去る春、君の声だけが在る
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年に数度あるという荒れ狂う吹雪の日、隼人くんが無事明早大学に合格した。時を同じくして悠ちゃんが箱根学園に合格。授業の間にメールを受け取って、それぞれにおめでとうとお疲れ様でしたの返事をした。
しかし、最悪の日程だ。新開家の事情を思うと普通に嫌な予感がする。隼人くんのママは、隼人くんのことがすごく大事で……悠ちゃんのことは、きっと、隼人くん程には思っていない。悠ちゃんは家でも外でも隼人くんの次で、隼人くんの弟で、ずっと比べられて、それが嫌で、許せなくて。私がどんなに外野で騒いでも、悠ちゃんはきっと、隼人くんに認められないときっと満たされないのだ。
悠ちゃんとは受かったらいつもの店でケーキ買ってお祝いしようと約束していた。いちごのナポレオンパイを買って、特別な時だけのさくらんぼの柄のティーカップに去年の誕生日に悠ちゃんがくれた紅茶をいれよう。今日は幸い金曜日、そして窓の外は荒天。朝のうちに部活は自主練だと連絡があった。今から外泊届をねじ込んで、放課後会いに行こうか。こういうのはきっと、その日のうちがいちばん嬉しいから。
「名前」
ガラッと教室の前のドアが開いて、隼人くんが私を呼んだ。憧れの先輩の姿に1年生の教室は俄かにざわめく。席まで来られたら嫌だから自分でドアまで行った。
「合格おめでとうございます」
「ありがとう。それで、今日……」
実家に帰るから、一緒に帰ろうのお誘いだ。しかし頼むからわざわざ人目のあるところで誘わないでほしい。私の顔色がどん底なのを見て隼人くんは言葉を切った。
「ジュース奢ってやるよ。行こう」
「……ありがとうございます」
逃げるように教室から脱走。寒すぎて自販機の前でたむろするような生徒もいなかった。隼人くんは本当に奢ってくれた。いつも通りホットのミルクティー。
「この天気じゃ自主練だろ」
「うん。悠ちゃんにケーキ買って帰りたい」
「約束してたもんな」
「……隼人くんにも買ってあげようか。合格祝い」
隼人くんは常にお腹をすかしている。運動量の少ない受験生だからと部活に明け暮れていた頃よりは控えているようだけど、代わりにしょっちゅうお腹が鳴る。可哀想に思って、提案すると隼人くんの目が私に向いた。昔から、甘いものとカロリーに目がないのだ。
「いいのか?」
「合格祝いだからね」
悠ちゃんにバレたら怒られるだろう。「オレにって言ってたじゃん」って言うだろうから箱を分けてもらった方がいいかも。「悠ちゃんだけの」何かを悠ちゃんはいつも、心底嬉しそうに喜んで、大事そうにするから。昔だったら、ふたりが好きなやつをひとつずつ買って、仲良く分けて食べていたのに。
「……悠ちゃんには『私に買ってもらった』って言わないでね」
隼人くんをチラッと見たが返事がない。ハコガクの自販機でいちばん甘い缶コーヒーを喉に流し込んでいる(あの、頭痛がするほど甘いやつ)。最後に大きく喉が上下した。
「それと」
「まだあるのか」
「悠ちゃんおめでとうって言ってあげてほしい」
「……そんなこと?」
今のは、ちょっと意地悪言う時の声だ。悠ちゃんと隼人くんの関係は、隼人くんのせいじゃない。悪いのは隼人くんを持て囃したいあまり、悠ちゃんを称賛するのに隼人くんを引き合いに出さないといられない人たち。小さい頃の悠ちゃんはあんなに隼人くんのことが大好きで、どこに行くにもついていったのに、近づけば比べられることに気づいて悠ちゃんは距離を置くようになった。自分が何か言えば余計傷つけるからと隼人くんも黙って受け入れた。代わりにもならないけど、私が悠ちゃんを甘やかしまくって、結果生意気強気の新開悠人が出来上がったというわけ。でも、きっと今でも悠ちゃんは隼人くんのことがいちばんで。私の言葉じゃ満足できないから、ハコガクに来たくて。
「……私じゃダメなのわかってるでしょ」
「ダメじゃないだろ」
「今までダメだったから言ってるの!」
カッとなって思わず大きい声が出た。見てるでしょ、悠ちゃんがどんどん捻くれて拗れていくところ。もうどうすれば昔みたいな兄弟に戻れるのか、わからなくなってるところ。憧れと嫉妬と羨望の目で兄を見る、弟。隼人くんが軽く投げた空き缶は、見事にゴミ箱に吸い込まれた。
「兄弟でしょ、悠ちゃんのお兄ちゃんでしょ……」
「それは、悠人に“そうする“のと何が違うんだ?」
そうするとは?隼人くんの冷たい目が私を見下ろしていて、息が止まった。自分の言葉を口の中で繰り返す。「悠ちゃんのお兄ちゃん」、「隼人くんの弟」……悠ちゃんへの仕打ちと何が違うのか。
「あれ、新開さん」
「ああ、お疲れ」
「お疲れ様です」
最悪のタイミングで葦木場さんが来た。隼人くんは「ホームルーム終わったら迎えに行く。勝手に帰るなよ」と私に声をかけて立ち去った。声だけはいつもの優しい先輩だけど、最後に見た顔は完全に無。青い目は冷たく私を一瞥した。絶対怒ってる。私は隼人くんを追うこともできず、黙って縁石に座り込み、「しばらくここで物思いに耽りますので先輩はさっさと自販機どうぞ」のポーズを取った。
……私は昔から「悠ちゃん贔屓」だ。みんなが隼人くんをすごいねと褒める分、同じだけ悠ちゃんを褒めてきた。悠ちゃんがもらえるはずだった賞賛がその手からすり抜けていく時、自分のことのように心臓が痛くて、ショックを受けている悠ちゃんの顔を見るのが辛かったから。
「悠ちゃんすごいね、頑張ったね、最後見てたよ。すっごく速かった!」言葉をつくして褒めれば、悠ちゃんは全身で喜んでくれた。隼人くんが「オレは?」と聞いてくるのを私はいつも「見てた見てた、いつものだったよ」と軽くあしらって。
「そうか、見てたのか」
あの青い瞳が、整った顔が、他の人に向けるのと違う熱を、冷たい温度をはらんで私を見る。気づいたのはいつだろう。確か、それに気づいてすぐに隼人くんはハコガクに行ってしまって、私はますます悠ちゃん贔屓になった。
……私が悠ちゃんにばかり構うこと。隼人くんにとってそれが喜ばしいことではないと、なんとなく察している。でもしょうがないじゃん。みんな隼人くん隼人くんって言うんだから、ひとりくらい悠ちゃんの側についてたっていいでしょう。大人な隼人くんが直接嫌だと口にしないからって私がそれに甘えて、その結果が今のこれだ。目が熱くなる。今までの……数年の行いが今になってまとめて返ってきた。よりによってこんな時に。
ガタンと飲み物の落ちる音がして、意識が戻る。ヨイショと大きな体をかがめてそれを拾う気配、それからすぐに規格外の足が視界の端に移った。……葦木場さん。
顔を上げるつもりはなかったが、葦木場さんは気にせず話しかけてくる。
「叱られたか?」
「……いいえ」
「じゃあ喧嘩?」
「……」
葦木場さんが膝に手をついて視線を合わせようとして……それでもまだ葦木場さんの方がはるかにデカかったので、そこから更に片膝ついてようやく私と目線があった。躊躇いなく長い腕を伸ばし、決壊寸前だった涙を拭われる。そのままバフバフと頭を撫でられたところで、そういえばこの人妹がいるらしいと思い出した。手慣れている。
「お前は絶対言わないだろうけど」
「はい」
「オレはね、名前が泣いてたら理由が知りたいよ。悪いことしたなら一緒に謝りに行ってやるし、仲直りするなら連れてってやる。これはオレだけじゃなくて、ユキちゃんも塔ちゃんもそう。オレらはお前の先輩だから」
「大丈夫です!私が悪いので、後で自分で謝りに行きます」
私は焦った。この話が先輩方に広まるのは避けたいから。泉田さんは特に隼人くんを尊敬しているし……葦木場さんは表情を変えなかった。
「お前のそういう意地はるところは、直した方がいいな」
「……はい」
私は去る秋の復帰レースまで、この人のことをほとんど知らなかった。部室裏で俯く背の高い先輩。陰鬱な顔で、羨ましそうに、外を走る部員を見て。2年の先輩方といる時は大きな声で騒いで「天然」っていじられてて、一方レースは圧倒的な走りを見せる、新エースに相応しい人。よくこんな逸材を見つけてきたと、さすがは寿一くんと感心したものだ。
でも、後輩として直接話したら、全然違った。悪いことをしたらそれをこちらが認めるまで叱り、淡々とアドバイスをして、よくできたら静かに褒める。家ではお兄ちゃんだと知って妙に納得したが、この人はとにかく私の「何かトラブルを黙っているところ」「すぐに自分のせいにして逃げようとするところ」を治させようとしつこかった。避けようにも、何を考えているかわからないあの目でじっと見つめられると足が動かなくなる。静かな声で「何が悪かったか、わかるか」と聞かれると、一から十まで全て吐くしかできない。寿一くんに何か言われたのか、随分目をかけて心配してくれているとは思うが……正直苦手だ。
「今なら聞いてやる、どうする?」
またこの目。上も下もまつ毛が立派だ。それがゆっくりと瞬き、再び現れた深い色の瞳が私を見ている。じっと。そこから視線を逸らす勇気はなかった。
これが黒田さんや泉田さんなら、絶対に言わない。本当に私のせいだから、私が今日の帰り隼人くんに謝って、仲直りすればいい。余計なトラブルを先輩に共有したくない。先輩方は、エースは、もっと他に考えることがあって、気を配るべきことがあって、それで。
「名前」
もうダメだ、と思った。この声。ただ名前を呼ばれただけなのに、なんて重たい響きだろう。こうなると、もう一から十まで全部吐くしかできない。何が一かもよくわかってないのに。私はとりあえず言葉になった端から話し出す。
「4月になったら、ハコガクに悠人が入学します。隼人くんの弟」
「ああ」
「自転車部 に入ると思います。そしたら皆さんきっと、隼人くんと同じように悠人に求めると思うけど……悠人はきっと、先輩方が望むような新開隼人の弟じゃなくて、そういう期待されたような振る舞いもできないと思う、んです……」
「それで」
「ゆ、悠人は、隼人くんの代わりになれない……そもそも悠人は、悠ちゃんは、クライマーだし、性格はクソ生意気だし、気が強いし、すっごく甘えてくるし、レースも成績は残してるけど、まだ中学生だし。隼人くんみたいな、部活のことも考えて、実力で引っ張って、選手としても立派で、みたいなのは無理だと……皆さん期待してくれるかもしれないけど、多分、それはむずかしい。そして、悠ちゃんはその環境に耐えられない……と思う。思います」
「わかった」
「……今のでわかりました?」
「うん。楽しみにしてる。クソ生意気で調子に乗った、クライマーの悠人が入学してくるの」
「……よろしくお願いします」
「うん、任された。ほら、ずっとこんなとこいたら風邪ひくぞ」
本当に、任せていいのかな。葦木場さんがさっさと立ち上がって、ズボンの汚れを払う。私はそれをぼんやり見上げて、本当に首が痛いなと思っていた。
「返事」
「はい」
今度こそ私も立ち上がって、スカートの汚れを払う。隼人くんが買ってくれたミルクティーはとっくに冷えていた。葦木場さんは何を考えているかわからない目で私を見て。
「……やっぱり、一緒に謝りに行ってやろうか」
「いえ、大丈夫です」
「そうか」
葦木場さんとはそこで別れて、それぞれ午後の授業のために教室に戻った。午後一は苦手な世界史だったのに授業は全く頭に入ってこなくて、気がついたらノートが真っ白なまま授業終わりのチャイムが鳴った。これは後で誰かにノートを借りないといけない。
しかし、最悪の日程だ。新開家の事情を思うと普通に嫌な予感がする。隼人くんのママは、隼人くんのことがすごく大事で……悠ちゃんのことは、きっと、隼人くん程には思っていない。悠ちゃんは家でも外でも隼人くんの次で、隼人くんの弟で、ずっと比べられて、それが嫌で、許せなくて。私がどんなに外野で騒いでも、悠ちゃんはきっと、隼人くんに認められないときっと満たされないのだ。
悠ちゃんとは受かったらいつもの店でケーキ買ってお祝いしようと約束していた。いちごのナポレオンパイを買って、特別な時だけのさくらんぼの柄のティーカップに去年の誕生日に悠ちゃんがくれた紅茶をいれよう。今日は幸い金曜日、そして窓の外は荒天。朝のうちに部活は自主練だと連絡があった。今から外泊届をねじ込んで、放課後会いに行こうか。こういうのはきっと、その日のうちがいちばん嬉しいから。
「名前」
ガラッと教室の前のドアが開いて、隼人くんが私を呼んだ。憧れの先輩の姿に1年生の教室は俄かにざわめく。席まで来られたら嫌だから自分でドアまで行った。
「合格おめでとうございます」
「ありがとう。それで、今日……」
実家に帰るから、一緒に帰ろうのお誘いだ。しかし頼むからわざわざ人目のあるところで誘わないでほしい。私の顔色がどん底なのを見て隼人くんは言葉を切った。
「ジュース奢ってやるよ。行こう」
「……ありがとうございます」
逃げるように教室から脱走。寒すぎて自販機の前でたむろするような生徒もいなかった。隼人くんは本当に奢ってくれた。いつも通りホットのミルクティー。
「この天気じゃ自主練だろ」
「うん。悠ちゃんにケーキ買って帰りたい」
「約束してたもんな」
「……隼人くんにも買ってあげようか。合格祝い」
隼人くんは常にお腹をすかしている。運動量の少ない受験生だからと部活に明け暮れていた頃よりは控えているようだけど、代わりにしょっちゅうお腹が鳴る。可哀想に思って、提案すると隼人くんの目が私に向いた。昔から、甘いものとカロリーに目がないのだ。
「いいのか?」
「合格祝いだからね」
悠ちゃんにバレたら怒られるだろう。「オレにって言ってたじゃん」って言うだろうから箱を分けてもらった方がいいかも。「悠ちゃんだけの」何かを悠ちゃんはいつも、心底嬉しそうに喜んで、大事そうにするから。昔だったら、ふたりが好きなやつをひとつずつ買って、仲良く分けて食べていたのに。
「……悠ちゃんには『私に買ってもらった』って言わないでね」
隼人くんをチラッと見たが返事がない。ハコガクの自販機でいちばん甘い缶コーヒーを喉に流し込んでいる(あの、頭痛がするほど甘いやつ)。最後に大きく喉が上下した。
「それと」
「まだあるのか」
「悠ちゃんおめでとうって言ってあげてほしい」
「……そんなこと?」
今のは、ちょっと意地悪言う時の声だ。悠ちゃんと隼人くんの関係は、隼人くんのせいじゃない。悪いのは隼人くんを持て囃したいあまり、悠ちゃんを称賛するのに隼人くんを引き合いに出さないといられない人たち。小さい頃の悠ちゃんはあんなに隼人くんのことが大好きで、どこに行くにもついていったのに、近づけば比べられることに気づいて悠ちゃんは距離を置くようになった。自分が何か言えば余計傷つけるからと隼人くんも黙って受け入れた。代わりにもならないけど、私が悠ちゃんを甘やかしまくって、結果生意気強気の新開悠人が出来上がったというわけ。でも、きっと今でも悠ちゃんは隼人くんのことがいちばんで。私の言葉じゃ満足できないから、ハコガクに来たくて。
「……私じゃダメなのわかってるでしょ」
「ダメじゃないだろ」
「今までダメだったから言ってるの!」
カッとなって思わず大きい声が出た。見てるでしょ、悠ちゃんがどんどん捻くれて拗れていくところ。もうどうすれば昔みたいな兄弟に戻れるのか、わからなくなってるところ。憧れと嫉妬と羨望の目で兄を見る、弟。隼人くんが軽く投げた空き缶は、見事にゴミ箱に吸い込まれた。
「兄弟でしょ、悠ちゃんのお兄ちゃんでしょ……」
「それは、悠人に“そうする“のと何が違うんだ?」
そうするとは?隼人くんの冷たい目が私を見下ろしていて、息が止まった。自分の言葉を口の中で繰り返す。「悠ちゃんのお兄ちゃん」、「隼人くんの弟」……悠ちゃんへの仕打ちと何が違うのか。
「あれ、新開さん」
「ああ、お疲れ」
「お疲れ様です」
最悪のタイミングで葦木場さんが来た。隼人くんは「ホームルーム終わったら迎えに行く。勝手に帰るなよ」と私に声をかけて立ち去った。声だけはいつもの優しい先輩だけど、最後に見た顔は完全に無。青い目は冷たく私を一瞥した。絶対怒ってる。私は隼人くんを追うこともできず、黙って縁石に座り込み、「しばらくここで物思いに耽りますので先輩はさっさと自販機どうぞ」のポーズを取った。
……私は昔から「悠ちゃん贔屓」だ。みんなが隼人くんをすごいねと褒める分、同じだけ悠ちゃんを褒めてきた。悠ちゃんがもらえるはずだった賞賛がその手からすり抜けていく時、自分のことのように心臓が痛くて、ショックを受けている悠ちゃんの顔を見るのが辛かったから。
「悠ちゃんすごいね、頑張ったね、最後見てたよ。すっごく速かった!」言葉をつくして褒めれば、悠ちゃんは全身で喜んでくれた。隼人くんが「オレは?」と聞いてくるのを私はいつも「見てた見てた、いつものだったよ」と軽くあしらって。
「そうか、見てたのか」
あの青い瞳が、整った顔が、他の人に向けるのと違う熱を、冷たい温度をはらんで私を見る。気づいたのはいつだろう。確か、それに気づいてすぐに隼人くんはハコガクに行ってしまって、私はますます悠ちゃん贔屓になった。
……私が悠ちゃんにばかり構うこと。隼人くんにとってそれが喜ばしいことではないと、なんとなく察している。でもしょうがないじゃん。みんな隼人くん隼人くんって言うんだから、ひとりくらい悠ちゃんの側についてたっていいでしょう。大人な隼人くんが直接嫌だと口にしないからって私がそれに甘えて、その結果が今のこれだ。目が熱くなる。今までの……数年の行いが今になってまとめて返ってきた。よりによってこんな時に。
ガタンと飲み物の落ちる音がして、意識が戻る。ヨイショと大きな体をかがめてそれを拾う気配、それからすぐに規格外の足が視界の端に移った。……葦木場さん。
顔を上げるつもりはなかったが、葦木場さんは気にせず話しかけてくる。
「叱られたか?」
「……いいえ」
「じゃあ喧嘩?」
「……」
葦木場さんが膝に手をついて視線を合わせようとして……それでもまだ葦木場さんの方がはるかにデカかったので、そこから更に片膝ついてようやく私と目線があった。躊躇いなく長い腕を伸ばし、決壊寸前だった涙を拭われる。そのままバフバフと頭を撫でられたところで、そういえばこの人妹がいるらしいと思い出した。手慣れている。
「お前は絶対言わないだろうけど」
「はい」
「オレはね、名前が泣いてたら理由が知りたいよ。悪いことしたなら一緒に謝りに行ってやるし、仲直りするなら連れてってやる。これはオレだけじゃなくて、ユキちゃんも塔ちゃんもそう。オレらはお前の先輩だから」
「大丈夫です!私が悪いので、後で自分で謝りに行きます」
私は焦った。この話が先輩方に広まるのは避けたいから。泉田さんは特に隼人くんを尊敬しているし……葦木場さんは表情を変えなかった。
「お前のそういう意地はるところは、直した方がいいな」
「……はい」
私は去る秋の復帰レースまで、この人のことをほとんど知らなかった。部室裏で俯く背の高い先輩。陰鬱な顔で、羨ましそうに、外を走る部員を見て。2年の先輩方といる時は大きな声で騒いで「天然」っていじられてて、一方レースは圧倒的な走りを見せる、新エースに相応しい人。よくこんな逸材を見つけてきたと、さすがは寿一くんと感心したものだ。
でも、後輩として直接話したら、全然違った。悪いことをしたらそれをこちらが認めるまで叱り、淡々とアドバイスをして、よくできたら静かに褒める。家ではお兄ちゃんだと知って妙に納得したが、この人はとにかく私の「何かトラブルを黙っているところ」「すぐに自分のせいにして逃げようとするところ」を治させようとしつこかった。避けようにも、何を考えているかわからないあの目でじっと見つめられると足が動かなくなる。静かな声で「何が悪かったか、わかるか」と聞かれると、一から十まで全て吐くしかできない。寿一くんに何か言われたのか、随分目をかけて心配してくれているとは思うが……正直苦手だ。
「今なら聞いてやる、どうする?」
またこの目。上も下もまつ毛が立派だ。それがゆっくりと瞬き、再び現れた深い色の瞳が私を見ている。じっと。そこから視線を逸らす勇気はなかった。
これが黒田さんや泉田さんなら、絶対に言わない。本当に私のせいだから、私が今日の帰り隼人くんに謝って、仲直りすればいい。余計なトラブルを先輩に共有したくない。先輩方は、エースは、もっと他に考えることがあって、気を配るべきことがあって、それで。
「名前」
もうダメだ、と思った。この声。ただ名前を呼ばれただけなのに、なんて重たい響きだろう。こうなると、もう一から十まで全部吐くしかできない。何が一かもよくわかってないのに。私はとりあえず言葉になった端から話し出す。
「4月になったら、ハコガクに悠人が入学します。隼人くんの弟」
「ああ」
「
「それで」
「ゆ、悠人は、隼人くんの代わりになれない……そもそも悠人は、悠ちゃんは、クライマーだし、性格はクソ生意気だし、気が強いし、すっごく甘えてくるし、レースも成績は残してるけど、まだ中学生だし。隼人くんみたいな、部活のことも考えて、実力で引っ張って、選手としても立派で、みたいなのは無理だと……皆さん期待してくれるかもしれないけど、多分、それはむずかしい。そして、悠ちゃんはその環境に耐えられない……と思う。思います」
「わかった」
「……今のでわかりました?」
「うん。楽しみにしてる。クソ生意気で調子に乗った、クライマーの悠人が入学してくるの」
「……よろしくお願いします」
「うん、任された。ほら、ずっとこんなとこいたら風邪ひくぞ」
本当に、任せていいのかな。葦木場さんがさっさと立ち上がって、ズボンの汚れを払う。私はそれをぼんやり見上げて、本当に首が痛いなと思っていた。
「返事」
「はい」
今度こそ私も立ち上がって、スカートの汚れを払う。隼人くんが買ってくれたミルクティーはとっくに冷えていた。葦木場さんは何を考えているかわからない目で私を見て。
「……やっぱり、一緒に謝りに行ってやろうか」
「いえ、大丈夫です」
「そうか」
葦木場さんとはそこで別れて、それぞれ午後の授業のために教室に戻った。午後一は苦手な世界史だったのに授業は全く頭に入ってこなくて、気がついたらノートが真っ白なまま授業終わりのチャイムが鳴った。これは後で誰かにノートを借りないといけない。
