え続けた。どんどん強くなる痛みと吐き気。気合いで叫んでみても、弱々しい呻き声しか出ない。コントロールパネルの台に手を置いて、短い呼吸を続けるのがやっとの状態だった。
やがて、目に映るものの色彩が薄まってきて、モノトーンの世界が広がり始めた。
訓練の始まりから30分。
一面、灰色に塗りつぶされた重力室の景色は、ひどく不気味に目に映る。生命を脅かすような殺伐とした色に、ゾッと背筋がそそけたつ。
パネルに表示されたデジタル時計の秒数が、何重にもぶれて、読み取れなくなってきた。
気づかぬうちに、両膝が、床についていた。膝を打つ感覚が殆ど無かった。目線が下がった事だけはわかった。全身を覆っていた激しい痛みは、鈍重な痺れに変わっていた。
さらに耐え続けていると、目の前にチカチカとはじける光があらわれた。それが複数になり、視界が真っ白に塗りつぶされて、突然ノイズの混じった闇が落ちてくる。
血を、筋力で押し上げて脳に送ると、寂漠たるモノトーンの世界に戻るが、それも束の間だ。
まばゆい光とノイズの闇を往来しながら、ベジータはあてもなく探す。
まだ見ぬ、伝説の鍵。
あの下級戦士が足を踏み入れたという、未知の領域を、命を半分棄てたままで。
闇ばかりが続いていよいよ光が見えなくなってくると、ベジータは、殆ど感覚を失った手を闇雲にパネルに沿わせて、一番大きな電源のスイッチを探しあてて押した。
重力が1に戻る。
落差が大きすぎて、まるで体が浮き上がるようだ。
貧血した頭に、熱い血がドッと流れ込み、脳血管が激しく膨張した。
顔面が倍に浮腫んだような感覚、そしてガンガンと強烈な頭痛。割れそうに痛い頭を抱えて、ベジータはしばし床にうずくまった。
オレの中のどこに、その鍵があるというのだ。
そう呟こうとして開いた唇から、粘っこい血が糸を引きながらボタボタと床に落ちた。
本当なら、敵との闘いでしか流す事の許されない、民族の血である。
戦闘では、それを流すことによって、何かしらの対価を得られていた。
だが今はどれだけ血を失っても何も得られないし解らない。この場で垂れ流す血に、価値はあるのかと疑いが生まれるほど。
苦しいだけで答の出ない日々だった。
しかしベジータは、己に、絶望を許さない。
状態が落ち着けば、もう一度同じ重力値で、全く同じ訓練を、何度も繰り返す。
悟空の面を思い起こせばたちまち真っ赤な怒りに呑まれて、鍵を求める執念が途絶えることは無かった。
プルルル
『ほい、こちらはドンピシャ電話占い相談室』
「も、もしもし?」
『誰じゃ?』
「オレだ、ウーロンだよ」
『……。この回線は貧乏人は使用禁止となっておる。さらばじゃ』
「ちょちょ、待ってくれよ!この電話、カプセルコーポレーションからかけてんだ!だから、1分間3000ゼニーの超ボッタクリ回線でも大丈夫だ!切らねーでくれ!」
『それをはよう言わんか。しかしおぬし……、なぜこの電話番号を知っておる?この番号はVIP会員しか知らんはずじゃが……』
「あんたの弟の、亀仙人からこの番号聞いたんだ。オレの大事なパンティーコレクションと引き換えに……うぅッ」
『そうやって弟の名前出されると毎度の事ながら死にたくなるわ』
「占いババ!早速だけど占って欲しい事がある!オレはどうすればカプセルコーポレーションから逃げられるんだ!?なんでかわかんねーけど、逃げても逃げても毎回ブルマに捕まっちまうんだ!一体どーなってんだあ!?」
『……やれやれしょうがないのー。電話占いをするには、回線を通じてお前の“気”を拾わねばならん。決して受話器を置くでないぞ?そのまま耳に当てて待っておれ』
「ああ、サンキュー!」
……2時間後。
『はあ~どっこらせと。さて、ウーロンや、占いの結果がやっと出たぞい。おぬしの腕時計には、追跡用センサーがつけられとるようじゃ。腕時計を外せば上手く逃げられるじゃろうて、ホッホッホ』
「お、おっせーんだよクソババア~!どんだけ待たせてんだよこれじゃ便所にも行けねーじゃねーか!!」
「電話越しでは水晶玉の映りが悪くての。どうしても時間がかかってしまうんじゃ」
「嘘つけ!ホーイホイって声、殆ど聞こえなかったぞ!?絶対喫茶店とか行ってただろ!占いだけなら、本当は数秒で出来てたんだろこの強欲ババア~!」
『おお!?こりゃいかん!占いに没頭しておったらもうこんな時間じゃ!エステの予約があるから切るぞ。さらばじゃ』
ガチャン
◇
ウーロンが逃げた。
ある晴れた冬の朝の事だった。
朝食作りの手伝いを命じていたのに、家中探してみても姿が見えない事に気づいて、ブルマが騒いだのが始まりだった。
「ウーロン、どこに隠れてんの!出てきなさい!」というバカでかい声で、その朝ベジータは目を覚ました。
このような雑音で目覚めさせられるのは不快なのだが、いつもの事なので文句を言う気も失せていた。
ベッドから起きあがると身支度を済ませ、とりあえずキッチンに向かう。
ブルマが言うには、その逃亡はブリーフ夫妻の失踪以来、13回目の事だったらしい。すぐにジェットフライヤーで追ったが、不吉な数字が暗示するかのように捕獲に失敗し、逃してしまったようだった。
ウーロンの部屋には、何故か、愛用の腕時計が全て残されたままだった。
時計愛好者のウーロンが腕時計を忘れてゆくなど、あり得ない事だとブルマは驚いていた。
「まさかあいつ、時計に仕込んでおいたセンサーに気づいたのかしら?でも、あんな小さなモノをどうやって見つけたのかしら……素人目には分からないはずなのに……」
手ぶらで帰ってきたブルマはいつまでも首を傾げて不思議がっていた。
一方のベジータは、ウーロンの行方など露ほども興味なかった。早く朝飯を食いたい一心で黙ってキッチンのテーブルの席に座っていた。
ウーロンの逃亡のせいで、その日の朝食は普段より1時間も遅れた。おまけに、出来上がり配膳されたのは非常に手抜きなメニューだった。
その内容は、切っただけの大量のフランスパンと、30パック分のゆで卵、それからミキサーしたイチゴミルクが6リットルほど。普段ならば、フランスパンは数種類のサンドイッチに、卵はオムレツに、イチゴはシリアルと一緒にヨーグルト和えにされて食卓に並びそうなものだった。
ベジータが、ボウルに山盛りになっている大量のゆで卵を無表情で見つめていると、「これでも栄養はあるんだから文句言わないでよね!」と、ブルマが防衛線を張り巡らせながらスライスしたフランスパンを皿にのせて寄越してきた。
ところで、ベジータはこのフランスパンがとても苦手だった。
地球のパンにはいくつも種類があるようだが今まで食ってきた中ではフランスパンがダントツに苦手だった。
その理由は、固くて水分が少なく、咀嚼に時間がかかるからである。
スライスしたものを焼いて、バターやジャムを塗りたくって配膳されたりもするが、どう調理されようと咀嚼に時間がかかるのは同じだった。
そんな強豪パンを短時間で胃袋に落とすには、水などでふやかして咀嚼回数を減らすしか無い。
「水が無いぞ」
席を立って冷蔵庫を開けたものの、いつものペットボトルが見当たらない。ベジータは、ブルマの不手際を批難する意味を込めて、冷蔵庫のドアを勢いよく閉めた。かなり大きな音が鳴ったが、ブルマは特に気にするわけでもないようだった。
「ああ、水はちょうど切らしてるのよね。今日買ってくるわ~」
と慣れた口ぶりで答えながらフランスパンにジャムを塗っているのが、子供のお絵かきのように呑気である。当然ながら反省の色など全く見えない。
居候の癖に云々…と言い返されるのが鬱陶しいので、ベジータはそれ以上文句をつけずに黙り込んだ。
仕方なく水道の水を飲もうかと思ったが、シンクの蛇口に変な貼り紙がくっついているのが見えた。
「……なんだこれは?」
「あっ、それねえ」
頬っぺたの中でフランスパンをモグモグ噛みながら、ブルマがベジータに振り向いた。
「今ねえ、水道管が工事中で飲み水が出ないのよ~。かわりにイチゴミルク飲んでくれる?いっぱい作ってあるから」
「……」
よく見ると、蛇口の貼り紙にはマジックで“断水中”と書いてある。
ザワッと背筋が寒くなる。
最悪だ、とベジータは思った。
水が無いという事はつまり、フランスパンを、ミキサーしたての新鮮なイチゴミルクだけで胃に流し込まねばならないという事だ。
これは相当の覚悟が必要かもしれない。
1週間前に出された、コーンポタージュとの取り合わせよりはマシかもしれないが、今回は水が無いのだからリスクは同等だ。
ベジータはじわじわ浮いてくる冷や汗を感じながら、シンクの前で立ち尽くした。
いっその事、朝食を後にしようか……とも考えた。
しかし腹が減りすぎていてブルマが食い終わるまで耐えられそうに無い。それに朝食を拒否すると、この女はやたらとうるさく詮索してくるので面倒なのだ。必ずと言っていい程、病気を疑ってくる。「サイヤ人がご飯食べないなんておかしいわ、どこか悪いんじゃないの?」と。
「うーん?ちょっと砂糖少なかったかしら~」
どうしようかと悩んでいると、ブルマがイチゴミルクの入ったガラス製のサーバーの中に砂糖を入れだした。スプーンでかき混ぜては、味を確かめている。
それを見たベジータは、テーブルに戻り素早くサーバーをぶん取った。
「貸せッ」
「ああ、ちょっと!」
まだ甘味が足りないのよ~、と砂糖を入れようとしてくるブルマの手を、蝿を追い払う仕草でつっぱねる。ベジータは、空のグラスにドバ!とイチゴミルクを注ぎ、ブルマの前まで滑らせて、サーバーを自分の手元に置いて占領した。そして「それがお前の分だ。足りるだろ」と言い放ち、イチゴミルクの中に食卓塩を振りはじめた。
ブルマはサーバーを指差して叫んだ。
「違う!それ砂糖じゃなくてお塩よ!」
「知ってる」
「ちょっと何してんの!そんなの入れたら不味くなっちゃうじゃないのッ」
「これから大量の汗をかくのだから、このぐらいの塩分補給が必要なんだ。味なんかどうでもいい」
「バカね~、塩ならゆで卵につけて摂ればいいじゃないの!」
「腹の中に入れば同じだろ。いちいち食い方にまで干渉してくるんじゃねえ」
「うわー気持ち悪~い。あんた一体どういう味覚してんの~?そのイチゴ、とびっきり美味しくて有名なやつなのに、値段も高かったのに。それじゃ味が台無しじゃないの~」
こんな食事風景見たら作ってくれた農家さんが泣くわよ、などと説教を始めるブルマを無視して、ベジータはイチゴミルクの味を改悪し、フランスパンの摂取に挑んだ。
このCCは世界屈指の富豪だけあって、食卓にあがるものは全て一級品で揃えてある。たかだかフランスパンひとつとってみても、5つ星レストラン並みの味を持っているのだから侮れない。
『うちにはねえ、世界中のパン屋さんがこぞって新作のサンプルを送ってくれるのよ~。その中で一番美味しいパン屋さんを選んで配達をお願いしているの。おほほほ』
と、以前ベジータに話し聞かせたのはブルマの母である。こちらから探し求めずとも、パンの意匠どもが自信作を寄越してくる訳だ。カプセルコーポレーションの社長夫人のメディア力は半端ではない。それが得意先となればそこらへんの高級デパートに卸すよりも知名度や利益が手っ取り早く見込めるのだから、パン業者がやっきになって売り込むのは道理である。
これはパンに限らず他の食材にも当てはまった。
おかげでベジータは、食事中には全力をかけて心頭滅却しなければならなかった。
……長らくフリーザ軍に従じていたベジータは、幼少期を境に、王族にふさわしき“美食”という文化を奪われ続けてきた。遠征先では、軍から配給された不味い携帯食しか食えなかったし、足りない分はその星で手当たりしだい探し出すしかなかった。
戦争には期限がある。
未知の星の動植物を、ゆっくり調べて吟味する暇はない。食えそうだったら何でも食うしかないのだ。
基地に帰ったら帰ったで、無茶苦茶不味い食事が用意されていた。戦闘員の食糧の為に……特に大食らいのサイヤ人の為に多額の財を費やす程フリーザは親切ではなかった。
美味いものを食いたいなら、働いて金を稼ぎ、自腹をきって売店等で購入するしか無い。しかしどれだけ稼ごうが、ベジータが嗜好品を腹一杯食う事は叶わなかった。
サイヤ人の舌と胃を満たすだけの食材も調理の技術も、フリーザの軍隊には十分に備わっていなかったのである。
そうして本来肥えているべき王族の舌は、いかに不味いモノを大量に食せるかという方面に特化して鍛えられてしまい、美味いモノに対する耐性が根こそぎ奪われた。
そこへ、いきなりカプセルコーポレーションの食事である。
カルチャーショックでは済まされない深刻な味の落差が、ベジータを襲った。
長年、悪食に馴らされ続けてきたベジータは、この家の食事を初めて口にした時、頭の中に爆弾を投げ込まれたような衝撃を受けて身動きが取れなくなった。
……ヒトにとって、食とは何なのか?
という原点にまでさかのぼる程に、理不尽かつ捌ききれない驚愕の美味に打ちのめされてしまったのである。味覚とは五感の1つであるので、何か味わえば一瞬にして本能に突き刺さってしまい、舌と脳の間に理性が食い込む余地は無かった。いかな強固な理性を持ち合わせたベジータであっても、カプセルコーポレーションの食事には打ち克つ事が出来なかったのである。
何を口にしても美味すぎて、勝手に涙がにじんでくる。
それはほぼ生理的な反応であったため、なかなか制御が出来ず、食事の途中で退座するのはしょっちゅうだった。
そんな時は、何気なく、夫人が残りを冷蔵庫に保存してくれたので助かった。
味に馴れるためには、経験を積むしかない。
逃げてばかりでは勝てないのである。
ベジータは誰も居ない時間を狙ってはキッチンへ行き、残りの飯を食って舌の鍛練に取り組んだ。
しかし、それが出来たのも、夫妻が居た頃までだ。
「よく噛んで食べないとダメよ。ねえ、聞いてるの?あーっ、今のゆで卵、丸ごと飲まなかった?そんな食べ方じゃ喉に詰まって危ないじゃないの。全くもう、親からどんな躾受けてきたの?」
……と、今の相手はこのように、四六時中うるさい女なのである。
このブルマという女は、夫人とは対照的に、好奇心が非常に強く、くどくど干渉してきていつまでも黙らない。
夫人の目は開いてるのか閉じてるのか分からない感じだったので視線があまり気にならなかったが、この女の目は大きくて覗き見根性丸だしだから、近くにいるだけで、鑑賞用のペットにされてるような気分になってくるのだった。
一言で言って、かなり居心地が悪い。
ウーロンが逃げたのもあって、ブルマの干渉は増えてしまっている。
一見どうでも良い役立たずのブタだと思っていたが、今はその存在の価値が解る。ウーロンというブタは、ベジータにとっては、女からの干渉を減らす盾の役目を果たしていたのだ。
なんとかして食事以外の事象にブルマの興味をそらしたい。
フランスパンが、美味すぎる。
咀嚼用のイチゴミルクを不味くするために、塩を入れてみたが無駄だった。
逆に、塩味がパンの甘みを強調してしまっている。
香り高いイチゴミルクには程よいとろみがある。それがパンに浸み込むと口の中でホロホロと崩れて、芳醇な風味が口腔内に大発生した。
もはや噛む事すら怖ろしい。
丸飲みするしかない。しかし飲み込む際に、馥郁とした風味が鼻腔の中に否応無く侵入してくるので、これには泣きそうになった。
喉越しの感触もたまらなく心地よい。
唸り声が出そうなのをこらえると、ギリギリと歯が鳴った。 その音が聞こえてしまったのか「ん?」とブルマが顔を覗き込んでくる。異変を察知されてはいけないと思ったベジータは、適当な話を振ってごまかそうとした。
「……ブタは、どこに行ったんだ」
「ああ。ウーロン?どこ行ったのかしらね、結局わかんなかったわ。でもいいの、あんなヤツどこに行こうが」
「連れ戻さないのか。ああいう小間使いがこの家には必要ではなかったのか」
「もう要らないわ~。私自身、随分と家事に慣れてきたしね~」
「……」
「ウーロンがどうしたっていうのよ?」
「別に」
「あっ、もしかして食べたかったの?ダメよ、ウーロンって多分人間だと思うから」
「誰が食うか、あんな妖怪ブタ」
「……なんかあんた、いつもよりも機嫌悪いわね。やっぱりイチゴミルクが不味かったんでしょ。塩なんか入れるからよ。コーンポタージュあるけど飲む?」
「要らん」
「オレンジジュースも作れるけど?」
「……」
「バナナセーキも出来るけど?あんたサルの尻尾あったんでしょ?結構好きなんじゃないの?バナナ系」
……食い物の話に戻ってしまった。
フランスパンを泣かずに食う、という難業に全力を注がなければならないから、これ以上違った話題を振る余裕が無い。それに、普段から無口な者がどうでもいい事柄を喋りまくれば、女の好奇心に火をつけてしまう可能性があった。
事態を変えたくとも、下手に動けない。
「ねえあんたさあ、なんか喋ったら~?ホントに何考えてるのかしら。だんまりしながらご飯食べてても美味しくないじゃないの。あ、また卵丸飲みしたわね~!ちゃんと噛みなさいよ!それ、1個200ゼニーする高級卵なのよ!ゆで卵だからってバカにしないでよ美味しいんだから!」
「……」
(なぜこんな面倒な事態に陥ってしまったんだ……。誰のせいでこうなっちまったんだ畜生。……コイツを大人しくさせる方法は無いものだろうか。さもなくば、オレはそのうち正気を失って、コイツを殺しちまうかもしれん……)
伏し目がちのベジータの視界には、フランスパンをちぎるブルマの指がある。こんなに細くて頼りない指なのに、あのデカイ機械装置を操るのが、未だに信じられない。
重力室の管理がこの女につとまるなど、ベジータは思いもしていなかった。
そもそも機械は男が発明し製作するものであり、女は全く違った方面に卓越するという固定観念があった。子を産み、コミュニティーを作り、安全な場に棲息するのが女の特性であり、リスクを伴う戦闘や未知への挑戦である発明等に情熱を傾ける者は滅多に居ないのだと。
……少なくともフリーザ軍には、男と肩を並べて働く女など居なかった。
ベジータが、ブルマの不手際に文句を言えたのは、ブリーフ夫妻が失踪してからたったの1ヶ月間だけであった。
当初のベジータは、ブルマに苦情や嫌味をぶつけて抑圧し、躾けてやろうと目論んだ。共に生活するには、軽口が過ぎて不快な女だったからである。しかし、見事にあてが外れてしまった。
表面上チャラチャラしていながらも、柳のようにしたたかな精神が、この女の根幹には息づいていたのだ。叩いても叩いても飛び出てくる釘のようなものだった。
こいつは口だけではない、本当に出来る女だと気づいた時には、後の祭り。こちらが虐めた分、技術を向上してくる女に対して文句のつけどころは無くなってしまっていた。
ベジータは困り果てていた。
たかだか地球の女風情が、対等に張り合ってくるのがサイヤの男としては耐えられないのだ。今、重力室を管理する技術を持っているのはこの女だけだから、どんなにムカついても殺す訳にはいかない。しかし生かしておけば毎日毎日うるさく詮索してくるわ、だらしない格好で目の前をうろつくわ、食事は苦行になるわで、心休まる暇がない。
「……食事中は静かにするのだと父から教わった。だからオレは一切無駄話はしない」
ブルマのマシンガントークの隙間になんとか口を挟んで、ベジータは、フランスパンの美味と格闘をしながら冷静を装った。
そんな気苦労など知らずに、女はあっけらかんと質問をぶつけてくる。
「それって、大声で騒ぐのがダメってだけでしょ?あんたって食べてる時、いっつも黙り込んでるわよね。一体何考えてんの~?」
「そっちこそ、何度同じ質問を続けりゃ気が済むんだ。そんなに退屈ならテレビと喋っていろ。低俗な人間に相応しい番組がいくらでもあるだろ」
「あぶなっ……!あんたっ!何すんのよ!この美貌に傷でもついたらどーしてくれんの!?」
ブルマにテレビのリモコンを投げつけて不意をついた隙に、ベジータは最後のフランスパンを口に詰め込み、イチゴミルクで一気に飲み下した。舌から喉へ、心地よい食感が通り抜けてゆく。脳天を串刺しにするような素晴らしい味に、鼻がツンと痛くなった。顔の表皮に微弱な電流が走り、目頭に熱いものが押し寄せてきた。ついには瞼から生理的反応の涙がにじんできた。それを悟られまいと、素早く顔を背けて席を立った。だが、立ち上がる際に椅子が後方に倒れてしまった。ベジータは己の狼狽がバレるのではないかと危惧し、ごまかしの為にその椅子を蹴っ飛ばした。
――てめえの相手が面倒だから、オレはこの場を立ち去るんだぜ――
そんな糾弾を背中で演じながら、ズカズカとキッチンを立ち去る。すると、すぐに後ろから「待ちなさい!椅子を直してから行きなさい!なんて行儀が悪い奴なの!」というブルマの怒鳴り声がした。ベジータは何も言い返せなかった。フランスパンの最後の攻撃である、“味の余韻”に苦しめられていたから反論どころでは無かった……。
水さえあればフランスパンに勝てたかもしれないのに、と心底思う。キッチンを出た途端に脱力し、ガックリと首が垂れた。
緊張の反動なのか、廊下を歩く足が少しふらついた。あてがわれた自室にたどり着くと、ベジータは、枕に顔を押し付けて、涙腺を死滅させるつもりでグイグイと圧迫し続けた。
◇
ベジータのCCでの生活は、まさしく己との戦いに終始する。
1日の大半を、訓練という名の“拷問”に費やす。
毎日毎日、重力室の中で自分に問い続ける。
滅茶苦茶に痛め付けて、体に自白させようと試みる。
千年にひとりと言われた伝説の鍵が、この肉体、あるいは精神の奥深くに、絶対に隠されているはずだと。
あの下級戦士になれたのだから、サイヤの頂点に位置する自分がなれない筈は無いと、ベジータはかたくなに信じていた。しかしどんなに厳しい訓練を課しても、何の変化も見られない。一体どうすれば良いのか、見当がつかなかった。
考えても分からないなら、ひたすら試行錯誤を繰り返すのみだった。ベジータはあらゆる方法を試した結果、超化の鍵は生と死の狭間にあるのではないかと盲信するに至った。
ナメック星でフリーザに胸を撃ち抜かれた時、今度ばかりは助からないとベジータは思った。心臓が機能しなくなり、脳に残された血液がみるみると爛れてゆく中、朦朧としながら言葉を交わしたのが悟空だった。その時ベジータは、この世で最も気高い王族でありながら、最も卑しむべき下級戦士に、フリーザの討伐を涙しながら託したのだ。
思い出せば腹がたつ。
悔しくてたまらない。
あんなクズ戦士に命懸けの頼み事をするなど、自分は気でも狂っていたのかと今では思う。
だがそれは死の淵にいたから、体も心もほころびだらけだったからこそ、たががはずれて言えた事ではなかろうか?
死に際に、そのように思いがけぬ“奇妙な現象”が起きるのだとしたら、もしかすると超化の鍵もその状態の中で見いだせるかもしれない。そう仮定すれば、死に近い場面を何度も再現し続ける価値は十分にあるような気がした。
それは何度も迷い、考え直し、やっと捻り出した手段だった。とてもリスクの高いやり方だし死んでしまってはもとも子もないのは分かりきっている。だからこの手段に踏み込むまでには幾度も思索を重ねた。
しかしそんなベジータの選択を、あの女は“自殺行為”の一言で一蹴してしまう。
考え無しの愚かなやり方だと、簡単に言ってのけるのだった。
こちらが出血したり床に這いつくばる姿を見せれば、勝手に重力室の電源を落とすし、勝手に医者を呼んで治療にあたらせて、目指す“閾”への道を断絶してしまう。
なんにも分かっていない。
理由をつぶさに説明した事もあるが、あの女は聞き入れようとしない。死の間際を目指す訓練というのは、地球人の理解の範疇を大きく超えているようだった。
分からせるのは無理なのだと早々に諦めた。
その代わりに、決まり事を共有して自他の境界を守ろうとした。
「こちらから呼ぶまで手出しをするなと言ってるだろ」
とベジータは何度も伝えた。しかし女はここでも聞き分けがなく、
「だってあんたをほっといたら死んでしまいそうだもの」
と返してくるばかりだ。
女の干渉は、ベジータにとって許容しがたいものとなってきていた。
ベジータは、枕を壁に投げつけると、訓練の準備を整えた。ドアを開けて廊下を見回し、ブルマの気配が無いのを確認してから速足で重力室に向かう。あの女とは無駄に遭遇したくないから、こんな小さな行動にも神経を使わねばならない。
歩きながら、ふと、ウーロンのビビり顔を思い出す。こちらから、暴力をふるった事も怒鳴った事も無いのに、やたらと怯えまくっていた変なイキモノ……。
さして気にもとめていなかったが、あのブタも同じように、自分との遭遇を嫌がり、神経症的な生活を余儀なくされていたのかもしれないとベジータは思う。
かと言って、同情は絶対にしない。
よくも逃げやがったなドヘタレ卑怯ブタめ、と純粋に怒りがわいてくるだけだった。ブタが居なくなった分、女の関心が自分に向いてしまっているからだ。
ベジータはムカついてきた。
「あのブタ野郎、どこに行きやがったんだ。くそったれ。夫妻はいつになったら帰ってくるんだ。いっその事、オレが探しに行ってみるか……?しかし、連中の小さな気を探り出すのは……」
ベジータは、そこで言葉を切って唇をかむ。
それは砂漠に落とした砂粒を探すような、途方もない行為である。
この地球上で、戦闘力を持たない人間を“気”で探し出すのは不可能なのだ。
重力室の前まで来ると青い溜め息が出た。夫妻がいた頃は、もっと自由で気楽だった。干渉が少なかったから、やりたい放題が許されたのだ。しかし今は全く違う。プライベートな時間も空間も、あの女にむしり取られているようなものだ。
「クソ……」
メンテナンスがきちんと完了された重力室を見ると、満足というより、腹立たしさが上回る。あの女の、薔薇のように誇らしげな面がよみがえってきて、馬鹿にされてるような気さえしてくる。
あのアマ、殺せないのなら、黙らない口の中に鋏を突っ込んで、声帯を切り取ってやろうか?
……そんな雑念ばかりわいてくる。
雑念は訓練に支障をきたす。ベジータは頭を振って気を取り直し、重力室の扉に手をかけた。
「……早いとこ目的を果たして、こんな施設からはおさらばだ」
憎々しげに呟いて中に入り、前日よりも50増しの重力設定をして、実行ボタンをなぐりつけた。
重力室の中、低い電気音が唸り始めた。
やがて、ギン!と空気が密になり、足裏がグズグズに潰れてしまいそうな圧迫感が降りかかってきた。 腕が重くて、持ち上げるのも困難な程の高重力。法則にならって、体中の血液が足に向かって逆行してゆく。横隔膜は重りを吊るされたように下垂して、浅い呼吸しか出来ない。
重力室内で一番気をつけなければならないのは、脳貧血だった。高重力空間で立ち続けていると、すぐに体液が下に落ちてしまう。落ちた血を上半身にあげる為には、腹から脚にかけて強く力を入れなければならない。特に脚の筋肉は心臓に次ぐ重要な血液ポンプだ。力を抜けばそこで終わりだ
やがてプツプツと、肩のあたりから泡の弾ける音が鳴り出した。
毛細血管がつぶされる音だった。
体のあちこちに、赤黒い痣が生まれ広がり、斑になってゆく。
それは傍目には醜い変貌なのだが、ベジータは意に介さない。一晩眠れば消えてなくなる軽傷だからだ。
200Gの重力の中で、いつまで肉体を保てるか試してみる。重力コントロールパネルにある、デシタル表示の時計を睨みつけて、限界がやってくるのを待つ。
5分程たった頃、軽く吐き気がしてきた。血が下半身に下がりすぎて脳に届いていないからだった。ベジータは力を入れ直した。するとブチブチ!と体中から糸が千切れる音が鳴り、全身を鞭で滅多打ちにされたような激痛が襲いかかった。重力負荷にやられた細い血管が、体内でことごとく破裂している。舌の表面はざらざらに爛れて、鉄の味が口に充満した。
各種内臓、主要血管、神経系統、脳……。
この4つを最低限守ることだけ考えた。ベジータは、圧殺されそうな重力に耐え続けた。どんどん強くなる痛みと吐き気。気合いで叫んでみても、弱々しい呻き声しか出ない。コントロールパネルの台に手を置いて、短い呼吸を続けるのがやっとの状態だった。
やがて、目に映るものの色彩が薄まってきて、モノトーンの世界が広がり始めた。
訓練の始まりから30分。
一面、灰色に塗りつぶされた重力室の景色は、ひどく不気味に目に映る。生命を脅かすような殺伐とした色に、ゾッと背筋がそそけたつ。
パネルに表示されたデジタル時計の秒数が、何重にもぶれて、読み取れなくなってきた。
気づかぬうちに、両膝が、床についていた。膝を打つ感覚が殆ど無かった。目線が下がった事だけはわかった。全身を覆っていた激しい痛みは、鈍重な痺れに変わっていた。
さらに耐え続けていると、目の前にチカチカとはじける光があらわれた。それが複数になり、視界が真っ白に塗りつぶされて、突然ノイズの混じった闇が落ちてくる。
血を、筋力で押し上げて脳に送ると、寂漠たるモノトーンの世界に戻るが、それも束の間だ。
まばゆい光とノイズの闇を往来しながら、ベジータはあてもなく探す。
まだ見ぬ、伝説の鍵。
あの下級戦士が足を踏み入れたという、未知の領域を、命を半分棄てたままで。
闇ばかりが続いていよいよ光が見えなくなってくると、ベジータは、殆ど感覚を失った手を闇雲にパネルに沿わせて、一番大きな電源のスイッチを探しあてて押した。
重力が1に戻る。
落差が大きすぎて、まるで体が浮き上がるようだ。
貧血した頭に、熱い血がドッと流れ込み、脳血管が激しく膨張した。
顔面が倍に浮腫んだような感覚、そしてガンガンと強烈な頭痛。割れそうに痛い頭を抱えて、ベジータはしばし床にうずくまった。
オレの中のどこに、その鍵があるというのだ。
そう呟こうとして開いた唇から、粘っこい血が糸を引きながらボタボタと床に落ちた。
本当なら、敵との闘いでしか流す事の許されない、民族の血である。
戦闘では、それを流すことによって、何かしらの対価を得られていた。
だが今はどれだけ血を失っても何も得られないし解らない。この場で垂れ流す血に、価値はあるのかと疑いが生まれるほど。
苦しいだけで答の出ない日々だった。
しかしベジータは、己に、絶望を許さない。
状態が落ち着けば、もう一度同じ重力値で、全く同じ訓練を、何度も繰り返す。
悟空の面を思い起こせばたちまち真っ赤な怒りに呑まれて、鍵を求める執念が途絶えることは無かった。
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