side, He 「Étoile d’espoir」

もう一度。
もう二度と。
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『He is like the sun rising in the eastern sky.』
𖣔Self Fan fiction.
side, He 「Étoile d’espoir」
Episode:My safe haven.
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握りこんだ拳が痛む。両掌はとっくに血に染まっている。
頬を汗が滑り落ちた。鬱陶しくて手の甲で拭うと、そこには赤い血糊が付着して余計に汚れてしまった。
痛む拳を振り翳し、叩きつける。下で骨が軋む音がして、続いて車に轢かれた牛蛙のような無様な呻き声が聞こえた。腫れ上がった肉の塊にわずかに開いた切れ目から漏れているようだった。
それが人の顔面であり、唇であるということは、もはや一目見ただけでは判別がつかない。ぶくりと膨れた血塗れの肉の下には目玉が二つ隠れているはずだが、それももう埋もれて見えなかった。
奴の体は痙攣していた。水のない陸で干上がりかけた魚のようにびくびくと跳ねている。……しかしそのうち少しずつ痙攣の間隔が広がってゆき、動きが小さくなり、呼吸が弱々しくなって───、
やがて、完全に止まった。
血塗れの拳を開き、だらりと腕を下ろす。
深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
静かだった。
人を絶命させるほど殴打したにも関わらず、鼓動も、息遣いも、 頭の中も、なにもかもが不気味なほどに凪いでいた。安らかでさえあったかもしれない。鋭く研ぎ澄まされた意識の刃が安堵とともにゆるやかに鞘に収められてゆくような、そんな感覚。
わずかに視線をずらすと、少し離れたところにもう一人うつ伏せになって倒れているのが目に入った。その顔面は今しがたとどめを刺した男同様赤黒く腫れ上がっていて、さらに両手の指がおかしな方向にひん曲がっている。……奴ももう息をしていなかった。
嗚呼、やっと終わった。確かこいつで最後だ。もう敵はいない。これでようやく彼女の身の安全が確保された。馬乗りになっていた死体の上から立ち上がり潰れた顔を跨ぐようにして離れると、オレはすぐ近くの物陰へとゆっくり歩み寄った。積み上げられ廃棄されたコンテナの真後ろ。丁度人一人が身を屈めて隠れられるくらいの場所だ。
「……終わったぜ。」
物陰に向かって宥めるように呼びかける。……正しくは奥で身を潜めているであろう彼女に向かって。
オレがそう命じたのだ。すべて終わるまで目と耳を塞いでそこで待っていろと。
そして彼女はオレの言いつけを忠実に守っていた。その小さな手で力いっぱい両耳を塞ぎ、両目をぎゅっと瞑って、オレから良しと言われるまではなにも聞かないしなにも見はしないとオレを信じて現実に背を向けていた。だからはやく暗闇から解放してあげないといけない。彼女にはいつでも明るい場所にいて、笑っていてほしいから。
「なぁ、」
彼女の肩を揺すろうと手を伸ばしかけ、はたと思い出す。自分の掌が血で汚れていることに。シャツやボトムに擦りつけて拭ってみたが綺麗にはならなかった。既に乾きかけている血液は赤黒く変色し、爪の間や指紋ひとつひとつの隙間にまで入り込んでこびりついている。
───嗚呼、駄目だ。このままでは汚してしまう。
オレの手が、彼女を。
暫し考えたあと、こちらに背を向けてしゃがみ込む彼女の前へと回り込み、そのつむじに軽く口づけた。すると華奢な肩がびくりと揺れて、俯いていた顔がゆっくりと上げられる。澄んだ琥珀色の瞳がようやくオレを映した。
「………アズマ、さん…、」
「傷、痛むか?」
オレが笑いかけると彼女は途端に息を詰め、瞳を涙で滲ませた。無理もない。今から数時間前、帰宅途中に突然何者かによって連れ去られ、監禁されていたのだから。笑うと笑窪が出来る愛らしい顔は犯人に打たれて赤く腫れていた。強姦こそされなかったもののどんな仕打ちを受けるかわからない極限状態の中にいたのだ、助かった安堵で泣き出すのは当然の反応と言える。
犯人は二人組だった。どちらも顔に見覚えはなかったが、現場に駆けつけたオレを見るなり《孤狼》とかつての呼び名を忌々しげに口にしていたあたり、若かりし頃に一方的に痛めつけた野犬どもの生き残りかなにかだろう。……大方、復讐のために恋人を拉致して餌とし、オレを誘き寄せ、彼女を盾にされ無抵抗となったところを過去の自分達と同じ目に遭わせる、というような算段に違いなかった。
まったく、実にくだらない。女ひとり人質に取ったくらいでオレの動きを封じることが出来るなどと本気で思っていたのなら、奴等はまったくもって理解していない。
───《孤狼》の大切なものに手を出した連中が、一体どういう仕打ちを受けてきたのかということを。
だから“わからせて”やった。死ぬより辛い苦痛と終わらない恐怖を与え、文字どおり死ぬまで体に教え込んだ。しかし奴等が己の過ちについて正しく理解したかどうかは知る由もない。……もはや物言わぬ肉塊と成れ果てたのだから。
こちらを見る彼女の目にはまだ恐れと不安が色濃く残っていた。オレはほとんど本能のようにそれらを打ち消そうと努める。オレは彼女を守らないといけない。あらゆる不安から。痛みから。自分はいくら汚れようとかまわない。彼女が清廉であり続けられるなら。
「心配すんな。犯人は全員始末した。」
「…………アズマさん、」
「帰ったら手当てしてやる。もう少し堪えてくれ。」
「……アズマさん、」
「無事でよかった。………もし一生残るような傷を負わされてたら、……オレは、」
「アズマさん、」
彼女は何度かオレの名前を呼び、そっと瞼を閉ざした。なにかを静かに受け入れるかのように。そうして、ふたたび開かれた瞳にはもう恐れも不安もみられなかった。……ただただ清水のように清く深い悲しみを湛えているのみだった。
「アズマさん。」
彼女の手が返り血に塗れたオレの腕にそっと触れる。そしてそのまま指同士を絡めてこようとするから、慌てて手を引っ込めようとした。けれども彼女は絶対に離そうとしなかった。指や衣服の袖が赤く汚れることも厭わずに。
「駄目だ。汚しちまう。」
「いいの。」
「けど、」
「わたしだけ綺麗なままなんて、いや。」
血に濡れながらオレの手に頬を寄せ口づけを落とす彼女はまるで磔刑に処された息子の亡骸を腕に抱く聖母のようだった。許されぬ罪を犯した愛する者の手を愛で、慰めんとしている。
オレは彼女のしたいようにさせてやった。彼女が望むことはなんだって叶えてやりたい。どんなに無謀な願いであろうとも。───それが、オレの生きる喜びだから。
ただ、彼女がオレと同じ罪に染まることだけは許せない。
「……駄目だ。オマエは、オマエだけは、どうか綺麗なままでいてくれ。」
オレは祈るような気持ちで懇願した。
ずっと幸せになることが怖かった。誰かに愛されることを諦めていた。オレという人間はそんなものに値しないのだと、ずっと思い続けていた。けれどそれらをもう一度手にしたいと、手にすることを許されたいと、そう思わせてくれたのが彼女だった。……彼女はオレの希望の光だった。
オレはずっと大切なものをこの手で壊し続けてきた。
家族、友達、仲間。守りたいときつく抱え込むほど傷がついて、罅が入って、粉々になってしまった。失うたびに虚しくなるから、いつしか大切なものはひとつも持ちたくないと思うようになって。使い捨てのスキンみたいに、その場限りの関係しか築けなくなっていった。誰かと深い繋がりを持つことを恐れていた。彼女と出会うまでは。
彼女はいつもオレに言い聞かせた。好きだと。ずっとオレの傍にいると。苦しみも、 幸せも、二人で半分ずつ分け合うのだと。
「分け合う」とはどういう意味か、はじめはよくわからなかったけれど、ともに過ごすうちになんとなく理解出来るようになった。
時間。食事。空間。出来事。彼女と一緒に共有するものが増えるたびに、それらすべてを失いたくないと思った。奪われたくないと思った。……彼女は「誰も奪ったりしませんよ。」と言ってくれたけれど、それでもオレは怖くてたまらなかった。……オレの大切なものを奪うのはいつも他者ではなく、自分自身だったから。
そして、大切なものを失うかもしれないという強い恐怖はオレの頭の中にいるあの『悪魔』を目覚めさせる。悪魔が齎す衝動に支配されればオレはまた道を踏み外す。境界線を越えてしまう。彼女のことも傷つけてしまうかもしれない。……だから怖かった。
けれども離れることも出来なかった。彼女がほかの誰かのものになるなんて、考えるだけで気が狂いそうになった。手放したくないと思ったし、愛想を尽かされたくなかった。彼女の唯一無二でありたかった。……そう思わずにいられなかったということが、今まで関係を持ってきた女との決定的な違いだったように思う。
彼女の傍に置いてほしい。オレが傍にいることを許してほしい。オレの帰る場所であってほしい。そのためなら、どんなにみっともない姿を曝したってかまわない。
だから腕の傷痕も見せた。過去の過ちも打ち明けた。自分は欠落した人間で、暴力に酔いしれる弱いやつで、強くなんかないし善良でもないのだと洗いざらいすべてぶちまけた。
オレはオマエには相応しくない。だけど、相応しく在れるように努力するからどうか傍にいてほしい。───その望みが叶うなら、もうなにもいらなかった。
だから、これでいい。
「二人殺した。ここで逃げようと自首しようと、たぶんもう二度と出てはこられねぇ。」
「っ、」
彼女が声なく悲嘆する。オレの血塗れの手に縋りつくように頬を寄せている。オレの体温を膚に刻みつけるかのように。
「オレは、オマエのためならどんなに汚れたってかまわねぇ。」
「…… だめ、そんなのだめ、」
「オマエは汚れたオレのことも変わらず愛してくれる。そう信じてる。……だからオレはもうなにも怖くない。」
「アズマさん、」
「後悔はない。オマエを守れたから。」
いつか彼女が言ってくれた。
腕の傷痕はオレが懸命に生きようとした証だと。
オレの中に悪魔がいるとしても、自分はその存在ごと愛したいのだと。
オレが両親を許せなくても、オレをこの世に生んだ二人に自分は感謝したいのだと。
彼女の言葉がオレに希望をくれた。過去のしがらみから解き放ちもう一度自由にしてくれた。だからオレの心は彼女のものだ。……たとえもう二度と触れ合うことが許されないとしても。
「悪い。……最後までこんなことしかしてやれねぇ。」
彼女の腫れた頬を優しく撫でる。白い肌に血の赤が映えて、色の褪せたこの場所で唯ひとつ、鮮やかで美しいと思えた。
「オマエはオレに色んなものをくれたのに、結局なにも返せなかった。」
だから、この心をオマエに預けていくよ。
オレからあげられるものはもう、それくらいしか残ってない。
「愛してる。」
彼女はまた泣いた。その涙を指で掬いとるように撫でる。すると血に染まった白い手がオレの頬を包み込んで、そっと引き寄せた。
抗うことはしない。二つの唇がどちらともなく触れあい、互いの罪を赦しあうように口づける。
これで最後になる。彼女のもとには戻れない。罪を犯したオレが居るべき場所は隔絶された償いの牢獄だ。慈悲と慈愛からもっとも遠いところにある。
けれども恐れは感じない。
一度託した心は二度と傍を離れはしないと、そう信じている。
───オレの本当の居場所は、彼女の隣だから。
- END -