side, She 「Mon loup」

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わたし達はひかれ合う。
まだ名もなき力によって。












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『He is like the sun rising in the eastern sky.』

 𖣔Self Fan fiction.
  side, She 「Mon loup」

  Episode:Gravity.



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 あの夜、わたし達はなぜ出会ったのだろう。






 考えている余裕なんてなかった。
 タオルを染める真っ赤な鮮血。
 凶器を取り除いたばかりの傷口はひどく痛々しく、直視するだけでどくどくと動悸がしてくる。……引き締まった筋肉と薄い皮膚に守られているだけの脇腹。ほんの数分前まで、ここには刃渡り十センチものナイフが突き刺さっていた。内臓の損傷が懸念されるほど、深く。
 鋭利な刃物によって穿かれた皮膚の間から覗く生々しい肉の色と、そこからとめどなく溢れ出す赤い血を思い出したとき、わたしは思わず息を呑み、きつく目を瞑っていた。恐怖で手が震える。タオルを握りしめる指先から血の気が引いてゆくのがわかる。
 ……怖い。人間って、刺されたらこんなに血が出るの?
 どうしよう。どうすればいいかわからない。混乱のあまり視線が泳ぐ。
 その時だった。不安定にぶれる視界の隅に黒く大きな塊が映り込んだ。否応なしにそちらへと意識が引き摺られてゆき、ぼやけていたピントがぴたりと合う。
 人影だった。俯せになって地面に倒れている。骨格からしておそらく男性だ。突っ伏した体は明らかに力が抜けきっている。……意識を失っているのだろうか。
 月明かりが男性の背中を照らす。その下に広がった濃い影が、じわりと大きくなったように見えた。



「…………ハハッ、」



 掠れた笑い声がした。
 恐怖と緊張で強張った手の甲に大きな掌が被さる。黒いレザーグローブが手首までを完全に覆っていて、向こうの体温や肌の感触を感じることは出来ない。……けれど手首を掴まれた途端、生温かくぬるりとしたものがそこに纏わりつく感覚がして全身がぶわりと総毛立つ。
 ───血、だった。
 グローブにべったりと付着した鮮血が、わたしの肌を赤く濡らしていたのだ。


「怖いか?」
「っ、……ぁ、」
「怖いのは血か? アッチに転がってるやつか?」
「……、」
「それとも、オレか?」
「…っ、」
「答えろよ。」


 血に塗れた手がわたしを強引に引き寄せる。
 振り解けなかった。吐く息が鼻先をかすめるほどの至近距離から青みがかった灰色の瞳に見下ろされる。凍てつく冬の満月のように冷たくて、孤独な色。
 そして、唇の隙間から覗く獰猛な牙。



「オレが怖いんだろ?」



 彼は低く唸った。体から血が失われてゆくのにも構わずに。その声色はひどく静かで落ち着いているけれど、同時に獲物の喉に今にも食らいつかんとする凶暴さと飢餓感を孕んで爛々と血走っている。


「怯えてる人間ほど美味そうな匂いがするんだ。」


 彼が嗤う。喉の奥を鳴らして。


「けどオマエは違う。……もっと強くて、濃い……、」


 首筋に無遠慮に顔を寄せて匂いを嗅ぐその仕草は本当に獣みたいだった。狩ったばかりの獲物から漂う血肉の香りを味わう狼のように。


「……ッ、頭が…クラクラする。」


 熱を帯びた吐息が肌をかすめた瞬間、彼はなにかを振り切るように強く頭を振り、体を離して先ほどよりわずかに距離を取った。二人の視線が交錯する。
 普通の人間ではないことは明らかだった。わたしを映す漆黒の瞳孔は人のそれよりもコントラストが強く、視線がはっきりとわかる。そしてもっとも特徴的なのは、暗闇の中で光を放っていることだ。まるで満月が二つ並んでいるかのように。
 

「……あなたは、一体……誰…?」


 彼の瞳がすうと細められる。瞼の奥で欠けた二つの月がわたしだけを見つめる。その眼差しはまるでこちらの思考を見透かすかのように冴えていた。青みがかった灰色の瞳がふたたび丸く満ち、瞳孔の中にわたしを閉じ込める。



「───……オレは、アズマ。」



 ひどく空虚で、無感情な物言いに聞こえた。自分の名を口にしているとは思えないくらいに。けれどこちらをとらえる青い双眸だけは炎のように苛烈な熱を宿していて。
 不意に彼の力が緩み、手首が解放された。しかし安堵する間もなく今度は血濡れた手が伸びてきて指先が頬に触れる。体温を通さない硬い革の感触が肌の上をゆっくりと這い、なぞってゆく。


「………オマエは、」


 わたしは思わず目を見はった。低い声に初めて感情の色が乗った気がしたからだった。そうして数秒ほどが経過した時、わたしはようやく彼がこちらに名を尋ねているのだとわかった。言葉尻に疑問符さえついていなかったから気づくのが遅れてしまったのだ。


「…えっと、わたしは、」


 困惑しつつ喋ることを忘れていた唇をどうにか動かして名を名乗る。……得体の知れない相手に自己紹介をするだなんて我ながら不用心だとは思ったけれど、不思議と嫌悪感のようなものは抱かなかった。




 わたしの名前を聞いたとき、ほんの一瞬彼が息を詰める気配がした。血に濡れた狼の鬣が、月の光を受けて金色に光っていて。
 わたしはなぜかそれをとても綺麗だと思った。






 それが、彼とわたしの最初の出会いだった。
 





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 夜を吹きわたる風が少しずつ涼しくなってきた。
 仕事を終えて帰宅したわたしは夕飯の後片付けと入浴を済ませ、寝る前に少し夜風にあたろうとベランダに出た。実家の母から分けてもらった手作りの梅シロップを冷たい氷水で割った特性梅ジュースを堪能しながら丸い鉢に植わった可愛らしい多肉植物たちを眺める。ホームセンターで一目惚れして迎え入れた時に比べると葉も随分と肉厚になり、色もより瑞々しく、鮮やかになりつつあった。言葉はないけれど、毎日手をかけてあげれば植物は確かに応えてくれるから好きだった。のびのびと葉を茂らせる小さくも逞しい同居人たちに思わず眦をほころばせる。
 ───からん。グラスの中で氷が軽やかな音を立てた。甘酸っぱい梅ジュースを一口飲み、ほうと一息つく。
 明日から暫く休暇をもらっていた。
 季節は八月中旬。世間はお盆休み真っ只中だ。職場でもここぞとばかりに有給や夏期休暇を繋げて長期休暇を取り、地元に帰省したり、アウトドアやレジャー、家族旅行を計画しているという同僚も多くいた。中にはまだ勤務中であるにも関わらず気持ちだけいち早く休みに突入しつつある人も数名ほど観測された。ようやく定時を迎え、声を弾ませながら颯爽と退勤してゆく仲間を「楽しんできてくださいね」と笑顔で見送ったのがわたしの今日のハイライトである。
 さて、そう言うわたしはというと元々インドア派なのと暑さにめっぽう弱いことから、なるべく日の下には出ず、部屋の掃除をしたり、夏ならではの冷たい甘味を手作りしたりしようと考えている。……本当なら少し足を伸ばして市街の美術館に行きたいところなのだが、夏休みできっと混雑しているだろうとなんとなく気後れしてしまい、二の足を踏んでいた。


「…どうしよう。」


 冷たい梅ジュースで涼を取りつつ、明日から始まる短いバカンスの予定について思案する。
 そういえば母から「今年のお盆は帰ってくるの?」とメッセージが届いていたのだった。土日も挟むので、せっかくだから一日くらい顔を出してもいいかもしれない。梅シロップの季節は過ぎたけれど代わりに今度は紫蘇シロップのシーズンが到来したので、連絡しておけばきっとわけてくれるだろう。ヒートアイランド現象に見舞われる都会の夏を乗り切るためには必須のアイテムだ、あやからない手はない。
 せっかくだから、何かお土産を持って行こう。母だけではなく父も喜んでくれる品がいい。何がいいだろう。…嗚呼、そうだ。弟も帰って来るかもしれないから、好き嫌いが多いあの子でも食べられるものにしてあげなくては。
 街の明かりを眺めながらあれこれ思案しつつ、ふたたびグラスに口をつけた時だった。
 夜空に浮かぶ満月を見上げて『彼』を思い出す。


(……怪我、してないかな。)


 初めて会った時は脇腹に重傷を負っていた。血を流して苦しむ姿が脳裏によみがえり、心配になる。
 最初の出会いから二ヶ月ほど経った。あれから彼はなぜかたまにわたしの前にふらりと現れる。帰り道に後ろから呼び止められたり、玄関の前で待ち伏せしていたり。……どうやって自宅を突き止めたのかと聞いたら「匂いで探せる」とかなんとか言っていた。ストーカーみたいで気持ち悪いですと正直な感想をお伝えしたところ、ちょっと面食らったような顔をしてから「わかった。」とだけ返事をして、以降ストーキング行為はなくなった。最近はわたしが在宅している時間帯に訪ねてくる。……ただし玄関ではなく、ここ(ベランダ)から。



 ───『仕事』の現場を見られたんだ。口外されねぇように、ちゃんと見張っとかねぇとな?



 彼は釘を刺すようにそう囁き、喉の奥で笑った。妖艶だけれど獰猛な笑みだった。……人の笑顔に畏れを抱いたのは、あれが初めてだったかもしれない。







「いい夜だな、お嬢さん。」







 真横から覚えのある声に話しかけられた。
 はっとして振り向くと、ベランダの手すりに黒い大きな影が悠然と腰掛けていた。夜風を受け褪せた金色の短髪が鬣のように靡く。


「……アズマさん、」
「よう。」


 まさに噂をすれば影、である。
 思わず名前を呼ぶとぶっきらぼうな挨拶が返ってきた。
 いつからそこにいたのだろう。考え事に夢中でまったく気配を感じなかった。そもそも、この部屋は三階だというのに毎回どうやって登って来るのか不思議でならない。
 しかも奇妙なことに登って来ても中には絶対上がろうとしないのだ。前に一度中に入るよう促してみたら苦虫を噛み潰したような顔になって「男をほいほい家に上げるな。」と苦言を呈された。ベランダに現れておきながらそういうところだけ几帳面なのもよくわからない。


「今夜は随分夜更かしだな。いい子は寝る時間だぜ。」


 狼が喉を鳴らすみたいな低い笑い声とともに彼がわずかに目を細めた。冴えた満月を思わせる青みがかった灰色の瞳がわたしをとらえる。


「明日からお休みなんです。」
「へぇ、夏休みか?宿題は早めに終わらせろよ。」
「……子ども扱いしないでください。」
「ハハッ!おっかねぇ顔だ。ご機嫌ななめか?」


 わたしがぷくりと頬を膨らませ抗議の眼差しを向けても悪びれもない笑い声が返ってくるだけだった。反省の様子はまるでみられない。傍から見ているだけなら飼い主への悪戯が成功して喜んでいる大型犬みたいな反応である。愉快そうに揺れる尻尾が目に見えるようだ。ぴんと得意げに立つ耳も。
 けれどわたしは知っている。───この人が他者に飼い慣らされることを良しとするような人懐っこい性分ではないことを。


「怒ったのか?」


 青みがかった灰色の瞳が興味深そうにわたしを見据える。そうやって聞いてくるくせ、彼の声色や物言いからはまるで感情の機微を感じない。無感情とも違う。もっとも近い表現をするとしたなら、他者への関心だけがごっそり欠落しているとでも言うべきだろうか。うまく表現出来ないけれど、とにかく彼は自分の目の前にいる人間を『人』として認識していないような感じがずっとしていた。


「……なぁ、機嫌直せよ。」


 切れ長の瞳がすうと細まる。手すりに腰掛けたまま身を屈めてわたしの顔を覗き込む。たったそれだけの動作で彼はわたしの視界を独占してしまった。
 『美丈夫』という言葉を体現したかのような容姿。逞しい体躯と、端正な顔立ち。テレビや雑誌でさえ滅多にお目にかかれない見た目をしているけれど、彼は昼間の時間帯には絶対に姿を見せない。こうしてわたしの前に現れるのも決まって夜だ。いつも全身黒ずくめで、両手をグローブで覆い隠している。……そして、いつもほのかに血の匂いを纏っている。
 わたしは指でもてあそんでいた空のグラスをエアコンの室外機の上に置き、彼に向き直った。


「怒ってないですよ。」
「そうか。」


 緊張していた眦がふっと緩む。本心か演技か、わたしにはまだ見分けがつかない。ほかの人と話す彼を見たことがないから。これがこの人の素なのか、それとも獲物を油断させるための仮面なのか、その違いを一目で見極められるほどわたしは彼と親密な関係ではない。……今はまだ。
 けれどなぜだか彼はこうしてわたしの目の前に現れては他愛のない話をしたがる。


「急に黙ったから、機嫌を損ねたのかと思った。」
「いいえ。考え事をしていました。」
「なにを考えてた?」
「…アズマさんのことです。」
「へぇ。」


 今度はわずかに両の目が見開かれる。相も変わらず関心が希薄そうな反応。興味がないのにどうしてわたしに話しかけるのだろうと会うたび不思議に思うのだけれど、聞いたところで答えてもらえるとも思えないので実際に質問したことはなかった。
 これまでだってそうだ。彼自身に関する疑問をぶつけても納得出来る答えが得られたためしはほとんどない。この人は飄々とした態度と言葉選びでもって真実を隠し通すのがやけに上手かった。今までもそうやって多くの人間を言いくるめ、煙に巻いてきたのだろう。……きっとわたしもそのうちの一人に過ぎないのだ。
 そんな気持ちを抱きかけた時だった。
 革のグローブに覆われた指先がわたしの頬に触れた。はっと顔を上げると、すぐ目の前まで彼の顔が迫っている。その表情は相変わらず感情が読めないけれど、どこか不安そうにも見えて。


「…怖いか?」


 ひどく静かな声で彼が問うた。
 わたしは答えられなかった。彼の指が頬をかすめた時、ほんのわずかに全身が強ばるのを感じたからだ。血の匂いを纏うこの人を綺麗だと思ったその心で、彼に触れられることを恐怖していたと無意識のうちに自覚していた。
 二ヶ月前、彼と初めて出会ったあの夜を思い出す。
 傷を負い血を流しながらもわたしを真っ直ぐに射貫いたこの双眸は、あの時も、そして今この瞬間も、その奥深くに危うげな獰猛さを孕んでいる。ただ興が乗らないだけでその気になれば彼はきっとわたしのことなんて一瞬で切り裂いてしまえる。───あの夜、わたしははっきりとそう感じた。
 青く冴えた灰色の瞳に静かに見つめられる。おそらく彼もわたしの中にある恐怖を感じ取っているに違いなかった。この人は他人の心の機微には鈍感だけれど、代わりに怯えや畏れといった人間が生まれつき持っている根源的な恐怖を察知する力には秀でているようだった。


「安心しろ。…オマエには手は出さねぇ。」


 けれどその眼差しに敵意はない。……寧ろ、彼の方こそ怯えているみたいに見えた。


「……怖がらせたかったわけじゃねぇんだ。」


 ふっと目を細め、狼が笑う。……今にも泣き出しそうな笑顔だった。ひどい怪我をしていたあの夜よりもずっと苦しげで、痛々しくて。


「…………もう行く。」


 彼の手が離れてゆく。



「ま……待って…!」



 わたしは思わず引き止めていた。彼がわたしの知らない遠い場所へ行ってそのまま二度と戻ってこないような気がしたから。黒い革のグローブに覆われた大きな手のひらをきゅっと握りしめる。節くれ立った長い指に自分のそれをそっと絡ませて。


「…ここにいて、」


 かすかに震える声でそう懇願すると切れ長の目が大きく見開かれた。青みがかった灰色の瞳が夜露のように揺らめき、真ん中の瞳孔が音もなく広がる。───『目は口ほどに物を言う』とはよく言ったものだ。目を見れば彼の動揺がはっきりと伝わってくるのだから。


「……オレが怖いんだろ。」
「怖い…です。……でも、」


 グローブ越しの手のひらにそっと頬を寄せる。



「こうされるのは……嫌じゃ、ないの。」



 自分でもうまく説明出来ない感情だった。
 あの夜、わたしに触れた彼の手は血に濡れていた。人を殺したのだと思う。……すぐ側に倒れていたあの男性を。どうやってとどめを刺したかなんて部外者のわたしが知る由もない。ただひとつ臆測するとしたなら、あの見知らぬ男性の尊厳を踏み躙り、命を奪ったのが彼なのであろうということ。
 恐ろしくないと言えば嘘になる。彼がいつわたしに牙を剥くかもわからない。だから怖い。
 けれど何かに怯えるみたいに伸ばされる指先に触れられたとき、なぜかこう思ってしまう自分がいる。
 ───愛しい、と。
 簡単に人を殺せるくらい残忍で冷酷なこの人のこんなにも臆病な一面を知っているのは、世界でわたし一人だけであってほしかった。
 理屈は説明出来ない。ただ彼との逢瀬を重ねてゆくうちに少しずつそう思うようになった。ストックホルム症候群にも似た心理現象だけれど、おそらくまったくの別物だ。彼がわたしを拉致監禁したことは一度もないのだから。
 彼はいつもどこからともなく現れる。家の中には入らず、ベランダの手すりに腰掛けたまましばらく他愛のない話をして、そして消える。危害を加えられたことはない。こうして触れられたのだって出会ったあの夜を除けば今日が初めてだった。
 

「…………やめろ、」

 
 彼の唇が戦慄く。


「アズマさ、……っ、」


 大きな手に口を塞がれる。
 力の加減を忘れた、ひどく性急な手つきだった。


「呼ぶな。」


 血を吐くような声で彼が拒む。手すりの上で身を屈めたまま月明かりを背にしたその表情は影に覆われていてよく見えない。彼の青い瞳孔だけが爛々と丸く光っている。
 これはタペタム(輝板)だ。網膜の奥にある組織で、わずかな光を反射し増幅することによって闇の中にいても物体を鮮明に認識出来る。夜行性の動物のみが持つ機能だ。人間の眼球には、備わっていない。



「受け入れたら、……手離せなくなる。」



 吐息とともに彼はそう言葉をこぼした。わたしの口を塞ぐ手に込められた力は振り解けないほどではないけれど、それでも何か有無を言わせないものを感じる。


「───ッ、」


 ぶる、と彼が身を震わせた。口を塞いでいた手が離れてゆく。引き止める間もなく、大きな体を翻らせて手すりの上からわたしの目の前へと降り立つ。三十センチ近くある身長差のせいで、わたしの視界は彼だけになった。夜空も満月も彼の背中の向こうへと隠れてしまう。
 少し視線を落とすと、手を伸ばせば触れられるくらいの距離に彼の脇腹があった。今日は怪我はしていない。あの夜負った傷ももうすっかり癒えている。あれから二週間と経たないうちに見せてもらった時には、傷はすでに跡形もなく消えていた。


「……なに見てんだ。」


 唸るような低い声が降ってくる。見上げると、月明かりを背負った彼がわたしを高いところから見下ろしていた。まるで大きな黒い影だ。


「…怪我、してないかなって。」
「したってすぐに治る。」
「でも、痛いでしょ…?」
「だから何だ?」


 彼はわずかに首を傾げた。傷を負い苦痛を感じることを何とも思っていない、そんな口ぶりだった。負傷したってすぐに治るのだから問題ないだろうとでも言うように。
 重傷をものともしない肉体。強靭な膂力。牙や瞳孔等の獣を思わせる身体的特徴。───或る一つの予感がわたしの胸を過ぎっていた。初めて会ったあの夜から。
 ずっと言い出せずにいる。もし口に出してしまったら、もう二度と彼に会えなくなるかもしれないから。


「……あ、あの、」


 言葉を探す。彼をここに繋ぎ止めるための言い訳を。
 ふいに室外機の上のグラスに目がとまった。……そうだ、今夜は暑いから、彼に冷たい梅ジュースを振る舞ってあげよう。口に合うかどうかわからないけれど、もしかしたら気に入ってくれるかもしれない。


「…の、喉が乾きませんか? いま冷たい飲み物を持ってくるので、」


 ───待っててくださいね、と最後まで言うことは叶わなかった。 部屋の方へと振り返って彼に背を向けた瞬間、背後から伸びてきた筋肉質な腕に体を抱き込まれ、あっという間に身動きが取れなくなってしまう。
 背中に感じるぬくもり。部屋着越しに伝わってくる彼の鼓動。大きな体格の割に小さい頭が肩に埋められ、金色の髪が肌をかすめる。


「っ、ん…、」


 くすぐったくて思わず身を捩ると、すぐ耳元で息を詰める気配がした。
 


「……ああ、渇くよ。カラカラに渇いて、死にそうだ。」



 くぐもった声。首筋にかかる熱い吐息に、ぞくりと胸が騒ぐ。


「オマエといると、喉が渇いて、腹が減って、……頭がおかしくなりそうなんだ。」
「……アズマ、さ、」
「そうやってオマエが、……オレを呼ぶから、」


 耳朶に柔らかいものが触れた。……それが何かを確かめる前に彼のぬくもりが離れてゆく。体に回された腕の力が緩み、わたしを解放する。けれど後ろを振り返ることが出来なかった。彼と目を合わせるのが、怖かったから。
 ベランダに沈黙がおりる。遠くから街のさざめきが聞こえる。


「……悪い。」


 掠れた声が短い謝罪を紡いだ。
 この人はよくこうして謝る。別に責められるような悪いことをしたわけでもないのに、一方的に自分に非があると心を閉ざしてしまう時がある。どうして謝るのと聞いても肩を竦めて笑うだけ。答えてはくれない。そしてその時もさっきみたいに泣きそうな顔をする。
 後ろめたい感情があるのか、言葉にならない本心があるのか。もしかしたらそれらをどこにも吐き出せずにずっと抱え込んできたのかもしれない。吐き出してもいいのだと誰からも教えてもらえずに生きてきたのかもしれない。
 なんて孤独な人なのだろうと思う。星一つ見えない夜空に浮かぶ満月みたいだ。たった一人で光っているけれど、自ら光を放っているわけではない。
 月が光って見えるのは太陽があるからだ。
 ───では、この人の太陽はどこにあるのだろう。人を傷つけ、人に傷つけられ、血を流し、それでも強さを失わずにいられるのは、なぜなのだろう。彼にとっての『光』とは、一体何なのだろう。



「今夜は満月だ。……血が騒ぐ。ここに来るべきじゃなかった。」



 とん、という軽やかな音とともに後ろの気配が動いた。慌てて振り返ると、彼は長い脚を折りたたんだ体勢で器用に手すりの上に乗っていた。助走もつけないままたったの一蹴りでわたしの胸くらいの高さがある場所へ易々と飛び乗ってしまえるのだから、やはりこの人の膂力は尋常ではない。


「……アズマさん、」


 わたしは彼を呼んだ。
 あの夜に教えてもらった名前。わたしが唯一知っているこの人自身のこと。それ以外は何も知らない。住んでいる場所も、仕事も、何一つ。


「頭ではわかってる。……オレもオマエも、お互いの人生に存在しちゃならない。」


 彼の目はずっと遠くを見つめている。
 その瞳が何を映しているのか、わたしにはわからない。心の内に触れることも出来ない。今のわたしに許されているのは、名前を呼び続けることだけ。彼がわたしを忘れてしまわないように。たとえここではない遠い街に行ってしまったとしても。


「月が太陽と同じ空に並んで輝くなんざ有り得ねぇ。同じことだ。」
「…こうしてお話することも?」


 今にも去ってしまいそうな背中に縋りつけない代わりに言葉を投げかける。この時間を失いたくない。たとえつかの間であったとしても、わたしは彼とこうして静かに話をするのが好きだった。夜闇の向こうに消えていく後ろ姿を見送るたび『また会いたい』と願ってしまうくらい、わたしの中で彼の存在は大きく、かけがえのないものになりつつあった。……彼にとってはただの退屈しのぎかもしれないけれど。


「わたし、アズマさんが何をしている人なのかとか、そんなこと気にしません。詮索もしません。……それでも、だめですか…?」


 我ながら聞き分けの悪い女だと思う。自らすすんで都合のいい存在になることを望むだなんて献身でも何でもないただ愚かなだけの行為だ。お腹を空かせた狼に「どうぞわたしを食べてください」と身を捧げるに等しい。
 けれど、彼になら食べられてしまってもかまわないと、そう思ってしまう。
 この感情に名前はまだない。恋かもしれないし、ただの陶酔なのかもしれない。彼も、この気持ちも、すべては夏の夜の夢物語でいつかは跡形もなく消え去ってしまうのかもしれない。
 それでも、今はまだ夢を見ていたかった。
 月光の下で大きな影がわずかに揺らぐ。夜風が彼の金色の髪を靡かせる。
 青みがかった灰色の瞳が視線だけでわたしを一瞥した。




「……オマエは、残酷だな。」




 灼けつくような低い声がわたしを責める。



「絶対に手の届かない場所にいるくせに、そうやってオレを縛りつけようとする。……どこにいようと逃がしちゃくれねぇんだ。万有引力みてぇに。」



 胸がずきりと痛む。……やっぱり、鬱陶しい女だと思われてしまった。わたしとは違う世界で生きる彼にとって、他者からの束縛は邪魔以外の何物でもないのだろう。手足を縛る枷のようなものなのだ。嫌がられるとわかっていたけれど、こうしてはっきり拒絶されるとやはりこたえる。
 うつむき、唇を噛み締めた。溢れそうになる涙を懸命に堪える。
 ───その時だった。


「…!」


 突然目の前が真っ黒に塗り潰された。恐る恐る顔を上げると瞼から零れた涙が頬を濡らす。あわてて拭おうと手を伸ばすわたしより先に、グローブに覆われた指先がその雫をそっと拭った。


「……泣くな。」


 彼の手だった。頬に触れる指がわずかに震えている。
 声だって「泣くな」と言うくせに縋るみたいに必死だ。


「そういう顔するから、オレは……手を伸ばしちまうんだ。」


 逞しい腕がわたしを閉じ込める。彼に応えるように両手を伸ばして抱きしめ返そうとしたけれど、体格差がありすぎて回りきらなかった。仕方なく彼の腰にきゅっとしがみつく。するとわたしを抱く腕の力が明らかに強くなった。




「───身も心も、魂も、……オマエになら灼き尽くされても構わねぇって。」




 わたしを『残酷だ』と責めた時とも、先ほどの縋りつくような必死さとも違う。冷静で落ち着いているけれど、その奥には冷めやらぬ感情を秘めている。高音で熔けた硝子がゆっくりと固まってゆくような、そんな静かな熱を思わせる声色。
 その熱を時間の許す限り感じていたくて、わたしは彼に身を寄せた。……彼は拒まなかった。代わりに、わたしの肩に額を押し当てるようにして応えてくれた。今はそれが彼の精一杯なのだということが、痛いほどにわかった。
 きっと、朝までこうしていることは叶わない。もう少ししたら彼はここからいなくなる。そしてまたわたしの知らない遠い場所へ行ってしまう。だからせめて夜がこの人を攫ってしまうその瞬間まで傍にいたい。
 彼が何者であろうとかまわない。……たとえ人ならざる存在であろうと怖くなんかない。
 





「……アズマさん、」







 願うことをやめたくはない。
 二人を引き合わせるこの力に、いつか名前がつくことを。
 








 - END -

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 アズマは孤児の人狼。子どもの頃は見世物小屋みたいな場所にいた。よからぬ組織に目をつけられ、殺し屋として育てられる。
 群れの中で生活した経験がないため仲間意識が希薄、人付き合いも不慣れ。おまけに倫理観もない。
 他者から向けられる殺意や悪意には敏感だが、好意にはすこぶる疎い。なので彼女からの好意も、自分の中にある彼女への好意にも気づいていない。でもなんとなく「触りたい」と思ったり彼女の匂いを「いい匂い」と感じたり、傍にいると落ち着いたり、泣かせたり悲しませたくないと思ったりはする。
 ただどれも生まれて初めての感情なのでうまく表現出来なくてモヤモヤしている。

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