参拝
「ベジータ、今から初詣に行くわよ」
12月31日、23時。
ベッドで寝入っていたベジータを、ブルマが揺さぶって起こした。
「ハツモウデって何だ」
「一年の始めに神社にお参りして、その年が良い年になるようにお願いする、儀式みたいなもんよ」
「全く興味無い」
プイとそっぽを向いて再び眠りにつこうとするベジータを、ブルマはさらに激しくゆさぶった。
「ベジータ、ほら、起きて!起きなさい!」
「興味無いと言ってるだろう。行きたきゃ一人で行け」
「一緒に来てくれたらこの前のお寿司屋さんにまた連れてってあげるわよ」
「……」
寿司で華麗に釣り上げたベジータに、ブルマは黒いダッフルコートを渡した。
「外は寒いからコレを着てね。あ、ズボンはコレね」
「……。ちょっと待て」
「なあに?」
「……。これはもしや…、“ペアルック”とかいう、地球では物凄く恥ずかしいとされる扮装じゃないのか…?」
「いいえ!色が違うから大丈夫よ!心配いらないわ!」
ニコッ!とブルマが微笑み、ヒクッ!とベジータが顔を引きつらせた。
「オレはジャージで…」
「駄目ッ!!コレを着なさいッ!!あんた誰のおかげで重力室が使えると思ってんの!?毎日ごはんが食べられるのは誰のおかげ!?」
「……うっ……」
いつものキメ台詞でしっかりと黙らせた後、ブルマは、嫌がるベジータに色違いのペアルックを着せた。
ブルマのダッフルコートは白である。
「うふふ可愛い~、よく似合ってるわよベジータ。あとはこのピンクの長いマフラーをあんたと私の首に巻いて…」
「や、やめろ!それだけはやめろ!」
“アイアイマフラー”という、むごたらしいトラップを突破するため、ベジータはブルマの手を引いて急いでCCから脱出した。
「もう…。せっかくこの日の為に頑張って編んだのにい~。あのマフラーを完成させるまでにどれだけ時間がかかったと思ってるの?2ヶ月よ?ねえ聞いてるの?」
「おい、どっちだ、どっちへ行けばいいんだ?西か?東か?」
拗ねて唇をとがらすブルマと、必死になって話しを逸らそうとするベジータ。
二人はそのままぶつくさ言い合いながら、西の都の駅に向かった。
………
「こ…これに…乗るのか…?」
一番線に入ってきた龍珠神宮行きの列車は、参拝客ですでに一杯だった。人ごみが大っ嫌いなベジータはそれを見ると、まだ乗ってないのに変な汗を垂らした。
「そうよ。ほらほら、早く乗って」
「冗談じゃない。オレは帰るぞ」
寿司の美味と乗車のストレスを秤にかけて、ベジータはきびすを返す。
するとすかさずブルマが後出しをしてきた。
「乗ってくれたらこないだのケーキ屋さんにも連れてってあげるわよ」
「……」
ケーキでピタリと踏みとどまったベジータを、ブルマは車内に押し込んだ。列車の中は、地球人特有の香料と食べ物の匂いで充満しており、ドアが閉まるとさらに苛烈な悪臭となって、ベジータの顔を歪ませた。ブルマ以外の他人に体を触られるのも大っ嫌いだから、すし詰め状態の列車内はこの男にとって、まさに地獄だ。
360度に向けてギャリック砲をぶちまけたい衝動を、必死に抑えるベジータ。この車内で唯一許せるブルマの香りだけを肺の中に入れようと、ギリギリまで顔を近づける。
ブルマが微笑んで、こっそりと手を繋いできた。
「何をしてる」
「ふふっ。恋人ごっこ」
「離せよ、暑苦しい…」
「いやよ」
手を離そうにも、殆ど身動きが取れない。下手に動けば、他の乗客との接触が無駄に増えるため、ベジータは諦めてブルマのしたいようにさせた。ブルマはそれを悟ったのか、ベジータの胸におでこをくっつけたり、指をいっちゃいちゃ絡ませたり、無意味に腹をつっついたり、『私達って、ラブラブカップルなんです、アハ♪』オーラを大噴出しだした。
「……。もうそのへんでやめておけ」
「うふふ。『そのへん』ってどのへんよ」
「……調子に乗りやがってこのアマ……」
「だって~、こんな風に立ったままくっつくのって初めてなんだもの。満喫したいのよ。普通の恋人気分を」
そう言うと、ブルマはベジータの胸に頭をあずけて、夢見るように瞳を閉じた。青いアイシャドウの下に現れた長いまつげが、髪の色と少し違う事に気づき、ベジータはジーッと見入った。また何か、化粧品を塗っているのか、まつげのひとつひとつがキラキラと煌いている。何も塗る必要などないのに、なぜこの女は毎日毎日、色をとっかえひっかえして顔に化粧を塗りたくるのか、ベジータは不思議でならなかった。
『そのままでいろ』という言葉を、今日も飲み込んで、変色したまつげを見つめ続ける。
しばらくすると、ブルマがパッと目を開けて、ベジータを見上げてきた。
開ききっていた藍色の瞳孔が、車内の照明に照らされて、ギュウと絞られる。ブルマがパチクリとまばたきする度に、瞳の中で綺麗な色が動くので、ベジータは目を離せなかった。
「なあに?どうしたの?そんなに見つめて」
「別に」
「ああ、私がすっごく綺麗だから見とれてんのね?分かるわあ~~」
「自惚れるな。また変な化粧してやがるから、呆れて見てただけだ」
「嘘ばっかり。照れちゃって。あんたちょっと顔赤いわよお~~?うふふふふ」
「コレは列車の中が暑いからだ!あとその下品な笑い方をやめろ!」
うふふふふふふふふふふふふ
小さく忍び笑いを続けながら、ブルマもちょっと頬を赤らめた。 見破られている。 自分の頬の赤みは、99%車内の熱気によるものだったが、残り1%の原因を、ブルマはしっかりと見抜いている。
ヤバイ。
そう思ったベジータは、すぐに思考を切り替えた。ブルマの瞳から目をそらし、
“オレは戦闘民族サイヤ人”
“宇宙一のエリート戦士はこのベジータ様で、その他の野郎は全員ゴミ”
“カカロットを殺すカカロットを殺すカカロットを殺す”
と、『強くなれる魔法のオレ様呪文』を頭の中で唱え出した。
すると、ブルマは唇を尖らせて、ベジータを睨みつけてきた。
「ちょっとあんた、今孫君の事考えてるわね?ひどいわ。デートの最中に私以外の人の事考えるなんて」
「……お前はエスパーか」
ブルマの鋭い洞察眼に、ベジータはたじろいだ。これ以上絡まれるのは面倒くさかったので、“デート”という奇妙な単語には触れずにおいた。
ベジータが動かないのをいい事に、ブルマの手が、ベジータの腰に回ったり、背中を撫でたり、ダッフルコートの裾からもぐりこんできたりと、ほとんど痴漢のような動きになってきて、ズボンのジッパーのあたりをそわそわと弄りだした頃、終点の“龍珠神宮”に到着した。
「変態かお前はーーー!!」
「だあってェ~~」
開いた列車のドアから、たくさんの乗客達が吐き出される。川の濁流のような雑踏の中、流されるようにして、二人はぐちゃぐちゃ文句を言い合いながら紛れていった。
……
「こ…これに…並ぶのか…?」
てっぺんまで長く続く神宮の階段は、すでに参拝客で埋め尽くされており、行列の最後尾が道路まで延びていた。
「そうよ。ほらほら並んで」
「…うっ…」
ベジータがうんざり顔で躊躇しているので、ブルマは100メートル程先にある赤い露店を指さして、「あそこまで進んだら、何か美味しいもの買ってあげるから」と言った。
またも食べ物で釣ったベジータを横に並ばせて、ブルマはそっと手を繋いだ。ベジータはそれを見遣ったが、特に文句は言わなかった。列車の中に比べて外は冷涼で心地良く、ストレスも減っていたし、丁寧に手入れされたブルマの手はしっとりとして柔らかいので、触り心地も悪くなかった。
ダッフルコートの袖口が広いから、繋がった手が隠れている。誰も見てない。
ベジータが黙って手を繋ぎっぱなしにしていても、ブルマは冷やかさなかった。
鼻歌を歌ったり、空を見上げて流れ星を見つけて喜んだりと、機嫌よくしていた。ベジータも、“おめでたいバカ女”などと罵る事は無かった。 ただ黙って、行列に合わせて歩を進めていた。
「神宮の階段の上に着いたら、お賽銭を入れてお願い事をするのよ」
「なんだコレ。うまいな」
露店で買ってもらったたこ焼きを食べて、真剣に感心するベジータ。美味さもさることながら、地球に存在する食べ物の種類の多さには、驚くばかりである。
「ちょっと。ちゃんと聞いてるの?」
「ん?」モグモグ
「だから、お参りの仕方よ」
「喉が渇いたな」
「んも~~~」
ブルマは露店でジュースと甘酒を買って、ジュースをベジータに渡した。甘酒はよく売れていた。時折北風が吹くので、長いこと行列に並んでいると冷えるのだ。ブルマは風を避けるようにベジータの体に身を寄せて、熱い甘酒をふーふーしながら飲んだ。一方のベジータは冷たいジュースをゴクゴク飲んでいた。
「ベジータ、寒くないの?」
「寒くない。お前は寒いのか」
「寒いに決まってんじゃないの」
「そうか、じゃあ帰るぞ。風邪を引かれたら面倒だ」
「駄目。お参りしてからよ」
うー寒い寒い、とブルマが身を縮めてベジータにくっついてくる。 周りの者達も、しきりに、寒い寒いと言って、辛抱している。地球人にとっては大事な儀式なのだろうが、ベジータにはまるで意味が分からないし無駄な事にしか思えない。
「“お参り”すれば絶対に願いが叶うのか?」
「ううん。それは神様次第よ。あとはお参りする人の心次第ね」
「そんな不確実なものに、地球人はすがるのか」
「すがるってのとは、ちょっと違うわ。もっと楽しいノリよ。おまじないみたいなもんかしら」
「…地球人の感覚はさっぱり分からん」
「あれえ?ベジータ?おめえベジータじゃねえか?」
ヒュッ
「あれっ?」
「どうしただ?悟空さ」
「おかしいな。今ベジータがいたような気がしたんだけどなー」
「何言ってるだ。あんなド不良が、こんな神聖な所に来る訳ねえべ」
「いや、あの髪型はベジータだ。あんなにとんがった頭してる奴は、ベジータしかいねえ」
「ボクもベジータさんだと思う…。いつもと違って微妙だったけど、確かに邪悪な気を感じたよ」
「悟飯、気の探り方うまくなったなあ」
「来てたとしても会いたくねえだよ。あんなド不良の顔を新年早々見るのけ?おらはゴメンだべ」
一番客の孫一家は参拝を終えて、お守りを買って、階段を下りてきたところだった。
悟空はしばらくキョロキョロとベジータを探していたが、チチにうながされて露店に行き、たこ焼きを買って食べ出した。とても美味かったので、店主に「早く次の焼いてくれよー」と催促して食いまくり、ベジータの事はすぐに忘れた。
……一方、そのはるか上空では。
「さっむーーーー!!」
「危ない所だった……こんな所であの野郎に会うとは……」
気を消したベジータが、ブルマを抱えて空高く舞空していた。
「さっむーーーーい!!」
「クソッ…早く失せやがれ…カカロットめ…いつまでたこ焼きを食い続ける気だ…オレの帰りの分が無くなるだろうが…」
「ちょっと!!寒いわよ!!早く下に降りてよーー!!」
「駄目だ。こんなみっともないナリを、あの野郎に見られるわけにはいかん」
「ひいいーー寒いーー」
上空は気温が低く、風も強いため、ブルマはすぐにブルブル震え出した。
「しょうがないな。上から参拝するか」
「え?」
「寒いんだろ。さっさと終わらせるぞ。ほら早く拝め」
ベジータはそう言うと、神宮のちょうど真上まで飛んで、参拝を促した。
「こ、ここから拝むの?」
「そうだ。早くしろ」
「か、神様の上から拝むなんて、バチがあたらないかしら。それに、お賽銭…お金をあの箱にいれなきゃいけないのよ…やっぱり上空からじゃ無理よ」
「何が無理なんだ。ここから撒けばいいだろう」
「ええ~~!駄目よ!下の人たちの頭に当たっちゃうじゃないの!5ゼニー玉は軽いから怪我はしないと思うけど、当たったらきっと痛いわよ、これ」
と言って、ブルマはバックから、5ゼニー玉が大量に入ったレジ袋を出した。
「貸せ」
「あっ!!」
ジャンジャラジャンジャジャンジャラ…
うわーー きゃあーー と地上から人々の叫び声が聞こえてくる。「ぎゃあーー何すんのよベジータ!!」とブルマは真っ青になった。
「へっ。ゴミ共が慌てふためいてやがるぜ。ふははは!」
「な、なんてことするのよーー!絶対バチがあたるわ!ああ~んごめんなさい皆さん、ごめんなさい神様…」
「よしブルマ、次は二礼二拍手だ。早くしろ」
「…よく知ってるわね、あんた…」
「つべこべ言わずに早くやれ」
ブルマはベジータに後ろから抱えられていたので、両手は空いている。「こんなのでいいのかしら」と不安げにつぶやいて、下の神宮に向かってペコペコとお辞儀をした。
「ベジータもお願い事してね」
「誰が神頼みなんかするか。馬鹿馬鹿しい」
「人の為のお願い事じゃないと、神様に届かないのよ。私はベジータの為にお願い事をするから、ベジータは私の為にお願いね」
「……」
『お前の事なんか知るか』という前に、ブルマが手を二度叩いた。そして両手を合わせて頭を下げたまま、動かなくなった。ヒューヒューと北風が切り抜ける音の合間に、地上からのざわめきが微かに聞こえる。ほんの数秒で終わるだろうと思っていたが、ブルマは随分長いこと沈黙していた。しびれをきらしたベジータが、声をかけた。
「まだか」
「まだよ」
「お前…同じ願い事を何度も繰り返してるんじゃないのか?」
「違うわよ。私のお願い事はいっぱいあるのよ。ちょっと黙ってて」
「……」
何をそんなに願う事があるのだろう、と、ベジータは不思議でしょうがない。自分の為に何をそんなに願う事があるのだろうかと。
ブルマが至極真剣に祈っているように見えたので、ベジータは訊けず終いとなった。しょうがないので、ベジータも一つだけ、神宮に向かってお願い事をした。『おいそこの貴様。てめえだ神宮野郎。オレ様の願いを聞きやがれ』という言葉を頭につける事を忘れずに。
「ふう、オッケーよ」
「長い。何を願ったんだ」
「うふふ。秘密」
「…まあどうでもいいけどな」
「嘘。知りたいくせに。気になるんでしょお~~~」
「全く興味無い」
「おーい!ベジータ!おめえやっぱりベジータだろ!!」
ビュン!!
「さっむーーーーーーー!!」
「我慢しろ!声も出すな!」
「ベジーターー!おーーいベジーターーーー!なんで逃げるんだよベジーターー!」
ベジータアアアーーーーー!!
キントウンに乗った悟空が嬉々として叫びながら、後ろから追いかけてくる。ベジータは逃げた。白黒のペアルック、空中抱っこ、何もかも絶対に見られたくない姿だ。とにかく全速力で舞空した。
「おーいベジータ!オラだよオラ!オラだよーー!」
「…なにをわめいてやがるんだあいつは…詐欺みたいに…」
「寒い!凍死しちゃうわ!ベジータ!」
「ベジータ!!あそこのたこ焼きめっちゃくちゃうっめえぞーー!!オラが食いすぎて、粉無くなっちまってもう食えねえけどなーー!!あけましておめでとおおーーー!!今年もいっぺえ修行すっぞーーー!!おいベジーターー!!おめえ超サイヤ人になれたんかーーーー!?どうなんだーーー!?」
「黙れ!!死にやがれェーーーーーーー!!!!」
どーーーーーーーーーーーん
怒ったベジータは後ろ手で気弾を打った。そう…ベジータはまだ、超サイヤ人になれていないのだ。
「うおっとあぶねえ!!わはは!!やったなこのヤロー!!かめはめ波ーーーーーーーーー!!!」
「なっ!!何いーー!?」
「きゃあああああ!!」
ズアアアアアア!!!
……この時、悟空が放った最大級かめはめ波は、翌日の新聞の一面を飾ることになる。
『謎の巨大彗星現る!!』とかなんとか、天文系の見出しがついた。
ベジータが神宮に撒き散らした5ゼニー玉の件は、三面記事として扱われていた。
『神の仕業?悪魔の悪戯?これがホントのおとし玉』とかなんとか、割とチンケな見出しがついた。
「よ、よせ!!カカロット!!こっちには女がいるんだ!!ブルマが!!」
「ひいいい怖い~~!!」
「オラと組み手すっかベジーターーーー!!わははははは!!」
「ベジータ!今日の孫君、すっごく変だわ!!」
「……まさか……酒呑んでるんじゃないのか……あの野郎」
ベジータはそう言って、冷や汗を垂らした。
「サイヤ人の中には、酒を呑むと理性を失い、やたらめったら戦いたがる輩がいるんだ。『殺し酒』と言われる輩が…」
「そんな説明どうでもいいから早く逃げてェーー!!」
「お父さーーん!!」
その時、甲高い声が聞こえた。悟空の息子の悟飯が慌てて飛んできて、キントウンに追いついたのだ。
「お!悟飯じゃねえか!よーっし、おめえも一緒にベジータと戦うかーーー!!」
「お父さん、ごめんなさい!!」
悟飯は硬く握り合わせた両の拳を、悟空の脳天に思い切り打ち下ろした。バギャ!!と打撃音がして、悟空はものすごいスピードで地上に落ちていった。どかーーんと地鳴りが聞こえて、悟空が地面に直撃した事を認めると、悟飯は額の汗を拭って、ふうと一息ついた。 ブルマとベジータにしっかり向き合い、悟飯は頭を下げた。
「ベジータさん、ブルマさん、どうもすみませんでした。お父さん、甘酒を呑んだ途端にあんな風になっちゃって」
「ありがとう悟飯くーん、助かったわ~」
ブルマが礼を言うと、悟飯は「いいえ」と言って、顔を赤くして頭をかいた。
「あけましておめでとう、悟飯くん。今年もよろしくね」
「あ、はい、あけましておめでとうございます。あの、ベジータさんも…」
「馴れ馴れしく話しかけるな」
ベジータはブルマの体を少し持ち上げて盾のようにして、自身の姿を隠した。色違いのペアルックを見られるわけにはいかない。
「あっ、すみません…」
「もうベジータ!それは無いじゃないの!悟飯君は私達を守ってくれたのよ?」
「お前がいなけりゃあんな『殺し酒』、2秒とかからずに倒せた。あのタイプは酒が入ると防御ががら空きになるからな。だからこのガキでもぶっとばせたんだ」
「ごめんなさいね悟飯くん。こんな口の悪い奴で。悪く思わないでね」
「あ、いいえ、気にしてませんから」
モジモジしながら、悟飯は頭をかいて、ベジータとブルマをチラ見した。ブルマの髪の隙間から睨みつけていたベジータは、なかなか去らない悟飯に聞こえるように舌打ちする。
「…何をジロジロ見てやがる。とっとと失せろガキ」
「はい、じゃあ失礼します。あ、あのう…」
「なんだ!まだ何か用か!」
「いえあの、ベジータさんもブルマさんも、そのかわいい洋服、とってもお似合いだと思って」
どーーーーーーーーーーーん
ベジータの放った光弾が青い尾を引きながら地平の彼方へ飛んでいく。手ごたえは全く無かった。悟飯の気は、相変わらず元気なままで、地上のどこかに降りていることが分かる。頭から地面に食い込んでいるであろう悟空のもとに飛んで行ったに違いない。
「クソッ!逃げやがった…」
「なにしてんのよアンタ!悟飯君を殺す気ーー!?」
「あのガキ……ナメックの時よりもスピードがはるかに増してやがる……」
ベジータはわなわなと震えながら、歯を食いしばった。白と黒のペアルックを、あの子供にしっかりと目撃されてしまった悔しさで、血圧が一気に上がった。
もしも自分達のペアルックの件が関係者に知れ渡っていたら真っ先にあのガキを殺そうと、ベジータはこの時、強く心に決めたのだった。
腹を立てたベジータはブルマを抱えたまま、西の都に向かって飛び始めた。ブルマは寒がって地上の乗り物で移動したがったが、とにかく孫親子との遭遇で心底ムカついていたので、ベジータはブルマの言い分を無視して冬空を飛び続けた。
……
カプセルコーポレーションに到着して、玄関をくぐると、先程の神宮の人ごみの喧騒や、孫親子との馬鹿げたやりとりが全て嘘だったかのように、透明な静寂が耳をうった。
誰もいない。
ブルマの両親はずっと旅行に行ったきりだったし、ヤムチャとプーアルは今はカプセルコーポに住んでいない。ウーロンも、正月ぐらいは重力室の轟音に苛まれる事無く静かに過ごしたいと言って、12月半ばあたりから出て行ったきりだ。
「寒い!凍えちゃう!」
と、ブルマが叫んで静寂を破った。
「風呂に入れ」
ベジータは冷たく言い放つと、ブルマの背中をドンと押した。全く散々な年初めだ、とブツブツ文句を垂れながら、さっさと自室に歩いていく。すると、ブルマがベジータの背中に飛びかかってきた。
「お風呂なんて沸かしてる間に死んじゃうわよ!あんた、なんてスピードで飛ぶの!?もう信じられない!地球の女の体はデリケートなのよ!見てよこの体の震えを!」
「その場で駆け足してりゃ大丈夫だ。オレはもう寝る…」
「なんですってー!?ひいいい!寒い!手がシモヤケになっちゃうーー!」
「なにっ」
ブルマを払いのけて自室に向かって歩こうとしていたベジータが、急に振り向いた。
シモヤケという単語に、脳細胞が反応したのだ。
ベジータの脳裏に、次々と浮かぶ関連単語。
血行不良、炎症、硬い膨れ、角質層の亀裂による出血、あかぎれ 冬の季節病……
「それは駄目だ。シモヤケは駄目だ」
「え?」
「どうやったら予防できるんだ」
「え?えーーと……あっためて……マッサージ、とか?」
「貸せ」
苛立たしげに言い放ち、優しさのカケラもない仕草でブルマの手をひっつかみ、自分の掌の中におさめる。ブルマの手は、まるで氷のように冷え切っていた。ベジータが手を握っても、ブルマの方から握り返してくることは無かった。手がかじかんでしまって、動かせないのだ。
「熱い」
とブルマがびっくりしたように言って、それっきり黙り込んだ。照明のついていない暗い玄関フロアに、再び静寂が満ちて、視覚と聴覚に訴える刺激が減った分、ブルマの手の冷たい感触と、ブルマの纏う香水の香りばかりが際立って、晩秋の薔薇園の中に佇んでいるような錯覚を覚えた。
ブルマの静かな呼吸が香る。
「ありがと」
とブルマがポツリと言うと、薔薇のつぼみが一気にほどけて、閉じ込められていた香りがパッと発散される。暗闇と静寂とブルマの香りは、いつものカプセルコーポとは思えないほどの、不思議で魅惑的な空間を作り上げた。
「ベジータ好きよ。うふふふふふふ」
「……いい加減その笑い方をやめろ」
「本当は私の事愛してるのよね?言葉に出来ないだけで。私があんまりいい女だから、面と向かうと照れちゃうんでしょ?分かるわあ~~~~」
「何が“愛”だ気色悪い、ぶっとばすぞ。お前はオレの道具なんだよ。お前の手が使い物にならなくなるとオレの訓練に支障が出ちまう」
ブルマがスルリと手を離した。
薔薇が、一歩、二歩、とベジータから離れて、香りが逃げてゆき、花園も消えて、いつものカプセルコーポに戻ってしまった。
「……。なんだお前は、折角このオレが手当てしてやってるのに」
「私の手が使えなくたって大丈夫よ。あんたの望みはきっと叶うわ」
「なぜそんな事が分かるんだ」
「だって私、さっきの神宮で神様にお願いしたもの。“ベジータが強くなれますように”って」
外から、車が走り去る音がして、白いヘッドライトが一瞬窓からさしこみ、ブルマの瞳を照らし出した。見ると、ブルマは少し怒った眼をしていた。
「だから重力室の修理用“道具”なんかなくても、あんたは大丈夫なの。分かった?あーあ、あんたの言葉ですっかり気分が悪くなっちゃった。寝るわ、私」
「風呂入れよ」
「いやよ」
「そのまま寝たらシモヤケになるぞ」
「いいわよ別に。“道具”にだって正月休みが欲しいのよ、ちょうどいいわシモヤケになれて」
「貸せ」
「触らないでよ。気持ちのこもってない手当てなんか、全然嬉しくないわ」
プイとそっぽを向いて、ブルマは駆け出した。広い玄関フロアを、白いウサギが逃げていくように見えた。
瀟洒な薔薇の香りを纏った白いウサギは、細いヒールの音を鳴らしながら、暗いカプセルコーポの奥へ奥へと駆けてゆく。
「おい」と一声かけたが、ウサギは廊下の向こうの角を折れて、その白い姿を完全に隠してしまった。遠くの方からドアの閉じる音が響いてきた。部屋に閉じこもって、こちらをこまねくつもりだ。ベジータはブルマの誘いに舌打ちし、ため息混じりに「めんどくせえ」と呻くと、コートのポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩き出した。
部屋に向かう途中には浴室のドアがあり、給湯用パネルがオレンジ色に光っていたので歩きながら拳で叩きつけた。40度に設定された湯が、浴槽に供給されだす。
シモヤケは困る、とベジータは思った。
ブルマの指は、自分のものだからだ。
あのしなやかな白い指が、凍傷で硬く醜く腫れ上がる事など許せる訳がなかった。
「おい、風呂沸かしてやったから入れ」
「やだ」
ブルマの部屋の前まで来て、ドア越しに命じてみたが、ブルマはつっけんどんな調子で返してくる。ドアには鍵がかかっていた。ベジータはこともなげにドアノブをねじり、力任せに押した。メキメキと金属の折れる音と共にドアが開いて、部屋のベッドに座って拗ねていたブルマが「あーーー!」と抗議の声をあげた。
「あんたソレ何度目よ!何枚ドア壊したら気が済むのよ!」
「構わんだろ。お前ならすぐに直せる」
「私は修理ロボットじゃないのよ!馬鹿!出てって!」
ブルマが怒鳴って枕を投げつけてきた。
ベジータがそれを腕で跳ね返すと、壁にぶつかった衝撃で中の羽毛が大量に舞いあがった。
「私のお気に入りの枕ーー!!」とブルマが叫んだので、ベジータは呆れて「気にいってるならぞんざいに扱うな」と注意した。
部屋の中は暗かった。
ブルマが部屋の明かりをつけずに待ち構えていた理由を、ベジータは分かっている。これまでに幾度となく乞い、求め続けてきた言葉を、このウサギは今夜こそはと引き出そうとしている。互いの姿が闇に紛れていれば、引き出せると思っているのだ。
誰が言うか、とベジータは心の中で悪態をついた。なんと面倒な女なのかとうんざりしながら、またも逃げようとするブルマの手をすばやくひっつかむ。
「大事な物なら大事に扱うもんだろ、こうやって」
氷のような手を握りしめて、体温を分け与えてやる。今度は逃げないように、しっかりと握って束縛した。浴室の方から給湯完了のサインが鳴った。
ベジータは「行くぞ」と言って、ブルマの手を引っ張ったが、ブルマはイヤイヤをしてその場に足を踏ん張った。
「いいかげんにしろ」
「私神様にお願いしたわ。あんたの為にすっごい真剣にお願いしたのよ」
「強くなれるようにか?へっ!あんなエセ臭い神宮野郎に頼まなくとも、オレは強くなれるんだ。お前のこの手があればさらに効率よく」
「私、他にもいっぱいお願い事したわ」
「……、何だ言ってみろ」
ブルマが、ヒールのかかとをカーペットに食い込ませて、かたくなに踏ん張っている。ここは、言いたいことを全部言わせた方が話が早いような気がした。そうして溜飲を下げさせて、さっさと風呂に入らせようと思った。ウサギの体は冷え切っていて、さっきから震えっぱなしだ。
「ベジータが強くなれますように」
「それはもう聞いた。他だ」
「ベジータの人参嫌いが直りますように」
「……」
「ベジータが大怪我しませんように」
「余計なお世話だ」
「ベジータが私の事をずーっと愛し続けてくれますように」
「またそれかよ!」
「ベジータが死にませんように」
ブルマが呟いた言葉の端に、車のエンジン音が重なった。
また一台の車が、部屋の中にヘッドライトを差し入れて走り去ってゆく。白い光が窓のブラインドで薄く切られて、部屋に白黒の縞模様を作ったが、その白の一本がちょうどブルマの瞳を照らした瞬間に、どこかで見たものと瓜二つのような気がして、何だったかと思いだそうとしていると、
「ベジータが死にませんように」
とブルマが再びつぶやいた。
どこかで見て、その時は少し驚いたものだった。
全くこの地球という惑星は、ヒマな人間共が蟻のようにはびこっており、連中は呆れる程多様な文化と多様なガラクタを日々生み出しては、雑多な世界をますます雑多にし醜く劣化させているのだが、その中で極めて稀に、美しい物を造りだす人間もいるようで、そうだ、あれは確か、いつの日だったかブルマに半ば騙されてショッピングとかいうくだらない用事に付き合わされて、宝石店に引っ張りこまれた時。
「ベジータが死にませんように」
ベジータが記憶をたどる間も、ブルマはちっちゃく“お願い事”を繰り返した。死にませんように死にませんようにと、寒さで体が震えているから声まで一緒に震えていた。
なんという名の石だったか、忘れてしまった。
透明なショーケースの中で、計算された角度の照明に照らされて、計算された正確なカットを施されたその石の煌きが、泣きっ面の時のブルマの瞳によく似ていて、驚いたのだ。
「ベジータが死にませんように」
「……」
「ベジータが死にませんように」
「お前やっぱり同じ願い事を繰り返してたんじゃねえか」
「ベジータが死にませんように」
「無駄な願いだ。オレは死なん」
「ベジータが死にませんように」
「黙れよ」
再び部屋に白い光線が差し込んだ。
外のエンジン音は、先程よりも少し小さく、ヘッドライトの明度も若干落ちているように思えた。
そのためかライトに照らされたブルマの瞳は、輝きが失われた分暗く沈んで見えた。それでも、下まつげをコロンと滑りながら、新たな石がポロポロと生み出されていたから、また違った光彩を作り出していて、綺麗だった。
「オレが死ぬ訳ないだろ」
「わかんないわよそんな事。あんた重力室で何度も死にかけたじゃないの」
「あれはただ、不慣れだったからだ。もうあんなヘマはしない」
「あれはね、“ヘマ”じゃないの。“無茶”っていうのよ」
ブルマがぎゅっと手を握り返してきた。体温がうまく伝導したのか、ブルマの手には血が通って温かくなっていた。しかし体は相変わらず震え続けていた。
「もうやだ。失神したり、血吐いたり、骨折ったり、そんなのばっかり見せつけられて。その度に私がどれ程心配するかなんて、あんたわからないんでしょ。私、あの重力室、大嫌いよ。もう直すのヤダ」
「ああそうかよ。じゃあ訓練の場所を変える他無いな。またいつぞやの活火山の中に突っ込んでみるか…」
「ダメーーー!もうあんなヤケドを見るのはイヤーーー!」
「じゃあ直せよ。重力室」
「ヤダ!」
例えば、謝罪とか、感謝とか、ブルマに対する思いとか、慰めとか、同意とか、もろもろの事柄を全て言語に置き換えた所で、伝わるのはせいぜい、半分かそこらなのではないのだろうか。そして『まだ足りない』と言って、きっと、もっと沢山の種類の言葉をせがんできて、ブルマの求める言葉に完全一致するまで延々終わらない。
それは物凄く時間の無駄で、くだらないやり取りで、言う側も言われる側も、永遠に満足出来ないのではなかろうか。せいぜい口で伝える言語の不完全さを思い知って、もやもやしながら終わるだけだ。
ブルマの心に、小さな傷がたくさんついている。
図太いようでいて、繊細な部分も持っているのか、それとも自分の行動が余程危なっかしくて、さすがの高飛車令嬢も肝を潰すのか、よく分からないが、今ギャーギャーと喚かせているのはこの心の傷のせいだ。心の傷を、言葉だけでうまく直す奴も世の中にはいるらしいが、この言語に勝る言葉は無いのではないかと、ベジータは思う。
「死んじゃ、だめよ」
唇をはなすと、青い目をしたウサギは鳴いた。
ブラインドの隙間から、コバルトブルーが見える。黒ではなく、コバルトブルーだ。外は雪が降っているのかもしれない。白い雪が。
ベッドの上でウサギ色のコートを取っ払うと、「死んじゃ、だめ」と再び鳴いた。
「オレは死なん」
「しんじゃ、だ、め」
衣擦れの音がしばし続いた。
全部脱ぎ終えて服を床に投げると、厚い毛布を頭までかけて、空気を遮断した。中がみるみる薔薇で一杯になった。
「しんじゃ、しんじゃ、だめよ、しんじゃ…」
「死なんと言ってるだろ。それにお前、神に願ったから大丈夫って言ってただろ」
「かみさま、なんて、ひっ…、あてに、あてに、なるもんですか」
「言ってる事滅茶苦茶だな」
コートを脱がせても姿は白いままだから、相変わらずウサギだ。青い目をした風変わりなウサギが震え続けていたので、体温を分けてやろうと思い体中撫で回すと、「しんじゃだめ」とまた鳴いて、声高く喘ぎ出した。
濃密な薔薇で、むせかえるようだった。フラリ、と脳が回転するような眩暈を覚えて、心の隙間にふと疑問が湧いた。口で言葉を紡いだら、この女の心の傷の治りは早くなるのだろうか。
「オレが神になんて命じたか、お前分かるか」
「…う……あう……」
「オレはな、こう命じてやったんだ。『ブルマの願いをかなえろ』って、命じてやったんだ。だから、お前の願いは絶対に叶うんだ、このオレが命じたんだから間違いないだろ?今頃あの神宮野郎、他の客の願いなんぞそっちのけで、お前の願いが叶うように必死に仕事してやがるぜ」
「あーー……ああーーーー」
ブルマが急に力いっぱいしがみついてきて、甘ったるい声で、ベジータの耳元で、「すきよ、すきよ」と、言葉きれぎれに訴え出す。それを耳にするとベジータはなんだかムカムカしてきた。口から出す言葉の方が、効き目が高いというのか。この女は何も分かっていない、自分の事を好きだ愛してるといいながら、ちっとも分かっていないのだ。本当の言語はこちらなのだと教えるために、体に与える説教を強くした。
もう何も言ってやらん、と思った。「なにか、なにか、言って」とブルマが喘いだがベジータはそれきり何も言わなくなった。黙って、自分の言語をたたきこむ。ブルマの体に叩き込む。ブルマが物を言えなくなるまで。ブルマも同じ言語で返してくるまで教えてやらねばならない。躾というのは、非常に大事だ。
再び、外から車のエンジン音が聞こえた。微かな音だったから、雪はさらに積もっているのだろうと思った。静かなのは良い事だ。どんどん降って積もれば良いのだ。
晩秋の薔薇園だけが騒がしい。
音を境目に世界から切り離されて、二人の世界は完璧となる。
【終】
2011/1/1
12月31日、23時。
ベッドで寝入っていたベジータを、ブルマが揺さぶって起こした。
「ハツモウデって何だ」
「一年の始めに神社にお参りして、その年が良い年になるようにお願いする、儀式みたいなもんよ」
「全く興味無い」
プイとそっぽを向いて再び眠りにつこうとするベジータを、ブルマはさらに激しくゆさぶった。
「ベジータ、ほら、起きて!起きなさい!」
「興味無いと言ってるだろう。行きたきゃ一人で行け」
「一緒に来てくれたらこの前のお寿司屋さんにまた連れてってあげるわよ」
「……」
寿司で華麗に釣り上げたベジータに、ブルマは黒いダッフルコートを渡した。
「外は寒いからコレを着てね。あ、ズボンはコレね」
「……。ちょっと待て」
「なあに?」
「……。これはもしや…、“ペアルック”とかいう、地球では物凄く恥ずかしいとされる扮装じゃないのか…?」
「いいえ!色が違うから大丈夫よ!心配いらないわ!」
ニコッ!とブルマが微笑み、ヒクッ!とベジータが顔を引きつらせた。
「オレはジャージで…」
「駄目ッ!!コレを着なさいッ!!あんた誰のおかげで重力室が使えると思ってんの!?毎日ごはんが食べられるのは誰のおかげ!?」
「……うっ……」
いつものキメ台詞でしっかりと黙らせた後、ブルマは、嫌がるベジータに色違いのペアルックを着せた。
ブルマのダッフルコートは白である。
「うふふ可愛い~、よく似合ってるわよベジータ。あとはこのピンクの長いマフラーをあんたと私の首に巻いて…」
「や、やめろ!それだけはやめろ!」
“アイアイマフラー”という、むごたらしいトラップを突破するため、ベジータはブルマの手を引いて急いでCCから脱出した。
「もう…。せっかくこの日の為に頑張って編んだのにい~。あのマフラーを完成させるまでにどれだけ時間がかかったと思ってるの?2ヶ月よ?ねえ聞いてるの?」
「おい、どっちだ、どっちへ行けばいいんだ?西か?東か?」
拗ねて唇をとがらすブルマと、必死になって話しを逸らそうとするベジータ。
二人はそのままぶつくさ言い合いながら、西の都の駅に向かった。
………
「こ…これに…乗るのか…?」
一番線に入ってきた龍珠神宮行きの列車は、参拝客ですでに一杯だった。人ごみが大っ嫌いなベジータはそれを見ると、まだ乗ってないのに変な汗を垂らした。
「そうよ。ほらほら、早く乗って」
「冗談じゃない。オレは帰るぞ」
寿司の美味と乗車のストレスを秤にかけて、ベジータはきびすを返す。
するとすかさずブルマが後出しをしてきた。
「乗ってくれたらこないだのケーキ屋さんにも連れてってあげるわよ」
「……」
ケーキでピタリと踏みとどまったベジータを、ブルマは車内に押し込んだ。列車の中は、地球人特有の香料と食べ物の匂いで充満しており、ドアが閉まるとさらに苛烈な悪臭となって、ベジータの顔を歪ませた。ブルマ以外の他人に体を触られるのも大っ嫌いだから、すし詰め状態の列車内はこの男にとって、まさに地獄だ。
360度に向けてギャリック砲をぶちまけたい衝動を、必死に抑えるベジータ。この車内で唯一許せるブルマの香りだけを肺の中に入れようと、ギリギリまで顔を近づける。
ブルマが微笑んで、こっそりと手を繋いできた。
「何をしてる」
「ふふっ。恋人ごっこ」
「離せよ、暑苦しい…」
「いやよ」
手を離そうにも、殆ど身動きが取れない。下手に動けば、他の乗客との接触が無駄に増えるため、ベジータは諦めてブルマのしたいようにさせた。ブルマはそれを悟ったのか、ベジータの胸におでこをくっつけたり、指をいっちゃいちゃ絡ませたり、無意味に腹をつっついたり、『私達って、ラブラブカップルなんです、アハ♪』オーラを大噴出しだした。
「……。もうそのへんでやめておけ」
「うふふ。『そのへん』ってどのへんよ」
「……調子に乗りやがってこのアマ……」
「だって~、こんな風に立ったままくっつくのって初めてなんだもの。満喫したいのよ。普通の恋人気分を」
そう言うと、ブルマはベジータの胸に頭をあずけて、夢見るように瞳を閉じた。青いアイシャドウの下に現れた長いまつげが、髪の色と少し違う事に気づき、ベジータはジーッと見入った。また何か、化粧品を塗っているのか、まつげのひとつひとつがキラキラと煌いている。何も塗る必要などないのに、なぜこの女は毎日毎日、色をとっかえひっかえして顔に化粧を塗りたくるのか、ベジータは不思議でならなかった。
『そのままでいろ』という言葉を、今日も飲み込んで、変色したまつげを見つめ続ける。
しばらくすると、ブルマがパッと目を開けて、ベジータを見上げてきた。
開ききっていた藍色の瞳孔が、車内の照明に照らされて、ギュウと絞られる。ブルマがパチクリとまばたきする度に、瞳の中で綺麗な色が動くので、ベジータは目を離せなかった。
「なあに?どうしたの?そんなに見つめて」
「別に」
「ああ、私がすっごく綺麗だから見とれてんのね?分かるわあ~~」
「自惚れるな。また変な化粧してやがるから、呆れて見てただけだ」
「嘘ばっかり。照れちゃって。あんたちょっと顔赤いわよお~~?うふふふふ」
「コレは列車の中が暑いからだ!あとその下品な笑い方をやめろ!」
うふふふふふふふふふふふふ
小さく忍び笑いを続けながら、ブルマもちょっと頬を赤らめた。 見破られている。 自分の頬の赤みは、99%車内の熱気によるものだったが、残り1%の原因を、ブルマはしっかりと見抜いている。
ヤバイ。
そう思ったベジータは、すぐに思考を切り替えた。ブルマの瞳から目をそらし、
“オレは戦闘民族サイヤ人”
“宇宙一のエリート戦士はこのベジータ様で、その他の野郎は全員ゴミ”
“カカロットを殺すカカロットを殺すカカロットを殺す”
と、『強くなれる魔法のオレ様呪文』を頭の中で唱え出した。
すると、ブルマは唇を尖らせて、ベジータを睨みつけてきた。
「ちょっとあんた、今孫君の事考えてるわね?ひどいわ。デートの最中に私以外の人の事考えるなんて」
「……お前はエスパーか」
ブルマの鋭い洞察眼に、ベジータはたじろいだ。これ以上絡まれるのは面倒くさかったので、“デート”という奇妙な単語には触れずにおいた。
ベジータが動かないのをいい事に、ブルマの手が、ベジータの腰に回ったり、背中を撫でたり、ダッフルコートの裾からもぐりこんできたりと、ほとんど痴漢のような動きになってきて、ズボンのジッパーのあたりをそわそわと弄りだした頃、終点の“龍珠神宮”に到着した。
「変態かお前はーーー!!」
「だあってェ~~」
開いた列車のドアから、たくさんの乗客達が吐き出される。川の濁流のような雑踏の中、流されるようにして、二人はぐちゃぐちゃ文句を言い合いながら紛れていった。
……
「こ…これに…並ぶのか…?」
てっぺんまで長く続く神宮の階段は、すでに参拝客で埋め尽くされており、行列の最後尾が道路まで延びていた。
「そうよ。ほらほら並んで」
「…うっ…」
ベジータがうんざり顔で躊躇しているので、ブルマは100メートル程先にある赤い露店を指さして、「あそこまで進んだら、何か美味しいもの買ってあげるから」と言った。
またも食べ物で釣ったベジータを横に並ばせて、ブルマはそっと手を繋いだ。ベジータはそれを見遣ったが、特に文句は言わなかった。列車の中に比べて外は冷涼で心地良く、ストレスも減っていたし、丁寧に手入れされたブルマの手はしっとりとして柔らかいので、触り心地も悪くなかった。
ダッフルコートの袖口が広いから、繋がった手が隠れている。誰も見てない。
ベジータが黙って手を繋ぎっぱなしにしていても、ブルマは冷やかさなかった。
鼻歌を歌ったり、空を見上げて流れ星を見つけて喜んだりと、機嫌よくしていた。ベジータも、“おめでたいバカ女”などと罵る事は無かった。 ただ黙って、行列に合わせて歩を進めていた。
「神宮の階段の上に着いたら、お賽銭を入れてお願い事をするのよ」
「なんだコレ。うまいな」
露店で買ってもらったたこ焼きを食べて、真剣に感心するベジータ。美味さもさることながら、地球に存在する食べ物の種類の多さには、驚くばかりである。
「ちょっと。ちゃんと聞いてるの?」
「ん?」モグモグ
「だから、お参りの仕方よ」
「喉が渇いたな」
「んも~~~」
ブルマは露店でジュースと甘酒を買って、ジュースをベジータに渡した。甘酒はよく売れていた。時折北風が吹くので、長いこと行列に並んでいると冷えるのだ。ブルマは風を避けるようにベジータの体に身を寄せて、熱い甘酒をふーふーしながら飲んだ。一方のベジータは冷たいジュースをゴクゴク飲んでいた。
「ベジータ、寒くないの?」
「寒くない。お前は寒いのか」
「寒いに決まってんじゃないの」
「そうか、じゃあ帰るぞ。風邪を引かれたら面倒だ」
「駄目。お参りしてからよ」
うー寒い寒い、とブルマが身を縮めてベジータにくっついてくる。 周りの者達も、しきりに、寒い寒いと言って、辛抱している。地球人にとっては大事な儀式なのだろうが、ベジータにはまるで意味が分からないし無駄な事にしか思えない。
「“お参り”すれば絶対に願いが叶うのか?」
「ううん。それは神様次第よ。あとはお参りする人の心次第ね」
「そんな不確実なものに、地球人はすがるのか」
「すがるってのとは、ちょっと違うわ。もっと楽しいノリよ。おまじないみたいなもんかしら」
「…地球人の感覚はさっぱり分からん」
「あれえ?ベジータ?おめえベジータじゃねえか?」
ヒュッ
「あれっ?」
「どうしただ?悟空さ」
「おかしいな。今ベジータがいたような気がしたんだけどなー」
「何言ってるだ。あんなド不良が、こんな神聖な所に来る訳ねえべ」
「いや、あの髪型はベジータだ。あんなにとんがった頭してる奴は、ベジータしかいねえ」
「ボクもベジータさんだと思う…。いつもと違って微妙だったけど、確かに邪悪な気を感じたよ」
「悟飯、気の探り方うまくなったなあ」
「来てたとしても会いたくねえだよ。あんなド不良の顔を新年早々見るのけ?おらはゴメンだべ」
一番客の孫一家は参拝を終えて、お守りを買って、階段を下りてきたところだった。
悟空はしばらくキョロキョロとベジータを探していたが、チチにうながされて露店に行き、たこ焼きを買って食べ出した。とても美味かったので、店主に「早く次の焼いてくれよー」と催促して食いまくり、ベジータの事はすぐに忘れた。
……一方、そのはるか上空では。
「さっむーーーー!!」
「危ない所だった……こんな所であの野郎に会うとは……」
気を消したベジータが、ブルマを抱えて空高く舞空していた。
「さっむーーーーい!!」
「クソッ…早く失せやがれ…カカロットめ…いつまでたこ焼きを食い続ける気だ…オレの帰りの分が無くなるだろうが…」
「ちょっと!!寒いわよ!!早く下に降りてよーー!!」
「駄目だ。こんなみっともないナリを、あの野郎に見られるわけにはいかん」
「ひいいーー寒いーー」
上空は気温が低く、風も強いため、ブルマはすぐにブルブル震え出した。
「しょうがないな。上から参拝するか」
「え?」
「寒いんだろ。さっさと終わらせるぞ。ほら早く拝め」
ベジータはそう言うと、神宮のちょうど真上まで飛んで、参拝を促した。
「こ、ここから拝むの?」
「そうだ。早くしろ」
「か、神様の上から拝むなんて、バチがあたらないかしら。それに、お賽銭…お金をあの箱にいれなきゃいけないのよ…やっぱり上空からじゃ無理よ」
「何が無理なんだ。ここから撒けばいいだろう」
「ええ~~!駄目よ!下の人たちの頭に当たっちゃうじゃないの!5ゼニー玉は軽いから怪我はしないと思うけど、当たったらきっと痛いわよ、これ」
と言って、ブルマはバックから、5ゼニー玉が大量に入ったレジ袋を出した。
「貸せ」
「あっ!!」
ジャンジャラジャンジャジャンジャラ…
うわーー きゃあーー と地上から人々の叫び声が聞こえてくる。「ぎゃあーー何すんのよベジータ!!」とブルマは真っ青になった。
「へっ。ゴミ共が慌てふためいてやがるぜ。ふははは!」
「な、なんてことするのよーー!絶対バチがあたるわ!ああ~んごめんなさい皆さん、ごめんなさい神様…」
「よしブルマ、次は二礼二拍手だ。早くしろ」
「…よく知ってるわね、あんた…」
「つべこべ言わずに早くやれ」
ブルマはベジータに後ろから抱えられていたので、両手は空いている。「こんなのでいいのかしら」と不安げにつぶやいて、下の神宮に向かってペコペコとお辞儀をした。
「ベジータもお願い事してね」
「誰が神頼みなんかするか。馬鹿馬鹿しい」
「人の為のお願い事じゃないと、神様に届かないのよ。私はベジータの為にお願い事をするから、ベジータは私の為にお願いね」
「……」
『お前の事なんか知るか』という前に、ブルマが手を二度叩いた。そして両手を合わせて頭を下げたまま、動かなくなった。ヒューヒューと北風が切り抜ける音の合間に、地上からのざわめきが微かに聞こえる。ほんの数秒で終わるだろうと思っていたが、ブルマは随分長いこと沈黙していた。しびれをきらしたベジータが、声をかけた。
「まだか」
「まだよ」
「お前…同じ願い事を何度も繰り返してるんじゃないのか?」
「違うわよ。私のお願い事はいっぱいあるのよ。ちょっと黙ってて」
「……」
何をそんなに願う事があるのだろう、と、ベジータは不思議でしょうがない。自分の為に何をそんなに願う事があるのだろうかと。
ブルマが至極真剣に祈っているように見えたので、ベジータは訊けず終いとなった。しょうがないので、ベジータも一つだけ、神宮に向かってお願い事をした。『おいそこの貴様。てめえだ神宮野郎。オレ様の願いを聞きやがれ』という言葉を頭につける事を忘れずに。
「ふう、オッケーよ」
「長い。何を願ったんだ」
「うふふ。秘密」
「…まあどうでもいいけどな」
「嘘。知りたいくせに。気になるんでしょお~~~」
「全く興味無い」
「おーい!ベジータ!おめえやっぱりベジータだろ!!」
ビュン!!
「さっむーーーーーーー!!」
「我慢しろ!声も出すな!」
「ベジーターー!おーーいベジーターーーー!なんで逃げるんだよベジーターー!」
ベジータアアアーーーーー!!
キントウンに乗った悟空が嬉々として叫びながら、後ろから追いかけてくる。ベジータは逃げた。白黒のペアルック、空中抱っこ、何もかも絶対に見られたくない姿だ。とにかく全速力で舞空した。
「おーいベジータ!オラだよオラ!オラだよーー!」
「…なにをわめいてやがるんだあいつは…詐欺みたいに…」
「寒い!凍死しちゃうわ!ベジータ!」
「ベジータ!!あそこのたこ焼きめっちゃくちゃうっめえぞーー!!オラが食いすぎて、粉無くなっちまってもう食えねえけどなーー!!あけましておめでとおおーーー!!今年もいっぺえ修行すっぞーーー!!おいベジーターー!!おめえ超サイヤ人になれたんかーーーー!?どうなんだーーー!?」
「黙れ!!死にやがれェーーーーーーー!!!!」
どーーーーーーーーーーーん
怒ったベジータは後ろ手で気弾を打った。そう…ベジータはまだ、超サイヤ人になれていないのだ。
「うおっとあぶねえ!!わはは!!やったなこのヤロー!!かめはめ波ーーーーーーーーー!!!」
「なっ!!何いーー!?」
「きゃあああああ!!」
ズアアアアアア!!!
……この時、悟空が放った最大級かめはめ波は、翌日の新聞の一面を飾ることになる。
『謎の巨大彗星現る!!』とかなんとか、天文系の見出しがついた。
ベジータが神宮に撒き散らした5ゼニー玉の件は、三面記事として扱われていた。
『神の仕業?悪魔の悪戯?これがホントのおとし玉』とかなんとか、割とチンケな見出しがついた。
「よ、よせ!!カカロット!!こっちには女がいるんだ!!ブルマが!!」
「ひいいい怖い~~!!」
「オラと組み手すっかベジーターーーー!!わははははは!!」
「ベジータ!今日の孫君、すっごく変だわ!!」
「……まさか……酒呑んでるんじゃないのか……あの野郎」
ベジータはそう言って、冷や汗を垂らした。
「サイヤ人の中には、酒を呑むと理性を失い、やたらめったら戦いたがる輩がいるんだ。『殺し酒』と言われる輩が…」
「そんな説明どうでもいいから早く逃げてェーー!!」
「お父さーーん!!」
その時、甲高い声が聞こえた。悟空の息子の悟飯が慌てて飛んできて、キントウンに追いついたのだ。
「お!悟飯じゃねえか!よーっし、おめえも一緒にベジータと戦うかーーー!!」
「お父さん、ごめんなさい!!」
悟飯は硬く握り合わせた両の拳を、悟空の脳天に思い切り打ち下ろした。バギャ!!と打撃音がして、悟空はものすごいスピードで地上に落ちていった。どかーーんと地鳴りが聞こえて、悟空が地面に直撃した事を認めると、悟飯は額の汗を拭って、ふうと一息ついた。 ブルマとベジータにしっかり向き合い、悟飯は頭を下げた。
「ベジータさん、ブルマさん、どうもすみませんでした。お父さん、甘酒を呑んだ途端にあんな風になっちゃって」
「ありがとう悟飯くーん、助かったわ~」
ブルマが礼を言うと、悟飯は「いいえ」と言って、顔を赤くして頭をかいた。
「あけましておめでとう、悟飯くん。今年もよろしくね」
「あ、はい、あけましておめでとうございます。あの、ベジータさんも…」
「馴れ馴れしく話しかけるな」
ベジータはブルマの体を少し持ち上げて盾のようにして、自身の姿を隠した。色違いのペアルックを見られるわけにはいかない。
「あっ、すみません…」
「もうベジータ!それは無いじゃないの!悟飯君は私達を守ってくれたのよ?」
「お前がいなけりゃあんな『殺し酒』、2秒とかからずに倒せた。あのタイプは酒が入ると防御ががら空きになるからな。だからこのガキでもぶっとばせたんだ」
「ごめんなさいね悟飯くん。こんな口の悪い奴で。悪く思わないでね」
「あ、いいえ、気にしてませんから」
モジモジしながら、悟飯は頭をかいて、ベジータとブルマをチラ見した。ブルマの髪の隙間から睨みつけていたベジータは、なかなか去らない悟飯に聞こえるように舌打ちする。
「…何をジロジロ見てやがる。とっとと失せろガキ」
「はい、じゃあ失礼します。あ、あのう…」
「なんだ!まだ何か用か!」
「いえあの、ベジータさんもブルマさんも、そのかわいい洋服、とってもお似合いだと思って」
どーーーーーーーーーーーん
ベジータの放った光弾が青い尾を引きながら地平の彼方へ飛んでいく。手ごたえは全く無かった。悟飯の気は、相変わらず元気なままで、地上のどこかに降りていることが分かる。頭から地面に食い込んでいるであろう悟空のもとに飛んで行ったに違いない。
「クソッ!逃げやがった…」
「なにしてんのよアンタ!悟飯君を殺す気ーー!?」
「あのガキ……ナメックの時よりもスピードがはるかに増してやがる……」
ベジータはわなわなと震えながら、歯を食いしばった。白と黒のペアルックを、あの子供にしっかりと目撃されてしまった悔しさで、血圧が一気に上がった。
もしも自分達のペアルックの件が関係者に知れ渡っていたら真っ先にあのガキを殺そうと、ベジータはこの時、強く心に決めたのだった。
腹を立てたベジータはブルマを抱えたまま、西の都に向かって飛び始めた。ブルマは寒がって地上の乗り物で移動したがったが、とにかく孫親子との遭遇で心底ムカついていたので、ベジータはブルマの言い分を無視して冬空を飛び続けた。
……
カプセルコーポレーションに到着して、玄関をくぐると、先程の神宮の人ごみの喧騒や、孫親子との馬鹿げたやりとりが全て嘘だったかのように、透明な静寂が耳をうった。
誰もいない。
ブルマの両親はずっと旅行に行ったきりだったし、ヤムチャとプーアルは今はカプセルコーポに住んでいない。ウーロンも、正月ぐらいは重力室の轟音に苛まれる事無く静かに過ごしたいと言って、12月半ばあたりから出て行ったきりだ。
「寒い!凍えちゃう!」
と、ブルマが叫んで静寂を破った。
「風呂に入れ」
ベジータは冷たく言い放つと、ブルマの背中をドンと押した。全く散々な年初めだ、とブツブツ文句を垂れながら、さっさと自室に歩いていく。すると、ブルマがベジータの背中に飛びかかってきた。
「お風呂なんて沸かしてる間に死んじゃうわよ!あんた、なんてスピードで飛ぶの!?もう信じられない!地球の女の体はデリケートなのよ!見てよこの体の震えを!」
「その場で駆け足してりゃ大丈夫だ。オレはもう寝る…」
「なんですってー!?ひいいい!寒い!手がシモヤケになっちゃうーー!」
「なにっ」
ブルマを払いのけて自室に向かって歩こうとしていたベジータが、急に振り向いた。
シモヤケという単語に、脳細胞が反応したのだ。
ベジータの脳裏に、次々と浮かぶ関連単語。
血行不良、炎症、硬い膨れ、角質層の亀裂による出血、あかぎれ 冬の季節病……
「それは駄目だ。シモヤケは駄目だ」
「え?」
「どうやったら予防できるんだ」
「え?えーーと……あっためて……マッサージ、とか?」
「貸せ」
苛立たしげに言い放ち、優しさのカケラもない仕草でブルマの手をひっつかみ、自分の掌の中におさめる。ブルマの手は、まるで氷のように冷え切っていた。ベジータが手を握っても、ブルマの方から握り返してくることは無かった。手がかじかんでしまって、動かせないのだ。
「熱い」
とブルマがびっくりしたように言って、それっきり黙り込んだ。照明のついていない暗い玄関フロアに、再び静寂が満ちて、視覚と聴覚に訴える刺激が減った分、ブルマの手の冷たい感触と、ブルマの纏う香水の香りばかりが際立って、晩秋の薔薇園の中に佇んでいるような錯覚を覚えた。
ブルマの静かな呼吸が香る。
「ありがと」
とブルマがポツリと言うと、薔薇のつぼみが一気にほどけて、閉じ込められていた香りがパッと発散される。暗闇と静寂とブルマの香りは、いつものカプセルコーポとは思えないほどの、不思議で魅惑的な空間を作り上げた。
「ベジータ好きよ。うふふふふふふ」
「……いい加減その笑い方をやめろ」
「本当は私の事愛してるのよね?言葉に出来ないだけで。私があんまりいい女だから、面と向かうと照れちゃうんでしょ?分かるわあ~~~~」
「何が“愛”だ気色悪い、ぶっとばすぞ。お前はオレの道具なんだよ。お前の手が使い物にならなくなるとオレの訓練に支障が出ちまう」
ブルマがスルリと手を離した。
薔薇が、一歩、二歩、とベジータから離れて、香りが逃げてゆき、花園も消えて、いつものカプセルコーポに戻ってしまった。
「……。なんだお前は、折角このオレが手当てしてやってるのに」
「私の手が使えなくたって大丈夫よ。あんたの望みはきっと叶うわ」
「なぜそんな事が分かるんだ」
「だって私、さっきの神宮で神様にお願いしたもの。“ベジータが強くなれますように”って」
外から、車が走り去る音がして、白いヘッドライトが一瞬窓からさしこみ、ブルマの瞳を照らし出した。見ると、ブルマは少し怒った眼をしていた。
「だから重力室の修理用“道具”なんかなくても、あんたは大丈夫なの。分かった?あーあ、あんたの言葉ですっかり気分が悪くなっちゃった。寝るわ、私」
「風呂入れよ」
「いやよ」
「そのまま寝たらシモヤケになるぞ」
「いいわよ別に。“道具”にだって正月休みが欲しいのよ、ちょうどいいわシモヤケになれて」
「貸せ」
「触らないでよ。気持ちのこもってない手当てなんか、全然嬉しくないわ」
プイとそっぽを向いて、ブルマは駆け出した。広い玄関フロアを、白いウサギが逃げていくように見えた。
瀟洒な薔薇の香りを纏った白いウサギは、細いヒールの音を鳴らしながら、暗いカプセルコーポの奥へ奥へと駆けてゆく。
「おい」と一声かけたが、ウサギは廊下の向こうの角を折れて、その白い姿を完全に隠してしまった。遠くの方からドアの閉じる音が響いてきた。部屋に閉じこもって、こちらをこまねくつもりだ。ベジータはブルマの誘いに舌打ちし、ため息混じりに「めんどくせえ」と呻くと、コートのポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩き出した。
部屋に向かう途中には浴室のドアがあり、給湯用パネルがオレンジ色に光っていたので歩きながら拳で叩きつけた。40度に設定された湯が、浴槽に供給されだす。
シモヤケは困る、とベジータは思った。
ブルマの指は、自分のものだからだ。
あのしなやかな白い指が、凍傷で硬く醜く腫れ上がる事など許せる訳がなかった。
「おい、風呂沸かしてやったから入れ」
「やだ」
ブルマの部屋の前まで来て、ドア越しに命じてみたが、ブルマはつっけんどんな調子で返してくる。ドアには鍵がかかっていた。ベジータはこともなげにドアノブをねじり、力任せに押した。メキメキと金属の折れる音と共にドアが開いて、部屋のベッドに座って拗ねていたブルマが「あーーー!」と抗議の声をあげた。
「あんたソレ何度目よ!何枚ドア壊したら気が済むのよ!」
「構わんだろ。お前ならすぐに直せる」
「私は修理ロボットじゃないのよ!馬鹿!出てって!」
ブルマが怒鳴って枕を投げつけてきた。
ベジータがそれを腕で跳ね返すと、壁にぶつかった衝撃で中の羽毛が大量に舞いあがった。
「私のお気に入りの枕ーー!!」とブルマが叫んだので、ベジータは呆れて「気にいってるならぞんざいに扱うな」と注意した。
部屋の中は暗かった。
ブルマが部屋の明かりをつけずに待ち構えていた理由を、ベジータは分かっている。これまでに幾度となく乞い、求め続けてきた言葉を、このウサギは今夜こそはと引き出そうとしている。互いの姿が闇に紛れていれば、引き出せると思っているのだ。
誰が言うか、とベジータは心の中で悪態をついた。なんと面倒な女なのかとうんざりしながら、またも逃げようとするブルマの手をすばやくひっつかむ。
「大事な物なら大事に扱うもんだろ、こうやって」
氷のような手を握りしめて、体温を分け与えてやる。今度は逃げないように、しっかりと握って束縛した。浴室の方から給湯完了のサインが鳴った。
ベジータは「行くぞ」と言って、ブルマの手を引っ張ったが、ブルマはイヤイヤをしてその場に足を踏ん張った。
「いいかげんにしろ」
「私神様にお願いしたわ。あんたの為にすっごい真剣にお願いしたのよ」
「強くなれるようにか?へっ!あんなエセ臭い神宮野郎に頼まなくとも、オレは強くなれるんだ。お前のこの手があればさらに効率よく」
「私、他にもいっぱいお願い事したわ」
「……、何だ言ってみろ」
ブルマが、ヒールのかかとをカーペットに食い込ませて、かたくなに踏ん張っている。ここは、言いたいことを全部言わせた方が話が早いような気がした。そうして溜飲を下げさせて、さっさと風呂に入らせようと思った。ウサギの体は冷え切っていて、さっきから震えっぱなしだ。
「ベジータが強くなれますように」
「それはもう聞いた。他だ」
「ベジータの人参嫌いが直りますように」
「……」
「ベジータが大怪我しませんように」
「余計なお世話だ」
「ベジータが私の事をずーっと愛し続けてくれますように」
「またそれかよ!」
「ベジータが死にませんように」
ブルマが呟いた言葉の端に、車のエンジン音が重なった。
また一台の車が、部屋の中にヘッドライトを差し入れて走り去ってゆく。白い光が窓のブラインドで薄く切られて、部屋に白黒の縞模様を作ったが、その白の一本がちょうどブルマの瞳を照らした瞬間に、どこかで見たものと瓜二つのような気がして、何だったかと思いだそうとしていると、
「ベジータが死にませんように」
とブルマが再びつぶやいた。
どこかで見て、その時は少し驚いたものだった。
全くこの地球という惑星は、ヒマな人間共が蟻のようにはびこっており、連中は呆れる程多様な文化と多様なガラクタを日々生み出しては、雑多な世界をますます雑多にし醜く劣化させているのだが、その中で極めて稀に、美しい物を造りだす人間もいるようで、そうだ、あれは確か、いつの日だったかブルマに半ば騙されてショッピングとかいうくだらない用事に付き合わされて、宝石店に引っ張りこまれた時。
「ベジータが死にませんように」
ベジータが記憶をたどる間も、ブルマはちっちゃく“お願い事”を繰り返した。死にませんように死にませんようにと、寒さで体が震えているから声まで一緒に震えていた。
なんという名の石だったか、忘れてしまった。
透明なショーケースの中で、計算された角度の照明に照らされて、計算された正確なカットを施されたその石の煌きが、泣きっ面の時のブルマの瞳によく似ていて、驚いたのだ。
「ベジータが死にませんように」
「……」
「ベジータが死にませんように」
「お前やっぱり同じ願い事を繰り返してたんじゃねえか」
「ベジータが死にませんように」
「無駄な願いだ。オレは死なん」
「ベジータが死にませんように」
「黙れよ」
再び部屋に白い光線が差し込んだ。
外のエンジン音は、先程よりも少し小さく、ヘッドライトの明度も若干落ちているように思えた。
そのためかライトに照らされたブルマの瞳は、輝きが失われた分暗く沈んで見えた。それでも、下まつげをコロンと滑りながら、新たな石がポロポロと生み出されていたから、また違った光彩を作り出していて、綺麗だった。
「オレが死ぬ訳ないだろ」
「わかんないわよそんな事。あんた重力室で何度も死にかけたじゃないの」
「あれはただ、不慣れだったからだ。もうあんなヘマはしない」
「あれはね、“ヘマ”じゃないの。“無茶”っていうのよ」
ブルマがぎゅっと手を握り返してきた。体温がうまく伝導したのか、ブルマの手には血が通って温かくなっていた。しかし体は相変わらず震え続けていた。
「もうやだ。失神したり、血吐いたり、骨折ったり、そんなのばっかり見せつけられて。その度に私がどれ程心配するかなんて、あんたわからないんでしょ。私、あの重力室、大嫌いよ。もう直すのヤダ」
「ああそうかよ。じゃあ訓練の場所を変える他無いな。またいつぞやの活火山の中に突っ込んでみるか…」
「ダメーーー!もうあんなヤケドを見るのはイヤーーー!」
「じゃあ直せよ。重力室」
「ヤダ!」
例えば、謝罪とか、感謝とか、ブルマに対する思いとか、慰めとか、同意とか、もろもろの事柄を全て言語に置き換えた所で、伝わるのはせいぜい、半分かそこらなのではないのだろうか。そして『まだ足りない』と言って、きっと、もっと沢山の種類の言葉をせがんできて、ブルマの求める言葉に完全一致するまで延々終わらない。
それは物凄く時間の無駄で、くだらないやり取りで、言う側も言われる側も、永遠に満足出来ないのではなかろうか。せいぜい口で伝える言語の不完全さを思い知って、もやもやしながら終わるだけだ。
ブルマの心に、小さな傷がたくさんついている。
図太いようでいて、繊細な部分も持っているのか、それとも自分の行動が余程危なっかしくて、さすがの高飛車令嬢も肝を潰すのか、よく分からないが、今ギャーギャーと喚かせているのはこの心の傷のせいだ。心の傷を、言葉だけでうまく直す奴も世の中にはいるらしいが、この言語に勝る言葉は無いのではないかと、ベジータは思う。
「死んじゃ、だめよ」
唇をはなすと、青い目をしたウサギは鳴いた。
ブラインドの隙間から、コバルトブルーが見える。黒ではなく、コバルトブルーだ。外は雪が降っているのかもしれない。白い雪が。
ベッドの上でウサギ色のコートを取っ払うと、「死んじゃ、だめ」と再び鳴いた。
「オレは死なん」
「しんじゃ、だ、め」
衣擦れの音がしばし続いた。
全部脱ぎ終えて服を床に投げると、厚い毛布を頭までかけて、空気を遮断した。中がみるみる薔薇で一杯になった。
「しんじゃ、しんじゃ、だめよ、しんじゃ…」
「死なんと言ってるだろ。それにお前、神に願ったから大丈夫って言ってただろ」
「かみさま、なんて、ひっ…、あてに、あてに、なるもんですか」
「言ってる事滅茶苦茶だな」
コートを脱がせても姿は白いままだから、相変わらずウサギだ。青い目をした風変わりなウサギが震え続けていたので、体温を分けてやろうと思い体中撫で回すと、「しんじゃだめ」とまた鳴いて、声高く喘ぎ出した。
濃密な薔薇で、むせかえるようだった。フラリ、と脳が回転するような眩暈を覚えて、心の隙間にふと疑問が湧いた。口で言葉を紡いだら、この女の心の傷の治りは早くなるのだろうか。
「オレが神になんて命じたか、お前分かるか」
「…う……あう……」
「オレはな、こう命じてやったんだ。『ブルマの願いをかなえろ』って、命じてやったんだ。だから、お前の願いは絶対に叶うんだ、このオレが命じたんだから間違いないだろ?今頃あの神宮野郎、他の客の願いなんぞそっちのけで、お前の願いが叶うように必死に仕事してやがるぜ」
「あーー……ああーーーー」
ブルマが急に力いっぱいしがみついてきて、甘ったるい声で、ベジータの耳元で、「すきよ、すきよ」と、言葉きれぎれに訴え出す。それを耳にするとベジータはなんだかムカムカしてきた。口から出す言葉の方が、効き目が高いというのか。この女は何も分かっていない、自分の事を好きだ愛してるといいながら、ちっとも分かっていないのだ。本当の言語はこちらなのだと教えるために、体に与える説教を強くした。
もう何も言ってやらん、と思った。「なにか、なにか、言って」とブルマが喘いだがベジータはそれきり何も言わなくなった。黙って、自分の言語をたたきこむ。ブルマの体に叩き込む。ブルマが物を言えなくなるまで。ブルマも同じ言語で返してくるまで教えてやらねばならない。躾というのは、非常に大事だ。
再び、外から車のエンジン音が聞こえた。微かな音だったから、雪はさらに積もっているのだろうと思った。静かなのは良い事だ。どんどん降って積もれば良いのだ。
晩秋の薔薇園だけが騒がしい。
音を境目に世界から切り離されて、二人の世界は完璧となる。
【終】
2011/1/1
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