去る春、君の声だけが在るIF
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名前が早く帰る日は名前が夕飯を作り、オレの練習が早く終わる日はオレが夕飯を作る。どちらも遅い日はそれぞれ別で、あるいは待ち合わせをして外食……というのが最近の流れになりつつあった。
今日は名前の講義が夜まで入っていて、オレは午後の講義の後は自主練だけの日だった。今日の献立は叩いたきゅうりと薄切りハムを中華風に味して混ぜたやつ、それから名前直伝のカニ玉。そろそろ出来上がるというところで玄関で鍵の回る音がした。
合鍵を渡してから名前は自由にオレの部屋に出入りしている。自由にっていうのは、その……本当に自由に。こっちの都合なんてお構いなし。高校の時名前は男子寮の居室に入ることを禁じられていて、それは合宿なんかでも同じだった。オレはその事に今になって感謝している。あの頃名前がこっちの都合お構いなしに好き勝手部屋に入って寛ぐようなことがあれば、もたなかったかもしれない。何がって、その……理性が。今思えば、あの頃はとにかく余裕がなかった。
玄関のドアが静かに閉められる。いつもなら馬鹿みたいに明るい「ただいま」の声が暗い。少し気になって、手を洗って廊下に顔を出す。
「おかえり」
「ん……」
疲れ切った顔の名前が洗面所に消えていった。小さい背中が丸まっている。重たそうなカバンと2本の足を引き摺るようにして。大学が大変なんだろう。名前の学部は朝から晩まで講義がキッチリ詰まっていて、それが1年から4年まで続く。だから「落単しても来年再履修すればいいや」というわけにはいかず、テストの時期はいつも大変そうにしている。今の時期は特に課題が多いようで、ウチに来ても夕飯を食べてすぐ帰る。暇な時期は遅くまでウチでダラダラして眠くなってそのまま寝そうになるし、オレが「家帰って寝ろよ!」と怒っても全然帰らないのに。ため息を吐こうとして、名前がキッチンに入ってきたのでやめた。
戻ってきた名前は「いい匂い、ごはんありがと」といつもの通りに礼を言った。が、やっぱり元気がなかった。最近の課題はグループ作業が多いらしく、体力的に厳しいというより精神的に疲れているようだった。
少し考えて、フライパンをのせたままIHコンロの電源を切る。エプロンの紐を解く。「油が跳ねるから」と言って、この生活になってすぐの頃に名前が買ってきた。ウチのキッチンには名前用のエプロンとオレ用のエプロンがかかっていて、勝手に遊びに来る元自転車部のヤツらにとってはいいからかいのネタになっている。雑な手つきでそれを取り払って、「ほら」と両手を広げて見せる。
「……うん」
名前はちょっと顔を歪めて、それで、大人しく正面から抱きついた。体格の差が大きいせいで不恰好だが、そのことにはオレも名前も慣れきっている。背中に腕を回し、力を込める。名前は「くるしいよ」と文句を言ったが、そのくせ自身も腕の力を強くした。泣けば慰めてやるのに、名前は泣かない。オレたちは黙ったまま、しばらくそうしていた。小さい骨、柔らかい肉、少しつめたい肌。オレとは何もかもが違う。そんなことは、とっくの昔に知っている。力加減は高校3年間で覚えた。昔のような壊れ物を扱うような慎重さと、ぎこちなさは、今はない。
勉強が大変だとか、人間関係で疲れたとか、ちょっとイヤなことがあったとか。原因は多分そのあたりのどれかだ。オレ達は違う大学に通っていて、高校の時みたいに朝から晩まで一緒とはいかなくて。大学にいる間の名前に何があったか、知らない。高校生の名前なら「ねえひどいの、聞いてよ!!」って大きな声で喚いて騒いでこっちのことなんてお構いなしに愚痴をこぼしただろうが、最近の名前は、お喋りなはずの名前はこういう時に何があったか話さない。
高校を卒業してからまだ少しも経っていないのに、変わったことは幾つも数え上げられる。オレも、名前も。昔は触られたり触れたりするたびに緊張して、からだの柔らかさだの体温の違いだのにドギマギしたりもどかしくなったりしたが。無条件の信頼の心地よさを知ってからはこうして腕を広げて小さいからだを抱きしめることに気恥ずかしさは感じなくなった。名前の警戒心のなさこそ相変わらずで考えものだが、それがオレに向けられているのは、気分がいい。真波にそれを「独占欲」だと揶揄われようと、だからなんだと開き直れるようになった。
名前は落ち着く場所を探し求めるようにオレの身体に額を擦り付け、結局顔の右半分だけオレの身体押し当てることで呼吸を確保したようだった。目を閉じたまま、しばらく小さな呼吸を繰り返す。
名前がゆっくり目を開けて、大きく息を吸った。
「……ごはんの匂いがする」
「ヤベッ卵忘れてた!」
オレは慌てて名前を引き剥がし、コンロに乗せたままのフライパンに飛びついた。蓋をずらすとフライパンを満たす黄色い卵焼きがちらっと覗く。明らかに火が通り過ぎた硬さ……名前が好きな大ぶりのカニカマをたくさん入れた卵焼き。たけのことネギも入れて卵は6個も使ったボリュームのある卵。それを炊き立ての米に乗せて天津飯もどきにするのが好きだ。「簡単で美味しいから教えてあげるね」って一人暮らし始めてすぐの頃に名前に教えられて、今は定番になっている、これ。
「カニ玉?おいしそう」
「あーくそ、先に下ろしときゃよかった……!」
「私“よく焼き“の卵も好きだから大丈夫。ありがとうね」
名前が歌うようにそう言って、その横顔を伺うと帰ってきた時の暗い様子は少しマシになったようだった。甘えるように背中に擦り寄ってくるのにはドキっとさせられるが、多分向こうには下心などなくて本当にただ甘えたいだけなんだろう。
オレは焼きすぎた卵を大皿に避けて、空いたフライパンで甘酢あんを作る。名前が教えた通りの配合で、きっちり量る。なるべく背中に張り付く柔らかい生き物のことを考えないようにして、無心でフライパンの中身を混ぜた。平常心だと己に言い聞かせる。一方名前はフライパンでブクブク暴れる甘酢あんを呑気に眺めて、うっとりとしたため息を。
「いい匂い、バシさん天才だね、中華料理屋さんに弟子入りできるよ」
……お前は、いつも、こっちの気も知らないで、好き勝手言いやがる!オレは深々ため息つきたいのをこらえる。焼きすぎたカニ玉ひとつで機嫌が直るなんて、安上がりなやつ。
今日は名前の講義が夜まで入っていて、オレは午後の講義の後は自主練だけの日だった。今日の献立は叩いたきゅうりと薄切りハムを中華風に味して混ぜたやつ、それから名前直伝のカニ玉。そろそろ出来上がるというところで玄関で鍵の回る音がした。
合鍵を渡してから名前は自由にオレの部屋に出入りしている。自由にっていうのは、その……本当に自由に。こっちの都合なんてお構いなし。高校の時名前は男子寮の居室に入ることを禁じられていて、それは合宿なんかでも同じだった。オレはその事に今になって感謝している。あの頃名前がこっちの都合お構いなしに好き勝手部屋に入って寛ぐようなことがあれば、もたなかったかもしれない。何がって、その……理性が。今思えば、あの頃はとにかく余裕がなかった。
玄関のドアが静かに閉められる。いつもなら馬鹿みたいに明るい「ただいま」の声が暗い。少し気になって、手を洗って廊下に顔を出す。
「おかえり」
「ん……」
疲れ切った顔の名前が洗面所に消えていった。小さい背中が丸まっている。重たそうなカバンと2本の足を引き摺るようにして。大学が大変なんだろう。名前の学部は朝から晩まで講義がキッチリ詰まっていて、それが1年から4年まで続く。だから「落単しても来年再履修すればいいや」というわけにはいかず、テストの時期はいつも大変そうにしている。今の時期は特に課題が多いようで、ウチに来ても夕飯を食べてすぐ帰る。暇な時期は遅くまでウチでダラダラして眠くなってそのまま寝そうになるし、オレが「家帰って寝ろよ!」と怒っても全然帰らないのに。ため息を吐こうとして、名前がキッチンに入ってきたのでやめた。
戻ってきた名前は「いい匂い、ごはんありがと」といつもの通りに礼を言った。が、やっぱり元気がなかった。最近の課題はグループ作業が多いらしく、体力的に厳しいというより精神的に疲れているようだった。
少し考えて、フライパンをのせたままIHコンロの電源を切る。エプロンの紐を解く。「油が跳ねるから」と言って、この生活になってすぐの頃に名前が買ってきた。ウチのキッチンには名前用のエプロンとオレ用のエプロンがかかっていて、勝手に遊びに来る元自転車部のヤツらにとってはいいからかいのネタになっている。雑な手つきでそれを取り払って、「ほら」と両手を広げて見せる。
「……うん」
名前はちょっと顔を歪めて、それで、大人しく正面から抱きついた。体格の差が大きいせいで不恰好だが、そのことにはオレも名前も慣れきっている。背中に腕を回し、力を込める。名前は「くるしいよ」と文句を言ったが、そのくせ自身も腕の力を強くした。泣けば慰めてやるのに、名前は泣かない。オレたちは黙ったまま、しばらくそうしていた。小さい骨、柔らかい肉、少しつめたい肌。オレとは何もかもが違う。そんなことは、とっくの昔に知っている。力加減は高校3年間で覚えた。昔のような壊れ物を扱うような慎重さと、ぎこちなさは、今はない。
勉強が大変だとか、人間関係で疲れたとか、ちょっとイヤなことがあったとか。原因は多分そのあたりのどれかだ。オレ達は違う大学に通っていて、高校の時みたいに朝から晩まで一緒とはいかなくて。大学にいる間の名前に何があったか、知らない。高校生の名前なら「ねえひどいの、聞いてよ!!」って大きな声で喚いて騒いでこっちのことなんてお構いなしに愚痴をこぼしただろうが、最近の名前は、お喋りなはずの名前はこういう時に何があったか話さない。
高校を卒業してからまだ少しも経っていないのに、変わったことは幾つも数え上げられる。オレも、名前も。昔は触られたり触れたりするたびに緊張して、からだの柔らかさだの体温の違いだのにドギマギしたりもどかしくなったりしたが。無条件の信頼の心地よさを知ってからはこうして腕を広げて小さいからだを抱きしめることに気恥ずかしさは感じなくなった。名前の警戒心のなさこそ相変わらずで考えものだが、それがオレに向けられているのは、気分がいい。真波にそれを「独占欲」だと揶揄われようと、だからなんだと開き直れるようになった。
名前は落ち着く場所を探し求めるようにオレの身体に額を擦り付け、結局顔の右半分だけオレの身体押し当てることで呼吸を確保したようだった。目を閉じたまま、しばらく小さな呼吸を繰り返す。
名前がゆっくり目を開けて、大きく息を吸った。
「……ごはんの匂いがする」
「ヤベッ卵忘れてた!」
オレは慌てて名前を引き剥がし、コンロに乗せたままのフライパンに飛びついた。蓋をずらすとフライパンを満たす黄色い卵焼きがちらっと覗く。明らかに火が通り過ぎた硬さ……名前が好きな大ぶりのカニカマをたくさん入れた卵焼き。たけのことネギも入れて卵は6個も使ったボリュームのある卵。それを炊き立ての米に乗せて天津飯もどきにするのが好きだ。「簡単で美味しいから教えてあげるね」って一人暮らし始めてすぐの頃に名前に教えられて、今は定番になっている、これ。
「カニ玉?おいしそう」
「あーくそ、先に下ろしときゃよかった……!」
「私“よく焼き“の卵も好きだから大丈夫。ありがとうね」
名前が歌うようにそう言って、その横顔を伺うと帰ってきた時の暗い様子は少しマシになったようだった。甘えるように背中に擦り寄ってくるのにはドキっとさせられるが、多分向こうには下心などなくて本当にただ甘えたいだけなんだろう。
オレは焼きすぎた卵を大皿に避けて、空いたフライパンで甘酢あんを作る。名前が教えた通りの配合で、きっちり量る。なるべく背中に張り付く柔らかい生き物のことを考えないようにして、無心でフライパンの中身を混ぜた。平常心だと己に言い聞かせる。一方名前はフライパンでブクブク暴れる甘酢あんを呑気に眺めて、うっとりとしたため息を。
「いい匂い、バシさん天才だね、中華料理屋さんに弟子入りできるよ」
……お前は、いつも、こっちの気も知らないで、好き勝手言いやがる!オレは深々ため息つきたいのをこらえる。焼きすぎたカニ玉ひとつで機嫌が直るなんて、安上がりなやつ。
