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そよそよと草花を揺らす風も、この病室には届かない。
無機質な自動開閉の扉を、静かに横にスライドさせて中を覗くと、その人は静かにからだをベッドに預けていた。
「……千熊先輩?」
眠っていたなら起こしてはいけないと小さく声をかけると、ベッドの上のその人、千熊先輩はゆっくりと寝返りを打って私を見た。
「……いま、何時かな?」
眠気だけの理由でなく掠れた声に時間を告げると、先輩は緩慢な動作でぺたぺたとベットサイドをまさぐる。
「何かお探しですか?」
「時限イベが、」
「先輩、また体調がすぐれないのに、そんなこと言って」
白くつるりとした額に手を当てると先輩は長い睫毛を震わせて瞼を閉じる。
ぼとり、と重たい音をたててスマホがシーツに沈んだ。
「冷たくて、きもちいいね」
「やっぱり、微熱が続いているようですから今日はやめましょう」
そんなぁ、と情けない声とともに先輩の深い緑色の目が再び現れる。
「かわりに私がやっておきますねー」
「自分でやらなきゃ意味がないんだよぉ」
それでもやはり頬を桃色にそめて熱で少し潤んだ目を見るに、体調は芳しくなかったのだろう、先輩は落としたスマホを枕元に追いやって大人しく横になった。
「あれね、今日清洲くんたちが来てくれたんだよ」
先輩が指したのは窓辺に置かれた花瓶にいけられたキキョウとフリージア、珍しい取り合わせながらセンスのよさを感じた。
「一乗谷先輩か花隈先輩も来ました?」
「うん、水月くんもね」
「あー、どっちでしょうね、選んだのは」
「一乗谷くんが買ってきてくれたんだけど」
「なら、当たりだ。先輩、キキョウとフリージアの花言葉は友の帰りを待つ、と親愛なんですよ」
「それは、一乗谷くんらしいね」
「ちなみに、間に入ってるカスミソウは永遠の愛です」
「一乗谷くんに永遠の愛を誓われても困るなぁ」
そうはいいながらも先輩は嬉しそうに笑って、友の帰りを待つ、と口の中で呟いた。
黙ってしまった先輩をそのままに私はこの部屋をぐるりと見渡した。
白い壁、ふかふかのベッド、薄型のテレビ、採光のために大きく開いた窓、遮光カーテンは引かれず薄いレースのものだけが日光を遮っていた。
学園の王子的地位にある千熊先輩には何一つ相応しくない部屋だった。ただただ静かで、生き物の匂いが驚くほどしない。ここで息をしているのは私と先輩の二人きり。
窓辺にあふれんばかりに飾られた花や、あえて千熊先輩の視界から追い出されたガラステーブルの上の見舞いの品だけが先輩の人望や人脈や人気を静かに主張していた。色彩豊かでこんなにもうるさい色をしているのに、その先輩によって視界から追い出され、今、先輩の前ではその主張は何の意味もなさない。
「そうだ、ケーキがあるよ。昨日三毛たちにも持ち帰ってもらったんだけど、中々減らなくてね」
「先輩も召し上がりますか」
「一口もらえる?全部は厳しいかな」
先輩はぼんやりとベッドの上に投げ出された自分の両腕を見つめた。
合気道部に所属し、考古学部の部長として日夜フィールドワークや重労働に励んだその腕は、今や見る影もなかった。
日がなこの病室でこんこんと眠り、時折目を覚まし、体調が良ければ以前からの日課であったゲームをする。それも最近は体調を理由に放置されがちだった。
食事も満足に取らなくなった。豪華な病院食にはほとんど手をつけず、先日病院に持ち込んで甲斐が振る舞ったカレーも一口手をつけただけだったのだと三毛から聞いた。どんな高価なホテルの料理より、甲斐のカレーが好きだと言った時の先輩の表情を思い出すと胸が締め付けられるような心地だった。
ショートケーキのイチゴをそっと先輩に差し出すと、先輩は長くなった髪を耳にかけなが らそのまま口にした。柔らかく微笑んでおい しい、とこぼす。
「フルーツ、何かむきましょうか」
「ううん、もうお腹いっぱい」
思わず眉を下げた私を見て千熊先輩はごめんね、と言った。
私はそれに答えることができなくて、投げ出されたままの先輩の腕を取って布団の上で組ませ、めくれ上がった袖を下げた。
「時限イベ、やっておいてくれる?」
病室の時計を見ると開始五分前で、私はわかりましたといって先輩のスマホを拾い上げた。
「電波、悪いんで屋上行ってきますね」
「ごめんね、よろしく頼むね」
「はい、」
覚束ない足を無理やりに動かして、病室の引き戸を開けた。
最後に病室を振り向くと先輩は静かに目を閉じていて、その肌の白さや伸びた前髪に胸が軋む音がした。
ぱん、と独特の音を立ててドアが閉まると私はスマホの電源を入れ、途端にしゃがみ込んだ。スマホの時計はすでに時限イベが始まっていることを示していて、病室の時計がずれていたことを告げた。
千熊先輩は何一つ、もう何一つ生きるための活力というものを持っていないのだと知って私はぼろぼろと涙を零した。
投げ出された真っ白の腕、一口しか口にしなかったカレー、視界から消された見舞いの品、友の帰りを待つという言葉、ケーキ、フルーツ、ちっとも進んでいないゲーム。
こんこんと眠るばかりで先輩はいつか静かに目覚めなくなるのだろう。
あの人が無様に苦しんでその顔を苦痛に歪めて死んでいく姿はなぜか全く想像できなかった。
粛々と時限イベをこなして病院に戻ると先輩は静かに眠っていた。組まれたままの手にカーテン越しの光が静かに影を落としていた。
「先輩?……千熊先輩」
どうしようもない不安を感じて、声をかけると先輩の胸が一度どくり、と不自然に波打ってそれから一度も波打たなくなった。
いつも短く切られていた爪が伸びていた。指のささくれがそのままで、切りそろえられていたトレードマークの前髪が耳にかかるほどには伸びていた。キスをねだった口はまだ少しあたたかくて、乾いていた。
最早先輩は優しく私に微笑みかけてはくれないが、この美しい人はここでようやく平穏を手に入れたのである。
ああよかったと涙が一つこぼれた。先輩はいつかのようにそれをぬぐってはくれない。先輩の乾いた肌を少し濡らしただけだった。
