去る春、君の声だけが在る2
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やっと一息つけると大浴場に行ったら、壁を挟んだ男湯ではレギュラー陣が大いに揉めていた。壁を隔てても聞こえる大騒ぎ。悲鳴。ざぶーーん。いちばん重傷の黒田さんがいちばん暴れている。あれだけ走ってもまだ暴れる元気が残ってるなんて、信じられない。元気な人たち……私は髪乾かしたりと時間がかかるのでさっさと出る。
ガラガラっと引き戸が開いて、入ってきたのは見知った顔だった。千葉代表美少女、寒咲さん。
「あれ?名前ちゃん」
「お疲れ様」
「お疲れ様!ハコガクも宿ここなんだね!私たち別館の方なんだけど、お風呂だけ借りに来たの」
「うん、そうなの!……まさかこんなところで会うとはね」
まさかこんなところ……ホテルの大浴場、脱衣所。風呂から出て来たばかりの私は全裸である。笑顔も引き攣るというもの。せめてパンツは履いていい?そっとパンツだけ脱衣籠から拾う。私たちふたりの間にはインハイ特有の緊張感があった。寒咲さんのやる気の入った空気にあてられて、なんだかピリッとするというか。こういう大事な試合の時のキリッとした寒咲さん、かっこいいよね。大好き。
さすがに全裸はこの雰囲気にふさわしくないので、ちょっと失礼してとりあえずパンツだけ履いた。続けて上の下着も、と思ったが背中に視線が突き刺さる。えっと、これは寒咲さんじゃなくて……
「こんばんは〜」
「こ、こんばんは」
「あ、私箱根学園の苗字です。マネージャーさん?それか誰かのご兄弟?」
寒咲さんの後ろにもうひとり。違うだろうなと思いつつ愛想笑いしておく。初対面が全裸はさすがにキツいな。っていうか総北の選手もこの時間に本館の大浴場に来てるとしたら……今頃喧嘩になってたらどうしよう。
「ううん、私の友達!綾ちゃん、小野田くんの応援に来てくれて」
「そうなんだ、小野田すごいもんね!」
「う、うん……」
……ミスった?綾ちゃんさんの謎のピリッとした空気。ちょっと引いたような、半笑いの感じ。なんで!?小野田がすごいのは事実だし、ライバル校が誉めたって別に不自然じゃないでしょ。
「選手もこっちに来てるの?」
「ううん、みんなは別館のお風呂だよ」
「よかった〜ウチの選手たち総北と会ったら、余計な体力使いかねないから」
「ふふ、そうかもね」
とりあえず風呂場で1日目ボーナスステージ開催とかいう情けない事態は回避。うちの先輩たちの揉めてるのも見られないですみそう……
「ハコガク、今日すごかったねー!」
寒咲さんが靴を脱いで脱衣所に上がってくる。
「そうなの!すごかったでしょ!!もーーほんっとうに葦木場さんがかっこよくて!うちのエースって本当頼もしいっていうか……真波もバシさんも取って当然っていうか!……はッ」
うっかり「いつものノリ」で良さを語ってしまったが、綾ちゃんさんの冷たい目で言葉が途切れる。今日のゼッケンは全部総北に競り勝った結果だ。私、とんでもない性格悪女じゃん!!いつも寒咲さんと会うと「本人には直接言いづらいうちの選手本当にかっこよすぎトーク」で大盛り上がりするのでつい、うっかり……
「……総北も頑張ってたね!」
「うん!みんな全力で戦ってた」
「……」
な、何を言っても綾ちゃんさんの心象はもう良くならない気がする……初めての観戦ってことはうちの選手もほとんどわからないだろうし、ハコガク自慢はつまらないかも。私たちの共通の知り合いは総北トリオしかいない。寒咲さんもそう思ったのか、3人脱衣籠の前に並んで小野田の話題に。私は真っ先に下着をつけて防御力の確保。
「小野田、真波のことなんか言ってた?」
「え?えーと、今日の山岳賞はすごいねって言ってたかな……」
「……そっか、あいつもさすがに手放しでは褒められないよね。2年生だもん」
「これ、真波くんには言わないでくれる?」
「うん。真波もショック受けちゃうと思う。可愛い小野田くんが2年生になっちゃった〜って」
わざとらしくおどけて見せたけど、寒咲さんはちょっと困った顔をしていた。マネージャーとしては複雑なのかも。山岳賞争いを見たかったという気持ちは、私にも少しある。荒れていた真波が調子を取り戻したのは、2月に小野田と走ってからだったから。私の声のトーンも自然と落ちる。
「……まだ明日が本命って思ってるのかな」
「どういうこと?ほ、本命って」
綾ちゃんさんの動揺、私に向ける疑いの目。ははーん、もしやこの子小野田のこと……!ハッ私に向ける辛辣な目も、牽制ってこと!?ヒャッホー!私知り合いの恋バナ大好き!しっかり否定しておいてあげよう。小野田の本命は真波だよ。あ、これはレース中の話ね。
「うちの真波が、小野田と今年はどこでやり合いたいみたいな話を5月くらいにしたの。小野田も私が電話した時は乗り気っぽく聞こえたから……」
「電話!?アンタたち電話してんの!?」
綾ちゃんさんが大きな声をあげる。やべっ!いや、別に珍しいことじゃ……去年の東堂さんから巻島さんへの連絡程、しつこくしていないつもりだし。
「うん。うちの卒業した先輩の教えで『離れた土地にいてもなるべく連絡を取ることが円滑な関係の秘訣だ』って言うから」
綾ちゃんさんは納得のいかない顔をしているけど、東堂さんってすごいんだよ。あの巻島さんのライバルをやってるんだから。寒咲さんは誰のことかすぐわかったみたいで苦笑した。
「イギリスは遠いもんね」
「ね、東堂さんも健気だよね。本当に好きじゃなきゃ、いつ帰るかもわからない人をずっと待てないよ……で、話を戻すと、戦うなら2日目榛名山がいいねって話したみたい。もちろん状況次第で今日もあると思ってたんだけど。うまくいかないよね」
「うん、残念だったね……」
「ね」
「でもさ!明日!約束してるんでしょ!?メガネと、あの真波って人!約束してるなら大丈夫でしょ」
「っ違うの……」
楽観的とも、励まそうとも取れる綾ちゃんさんの言葉に、寒咲さんは俯いた。私は黙ってTシャツを被る。寒咲さんに向けた視線をそのまま綾ちゃんさんに移し、あまり感情的でない声を心掛ける。
「難しいだろうね。鳴子が先行してひとり欠けた状況。序盤から高低差のあるコースだけど手嶋さんがもう限界でしょ。小野田がチーム引いていかないと厳しい。鏑木も結構苦しそうだし……弾数の時点でうちと差がついちゃってるから」
「そんなっ」
これは戦略の漏洩じゃなくて、誰もが知ってる戦況の提示だ。だから、黒田さんには怒られない。この子はレース観戦の初心者で、多分ここにいる人の多くがわかってる「常識」とか「大前提」がわかっていないまま着いてきている。最初は誰でも初心者だから悪いことじゃない。総北の誰かが教えてあげればよかったんだろうけど、あまりに舞台が大きずぎた。インターハイ連覇のかかった局面で一からレースの手解きをしてくれる余裕のある人はいないのだろう。誰かOBとか同行してくれてたら、そういうこともしてもらえそうだけど。
「だって明日は100キロあるんでしょ!?その終盤でしょ、そこまでに先頭に追いつければ……」
「それでも……難しいと思うよ」
「なっ」
「どこもそう思ってるし、そのために初日の今日、手札切らずに待ってるチームも多いから」
「レースは3日あるし、状況も刻一刻と変化するものなの。残念だけど……」
寒咲さんは言葉を切った。その続きは同じチームの人が口にするにはあまりに酷で、一生懸命戦っている選手の頑張りを否定する言葉だ。寒咲さんが言えない、その気持ちはよくわかる。だから、代わりにライバル校の私が言う。なるべく残念そうに聞こえないように。
「小野田は多分出ない。うちの作戦隊長 や総北のキャプテンがどう思っているかは不明だけど、一般自転車部員の私としてはそう見てる」
「綾ちゃん、レースに絶対はないよ。でも、今日の状況的に考えられる展開としては……私も難しいと思う」
綾ちゃんさんの笑顔が固まった。寒咲さんがフォローしたのは、明日期待していってがっかりするよりは今日この状況を把握したほうがいいと思ったのかもしれない。私もそう思う。明日現場でチームの危機的状況に自分だけ気づいていないとなったら、多分……いい気分はしないだろうから。
彼女が小野田のことを少なからず思っているんだろうなというのはわかる。初めてのインターハイ観戦がわからず苦労しているだろうことも。去年の私がそうだったから。
わけもわからずマネージャーの先輩にくっついて走り回っていたのに、隼人くんがスプリントを逃したその一報で足が止まった。
コースの外、私と一緒にいた3年生は皆表情を変えずに「ここで止まるな、次行くぞ」「レースはまだ続いている」って私を促した。そこでようやく私だけ戦況が全く読めていないことに気づき、無条件に「隼人くんは負けない」って思ってたことに気づかされた。
箱根学園は追い詰められてる状況だってことを教えてくれなかった人達に、冷たいとすら思った。だって知らないから。初心者だから、勉強してこなかったから。選手が、先輩が見ている先に何があるかわからない。3年生の先輩達がどんな気持ちで、隼人くんの負けを受け止めたかなんて、わからない。
黒田さんが、世代交代を機にあれこれ教えてくれ
たのは、多分あの日の私を知っていたからだ。あの日、隼人くんが負けて信じられなくて、それなのに仕事は山積みで。次の日も私は訳のわからないまま走り回って、真波が負けて、泣いて、初めてのインターハイが終わった。
学校に戻って後片付けしてたら、泣き腫らした目の黒田さんが突然やって来て「来年だ。オレはやってやるよ。だからお前もやれ」と宣言した。
あの日聞けなかった「私は何をやればいいんですか?」の答えがやっとわかるようになった。私は、1年かかった。ここまで来るのに。
にっこり笑って、綾ちゃんさんと視線を合わせる。総北にはひとり、適任者がいるなと思って。
「そうだ、杉元ってやつ、同級生だよね?」
「あ……うん。2年だよ」
「今日初めて話したんだけど、いいやつだよね!あいつ!優しいし、自転車詳しいし!」
「……そうなんだ」
「うん!」
だから、頼む。杉元。私は今日短い時間に話しただけだが、それだけでいいやつだとわかった。選手のことを心から応援していた。後輩にかける言葉は優しかったし、自分も大変な状況で初対面の私を心配してくれた。来年は自分もインターハイを走りたいとも口にした。古賀さんもそれを優しい目で見ていた。だから、多分部内の人望もあると思う。綾ちゃんさん、もし本当に自転車競技に興味があって知りたいなら、何か聞くなら、杉元にしなさい。あいつ、いいやつだから。綾ちゃん!!伝われ!この気持ち!更に私が「あいつマジでいいやつ」と念を押すと困惑した表情で「そうかもね」と頷いた。よし。
「あ、私もう行かないと。これからミーティングだから」
私は顔にオールインワンジェルを叩き込み、慌てて荷物を掴む。インハイ中は悠長に顔に塗りたくる暇がなさそうなので買ってみた、オールインワン。3日間どうか紫外線と汗のダメージから守ってくれ!ドライヤーは……部屋でどうにかしよう。こういう時髪短くしてよかった。
「忘れ物なし!じゃ、寒咲さんお先に!」
「うん、またね!」
「綾ちゃんさんも!楽しんでね」
「あ、どうも……」
マネージャー同士の別れはあっさりと。これが普段のレースとか休みの日に遊びに行ったなら、もっと自転車のこととかそれ以外のこといっぱい喋って全然解散できないんだけど……なかなか解散できなくて通司さんから心配のお電話が来ちゃったりするんだけど……まあ、今日ばかりは。寒咲さんは一瞬目が合うと「わかってる」とばかりに重々しく頷いた。何を?きっと全部だ。
ありがとう、我らがライバル校の思慮深き敏腕マネージャー。頼もしい女神。彼らにいちばん近いところで勝負を見届けて、寒咲さんはどんどん強くなっていく。その上ますます美しくなって、来年は私なんて手玉に取られてコロコロされちゃうかもな。ふふ、それも悪くないかも……私はサンダルを引っ掛け急いで脱衣所を出た。
ガラガラっと引き戸が開いて、入ってきたのは見知った顔だった。千葉代表美少女、寒咲さん。
「あれ?名前ちゃん」
「お疲れ様」
「お疲れ様!ハコガクも宿ここなんだね!私たち別館の方なんだけど、お風呂だけ借りに来たの」
「うん、そうなの!……まさかこんなところで会うとはね」
まさかこんなところ……ホテルの大浴場、脱衣所。風呂から出て来たばかりの私は全裸である。笑顔も引き攣るというもの。せめてパンツは履いていい?そっとパンツだけ脱衣籠から拾う。私たちふたりの間にはインハイ特有の緊張感があった。寒咲さんのやる気の入った空気にあてられて、なんだかピリッとするというか。こういう大事な試合の時のキリッとした寒咲さん、かっこいいよね。大好き。
さすがに全裸はこの雰囲気にふさわしくないので、ちょっと失礼してとりあえずパンツだけ履いた。続けて上の下着も、と思ったが背中に視線が突き刺さる。えっと、これは寒咲さんじゃなくて……
「こんばんは〜」
「こ、こんばんは」
「あ、私箱根学園の苗字です。マネージャーさん?それか誰かのご兄弟?」
寒咲さんの後ろにもうひとり。違うだろうなと思いつつ愛想笑いしておく。初対面が全裸はさすがにキツいな。っていうか総北の選手もこの時間に本館の大浴場に来てるとしたら……今頃喧嘩になってたらどうしよう。
「ううん、私の友達!綾ちゃん、小野田くんの応援に来てくれて」
「そうなんだ、小野田すごいもんね!」
「う、うん……」
……ミスった?綾ちゃんさんの謎のピリッとした空気。ちょっと引いたような、半笑いの感じ。なんで!?小野田がすごいのは事実だし、ライバル校が誉めたって別に不自然じゃないでしょ。
「選手もこっちに来てるの?」
「ううん、みんなは別館のお風呂だよ」
「よかった〜ウチの選手たち総北と会ったら、余計な体力使いかねないから」
「ふふ、そうかもね」
とりあえず風呂場で1日目ボーナスステージ開催とかいう情けない事態は回避。うちの先輩たちの揉めてるのも見られないですみそう……
「ハコガク、今日すごかったねー!」
寒咲さんが靴を脱いで脱衣所に上がってくる。
「そうなの!すごかったでしょ!!もーーほんっとうに葦木場さんがかっこよくて!うちのエースって本当頼もしいっていうか……真波もバシさんも取って当然っていうか!……はッ」
うっかり「いつものノリ」で良さを語ってしまったが、綾ちゃんさんの冷たい目で言葉が途切れる。今日のゼッケンは全部総北に競り勝った結果だ。私、とんでもない性格悪女じゃん!!いつも寒咲さんと会うと「本人には直接言いづらいうちの選手本当にかっこよすぎトーク」で大盛り上がりするのでつい、うっかり……
「……総北も頑張ってたね!」
「うん!みんな全力で戦ってた」
「……」
な、何を言っても綾ちゃんさんの心象はもう良くならない気がする……初めての観戦ってことはうちの選手もほとんどわからないだろうし、ハコガク自慢はつまらないかも。私たちの共通の知り合いは総北トリオしかいない。寒咲さんもそう思ったのか、3人脱衣籠の前に並んで小野田の話題に。私は真っ先に下着をつけて防御力の確保。
「小野田、真波のことなんか言ってた?」
「え?えーと、今日の山岳賞はすごいねって言ってたかな……」
「……そっか、あいつもさすがに手放しでは褒められないよね。2年生だもん」
「これ、真波くんには言わないでくれる?」
「うん。真波もショック受けちゃうと思う。可愛い小野田くんが2年生になっちゃった〜って」
わざとらしくおどけて見せたけど、寒咲さんはちょっと困った顔をしていた。マネージャーとしては複雑なのかも。山岳賞争いを見たかったという気持ちは、私にも少しある。荒れていた真波が調子を取り戻したのは、2月に小野田と走ってからだったから。私の声のトーンも自然と落ちる。
「……まだ明日が本命って思ってるのかな」
「どういうこと?ほ、本命って」
綾ちゃんさんの動揺、私に向ける疑いの目。ははーん、もしやこの子小野田のこと……!ハッ私に向ける辛辣な目も、牽制ってこと!?ヒャッホー!私知り合いの恋バナ大好き!しっかり否定しておいてあげよう。小野田の本命は真波だよ。あ、これはレース中の話ね。
「うちの真波が、小野田と今年はどこでやり合いたいみたいな話を5月くらいにしたの。小野田も私が電話した時は乗り気っぽく聞こえたから……」
「電話!?アンタたち電話してんの!?」
綾ちゃんさんが大きな声をあげる。やべっ!いや、別に珍しいことじゃ……去年の東堂さんから巻島さんへの連絡程、しつこくしていないつもりだし。
「うん。うちの卒業した先輩の教えで『離れた土地にいてもなるべく連絡を取ることが円滑な関係の秘訣だ』って言うから」
綾ちゃんさんは納得のいかない顔をしているけど、東堂さんってすごいんだよ。あの巻島さんのライバルをやってるんだから。寒咲さんは誰のことかすぐわかったみたいで苦笑した。
「イギリスは遠いもんね」
「ね、東堂さんも健気だよね。本当に好きじゃなきゃ、いつ帰るかもわからない人をずっと待てないよ……で、話を戻すと、戦うなら2日目榛名山がいいねって話したみたい。もちろん状況次第で今日もあると思ってたんだけど。うまくいかないよね」
「うん、残念だったね……」
「ね」
「でもさ!明日!約束してるんでしょ!?メガネと、あの真波って人!約束してるなら大丈夫でしょ」
「っ違うの……」
楽観的とも、励まそうとも取れる綾ちゃんさんの言葉に、寒咲さんは俯いた。私は黙ってTシャツを被る。寒咲さんに向けた視線をそのまま綾ちゃんさんに移し、あまり感情的でない声を心掛ける。
「難しいだろうね。鳴子が先行してひとり欠けた状況。序盤から高低差のあるコースだけど手嶋さんがもう限界でしょ。小野田がチーム引いていかないと厳しい。鏑木も結構苦しそうだし……弾数の時点でうちと差がついちゃってるから」
「そんなっ」
これは戦略の漏洩じゃなくて、誰もが知ってる戦況の提示だ。だから、黒田さんには怒られない。この子はレース観戦の初心者で、多分ここにいる人の多くがわかってる「常識」とか「大前提」がわかっていないまま着いてきている。最初は誰でも初心者だから悪いことじゃない。総北の誰かが教えてあげればよかったんだろうけど、あまりに舞台が大きずぎた。インターハイ連覇のかかった局面で一からレースの手解きをしてくれる余裕のある人はいないのだろう。誰かOBとか同行してくれてたら、そういうこともしてもらえそうだけど。
「だって明日は100キロあるんでしょ!?その終盤でしょ、そこまでに先頭に追いつければ……」
「それでも……難しいと思うよ」
「なっ」
「どこもそう思ってるし、そのために初日の今日、手札切らずに待ってるチームも多いから」
「レースは3日あるし、状況も刻一刻と変化するものなの。残念だけど……」
寒咲さんは言葉を切った。その続きは同じチームの人が口にするにはあまりに酷で、一生懸命戦っている選手の頑張りを否定する言葉だ。寒咲さんが言えない、その気持ちはよくわかる。だから、代わりにライバル校の私が言う。なるべく残念そうに聞こえないように。
「小野田は多分出ない。
「綾ちゃん、レースに絶対はないよ。でも、今日の状況的に考えられる展開としては……私も難しいと思う」
綾ちゃんさんの笑顔が固まった。寒咲さんがフォローしたのは、明日期待していってがっかりするよりは今日この状況を把握したほうがいいと思ったのかもしれない。私もそう思う。明日現場でチームの危機的状況に自分だけ気づいていないとなったら、多分……いい気分はしないだろうから。
彼女が小野田のことを少なからず思っているんだろうなというのはわかる。初めてのインターハイ観戦がわからず苦労しているだろうことも。去年の私がそうだったから。
わけもわからずマネージャーの先輩にくっついて走り回っていたのに、隼人くんがスプリントを逃したその一報で足が止まった。
コースの外、私と一緒にいた3年生は皆表情を変えずに「ここで止まるな、次行くぞ」「レースはまだ続いている」って私を促した。そこでようやく私だけ戦況が全く読めていないことに気づき、無条件に「隼人くんは負けない」って思ってたことに気づかされた。
箱根学園は追い詰められてる状況だってことを教えてくれなかった人達に、冷たいとすら思った。だって知らないから。初心者だから、勉強してこなかったから。選手が、先輩が見ている先に何があるかわからない。3年生の先輩達がどんな気持ちで、隼人くんの負けを受け止めたかなんて、わからない。
黒田さんが、世代交代を機にあれこれ教えてくれ
たのは、多分あの日の私を知っていたからだ。あの日、隼人くんが負けて信じられなくて、それなのに仕事は山積みで。次の日も私は訳のわからないまま走り回って、真波が負けて、泣いて、初めてのインターハイが終わった。
学校に戻って後片付けしてたら、泣き腫らした目の黒田さんが突然やって来て「来年だ。オレはやってやるよ。だからお前もやれ」と宣言した。
あの日聞けなかった「私は何をやればいいんですか?」の答えがやっとわかるようになった。私は、1年かかった。ここまで来るのに。
にっこり笑って、綾ちゃんさんと視線を合わせる。総北にはひとり、適任者がいるなと思って。
「そうだ、杉元ってやつ、同級生だよね?」
「あ……うん。2年だよ」
「今日初めて話したんだけど、いいやつだよね!あいつ!優しいし、自転車詳しいし!」
「……そうなんだ」
「うん!」
だから、頼む。杉元。私は今日短い時間に話しただけだが、それだけでいいやつだとわかった。選手のことを心から応援していた。後輩にかける言葉は優しかったし、自分も大変な状況で初対面の私を心配してくれた。来年は自分もインターハイを走りたいとも口にした。古賀さんもそれを優しい目で見ていた。だから、多分部内の人望もあると思う。綾ちゃんさん、もし本当に自転車競技に興味があって知りたいなら、何か聞くなら、杉元にしなさい。あいつ、いいやつだから。綾ちゃん!!伝われ!この気持ち!更に私が「あいつマジでいいやつ」と念を押すと困惑した表情で「そうかもね」と頷いた。よし。
「あ、私もう行かないと。これからミーティングだから」
私は顔にオールインワンジェルを叩き込み、慌てて荷物を掴む。インハイ中は悠長に顔に塗りたくる暇がなさそうなので買ってみた、オールインワン。3日間どうか紫外線と汗のダメージから守ってくれ!ドライヤーは……部屋でどうにかしよう。こういう時髪短くしてよかった。
「忘れ物なし!じゃ、寒咲さんお先に!」
「うん、またね!」
「綾ちゃんさんも!楽しんでね」
「あ、どうも……」
マネージャー同士の別れはあっさりと。これが普段のレースとか休みの日に遊びに行ったなら、もっと自転車のこととかそれ以外のこといっぱい喋って全然解散できないんだけど……なかなか解散できなくて通司さんから心配のお電話が来ちゃったりするんだけど……まあ、今日ばかりは。寒咲さんは一瞬目が合うと「わかってる」とばかりに重々しく頷いた。何を?きっと全部だ。
ありがとう、我らがライバル校の思慮深き敏腕マネージャー。頼もしい女神。彼らにいちばん近いところで勝負を見届けて、寒咲さんはどんどん強くなっていく。その上ますます美しくなって、来年は私なんて手玉に取られてコロコロされちゃうかもな。ふふ、それも悪くないかも……私はサンダルを引っ掛け急いで脱衣所を出た。
