side, She 「Mon loup」

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あなたとわたしは、共犯者。








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『He is like the sun rising in the eastern sky.』

 𖣔Self Fan fiction.
  side, She 「Mon loup」
 
  Episode:Partner in crime.



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 ことの始まりは、今日の午後。
 チーフから書庫にある過年度の会計書類を探して持ってきてほしいと頼まれ、滅多に人が立ち入らない薄暗い書庫の中でキャビネットとにらめっこをしていたときだった。
 保存期間満了を待つ膨大な量の公文書の中から特定のドッチファイルだけを探し当てるというのはかなり至難の業だ。わたしは書棚と書棚の間の非常に狭い通路でじわりじわりと横歩きをしながら、ひとり背伸びをしたり身を屈めたりしていたところだった。───そのせいで、書庫に現れた意外な客人に気づくことが出来なかった。


「なにしてんだ?」
「きゃあ!!」


 背後から聞こえた怪訝そうな声にわたしは情けない悲鳴をあげた。
 書庫の中は照明を点けてもどこか薄暗くじめっとしている。 普段はほとんど誰も足を踏み入れない場所だから、古い紙と埃のにおいが充満していて、お世辞にも快適な空間とは言えない。……だから、信じてしまっていた。チーフが言った「あの部屋、“出る”らしいよ」という、根も葉もない噂を。
 わたし霊感あったの!?とか、幽霊って結構フランクに話しかけてくるんだ!とか、地縛霊!?それとも浮遊霊!?とか、いろんな驚きや疑問が一気に押し寄せてきて頭の中が目まぐるしくなる。……大いに動揺したわたしはその場で咄嗟に立ち上がろうとした。そして、すぐ真上の書棚に盛大に頭を打ちつけることになったのである。
 ───ゴツンッ!!という鈍い音が、書庫中に響き渡った。


「あいた…!」
「おい、大丈夫か!?」


 なぜか幽霊の声も慌てていた。さらに、こちらに向かって駆け寄ってくる足音まで聞こえてくる。……おかしい。幽霊に足はないはずなのに。───ということはまさか、幽霊ではないということだろうか? 確かに、どこか聞き覚えがある声のような気もしなくはないのだが。
 狭い通路の真ん中にしゃがみ込み、強かに打ちつけた箇所を両手で押さえていたわたしは、気遣わしげに肩に置かれた大きな手のぬくもりとよく知る柔軟剤の香りにはっとなって顔を上げた。幽霊の正体がわかったからだった。


「怪我はねぇか?」
「……あ、アズマさん、」


 スカイグレーの瞳に呆けた顔の自分が映っている。
 恋人の緊急事態を察知しすばやく駆けつけてくれたアズマさんは、わたしの傍らに片膝をつくような体勢になるとひどく心配そうな面持ちでこちらの顔を覗き込む。たったそれだけでわたしの視界はアズマさんでいっぱいになった。
 書庫の通路は小柄なわたしでも充分狭いと感じるくらいの横幅しかない。そのため、体格のいいアズマさんは自ずと自分の体で通路を全面封鎖しているかのような状況を作り出してしまうのだ。ほんの少し身動ぎすれば肩が書棚にぶつかるくらい窮屈だから、居心地は最悪のはずだ。
 それでもアズマさんはそんなことは一切気にもとめずにわたしの身の安全を最優先に気遣ってくれる。どんな状況であろうと、変わらずに。
 そしてわたしは、この人のそういうところを愛おしいと思わずにはいられなかった。
 大きな手に頭をそっと撫でられる。怪我をしていないか確認されているのだと察し、ひとまず大人しくされるがままになっていると、少ししてからアズマさんがほっと息を吐く気配がした。続いて、わずかな安堵を含んだ低い声が上から降ってくる。


「ひとまず無事みてぇだな。」
「す、すみません!お騒がせしてしまって…!」
「怪我がなけりゃそれでいい。」
「ありがとうございます…。」


 相も変わらずそそっかしい自分が恥ずかしくなり、書棚とアズマさんの間ですごすごと俯く。もじもじしていると慰めるみたいにまた頭を撫でられた。そのぬくもりは心地よいが、今は完全に追い討ちである。彼の前では可愛くてしなやかな女性でいたいのに、どういうわけかいつもおっちょこちょいな小型犬のような有様になってしまうのだ。
 わたしが人知れず落ち込んでいると、突然アズマさんが「…っと、悪い。」と身動いだ。見ると、通路の床に腰を落ち着けるようにして座り、胡座をかいている。二人の目線が同じくらいの高さになった。


「で、なにしてんだ?」


 アズマさんは改めて不思議そうに首を傾げてみせた。
 確かに、事情を知らない彼からすればわたしがなぜこのような人気のない場所にひとりでいるのか疑問に思うのは当然のことだろう。
 けれどもそれはわたしとて同じだった。捜査一課所属の彼が総務課の書庫に姿を見せるとは珍しい。というかほぼ有り得ない事態といえる。アズマさんは刑事だ。その職務は殺人等の凶悪犯罪事件の捜査であって、会計書類の数字をチェックすることではないはずである。
 しかし、質問を質問で返すのは失礼というものだ。なのでひとまず先に彼の疑問を解消してあげることにした。


「書類を探していたんです。」
「書類?」
「はい。過年度の会計書類をいくつか探して持ってきてほしいとチーフに頼まれました。」
「ああ…それで。」


 彼は合点がいったと言いたげに頷いた。ここが公文書の保管庫であるということは承知していたらしく、棚に並んだ無数のドッチファイルを見遣ると「そいつはかなり骨が折れるな。」と面倒臭そうに溜息を漏らす。……ただ、わたしに言わせれば、目撃者の証言や証拠物から事件の真相を詳らかにしていく作業の方がよほど骨が折れると思うのだけれど。
 ご自身が難しい仕事をこなしているという自覚がまるでないらしいアズマさんを見ていると、なぜかとても誇らしい気持ちになった。口角がひとりでに上へ上へと上がってゆくので、気づかれないようにと顔を俯かせる。すると、すかさずアズマさんが心配そうに覗き込んできた。


「どうした?」
「ううん。なんでもありません。」
「……どこか痛むのか?」
「ふふ、大丈夫ですよ。」
「…なら、いいけど。」
「アズマさんったら、心配性ですね。」
「当たり前だろうが。あれだけ強く打ったんだ。……すげぇ音してたぞ。」
「えへへ。」
「えへへじゃねぇよ…。」


 にこにこと暢気に笑うわたしにアズマさんは頭を抱えていた。彼を心配させてしまったのは大変申し訳ないことなのだが、それはそれとして、いつでも冷静なアズマさんがこうしてわたしに振り回されて一喜一憂する姿を見られるのは特別感があってちょっと嬉しい。 打ちつけた頭はもしかしたらたんこぶになるかもしれないが、これなら怪我の功名というものだ。
 得意げになるあまりひとりでまにましていると、またもアズマさんから怪訝な視線を向けられた。敏い彼に下心を読まれてはたまらないので、なんとか誤魔化すべく今度はこちらから質問を投げかけることにする。


「そ、そういえば、アズマさんこそなぜこんなところに?」
「……いつも閉まってるはずの部屋が開いてたら、怪しむに決まってんだろ。」
「な、なるほど。」


 そうだった。薄暗い部屋に怖気づいてしまい敢えて扉を開けたまま作業をしていたんだった。それもこれもすべてはチーフが言ったあの根も葉もない噂のせいである。こうなったらアズマさんに頼んで厳しく事情聴取をしてもらうしかない。不確かな情報をいたずらに流布して人を脅かすという行為は悪質だ。なにがしかの罪に問うべきである。
 一切合切を上司のせいにしたいわたしの悪巧みに自分が巻き込まれそうになっているなど知る由もないアズマさんは、薄暗い書庫を改めえぐるりと見回したあと、わずかばかり声を低めてこう言った。


「ここはほとんど人が寄り付かねぇからな。中で物音がしてりゃ誰だって不審に思うぜ。……こういう場所にこもってコソコソ悪さをしてる奴もいやがるし。」
「……そう、なんですね。」


 彼の話はやけに信憑性があった。
 わたし自身は不正を働く職員を目撃したことはないが、アズマさんはそういう人とも実際に関わったことがあるのかもしれない。……もしかしたら、同僚や上司の方がそういうことに関与していて懲戒処分になったり、ともすればご自身も誘われたりした経験がおありなのだろうか。(彼が与していたとは思えないが。)
 書庫のドアがちょっと開いていたくらいでこれほど警戒しないといけないなんて、刑事とはつくづく気を抜くことの許されない大変な職務なのだなと改めて思い知った。
 きちんとドアを閉めて作業していればアズマさんの手を煩わせることもなかったのに。……しかも挙句の果てには幽霊だと勘違いまでしてしまう始末だ。
 わたしはいたく反省し、今一度彼に丁寧な謝罪をした。


「このたびは、ご心配をおかけしてすみませんでした…。」
「別にいい。」


 アズマさんはなんでもないことのようにさらりと答えてくれた。それどころか、わずかに肩を竦めて「仕事の邪魔して悪かったな。」と笑いながら口にする。わたしは慌てて首を横に振った。


「そ、そんな…! わたしは、アズマさんが来てくださって嬉しかったです!」
「…嬉しい?」
「はい…!」
「……なんで?」


 彼はきょとんと目を丸めた。
 まるでウルフドッグの子犬が飼い主の声を一生懸命聞き取ろうとして首を傾げているみたいだった。こんな何気ない仕草ですら愛おしくてたまらない。
 わたしはここが職場であることを棚に上げ、鬣のような金色の髪をよしよしと撫でた。アズマさんは嫌がらない。気持ちよさそうに目を細め、わたしがしたいようにさせてくれている。それが嬉しくてさらに笑みがこぼれた。


「実は……幽霊が出るって聞いて、ちょっと怖かったんです。」
「幽霊?」
「はい。チーフに脅かされてしまって。」
「…なるほどな。だからあんなに驚いてたってわけか。」
「そうなんです!」
「つまんねぇな。」
「ええっ!?」


 目をすがめ、なにやら不満気な顔でこちらを見下ろしてくるアズマさんにわたしは慌てふためいた。……つ、『つまらない』とはどういう意味だろうか。なにか彼の意にそぐわないことを口走ってしまったのだろうか?
 突然ご機嫌ななめになってしまったアズマさんの心中をなんとかして察そうと、わたしは一生懸命彼に向かって話しかけてみる。


「あ、アズマさん?どうしてつまらないのですか? もしかして、もっと面白いことを言うべきだったのでしょうか?お笑いはあまり得意ではないのですが、少し時間を頂ければ渾身の一発芸をご披露しま、」
「そういうことではない。」
「ええっ!?」


 渾身の一発芸どころか代わり映えのしないリアクションを二度も披露してしまった。お笑いの才能もセンスも皆無なわたしの致命的な返しにアズマさんは怖いくらい真剣な眼差しを向けながら「というか、オマエはすでに面白い」と褒め言葉なのかフォローなのかよくわからない一言を口にする。……どうやら、アズマさんの笑いのセンスもわたしと同等レベルのようだ。二人揃って救いようがない。
 わたしはひっそり絶望していたが、対するアズマさんはどこかいじけたような顔でわたしを見つめ、それからあざとい笑みを浮かべた。


「オレは、オマエを見つけてちょっと浮かれたんだけど。」
「…………えっ、」
「オマエは、違うのか?」
「……あ、えと、」
「オレに会えて、嬉しくねぇの?」
「……っ、」
「なぁ、……言えよ。」
「…う、嬉しい ……です、」


 いつの間にか狭い通路にふたりで向きあい見つめあっていた。もし誰かに見られてしまったら申し開きは出来ない危ういシチュエーションだ。……そんなひどく後ろめたい状況がさらにわたし達の心を強く引き寄せあう。離れたくない、もう少しだけこの人の傍にいたいと、正直にさせる。


「だって、ここでは滅多に会えないから。……アズマさん、いつも忙しそうだもの。わたしのことなんて、考える暇もないのかもって、思ってしまいます。」
「そんなわけねぇだろ。」
「…ほんとう?」
「ああ。……オマエに会いたくてたまんねぇよ。」


 切なげな声とともに逞しい腕がわたしの腰に巻きつけられた。そのままぐっと強い力で引き寄せられ、両方ともが膝立ちになる。……息つくまもなく、二人の距離が縮まった。
 わたしは目の前の精悍な顔をうっとりと見つめ、それから彼の引き締まった腰に両腕をまわしてきゅうっと抱き締めた。するとその抱擁に応えるかのように彼が身を寄せ、わたしの脚の間に自らの太腿を強引に割り込ませる。……あっという間に身動きがとれなくなってしまった。


「っ、アズマさん、……だめ、」
「オマエが先に煽ったんだろ…?」
「……だって、」
「そんな目でオレを見やがって。……悪い女だ。」


 引き剥がせないくらい強い力だった。狼の双眸が目前で鋭い光を放っている。───そこで初めて、自分の上半身が彼によって書棚に押しつけられていることに気づいた。咄嗟に彼の胸に手を這わせるとそのまま手首ごと絡め取られ、棚に縫いとめられてしまう。


「……ぁ…っ、」


 もう、どこにも逃げられない。……どうしよう。こんなところ、誰かに見られてしまったら───…!
 わたしの頭の中は緊張感と背徳感とでしっちゃかめっちゃかになった。真っ赤になって恥じらい、目を瞑りながらも、心のどこかではアズマさんに期待してしまっている。唇をわずかに開いて、彼がそこに荒々しく食らいつく瞬間を待ち焦がれている。───このままなにもかも忘れて、めちゃくちゃにされたいと、求めている。






「───ここまでだ。」






 ふいに彼の気配が遠ざかった。
 おそるおそる目を開けると、わたしからわずかに距離を置いたアズマさんがいつもより余裕のない笑みを浮かべていた。


「ここで悪事を働くわけにはいかねぇからな。」
「……あ、」


 その言葉ではっと我に返る。ここが職場だということも、弁えるべき自分の立場も、……今の今までわたし達がなにをしようとしていたのかも、なにもかもを思い出して心臓が爆発しそうになった。
 なんということだ。職場の、しかも人気のない物陰で、恋人と二人きりになってはしたなく彼を求めるだなんて。わたしはいつの間にこんな不埒な女になってしまったのだろう。もはや恥ずかしいやら情けないやらで、出来ることならこの公文書の山に埋もれてしまいたい。今すぐに。


「……もしかして、期待した?」
「し、しししししてません!!」
「ハハッ、そうかよ。」
「…あ、アズマさんのいじわる…!」
「悪かったって。」
 

 軽やかにそう言うアズマさんは一ミリも反省していなさそうだった。自宅のリビングかのように床に胡座をかいてリラックスしている。そしてこともあろうにわたしの頭へおもむろに手を伸ばすと、大きな手でそこをわしゃわしゃと掻き回したのだ。探し物をするからと思い後ろで一つに結んでいたのだが、まるで寝起きのパピヨンみたいになってしまった。
 意地悪な恋人に不服を訴えるべく、わたしはぷくりと頬を膨らまし抗議の眼差しでアズマさんを見上げた。


「どうした?」
「……髪の毛がぐしゃぐしゃになってしまいました。」
「そうか?」
「そうです!見てください!」
「さっきからずっと見てるぜ。」
「そ、そういうことではありません〜!」
「…ハハッ!」


 しかしアズマさんはまったく悪びれない。それどころか楽しそうに笑っている。母親の尻尾に戯れて遊ぶ子どもの狼のようだ。
 彼は強くて優しいけれど、機嫌がいいとたまにこうして小学生みたいな悪戯を仕掛けてくることがある。捜査資料を読み込んでいるときや容疑者の事情聴取を終えた直後に見せるちょっと怖い雰囲気とは真逆の、無邪気であどけない一面。付き合ったばかりの頃は意外に思ったけれど、今は違う。───きっと、アズマさんは本来こういう人なのだ。心を許した相手には思う存分甘えて、憎めない我儘を言う、愛嬌のある人。
 だから憎めない。どんな悪戯も、意地悪も、つい許してしまいたくなる。こんな油断しきった顔が見られるのは、きっと世界でわたしだけだと思うから。
 ふいに彼の手がぐしゃぐしゃになったわたしの髪を包んだ。その手つきがあまりに優しく、愛おしむみたいに撫でるものだから、わたしの鼓動はまたひとりでに高鳴って、胸の奥がきゅんと甘く締めつけられる。アズマさんに気づかれないようにとひそかに息を詰めたそのとき、ふたたび目の前で彼の気配が動いた。



「───じゃあ、次はオレに期待させて。」



 耳もとに顔を寄せられ、低い声で囁かれる。そしてそのまま耳朶をかるく甘噛みされた。
 首から上が一気に熱を帯びる。驚きやら恥ずかしさやら切なさやら恋しさやら、とにかくありとあらゆる感情が波のように押し寄せてくる。先ほどの比ではないくらいに。まさか彼が職場でこんな大胆な悪戯を仕掛けてこようとは夢にも思わなかったから、わたしは彼をどうやって窘めたらいいのかもわからぬままただただ赤面し、目を白黒させながらぱくぱくと口を開け閉めするしかない。
 それでもアズマさんは冷静だった。今度は笑って揶揄うこともしなかった。ふっと息を吐くように穏やかな微笑みを湛えると、いつもよりいくらか眦が下がった瞼をゆっくりと伏せ、わたしの首筋に唇を寄せる。


「家に連れて帰りたい。……今すぐ。」
「…あ、」
「そうすればオレだけのものだ。誰にも見られずに、オマエを好きにできる。めちゃくちゃにできる。…そうだろ?」
「っ、…ん、ぁ…っ」


 甘ったるく掠れた声。熱を孕む吐息。やわい肌をなぞる尖った犬歯。───彼がその気になった証拠だ。これでは子どもどころかお腹を空かせた悪い狼である。悪事は働けないと言ったそばからこんなことをするなんて。


「クソ、…可愛い……。今すぐ食っちまいてぇ…ッ、」
「……ぁ、アズマ…さん、」


 衣服がはだけたその下、薄く浮き出た鎖骨に歯を立てられ、体の奥がぞくりと甘く疼く。痕がついていないかだけが気がかりだったけれど、そんなことを確認している余裕なんて今はもうどこにもない。首筋には分厚い舌が這い、浅く荒い呼吸が訴えてくる。───欲しい、と。
 アズマさんが我を失いかけている。刑事として常に理性を失わず冷静でいようとつとめ、精神を鍛えている彼が、前後不覚に陥ろうとしている。
 わたしが止めなければならない。ここにはわたしと彼の二人しかいないのだから、わたしが受け入れてしまったら彼は本当に悪い狼に成り果ててしまう。
 ……それなのに。

 


「なぁ…キスしていい?」




 そんな顔をされたら、わたしはこの人を拒めない。
 アズマさんは自らの腕の檻にわたしを閉じ込め、鼻先が触れあうほどの至近距離まで近づくと、ひどく切なげな声でわたしにそう許しを乞うた。口調だけなら強請っているようにも思えるけれど、彼の声色はどこか自罰的な響きを孕んでいる。……果たしてそれは職務中にふしだらな行為に及んでいることへの罪悪感からくるものか、或いは己を律することの出来ない自分への嫌悪感によるものか。
 ともすれば、その両方か。
 そうやってわたしに許されようとする彼の姿はあまりに背徳的で、甘美だ。だから拒絶出来ない。
 

「人に……見られちゃう、」
「扉ならさっき閉めた。……中に人がいるなんて、外からはわからねぇよ。」
「……で、でも、」
「一回だけ。……それ以上は、なにもしねぇから、」
「……っ、」
「なぁ、……おねがい、」


 後頭部に手が回される。腰を抱く腕の力が強まる。体が密着し、服越しに触れる彼の体温がわたし達から境界線を取り払おうとし始める。かるく食んだ下唇を味わうように舐めた舌は血に染まったように赤く、官能的で。



「……オレの、共犯者になってくれ。」



 同じ罪に誘う文句のあと、その舌がゆっくりとわたしの口の中に割り入ってきた。ざらりとした感触に粘膜をなぞられ、まさぐられる。知らない生き物が蠢いているみたいでいまだに慣れないけれど、キスの最中に彼が漏らすくぐもった声と、口内で絡みあった舌先をちゅうっと吸われるのはたまらなく好きだった。


「…………ん、 ぁ…っ」
「……は、 …ンン、」


 口づける角度を変えて、何度も何度も求められる。
 一方的に食い散らかすようなキスの最中、ふいに後頭部に回された彼の手がわずかに下におりる気配がした。かと思った次の瞬間には、髪を結んでいたヘアゴムが音もなく解かれてしまう。あっと思う暇もなく、アズマさんの太い指が余裕のない手つきでわたしの髪を梳いた。何度も、何度も。手触りを確かめるみたいに。
 やがて、あわさっていた唇がゆっくりと離れてゆく。


「……アズマ、さ…、」


 言いかけて、息を呑んだ。
 彼が、わたしだけを見据えていたから。
 欲深さを隠しもしない、スカイグレーの瞳で。



「……オレが、なんで心配性なのかわかるか?」



 書庫の照明が彼の瞳孔に仄暗い光を宿す。



「もし、ここでオマエを見つけたのがオレじゃなかったら、 ……オマエが、オレじゃない男に、こうされるって、……想像したら、」



 掴まれた手首が少し痛い。けれども怖くはなかった。



「───気が、狂いそうだからだ、」



 わたしを求めるあまり力の加減さえ忘れてしまうくらい我を失ったアズマさんに、ただただ背徳感を覚えていたから。
 


「……悪い、こんな場所で、」



 欲望をこらえるみたいに息を吐いた彼は、途端にしゅんと眉を引き下げてわたしに謝った。悪い狼から捨てられそうな子犬のような表情になってこちらをじっと見つめてくる。このあざとさで無自覚だというのだから、本当にずるい人だと思う。……まぁ、この人を咎められないわたしも大概だとは思うけれど。
 だって、こんな場所で『悪事』を働いた彼のことを結局は許してしまうのだから。


「アズマさん、あやまらないで。」
「……嫌だった?」
「ううん。」


 首を振って微笑むと、アズマさんも少しだけほっとしたように眦を綻ばせる。その瞳にはまだわずかに欲望の名残があるけれど、きっとじきに落ち着きを取り戻すはずだ。捕らわれていた手首もいつの間にか解放されている。腰を抱き寄せる手はそのままだけれど、まだ彼に離れてほしくないからなにも言わずに黙っておくことにした。
 ……こういうことをするから、彼を“煽って”しまうのかもしれない。


「そろそろ、仕事に戻らないといけませんね。」
「……そうだな。」
「離れたくない?」
「…ああ。」
「ふふ。わたしもです。」
「ッ、……おまえ…、」


 アズマさんがたまらないというように声をもらす。
 やっと理性を取り戻した狼をこれ以上揺さぶってはいけない。……共犯どころか、取り返しのつかない過ちを犯すことになってしまう。傍にいたいのはやまやまだが、もうじきタイムリミットだ。お互いの同僚や上司に怪しまれる前に、自らの持ち場に戻らなければ。



「ごめんなさい。……わたし、悪い女だから、」



 厚い胸板をそっと押し返し、大きな体を引き離す。
 そうしながら上目遣いで見上げて、期待を抱かせるような思わせぶりな真似をする。
 だって、待っているから。この『悪事』の続きを。
 彼と、もう一度共犯になることを。




「……今夜は、一緒にいたいです。」




 悪びれることなくそう言ったわたしの唇をアズマさんはもの欲しそうな眼差しで見下ろしていた。
 そして、低く甘ったるい声で「……言われなくてもそのつもりだ。」と囁いたのだった。







 ───わたしの自宅か、はたまた彼の家か。
 犯行現場については、成り行きに任せることにしよう。








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