ススメスプリングチキン
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田所が取っていない午後イチの講義。当然ヤツが隣に座ってきて、私は150分間耐えた。
講義が終わると同時に急いで講義室を出たのに、ヤツはしつこく追い回してきた。なんとか撒こうとして迷子になって、棟内から出れなくなってたところに田所が登場。ヤツは呆気なく田所に追い払われた。新しいハイヒールで歩き回ったせいで踵が靴擦れしていた。図書館に行きたかったけど、もうその気力はなかった。
「お前何で何も言わないんだよ」
「……穏便にすませたいの。あの人のこと、怒らせたくない」
「穏便って……おまえこんなところまで追い回されて、今更何言ってんだよ」
私はとにかく無我夢中で逃げ回ったので、今がどこかもよくわかっていない。建物から出ていないから、多分情報工学部の棟のどこかだ。
「今更じゃないよ、ずっとそう思ってる……」
「ずっと?ずっと思ってるのに現状コレかよ」
「そ、れは……」
「……はっきりしろよ」
「はっきりって……」
はっきりって。はっきりってなに?「嫌だ」も「やめて」も、散々言った。「あなたのことは好きじゃない」って、何度も伝えた。でも全然取り合ってくれない。今日だって。「他の子の隣に座るから」と私が断ったのに、私のカバンを奪って自分の隣に座らせた。今日の科目は特に苦手で昨日の夜時間をかけて予習した。奪われたカバンにはその予習ノートが入っていた。ヤツもそれを知ってて、カバンを人質にした。「昨日、これに何時間かけたの?」と鼻で笑って、予習ノートの間違いを指摘した。それから、講義中私がわからなかった問題を、頼んでもないのに代わりに答えた。講義に置いてかれないように必死になってノートを取ってるのに、私の体に触った、課題について言葉に詰まりながら説明する私の顔をまじまじ見て「今日のリップの色好きじゃないな」言った、それから、それから……
「田所にはわからないよ」
「は?」
「だって、」
田所に言い返そうとして、言葉より先にポロッと涙が溢れた。まさか私が泣くと思わなかったのか、田所がギョッとして重たいカバンを取り落とした。私だって泣くつもりはなかった。
「おい、なんで泣いてっ」
「……う」
田所は焦って、行き場のない手を開いたり閉じたりした。私は大したことないよと、言葉の出ない代わりに手で示そうとして。
その時、1番近くのドアがガラッと開いて。メガネにすごい寝癖の先輩が出てきた。その人がこちらに気づいて。
「あれ、田所くん……と、キミは……」
「く、靴野井さん……」
私は突如現れたメガネの人をポカンとして見ていたけど、田所はかなり動揺していた。知り合いらしい。メガネの人は泣いている女子学生、私をチラッと見て。
「とりあえず、落ち着ける場所が必要かな。研究室来るかい」
「は、はい……」
田所が勝手に返事をして、私は知らない先輩の研究室を訪問することになった。随分親切な先輩だなと思った。私は頬を拭った。先輩が歩くとサンダルがぺったんぺったん音を立てるのが気になった。さ、寒そう……茨城って結構朝晩寒いのに、まだ春だというのに、サンダル……
連れて行かれた研究室は誰もいなくて、大きい窓が塞がれて薄暗くて、一瞬先輩が豹変したらどうしようと躊躇したけど、そんなことはなかった。自分が疑り深くなっていることにガッカリする。
「足は大丈夫?手当は……」
「大丈夫です、大したことなくて……」
先輩は靴擦れに気づいていたようで、研究室に入ると真っ先にそう言った。手当は断ったけど、先輩は「でも心配だから」と応急手当てセットを貸してくれた。絆創膏、マキロン、軟膏的な何か。ストッキングを履いているせいで絆創膏を貼るなら一度お手洗いに行かないといけなくて、私は先輩に断って一度研究室を出る。
踵に絆創膏を貼って、メイクを少し直してから研究室に戻る。おそるおそる研究室のドアを開けた時、メガネの先輩と田所は何事か話し合っていたけど、私を見て話をやめた。
先輩は何もなかったかのように「設備がなくてね。インスタントで悪いけど……」とぼやきながらコーヒーを淹れてくれた。妙に商売っけのないキャラクターのマグカップ。学会のキャラクターか何かだろうか。
全然気が付かなかったけど、メガネの先輩……靴野井さんは田所と自転車繋がりの知り合いだった。私の中でようやく点と点が繋がった。メガネの、南米の!田所とよく話している人!「自転車で世界を回る人がいる」っていうのは学部内でも有名で、この人だったんだと驚いた。勝手にもっと屈強そうな人を想像していたから。
私はそもそも自転車部とサイクリング部が違う部だということをよくわかっていなかったので、靴野井さんに説明してもらってやっと別々の部だと理解した。同じ「自転車に乗る」という活動内容でも、目的が違うということはなんとなくわかった。機材のことはさっぱりだけど。「でもモノは違うとはいえ、同じ自転車に乗る仲間だから仲良くしたいね」と靴野井さんが締めくくる。
私たちが言葉少なにコーヒーを啜る間、靴野井さんは簡単に研究室の説明をしてくれた。人数が多いから教授の部屋、院生の部屋、4年の部屋、3年の部屋で分かれていること。置ききれない物は下っ端の部屋に押し付けられるのでこんなに資料で溢れていること。
「落ち着いたかい?」
私は靴野井さんに促されてなんでこんなことになっていたのか事情を話した。同級生に付き纏われてること、田所に助けてもらってること。付き纏われてるのは嫌だけど、騒ぎにしたくないこと。
「大事にしたくない、か……」
靴野井さんは腕を組んだまま仰向いて、年季の入ったパイプ椅子がギシっと鳴った。
「靴野井さんも『はっきりしろよ』って思いますか?」
田所が動揺して体を揺らして、靴野井さんが苦笑した。今のは意地悪な言い方だったかもしれない。
「いんや……どちらかと言うと、ボクもそっちの考えさ」
「本当ですか?」
「同じ学部の人とトラブルになって、相手が停学とか辞めちゃうとかそういうのはいい気分じゃない。自分のせいで、って思う人もいるだろう」
「はい」
「せっかく同じ大学の同じ学部にはいったんだからって気持ちも、まあ多少は、ある。自分がその環境にいるわけじゃないから想像だけど……」
私がうまく言葉にできなかっただけで、その通りだ。私は何度も頷いた。
「でも田所くんの気持ちもわかるのさ。傷つけられてる苗字さんをただ見ているだけ、親しい友人に自分が何もできないのは、苦しいんだよ」
「そんなふうに思ってたの?」
私は驚いて隣に座る田所を見た。田所は視線を逸らしたままだったけど、小さく頷いた。
「その辺りは一旦ふたりで話し合った方がいいかもね。例の彼のことは抜きにしてもさ」
それで靴野井さんは、この話は終わりという風に両手をパンと合わせた。
それからぬるくなったコーヒーを啜りながら、3年時の専攻選択の話や、学部のイベントなんかを学生視点で話してくれた。私は部活にもサークルにも入っていないから、上級生と関わることはほとんどない。専攻選択、研究室事情、学部卒業後の進路……いろいろな話が聞けて満足した。靴野井さんは話がうまくて、聞いてるうちにヤツのことなんてとっくに頭の中から消えた。すっかり泣き止んだ私を見て、靴野井さんが聞いた。
「苗字さんは自転車に興味は?海外旅行はどう?」
「えっと……あんまり。すみません……」
サイクリング部に多分、こういうひらひらしたスカートや踵の細いハイヒールを履いた人は入れない。それに海外旅行に行くなら山とか川とか見るより有名な観光地に行きたい。絶対私は「入部希望者」には見えないだろうし、入ったとしてもうまく行かないだろう。靴野井さんだって、わかってるだろうに。
「じゃあ人の冒険譚を聞くのは?」
「それなら……」
「そうだと思った。よかったら今度サイクリング部にも遊びにおいで。もうちょっとちゃんとしたコーヒーを出せるから。それで部員の冒険の話を聞いてくれたら嬉しいね。旅に出た人は皆、誰かに自分の冒険の話を聞いて欲しいと思ってるのさ」
「……ありがとうございます」
靴野井さんは満足そうに頷いた。部室の場所と入り口がちょっと特殊なことを教えてもらって、それから「この後抄読会だから」と研究室を追い出された。
私たちは階段を降りる。逃げ回るうちに4階まで上がってきてしまったようだ。4階でよかった。靴野井さんに会えたから。
靴野井さんの言うように「ふたりで話し合う」雰囲気にはならなかった。田所はもう怒ってなくて、どこか落ち込んだというか深く考え込むような顔で階段を降りる。
「……靴野井さんってほんとにすごい人なんだよ」
「うん」
「オレが迷ってる時に背中押してくれた。まだ、知り合って1ヶ月も経ってないような……自分が何したいのかもわかってないようなヤツの話を聞いてくれた。オレがサイクリング部辞めて、自転車部行ってからも良くしてくれる」
「……そうなんだ」
たまに構内で話しているところを見ていたから仲のいい先輩なのかなとは思っていたけど、サイクリング部だったのは知らなかった。最初から自転車部一本じゃなかったのかと私は驚いた。レースの自転車部、旅行のサイクリング部……という違いは教えてもらった。どうして、田所は靴野井さんのいるサイクリング部じゃなくて、自転車部を選んだのだろう?
「恩人、なんだよ」
田所はまた『あの目』をしている。田所はここじゃないどこかを思う時、この目をする。ここじゃないどこかはきっと、自転車関係なんだろうとは思っていた。インターハイで優勝するような経験をした人間がどうしてそんな顔をするんだろう。きっとその業界じゃエリート中のエリートのはずが、田所はたまにすごく自信のない顔をする。
「……悪かった」
いつも腹から声出す人の、死にそうで、消え入りそうな声。私は黙って頷いた。そういう顔をする理由を教えてもらえるようになりたい。ここじゃないどこかがどこなのか、田所が何を考えているのか、教えてもらえるような、そういう関係になりたい。でも今はそれを口にする勇気がなくて、私たちは黙って階段を降りた。
講義が終わると同時に急いで講義室を出たのに、ヤツはしつこく追い回してきた。なんとか撒こうとして迷子になって、棟内から出れなくなってたところに田所が登場。ヤツは呆気なく田所に追い払われた。新しいハイヒールで歩き回ったせいで踵が靴擦れしていた。図書館に行きたかったけど、もうその気力はなかった。
「お前何で何も言わないんだよ」
「……穏便にすませたいの。あの人のこと、怒らせたくない」
「穏便って……おまえこんなところまで追い回されて、今更何言ってんだよ」
私はとにかく無我夢中で逃げ回ったので、今がどこかもよくわかっていない。建物から出ていないから、多分情報工学部の棟のどこかだ。
「今更じゃないよ、ずっとそう思ってる……」
「ずっと?ずっと思ってるのに現状コレかよ」
「そ、れは……」
「……はっきりしろよ」
「はっきりって……」
はっきりって。はっきりってなに?「嫌だ」も「やめて」も、散々言った。「あなたのことは好きじゃない」って、何度も伝えた。でも全然取り合ってくれない。今日だって。「他の子の隣に座るから」と私が断ったのに、私のカバンを奪って自分の隣に座らせた。今日の科目は特に苦手で昨日の夜時間をかけて予習した。奪われたカバンにはその予習ノートが入っていた。ヤツもそれを知ってて、カバンを人質にした。「昨日、これに何時間かけたの?」と鼻で笑って、予習ノートの間違いを指摘した。それから、講義中私がわからなかった問題を、頼んでもないのに代わりに答えた。講義に置いてかれないように必死になってノートを取ってるのに、私の体に触った、課題について言葉に詰まりながら説明する私の顔をまじまじ見て「今日のリップの色好きじゃないな」言った、それから、それから……
「田所にはわからないよ」
「は?」
「だって、」
田所に言い返そうとして、言葉より先にポロッと涙が溢れた。まさか私が泣くと思わなかったのか、田所がギョッとして重たいカバンを取り落とした。私だって泣くつもりはなかった。
「おい、なんで泣いてっ」
「……う」
田所は焦って、行き場のない手を開いたり閉じたりした。私は大したことないよと、言葉の出ない代わりに手で示そうとして。
その時、1番近くのドアがガラッと開いて。メガネにすごい寝癖の先輩が出てきた。その人がこちらに気づいて。
「あれ、田所くん……と、キミは……」
「く、靴野井さん……」
私は突如現れたメガネの人をポカンとして見ていたけど、田所はかなり動揺していた。知り合いらしい。メガネの人は泣いている女子学生、私をチラッと見て。
「とりあえず、落ち着ける場所が必要かな。研究室来るかい」
「は、はい……」
田所が勝手に返事をして、私は知らない先輩の研究室を訪問することになった。随分親切な先輩だなと思った。私は頬を拭った。先輩が歩くとサンダルがぺったんぺったん音を立てるのが気になった。さ、寒そう……茨城って結構朝晩寒いのに、まだ春だというのに、サンダル……
連れて行かれた研究室は誰もいなくて、大きい窓が塞がれて薄暗くて、一瞬先輩が豹変したらどうしようと躊躇したけど、そんなことはなかった。自分が疑り深くなっていることにガッカリする。
「足は大丈夫?手当は……」
「大丈夫です、大したことなくて……」
先輩は靴擦れに気づいていたようで、研究室に入ると真っ先にそう言った。手当は断ったけど、先輩は「でも心配だから」と応急手当てセットを貸してくれた。絆創膏、マキロン、軟膏的な何か。ストッキングを履いているせいで絆創膏を貼るなら一度お手洗いに行かないといけなくて、私は先輩に断って一度研究室を出る。
踵に絆創膏を貼って、メイクを少し直してから研究室に戻る。おそるおそる研究室のドアを開けた時、メガネの先輩と田所は何事か話し合っていたけど、私を見て話をやめた。
先輩は何もなかったかのように「設備がなくてね。インスタントで悪いけど……」とぼやきながらコーヒーを淹れてくれた。妙に商売っけのないキャラクターのマグカップ。学会のキャラクターか何かだろうか。
全然気が付かなかったけど、メガネの先輩……靴野井さんは田所と自転車繋がりの知り合いだった。私の中でようやく点と点が繋がった。メガネの、南米の!田所とよく話している人!「自転車で世界を回る人がいる」っていうのは学部内でも有名で、この人だったんだと驚いた。勝手にもっと屈強そうな人を想像していたから。
私はそもそも自転車部とサイクリング部が違う部だということをよくわかっていなかったので、靴野井さんに説明してもらってやっと別々の部だと理解した。同じ「自転車に乗る」という活動内容でも、目的が違うということはなんとなくわかった。機材のことはさっぱりだけど。「でもモノは違うとはいえ、同じ自転車に乗る仲間だから仲良くしたいね」と靴野井さんが締めくくる。
私たちが言葉少なにコーヒーを啜る間、靴野井さんは簡単に研究室の説明をしてくれた。人数が多いから教授の部屋、院生の部屋、4年の部屋、3年の部屋で分かれていること。置ききれない物は下っ端の部屋に押し付けられるのでこんなに資料で溢れていること。
「落ち着いたかい?」
私は靴野井さんに促されてなんでこんなことになっていたのか事情を話した。同級生に付き纏われてること、田所に助けてもらってること。付き纏われてるのは嫌だけど、騒ぎにしたくないこと。
「大事にしたくない、か……」
靴野井さんは腕を組んだまま仰向いて、年季の入ったパイプ椅子がギシっと鳴った。
「靴野井さんも『はっきりしろよ』って思いますか?」
田所が動揺して体を揺らして、靴野井さんが苦笑した。今のは意地悪な言い方だったかもしれない。
「いんや……どちらかと言うと、ボクもそっちの考えさ」
「本当ですか?」
「同じ学部の人とトラブルになって、相手が停学とか辞めちゃうとかそういうのはいい気分じゃない。自分のせいで、って思う人もいるだろう」
「はい」
「せっかく同じ大学の同じ学部にはいったんだからって気持ちも、まあ多少は、ある。自分がその環境にいるわけじゃないから想像だけど……」
私がうまく言葉にできなかっただけで、その通りだ。私は何度も頷いた。
「でも田所くんの気持ちもわかるのさ。傷つけられてる苗字さんをただ見ているだけ、親しい友人に自分が何もできないのは、苦しいんだよ」
「そんなふうに思ってたの?」
私は驚いて隣に座る田所を見た。田所は視線を逸らしたままだったけど、小さく頷いた。
「その辺りは一旦ふたりで話し合った方がいいかもね。例の彼のことは抜きにしてもさ」
それで靴野井さんは、この話は終わりという風に両手をパンと合わせた。
それからぬるくなったコーヒーを啜りながら、3年時の専攻選択の話や、学部のイベントなんかを学生視点で話してくれた。私は部活にもサークルにも入っていないから、上級生と関わることはほとんどない。専攻選択、研究室事情、学部卒業後の進路……いろいろな話が聞けて満足した。靴野井さんは話がうまくて、聞いてるうちにヤツのことなんてとっくに頭の中から消えた。すっかり泣き止んだ私を見て、靴野井さんが聞いた。
「苗字さんは自転車に興味は?海外旅行はどう?」
「えっと……あんまり。すみません……」
サイクリング部に多分、こういうひらひらしたスカートや踵の細いハイヒールを履いた人は入れない。それに海外旅行に行くなら山とか川とか見るより有名な観光地に行きたい。絶対私は「入部希望者」には見えないだろうし、入ったとしてもうまく行かないだろう。靴野井さんだって、わかってるだろうに。
「じゃあ人の冒険譚を聞くのは?」
「それなら……」
「そうだと思った。よかったら今度サイクリング部にも遊びにおいで。もうちょっとちゃんとしたコーヒーを出せるから。それで部員の冒険の話を聞いてくれたら嬉しいね。旅に出た人は皆、誰かに自分の冒険の話を聞いて欲しいと思ってるのさ」
「……ありがとうございます」
靴野井さんは満足そうに頷いた。部室の場所と入り口がちょっと特殊なことを教えてもらって、それから「この後抄読会だから」と研究室を追い出された。
私たちは階段を降りる。逃げ回るうちに4階まで上がってきてしまったようだ。4階でよかった。靴野井さんに会えたから。
靴野井さんの言うように「ふたりで話し合う」雰囲気にはならなかった。田所はもう怒ってなくて、どこか落ち込んだというか深く考え込むような顔で階段を降りる。
「……靴野井さんってほんとにすごい人なんだよ」
「うん」
「オレが迷ってる時に背中押してくれた。まだ、知り合って1ヶ月も経ってないような……自分が何したいのかもわかってないようなヤツの話を聞いてくれた。オレがサイクリング部辞めて、自転車部行ってからも良くしてくれる」
「……そうなんだ」
たまに構内で話しているところを見ていたから仲のいい先輩なのかなとは思っていたけど、サイクリング部だったのは知らなかった。最初から自転車部一本じゃなかったのかと私は驚いた。レースの自転車部、旅行のサイクリング部……という違いは教えてもらった。どうして、田所は靴野井さんのいるサイクリング部じゃなくて、自転車部を選んだのだろう?
「恩人、なんだよ」
田所はまた『あの目』をしている。田所はここじゃないどこかを思う時、この目をする。ここじゃないどこかはきっと、自転車関係なんだろうとは思っていた。インターハイで優勝するような経験をした人間がどうしてそんな顔をするんだろう。きっとその業界じゃエリート中のエリートのはずが、田所はたまにすごく自信のない顔をする。
「……悪かった」
いつも腹から声出す人の、死にそうで、消え入りそうな声。私は黙って頷いた。そういう顔をする理由を教えてもらえるようになりたい。ここじゃないどこかがどこなのか、田所が何を考えているのか、教えてもらえるような、そういう関係になりたい。でも今はそれを口にする勇気がなくて、私たちは黙って階段を降りた。
