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忍たま長屋のどこからか流れてきた噂では、なんでもくのたまにも6年生がいるらしい。噂によると、それがまた強くて頼れる、美しいお人であるとのことだった。
同じ忍術学園の生徒同士なのに何故顔を知らないのかと言うと、なんでもその御方は、京の菊亭だか大炊御門だか……公家の生まれだとか。清華家といえば、公家の中でもトップツーのお家柄。そんなわけで、深窓の姫君の顔はだーれも見たことがないのだと言う。
それが本当なら、本物のお姫様が学園にいるってことじゃあないか。1年は組のよい子達は顔を見合わせた。
「でもさあ、見たことねえよなあ」
きり丸がぼやく。小松田さんに聞いたが、その人が最後に学園を出入りしたのはふた月も前で、それ以来一切出入りをしていないらしい。
「変だよねえ」
しんべヱも神妙な顔で頷く。上級生になれば、お使いの他に実習だ任務だと出入りも増えるはずだ。
「なんだか秘密の話のようだったし……」
乱太郎が小松田さんにその人の名を問うても、「それは言えないんだ」と神妙な顔で首を振られてしまったのだ。あの、小松田さんが!
これは怪しい。誰も見たことない上に名前を言ってはいけないなんて、ますます怪しい。忍者の基本は足を使っての情報戦。そうと決まれば、三手に分かれて情報収集だ。
乱太郎は保健委員の当番だったので、ひとまず医務室に行った。同じく当番の伊作先輩がいつもの笑顔で迎えてくれて、乱太郎は伊作先輩も件の先輩も6年生だということに気がついた。「もしかしたら知り合いかも」という期待を持って、乱太郎は噂の真偽を伊作先輩に尋ねる。
「くのたまの6年生?」
伊作先輩は驚いたように首を傾げたが、すぐに「ああ、名前のことだね」と頷いた。小松田さんからは出てこなかった、先輩の名前と思しき女性の名に乱太郎は身を乗り出す。
「名前先輩とおっしゃるんですか?」
「あー、うん。ごめん、これは言わない約束だったかも…」
伊作先輩は困った顔で一度作業の手を止めた。乱太郎は二、三の瞬きをした。随分、親しそうな物言いだ。
「委員会には所属されていないんですか?苗字は?どんな方ですか?」
「う、うーん……」
勢いづいていくつか質問するも、伊作先輩は困った顔で唸るばかりで、返事はなかった。
伊作先輩は乱太郎の質問には答えられなかったけれど、代わりにくのたま達のちょっとした決まり事を教えてくれた。
くのたま達は生徒同士名前で呼び合うことが多く、山本シナ先生も生徒を名前で呼ぶ。あそこには、くのいちを志して入学した者もいれば、行儀見習いとして入学した者もいて、そういう者同士が机を並べて共に学ぶにはそういう工夫が大事なのだと。
つまりそれぞれ違う生い立ちを持ち、そこには苗字を名乗らぬ者も、あるいは名乗れぬ者も在籍しているということ。そういう事情があるから、いくら好奇心旺盛な忍たまいえど、その名をしつこく尋ねることをしてはいけないのだと。
乱太郎は予想外の流れに「なるほど」と深く頷いた。
「そういう事情もあるなんて。私、知らなかったです」
「くのたまの中でも名前は 忍たまの敷地 にはほとんど来ないからね……でも保健委員は他の委員会より会う機会が多いかも。ほら、くのいち教室の子でも怪我をすれば、ここに来るだろう」
「名前先輩もこちらにいらっしゃることがあるんですか?」
「うん。昼は……新野先生へ用事があることが多いかな」
当然発生する「じゃあ夜は?」という疑問は、伊作先輩が立ち上がったことで、聞きそびれてしまう。
伊作先輩は薬草を扱っていた手を払うと、「あとは……」と言って背後の棚を示した。薬箱や予備の包帯が詰めてある棚だ。
「一昨日、薬箱をひとつ出していてね」
確かに薬箱ひとつ分だけ棚が空いている。持ち出し用の小さな薬箱を入れればピッタリ埋まるような、そんな隙間だ。
「怪我も治って、そろそろ返しにくる頃じゃないかな。もしかしたら今日かもしれないよ」
「ええーっ」
乱太郎の期待に反して、当番の時間が終わるまでにその人が医務室を訪れることはなかった。すっかり日も暮れた頃、伊作先輩に「今日はもうおしまいでいいよ」と告げられて、乱太郎は少々がっかりして忍たま長屋に戻った。
しんべヱは食満先輩を訪ねて、話を聞くことにした。しんべヱが真っ先に訪ねようとした立花先輩は、幸いお使いを頼まれて外出中であった。
委員会の活動時間でもないのに、食満先輩は外壁に空けられた大穴の修補をしていた。そして、しんべヱが「食満せんぱーい」と声をかけると、嬉しそうに振り向いてその手を止めた。外壁の穴は誰が作ったのか、見事な大穴だった。
しんべヱが修補の手伝いを申し出ると、食満先輩は笑顔で「いいのか?悪いなあ」と全然悪く思ってなさそうに言った。
しんべヱはまず、姿を見せないくのたま6年生の噂について食満先輩に尋ねた。
「ああ、知ってるよ」
それは噂のことかしら、それとも本人のことかしらん。
しんべヱの疑問も食満先輩はちゃんとわかっているようで、「何から話そうか」と優しく頷いてみせた。その間も手は止まらない。鮮やかな手つきで、みるみるうちに壁が直っていく。
「昔は忍たまの敷地にもよくきていたんだがな。最近はめっきりだ」
「はえー、やっぱりお忙しいんですか?」
「ああ、くのたまの上級生は少ないから、ひとりが担う仕事も多いんだ。姿が見えないとなると追い回したくなる気持ちもわかるが……あいつはものすごーく、おっかないぞ?」
「食満先輩も怖いんですか?その先輩のこと」
「ううん……まあ……散々酷い目には遭わされたかな……」
食満先輩は空を見上げ、大きく息を吸って吐いた。その目の端にキラッと光るものが見えたような気がしたが、次の瞬間しんべヱに向き直った顔は、いつものかっこいい先輩の顔だった。
「他にもあいつには事情があってな。追いかけ回してもいいが、そのだな……あいつもお前たちに本気でやり返したりはしないと思うが……『ほどほどに』と皆にも言ってくれないか」
しんべヱはびっくりしてしまった。確かに、くのたまは少ないし、おっかない目に遭うこともあるし、上級生ともなればほとんど見たことがない。何より、あの、食満先輩が!「ほどほどに」って言うなんて。
「それってやっぱり……お生まれですか?噂で、お姫様なんだって聞きました」
「うーん……実はな」
食満先輩は言葉を区切り、周囲に誰もいないことを確認した。塀の上まで確認する念の入れようで、しんべヱはこれから何を言われるのかと思ったが。
食満先輩は膝をついて身を屈め、内緒話の姿勢をとった。
「期待を裏切るようで悪いが、あの子は普通の女の子だよ」
普通の女の子とは。しんべヱは首を傾げる。それは、ええっと……一体どんな?
「普通のくのたまだってことだよ。おれは下級生の頃に泣かせたことがあるし、勿論泣かされたこともある……」
「食満先輩が!」
「まあ弱みを握られてるのは、俺に限ったことではないが」
冗談めかした物言いに反し、食満先輩の表情は穏やかだった。
くのたまと忍たまの区別こそあれど、同じ6年を忍術学園で過ごした仲。そこには友情とも呼ばぬ程度のほのかな絆が、あることにはあるのだが……その辺りのことを、かわいい後輩に一から十まで説明するのは少々気恥ずかしい。泣かせた話も、泣かされた話も、後輩にするには……ちょっとな。
「わっかりました!『ほどほどに』、ですね!」
「ああ、頼むな」
食満先輩の複雑な内心など知らないしんべヱは、困った顔の先輩を安心させようと、「大丈夫ですよ!ご心配なく!」と元気に返事をした。
それから壁の大穴だが、食満先輩がひとりで綺麗に塞いでくれて、元の見栄えを取り戻した。それからふたりは次の穴を修補すべく、道具を抱えて歩き出した。
きり丸には実は、心当たりがあった。中在家先輩が前にいい内職仕事を持ってきてくれたことがあって、それの出所が怪しいと踏んでいた。
あの時の内職は比較的簡単だったから覚えている。上等な子供の着物をばらして、同じ大きさの正方形に切り分ける。そして出来上がった端切れを同じような色ごとにまとめるだけ。着物は10着もなかっただろう。
正方形にならなかった端っこはもらえたし、たったそれだけの簡単な仕事で、子供のお駄賃よりずっといい値段がついた。
中在家先輩は手伝ってくれた割にその金のほとんどを受け取ろうとせず、しかしその手つきは、一度やったことがあるかのように迷いなかった。
「これ、もしかして聞いちゃマズい仕事ですか」
きり丸は理由なく割のいいアルバイトなど存在しないことを知っていたので、恐る恐る中在家先輩に尋ねた。
こんなに楽ちんな内職仕事は、今まで受けたことがない。上等な子ども用の着物を扱うことも。上級生ともなるとそういう仕事を受けるルートもあるのかしらん……そうは言っても、やっぱり妙だ。
きり丸が作ったばかりの正方形の端切れを摘み上げると、中在家先輩はしばらく黙っていたが、「これは、とある武家の子どもの遺品である。その家の者は着物を残しておくことも、手放してよその子どもに着せることもできず、かと言って処分しようにも辛いというので、こわして売るまでを請け負った」というような内容をいつものようにもそもそ説明した。
きり丸は案外あっさり明かされた仕事の背景に納得した。なんだ、人死にか。そりゃあ……しょっちゅうある仕事じゃねえなあ。
更に中在家先輩は「低学年のころに一度、同じ仕事を同級生のくのたまが引き受けて、手伝わされたことがある」と付け足した。なーるほど、そういうルートが。
「その先輩、おれが仕事取っちゃって大丈夫かなあ」
きり丸が呟くと、中在家先輩の大きい手のひらが小さい頭に降ってきた。言葉はなかったが、大丈夫だということだろう。
きり丸は自分ひとりが忍術学園でアルバイトに追われているわけではないのだと、その時に知ったのだ。
名も知らぬアルバイト仲間は、直接姿を表すことこそないが、その後もそれとなくいくつか割のいい仕事を回してくれた。ある時は6年の先輩を経由して、またある時は街中で「おおい、坊主。あの子の弟分だろう」と振売(本物の振売の時もあれば、変装した卒業生のこともあった)から声をかけられて。
土井先生も「アルバイト先輩」のことは当然知っていて、「あの子の紹介なら間違いない。そうだなお前も、あれくらいの慎重さを身につけるようにだな……」なんてきり丸と比べてお説教を始める始末。当のきり丸は中在家先輩と土井先生のお墨付きとあって、安心して稼がせてもらっている。
一度お礼をと思ったが、中在家先輩経由で返ってきたのは「わたしは長次には恩があってね。お気になさらず。バイト仲間より」というたおやかな筆蹟 の一筆のみ。なんだ、中在家先輩への借りか。まあもらえるものはもらっとくけど、ときり丸はその一筆をひきだしにしまいこんだ。
回想終わり。
図書室の引戸を音を立てないように開ける。室内を見渡すと、中在家先輩はすぐに見つかった。中在家先輩もきり丸に気づいた。今日は当番でも無いのに、と首を傾げ。
きり丸は挨拶もそこそこに尋ねる。
「くのたまの6年生にお姫様がいるって聞いたんですけど、それってもしかして、あの一筆の」
珍しくきり丸が言葉を終える前に、中在家先輩の手が出た。きり丸が「あっ」と息を呑むも、その指先はきり丸の唇の前に人差し指を立てただけだった。
図書室ではお静かに、のサインだ。きり丸は慌てて周りを見渡す。放課後の図書室には数人が目当ての本を探すためにふらふらしている。誰もこちらのやり取りには目を向けていない。それだけだった。
「そうだ」
それからただ一言、肯定の言葉だけが降ってきた。きり丸は驚いて視線を中在家先輩に戻す。
自分を見下ろすその先輩の、顔は怖いが、その目は確かに友を思う目なのだと、きり丸は知っていた。だからひとつ頷いて、それ以上の追求をやめた。
ふたたび医務室にて。夜も更けた時間、下級生の乱太郎を帰して、夜番の伊作が1人で待機している。
件の人は薬箱の返却に訪れていた。
「……というわけで、は組のよい子達が君を探していたよ」
「勘弁しておくれよ……」
「ちゃんと否定しておいたよ。いつものようにね」
何から何までありがとう、と伊作に頭を下げ、薬箱を返したくのたま。苗字名前は噂の通り、確かに公家の人間だ。ただし「一応」とか「かろうじて」と付くような、傍流も傍流の人間だが。
「本当にまいっちゃうよ。うちの家の者にかかれば、小松田さんさえ優良物件なんだもの」
「はは……小松田さんもいいお人なのは間違い無いからね」
「伊作……」
「ごめんって」
名前がじっとりと睨むと伊作は慌てて謝った。ふたりは一応、ハッキリ言葉にして確認したことこそないが、互いに思い合う者同士だったので。なぜくっつかないのかと言われれば、やはり名前の生まれの問題が少々厄介だからだ。
名前は不機嫌さを隠しもせず、低い声で呟いた。
「お前もうちの家の者にかかれば『超』優良物件なのをお忘れなく」
「いやあ、僕は……なんていうか、その……君の、ご生家のお力にはあんまりなれないかと」
「落ち目も落ち目、傍流も傍流な家の必死さをわかってないね。『あの』忍術学園の関係者というだけで喉から手が出るほど欲しいんだよ。なんだっていいんだ、正直」
「それも僕の不運を見れば思いとどまるんじゃないかな。だって、その……お家が」
伊作は流石に言葉を飲み込んだが、続く言葉は「お家が本当に断絶してしまうかも」で間違いない。名前は沈黙を保った。「そうだね」とか下手な相槌を打ったら本当の本当に、サヨナラだと思ったので。
流石の不運もそこまでではないはずだ。名前としては伊作が婿に来て実家を潰してくれるなら万々歳だけど、さすがに伊作も「いいよ」とは言わないだろう。
名前はわざとらしくゴホンと咳払いをして。
「……全くうちの者ときたら、学園関係者と見るや縁談をセッティングしようとするのは勘弁して欲しいね」
と無理やり話題を終わらせた。伊作もそれをわかって、話題を変える。先程まで当番だった、かわいい後輩のこと。
「そうだね。乱太郎によると、君はもうふた月もの間、学園に引きこもっているらしいよ」
「おかしいとは思わなかったのかしら」
「まあ1年生だからね。それで完全に深窓の姫君のイメージが固定されちゃったみたい」
「勘弁してよ!否定してくれたんでしょ?」
「低学年の頃は何度も川に突き落とされた話と、それと、課題で無理やり渋い団子を食べさせられた話はしておいたよ」
「食満といい、お前といい……!!は組のやつはどいつもこいつも!」
名前は怒りに任せて頭巾をとっぱらった髪をかき乱したが、伊作は特にコメントしなかった。頼れる同室の友が同じように名前を怒らせたことも特に深掘りはしない。余計に怒らせるだけとわかっているから。
今日の昼、名前はいつものように小松田さんの目を避け、塀から出入りしていた。山本シナ先生へのご報告に向かう道すがら、食満が後輩と思しき1年生にくのたま上級生の悪評を吹き込んでいるところに遭遇した。あいつ……低学年の頃、散々酷い目に遭わせてやったのに。懲りないな。上から飛び降りて、踏み潰してやろうかしら。
しかし、相手の1年生の顔を見た途端、名前の脚は急転回してくのいち教室に向かった。あれは福富しんべヱちゃん!
相手が1のは……それも忍術学園が誇るトラブルメイカーらんきりしんの福富しんべヱとあっては関わらないに越したことはない。名前は脳内で食満をボコボコにすることしかできなかった。6年生になった今は多分、現実では勝てないけど。
人目を避け、忍たま側との関わりを断つような真似をしなければ、噂は立たなかっただろうが、名前側にも事情はある。
こっちも好きで柵越えならぬ塀越えをしているわけではないのだ。だがそうでもしないと、小松田さんが未来のない貧乏お公家に婿入りさせられてしまう日も遠くはないだろう。並外れた察知能力と職務遂行意識、天真爛漫通り越した鈍感さ……どれも後がない貧乏公家の目には「すごくイイ」風に見えてしまうのだ。
小松田さんどころか、学園を訪れる利吉さんや、あまつさえタソガレドキの若い忍者まで「我が孫娘の婿に!」と声をかけるのだから母の実家のジジババ達もガッツだけはある。勘弁してくれ!というのが正直なところだが、そのガッツさえあれば、お家の断絶は近くはないんじゃない……とも思わなくもない。しかしそう簡単にいかないのが苦しいところだ。
「は組のよい子達まで巻き込んでは、かなわないからね。悪いんだけど、うまいこと誤魔化しておいてくれない……頼むよ」
「わかってるよ」
昨今の情勢、清華家といってもどこも苦しい内情なのは言うに及ばず。京の本家はどうか知らないが、分家も分家、その端も端……母が健在だった頃の名前は庶民同様の暮らしをしていた。
名前の母は夫を亡くしてからは慎ましく母娘で暮らすことを選んだ。一方、母の生家は傍流でも家の再興復権を諦めてはいなかった。戦乱の世の中の流れに逆らってでも。出奔した娘のその子ども……公家の生まれの自覚のない名前を使ってでも。
名前の母はその状況を理解していて、病に倒れたその死の間際に「忍術学園を頼りなさい」と名前に言った。
呆然としたままの名前にずっしり重い6年分の学費を持たせ、腕利きの忍者を雇い、名前を忍術学園の門前まで送らせた。
名前の母は名前が学園に入学したとの知らせを受け、それから少しも経たぬうちに息を引き取った。
名前の母は全財産から学費の分を引いた全部を雇われ忍者へ支払ってしまったので、忍術学園に入学してからの名前は学費以外の金を稼ぐためにアルバイトに追われるハメになった。とはいえ、雇われ忍者が受け取った報酬は相場よりも少なかったに違いない。それでも仕事を請け負ってくれたあの忍者は、恐らく忍術学園の卒業生だった……と思う。名前も6年になった今ならわかるが、なんとかして学園を頼る新入生を助けてやりたいという気持ちがあったのだと思う。
「忍術学園はきっと君をあたたかく迎えてくれる。6年過ごせばもう、家族みたいなものだよ」
……そうでもなければ護衛対象にあんな優しい言葉をかけたりしない。
くのたま長屋で暮らすうちに、名前も次第にうまいやり方を覚えて、忍たまの敷地に出入りすることなく、生活費やら何やらを工面できるようになった。
しかし、名前の同級生……つまり長次や伊作達の学年は、名前が不慣れなアルバイトでてんてこ舞いになっていた頃を知っている。なんならうまく丸め込まれて、手伝わされたこともある。
特に長次はよく手伝わされた。気の優しい性格で断れなかったのと、なんだかんだ仲がよかったので。顔の怪我もまだなかったし。
今年の1年生に凄腕アルバイターがいると聞いた時は名前も少々親近感を感じたが、その子が図書委員と知ると笑ってしまった。つくづく他人のアルバイトに縁のある男だと思って。
だから、いくつか昔の伝手で、その1年生アルバイターに仕事を融通してやった。割のいい仕事、出所の確かな安全な仕事、うまくやれば忍術の勉強になる仕事。その子は大体ひとりでうまいことアルバイトをこなしているようだったが、時に長次や他の6年、果ては土井先生まで巻き込んでいるのだから、名前は「たくましい子だなあ」と感心しきりであった。
アルバイトの先輩である名前は、もうその手の内職仕事や採集バイトは卒業してしまっていて、もっと割りのいい仕事を受けている。その子もいつかはそうなるだろう。
「でも今の金稼ぎがうまくいっても、卒業後がなあ」
「そんなこと言うなよ……」
名前は頭の後ろで腕を組むと、そのまま後ろに倒れた。器用に寝っ転がったので、後頭部をぶつける痛そうな音はしなかった。行儀の悪い名前を、伊作が「お姫様なんだろ。そんなお行儀の悪いことして、夢を壊さないでよ」と嗜める。
「うぐぐ……」
伊作は名前が唸るのを見なかったことにして、もうもうと湯気の上がる茶を杓子で掬い、「ほら」と茶碗を差し出してやった。
名前は黙って腹筋の力で起き上がって、伊作の差し出した茶碗を受け取った。夢を壊さないよう、なるべく楚々とした手つきで。それから独特の……苦そうな草っぽい匂いに顔を顰めた。医務室で出てくる茶は大体薬茶である。
名前は礼を言ってから少々の覚悟のち口をつけた。苦い。薬くさい。ブレンド自体は体を温め痛みを和らげるような、月のものに効く調合だ。
名前は割と重い 性質 で、初潮を迎えてすぐの頃は動くこともできず、医務室で朝を迎えたこともあった。夜半に痛い痛いと泣いては、夜番に当たった不運な保健委員(名前の正面で茶の鍋を混ぜている、善法寺伊作のことである)に腰を摩らせたのも、今となっては過去のこと。
月日を重ね、月のもので入院するようなことは無くなった。昔よりはマシになったことは喜ばしいけど、時間が経過したと言うことは、卒業が近いと言うことである。卒業を控え、名前の生まれ家……つまり菊亭だか西園寺だかの家は、今までより一層名前を誰かと縁付かせようとすることに力を入れている。
4年に上がった頃からせっせと縁談を持ち込む者が現れ、しまいには学園の関係者に妻合わせようと画策する者まで出る始末。
名前の家の者に婿入りを迫られた学園関係者のひとり……後輩の鉢屋は「『あの』名前ちゃんの婿など……!私にはとてもとても、つとまりません!ご勘弁を!」と迷惑そうな顔を隠しもせずに使者を追い返したという。
「迷惑を被ったのだから、団子のひとつでも奢ってくださいよ」と名前に要求した鉢屋は肝が座っている。名前は頭を抱えたが、仕方なく団子を奢った。優秀すぎて可愛くない後輩だが、迷惑をかけたのは事実なので。
しかしまあ……よりによって鉢屋に目をつけるセンスの無さ!いや鉢屋の優秀さに目をつけたのは正しいが、あれは家もアレだし本人自体もアレだ。なんなら団子代で懐を痛めたことより、この優秀すぎる後輩に貸しを作ったことの方が痛い。
そもそも「くのたまの洗礼」と称し、名前に酷い目に遭わされたことがあるという点で、ひとつ下の学年のやつらは期待できない。おそらく全員が鉢屋と同じ断り方をするだろう。
後輩まで巻き込んだ騒動の末、名前が辿り着いた結論は「とにかく、顔見知りの誰かと結婚させられる前に就職」。伊作と結婚したいとか我儘言っている場合ではない。それしかない。……それにしても。名前は大きなため息をつく。
「就職先が決まらなすぎる!救いは同級生全員、勤め先が決まってないことだけど……どいつもこいつも優秀だし、決めようと思えばすぐだしなあ」
「教師は勧められなかったのかい?」
忍術学園に残るという選択肢も、もちろんあった。
山本シナ先生は名前が就職活動に難航する様子を見かねて、学園に所属し実技や教科を教えながら諸国の情報収集と周辺の牽制をする仕事を勧めてくださった。学園に愛着のある者なら誰もが欲しがる就職先だ。その選択肢を捨てて、太平の世のために学園の外に出た先輩方を名前は何人も知っている。
「……断ったよ。あれは特別枠というか、普通は無い枠だし……私よりももっと、戦場に出したら死にそうな戦忍志望者がなるべきでしょう。食満とか。食満とか。食満とか!」
名前は真剣に同級生の名前を連呼したが、伊作の表情は険しかった。
1年の間で「くのたまの6年生は深窓の姫君」などというかわいらしい噂が流行っているのに対し、6年の間では近頃気掛かりな噂が流れている。名前の就職先候補について。
「なら、本当にドクタケに就職する気?さすがに祝えないよ」
「だって……でも、あそこは評判が悪すぎるでしょう。流石にうちの者も手出ししないと思う」
「でも」
「学園への抑止力という意味でも、結構いいと思うんだけど。ドクタケ。それに私って、忍たまどもと違ってドクタケであんまり悪さしてないしさ。好感度も高いと思うの」
「そんなわけないだろう!」
伊作は思わず声を荒げ、その拍子に手元が狂い、鍋をひっくり返しそうになる。名前に飲ませて残りが少ないせいで、溢さずに済んだ。
伊作は今度こそ慎重に鍋をかき混ぜ、残りを全て自分の茶碗によそった。冷静になろうと、息を吸って吐いて繰り返す。
「ドクタケなんて……危険すぎるよ。わかってるだろうけど、三方から恨みをかう立場だよ。僕は反対だからね」
「そんなこと言ったって……」
「ドクタケは本当にだめ。土井先生の一件は、山本シナ先生からも聞いてるんだろう。やめておいた方がいい」
伊作だけでなく、同級生皆が反対しているが、それは言わないでおいた。
名前が任務で不在中に起きた大事件。名前は任務を終えて学園に戻ってきてからそのあらましを聞いたが、大変な事件だった。同級生やシナ先生から話を聞くにつれて、「やはりドクタケに」との思いは強くなったが、直接事件に関わった伊作からしたら止めずにはいられない。
ドクタケ忍者隊巻ノ一 を見ていない名前は知らないのだろうが、彼女の後輩であるくのたま下級生は悪の手先として描かれていた。
「これを名前に見せたら、激怒してドクタケに単身突撃すると思う」と小平太が呟き、悪鬼の如く描かれたくのたま下級生の絵をなぞった。絵が上手いせいで、なんとな〜くどこの誰かわかるところがなお悪い。名前の顔が知られていたら、とんでもない描かれ方をしただろうなと小平太は思った。
そういうわけで、名前に事件のあらましを話す時もその書の存在は伏せられた。
同級生の気遣いを知らない名前はますます口を尖らせる。
「確かに私は戦忍志望の奴らほど強くはないけども……」
「僻むにしても的外れだな」と伊作は思ったけれど、黙っておいた。ややこしいことになる予感がしたので。
間を持たせようとして、余った薬茶を口に含む。が、次の瞬間名前の突拍子もない発言に茶を噴いた。
「卒業したらやっぱり……文次郎と一緒になろうかな」
「ぶふっ」
「うわっ、突然何?」
「何って……」
とりあえず顔を拭くようにと名前は伊作に手拭いを貸してやった。「突然何?」なんて驚いた風を装ったが、流石にくのたま6年生なので想定内である。
ここまで伊作には「結婚もダメ!ドクタケに就職もダメ!」とダメ出しされてばかり、なんとかして動揺させてやりたいという気持ちがあった。
ふたりはここ数年互いに微妙に淡い感情をいだいているものの、いまいち進展のない関係にあった。名前が機を見ては仕掛けるものの、全然靡く気配もないのが善法寺伊作という男である。そのくせ好意ははっきりと口にする。
いまいちその気があるのかないのかわからないし、キッパリ振るか結婚するかどっちかにしてちょうだい!と名前はもどかしく思っている。そうハッキリ言えていたら卒業まで1年を切った状況でこんなことにはなっていない。
一方の伊作は不覚にも茶を噴かされて、気管に入ったのか暫くむせた。漸く落ち着いたところで、恨めし気に名前を睨む。
「なんで文次郎なのさ……」
「なんでも何も……『本当に就職に困るようなら、夫婦 になろう』って言われた」
「ブフーッ」
「ちょっと!2回目よ!」
文次郎が聞いていたら「いや、そうは言っていない」と首を横に振っただろう。
文次郎が言ったのは、「卒業後本当に行くに困ったなら、親しいやつに声を掛けて、夫婦のふりして暮らす道もある。若い女のひとり暮らしよりは追っ手の目を誤魔化せるだろうよ」である。進展のない同級生の恋路を彼なりにアシストしたつもりが、曲解されて意図せず三角関係に巻き込まれている。
相手は6年目のくのたま、プライドにさわるような物言いを避けようとした、潮江文次郎らしからぬ物言いが誤解の原因に違いなかった。さすがの文次郎も恋愛のアシストは不慣れで、下手くそなアシストが裏目に出た。
事実名前は、同級生のやけに言い淀みモジモジした様子を「流石の文次郎もプロポーズとなれば迂遠な言い方をするものだ」と妙に感心して受け取った。
肝心なところで鈍感な名前は、「いいやつだなあ。低学年の頃散々ちょっかいかけたのに、いざとなったらお嫁にもらってくれるなんて」と友情に感動すると同時に、「私って、そこそこかわいいものね。気づかぬうちに同級生を落とすなんて罪なものだわ」と案外満更でもなかった。文次郎、逃げろ。このままだととんとん拍子で貧乏お公家の婿にされるぞ。
ちなみに文次郎も他の6年も、いざとなれば5年のような情けないお断り(荷が重いので、お断り!)をするつもりはないが、どうせならそういうのは愛し合う者同士でやってくれと思っている。今のうちに逃げろ、文次郎。
二度も茶を噴かされた伊作は漸く立ち直って、姿勢を正した。名前の表情を伺うとますます不満そうな顔をしていた。
「私が文次郎と夫婦になると何かまずいわけ」
「まずいってわけでは……」
「じゃあ伊作には関係ないわね」
「関係なくはないだろ、同級生なんだから……」
名前が期待したように伊作が「文次郎じゃなくて僕と結婚してよ」と言い出すことはない。伊作は空になった鍋を片付けにかかる。ちぇっ、また失敗か。
いつしか芽生えた感情は互いに口に出すことはないが、存在は確かに知っているし、同級の奴らにも当然知れ渡っている。
「後は伊作が不運ですっ転んで押し倒し、既成事実を作るだけ」とは学園一冷静でクールな男、仙蔵の言である。綺麗な顔に反して、忍術学園で揉まれた末にいちばん下衆に育ってしまった。昔はあんなにかわいかったのに。
入学したての頃など、名前と連れ立って町を歩けば、気弱で体も小さな仙蔵の方が2歳は下に見られて、まるで姉弟のようであった。6年生となった今ではすっかり、仙子と歩けば引き立て役だし、仙蔵と歩けば美男にたぶらかされる町娘の様相である。
「ほら、飲み終わったならお帰り。明日も早くから実習って聞いたよ」
「ご馳走様でした」
「うん。あ、ちょっと待って。そろそろ薬無くなる頃じゃないかい」
そうだったかしらと名前は長屋の引き出しを思い出そうとする。まだ残っていたような気もするし、使い切ってしまったような気もする。確認して、また忍たまの敷地 まで貰いにくるのも二度手間だと思って名前は頷いた。
「貰っていってもいい」
「勿論。用意するから少し待ってて」
伊作は手際よく薬を並べていく。律儀にこれが何の薬か、いつ飲むのか、説明してくれるが、名前は伊作の手つきを眺めるのに夢中でほとんど聞いていなかった。いつも聞いているからほとんど覚えてしまっているし。
名前はありもしない将来を思い描く。私が母の生まれ家に戻り、あるべき名を名乗り、相応の誰かと縁付いて、名実ともに公家となったなら。お前は「善法寺伊作が欲しい」という私の一言で、無理やり母の生家 お抱えの医者だか忍者にさせられる。そしたらお前は一生どこにも行けない籠の鳥だ。
お前の同室やタソガレドキの曲者など障害はいくつかあるけれど、そんなものねじ伏せようと思えばいくらでもできる。そういう家の人間なのだぞ。私は。一応。仮にも。
清華家いえども落ち目な上、端も端の生まれの、それも母が家を飛び出したような逸れものだけど。面倒な生まれで厄介事ばかり持ち込む生家だけど、それは確かに名前のアイデンティティなのだ。
「これでよし、と。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
薬を手渡す指先が一瞬触れ合って、わずかな躊躇いの後に離れる。名前の手元には見慣れた薬の包みだけが残った。伊作は常と変わらぬ笑顔で名前を見ている。
優しい笑顔で名前を惑わし、話を聞くだけ聞いて、何にも情報をくれないという点で、こいつは間違いなく忍者向きだ。だから、名前は伊作のこういうところが好きで、大嫌いで、憎らしいのだ。早く遠くの城でも、どこでも、就職してしまえ。名前の目の届かないところに行ってしまえ。
胸の内ではいくらでも恨み言が吐けるが、言葉にしなければ相手には届かない。
名前は医務室の引き戸を閉じると、人に知られぬように静かにため息を吐いた。草木も静まり返った夜分。遠くに同級生の吠える声が聞こえた気がしないでもない。
人目を避けようとすると、こんな時間でもなければ忍たまの敷地に出てこられない。おかげでかわいい1年生から「深窓の姫君」扱いされる始末。就職先は見つからないし、伊作には遠回しに振られ。本当に文次郎にもらってもらうしか現状を打開する術はないのかもしれない。
くのいち教室に6年もいても、未だわからないことばかりだ。憧れの山本シナ先生のようになるビジョンはかけらも見えない。
「全く、うまくいかない世の中だな」と名前は自分の不出来を世情のせいにした。名前が心から望む人と結ばれることも、母の生家が「伊作をお抱えに」と望むことも、絶対にない。名前にはそんなことを言い出す勇気はない。
忍者が潜むに不向きな満月が、裏裏山のお空に煌々と光っている。名前はもう一度ため息をついて、屋根に飛び上がった。
力では同級のやつらには勝てなくなったが、身軽さという一点では名前に軍配が上がる。でも、もう競っても意味がない。
名前は低学年の頃は戦場でお呼びのかかるような戦忍になりたかったけど、そんな無謀な夢は学年が上がるにつれて口にするのをやめた。名前は屋根を駆け、慎重に人目を避け、くのたま長屋に戻る。
名前の去った後の保健室では、伊作が薬箱を片付けている。小さな薬入れに減った薬を補充して、乱れた包帯を整えて、蓋を閉める。伊作がひとつため息をついた。
夜の医務室には彼ひとり。「……難しいねえ」という、寂しい呟きを聞く者はいない。
同じ忍術学園の生徒同士なのに何故顔を知らないのかと言うと、なんでもその御方は、京の菊亭だか大炊御門だか……公家の生まれだとか。清華家といえば、公家の中でもトップツーのお家柄。そんなわけで、深窓の姫君の顔はだーれも見たことがないのだと言う。
それが本当なら、本物のお姫様が学園にいるってことじゃあないか。1年は組のよい子達は顔を見合わせた。
「でもさあ、見たことねえよなあ」
きり丸がぼやく。小松田さんに聞いたが、その人が最後に学園を出入りしたのはふた月も前で、それ以来一切出入りをしていないらしい。
「変だよねえ」
しんべヱも神妙な顔で頷く。上級生になれば、お使いの他に実習だ任務だと出入りも増えるはずだ。
「なんだか秘密の話のようだったし……」
乱太郎が小松田さんにその人の名を問うても、「それは言えないんだ」と神妙な顔で首を振られてしまったのだ。あの、小松田さんが!
これは怪しい。誰も見たことない上に名前を言ってはいけないなんて、ますます怪しい。忍者の基本は足を使っての情報戦。そうと決まれば、三手に分かれて情報収集だ。
乱太郎は保健委員の当番だったので、ひとまず医務室に行った。同じく当番の伊作先輩がいつもの笑顔で迎えてくれて、乱太郎は伊作先輩も件の先輩も6年生だということに気がついた。「もしかしたら知り合いかも」という期待を持って、乱太郎は噂の真偽を伊作先輩に尋ねる。
「くのたまの6年生?」
伊作先輩は驚いたように首を傾げたが、すぐに「ああ、名前のことだね」と頷いた。小松田さんからは出てこなかった、先輩の名前と思しき女性の名に乱太郎は身を乗り出す。
「名前先輩とおっしゃるんですか?」
「あー、うん。ごめん、これは言わない約束だったかも…」
伊作先輩は困った顔で一度作業の手を止めた。乱太郎は二、三の瞬きをした。随分、親しそうな物言いだ。
「委員会には所属されていないんですか?苗字は?どんな方ですか?」
「う、うーん……」
勢いづいていくつか質問するも、伊作先輩は困った顔で唸るばかりで、返事はなかった。
伊作先輩は乱太郎の質問には答えられなかったけれど、代わりにくのたま達のちょっとした決まり事を教えてくれた。
くのたま達は生徒同士名前で呼び合うことが多く、山本シナ先生も生徒を名前で呼ぶ。あそこには、くのいちを志して入学した者もいれば、行儀見習いとして入学した者もいて、そういう者同士が机を並べて共に学ぶにはそういう工夫が大事なのだと。
つまりそれぞれ違う生い立ちを持ち、そこには苗字を名乗らぬ者も、あるいは名乗れぬ者も在籍しているということ。そういう事情があるから、いくら好奇心旺盛な忍たまいえど、その名をしつこく尋ねることをしてはいけないのだと。
乱太郎は予想外の流れに「なるほど」と深く頷いた。
「そういう事情もあるなんて。私、知らなかったです」
「くのたまの中でも名前は
「名前先輩もこちらにいらっしゃることがあるんですか?」
「うん。昼は……新野先生へ用事があることが多いかな」
当然発生する「じゃあ夜は?」という疑問は、伊作先輩が立ち上がったことで、聞きそびれてしまう。
伊作先輩は薬草を扱っていた手を払うと、「あとは……」と言って背後の棚を示した。薬箱や予備の包帯が詰めてある棚だ。
「一昨日、薬箱をひとつ出していてね」
確かに薬箱ひとつ分だけ棚が空いている。持ち出し用の小さな薬箱を入れればピッタリ埋まるような、そんな隙間だ。
「怪我も治って、そろそろ返しにくる頃じゃないかな。もしかしたら今日かもしれないよ」
「ええーっ」
乱太郎の期待に反して、当番の時間が終わるまでにその人が医務室を訪れることはなかった。すっかり日も暮れた頃、伊作先輩に「今日はもうおしまいでいいよ」と告げられて、乱太郎は少々がっかりして忍たま長屋に戻った。
しんべヱは食満先輩を訪ねて、話を聞くことにした。しんべヱが真っ先に訪ねようとした立花先輩は、幸いお使いを頼まれて外出中であった。
委員会の活動時間でもないのに、食満先輩は外壁に空けられた大穴の修補をしていた。そして、しんべヱが「食満せんぱーい」と声をかけると、嬉しそうに振り向いてその手を止めた。外壁の穴は誰が作ったのか、見事な大穴だった。
しんべヱが修補の手伝いを申し出ると、食満先輩は笑顔で「いいのか?悪いなあ」と全然悪く思ってなさそうに言った。
しんべヱはまず、姿を見せないくのたま6年生の噂について食満先輩に尋ねた。
「ああ、知ってるよ」
それは噂のことかしら、それとも本人のことかしらん。
しんべヱの疑問も食満先輩はちゃんとわかっているようで、「何から話そうか」と優しく頷いてみせた。その間も手は止まらない。鮮やかな手つきで、みるみるうちに壁が直っていく。
「昔は忍たまの敷地にもよくきていたんだがな。最近はめっきりだ」
「はえー、やっぱりお忙しいんですか?」
「ああ、くのたまの上級生は少ないから、ひとりが担う仕事も多いんだ。姿が見えないとなると追い回したくなる気持ちもわかるが……あいつはものすごーく、おっかないぞ?」
「食満先輩も怖いんですか?その先輩のこと」
「ううん……まあ……散々酷い目には遭わされたかな……」
食満先輩は空を見上げ、大きく息を吸って吐いた。その目の端にキラッと光るものが見えたような気がしたが、次の瞬間しんべヱに向き直った顔は、いつものかっこいい先輩の顔だった。
「他にもあいつには事情があってな。追いかけ回してもいいが、そのだな……あいつもお前たちに本気でやり返したりはしないと思うが……『ほどほどに』と皆にも言ってくれないか」
しんべヱはびっくりしてしまった。確かに、くのたまは少ないし、おっかない目に遭うこともあるし、上級生ともなればほとんど見たことがない。何より、あの、食満先輩が!「ほどほどに」って言うなんて。
「それってやっぱり……お生まれですか?噂で、お姫様なんだって聞きました」
「うーん……実はな」
食満先輩は言葉を区切り、周囲に誰もいないことを確認した。塀の上まで確認する念の入れようで、しんべヱはこれから何を言われるのかと思ったが。
食満先輩は膝をついて身を屈め、内緒話の姿勢をとった。
「期待を裏切るようで悪いが、あの子は普通の女の子だよ」
普通の女の子とは。しんべヱは首を傾げる。それは、ええっと……一体どんな?
「普通のくのたまだってことだよ。おれは下級生の頃に泣かせたことがあるし、勿論泣かされたこともある……」
「食満先輩が!」
「まあ弱みを握られてるのは、俺に限ったことではないが」
冗談めかした物言いに反し、食満先輩の表情は穏やかだった。
くのたまと忍たまの区別こそあれど、同じ6年を忍術学園で過ごした仲。そこには友情とも呼ばぬ程度のほのかな絆が、あることにはあるのだが……その辺りのことを、かわいい後輩に一から十まで説明するのは少々気恥ずかしい。泣かせた話も、泣かされた話も、後輩にするには……ちょっとな。
「わっかりました!『ほどほどに』、ですね!」
「ああ、頼むな」
食満先輩の複雑な内心など知らないしんべヱは、困った顔の先輩を安心させようと、「大丈夫ですよ!ご心配なく!」と元気に返事をした。
それから壁の大穴だが、食満先輩がひとりで綺麗に塞いでくれて、元の見栄えを取り戻した。それからふたりは次の穴を修補すべく、道具を抱えて歩き出した。
きり丸には実は、心当たりがあった。中在家先輩が前にいい内職仕事を持ってきてくれたことがあって、それの出所が怪しいと踏んでいた。
あの時の内職は比較的簡単だったから覚えている。上等な子供の着物をばらして、同じ大きさの正方形に切り分ける。そして出来上がった端切れを同じような色ごとにまとめるだけ。着物は10着もなかっただろう。
正方形にならなかった端っこはもらえたし、たったそれだけの簡単な仕事で、子供のお駄賃よりずっといい値段がついた。
中在家先輩は手伝ってくれた割にその金のほとんどを受け取ろうとせず、しかしその手つきは、一度やったことがあるかのように迷いなかった。
「これ、もしかして聞いちゃマズい仕事ですか」
きり丸は理由なく割のいいアルバイトなど存在しないことを知っていたので、恐る恐る中在家先輩に尋ねた。
こんなに楽ちんな内職仕事は、今まで受けたことがない。上等な子ども用の着物を扱うことも。上級生ともなるとそういう仕事を受けるルートもあるのかしらん……そうは言っても、やっぱり妙だ。
きり丸が作ったばかりの正方形の端切れを摘み上げると、中在家先輩はしばらく黙っていたが、「これは、とある武家の子どもの遺品である。その家の者は着物を残しておくことも、手放してよその子どもに着せることもできず、かと言って処分しようにも辛いというので、こわして売るまでを請け負った」というような内容をいつものようにもそもそ説明した。
きり丸は案外あっさり明かされた仕事の背景に納得した。なんだ、人死にか。そりゃあ……しょっちゅうある仕事じゃねえなあ。
更に中在家先輩は「低学年のころに一度、同じ仕事を同級生のくのたまが引き受けて、手伝わされたことがある」と付け足した。なーるほど、そういうルートが。
「その先輩、おれが仕事取っちゃって大丈夫かなあ」
きり丸が呟くと、中在家先輩の大きい手のひらが小さい頭に降ってきた。言葉はなかったが、大丈夫だということだろう。
きり丸は自分ひとりが忍術学園でアルバイトに追われているわけではないのだと、その時に知ったのだ。
名も知らぬアルバイト仲間は、直接姿を表すことこそないが、その後もそれとなくいくつか割のいい仕事を回してくれた。ある時は6年の先輩を経由して、またある時は街中で「おおい、坊主。あの子の弟分だろう」と振売(本物の振売の時もあれば、変装した卒業生のこともあった)から声をかけられて。
土井先生も「アルバイト先輩」のことは当然知っていて、「あの子の紹介なら間違いない。そうだなお前も、あれくらいの慎重さを身につけるようにだな……」なんてきり丸と比べてお説教を始める始末。当のきり丸は中在家先輩と土井先生のお墨付きとあって、安心して稼がせてもらっている。
一度お礼をと思ったが、中在家先輩経由で返ってきたのは「わたしは長次には恩があってね。お気になさらず。バイト仲間より」というたおやかな
回想終わり。
図書室の引戸を音を立てないように開ける。室内を見渡すと、中在家先輩はすぐに見つかった。中在家先輩もきり丸に気づいた。今日は当番でも無いのに、と首を傾げ。
きり丸は挨拶もそこそこに尋ねる。
「くのたまの6年生にお姫様がいるって聞いたんですけど、それってもしかして、あの一筆の」
珍しくきり丸が言葉を終える前に、中在家先輩の手が出た。きり丸が「あっ」と息を呑むも、その指先はきり丸の唇の前に人差し指を立てただけだった。
図書室ではお静かに、のサインだ。きり丸は慌てて周りを見渡す。放課後の図書室には数人が目当ての本を探すためにふらふらしている。誰もこちらのやり取りには目を向けていない。それだけだった。
「そうだ」
それからただ一言、肯定の言葉だけが降ってきた。きり丸は驚いて視線を中在家先輩に戻す。
自分を見下ろすその先輩の、顔は怖いが、その目は確かに友を思う目なのだと、きり丸は知っていた。だからひとつ頷いて、それ以上の追求をやめた。
ふたたび医務室にて。夜も更けた時間、下級生の乱太郎を帰して、夜番の伊作が1人で待機している。
件の人は薬箱の返却に訪れていた。
「……というわけで、は組のよい子達が君を探していたよ」
「勘弁しておくれよ……」
「ちゃんと否定しておいたよ。いつものようにね」
何から何までありがとう、と伊作に頭を下げ、薬箱を返したくのたま。苗字名前は噂の通り、確かに公家の人間だ。ただし「一応」とか「かろうじて」と付くような、傍流も傍流の人間だが。
「本当にまいっちゃうよ。うちの家の者にかかれば、小松田さんさえ優良物件なんだもの」
「はは……小松田さんもいいお人なのは間違い無いからね」
「伊作……」
「ごめんって」
名前がじっとりと睨むと伊作は慌てて謝った。ふたりは一応、ハッキリ言葉にして確認したことこそないが、互いに思い合う者同士だったので。なぜくっつかないのかと言われれば、やはり名前の生まれの問題が少々厄介だからだ。
名前は不機嫌さを隠しもせず、低い声で呟いた。
「お前もうちの家の者にかかれば『超』優良物件なのをお忘れなく」
「いやあ、僕は……なんていうか、その……君の、ご生家のお力にはあんまりなれないかと」
「落ち目も落ち目、傍流も傍流な家の必死さをわかってないね。『あの』忍術学園の関係者というだけで喉から手が出るほど欲しいんだよ。なんだっていいんだ、正直」
「それも僕の不運を見れば思いとどまるんじゃないかな。だって、その……お家が」
伊作は流石に言葉を飲み込んだが、続く言葉は「お家が本当に断絶してしまうかも」で間違いない。名前は沈黙を保った。「そうだね」とか下手な相槌を打ったら本当の本当に、サヨナラだと思ったので。
流石の不運もそこまでではないはずだ。名前としては伊作が婿に来て実家を潰してくれるなら万々歳だけど、さすがに伊作も「いいよ」とは言わないだろう。
名前はわざとらしくゴホンと咳払いをして。
「……全くうちの者ときたら、学園関係者と見るや縁談をセッティングしようとするのは勘弁して欲しいね」
と無理やり話題を終わらせた。伊作もそれをわかって、話題を変える。先程まで当番だった、かわいい後輩のこと。
「そうだね。乱太郎によると、君はもうふた月もの間、学園に引きこもっているらしいよ」
「おかしいとは思わなかったのかしら」
「まあ1年生だからね。それで完全に深窓の姫君のイメージが固定されちゃったみたい」
「勘弁してよ!否定してくれたんでしょ?」
「低学年の頃は何度も川に突き落とされた話と、それと、課題で無理やり渋い団子を食べさせられた話はしておいたよ」
「食満といい、お前といい……!!は組のやつはどいつもこいつも!」
名前は怒りに任せて頭巾をとっぱらった髪をかき乱したが、伊作は特にコメントしなかった。頼れる同室の友が同じように名前を怒らせたことも特に深掘りはしない。余計に怒らせるだけとわかっているから。
今日の昼、名前はいつものように小松田さんの目を避け、塀から出入りしていた。山本シナ先生へのご報告に向かう道すがら、食満が後輩と思しき1年生にくのたま上級生の悪評を吹き込んでいるところに遭遇した。あいつ……低学年の頃、散々酷い目に遭わせてやったのに。懲りないな。上から飛び降りて、踏み潰してやろうかしら。
しかし、相手の1年生の顔を見た途端、名前の脚は急転回してくのいち教室に向かった。あれは福富しんべヱちゃん!
相手が1のは……それも忍術学園が誇るトラブルメイカーらんきりしんの福富しんべヱとあっては関わらないに越したことはない。名前は脳内で食満をボコボコにすることしかできなかった。6年生になった今は多分、現実では勝てないけど。
人目を避け、忍たま側との関わりを断つような真似をしなければ、噂は立たなかっただろうが、名前側にも事情はある。
こっちも好きで柵越えならぬ塀越えをしているわけではないのだ。だがそうでもしないと、小松田さんが未来のない貧乏お公家に婿入りさせられてしまう日も遠くはないだろう。並外れた察知能力と職務遂行意識、天真爛漫通り越した鈍感さ……どれも後がない貧乏公家の目には「すごくイイ」風に見えてしまうのだ。
小松田さんどころか、学園を訪れる利吉さんや、あまつさえタソガレドキの若い忍者まで「我が孫娘の婿に!」と声をかけるのだから母の実家のジジババ達もガッツだけはある。勘弁してくれ!というのが正直なところだが、そのガッツさえあれば、お家の断絶は近くはないんじゃない……とも思わなくもない。しかしそう簡単にいかないのが苦しいところだ。
「は組のよい子達まで巻き込んでは、かなわないからね。悪いんだけど、うまいこと誤魔化しておいてくれない……頼むよ」
「わかってるよ」
昨今の情勢、清華家といってもどこも苦しい内情なのは言うに及ばず。京の本家はどうか知らないが、分家も分家、その端も端……母が健在だった頃の名前は庶民同様の暮らしをしていた。
名前の母は夫を亡くしてからは慎ましく母娘で暮らすことを選んだ。一方、母の生家は傍流でも家の再興復権を諦めてはいなかった。戦乱の世の中の流れに逆らってでも。出奔した娘のその子ども……公家の生まれの自覚のない名前を使ってでも。
名前の母はその状況を理解していて、病に倒れたその死の間際に「忍術学園を頼りなさい」と名前に言った。
呆然としたままの名前にずっしり重い6年分の学費を持たせ、腕利きの忍者を雇い、名前を忍術学園の門前まで送らせた。
名前の母は名前が学園に入学したとの知らせを受け、それから少しも経たぬうちに息を引き取った。
名前の母は全財産から学費の分を引いた全部を雇われ忍者へ支払ってしまったので、忍術学園に入学してからの名前は学費以外の金を稼ぐためにアルバイトに追われるハメになった。とはいえ、雇われ忍者が受け取った報酬は相場よりも少なかったに違いない。それでも仕事を請け負ってくれたあの忍者は、恐らく忍術学園の卒業生だった……と思う。名前も6年になった今ならわかるが、なんとかして学園を頼る新入生を助けてやりたいという気持ちがあったのだと思う。
「忍術学園はきっと君をあたたかく迎えてくれる。6年過ごせばもう、家族みたいなものだよ」
……そうでもなければ護衛対象にあんな優しい言葉をかけたりしない。
くのたま長屋で暮らすうちに、名前も次第にうまいやり方を覚えて、忍たまの敷地に出入りすることなく、生活費やら何やらを工面できるようになった。
しかし、名前の同級生……つまり長次や伊作達の学年は、名前が不慣れなアルバイトでてんてこ舞いになっていた頃を知っている。なんならうまく丸め込まれて、手伝わされたこともある。
特に長次はよく手伝わされた。気の優しい性格で断れなかったのと、なんだかんだ仲がよかったので。顔の怪我もまだなかったし。
今年の1年生に凄腕アルバイターがいると聞いた時は名前も少々親近感を感じたが、その子が図書委員と知ると笑ってしまった。つくづく他人のアルバイトに縁のある男だと思って。
だから、いくつか昔の伝手で、その1年生アルバイターに仕事を融通してやった。割のいい仕事、出所の確かな安全な仕事、うまくやれば忍術の勉強になる仕事。その子は大体ひとりでうまいことアルバイトをこなしているようだったが、時に長次や他の6年、果ては土井先生まで巻き込んでいるのだから、名前は「たくましい子だなあ」と感心しきりであった。
アルバイトの先輩である名前は、もうその手の内職仕事や採集バイトは卒業してしまっていて、もっと割りのいい仕事を受けている。その子もいつかはそうなるだろう。
「でも今の金稼ぎがうまくいっても、卒業後がなあ」
「そんなこと言うなよ……」
名前は頭の後ろで腕を組むと、そのまま後ろに倒れた。器用に寝っ転がったので、後頭部をぶつける痛そうな音はしなかった。行儀の悪い名前を、伊作が「お姫様なんだろ。そんなお行儀の悪いことして、夢を壊さないでよ」と嗜める。
「うぐぐ……」
伊作は名前が唸るのを見なかったことにして、もうもうと湯気の上がる茶を杓子で掬い、「ほら」と茶碗を差し出してやった。
名前は黙って腹筋の力で起き上がって、伊作の差し出した茶碗を受け取った。夢を壊さないよう、なるべく楚々とした手つきで。それから独特の……苦そうな草っぽい匂いに顔を顰めた。医務室で出てくる茶は大体薬茶である。
名前は礼を言ってから少々の覚悟のち口をつけた。苦い。薬くさい。ブレンド自体は体を温め痛みを和らげるような、月のものに効く調合だ。
名前は割と重い
月日を重ね、月のもので入院するようなことは無くなった。昔よりはマシになったことは喜ばしいけど、時間が経過したと言うことは、卒業が近いと言うことである。卒業を控え、名前の生まれ家……つまり菊亭だか西園寺だかの家は、今までより一層名前を誰かと縁付かせようとすることに力を入れている。
4年に上がった頃からせっせと縁談を持ち込む者が現れ、しまいには学園の関係者に妻合わせようと画策する者まで出る始末。
名前の家の者に婿入りを迫られた学園関係者のひとり……後輩の鉢屋は「『あの』名前ちゃんの婿など……!私にはとてもとても、つとまりません!ご勘弁を!」と迷惑そうな顔を隠しもせずに使者を追い返したという。
「迷惑を被ったのだから、団子のひとつでも奢ってくださいよ」と名前に要求した鉢屋は肝が座っている。名前は頭を抱えたが、仕方なく団子を奢った。優秀すぎて可愛くない後輩だが、迷惑をかけたのは事実なので。
しかしまあ……よりによって鉢屋に目をつけるセンスの無さ!いや鉢屋の優秀さに目をつけたのは正しいが、あれは家もアレだし本人自体もアレだ。なんなら団子代で懐を痛めたことより、この優秀すぎる後輩に貸しを作ったことの方が痛い。
そもそも「くのたまの洗礼」と称し、名前に酷い目に遭わされたことがあるという点で、ひとつ下の学年のやつらは期待できない。おそらく全員が鉢屋と同じ断り方をするだろう。
後輩まで巻き込んだ騒動の末、名前が辿り着いた結論は「とにかく、顔見知りの誰かと結婚させられる前に就職」。伊作と結婚したいとか我儘言っている場合ではない。それしかない。……それにしても。名前は大きなため息をつく。
「就職先が決まらなすぎる!救いは同級生全員、勤め先が決まってないことだけど……どいつもこいつも優秀だし、決めようと思えばすぐだしなあ」
「教師は勧められなかったのかい?」
忍術学園に残るという選択肢も、もちろんあった。
山本シナ先生は名前が就職活動に難航する様子を見かねて、学園に所属し実技や教科を教えながら諸国の情報収集と周辺の牽制をする仕事を勧めてくださった。学園に愛着のある者なら誰もが欲しがる就職先だ。その選択肢を捨てて、太平の世のために学園の外に出た先輩方を名前は何人も知っている。
「……断ったよ。あれは特別枠というか、普通は無い枠だし……私よりももっと、戦場に出したら死にそうな戦忍志望者がなるべきでしょう。食満とか。食満とか。食満とか!」
名前は真剣に同級生の名前を連呼したが、伊作の表情は険しかった。
1年の間で「くのたまの6年生は深窓の姫君」などというかわいらしい噂が流行っているのに対し、6年の間では近頃気掛かりな噂が流れている。名前の就職先候補について。
「なら、本当にドクタケに就職する気?さすがに祝えないよ」
「だって……でも、あそこは評判が悪すぎるでしょう。流石にうちの者も手出ししないと思う」
「でも」
「学園への抑止力という意味でも、結構いいと思うんだけど。ドクタケ。それに私って、忍たまどもと違ってドクタケであんまり悪さしてないしさ。好感度も高いと思うの」
「そんなわけないだろう!」
伊作は思わず声を荒げ、その拍子に手元が狂い、鍋をひっくり返しそうになる。名前に飲ませて残りが少ないせいで、溢さずに済んだ。
伊作は今度こそ慎重に鍋をかき混ぜ、残りを全て自分の茶碗によそった。冷静になろうと、息を吸って吐いて繰り返す。
「ドクタケなんて……危険すぎるよ。わかってるだろうけど、三方から恨みをかう立場だよ。僕は反対だからね」
「そんなこと言ったって……」
「ドクタケは本当にだめ。土井先生の一件は、山本シナ先生からも聞いてるんだろう。やめておいた方がいい」
伊作だけでなく、同級生皆が反対しているが、それは言わないでおいた。
名前が任務で不在中に起きた大事件。名前は任務を終えて学園に戻ってきてからそのあらましを聞いたが、大変な事件だった。同級生やシナ先生から話を聞くにつれて、「やはりドクタケに」との思いは強くなったが、直接事件に関わった伊作からしたら止めずにはいられない。
「これを名前に見せたら、激怒してドクタケに単身突撃すると思う」と小平太が呟き、悪鬼の如く描かれたくのたま下級生の絵をなぞった。絵が上手いせいで、なんとな〜くどこの誰かわかるところがなお悪い。名前の顔が知られていたら、とんでもない描かれ方をしただろうなと小平太は思った。
そういうわけで、名前に事件のあらましを話す時もその書の存在は伏せられた。
同級生の気遣いを知らない名前はますます口を尖らせる。
「確かに私は戦忍志望の奴らほど強くはないけども……」
「僻むにしても的外れだな」と伊作は思ったけれど、黙っておいた。ややこしいことになる予感がしたので。
間を持たせようとして、余った薬茶を口に含む。が、次の瞬間名前の突拍子もない発言に茶を噴いた。
「卒業したらやっぱり……文次郎と一緒になろうかな」
「ぶふっ」
「うわっ、突然何?」
「何って……」
とりあえず顔を拭くようにと名前は伊作に手拭いを貸してやった。「突然何?」なんて驚いた風を装ったが、流石にくのたま6年生なので想定内である。
ここまで伊作には「結婚もダメ!ドクタケに就職もダメ!」とダメ出しされてばかり、なんとかして動揺させてやりたいという気持ちがあった。
ふたりはここ数年互いに微妙に淡い感情をいだいているものの、いまいち進展のない関係にあった。名前が機を見ては仕掛けるものの、全然靡く気配もないのが善法寺伊作という男である。そのくせ好意ははっきりと口にする。
いまいちその気があるのかないのかわからないし、キッパリ振るか結婚するかどっちかにしてちょうだい!と名前はもどかしく思っている。そうハッキリ言えていたら卒業まで1年を切った状況でこんなことにはなっていない。
一方の伊作は不覚にも茶を噴かされて、気管に入ったのか暫くむせた。漸く落ち着いたところで、恨めし気に名前を睨む。
「なんで文次郎なのさ……」
「なんでも何も……『本当に就職に困るようなら、
「ブフーッ」
「ちょっと!2回目よ!」
文次郎が聞いていたら「いや、そうは言っていない」と首を横に振っただろう。
文次郎が言ったのは、「卒業後本当に行くに困ったなら、親しいやつに声を掛けて、夫婦のふりして暮らす道もある。若い女のひとり暮らしよりは追っ手の目を誤魔化せるだろうよ」である。進展のない同級生の恋路を彼なりにアシストしたつもりが、曲解されて意図せず三角関係に巻き込まれている。
相手は6年目のくのたま、プライドにさわるような物言いを避けようとした、潮江文次郎らしからぬ物言いが誤解の原因に違いなかった。さすがの文次郎も恋愛のアシストは不慣れで、下手くそなアシストが裏目に出た。
事実名前は、同級生のやけに言い淀みモジモジした様子を「流石の文次郎もプロポーズとなれば迂遠な言い方をするものだ」と妙に感心して受け取った。
肝心なところで鈍感な名前は、「いいやつだなあ。低学年の頃散々ちょっかいかけたのに、いざとなったらお嫁にもらってくれるなんて」と友情に感動すると同時に、「私って、そこそこかわいいものね。気づかぬうちに同級生を落とすなんて罪なものだわ」と案外満更でもなかった。文次郎、逃げろ。このままだととんとん拍子で貧乏お公家の婿にされるぞ。
ちなみに文次郎も他の6年も、いざとなれば5年のような情けないお断り(荷が重いので、お断り!)をするつもりはないが、どうせならそういうのは愛し合う者同士でやってくれと思っている。今のうちに逃げろ、文次郎。
二度も茶を噴かされた伊作は漸く立ち直って、姿勢を正した。名前の表情を伺うとますます不満そうな顔をしていた。
「私が文次郎と夫婦になると何かまずいわけ」
「まずいってわけでは……」
「じゃあ伊作には関係ないわね」
「関係なくはないだろ、同級生なんだから……」
名前が期待したように伊作が「文次郎じゃなくて僕と結婚してよ」と言い出すことはない。伊作は空になった鍋を片付けにかかる。ちぇっ、また失敗か。
いつしか芽生えた感情は互いに口に出すことはないが、存在は確かに知っているし、同級の奴らにも当然知れ渡っている。
「後は伊作が不運ですっ転んで押し倒し、既成事実を作るだけ」とは学園一冷静でクールな男、仙蔵の言である。綺麗な顔に反して、忍術学園で揉まれた末にいちばん下衆に育ってしまった。昔はあんなにかわいかったのに。
入学したての頃など、名前と連れ立って町を歩けば、気弱で体も小さな仙蔵の方が2歳は下に見られて、まるで姉弟のようであった。6年生となった今ではすっかり、仙子と歩けば引き立て役だし、仙蔵と歩けば美男にたぶらかされる町娘の様相である。
「ほら、飲み終わったならお帰り。明日も早くから実習って聞いたよ」
「ご馳走様でした」
「うん。あ、ちょっと待って。そろそろ薬無くなる頃じゃないかい」
そうだったかしらと名前は長屋の引き出しを思い出そうとする。まだ残っていたような気もするし、使い切ってしまったような気もする。確認して、また
「貰っていってもいい」
「勿論。用意するから少し待ってて」
伊作は手際よく薬を並べていく。律儀にこれが何の薬か、いつ飲むのか、説明してくれるが、名前は伊作の手つきを眺めるのに夢中でほとんど聞いていなかった。いつも聞いているからほとんど覚えてしまっているし。
名前はありもしない将来を思い描く。私が母の生まれ家に戻り、あるべき名を名乗り、相応の誰かと縁付いて、名実ともに公家となったなら。お前は「善法寺伊作が欲しい」という私の一言で、無理やり
お前の同室やタソガレドキの曲者など障害はいくつかあるけれど、そんなものねじ伏せようと思えばいくらでもできる。そういう家の人間なのだぞ。私は。一応。仮にも。
清華家いえども落ち目な上、端も端の生まれの、それも母が家を飛び出したような逸れものだけど。面倒な生まれで厄介事ばかり持ち込む生家だけど、それは確かに名前のアイデンティティなのだ。
「これでよし、と。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
薬を手渡す指先が一瞬触れ合って、わずかな躊躇いの後に離れる。名前の手元には見慣れた薬の包みだけが残った。伊作は常と変わらぬ笑顔で名前を見ている。
優しい笑顔で名前を惑わし、話を聞くだけ聞いて、何にも情報をくれないという点で、こいつは間違いなく忍者向きだ。だから、名前は伊作のこういうところが好きで、大嫌いで、憎らしいのだ。早く遠くの城でも、どこでも、就職してしまえ。名前の目の届かないところに行ってしまえ。
胸の内ではいくらでも恨み言が吐けるが、言葉にしなければ相手には届かない。
名前は医務室の引き戸を閉じると、人に知られぬように静かにため息を吐いた。草木も静まり返った夜分。遠くに同級生の吠える声が聞こえた気がしないでもない。
人目を避けようとすると、こんな時間でもなければ忍たまの敷地に出てこられない。おかげでかわいい1年生から「深窓の姫君」扱いされる始末。就職先は見つからないし、伊作には遠回しに振られ。本当に文次郎にもらってもらうしか現状を打開する術はないのかもしれない。
くのいち教室に6年もいても、未だわからないことばかりだ。憧れの山本シナ先生のようになるビジョンはかけらも見えない。
「全く、うまくいかない世の中だな」と名前は自分の不出来を世情のせいにした。名前が心から望む人と結ばれることも、母の生家が「伊作をお抱えに」と望むことも、絶対にない。名前にはそんなことを言い出す勇気はない。
忍者が潜むに不向きな満月が、裏裏山のお空に煌々と光っている。名前はもう一度ため息をついて、屋根に飛び上がった。
力では同級のやつらには勝てなくなったが、身軽さという一点では名前に軍配が上がる。でも、もう競っても意味がない。
名前は低学年の頃は戦場でお呼びのかかるような戦忍になりたかったけど、そんな無謀な夢は学年が上がるにつれて口にするのをやめた。名前は屋根を駆け、慎重に人目を避け、くのたま長屋に戻る。
名前の去った後の保健室では、伊作が薬箱を片付けている。小さな薬入れに減った薬を補充して、乱れた包帯を整えて、蓋を閉める。伊作がひとつため息をついた。
夜の医務室には彼ひとり。「……難しいねえ」という、寂しい呟きを聞く者はいない。
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