英雄のプレリュード
骨張った手。点々と見える注射痕。
「何だよ」
じっと握った手の甲を見詰めるのが気味悪く映ったのだろうクレシスは眉を寄せて手を払った。ラディスは「ごめん」と小さく詫びた後で顔を背ける彼を他所に短い思考に耽る。──普通に、健康に生きていればまず有り得ないだろうといった数の注射痕にあの手の状態は碌に栄養も与えられないまま薬だけで命を繋がれてきた何よりもの証拠だ。
この研究所の杜撰な体制に関しては然るべき機関に対処してもらいたいところだが現実的ではない予感さえする。学生が思い付きで立ち入れる場所にあるにも関わらず放置されてきたのには相応の理由というものがあるのだろう。その背景を鑑みず制裁を下そうと奮闘したところで闇の中に屠られるのが関の山と捉えてまず間違いない。ともなれば最低限──振り出しの思考に落ち着くが彼だけでも研究所から急ぎ連れ出し脱出を目指さなくては。
「!」
先程よりもずっと近い位置で爆発音が響いた。ラディスは驚き気を取られたが反してクレシスは冷静な面持ちで音のした方角を振り返って見ている辺り、この研究所では日常茶飯事なのだろう。他にも苦しめられているポケモンがいることは確実なのに今の自分では全員を救い出す力までは持ち合わせてないことが悔やまれる。……ヒーロー気取りか。
自分が。
例えば正義の戦士だったら。……
「どうする」
指示を煽る声に意識を引き戻された。
「……ここに来る前、研究者の思惑に嵌められて別の実験体と対峙させられたんだ」
「どいつだ?」
「研究者は8440とか言っていたけど」
二人は小走りになって動き出す。
「特徴は?」
「頭の先から爪の先までとにかく真っ黒だった。トキは強制的にメガシンカさせられた状態で暴走させられているポケモンだと話していたよ」
クレシスは目を丸くした。
「ツレを置いてきたのか?」
「あくまでも君の救出が目標だったからね」
ラディスが言うとクレシスは「そうか」と呟いて正面に向き直った。相変わらず耳に障る警告音に急かされるようにして走っているがシャッターの降りたエリアを避けているだけにしてはひたすら真っ直ぐ進んでいるような気がする。……いや。
「クレシス!」
こういう時の"勘"は最も信用に値する。
「引き返そう!」