英雄のプレリュード
「……もしもし。ママ?」
灯りを落とした暗い部屋の中。
「今? 友達のお家にお邪魔してたの」
ベッドの上で足を崩して座る少女はカッターシャツの袖に腕を通すと端末を肩に挟んで通話の相手と話を続けながらボタンを留めていく。そんな少女の様子を横目に眺めていたがふとナイトテーブルの上の時計の針が示す時刻に気付けばもうそんな時間か、と。紳士的な行動の一つともなれば親も快く思ってくれることだろう。そう思って少女が通話を終えるのを見計らって口を開く。
「送っていくよ」
あの女の子は彼女でも何でもない。
ただのクラスメイトだ。
「ありがとう。ラディス君」
湿った匂いのする暗い森の中を歩いて。
少女の家の前まで。
「また明日」
扉が閉まれば。
糸が切れたように笑みが失せた。
……帰るか。
都内の学校に通う十八歳。成績は優秀の部類で苦手な教科はこれといって無ければ生まれながらの見てくれの良さも相俟って人間関係は良好──どころか今しがたのそれだってクラスメイトの女の子に求められたから快く応えたという場面。
抵抗はない。応えるだけ相手が喜んでくれる。
俺は。
ラディス・フォンはそういう生き物だった。
人が良さそうに愛想良く振る舞っていても実際は無頓着で無感情且つ無関心。それでも自分の容姿を、資質を理由として頭の先から爪の先に至るまで求められることがあれば断る道理もない。
その行為を逆手に取られて相手に強気に出られることもない。盾となってくれるような恵まれた環境が生まれながらに備わっている。実際、自分の行いに対して声を上げた人は親に相談を持ちかけた次の日から見かけなくなって。
そりゃそうだろうとすら思う。
自分はその序列の上位に位置する人間だから。
「何であなたはいつもそうやって親のいうことを聞けないの!?」
派手に乾いた音が響き渡った。
「この、親不孝者!」
静かな森の中ではそれが特別よく響いて。
「……うるせえ」
「なにっ、」
「うるせえっつってんだよ!」
驚いて足を止めたのもほんの一瞬だけ。
「もう放っとけよ! 俺のことなんかッ!」
それでも、歩きながら。
ちらっと声と音の方向に目を遣る。