第1話 理想上司

  • 水谷梨子

    ……しゅ、出向っ!?

  • 水谷梨子

    しかも、明日から東京っ!? そんな無茶苦茶すぎます、部長ぉっ!!

  • 部長

    だ、大丈夫だよ、水谷くん。

  • 部長

    本社のほうは明日の午後イチにっていうし、旅費は全て本社負担、寮だってある。なんの心配もいらないよ。それに君、実家暮らしだったろ?

  • 水谷梨子

    そ、そうですけど、いくらなんでも急すぎませんか?

  • 部長

    本社からの要請だ、断るわけにもいかない。

  • 部長

    と、とにかく、君の仕事の引き継ぎは、こっちのほうでなんとかするから、君は何も心配せず、本社で頑張りたまえ。

  • 水谷梨子

    (そんなぁ~)

    あ、あの、なんで私なんかが……。

  • 部長

    向こうの部長さんのご指名だよ。

  • 水谷梨子

    へっ?

    (し、指名っ!?)

  • 部長

    ま、そーゆーことで君はもう帰っていいよ。いろいろと準備があるだろ?

  • 水谷梨子

    えっ……。

  • なんかやらかしました、私?

  • 5階。

    エレベーターの扉が開くのと同時に、よみがえってくる昨夜の出来事。

  • 水谷梨子

    あ……。

  • 坂戸和之

    辞令が出たんだって、本社に?

  • 水谷梨子

    え?
    あ、うん。

  • 坂戸和之

    そっか……。

  • 水谷梨子

    …………。

    (会話が続かない。そりゃ、そうだよね。きのうの今日だし……)

  • 坂戸和之

    ……梨子、俺ら別れるの、ちょっと早まったかな。
    きのう、ああは言ったけど、本心じゃない。本心じゃないけど……。

  • 坂戸和之

    あぁぁぁ~、クソ。
    俺はなにを言いたいんだ!?

  • 水谷梨子

    ……坂戸さん?

  • 坂戸和之

    なんか女々しいな、俺。
    自分から別れを切り出しておいて、なんだよコレ……。

  • 水谷梨子

    ううん、ううん。
    坂戸さんが悪いんじゃない。私がいけないの!

  • 水谷梨子

    私が……!

  • 坂戸和之

    ごめんな。
    幸せにしてやるって言っておきながら、投げ出したりして……。

  • 坂戸和之

    正直言うと、未練たらたらだ。

  • 水谷梨子

    え?

  • 坂戸和之

    梨子さえよければ、俺らもう一度……! いや、ちがうな。

  • 坂戸和之

    東京に行って、寂しい夜、ふと俺を思い出したとき……! 俺ともう一度、付き合いたいって言うんなら、そのときは考えてみてもいいけど?

  • 水谷梨子

    ぷっ!

  • 水谷梨子

    なにそれ。

  • 坂戸和之

    と、とにかく、そういうことだからっ!

  • 水谷梨子

    もうバカ……。
    泣かせないでよ。

  • 坂戸和之

    向こうでも頑張れよ。
    梨子は泣き虫なんだから、ハンカチは多めにな。

  • 水谷梨子

    うんうん、ありがとう。
    本当に……。

  • ありがとう。

    すすり泣きながら、ちゃんと言葉になって坂戸さんに伝わったかどうかはわからない。
    私ずっと、その優しさに甘えてたんだ。

  • 気づけば、1階の点灯ボタンがついていて、坂戸さんがドアを閉めるのボタンを押してくれている。

  • 坂戸和之

    わっ、バカ、泣くなよ! こんなところ、誰かに見られたら……!

  • 水谷梨子

    だってぇ、いつも優しいから……。

  • 私をちゃんと見てくれる人がいたのに、私はその人を幸せにすることができなかった。

    ごめんなさい。
    本当に今までごめんなさい。

  • 本社
  • ……やっちまった!

  • 水谷梨子

    ……す、すみませんでしたっ!!

  • 溝口課長

    15時、ね。

  • 溝口課長

    ま、しょうがないよね、急な話だったし。

  • 水谷梨子

    今後、そのようなことが無いよう気を付けます!

  • 水谷梨子

    それで、部長は……。

  • 溝口課長

    ああ、そうそう。
    部長から書類を預かったよ。水谷さんのパソコンにデータが入ってるから、その書類をもとに今日中に統計を出しておくようにって。

  • 溝口課長

    はい、ファイル。

  • 水谷梨子

    こ、こんなに?

  • 溝口課長

    あと、仕事の合間に会議室の片付けも頼むよ。そろそろ、会議が終わる頃だから。

  • 溝口課長

    あ……、コーヒー入れてくれる?

  • 水谷梨子

    あ、はい!

  • 私を指名してくれた部長の名前は、確か“仲月さん”。
    何度か電話を繋いだことあるけど、落ち着いた感じの人だった。
    いったい、どんな人なんだろう。

  • 溝口課長

    あのぅ、水谷さん。
    コーヒーは……。

  • 指名されたってことは、少なくとも期待されてるってことなんだよね?
    なら、頑張んなくちゃっ!

  • 第1会議室
  • 水谷梨子

    失礼しま───。

  • 仲月部長

    あっ!

  • 水谷梨子

    す、すみません、遅くなって。あとは、私が片付けますっ!

  • 仲月部長

    思ったより、若いな。

  • 水谷梨子

    ……はい?

  • 仲月部長

    へぇ~。

  • 水谷梨子

    あ、あのっ!

    (顔が近いんですけどっ!)

  • 仲月部長

    君、年いくつ?

  • 水谷梨子

    は、はい?

    (まさか、社内でナンパってやつですか?)

  • 水谷梨子

    に、にじゅう……よん……ですけど。

  • 仲月部長

    ははは!

  • 仲月部長

    そんな警戒しないで。なんか悪いことしてるみたいだから。

  • 水谷梨子

    で、ですが……。

  • 仲月部長

    へぇー、いいね。
    生で聞く声もセクシーだ。

  • 水谷梨子

    は?

  • 水谷梨子

    セ、セク……シー!?

  • 仲月部長

    ぷっ!

  • 仲月部長

    いいね、その反応。
    もっとイジメたくなっちゃう。

  • 水谷梨子

    イ、イジメ……?

  • プルルル……!

  • 水谷梨子

  • 仲月部長

    出なくていいよ。
    いないってことにしておけば。

  • 水谷梨子

    そういうわけにはいきませんっ。

  • 水谷梨子

    ───は、はい、会議室ですっ!

  • 仲月部長

    ククク。
    真面目だな。

  • 社員A

    「管理部ですが、そちらに仲月部長いらっしゃいますか?」

  • 水谷梨子

    (内線だ)

    な、仲月部長……、ですか?

  • 水谷梨子

    (知らないし……)

    えーと……。

  • 仲月部長

    貸して。

  • 水谷梨子

    え?

  • 仲月部長

    仲月です。なに?

  • 仲月部長

    ……そう、じゃ外線に繋いで。

  • 水谷梨子

    な……、

  • 水谷梨子

    仲月部長っ!?

  • うそ!?
    この人が仲月部長なのっ!?
    てっきり、四、五十代のおっさんかと思ってた……。

  • 仲月部長

    若くてびっくりした?

  • 水谷梨子

    えっ?

  • 仲月部長

    ククク。
    正直でいいね、君。

  • 水谷梨子

    す、すみません。
    まさか、こんな若い方だとは……。

  • 水谷梨子

    あっ、重ね重ね、本当にすみませんっ!

  • 仲月部長

    ぷっ!

  • 仲月部長

    そんなに緊張しなくていいよ。僕たち、顔を合わせるのは今日が初めてだけど、電話では何度か話してるんだから。

  • 水谷梨子

    そ、そうなんですけども……!

  • 仲月部長

    ホントいいね、君の声。

  • 仲月部長

    今回の人事異動で、管理課に穴があいたから、個人的に興味のあった君を僕が指名したんだ。

  • 水谷梨子

    え?
    個人的に?

    (あの、それって、いったいどういう意味なんでしょうか?)

  • 仲月部長

    はい、お喋りはここまで。

  • 仲月部長

    君に、このサンプルをあげるよ。

  • 水谷梨子

    え?

  • 仲月部長

    あさっての会議で、この香水が商品化されること間違いなし!

  • 水谷梨子

    あ、ありがとうございますっ!

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