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実は結婚していると俺が打ち明けた時の夕士の顔と言ったら、言葉にするなら「ホントありえねえ」といったところだろう。
「結構自由に旅してますよね……電話したりとかもないし……最後に帰ったのいつっスか?」
「うーんお前が帰国するのに合わせて帰ったから……8ヶ月前?」
「帰れ!今すぐに!!!!後輩連れてインドの秘境なんぞに来てる場合か!?デリーまで戻って、飛行機取って一刻もはやく帰ったほうがいいって!」
自分を後輩だと認めたことを指摘する前に夕士は慌てて荷物をまとめ出した。今回の目的は既に果たしたので、この後温泉にでも入ってそのままバングラデシュに行こうと思っていたのだが。
「今更何を……第一夕士お前、初対面の時も1年ぶりの帰国だって言ったでしょうが」
「1年もほったらかしに!?ブックマスターなんて怪しすぎる職業の、それも奇跡狩り にしょっ引かれるようなおっさんと結婚してくれるような奇特な人を!?」
「それが知らないんだよなあ」
「結婚詐欺とかに当たらないんすか、それは……」
夕士は本当に呆れ返った顔で荷造りを終えた。旅を始めた頃よりは格段に手際良くなった。感慨深く見つめていると「さっさとボート出して帰ろう」と俺を促す。全く良くできた後輩だよ、お前は。
さて、例のごとくボートには穴が開いており、我々は浸水したボートで急流下りをする羽目になった。滝からボートごととびおりた時の夕士の「やっぱ俺は龍さんの後輩になりてえええ」という絶叫が耳に残っている。そういうシーンでそういう言葉が出てくる時点でおまえは俺の後輩確定である。しかもその後何やかんやあってフィリピンでの仕事を請け負うことになり、船で日本まで戻る羽目になった。これが中々に厄介な代物でまさか裏ヴァチカンまで出張るような事態になるとは……マジで散々な目にあった。夕士は仕事中は前よりずっと冷静に対処するようになったが、此度フィリピンで入手した品がやばすぎるので船で帰ると聞いて真っ先に「合法……っスよね?」と小声で耳打ちしてきた。心配するところはそこかよ。当たり前だろうが。不法入国なんぞ‘’バレたら”パスポート使えなくなっちゃうだろうが。バレなきゃいいとかそういうのは追々覚えてもらうとして。
さて、どうにかこうにか日本に帰国した俺たちが真っ先にやったのは品物の取引だ。こればっかりは、アパートに戻る前に済ませておかないと住人を危険に晒しかねないためである。また名前ちゃんは俺が 七賢人の書 を開いていても「また変な本読んでる」くらいにしか思わない人だが、タチの悪いものとの相性は最悪だ。
「よーし我らが寿荘に帰還すっぞー」
「あんたはアパートより先に戻るところがあるだろうが!!!」
簡素な船で日本まで戻ってきたせいで夕士は真っ黒に日焼けして、さっきから腹の音が鳴り響いている。最後の方は食糧もかつかつだったせいだ。
「えーいつもアパート寄ってから帰んだけど」
「家に!!帰れよ!!」
帰る家があるんだから、真っ先に帰ってやれよ。と夕士は元気の無い声で訴えた。そういえば夕士は両親を亡くし、親戚の家から飛び出して寿荘に住むようになったのだった。今の夕士にとって帰る家はあの妖怪アパートだ。
「あーはいはい、帰る。帰るって」
夕士の恨みがましい目に負けて、俺は大人しく奥さんのいる家に帰ることにした。夕士はギュルギュルなる腹を抱えて去っていった。このナリじゃあ絶対タクシーは乗車拒否されるし電車すら危うい。歩いて帰るかあ……日の暮れるまでには辿り着けるといいな。
名前ちゃんは至って普通の現代人だ。スピリチュアルには懐疑的だし、妖怪も幽霊も見たことない(と本人は思っている)。俺の仕事も「フリーの商社マン」だとか「紙類中心の人気バイヤー」だとか何とか昔一生懸命誤魔化したのを信じている。フリーの商社マンって何だよ。もうちょっと疑う心を持ちなよ。
平日は都内の会社でバリバリ働き、土日は家のことをしたり趣味の庭いじりをする。稼ぎのいい名前ちゃん名義で買った郊外の一軒家には名前ちゃんの大きな愛犬がのびのび遊べる庭がついている。彼女は仕事もプライベートも俺なしで充実させており、年に数回帰ってくると歓迎してくれるけど出ていく時もあっさり見送られる。
キビキビ動いてよく笑って、自分が霊に命を狙われるなんて思いもしない、かわいいひと。旅先から戻る度に渡すお土産をしげしげと見て「不思議な趣味だね」と疑わずに受け取るひと。ナザールボンジュウもアンクもドリームキャッチャーもガムランボールもポムールも、その他効果絶大な君のためのお守りが、他のマチュピチュの人形だとかスリランカのお香と同じ類の「不思議なお土産」と同じだと信じて疑いもしない。今回のお土産のタビーズにどんなまじないがかけてあるのか、初めて会ったときに押し付けた護身の札が幾度燃え尽きたか、俺がどんな思いで君のことを護っているか知らないひと。
這々の体で我が家に辿り着くと、名前ちゃんが自力で整えた自慢の庭が出迎えてくれた。花木にはしっかり水やりをした形跡があり、水やりホースはくるくる巻いて水道の首に引っ掛けてある。ヤクモは(名前ちゃんの愛するゴールデンレトリーバーの名前だ)こうも暑いと窓際にも寄らずエアコンの効いた室内にいるのだろう。俺がいてもいなくても変わらない名前ちゃんの平和な日常だ。
綺麗に掃除された煉瓦敷きの小道を汚しながら玄関まで辿り着き、インターホンを押した。
「ただいま〜」
めちゃくちゃ情けない声が出た。あーあ、お腹すいた。いつもはアパートで飯食って温泉入って酒飲んでと日本の暮らしを満喫してから戻ってくるところを、炎天下の中何時間も歩いて帰ってきたのだから疲労も段違いだ。
「もう、急に帰ってくるんだから」
呑気にドアを開けた名前ちゃんが絶句した。
「え」
ご主人様の異変に気づいたヤクモがリビングから飛び出してきて、俺を見るなり激しく唸る。マジで?俺たち同じご主人様を持つ同士じゃん?
「な、何?そのカッコ……どこ行ってたの?」
「インド!酷い目に遭ったよマジで」
名前ちゃんがかろうじて震えながら言葉を絞り出したので、俺はへらへら笑いながらもその裏でこりゃ離婚かな〜と泣きたくなった。名前ちゃんは綺麗好きを超えて潔癖のきらいがある。だから今まで一旦アパートに帰って綺麗にしてから帰ってたのに!!ふらふらのよろよろの汚い格好なんて一度も見せたことなかったのに!!やっぱアパートで回復してから帰るべきだった。お腹も空いたし……
「ちょっとそこで待ってて……ヤクモ、ステイ!エアコンのお部屋でいい子にしてね」
絶対ハンコ取りに行ったやつじゃん……俺は夕士を恨んだ。夕士が一緒にアパート連れて帰ってくれればこんなことにならなかったのに。
「庭出て」
声は硬かったが、予想に反して名前ちゃんはゴミ袋とシャンプーとリンスとヤクモのシャンプーまで抱えて玄関に戻ってきた。今日が8月でよかった。庭先で水責めされても風邪引かなくてすみそう。
名前ちゃんは水撒きホースを出してきて情け容赦なくジャブジャブ俺にかけて、ジャンプーの泡立ちの悪さに再び絶句し、パンツだけは許されたものの、着ていた服はその場で全部捨てられた。この炎天下で外に出ているご近所さんがいなくてよかった。ふだんニコニコ笑顔がトレードマークでご近所さんとも仲良しの名前ちゃんは、今めちゃくちゃ冷たい目で夫(かわいい名前ちゃんをほっぽって1年のほとんどをひとりきりにしていて非常に外向きの評判が悪い)を見下ろしている。
「なんでインドから帰ってくるだけでこんなになっちゃったの」
「インドでお化けと戦って、その後フィリピンで13世紀生まれの発禁書をめぐってゲリラと銃撃戦になって、船で逃げてきたから」
真面目な顔で包み隠さず打ち明けたのに、名前ちゃんはやっぱり困った顔をしている。オカルトを信じていない名前ちゃんには俺が冗談を言っているようにしか見えないのだろう。当然だ。帰宅するといつも名前ちゃんにどんな冒険をしたのか概要を伝えるようにしているのだが、全部冗談だと思われている。出会ったばかりの頃は、まだ若く、嫌われるのが怖くて誤魔化してばかりいたのでそのせいかもしれない。銃弾が掠った時の傷跡を誤魔化そうとして自転車でこけた時の傷だと言ったのを名前ちゃんはまだ信じている。
「発禁書はちゃんと取引相手に渡してから来たよ」
「そうなの」
名前ちゃんは静かな声でそう言った。名前ちゃんが綺麗に整えた庭の向こう、家の前の道を黒い蛇のようなものがうねうねと這いずっている。結界にぶち当たり憎らしそうにこちらを見て去っていった。俺のはった結界のせいで名前ちゃんを脅かす何者もこの家の敷地に入ってこれない。出会った時から名前ちゃんはとにかくこういう良くないものを惹きつけやすくて、そのくせ名前ちゃんはそういうものが一切見えていなかった。代わりに俺がせっせと札を貼ったりお守りを渡したり、でも科学第一主義かつリアリストの名前ちゃんはそういう迷惑なもの全部非実在だと思っている。出会ったのはまだ学生のころだったから、名前ちゃんは俺をただのスピリチュアル趣味が高じてアジアや中南米の僻地に赴く商社マンだかバイヤーだと思っているんだろうな。全く人の苦労も知らず。はぐらかし続けた俺が悪いといえばそうだが。アパートの面々からは「伴侶に自分の正体を明かせない臆病者」のレッテルを貼られるのも当然である。
俺は泡を流してびしょびしょのパンツ一丁で名前ちゃんを見上げた。泣かないでほしい。初めて出会った時、名前ちゃんは霊をたくさん引っ付けた体を引きずるように歩いていた。思わず「何か困ってること、あるんじゃない?」と声をかけて、下手くそなナンパと勘違いされた時から、ずっと、君が困ったり泣いたりするところを見たくないと思っている。
君を失いたくない。名前ちゃんの信じる現実からはみ出ている俺を嫌いにならないでほしい。もう二度と危険な目にあって欲しくない。俺が裏ヴァチカンだの危険思想の宗教組織だのに追われるのに巻き込みたくない。信じて、とか言いたくない。名前ちゃんの平和な日常を壊したくない。そばにいて、笑って。俺が普通じゃないのを、いつか死の間際でもいいから、受け入れてほしい。
「あなたが前、部屋で本を開いていたでしょう」
「ああーあれね」
七賢人の書 のことだ。一度うっかりしていて私室で思いっきり解放中のところを名前ちゃんに見られている。弁解するまでもなく名前ちゃんは不思議な趣味ね、といつものように受け流していたはずだ。
「あれってやっぱり、一般流通の本じゃないよね」
俺はどう返事をするべきか悩んだ。それはその通りで、でも名前ちゃんが何を言いたいのかわからないのでそうだね、と返事をするにとどめた。名前ちゃんは納得のいかない顔で言葉を続ける。
「違う、私が言いたいのは……あれは何かスピリチュアル的な超能力を有しているよね、ってこと」
「ブッッ」
「ずっと気になっていたの。そうでなきゃ説明がつかない」
「そ、そうなんだ」
リアリストの名前ちゃんがまさかの核心に迫った発言をしたので俺は激しく動揺した。それを見て名前ちゃんは確信したらしく、なるほどと頷きそれから「次は風呂だよ。全身ピカピカにするまでリビングには入れないから」と俺を追い立てる。濡れないように避けておいた 七賢人の書 を拾い上げ、名前ちゃんを追って煉瓦敷きの小道を歩く。
「あのー名前ちゃん、どうしてそんな結論に?」
「だってそうじゃなきゃ説明がつかない」
「そ、その説明というのは」
「あなたと出会ってから怖い思いをしなくなったことの説明」
名前ちゃんの黒い瞳が俺を射抜いた。ようやく、俺の苦労は報われたらしいと知って呆然とする。なんだ、知ってたのか。っていうか、やっぱり今まで怖い思いをして。自然と険しくなる顔を名前ちゃんが覗き込む。
「今までただのスピリチュアル趣味の変な人だって言い聞かせてきたけど、今日ね、あなたが帰ってきた途端に道の前の“変なの”が一匹残らず逃げ出したのよ」
「……」
やっぱり結界が弱っていたんだ。8ヶ月も留守にしたせいだ、もっと早く帰ってくればよかった。俺のいない間に怖い思いをしたんだろうか。結界は明日にでも貼り直そう。
「そういう顔をするってことは、やっぱりそうなんだね」
「……うん」
「私どうしてあなたが私を好きになったのかずっと不思議だったんだけど、あなた私が心配なのね」
「そりゃ最初に声をかけたのは心配だったからだけど。今は大好きだから心配なんだ」
「……今日やっと納得したの」
名前ちゃんはタオルで俺の足を拭いた。拭かないと綺麗に磨き上げた廊下が濡れるからだとわかっていたが、断って自分で拭いて床に上がる。
「あなたが私のこと、ずっと守ってくれてたのね」
たまらない気持ちになって、なんとか「そうだよ」の一言を絞り出した。
「 七賢人の書 も、13世紀の発禁書も、小 ・ヒエロゾイコンも、ブックマスターのあなたも、全部この世にあるのね」
「うん」
「私今までそうやって私の知らないところで私を守ってくれたあなたを否定していた」
名前ちゃんの顔が青白く、唇が震えていたのでびしょ濡れなのもこの後風呂に入れと言われたことも一旦忘れて抱きしめた。
「いいんだよ、怪しくて非科学的なことばっかりやってるんだから当然だって」
「でも」
「代わりに一個だけ聞いていい?」
名前ちゃんの青白い頬を涙が伝った。腕の中で小さな頭がこくりと頷く。
初めて会った時もそうだった。生きていく力を全部背中に引っ付けたやつらに取られて、今にも倒れてしまいそうな顔色をしていた。若くて未熟だったせいで無理やり引っぺがすしか方法を知らなくて、怖い思いをさせてしまったのを今でも悔やんでいる。
「そんな怪しくて非科学的で、信じられないくらいスピリチュアルに傾倒してる人間だよ。なんで結婚してくれたの?」
名前ちゃんの頬がさっと薔薇色に染まった。抱きしめた腕に細っこい指が添えられる。震えている。俺はどんな言葉でも受け止めようと名前ちゃんの唇が開くのを待った。
「だって……好きになっちゃったんだもん」
「ッガ」
ず、ずるすぎる!!!!!!ずるすぎるってそれは!!!!結婚してよかった!!心の中で絶叫が止まらない。あまりの衝撃に俺は一瞬で無力化され、ハッと冷静に戻った名前ちゃんによって風呂場に連行された。なんだ、好きだから……そうなんだ……名前ちゃん俺のこと好きなんだ……ちょー可愛いじゃん……
@@@
「というわけで、名前ちゃんは俺のことが好きらしい」
「何やってんだよマジで!!!!!!あんたは!!!!」
聞いてて寒気が、と言いつつ画家は酒瓶を煽った。男どもの爆笑がアパートの天然温泉に反響する。チャプチャプと夕士が温泉の湯をかき混ぜては必死で無心になろうとしている。やっぱここの温泉は最高だ。インドで温泉に入り損なった分余計にしみる。
詩人は呑気に新しい缶ビールを開けた。
「じゃあ名前ちゃんは自分の周りで何が起きてるか“知ってた”んだね」
「そうらしい。気づいてるフリすると余計にタチが悪いから見ないし信じないようにしてたんだと」
「なるほど……」
大爆笑から復帰した龍さんが美しい顔に思案の表情を浮かべる。
「私が思うに」
「ハイ」
龍さんのありがたい御言葉を聞こうと夕士が湯船の中で姿勢を正す。お前、本当そういうとこだぞ。
「名前さんがそういうもの達に一生絡まれるという人生があったという前提で」
龍さんは湯船にまっすぐ線をひく。そこにもう一本線を引いて交わらせる。
「古本屋さんが出会って、助けた。これは運命として数えるとして、その影響を受けて名前さんがさらに過酷な影響を受けていることは否定できない」
「やっぱりー」
そんな気はしていた。やばい組織に追われたあと、頭をよぎるのは都内で暮らす名前ちゃんのこと。電話をすればなんでもない風に応答するけど、その時護身の札は燃えて、結界に傷がついていることは言うまでもない。
龍さんがさらに2本線を引く。
「なら出会わない方が彼女にとってよかったのか?出会ってもそのまま別れれば強大な霊をこれ以上呼ばずにすんだか?というもしもの話になるけど。私はそうは思わない。なぜならあの時出会ったことの方が優先されるべき運命だからね。因果律とも言える」
「つまり……どゆこと?」
詩人が首を傾げ、龍さんはにっこり笑って自分の分の缶ビールを手繰り寄せる。アサヒスーパードライ。
「今、古本屋さんが名前さんと愛し合って結婚した現状が考えうるすべての世界線の中で最善ということ。というわけで古本屋さん改めて結婚おめでとう!!相思相愛の夫婦に乾杯!!!!」
「かんぱーい!」
「うおおビールこぼれた!」
「んははめでたい!めでたいから飲め飲め!」
「もう飲んでるだろーが!」
「もっと飲むんだよ!!」
これ龍さんまで酔ってるじゃん!!いつになくハイテンションの龍さんに夕士はがっくりきた様子で、自分の麦茶におっさんどもの酒瓶やら缶がぶつけられるのにアワアワしている。
俺は帰宅したあの日、名前ちゃんが「商社マン?こんな自由な商社マンいないよ」とさらっと口にしたことを思い出していた。ああ、知らないふり見えないふりをしていただけで、名前ちゃんは何もかもお見通しだったのだ。「なんで結婚してくれたの?」に対するあのかわいすぎる返事は心の底から名前ちゃんの本心だった。下手すりゃ結婚詐欺で訴えられてもおかしくなかったのに(嘘をついて結婚したので、元々覚悟はしていた)、名前ちゃんは長い間最愛の人相手に本当の姿を明かせなかった臆病者を許してくれた。
今朝名前ちゃんの家を出て、次の仕事に向けてアパートで準備を始めたわけだが、早朝俺を見送る名前ちゃんは至って普通の様子だった。ヤクモもまだ寝ているような時間で、名前ちゃんは眠そうな顔で「じゃあ、気をつけてね」と手を振った。
「……ごめん」
「どうして?私、あなたのお仕事も理解して、今まででいちばん清々しい気持ちで見送ってるのに」
ああ、もう一生頭上がんないな。思い出し笑いをしていると、夕士に「な、何ニヤニヤしてるんすか……」と恐ろしいものでも見るかのような顔をされた。うるせー、お前もいつか分かるよ。
「結構自由に旅してますよね……電話したりとかもないし……最後に帰ったのいつっスか?」
「うーんお前が帰国するのに合わせて帰ったから……8ヶ月前?」
「帰れ!今すぐに!!!!後輩連れてインドの秘境なんぞに来てる場合か!?デリーまで戻って、飛行機取って一刻もはやく帰ったほうがいいって!」
自分を後輩だと認めたことを指摘する前に夕士は慌てて荷物をまとめ出した。今回の目的は既に果たしたので、この後温泉にでも入ってそのままバングラデシュに行こうと思っていたのだが。
「今更何を……第一夕士お前、初対面の時も1年ぶりの帰国だって言ったでしょうが」
「1年もほったらかしに!?ブックマスターなんて怪しすぎる職業の、それも
「それが知らないんだよなあ」
「結婚詐欺とかに当たらないんすか、それは……」
夕士は本当に呆れ返った顔で荷造りを終えた。旅を始めた頃よりは格段に手際良くなった。感慨深く見つめていると「さっさとボート出して帰ろう」と俺を促す。全く良くできた後輩だよ、お前は。
さて、例のごとくボートには穴が開いており、我々は浸水したボートで急流下りをする羽目になった。滝からボートごととびおりた時の夕士の「やっぱ俺は龍さんの後輩になりてえええ」という絶叫が耳に残っている。そういうシーンでそういう言葉が出てくる時点でおまえは俺の後輩確定である。しかもその後何やかんやあってフィリピンでの仕事を請け負うことになり、船で日本まで戻る羽目になった。これが中々に厄介な代物でまさか裏ヴァチカンまで出張るような事態になるとは……マジで散々な目にあった。夕士は仕事中は前よりずっと冷静に対処するようになったが、此度フィリピンで入手した品がやばすぎるので船で帰ると聞いて真っ先に「合法……っスよね?」と小声で耳打ちしてきた。心配するところはそこかよ。当たり前だろうが。不法入国なんぞ‘’バレたら”パスポート使えなくなっちゃうだろうが。バレなきゃいいとかそういうのは追々覚えてもらうとして。
さて、どうにかこうにか日本に帰国した俺たちが真っ先にやったのは品物の取引だ。こればっかりは、アパートに戻る前に済ませておかないと住人を危険に晒しかねないためである。また名前ちゃんは俺が
「よーし我らが寿荘に帰還すっぞー」
「あんたはアパートより先に戻るところがあるだろうが!!!」
簡素な船で日本まで戻ってきたせいで夕士は真っ黒に日焼けして、さっきから腹の音が鳴り響いている。最後の方は食糧もかつかつだったせいだ。
「えーいつもアパート寄ってから帰んだけど」
「家に!!帰れよ!!」
帰る家があるんだから、真っ先に帰ってやれよ。と夕士は元気の無い声で訴えた。そういえば夕士は両親を亡くし、親戚の家から飛び出して寿荘に住むようになったのだった。今の夕士にとって帰る家はあの妖怪アパートだ。
「あーはいはい、帰る。帰るって」
夕士の恨みがましい目に負けて、俺は大人しく奥さんのいる家に帰ることにした。夕士はギュルギュルなる腹を抱えて去っていった。このナリじゃあ絶対タクシーは乗車拒否されるし電車すら危うい。歩いて帰るかあ……日の暮れるまでには辿り着けるといいな。
名前ちゃんは至って普通の現代人だ。スピリチュアルには懐疑的だし、妖怪も幽霊も見たことない(と本人は思っている)。俺の仕事も「フリーの商社マン」だとか「紙類中心の人気バイヤー」だとか何とか昔一生懸命誤魔化したのを信じている。フリーの商社マンって何だよ。もうちょっと疑う心を持ちなよ。
平日は都内の会社でバリバリ働き、土日は家のことをしたり趣味の庭いじりをする。稼ぎのいい名前ちゃん名義で買った郊外の一軒家には名前ちゃんの大きな愛犬がのびのび遊べる庭がついている。彼女は仕事もプライベートも俺なしで充実させており、年に数回帰ってくると歓迎してくれるけど出ていく時もあっさり見送られる。
キビキビ動いてよく笑って、自分が霊に命を狙われるなんて思いもしない、かわいいひと。旅先から戻る度に渡すお土産をしげしげと見て「不思議な趣味だね」と疑わずに受け取るひと。ナザールボンジュウもアンクもドリームキャッチャーもガムランボールもポムールも、その他効果絶大な君のためのお守りが、他のマチュピチュの人形だとかスリランカのお香と同じ類の「不思議なお土産」と同じだと信じて疑いもしない。今回のお土産のタビーズにどんなまじないがかけてあるのか、初めて会ったときに押し付けた護身の札が幾度燃え尽きたか、俺がどんな思いで君のことを護っているか知らないひと。
這々の体で我が家に辿り着くと、名前ちゃんが自力で整えた自慢の庭が出迎えてくれた。花木にはしっかり水やりをした形跡があり、水やりホースはくるくる巻いて水道の首に引っ掛けてある。ヤクモは(名前ちゃんの愛するゴールデンレトリーバーの名前だ)こうも暑いと窓際にも寄らずエアコンの効いた室内にいるのだろう。俺がいてもいなくても変わらない名前ちゃんの平和な日常だ。
綺麗に掃除された煉瓦敷きの小道を汚しながら玄関まで辿り着き、インターホンを押した。
「ただいま〜」
めちゃくちゃ情けない声が出た。あーあ、お腹すいた。いつもはアパートで飯食って温泉入って酒飲んでと日本の暮らしを満喫してから戻ってくるところを、炎天下の中何時間も歩いて帰ってきたのだから疲労も段違いだ。
「もう、急に帰ってくるんだから」
呑気にドアを開けた名前ちゃんが絶句した。
「え」
ご主人様の異変に気づいたヤクモがリビングから飛び出してきて、俺を見るなり激しく唸る。マジで?俺たち同じご主人様を持つ同士じゃん?
「な、何?そのカッコ……どこ行ってたの?」
「インド!酷い目に遭ったよマジで」
名前ちゃんがかろうじて震えながら言葉を絞り出したので、俺はへらへら笑いながらもその裏でこりゃ離婚かな〜と泣きたくなった。名前ちゃんは綺麗好きを超えて潔癖のきらいがある。だから今まで一旦アパートに帰って綺麗にしてから帰ってたのに!!ふらふらのよろよろの汚い格好なんて一度も見せたことなかったのに!!やっぱアパートで回復してから帰るべきだった。お腹も空いたし……
「ちょっとそこで待ってて……ヤクモ、ステイ!エアコンのお部屋でいい子にしてね」
絶対ハンコ取りに行ったやつじゃん……俺は夕士を恨んだ。夕士が一緒にアパート連れて帰ってくれればこんなことにならなかったのに。
「庭出て」
声は硬かったが、予想に反して名前ちゃんはゴミ袋とシャンプーとリンスとヤクモのシャンプーまで抱えて玄関に戻ってきた。今日が8月でよかった。庭先で水責めされても風邪引かなくてすみそう。
名前ちゃんは水撒きホースを出してきて情け容赦なくジャブジャブ俺にかけて、ジャンプーの泡立ちの悪さに再び絶句し、パンツだけは許されたものの、着ていた服はその場で全部捨てられた。この炎天下で外に出ているご近所さんがいなくてよかった。ふだんニコニコ笑顔がトレードマークでご近所さんとも仲良しの名前ちゃんは、今めちゃくちゃ冷たい目で夫(かわいい名前ちゃんをほっぽって1年のほとんどをひとりきりにしていて非常に外向きの評判が悪い)を見下ろしている。
「なんでインドから帰ってくるだけでこんなになっちゃったの」
「インドでお化けと戦って、その後フィリピンで13世紀生まれの発禁書をめぐってゲリラと銃撃戦になって、船で逃げてきたから」
真面目な顔で包み隠さず打ち明けたのに、名前ちゃんはやっぱり困った顔をしている。オカルトを信じていない名前ちゃんには俺が冗談を言っているようにしか見えないのだろう。当然だ。帰宅するといつも名前ちゃんにどんな冒険をしたのか概要を伝えるようにしているのだが、全部冗談だと思われている。出会ったばかりの頃は、まだ若く、嫌われるのが怖くて誤魔化してばかりいたのでそのせいかもしれない。銃弾が掠った時の傷跡を誤魔化そうとして自転車でこけた時の傷だと言ったのを名前ちゃんはまだ信じている。
「発禁書はちゃんと取引相手に渡してから来たよ」
「そうなの」
名前ちゃんは静かな声でそう言った。名前ちゃんが綺麗に整えた庭の向こう、家の前の道を黒い蛇のようなものがうねうねと這いずっている。結界にぶち当たり憎らしそうにこちらを見て去っていった。俺のはった結界のせいで名前ちゃんを脅かす何者もこの家の敷地に入ってこれない。出会った時から名前ちゃんはとにかくこういう良くないものを惹きつけやすくて、そのくせ名前ちゃんはそういうものが一切見えていなかった。代わりに俺がせっせと札を貼ったりお守りを渡したり、でも科学第一主義かつリアリストの名前ちゃんはそういう迷惑なもの全部非実在だと思っている。出会ったのはまだ学生のころだったから、名前ちゃんは俺をただのスピリチュアル趣味が高じてアジアや中南米の僻地に赴く商社マンだかバイヤーだと思っているんだろうな。全く人の苦労も知らず。はぐらかし続けた俺が悪いといえばそうだが。アパートの面々からは「伴侶に自分の正体を明かせない臆病者」のレッテルを貼られるのも当然である。
俺は泡を流してびしょびしょのパンツ一丁で名前ちゃんを見上げた。泣かないでほしい。初めて出会った時、名前ちゃんは霊をたくさん引っ付けた体を引きずるように歩いていた。思わず「何か困ってること、あるんじゃない?」と声をかけて、下手くそなナンパと勘違いされた時から、ずっと、君が困ったり泣いたりするところを見たくないと思っている。
君を失いたくない。名前ちゃんの信じる現実からはみ出ている俺を嫌いにならないでほしい。もう二度と危険な目にあって欲しくない。俺が裏ヴァチカンだの危険思想の宗教組織だのに追われるのに巻き込みたくない。信じて、とか言いたくない。名前ちゃんの平和な日常を壊したくない。そばにいて、笑って。俺が普通じゃないのを、いつか死の間際でもいいから、受け入れてほしい。
「あなたが前、部屋で本を開いていたでしょう」
「ああーあれね」
「あれってやっぱり、一般流通の本じゃないよね」
俺はどう返事をするべきか悩んだ。それはその通りで、でも名前ちゃんが何を言いたいのかわからないのでそうだね、と返事をするにとどめた。名前ちゃんは納得のいかない顔で言葉を続ける。
「違う、私が言いたいのは……あれは何かスピリチュアル的な超能力を有しているよね、ってこと」
「ブッッ」
「ずっと気になっていたの。そうでなきゃ説明がつかない」
「そ、そうなんだ」
リアリストの名前ちゃんがまさかの核心に迫った発言をしたので俺は激しく動揺した。それを見て名前ちゃんは確信したらしく、なるほどと頷きそれから「次は風呂だよ。全身ピカピカにするまでリビングには入れないから」と俺を追い立てる。濡れないように避けておいた
「あのー名前ちゃん、どうしてそんな結論に?」
「だってそうじゃなきゃ説明がつかない」
「そ、その説明というのは」
「あなたと出会ってから怖い思いをしなくなったことの説明」
名前ちゃんの黒い瞳が俺を射抜いた。ようやく、俺の苦労は報われたらしいと知って呆然とする。なんだ、知ってたのか。っていうか、やっぱり今まで怖い思いをして。自然と険しくなる顔を名前ちゃんが覗き込む。
「今までただのスピリチュアル趣味の変な人だって言い聞かせてきたけど、今日ね、あなたが帰ってきた途端に道の前の“変なの”が一匹残らず逃げ出したのよ」
「……」
やっぱり結界が弱っていたんだ。8ヶ月も留守にしたせいだ、もっと早く帰ってくればよかった。俺のいない間に怖い思いをしたんだろうか。結界は明日にでも貼り直そう。
「そういう顔をするってことは、やっぱりそうなんだね」
「……うん」
「私どうしてあなたが私を好きになったのかずっと不思議だったんだけど、あなた私が心配なのね」
「そりゃ最初に声をかけたのは心配だったからだけど。今は大好きだから心配なんだ」
「……今日やっと納得したの」
名前ちゃんはタオルで俺の足を拭いた。拭かないと綺麗に磨き上げた廊下が濡れるからだとわかっていたが、断って自分で拭いて床に上がる。
「あなたが私のこと、ずっと守ってくれてたのね」
たまらない気持ちになって、なんとか「そうだよ」の一言を絞り出した。
「
「うん」
「私今までそうやって私の知らないところで私を守ってくれたあなたを否定していた」
名前ちゃんの顔が青白く、唇が震えていたのでびしょ濡れなのもこの後風呂に入れと言われたことも一旦忘れて抱きしめた。
「いいんだよ、怪しくて非科学的なことばっかりやってるんだから当然だって」
「でも」
「代わりに一個だけ聞いていい?」
名前ちゃんの青白い頬を涙が伝った。腕の中で小さな頭がこくりと頷く。
初めて会った時もそうだった。生きていく力を全部背中に引っ付けたやつらに取られて、今にも倒れてしまいそうな顔色をしていた。若くて未熟だったせいで無理やり引っぺがすしか方法を知らなくて、怖い思いをさせてしまったのを今でも悔やんでいる。
「そんな怪しくて非科学的で、信じられないくらいスピリチュアルに傾倒してる人間だよ。なんで結婚してくれたの?」
名前ちゃんの頬がさっと薔薇色に染まった。抱きしめた腕に細っこい指が添えられる。震えている。俺はどんな言葉でも受け止めようと名前ちゃんの唇が開くのを待った。
「だって……好きになっちゃったんだもん」
「ッガ」
ず、ずるすぎる!!!!!!ずるすぎるってそれは!!!!結婚してよかった!!心の中で絶叫が止まらない。あまりの衝撃に俺は一瞬で無力化され、ハッと冷静に戻った名前ちゃんによって風呂場に連行された。なんだ、好きだから……そうなんだ……名前ちゃん俺のこと好きなんだ……ちょー可愛いじゃん……
@@@
「というわけで、名前ちゃんは俺のことが好きらしい」
「何やってんだよマジで!!!!!!あんたは!!!!」
聞いてて寒気が、と言いつつ画家は酒瓶を煽った。男どもの爆笑がアパートの天然温泉に反響する。チャプチャプと夕士が温泉の湯をかき混ぜては必死で無心になろうとしている。やっぱここの温泉は最高だ。インドで温泉に入り損なった分余計にしみる。
詩人は呑気に新しい缶ビールを開けた。
「じゃあ名前ちゃんは自分の周りで何が起きてるか“知ってた”んだね」
「そうらしい。気づいてるフリすると余計にタチが悪いから見ないし信じないようにしてたんだと」
「なるほど……」
大爆笑から復帰した龍さんが美しい顔に思案の表情を浮かべる。
「私が思うに」
「ハイ」
龍さんのありがたい御言葉を聞こうと夕士が湯船の中で姿勢を正す。お前、本当そういうとこだぞ。
「名前さんがそういうもの達に一生絡まれるという人生があったという前提で」
龍さんは湯船にまっすぐ線をひく。そこにもう一本線を引いて交わらせる。
「古本屋さんが出会って、助けた。これは運命として数えるとして、その影響を受けて名前さんがさらに過酷な影響を受けていることは否定できない」
「やっぱりー」
そんな気はしていた。やばい組織に追われたあと、頭をよぎるのは都内で暮らす名前ちゃんのこと。電話をすればなんでもない風に応答するけど、その時護身の札は燃えて、結界に傷がついていることは言うまでもない。
龍さんがさらに2本線を引く。
「なら出会わない方が彼女にとってよかったのか?出会ってもそのまま別れれば強大な霊をこれ以上呼ばずにすんだか?というもしもの話になるけど。私はそうは思わない。なぜならあの時出会ったことの方が優先されるべき運命だからね。因果律とも言える」
「つまり……どゆこと?」
詩人が首を傾げ、龍さんはにっこり笑って自分の分の缶ビールを手繰り寄せる。アサヒスーパードライ。
「今、古本屋さんが名前さんと愛し合って結婚した現状が考えうるすべての世界線の中で最善ということ。というわけで古本屋さん改めて結婚おめでとう!!相思相愛の夫婦に乾杯!!!!」
「かんぱーい!」
「うおおビールこぼれた!」
「んははめでたい!めでたいから飲め飲め!」
「もう飲んでるだろーが!」
「もっと飲むんだよ!!」
これ龍さんまで酔ってるじゃん!!いつになくハイテンションの龍さんに夕士はがっくりきた様子で、自分の麦茶におっさんどもの酒瓶やら缶がぶつけられるのにアワアワしている。
俺は帰宅したあの日、名前ちゃんが「商社マン?こんな自由な商社マンいないよ」とさらっと口にしたことを思い出していた。ああ、知らないふり見えないふりをしていただけで、名前ちゃんは何もかもお見通しだったのだ。「なんで結婚してくれたの?」に対するあのかわいすぎる返事は心の底から名前ちゃんの本心だった。下手すりゃ結婚詐欺で訴えられてもおかしくなかったのに(嘘をついて結婚したので、元々覚悟はしていた)、名前ちゃんは長い間最愛の人相手に本当の姿を明かせなかった臆病者を許してくれた。
今朝名前ちゃんの家を出て、次の仕事に向けてアパートで準備を始めたわけだが、早朝俺を見送る名前ちゃんは至って普通の様子だった。ヤクモもまだ寝ているような時間で、名前ちゃんは眠そうな顔で「じゃあ、気をつけてね」と手を振った。
「……ごめん」
「どうして?私、あなたのお仕事も理解して、今まででいちばん清々しい気持ちで見送ってるのに」
ああ、もう一生頭上がんないな。思い出し笑いをしていると、夕士に「な、何ニヤニヤしてるんすか……」と恐ろしいものでも見るかのような顔をされた。うるせー、お前もいつか分かるよ。
