去る春、君の声だけが在る2.5
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今夜の箱根は日付が変わる頃に雪が降り出すだろう。廊下は冷気に覆われているけど、ここだけは別だ。寮の食堂はオーブンの熱のおかげでほんのりあたたかい。
「名前……?」
「い、泉田さん」
オーブンと調理台のその隙間にしゃがみこむ私を見つけて、泉田さんは目をまんまるに見開いた。私の方も驚いている。夕食も終わって、調理員さんも帰って、この時間食堂を訪れる人はほとんどいない。
「どうしてこんなところに……お腹空いちゃったんですか?」
まさか空腹に負けて調理室に忍び込むような真似しないだろう……と思ったその通り、泉田さんは首を振った。
曰く、帰り支度を済ませた調理員さんに遭遇したので「お疲れ様です」の挨拶をしたところ、ニコニコ嬉しそうな調理員さんに「よかったら食堂、覗いてみてね」と言われたらしい。それで、部員がまた何かしているのかと思って様子を見にきて、調理台の陰に隠れている私を見つけた、と。ちゃんと許可を取ってオーブンを使っているわけだけど、ちょっと気まずい。
「名前の方こそ、こんな時間までこっちに残ってるのは感心しないね」
ほら、やっぱり。私は稼働中のオーブンを指さして言い訳する。
「ちょっとオーブン借りてて……」
「なるほど」
「お、怒ってますか」
「怒ってはないけど……」
あからさまに安堵のため息をつくと「良くないことだという自覚があるなら、控えるように」と釘刺し。はあい。入部以来、男子寮の立ち入りについては散々指導されている。今年の3年の先輩方も部内の打ち合わせにしろ、勉強会にしろ、門限ギリギリまでこちらにいるといい顔をしない。だから、いつものようにこそこそしていたわけだけど。
ハコガク寮生の食事を支えてくれる食堂の調理員さん……通称マダムたちには「3年の先輩方にバレるとややこしいので秘密にしてください」というお願いは聞きいれてもらえなかったようだ。別に意地悪とかじゃなくて、調理員さんたちには去年の寮食変更をきっかけに良くしてもらっている。手間のかかるメニューを毎日提供してもらっていることもそうだし、レースで早朝出発の時はおにぎり作る用に炊飯器を貸してくれるし、部員の気分転換になるようなお菓子を作るためにこうして時間外に調理台を貸してくれる。
しかし調理員さん達はどうやら私と泉田さんのことを「ちょっとつついたら恋愛関係になりそう」な仲だと勘違いしているらしく、こうしてたまにアシストが入る。今夜も私が食堂でひとりきりなのを知っていて、泉田さんを差し向けたに違いない。勘違いなのに、何回言ってもわかってもらえない。マダムたちの親指立てた笑顔が目に浮かぶ。
「……それで、何を焼いてるんだい?」
泉田さんが調理台に作り付けのオーブンを覗き込もうとして、私は慌てて身を引いた。ち、近い。調理台とオーブンの間はあんまり隙間がないのでふたり入ろうとするとぎゅうぎゅうになる。
天板の上には小さい正方形がいくつも並んで、膨らんでいる。この時間に食べるにはややギルティな感じがする砂糖とバターの香りも漂っている。
「アップルパイです。リンゴもらったので、たまには」
「へえ」
思いの外興味がありそうな声音に、ドキリと心臓が跳ねる。私は長いまつ毛を伏せてオーブンを見下ろす、その横顔をチラっと伺った。
「あの、もしよかったら……」
自分の声が上擦ったように聞こえて、ハッとする。なんだかすごく期待してるみたいだ。恥ずかしくなって、続きは声にならなかった。「もしよかったら、食べませんか」。たったそれだけなのに。
アップルパイは10月の葦木場さんのお誕生日にリクエストされて、その時はホールで焼いた。昨日たまたまリンゴの差し入れがあって、葦木場さんと悠人が「この間のアップルパイは美味しかった」と話していた。と、レイさんから聞いた。いつもならリンゴもらってもひとりひとつ配って各自丸齧りさせとくんだけど、試験勉強や練習を頑張ってる人達の気分転換になればと思って、アップルパイを焼くことにした。それで、コソコソ夕食後の食堂に忍び込んだというわけだ。
食堂に忍び込んでお菓子を作るのはこれが初めてじゃない。今年悠人が入部してから何回かおやつを作った。日々高ストレス環境で頑張ってる可愛い後輩を甘やかすための、手作りおやつ。
3年の先輩にバレないようにコソコソ作って、悠人や同級生にだけこっそりあげて、「今ここで口に入れて証拠隠滅して!それで、食べた分は走って明日までにチャラにして」なんて、言って。悠人は「無茶言ってくれますよねー」って笑って、バシさんや真波なんかは慣れてるから速攻食べてモグモグしながら何事もなかったみたいに練習に戻った。
調理員さんには「3年の先輩にはあげないの?」といつも期待するような顔で聞かれたけど、3年生の分を作ったことはなかった。
3年の先輩方の今夏インハイ優勝にかける思いがどれほどだったかは、近くで見てきたからよく知っている。最上級生として部を率いる立場の人達を息抜きのお遊びに付き合わせるのは気が引けた。泉田さんは特に、食べるものにまで神経質に気を遣っていたから。
でも、もう夏は終わった。最近の泉田さんは雰囲気が変わった。泉田さんだけではない、3年の先輩方は、皆そう。思えば去年の3年生……寿一くん達もそうだった。
真波をトップに据えた新体制はなんとか始動して、来夏のためにそれぞれが奮闘している。それを見守る3年の先輩たちはあまり口を出さずにゆったりと構えていて、後輩に求められた時だけ手を貸すような……そういう穏やかな雰囲気がある。こう表現するのはどうかと思うんだけど、代替わり後の泉田さんは憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。それで、もしかしたら。もしかしたら、今なら食べてもらえるかもしれないと、ふと思った。
「泉田さん、これ」
「ん?」
「食べますか?」
断られるかもしれないと思うと、顔は見れなかった。オーブンを注視したまま、言葉を続ける。
「折角焼いたし他の先輩にも声かけようと思ってて、まだこれからなんですけど。それで、あの、もし……嫌じゃなかったら」
オーブンの中はオレンジ色に光っている。葦木場さんの誕生日に作ったのは丸くて大きいやつだったけど、今回は少しレシピが違う。今日はパイシートを四角く切ったひとり分の小さいやつ。たっぷり盛ったカスタードクリームは、甘酸っぱいリンゴとよくあうはずだ。難易度的にもあんまり難しくないし、シフォンケーキと同じくらい焼いたことがある。今の時点では見た感じ失敗はしていない。
もし断られてもいいように、また脳内シミュレーションをする。今まで何度もして、その上で「断られるだろうな」と思って、勧めてこなかった。今日も断られるかもしれない。夕食後だから、時間が遅いから。そういうものは普段、控えてるから。理由ならいくつも挙げられる。葦木場さんのお誕生日の時は「特別な日だからね」と言って嬉しそうに食べてて、すごくビックリした。
でもどうしても代替わり直後のあの頃の、差し入れひとつとっても慎重に見定めるような視線を思い出してしまう。OBから自転車部宛の差し入れなんてどうせ大した量じゃないのに、食べるか食べないか、主将としての振る舞いと次の夏に向けた焦燥をいちいち天秤にかけるような真似をして。険しい顔をしていたのは焦っていたからだと今ならわかる。でも1年前は自分のことで精一杯で、わからなかった。3年の先輩方はその辺りが上手で、「別にひとつくらい変わらないよ」ってそそのかしたり、「オレが2個食うからな」って引き取ったりして、そのうち泉田さんもそういう差し入れ如きで目くじら立てるようなことは無くなった。でも、私は。まだあの時の視線が忘れられなくて。
泉田さんはジリジリ焼かれるオーブンのアップルパイから視線を移す。こちらへ。私を見下ろす表情が、一瞬困ったようなものに変わって、それから緩む。え。
「せっかくだから、もらおうかな」
「えっ!?」
「えって……」
シミュレーションと違う。私の裏返った悲鳴を聞いて泉田さんは呆れたみたいに笑った。
「本当に……食べるんですか」
聞き間違いかと思っておそるおそる念を押すと、泉田さんは何も言わずに頷いた。出来の悪い後輩を見る、優しい先輩の顔だったけど。少し呆れたような諦め混じりの、ような。静かに笑う。
「かわいい後輩が焼いてくれたんだ、喜んで食べるよ」
かわいい後輩だって。普段なら飛び上がるほど嬉しいはずの言葉、優しい笑顔。なのに、少し期待はずれだと思った。
今更気づいたけど、私はたぶん、泉田さんのことが好きなんだと思う。勿論3年の先輩方のことはみんな大好き。卒業してった先輩達も。強くて、厳しくて、優しい先輩たち。泉田さんのことも同じように大好きなんだと思ってたけど、ちょっと他の人とは違う……ような気がする。何が違うか、正確に言葉にすることは難しい。まだその程度だけど。
好きの気持ちを自覚した途端に、「かわいい後輩」じゃ満足できないなんて、私はすっごくワガママだ。「好きになった人に好きになってほしい」だなんて、ものすごくワガママ。そのくせはっきり「かわいい後輩じゃイヤ」って言うのは、怖い。だって勝負に出る前から結果はわかりきっている。相手はあの、泉田さんだから。
自分の身勝手さがイヤになって俯いた時、タイミング悪く軽快なメロディが鳴った。アップルパイが焼き上がった。
どうせ叶わない恋なら、卒業まで思う存分「かわいい後輩」のポジションを満喫させてもらった方がいいのかもしれない。なんか泉田さん、私に「甘えてほしい」と思ってるらしいし。これは葦木場さんのタレコミ……なるべく、明るく、いつも通りに振る舞って、それで「かわいい後輩ポイント」を稼いだほうが、傷は少なくてすむかも……?告白したいとか付き合いたいとか、そういうのは失敗した時立ち直れないかも。
焼き上がりを確かめるようにオーブンを覗き込む。ふたりきりで、距離が近くて。意識した瞬間から心臓はドキドキしてる。なるべく、明るく、いつもの喋り方を意識する。
「これ、得意料理なんです。初めて焼いたの、小学生の時だったかな……」
「拓斗の誕生日のも美味しかったよ。今日のは……少し違うようだけど」
「本家のレシピは四角でシナモン入りなんです。泉田さんはシナモン大丈夫でしたよね」
「うん」
「よかった。あの新開隼人も絶賛のレシピなので期待してくださいね」
「……ふうん」
扉を開けるとバターのいい香りがいっそう強くなって、何度作ってもこの瞬間はうっとりしてしまう。使い慣れない寮のオーブンだけど、焼き加減は無事成功。ふふん、泉田さんが食べるよなんて言ってくれた貴重な機会、どうせなら美味しいものを食べてもらいたいし……柔らかく膨らんだパイシートは綺麗に黄金色をしている。天板を取り出すために身を乗り出す。熱い空気と、シナモン、温かいカスタードの匂い。
「いつもならチーズクリームとチェリーソースをかけるんですけど、急だったのでちょっと手に入らなくて……悠人なんかは『チェリーソースのないアップルパイは別の食べ物』だって言うし、隼人くんも勿論たっぷりかける派なんですよ。でもダークチェリーの缶詰、この辺のスーパーじゃ見たことなくって……小田原で買いだめした方がいいですかね?あ、悠人に買ってきてもらえばいいのか」
焼き上がったアップルパイを取り出して、焼き加減を確かめる。どうでもいいことをつらつら話しているうちに泉田さんの返事がないことに気がついた。
「泉田さん?」
「え?」
泉田さんは難しい顔で何事か考え込んでいたみたいで、私の呼びかけでハッとしたみたいに顔を上げた。別に今の話でそんな難しいことはなかった……はずだ。何が引っ掛かったか。かわいい新エースを小田原までパシろうとしているのがよくなかった?でも、悠人がどうしても食べたいっていうから……
「どうかしましたか」
「別に、何も……」
何もない顔ではないけど。私はとりあえず、百点満点の焼き色のアップルパイを天板ごと持ち上げてみせた。いつものようににっこり笑顔を作ろうとしたけど、うまくいっただろうか。かわいい後輩ポイント稼ぎは、意識してやろうとすると案外難しい。
「焼けました。アイス添えたら完成です」
「美味しそうだね」
「でしょう!そろそろ悠人も帰ってくるはずだし、もう他の先輩方も呼んじゃおうかな……?」
その時、食堂の外からおしゃべりが聞こえて。私たちふたりともそちらに意識が向いた。
— — —よかったわねえよかったわねえ
— — —名前ちゃん、去年から「来年になったら」ってずっと言ってたもの、「引退したら食べてもらうの」って
— — —よかったわねえ
— — —「好きな人」に手料理食べてもらいたいものよねえ
— — —かわいいわねえ
— — —青春よねえ
パタパタとスリッパの音と共に遠ざかる、調理員さんたちの声……何を言ってるか理解した途端、私は真っ青になった。「好きな人」に手料理、食べてもらいたい、だって?
私はそんなこと一度も……いや、確かに言った。こっそりお菓子作ってた春夏、調理員さんたちは「3年の先輩達にも渡したらどうかしら……!」っていつもキラキラした目で提案した。今日もそうだ。夏までの私は「そういうのは引退してからじゃないですかね〜ほら、今インハイ優勝に向けて追い込んでますから。優勝してからやります!」と誤魔化していた。だから調理員さん達は「名前ちゃんは泉田くんが好きだけど、インハイまでは我慢してて、優勝できなかったけど、もう引退したし、そろそろいいんじゃないかしら!?!?」と思ってるのかもしれない。うーん、結果として調理員さんたちの言った通りになったわけだけど……
しかし、このタイミングで聞かれたのは結構マズい。言い訳しようにも、インハイ前に2年以下レギュラー陣に餌付けしてたこと、それを3年生の先輩たちに隠してたことから話さないといけなくなる。今更怒られないだろうけど、「なんでそんなことしたのか」って言われたら結構困る。
「えーと、その……そのですね……なんて言うか……」
「そんな顔しなくても。『好きな人』に手料理を食べてもらいたいんだろう?誰かは詮索しないでおいてあげるよ」
「違っ、違うんです、誤解が生じている!あっ、わかってからかってますね……!」
「『引退したら』ってことは3年の誰かだな……」
「詮索しないって言ったのに!!」
私の悲鳴を聞いて、泉田さんが我慢できなくなったみたいに噴き出して、大笑いした。深刻に捉えられるより、冗談で済ましてもらえた方が助かる。私はなんとなく見逃された空気を察してほっとした。笑い止んで一度の瞬きの後、泉田さんは真剣な声音で言った。
「冗談は置いといて。相手が3年の誰であれ、言うべきこと、伝えるべきことがあるなら卒業までに済ませておいた方がいい。そもそも自転車部 は恋愛禁止とかじゃないからね」
「……それって、経験者目線のアドバイスですか?」
「どうだろう。かわいい後輩が後悔しないように、優しい先輩目線のアドバイスかな」
「……ふうん」
また、「かわいい後輩」だ。せめてもの反抗のつもりで聞いたのに、1ミリも動揺しないどころか「かわいい後輩」返しを食らった。「かわいい後輩」って言われるの、嬉しいんだけどこうも繰り返されると守備範囲外宣言されてるみたいで地味にダメージあるな……
ガックリ項垂れていると、ちょうど玄関の方でバタバタと足音、それから話し声。アイス買い出し部隊が戻ってきたみたい。ナイスタイミングだ。食堂の扉が開いて、悠人が顔を出す。オーブンの熱で温められた食堂に冷たい空気が流れ込む。いつもは顔を顰める冷たい空気も今だけは救世主みたいに思える。物理的に頭が冷えて、少しだけものを考える余裕が生まれるから。
アップルパイは、部員の気分転換になればと思って焼いた。「好きな人に食べてもらいたい」って言葉に思い浮かべたのは、別に誰かひとりじゃない。大好きな先輩達、頑張ってる同級生、後輩。部員みんなに食べてもらって、喜んでほしかった。だから今更「かわいい後輩」扱いで拗ねてる場合じゃないんだ。そう、「かわいい後輩」らしく、元気なマネージャーらしく。いつもの私らしく。なるべく、元気で明るく。意識して声を張って。
「おかえりなさい!悠人、ちゃんと業務用買ってきてくれた?」
外は相当冷たかったようだ。鼻の頭を赤くした悠人が無言でアイスの入ったビニール袋を掲げ、アピールした。髪が若干濡れてるのは雪が舞っているのかもしれない。
「手洗って、準備手伝ってくれる?泉田さんは葦木場さん達呼んできてもらっていいですか?」
自然な流れで泉田さんをこの狭いスペースから追い出すことに成功。さすが悠ちゃん、本当にいいタイミングで帰ってきてくれた。私はドキドキ鳴る心臓を抑える。ふたりきりがこんなに心臓に悪いなんて、初めて知った。
「名前……?」
「い、泉田さん」
オーブンと調理台のその隙間にしゃがみこむ私を見つけて、泉田さんは目をまんまるに見開いた。私の方も驚いている。夕食も終わって、調理員さんも帰って、この時間食堂を訪れる人はほとんどいない。
「どうしてこんなところに……お腹空いちゃったんですか?」
まさか空腹に負けて調理室に忍び込むような真似しないだろう……と思ったその通り、泉田さんは首を振った。
曰く、帰り支度を済ませた調理員さんに遭遇したので「お疲れ様です」の挨拶をしたところ、ニコニコ嬉しそうな調理員さんに「よかったら食堂、覗いてみてね」と言われたらしい。それで、部員がまた何かしているのかと思って様子を見にきて、調理台の陰に隠れている私を見つけた、と。ちゃんと許可を取ってオーブンを使っているわけだけど、ちょっと気まずい。
「名前の方こそ、こんな時間までこっちに残ってるのは感心しないね」
ほら、やっぱり。私は稼働中のオーブンを指さして言い訳する。
「ちょっとオーブン借りてて……」
「なるほど」
「お、怒ってますか」
「怒ってはないけど……」
あからさまに安堵のため息をつくと「良くないことだという自覚があるなら、控えるように」と釘刺し。はあい。入部以来、男子寮の立ち入りについては散々指導されている。今年の3年の先輩方も部内の打ち合わせにしろ、勉強会にしろ、門限ギリギリまでこちらにいるといい顔をしない。だから、いつものようにこそこそしていたわけだけど。
ハコガク寮生の食事を支えてくれる食堂の調理員さん……通称マダムたちには「3年の先輩方にバレるとややこしいので秘密にしてください」というお願いは聞きいれてもらえなかったようだ。別に意地悪とかじゃなくて、調理員さんたちには去年の寮食変更をきっかけに良くしてもらっている。手間のかかるメニューを毎日提供してもらっていることもそうだし、レースで早朝出発の時はおにぎり作る用に炊飯器を貸してくれるし、部員の気分転換になるようなお菓子を作るためにこうして時間外に調理台を貸してくれる。
しかし調理員さん達はどうやら私と泉田さんのことを「ちょっとつついたら恋愛関係になりそう」な仲だと勘違いしているらしく、こうしてたまにアシストが入る。今夜も私が食堂でひとりきりなのを知っていて、泉田さんを差し向けたに違いない。勘違いなのに、何回言ってもわかってもらえない。マダムたちの親指立てた笑顔が目に浮かぶ。
「……それで、何を焼いてるんだい?」
泉田さんが調理台に作り付けのオーブンを覗き込もうとして、私は慌てて身を引いた。ち、近い。調理台とオーブンの間はあんまり隙間がないのでふたり入ろうとするとぎゅうぎゅうになる。
天板の上には小さい正方形がいくつも並んで、膨らんでいる。この時間に食べるにはややギルティな感じがする砂糖とバターの香りも漂っている。
「アップルパイです。リンゴもらったので、たまには」
「へえ」
思いの外興味がありそうな声音に、ドキリと心臓が跳ねる。私は長いまつ毛を伏せてオーブンを見下ろす、その横顔をチラっと伺った。
「あの、もしよかったら……」
自分の声が上擦ったように聞こえて、ハッとする。なんだかすごく期待してるみたいだ。恥ずかしくなって、続きは声にならなかった。「もしよかったら、食べませんか」。たったそれだけなのに。
アップルパイは10月の葦木場さんのお誕生日にリクエストされて、その時はホールで焼いた。昨日たまたまリンゴの差し入れがあって、葦木場さんと悠人が「この間のアップルパイは美味しかった」と話していた。と、レイさんから聞いた。いつもならリンゴもらってもひとりひとつ配って各自丸齧りさせとくんだけど、試験勉強や練習を頑張ってる人達の気分転換になればと思って、アップルパイを焼くことにした。それで、コソコソ夕食後の食堂に忍び込んだというわけだ。
食堂に忍び込んでお菓子を作るのはこれが初めてじゃない。今年悠人が入部してから何回かおやつを作った。日々高ストレス環境で頑張ってる可愛い後輩を甘やかすための、手作りおやつ。
3年の先輩にバレないようにコソコソ作って、悠人や同級生にだけこっそりあげて、「今ここで口に入れて証拠隠滅して!それで、食べた分は走って明日までにチャラにして」なんて、言って。悠人は「無茶言ってくれますよねー」って笑って、バシさんや真波なんかは慣れてるから速攻食べてモグモグしながら何事もなかったみたいに練習に戻った。
調理員さんには「3年の先輩にはあげないの?」といつも期待するような顔で聞かれたけど、3年生の分を作ったことはなかった。
3年の先輩方の今夏インハイ優勝にかける思いがどれほどだったかは、近くで見てきたからよく知っている。最上級生として部を率いる立場の人達を息抜きのお遊びに付き合わせるのは気が引けた。泉田さんは特に、食べるものにまで神経質に気を遣っていたから。
でも、もう夏は終わった。最近の泉田さんは雰囲気が変わった。泉田さんだけではない、3年の先輩方は、皆そう。思えば去年の3年生……寿一くん達もそうだった。
真波をトップに据えた新体制はなんとか始動して、来夏のためにそれぞれが奮闘している。それを見守る3年の先輩たちはあまり口を出さずにゆったりと構えていて、後輩に求められた時だけ手を貸すような……そういう穏やかな雰囲気がある。こう表現するのはどうかと思うんだけど、代替わり後の泉田さんは憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。それで、もしかしたら。もしかしたら、今なら食べてもらえるかもしれないと、ふと思った。
「泉田さん、これ」
「ん?」
「食べますか?」
断られるかもしれないと思うと、顔は見れなかった。オーブンを注視したまま、言葉を続ける。
「折角焼いたし他の先輩にも声かけようと思ってて、まだこれからなんですけど。それで、あの、もし……嫌じゃなかったら」
オーブンの中はオレンジ色に光っている。葦木場さんの誕生日に作ったのは丸くて大きいやつだったけど、今回は少しレシピが違う。今日はパイシートを四角く切ったひとり分の小さいやつ。たっぷり盛ったカスタードクリームは、甘酸っぱいリンゴとよくあうはずだ。難易度的にもあんまり難しくないし、シフォンケーキと同じくらい焼いたことがある。今の時点では見た感じ失敗はしていない。
もし断られてもいいように、また脳内シミュレーションをする。今まで何度もして、その上で「断られるだろうな」と思って、勧めてこなかった。今日も断られるかもしれない。夕食後だから、時間が遅いから。そういうものは普段、控えてるから。理由ならいくつも挙げられる。葦木場さんのお誕生日の時は「特別な日だからね」と言って嬉しそうに食べてて、すごくビックリした。
でもどうしても代替わり直後のあの頃の、差し入れひとつとっても慎重に見定めるような視線を思い出してしまう。OBから自転車部宛の差し入れなんてどうせ大した量じゃないのに、食べるか食べないか、主将としての振る舞いと次の夏に向けた焦燥をいちいち天秤にかけるような真似をして。険しい顔をしていたのは焦っていたからだと今ならわかる。でも1年前は自分のことで精一杯で、わからなかった。3年の先輩方はその辺りが上手で、「別にひとつくらい変わらないよ」ってそそのかしたり、「オレが2個食うからな」って引き取ったりして、そのうち泉田さんもそういう差し入れ如きで目くじら立てるようなことは無くなった。でも、私は。まだあの時の視線が忘れられなくて。
泉田さんはジリジリ焼かれるオーブンのアップルパイから視線を移す。こちらへ。私を見下ろす表情が、一瞬困ったようなものに変わって、それから緩む。え。
「せっかくだから、もらおうかな」
「えっ!?」
「えって……」
シミュレーションと違う。私の裏返った悲鳴を聞いて泉田さんは呆れたみたいに笑った。
「本当に……食べるんですか」
聞き間違いかと思っておそるおそる念を押すと、泉田さんは何も言わずに頷いた。出来の悪い後輩を見る、優しい先輩の顔だったけど。少し呆れたような諦め混じりの、ような。静かに笑う。
「かわいい後輩が焼いてくれたんだ、喜んで食べるよ」
かわいい後輩だって。普段なら飛び上がるほど嬉しいはずの言葉、優しい笑顔。なのに、少し期待はずれだと思った。
今更気づいたけど、私はたぶん、泉田さんのことが好きなんだと思う。勿論3年の先輩方のことはみんな大好き。卒業してった先輩達も。強くて、厳しくて、優しい先輩たち。泉田さんのことも同じように大好きなんだと思ってたけど、ちょっと他の人とは違う……ような気がする。何が違うか、正確に言葉にすることは難しい。まだその程度だけど。
好きの気持ちを自覚した途端に、「かわいい後輩」じゃ満足できないなんて、私はすっごくワガママだ。「好きになった人に好きになってほしい」だなんて、ものすごくワガママ。そのくせはっきり「かわいい後輩じゃイヤ」って言うのは、怖い。だって勝負に出る前から結果はわかりきっている。相手はあの、泉田さんだから。
自分の身勝手さがイヤになって俯いた時、タイミング悪く軽快なメロディが鳴った。アップルパイが焼き上がった。
どうせ叶わない恋なら、卒業まで思う存分「かわいい後輩」のポジションを満喫させてもらった方がいいのかもしれない。なんか泉田さん、私に「甘えてほしい」と思ってるらしいし。これは葦木場さんのタレコミ……なるべく、明るく、いつも通りに振る舞って、それで「かわいい後輩ポイント」を稼いだほうが、傷は少なくてすむかも……?告白したいとか付き合いたいとか、そういうのは失敗した時立ち直れないかも。
焼き上がりを確かめるようにオーブンを覗き込む。ふたりきりで、距離が近くて。意識した瞬間から心臓はドキドキしてる。なるべく、明るく、いつもの喋り方を意識する。
「これ、得意料理なんです。初めて焼いたの、小学生の時だったかな……」
「拓斗の誕生日のも美味しかったよ。今日のは……少し違うようだけど」
「本家のレシピは四角でシナモン入りなんです。泉田さんはシナモン大丈夫でしたよね」
「うん」
「よかった。あの新開隼人も絶賛のレシピなので期待してくださいね」
「……ふうん」
扉を開けるとバターのいい香りがいっそう強くなって、何度作ってもこの瞬間はうっとりしてしまう。使い慣れない寮のオーブンだけど、焼き加減は無事成功。ふふん、泉田さんが食べるよなんて言ってくれた貴重な機会、どうせなら美味しいものを食べてもらいたいし……柔らかく膨らんだパイシートは綺麗に黄金色をしている。天板を取り出すために身を乗り出す。熱い空気と、シナモン、温かいカスタードの匂い。
「いつもならチーズクリームとチェリーソースをかけるんですけど、急だったのでちょっと手に入らなくて……悠人なんかは『チェリーソースのないアップルパイは別の食べ物』だって言うし、隼人くんも勿論たっぷりかける派なんですよ。でもダークチェリーの缶詰、この辺のスーパーじゃ見たことなくって……小田原で買いだめした方がいいですかね?あ、悠人に買ってきてもらえばいいのか」
焼き上がったアップルパイを取り出して、焼き加減を確かめる。どうでもいいことをつらつら話しているうちに泉田さんの返事がないことに気がついた。
「泉田さん?」
「え?」
泉田さんは難しい顔で何事か考え込んでいたみたいで、私の呼びかけでハッとしたみたいに顔を上げた。別に今の話でそんな難しいことはなかった……はずだ。何が引っ掛かったか。かわいい新エースを小田原までパシろうとしているのがよくなかった?でも、悠人がどうしても食べたいっていうから……
「どうかしましたか」
「別に、何も……」
何もない顔ではないけど。私はとりあえず、百点満点の焼き色のアップルパイを天板ごと持ち上げてみせた。いつものようににっこり笑顔を作ろうとしたけど、うまくいっただろうか。かわいい後輩ポイント稼ぎは、意識してやろうとすると案外難しい。
「焼けました。アイス添えたら完成です」
「美味しそうだね」
「でしょう!そろそろ悠人も帰ってくるはずだし、もう他の先輩方も呼んじゃおうかな……?」
その時、食堂の外からおしゃべりが聞こえて。私たちふたりともそちらに意識が向いた。
— — —よかったわねえよかったわねえ
— — —名前ちゃん、去年から「来年になったら」ってずっと言ってたもの、「引退したら食べてもらうの」って
— — —よかったわねえ
— — —「好きな人」に手料理食べてもらいたいものよねえ
— — —かわいいわねえ
— — —青春よねえ
パタパタとスリッパの音と共に遠ざかる、調理員さんたちの声……何を言ってるか理解した途端、私は真っ青になった。「好きな人」に手料理、食べてもらいたい、だって?
私はそんなこと一度も……いや、確かに言った。こっそりお菓子作ってた春夏、調理員さんたちは「3年の先輩達にも渡したらどうかしら……!」っていつもキラキラした目で提案した。今日もそうだ。夏までの私は「そういうのは引退してからじゃないですかね〜ほら、今インハイ優勝に向けて追い込んでますから。優勝してからやります!」と誤魔化していた。だから調理員さん達は「名前ちゃんは泉田くんが好きだけど、インハイまでは我慢してて、優勝できなかったけど、もう引退したし、そろそろいいんじゃないかしら!?!?」と思ってるのかもしれない。うーん、結果として調理員さんたちの言った通りになったわけだけど……
しかし、このタイミングで聞かれたのは結構マズい。言い訳しようにも、インハイ前に2年以下レギュラー陣に餌付けしてたこと、それを3年生の先輩たちに隠してたことから話さないといけなくなる。今更怒られないだろうけど、「なんでそんなことしたのか」って言われたら結構困る。
「えーと、その……そのですね……なんて言うか……」
「そんな顔しなくても。『好きな人』に手料理を食べてもらいたいんだろう?誰かは詮索しないでおいてあげるよ」
「違っ、違うんです、誤解が生じている!あっ、わかってからかってますね……!」
「『引退したら』ってことは3年の誰かだな……」
「詮索しないって言ったのに!!」
私の悲鳴を聞いて、泉田さんが我慢できなくなったみたいに噴き出して、大笑いした。深刻に捉えられるより、冗談で済ましてもらえた方が助かる。私はなんとなく見逃された空気を察してほっとした。笑い止んで一度の瞬きの後、泉田さんは真剣な声音で言った。
「冗談は置いといて。相手が3年の誰であれ、言うべきこと、伝えるべきことがあるなら卒業までに済ませておいた方がいい。そもそも
「……それって、経験者目線のアドバイスですか?」
「どうだろう。かわいい後輩が後悔しないように、優しい先輩目線のアドバイスかな」
「……ふうん」
また、「かわいい後輩」だ。せめてもの反抗のつもりで聞いたのに、1ミリも動揺しないどころか「かわいい後輩」返しを食らった。「かわいい後輩」って言われるの、嬉しいんだけどこうも繰り返されると守備範囲外宣言されてるみたいで地味にダメージあるな……
ガックリ項垂れていると、ちょうど玄関の方でバタバタと足音、それから話し声。アイス買い出し部隊が戻ってきたみたい。ナイスタイミングだ。食堂の扉が開いて、悠人が顔を出す。オーブンの熱で温められた食堂に冷たい空気が流れ込む。いつもは顔を顰める冷たい空気も今だけは救世主みたいに思える。物理的に頭が冷えて、少しだけものを考える余裕が生まれるから。
アップルパイは、部員の気分転換になればと思って焼いた。「好きな人に食べてもらいたい」って言葉に思い浮かべたのは、別に誰かひとりじゃない。大好きな先輩達、頑張ってる同級生、後輩。部員みんなに食べてもらって、喜んでほしかった。だから今更「かわいい後輩」扱いで拗ねてる場合じゃないんだ。そう、「かわいい後輩」らしく、元気なマネージャーらしく。いつもの私らしく。なるべく、元気で明るく。意識して声を張って。
「おかえりなさい!悠人、ちゃんと業務用買ってきてくれた?」
外は相当冷たかったようだ。鼻の頭を赤くした悠人が無言でアイスの入ったビニール袋を掲げ、アピールした。髪が若干濡れてるのは雪が舞っているのかもしれない。
「手洗って、準備手伝ってくれる?泉田さんは葦木場さん達呼んできてもらっていいですか?」
自然な流れで泉田さんをこの狭いスペースから追い出すことに成功。さすが悠ちゃん、本当にいいタイミングで帰ってきてくれた。私はドキドキ鳴る心臓を抑える。ふたりきりがこんなに心臓に悪いなんて、初めて知った。
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