去る春、君の声だけが在る2
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3キロ手前で飛び出したのは、やはり14番116番。私は歯噛みして「ああ、やっぱり」と呟いた。状況はあまりにも、去年と酷似していた。隼人くんと御堂筋。去年の結果は、知っての通り。
きっと煽られたのでなく、自分から煽って出たのだろう。過去の罪を清算するためだと、私は確信する。一体、どんな覚悟で。実力なら間違いない、なのに気が重い。相手が悪いし、やろうとしてることは1年前の”リベンジ”、過去の清算ときた。
「罪を背負っている」と、宣言したのが去年の秋のこと。あまりに重い覚悟だった。あれきり口にすることはなかったが、泉田さんは忘れてなんかいなかったのだ。
なんだか胃も痛いような気がしてきた。もう祈ることしかできない。泉田さんのジッパーが今どうなってるかだけ教えてほしい。上がってんのかそうでないのか、それだけ教えてほしい。最低限の情報だけでいい、余計な情報はハラハラするだけだから。
残りあと2キロ、速報によると2人の差はほぼなく、私は走ってもないのに息が吸えなくなるのを感じていた。その時、運営テントにトラブルの一報。
「片品村、スプリントテント、広域マイク不通です!」
「まずいよ、現地マイクしか生きてないって」
「ええ、どうするの」
今かよ!今、いちばん結果が気になる時なのに!広域マイクは主に道路状況とリザルトを審判車から放送するのに使うマイク。当然スプリントリザルトの最速結果はスプリントテントの広域マイクで放送される。現地マイクは現地に集まった人向けの放送だ。
我々はタイム差も道路状況もネットで確認できるが、自転車に乗っている選手たちはそうもいかない。審判車からの放送とボード、わずかな情報で戦わなければならない。結構深刻なトラブルだった。
残り1キロ時点で秒差はゼロ。泣いても笑ってももうすぐ終わる。震える指先を押さえつけて、息を吐く。ああもう、だめだ。
私、何やってるんだろう。こんなとこまで来て、エーススプリンターの心配?笑わせる、何が箱根学園の敏腕マネージャーだ。私の今日の仕事は、箱根学園のサポートじゃない。出場選手皆がこのコースを走りきるための、大会運営だ。箱根学園の選手も、気に食わない他校の1年生も、皆等しくゴールを目指す選手でしかない。
リベンジマッチで大荒れのスプリントチャットは爆速で流れていく。それを見ないように携帯を全て裏返して。軽く挙手。運営テント全員の視線が私に集まった。
「片品村……スプリントテントのリザルト放送を本部テントで代行しましょう」
「エッ!?」
「でも誰が……!」
「私が、読みます。すみませんが、今だけスプリントテントからの広域放送じゃなくて本部テントの全域放送に切り替えお願いします」
我ながら拙い代替案だったが、テント内は安心したように動き出す。運営本部からの放送を準備するために。
「ああ、その手があったか!」
「苗字さんお願いします」
「よかった、これでどうにかなりそうだ」
「すみません苗字さん、ハコガクの主将が走ってる時に……」
「いえ、今日の私は大会運営ですから」
……これでよかったのかな。出しゃばった自覚はある。レイさんならもっと劇的な解決策が出せただろう。でもマイクの復旧を待つには時間がなさすぎた。
ラインまで1キロを切ったが結果はまだわからないし、スプリントの勝者が決まった後もレースは続く。だから、彼らの後ろを走る選手達は来るはずの情報が途絶えたらきっと、困ってしまう。
箱根学園の選手と、後ろを走ってるはずの総北。それから岸神を出す決断をした御堂筋の顔が浮かぶ。きっと、みんな優秀だから無くてもどうにかするけど、あった方がいい。
「……私は、間違ってない」
軽く脚を叩いて、いつもの言葉を囁く。自転車部で初めてできた友達の、切実な叫び。「オレは正しい」、「オレは間違っていない」。バシさんのあれは周りに知らせると同時に、自分に言い聞かせ、仲間を鼓舞する言葉だから。今だけ、正しいって信じさせてほしい。
「苗字さん、とりあえず音声現地と繋げました。これ聞いて、現地マイクに続いて結果をアナウンスしてください。あ、これ簡単だけど原稿ね。着順と名前だけでいいんだけど一応」
「はい。お借りします」
「じゃスプリント現地、音声入れます」
スタッフからヘッドセットを借りて装着する。合図とともに現地の喧騒が聞こえてきた。
スプリントテントの現地音声をもらって、広域テントの代替放送を本部テントから行う。聞いたこともないが、理屈的には無理じゃない。榛名湖畔にいる人たちは大会本部のマイクがうるさいだろうが我慢してもらおう。これは遠くで走る選手のための放送で、きっと1分にも満たない放送だろうから。
心臓がどくどく鳴っている。今日の、この結果を見届けることは正直諦めていた。現地の音から伝わってくる白熱した空気。ちゃんとした実況がいるわけではないし、そもそも音質悪いし、何もかも詳細にというわけにはいかないが。降って湧いたようなチャンス。
勝負はあと100メートル、こうなるともう祈ることしかできない。目だけは冷静に、ほとんど情報のない放送原稿を見る。ただし心臓はめちゃくちゃに胸郭を叩いていた。
80メートル!もう悲鳴すら出ない。なんでこんな、アクシデントばかり!もういや、聞きたくない、帰りたい、早く終わって、いやだ追いついて。こんなところで、負けないで。
そう、泉田さんが、負けるはずがない。でも、私もう心臓が痛くて、息ができなくて。
『通過ッ!スプリント……』
スプリントテントの速報を聞き漏らすまいと意識は両耳に集中する。結果。口の中で噛み締めて、それから音割れした現地の歓声、熱気が、確かに伝わる。目の奥が燃えるように熱い。
結果を理解しようとすれば、体の端から力が抜けていくようだった。ハコガクの4番、エーススプリンターのつとめと、主将の仕事。肩にのしかかる責任の重さ。それから私に衝撃を与えた「罪を背負っている」というあの告白。
何度だって言いたかった。「あなたが背負ってるのは罪じゃないし、『褒められるべきじゃない』なんて、そんな悲しいこと言わないでくださいよ!」って。思い詰めた顔を見てしまうと、何一つ言葉は出てこなかったけど。
スタッフの合図で、私は一生懸命喉の震えを抑えつけた。息を吸って、そのまま声に。ゴーサインを視界の端にとらえて。耳から入ってきた現地の速報を、そのまま繰り返す。
「ただいまのスプリントリザルト、結果を発表します……」
先に呼ぶ名前は何百回も呼んだせいか自然と口に馴染む。一度も呼んだことのない呼び方でもするっと言えた。先輩を「くん付け」で呼ぶ機会なんて、この先一生ないだろう。続けて2位をアナウンス。こちらも問題なく。
……嘘、全然問題あり。さすがに泣きそう。ふたり分読み終えた瞬間、慌ててマイクをぶち切って、深く息を吐く。
「はあ」
繋いだままの音声がうるさい。耳の中が歓声で満たされる。そんなお上品なもんじゃないな、とにかくうるさすぎる。現地は一体何が起きてるんだろう。隼人くんもその景色を見てるかな。
それからおめでとう、と本部テントで拍手が起きる。ここにはスタッフと、スプリントリザルトの結果をいち早く入手しようと詰めている他校の部員や観戦者しかいない。見慣れたハコガクブルーのTシャツは見当たらない。
……何が?隣に座っていた上越東のマネージャーが飛びついてくる。
「わあっ」
「さっすがハコガク!やってくれるねー」
ここはハコガクテントでも、チャットルームでもない。おめでとうは、箱根学園にかけられたものだと気づいて、息が漏れた。ここにいるのは、部を代表して運営補助にきた私だけ。
「今だけだ!次の山岳は譲らん」
反対から山口岩国の部員が高らかに宣言した。
「そうだね、あり……ありがとうございます」
ふらふら立ち上がって拍手をくれた人に頭を下げる。立ち上がる拍子にパイプ椅子が膝裏にぶつかって音を立てた。
やっと実感が湧いてきた。昨日から、ずっと頭の隅を占めていたこと。直接聞くことはできなかった。昨日、初日のリザルトをバシさんが獲って、泉田さんはどれほど安堵したことだろう。昨年のやり直しなら、昨日とっくに済んでいた。自分が見出し、育てたスプリンターにリザルトを取らせたのだ。それで十分なはずだった。
シチュエーションは昨年と酷似していて、箱根学園のエーススプリンターに相対するのは得体の知れない1年生。慎重にならざるを得ない状況。それでも出たのは、きっとずっと後悔していたからだ。
己の敗北を罪と言い切った人。罪を雪がなければ、自分を許せないと。まだスタートラインに立ててないと、そう思っていたのだろう。尊敬する先輩の仇うちなどでなく、自分が一人の選手として前に進むために。
だから、この結果には緑のゼッケン1枚以上の価値があった。間違いなく。
「う……」
何か言おうとして言葉にならず、代わりに喉の奥から唸り声みたいなのが出た。涙腺がバカになっているのか、涙がボロボロ溢れた。慌ててハンカチを引っ張り出す。まずい、鼻水も出そう。
その時伏せたスマホが短く鳴った。肩が跳ねるも、取る前にワン切り。間違いなくレイさんだ。「仕事に戻れ」「冷静になれ」と私を冷静な敏腕マネージャーに引き戻す合図。
「なんのために敏腕マネージャーなんて似合わないもの目指したんだ」と私を咎める、とにかく察しのいい男。私の扱いを熟知してると豪語するだけあって、効果は絶大。おかげでピタッと涙が止まった。まだ序盤だ。レースは続いている。
スタッフのゴーサインより早く切ったばかりのマイクを再び入れて、後続集団の先頭である3位通過をアナウンス。今度はさっきより落ち着いた声でできたと思う。これで本部テントからの臨時放送は終わり。
ヘッドセットを外してスタッフに返す。「ありがとうございました」とお礼を言うと、「よかったねえほんとによかったねえ」と運営員のおじさんの方が泣いていた。なんでよ。
席に戻り、水を飲みながら最新のチャットを確認。スプリントリザルトルームは流れるのが爆速すぎて目当ての情報を探すどころではない。代わりにレイさんから個人チャットが数件入っていた。2日目スプリントリザルトに関係する情報提供がいくつか。荒ぶっていた116番も通過後は幾つか言葉を交わした後は大人しく走っているらしい。……お前も多重人格かよ。本当に多いな。
山に遮られて見えない、選手の走る遠くを思う。大したことはしてないと言い聞かせても、胸を占めるのは達成感だった。
「レース中、我々の見えないところで何が起きているんだろう」と言うのは、幼馴染が大会に出るようになってから、ずっと知りたかったことだった。諦めていた。私は選手じゃないから、あの走りには追いつけないから、と。去年は苦しい思いもした。見ていることすらできないなんて、と泣くことしかなかった。
今年は様々な偶然でその一端に一瞬だけ手が届いた。ゴール直前の息もできない緊迫感と、その後の爆発するような歓喜。あれが、選手のいる現地の空気。最後にこぼれた涙を拭ってから、私はテントの来訪者に「こちらでお伺いします!」と声をかけた。さて、次の仕事だ!
きっと煽られたのでなく、自分から煽って出たのだろう。過去の罪を清算するためだと、私は確信する。一体、どんな覚悟で。実力なら間違いない、なのに気が重い。相手が悪いし、やろうとしてることは1年前の”リベンジ”、過去の清算ときた。
「罪を背負っている」と、宣言したのが去年の秋のこと。あまりに重い覚悟だった。あれきり口にすることはなかったが、泉田さんは忘れてなんかいなかったのだ。
なんだか胃も痛いような気がしてきた。もう祈ることしかできない。泉田さんのジッパーが今どうなってるかだけ教えてほしい。上がってんのかそうでないのか、それだけ教えてほしい。最低限の情報だけでいい、余計な情報はハラハラするだけだから。
残りあと2キロ、速報によると2人の差はほぼなく、私は走ってもないのに息が吸えなくなるのを感じていた。その時、運営テントにトラブルの一報。
「片品村、スプリントテント、広域マイク不通です!」
「まずいよ、現地マイクしか生きてないって」
「ええ、どうするの」
今かよ!今、いちばん結果が気になる時なのに!広域マイクは主に道路状況とリザルトを審判車から放送するのに使うマイク。当然スプリントリザルトの最速結果はスプリントテントの広域マイクで放送される。現地マイクは現地に集まった人向けの放送だ。
我々はタイム差も道路状況もネットで確認できるが、自転車に乗っている選手たちはそうもいかない。審判車からの放送とボード、わずかな情報で戦わなければならない。結構深刻なトラブルだった。
残り1キロ時点で秒差はゼロ。泣いても笑ってももうすぐ終わる。震える指先を押さえつけて、息を吐く。ああもう、だめだ。
私、何やってるんだろう。こんなとこまで来て、エーススプリンターの心配?笑わせる、何が箱根学園の敏腕マネージャーだ。私の今日の仕事は、箱根学園のサポートじゃない。出場選手皆がこのコースを走りきるための、大会運営だ。箱根学園の選手も、気に食わない他校の1年生も、皆等しくゴールを目指す選手でしかない。
リベンジマッチで大荒れのスプリントチャットは爆速で流れていく。それを見ないように携帯を全て裏返して。軽く挙手。運営テント全員の視線が私に集まった。
「片品村……スプリントテントのリザルト放送を本部テントで代行しましょう」
「エッ!?」
「でも誰が……!」
「私が、読みます。すみませんが、今だけスプリントテントからの広域放送じゃなくて本部テントの全域放送に切り替えお願いします」
我ながら拙い代替案だったが、テント内は安心したように動き出す。運営本部からの放送を準備するために。
「ああ、その手があったか!」
「苗字さんお願いします」
「よかった、これでどうにかなりそうだ」
「すみません苗字さん、ハコガクの主将が走ってる時に……」
「いえ、今日の私は大会運営ですから」
……これでよかったのかな。出しゃばった自覚はある。レイさんならもっと劇的な解決策が出せただろう。でもマイクの復旧を待つには時間がなさすぎた。
ラインまで1キロを切ったが結果はまだわからないし、スプリントの勝者が決まった後もレースは続く。だから、彼らの後ろを走る選手達は来るはずの情報が途絶えたらきっと、困ってしまう。
箱根学園の選手と、後ろを走ってるはずの総北。それから岸神を出す決断をした御堂筋の顔が浮かぶ。きっと、みんな優秀だから無くてもどうにかするけど、あった方がいい。
「……私は、間違ってない」
軽く脚を叩いて、いつもの言葉を囁く。自転車部で初めてできた友達の、切実な叫び。「オレは正しい」、「オレは間違っていない」。バシさんのあれは周りに知らせると同時に、自分に言い聞かせ、仲間を鼓舞する言葉だから。今だけ、正しいって信じさせてほしい。
「苗字さん、とりあえず音声現地と繋げました。これ聞いて、現地マイクに続いて結果をアナウンスしてください。あ、これ簡単だけど原稿ね。着順と名前だけでいいんだけど一応」
「はい。お借りします」
「じゃスプリント現地、音声入れます」
スタッフからヘッドセットを借りて装着する。合図とともに現地の喧騒が聞こえてきた。
スプリントテントの現地音声をもらって、広域テントの代替放送を本部テントから行う。聞いたこともないが、理屈的には無理じゃない。榛名湖畔にいる人たちは大会本部のマイクがうるさいだろうが我慢してもらおう。これは遠くで走る選手のための放送で、きっと1分にも満たない放送だろうから。
心臓がどくどく鳴っている。今日の、この結果を見届けることは正直諦めていた。現地の音から伝わってくる白熱した空気。ちゃんとした実況がいるわけではないし、そもそも音質悪いし、何もかも詳細にというわけにはいかないが。降って湧いたようなチャンス。
勝負はあと100メートル、こうなるともう祈ることしかできない。目だけは冷静に、ほとんど情報のない放送原稿を見る。ただし心臓はめちゃくちゃに胸郭を叩いていた。
80メートル!もう悲鳴すら出ない。なんでこんな、アクシデントばかり!もういや、聞きたくない、帰りたい、早く終わって、いやだ追いついて。こんなところで、負けないで。
そう、泉田さんが、負けるはずがない。でも、私もう心臓が痛くて、息ができなくて。
『通過ッ!スプリント……』
スプリントテントの速報を聞き漏らすまいと意識は両耳に集中する。結果。口の中で噛み締めて、それから音割れした現地の歓声、熱気が、確かに伝わる。目の奥が燃えるように熱い。
結果を理解しようとすれば、体の端から力が抜けていくようだった。ハコガクの4番、エーススプリンターのつとめと、主将の仕事。肩にのしかかる責任の重さ。それから私に衝撃を与えた「罪を背負っている」というあの告白。
何度だって言いたかった。「あなたが背負ってるのは罪じゃないし、『褒められるべきじゃない』なんて、そんな悲しいこと言わないでくださいよ!」って。思い詰めた顔を見てしまうと、何一つ言葉は出てこなかったけど。
スタッフの合図で、私は一生懸命喉の震えを抑えつけた。息を吸って、そのまま声に。ゴーサインを視界の端にとらえて。耳から入ってきた現地の速報を、そのまま繰り返す。
「ただいまのスプリントリザルト、結果を発表します……」
先に呼ぶ名前は何百回も呼んだせいか自然と口に馴染む。一度も呼んだことのない呼び方でもするっと言えた。先輩を「くん付け」で呼ぶ機会なんて、この先一生ないだろう。続けて2位をアナウンス。こちらも問題なく。
……嘘、全然問題あり。さすがに泣きそう。ふたり分読み終えた瞬間、慌ててマイクをぶち切って、深く息を吐く。
「はあ」
繋いだままの音声がうるさい。耳の中が歓声で満たされる。そんなお上品なもんじゃないな、とにかくうるさすぎる。現地は一体何が起きてるんだろう。隼人くんもその景色を見てるかな。
それからおめでとう、と本部テントで拍手が起きる。ここにはスタッフと、スプリントリザルトの結果をいち早く入手しようと詰めている他校の部員や観戦者しかいない。見慣れたハコガクブルーのTシャツは見当たらない。
……何が?隣に座っていた上越東のマネージャーが飛びついてくる。
「わあっ」
「さっすがハコガク!やってくれるねー」
ここはハコガクテントでも、チャットルームでもない。おめでとうは、箱根学園にかけられたものだと気づいて、息が漏れた。ここにいるのは、部を代表して運営補助にきた私だけ。
「今だけだ!次の山岳は譲らん」
反対から山口岩国の部員が高らかに宣言した。
「そうだね、あり……ありがとうございます」
ふらふら立ち上がって拍手をくれた人に頭を下げる。立ち上がる拍子にパイプ椅子が膝裏にぶつかって音を立てた。
やっと実感が湧いてきた。昨日から、ずっと頭の隅を占めていたこと。直接聞くことはできなかった。昨日、初日のリザルトをバシさんが獲って、泉田さんはどれほど安堵したことだろう。昨年のやり直しなら、昨日とっくに済んでいた。自分が見出し、育てたスプリンターにリザルトを取らせたのだ。それで十分なはずだった。
シチュエーションは昨年と酷似していて、箱根学園のエーススプリンターに相対するのは得体の知れない1年生。慎重にならざるを得ない状況。それでも出たのは、きっとずっと後悔していたからだ。
己の敗北を罪と言い切った人。罪を雪がなければ、自分を許せないと。まだスタートラインに立ててないと、そう思っていたのだろう。尊敬する先輩の仇うちなどでなく、自分が一人の選手として前に進むために。
だから、この結果には緑のゼッケン1枚以上の価値があった。間違いなく。
「う……」
何か言おうとして言葉にならず、代わりに喉の奥から唸り声みたいなのが出た。涙腺がバカになっているのか、涙がボロボロ溢れた。慌ててハンカチを引っ張り出す。まずい、鼻水も出そう。
その時伏せたスマホが短く鳴った。肩が跳ねるも、取る前にワン切り。間違いなくレイさんだ。「仕事に戻れ」「冷静になれ」と私を冷静な敏腕マネージャーに引き戻す合図。
「なんのために敏腕マネージャーなんて似合わないもの目指したんだ」と私を咎める、とにかく察しのいい男。私の扱いを熟知してると豪語するだけあって、効果は絶大。おかげでピタッと涙が止まった。まだ序盤だ。レースは続いている。
スタッフのゴーサインより早く切ったばかりのマイクを再び入れて、後続集団の先頭である3位通過をアナウンス。今度はさっきより落ち着いた声でできたと思う。これで本部テントからの臨時放送は終わり。
ヘッドセットを外してスタッフに返す。「ありがとうございました」とお礼を言うと、「よかったねえほんとによかったねえ」と運営員のおじさんの方が泣いていた。なんでよ。
席に戻り、水を飲みながら最新のチャットを確認。スプリントリザルトルームは流れるのが爆速すぎて目当ての情報を探すどころではない。代わりにレイさんから個人チャットが数件入っていた。2日目スプリントリザルトに関係する情報提供がいくつか。荒ぶっていた116番も通過後は幾つか言葉を交わした後は大人しく走っているらしい。……お前も多重人格かよ。本当に多いな。
山に遮られて見えない、選手の走る遠くを思う。大したことはしてないと言い聞かせても、胸を占めるのは達成感だった。
「レース中、我々の見えないところで何が起きているんだろう」と言うのは、幼馴染が大会に出るようになってから、ずっと知りたかったことだった。諦めていた。私は選手じゃないから、あの走りには追いつけないから、と。去年は苦しい思いもした。見ていることすらできないなんて、と泣くことしかなかった。
今年は様々な偶然でその一端に一瞬だけ手が届いた。ゴール直前の息もできない緊迫感と、その後の爆発するような歓喜。あれが、選手のいる現地の空気。最後にこぼれた涙を拭ってから、私はテントの来訪者に「こちらでお伺いします!」と声をかけた。さて、次の仕事だ!
