side, He 「Étoile d’espoir」

愛とは執着であり、苦しみである。
だからもっと、オレを苦しめてくれ。
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『He is like the sun rising in the eastern sky.』
𖣔Self Fan fiction.
side, He 「Étoile d’espoir」
Episode:Étoile d’espoir.
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玄関を開けるとすぐ美味そうな匂いが漂ってきた。
明るく灯された照明は、オレがもうじき帰宅することを見込んで敢えてつけっぱなしにされているのだろう。
単身で暮らしていた頃とは違う。今のオレには、自分の帰りを待っていてくれる人がいる。調書の作成と捜査資料の読み込みで疲弊しきった両眼に優しく沁みるあたたかい光が、そのことを実感させてくれた。
「ただいま。」
思わずこぼれた挨拶も彼女と暮らし始めてから口にするようになった。
家に人がいるなんて本当に久しぶりだったから、最初の頃は特になにも言わず黙って帰宅していたのだが、あるとき彼女をひどく驚かせてしまったことがあった。ご機嫌に鼻歌を歌いながらキッチンで夕飯を作っていた彼女は───普段から少しばかり不用心なところがあるのだが───オレが帰って来たことにまったく気づかなかったらしい。いつの間にかリビングに立っていたオレの姿に大層驚き「きゃあ!!」と悲鳴を上げて飛び上がっていた。あの様子だとちょっと宙に浮いていたと思う。漫画のキャラクターみたいなコミカルな反応が面白くて、オレはつい笑ってしまった。
……まぁ、『今日は遅くなる』と連絡を寄越してきた男が予定より一時間も早く帰って来た挙句、挨拶もなく黙って突っ立っていたら飛び上がるのも無理はないが。
恋人に笑われたことを恥じらいつつ「帰ったらちゃんと『ただいま』って言ってほしいです…!」と上目遣いで要求してきた彼女があまりにあざとく、オレは言い訳も反論もせずすぐさま「わかった。」と頷き返していた。かつては『孤狼』と恐れられ、本部にいた頃には『暴対の狂犬』とまで呼ばれたこのオレが、彼女の前では厳しい訓練を受けた警察犬すら舌を巻くほどの『忠犬』になってしまうとは、女とはかくも恐ろしい生き物である。
「───おかえりなさい。」
リビングへと続くドアが開き、彼女が現れた。
夕飯の準備は済んだのだろうか、いつも使っているエプロンは身につけていない。料理中は必ず頭の後ろで結んで一つにまとめている髪も下ろされたままだ。
オレは誘われるように彼女の傍へ歩み寄った。ふわりと発光するような微笑みとともにしなやかな手がこちらへと伸ばされ、オレの頬を包み込む。
……嗚呼、心地いい。
無意識のうちに顔を擦り寄せていた。彼女にこうされるとつい気が緩んで、小さな子どもみたいに甘えたくなってしまうのだ。三十路も過ぎた大人がみっともないとは思うのだけれど、どうしてもやめられなかった。彼女の前ではオレはただの男になる。
「ねぇ、アズマさん。」
「ん?」
華奢な体を抱き寄せようと腕を回しかけたとき、彼女の目がまっすぐこちらを見据えていることに気づいてはたと動きを止める。……なにか真剣な話でもあるのだろうか。とは言え彼女はときに真面目な顔をして素っ頓狂なことを口走るから気が抜けないのだが。
「どうした?」
遠慮せずなんでも言えばいいと声色で暗に伝える。
彼女は優しい。いつだって自分ではなく、オレのことを真っ先に気遣おうとする。性格はおおらかだし、傍から見ていて少し無防備だと思うところもあるけれど、それでも繊細な部分だってちゃんとある。
付き合い始めたばかりの頃にオレが再々心配をかけたせいもあってか、些細な異変にもすぐ気がついてオレの身を案じてくれるのだ。オレが刑事という危険な職業についているからでもあるのだろうが、これは所謂女特有の第六感───『女の勘』というものに違いない。体調不良を黙っていてもなぜか見抜かれるし、怪我を誤魔化すなんてもっての外だった。
しかし、それでも彼女はオレを信じてくれている。首にかけたこのドッグタグがその証拠だ。
オレは誓った。このタグに刻印された彼女の名の下に。
必ず、この人のもとへ帰って来ると。
「アズマさん。」
なだらかな瞼が瞬きをする。彼女の瞳が照明を反射してほんの一瞬だけきらめく。
星が瞬いているみたいだと思った、そのときだった。
「……どうして黙っていたんですか? ───お父さまを、殺しかけたこと。」
静まり返った廊下に彼女の言葉が響く。
曇りひとつない眼差しはまるで刃のようだった。
「ずっと言わずにいるつもりだったんですか?」
「…………、」
「本当のことを隠したまま、わたしの傍にいるつもりだったの?」
オレはなにも答えられない。呼吸も瞬きも忘れ、壊れた操り人形のように彼女の前に立ち尽くしている。
「そうやって裏切って、傷つけるんですね。ご家族も、……わたしのことも。 悲しませないって、約束したのに。」
彼女がオレから目を背けた。冷や汗が背筋を伝う。
違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。
やめてくれ。……オレを、オレをちゃんと見てくれ。
「アズマさんの嘘つき。」
あの男と同じ目をしていた。約束を守れなかったオレを軽蔑する目。───『役立たず』だと罵る、親父の目。
違う。彼女は親父とは違う。親父みたいにオレを殴ったりしない。痛めつけたりしない。詰ったりしない。彼女はオレを愛してくれる。許してくれる。
「どうしてなにも言ってくれないの?」
彼女がオレに問う。
ひどく平坦な声だった。そこにはなんの感情もありはない。……愛も、情も、優しさも。
ふいに頭の奥が疼いた。よく知る感覚だった。
忘れていた。自分がずっとこの痛みとともに生きてきたことを。彼女と過ごすうちいつの間にか収まったと思っていたけれど、違ったらしい。
嗚呼、オレは弱い。……昔も、今も。
彼女の愛を失うことを恐れて、我を失いかけているのだから。
「………悪、かった、」
彼女に手を伸ばしかけて、やめる。
拒絶されることが怖いんじゃない。
親父を殺しかけた手で彼女に触れることを後ろめたいと感じたからだ。縋るものを失った手は虚空を掴み、力なく垂れ下がる。指先は緊張のあまり震えていた。
あのときみたいだ。初めて親父に殴られたとき。
ただただ混乱していて、怖くて、どうしてこうなったのかさえわからぬまま声を殺して痛みに耐えるしかなかったあの頃と同じ。
上手く息が出来ない。喉が渇く。頭痛がどんどんひどくなってゆく。
ろくに回らない頭で必死に考えた。彼女を繋ぎとめるための、みっともない言い訳を。
「いつか、ちゃんと話すつもりだった。……けど、オマエが離れていくかもしれねぇと思って、……怖くて、言えなかった。………ごめん、オレが弱いせいで、オマエを信じられなかった。」
彼女はなにも答えない。
「けど、……オレは、オマエを裏切ったりしない。傷つけたりしない。約束する。………オマエが望むものはすべて差し出す、……ちゃんと、オマエの役に立つから。」
光を失った瞳にオレの
「オレのことが許せないんなら、気が済むまで罰していい。支配していい。……親父がしたみたいに、殴って、痛めつけて、苦しめていいから、───だからッ、」
なぁ、お願いだから、なにか言ってくれよ。
非難でも罵倒でもなんでもいいから。
「…………オレを、捨てないでくれ、」
───ちゃんと、『オレ』を見てくれ。
オレが聞くに絶えない釈明を垂れ流している間、彼女は一言も言葉を発することなく沈黙を保ち続けていた。……しかしおもむろに腕を上げ、壁に向かって手を伸ばしたかと思うと、その先にあるスイッチを指先で押し込み廊下の照明をすべて落としてしまった。
玄関が一気に薄闇に包まれる。リビングの明かりが逆行となって彼女の表情を覆い隠す。廊下には緊張したオレの鼓動だけがどくどくと響いていた。
「………アズマさん。」
やっと名前を呼ばれた。照明を落とした彼女の手がゆっくりとこちらに伸びてくる。オレは安堵のあまり息を詰め、彼女のぬくもりにふたたび身を委ねようとした。
そのときだった。
ばちんっ、という破裂音とともに横っ面に強烈な痛みが走った。頬がびりびりと熱く痺れる。咄嗟に受け身を取る余裕すらなかったせいで体が大きくよろめき、その弾みで思わず床に片膝をつき跪いてしまった。すると今度は髪を鷲掴みにされ、無理矢理上を向かされる。
こちらを見下ろす彼女は、笑っていた。
「痛いですか?」
───彼女に殴られたのだと、ようやく理解した。
歌うような声が無邪気に問いかけてくる。まるで悪魔を討伐する天使のようだ。……思わず彼女の名前を呼びたくなって口を開きかけたけれど、次の瞬間、凄まじい腕力によって玄関の壁に頭部を叩きつけられたことで会話どころではなくなってしまう。
「ッ゛!!」
激痛とともにぐわんと視界が歪んだ。どうやら脳震盪を起こしたらしい。たまらず意識が飛びかけたけれど、ふたたび同じ衝撃に襲われもはや失神することさえ叶わなかった。しかも今度は壁ではなく、シューズボックスの角めがけて容赦なく打ちつけられる。
「ッ、……ぁ、」
ぼやけた視界のままふいに足元へ視線を落とした。
フローリングに赤いまだら模様が見える。───血だ。ぶつけた箇所におそるおそる指を這わせると、肉が抉れた感触とともにぬるりと生あたたかいものに触れた。指と衣服が赤く染まっている。……皮膚が裂けて出血していた。
傷の場所は、左の眉尻。
親父につけられた傷痕と同じところだった。
「フローリングが汚れてしまいました。」
「……悪い。あとで、オレが、……拭くから、」
「ええ、そうしてください。」
「オマエは? 手、汚してねぇか…?」
「はい。」
「そうか。……なら、よかった。」
オレは血に塗れたまま安堵していた。
怒りは感じない。先ほどまで頭を支配していた恐怖さえ、もうどこかへ消えてしまった。
彼女の手を汚しちゃいけない。今はただそのことだけを考えていた。彼女は清らかでいるべきだ。汚れを引き受けるのは自分だけでいい。そう思った。
けれども彼女は甘い冷酷さを孕んだ声でオレを容赦なく突き放す。
「なにがよかったんですか? わたしにこんなことをさせたくせに。」
その言葉に、心臓が止まりそうになった。
声も出せぬまま彼女を見上げ、またもや言い訳を探そうとするけれど、混乱しきった頭ではなにも思い浮かばない。浅い呼吸を繰り返すことしか出来ない哀れなオレを彼女が軽蔑の眼差しで刺し抜く。
「わたしに汚れてほしかった? 堕ちるところまで堕ちて、一緒に苦しんでほしい? あなたの望みは、わたしがお父さまと同じになること?」
「………ち、ちがう、」
「わたしに、あなたと同じ犯罪者になってほしいの?」
「違う!そうじゃない!!」
引き摺るように頭を振り、彼女の言葉を否定した。大声で喚いたせいで頭の奥が激しく痛む。眩暈もさらにひどくなった。 ……駄目だ、彼女の前でこれ以上取り乱すわけにはいかない。ちゃんと冷静になって、自分の役目を果たさないと。そうしなければ、役立たずになってしまう。
オレは深く息を吐くと、引き攣る喉の奥からどうにかして言葉を捻り出そうと試みた。
「……お オレ、は、オマエに、 ……償い を、」
「なにを償うんですか?」
「オマエに、 ……黙ってた、 親父のことを、だから、」
「それで許してもらえると思うの?」
彼女が花のように笑む。しなやかな手がオレの頬を包み込む。……いつものぬくもりを感じなかった。冷たい陶器みたいだ。それなのに、振り払えない。
彼女がオレを見ている。笑っている。
その眼差しがたとえ軽蔑の色に染まっていようとも、彼女の瞳がオレだけを映してくれるだけでひどく安堵する。壊れた心が束の間の喜びを得られる。
そうやって、ずっとオレを見ていてほしい。
愛じゃなくていい。憎悪でも憐憫でも、なんでもかまわないから、どうかオレから目を背けないでほしい。
「…………ちがう、」
許してほしいわけじゃない。ただオマエから必要とされたい。怖くてたまらないんだ。オマエから「役に立たない」と見放されることが。
「じゃあ、アズマさんはわたしになにを望んでいるの?」
オレの、望み。
……わからない。願望なんて長らく抱かずに生きてきた。願ったところでどうせ叶いはしないと諦めていた。オレはいつもこの手でなにもかもを壊してしまうから。
けれど彼女にそう問われたとき、たったひとつだけ頭をよぎった思いがあった。……もしかしたら願望というより哀願に近いかもしれないが。
「───オレは、オマエのものになりたい。」
戦慄く唇をこじ開け、言葉を吐き出す。
どんなにみっともないと思われようがかまわなかった。彼女が頷いてくれるのならオレはなんだってする。どんなものだろうと捧げてみせる。誇りも、尊厳も。……命であっても。すべて差し出せば、オレは彼女のものになれる。
「なにをされたっていい。どんな理不尽でも、つらい仕打ちでも、……なんでも。オマエが、与えてくれるなら。」
愛じゃなくたってかまわない。
軽蔑、憎悪、憐憫、苦痛、暴力、支配、呪縛。彼女から与えられるものはすべて愛に等しいのだから。
血肉も、心も、魂さえも、すべて彼女だけに捧げたい。
どんなにひどい扱いを受けようとも。
「オレは、骨の一欠片までオマエのものでありたい。」
首輪をつけて、支配してほしい。体を重ねあうだけでは愛されていると実感出来ない。苦痛や執着を伴わなければそれは愛ではない。愛情があるから痛みや苦しみを感じる。愛しているから、手離せなくなる。……かつてオレがそうであったように。
彼女が目を伏せる。咲ききった花弁が萼からこぼれおちるように、息を吐く。
たったそれだけなのにオレは不安でたまらなくなった。なにか、彼女の意にそぐわないことを言ってしまっただろうか。彼女はオレのことなんて必要ないのかもしれない。だけどオレにはもう彼女しかいない。
跪いたまま彼女に縋った。血で汚さぬように注意を払いながら目の前の華奢な腰を抱き寄せ、擦り寄る。飼い主に甘える馬鹿な犬みたいに。
「いらないなら、このまま壊していい。……壊してから捨ててくれ。正気のままオマエを失うなんて、……耐えらない、」
彼女がオレを救ってくれた。掬いあげてくれた。
だから手離すときはせめて、なにもわからなくなるまでぶっ壊してほしい。彼女を失ったことさえわからなくなるくらいに。
「…ふふ。」
色づく唇が笑みを浮かべる。彼女がオレの髪を撫でた。細くしなやかな指が頬から顎を伝って首筋へと下り、柔い皮膚をゆっくりとなぞる。……首元には彼女から贈られたドッグタグが掛かっていて、彼女はそれを愛おしむみたいにつまんで弄んだ。
違う。それじゃない。
オレは彼女の手を掴み自分の首へと引き戻した。
「……オレを、 見ろよ、」
みっともなく縋りつくオレを彼女はただ見下ろし、静かに微笑んでいる。いつもと同じ優しい笑顔。
失いたくない。このままずっとオレだけを見ていてほしい。彼女がオレに首輪を嵌めたように、オレも彼女の心を繋ぎとめていたい。
───嗚呼、駄目だ。どんどん欲深くなってゆく。際限のない欲望を抱けばいずれ満たされなくなるとわかっているのに、やめられない。
息が苦しい。頭が痛い。それでも彼女がいるから耐えられる。彼女の冷たいぬくもりがオレを慰めてくれる。
「……わたしの狼さん。」
澄んだ声が甘やかに囁く。
オレは瞼を閉ざし、ただ聞き入っていた。首に回された両の手によって少しずつ気道が圧迫されてゆく。
「可哀想なひと。もうとっくに壊れているのに、わたしに必要とされたくて必死にまともなふりをしてる。」
「ッ、……ぅ、 っ、」
「でも、そんなところがかわいいの。なにひとつじょうずに出来なくて、役立たずでごめんなさいって顔をしてわたしを見るあなたが、……大好き。」
「───ッ゛、 は、」
彼女がオレをゆっくりと押し倒す。固いフローリングを背に仰向けに横たわったオレの腹の上に馬乗りになると、首を絞める手にさらに体重をかけた。咽頭が強く圧迫され呼吸が難しくなる。意識の輪郭が少しずつぼやけてゆく。
「───は やく、 こわして ……くれ、」
もしこのまま、終わることが出来たら。
彼女の手で壊してもらえるなら。
そうしたらオレは永遠に彼女のものになれる。彼女の命が終わるまで、その記憶の中で生き続けることが出来る。
幸福だ。これ以上ないほどに。
「アズマさん、大好き。」
彼女がまた笑う。
優しい声音がオレを包み込む。
「ずっとあなたの傍にいます。あなたはわたしだけのもの。誰にもあげない。」
罅割れた心が、満たされてゆく。
もうなにもいらない。やっと楽になれる。
彼女の傍で。彼女の腕の中で。
「だから、ずうっと役立たずのままでいて?」
意識を手離す直前、彼女がそう言ったように聞こえた。
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「アズマさん、アズマさん!」
ふたたび意識が戻ったとき、どこかで誰かが何度もオレの名を呼んでいた。頭はひどくぼうっとしていたけれど、それが彼女の声であるということだけはすぐに理解出来た。
彼女はどこにいるのだろう。……罰は、終わったのだろうか。薄闇の中に彼女の姿を探そうとして、しかし視界の焦点が上手く定められずどうすることも出来ない。
「アズマさん、しっかりして。……わたしのこと、わかりますか?」
すぐ近くに彼女の気配を感じた。
嗚呼、よかった。傍にいたのか。気配を追いかけるように視線を彷徨わせていると、そのうち視点のピントが合うようになり、やがてオレの顔を背後から覗き込む彼女を見つけた。
窓から差し込むかすかな星明かりがその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。先ほどとは違う、気遣わしげな表情をしていた。───いつもどおりの、優しい彼女だった。
ふいに彼女がふわりと眦を綻ばせた。なにかに安堵するようにほっと息をつくと、細い指をオレの髪にそっとくぐらせ、いたわるみたいにゆっくりと撫でる。
「アズマさん。……もう、だいじょうぶですよ。」
もう片方の手が、こちらに伸ばされる。
───また、殴られる。そう思ったけれど疲弊しきった体は怠くて身構えることさえ出来なかった。手足も上手く動かせず、浅い呼吸を吐きながら彼女の行動を視線だけで追いかける。
(……苦しい、)
やけに呼吸がしづらかった。ただ横になっているだけなのに、まるで日課のロードワークをこなした直後みたいに息が上がっている。気道が狭まっているのかもしれない。……いつもの喘息だろうか。また彼女に迷惑をかけてしまう。
自己嫌悪に陥りかけ唇を噛み締めたときだった。突然、なにごともなかったみたいに息苦しさが消えた。不思議に思い首もとを確認すると、彼女がそこからオレの手を引き離したところだった。
どうやらオレは、自分で自分の首を絞めていたらしい。どうりで苦しいはずだ。
そうか。彼女はオレを殴ろうとしたんじゃなかった。
オレを、救おうとしてくれていたんだ。
でもなぜそんなことをするのだろう。……オレは彼女を裏切って、傷つけたのに。
「…………な ん、…?」
なんでだ、と言いたかったのに上手く声が出せなかった。長く圧迫され続けたせいで咽頭部がダメージを受け、気道が一時的に狭まっているらしい。喘息に似た自覚症状はそれが理由だろう。……今はまともな会話は難しいかもしれない。オレはやむなく質問を諦めた。いずれにしても全身が怠くて人と話をするような気分になれない。
しかし彼女は自暴自棄になったオレの気持ちを汲もうとしてくれた。優しいぬくもりでオレの頬を包み、手負いの獣を宥めるみたいに静かに語りかけてくれる。
「ひどく魘されていました。苦しくないですか?」
その言葉の意味がよくわからなかった。
けれどもしばらく思案したのち漸く合点がいく。
───今までのことはすべて、夢だったのだと。
彼女を傷つけたことも、彼女に殴られたことも、彼女に縋りついたことも、悪い夢にすぎなかった。現実じゃなかったんだ、なにもかも。
「…………ああ、 もう、…なんとも、……ねぇ、」
それがわかったとき、やっと声が出た。彼女もオレが口を利けるようになったことに安堵したのか、ふわりと目を細めて「よかった。」と微笑む。……その笑顔をもっとよく見たくて、おもむろに手を伸ばしていた。
彼女がすかさず握り返して頬擦りをしてくれる。部屋が薄暗いせいで顔はよく見えなかったけれど、彼女の存在を確かに感じることが出来て、ほっとした。
あたたかい。彼女が傍にいる。たったそれだけのことでこんなにも満たされる。
───もし、本当に彼女を失ってしまったら。
彼女の優しさを、愛を、取り上げられてしまったら、……オレは。
(…………いやだ、)
きっと、今度こそ耐えられない。
怖い。オレはまた彼女を裏切るかもしれない。傷つけるかもしれない。
もしあの悪夢が現実になったら?
ただの夢ではなく、そう遠くない未来の出来事だったとしたら?
悪魔に魂を売っても変えることが出来ない運命だとしたら?
(……もし、そうだとしたら、)
ならいっそ、なにもかもここで終わりにしたい。
そうすれば彼女を失わずに済む。オレはずっと彼女だけのものでいられる。この束の間の星夜にすべて閉じ込めて終わらせることが、もし叶うのなら。
オレはおもむろに彼女の手を掴むと、ふたたび自分の首もとへと誘った。穢れを知らない瞳がはたとオレを見る。しかし、細い指をゆっくりとこじ開けて首に巻きつけようとした途端明らかな動揺の色が浮かんだ。顔色を一変させ「あ、アズマさん…!?」と信じられないとでも言うような声を上げながら慌てて自分の手を引き抜こうとする。
(───いかないでくれ、)
また、怖くなった。彼女が離れていくことが。
もう二度と触れられなくなるような気がして咄嗟に手に力を込め、引きとめる。
「……離すなよ、」
すると彼女ははっと息を呑み、身動ぐのをやめてオレのされるがままになってくれた。
彼女の心を繋ぎとめられたことに仄暗い喜びを覚えて、満足する。この罅割れた心が満たされるなんてあるはずがないのに。
……嗚呼、オレはなんて卑怯で、歪んだ男なのだろう。弱ったふりをして最愛の
だけど、一秒でも長く彼女の瞳に映っていたい。
彼女の気を引いて、その心を独占していたい。
そのためならどんなことだってする。自らの尊厳を踏み躙ることだって厭わない。この身が傷つくことで、彼女の愛を教授出来るのなら。
オレはどこまでも利己的な人間だ。その自分勝手な振る舞いこそが彼女を深く傷つけるとわかっているはずなのにこの歪んだ願望を捨て去ることが出来ない。求めることをやめられない。
今だってそうだ。
愛されることが怖いくせに彼女を繋ぎとめておきたいと思っている。
優しさや愛ではなく、罰を望んでいる。
この綺麗な手に、痛めつけてほしいと願っている。
彼女がそれを望んでいないと知っていながら。
「………いやか?」
まだ少し詰まり感が残る喉から声を絞り出し、わかりきった質問を投げかける。予想どおり彼女の表情にわずかな影が落ちた。本人は無意識だったかもしれないが、オレの問いかけに対する困惑ややるせなさがほんの一瞬だけ垣間見え、すぐに消え去る。
普段から他人の心の機微に疎いオレでさえ察することが出来るくらい彼女は感情豊かで、思っていることがすぐ顔に出る性分だった。わかりやすくて助かっているけれど、今回ばかりは完全に裏目に出ていた。
「いや、というのは?」
「…………こうするの、」
「首を絞める、ということでしょうか?」
「…そう、」
オレが頷くとやはり彼女は口を噤んでしまった。
以前も同じようなやりとりをした記憶がある。セックスの最中に「オレの首を絞めてほしい」とねだったら、珍しく強く拒絶された。オレに万が一のことがあってはいけないからと思ったらしい。彼女の腕力ごときでオレがどうこうなるはずもないのにと可笑しくて笑ってしまった。
そうしたら今度は思い詰めたような顔で「殺すとか死ぬとか、そういうことを軽々しく口にしないでください。」と彼女にしてはかなりきつい口調で咎められた。……やってしまったと反省しすかさず謝ったので、それ以上の追及はされなかったけれど。
だから、どんなに取り繕っていても伝わってくる。
彼女は今、この質問に答えくないと思っているはずだ。
「アズマさん、」
「……悪い、」
逃げるように瞼を閉ざし、暗闇の中で静かに告白する。
「いやだって、わかってて聞いた。」
答えてくれるはずもないのに、こんな、彼女を試すみたいな質問をして、一体オレはどうしたいのだろう。彼女になにを望んでいるのだろう。愚かな自分にほとほと嫌気が差す。彼女を困らせて、我儘で気を引いて、まるで幼稚な子どもじゃないか。
「どうして…?」
不安そうな声に罪悪感を抱いた。
ごめんな。隣にいるのがオレじゃなかったら、オマエがこんな気持ちになることもなかったのに。こんな真夜中に手を煩わせることもなく、穏やかに眠れたはずなのに。
ごめん。……ごめんな。なにもかもオレのせいだ。
なのにオレはもう、オマエを手離してやれない。
みっともなく縋りついて、オマエを繋ぎとめることしか出来ねぇんだ。
「夢、……見たから。」
「…どんな夢ですか?」
「オマエが……願いを叶えてくれる夢。」
鬱屈とした気分を抱えたまま喋っていると、またしても体の怠さに襲われた。泥のように纏わりつく憂鬱さを振り切りたくて深く息を吐き出す。
いつかオレは、本当に彼女を失望させるかもしれない。『役立たず』の烙印を押されてしまったら、帰る場所はもうどこにもなくなってしまうのに。
彼女に傍にいてほしい。けれど、そのためにどのように振る舞えばいいのかわからない。……彼女がオレになにを望んでいるのか。
気だるさを振り切れず頭の中でごちゃごちゃ考えていると、ふとあたたかい手のひらに優しく頭を撫でられる。
「アズマさん、もう寝ましょう…? まだ真夜中です、夜は体を休める時間ですから。」
「……起こして、わるかった。」
「謝らないで。…ね?」
「……ん、」
幼い子どもに言い聞かせるみたいな口調だった。
胸が締めつけられる。ここまで彼女を煩わせるなんて、オレは餓鬼の時分からなにひとつ成長していないじゃないか。親父を呆れさせていたあの頃となにも変わらない。
お袋はオレのせいでおかしくなった。彼女まで同じ目に遭わせる気なのか?
そうやって大切な人を傷つけてばかりいるくらいなら、彼女の傍にいる必要なんてないんじゃねぇのか?
───だから、ずうっと役立たずのままでいて?
そうだ。
初めから役に立たないなら、さっさと壊れちまえばいいんだ。
「アズマさん、だめ…!」
彼女が悲痛な声をあげる。
オレは彼女の手を使って今度こそ自分の首を絞め上げていた。彼女が懸命に抵抗しているけれど、関係ない。容赦なく抑えつけ、咽頭を潰さんばかりの力で強く絞めつける。
窓の外から淡い明かりが差し込んでいる。その光が彼女の顔をうっすらと照らした。……焦燥と、恐怖と、悲嘆に満ちた表情。食い入るようにオレを見る二つの瞳。
綺麗だと思った。
あの空に光るどんな星よりも、ずっと。
「…………オマエが、 終わらせてくれ、」
この目に見つめられたまま死にたい。
オレの最期を記憶に刻みつけて、彼女がこと切れる瞬間までその心を繋ぎとめておきたい。
「オレの ことが、………いらなくなったら、オマエが、 ……こわして、」
彼女の愛も、憎しみも、情けも狂気も。
すべてをオレだけのものに出来ればいいのに。
「……なぁ、 ───…、」
愛されるだけではもう足りない。
オレをめちゃくちゃにしてほしい。破滅させてほしい。
『アズマ』が壊れて、使いものにならなくなるまで。
───だからそれまでは、オレの傍にいて。
「……どこにも、いかないで。 ───おねがい、」
オレの望みは、きっとただそれだけだ。
「アズマさん、───あのね。」
絞めつける力が徐々に弱まってゆく。首から手が解け、もう少しで意識を失うというところで、やわいぬくもりが上から降ってきて左の瞼に触れた。傷痕がある眉尻。それから、前腕の内側。自らを切り刻み、一生消えないだろうと言われた痕が残る場所。
そのひとつひとつに、彼女が優しく口付けを落としていたのだ。……なにかに祈りを捧げているみたいに。
「わたし、あなただけの青星になりたい。」
彼女は澄んだ声音でオレにそう告げた。
月日が流れ、時代が進み、科学によって宇宙の謎のごくごく一部が解明されつつある今日においても、人々はその輝きに一縷の希望を見出すことがあるという。街を照らすネオンライトの方がずっと鮮明であるはずなのに、人間はなぜかただの星に自らの願いを託すことをやめられない。
オレが、彼女に対してそうであるように。
「わたしが絶対に、終わらせたりしません。なにがあってもあなたを一人にしないと、約束します。……ですから、この先もずっとあなたの傍にいさせてください。」
終わりを望むオレに、彼女は応える。
終わらせはしないと。ずっと傍にいると。
───どうしていつも『そう』なんだ?
彼女の言葉はいつもオレに希望を抱かせる。生かそうとする。誰も信じられないと閉ざしてしまった心に、ふたたび一縷の光をもたらしてくれる。
「生きろ」と説教する奴はいくらでもいた。
「一緒に死んであげる」と言った女もいた。
けれど、彼女だけは違った。
「この人と一緒に生きたい」と、生まれて初めてそう思わせてくれたのは。
二人で食事を作ったり、遠出をしたり。
家に招いたり、招かれたり。離れるのが惜しいと感じるときには遠回しな言葉で相手を引きとめて、同じベッドで眠りについてそのまま朝を迎えたり。
触れたくてたまらない夜にはどちらともなく肌を重ねて求めあったり。
彼女が教えてくれた。誰かが傍にいる心地よさを。安心感を。───幸福を。
(オマエが与えてくれたんだ。生きる意味ってやつを。)
だからオレは、叶えてやりたいと思う。
『傍にいたい』という彼女の願いを、命を賭けて。
「……なぁ、」
「はい。」
「もっと、……近くに来てくれ、」
来てくれとねだりつつ彼女の頭の後ろに手を回して抱き寄せる。このまま朝まで抱いていたかった。
幸い彼女も抵抗する素振りを見せなかった。オレの胸に身を委ね、借りてきた猫みたいに大人しく抱かれている。 愛おしい、と柄にもない感情が胸をよぎったとき、華奢な手がオレの腰にきゅっと巻きつけられた。
視線を向けると、彼女の頬が恥じらいで淡く色づいて。
「ぎゅってしてもいいですか?」
つぶらな瞳でうっとりと見つめられては、たまらない。オレが拒む理由などどこにもなかった。
オレは彼女のものだ。抱こうが嬲ろうが、好きなようにすればいい。
「…ああ、いいよ。」
「アズマさんも…、」
「……ん。」
彼女が望むとおりに腕に力を込める。細い腰を引き寄せると甘えるように擦り寄ってきた。
オレはもう、このぬくもりを手離すことが出来ない。
執着している。欲深く、みっともないくらいに。
失うわけにはいかないのだ。どんな犠牲を払ってでも。
彼女はオレの希望の星であり、命そのものだから。
「おやすみなさい、アズマさん。」
「……ああ、おやすみ。」
オレたちは身を寄せあって眠りにつく。
この腕に抱いた星のまたたきに耳をすまして。
「アズマさん、大好き。」
明日も、明後日も、その先も。
───彼女の言葉がこの命に意味を与えてくれる限り。
- END -
side She ‣‣ Episode:Sirius.
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