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「母ちゃん!!兄ちゃんがインターハイ走ってるおん!!」
「え?」
「兄ちゃんホントのホントに、すごいおんー!!」
「ちょっと待て、定くん。まずなんで照くんがインターハイに?」
8月、夜といえどまだ外は明るい。自宅にて。インターハイに帯同しているはずの次男・定時から突然の電話。ちょっと嫌な予感がした。長男・照文よりは連絡まめでない次男・定時からの電話……まさか体調不良かと身構えたが。どうやら違うらしい。
定時が色々言って教えてくれたが、自転車レースに詳しくない私はあまり状況を掴めず。そもそも、照文は誰かが怪我や体調不良の時のための補欠登録をされていたはずだ。メンバーの誰かが、体調を……?それにしては定時は嬉しそうで……理解が追いつかない。
「母さんには話がよく……定くん、母さんにわかるように、順番に話してもらっていいかね?」
「あっ」
「定時?」
誰かに呼ばれたのか、急に声が遠くなる。遠くで話し声。しばらく放置された後、電話は「兄ちゃんのホテルに荷物届けるおん!!母ちゃん、おやすみ!」という言葉を最後にアッサリ切れてしまった。もー。
インターハイ、1日目、夜。今年の開催地は灼熱の九州。照文にとっては高校最後の夏。今年の春に「メンバー入りしたら観にきてほしい」と言ったけどそれは叶わなかったから、私は千葉で留守番している。千葉も今日は蒸し暑く、夜風にあたろうと窓を開けたが生ぬるい風が肌をなでる。子供たちのいる大分はどれほどの気温だろうと天気アプリを開く。大分。
「照文が、インターハイを……」
口に出しても、信じがたい。杉元照文、18歳。高校3年生。今年のインターハイは総北のリザーバーとして登録されていたはずだった。確かにそう本人の口から聞いた。
杉元照文は私の子どもで、そして弱虫ペダルのキャラクター。私は前世の記憶……小野田坂道が主人公の漫画の記憶があり、そうでありながら杉元兄弟の母をやっている。私が照文と出会ってからもう、18年にもなる。
“あの時”、私は無料公開中の弱虫ペダルを徹夜で読んでいた。やっと小野田坂道が3年生になり、最後の合宿。段竹と杉元のバトル、繰り返すドロー、その勝負にようやく決着がついた、午前3時。大きく息を吐いて、緊張に強張った体をベッドに寝かせる。最後まで勝敗のわからない……読んでて疲れるバトルだった。しばらく脳内を整理するように、余韻に浸るように目を閉じる。話が一区切りついて今すぐ眠りたいけど、先にシャワーを浴びた方がいいだろう……渋々目を開けたその瞬間。私は産院のベッドの上で小さな子供を抱かされていた。
「……え?」
私が取り落としそうになり、腕の中でふにゃーーんと頼りなく泣いた、それが、杉元照文だった。とにかく当時はその状況に混乱していて、隣にいた知らない男性に腕の中の新生児を押し付けた。
「なに、なに、なんなの」
さっきまでいたアパートの部屋は?この子は何?体が痛いのはどうして?小さくてほにゃほにゃで、泣いてる、この子は、だれ?この子のお母さんはどこ?私の方が泣きたいのに、
「こ、このこのお母さんはどこ?」
子どもを押し付けられたその人は、半狂乱の私に一つずつ説明をした。出産に時間がかかってたくさん血が出て、“母体“は危ない状況にあったこと。幸い生まれた赤ちゃんはこの通り元気だと言うこと。“キミ“がやっと目を覚まして体調も少し持ち直して、初めて“我が子“を抱いたのが、今。この子のお母さんは私で、父親がこの人で、この子は私たちふたりの子どもで、名前はふたりで相談して決めた照文だということ。そう、杉元照文。
嘘みたいな話だけど、とにかく私は生死の境を彷徨っていた杉元母の体に憑依してしまった……そういう状態らしかった。そんなこと医者に相談できないから、とにかくそうらしいと自分の中で結論づけた。だって、否定したくても私はここにいて、体が痛くて、目の前の子どもは母親を求めて泣いていて、母親は私の他にいないから。
しかしそこからがなかなか大変だった。端的に言って、地獄……今まで生きてきた誰かの人生を横取りしたこと、それから覚悟もないまま子どもの親になってしまったこと。独身彼氏なし、結婚願望出産願望ともになし……だった私は当然子育てのやり方なんて知らなくて、最初はうまくいかないことばかりだった。「夢なら覚めて」と泣く子を抱えて何度も祈った。うまく意思疎通が取れないのは、本当のお母さんじゃないからだと、自分を責めた。この子に、本当のお母さんを返してあげて。でも……祈っても祈っても、夢は覚めなくて。
私は突然知らない子どもの命の責任を負わなきゃいけなくなって、投げ出そうにもそれができなくて、私無しで生きていけないのだというこの小さな生き物のことがとにかく恐ろしかった。AIかインターネットがあれば、もうちょっと不安も軽減されただろうけど、当時の……90年代のインターネットってほんとに魔境すぎてとてもじゃないけどそんなこと相談できなかったのだ。
ある程度大きくなってからも、とにかく照文のことでは気を揉まされた。なんなら高校決める時だって、正直総北には行かせたくなかった。照文は当然のように県内一の自転車強豪校に行きたがったけど、私はそこに行っても杉元照文の活躍の場がないことを知っている。彼が総北で結果を残したレースなんて……何かあったかな?正直あんまり記憶にない。とにかく、インハイ出てリザルトやゴールに絡むようなことはなかった。だから、他の学校に行って、同じくらいの仲間と和気藹々やった方がいいと思ったのだ、私は。今泉くんなんて追いかけても、どうせ報われないからやめなさいと、我が子を心配する気持ちも少しあって。
しかし杉元照文は意見を曲げなかった。私は何度も「3年頑張ってもインターハイに出れないんだぞ」という言葉を飲み込んだ。その後の……高校入学後の杉元照文についてはご存知の通り。
そしてつい先日、最後の合宿に出ていく朝には、私の前世の記憶通りの「完璧な杉元照文」になっていた。見送ってから「やっぱり原作ってすごい」と感心してしまったくらい。散々気を揉んだのはなんだったんだろう。本当に私の手の届かないところで、彼は勝手に育っていった。
そして、私が知っている通りに、3年間一度もインハイのメンバーに選ばれなかった。私は合宿から帰ってきた日の、照文の顔を忘れられない。
「メンバーに入れなかったよ」と静かに告げた。散々作り笑いを浮かべたのだろう、顔が不自然に引き攣って、諦めて、何も形作らずに終わった。それでいい、と思った。親の前でそんな無理して笑わなくていい。だから私はそう、と軽く頷くだけに留めておいた。
「洗濯、定くんと順番で回してね。干すとこ、空けといたから」
「うん」
知っている結末なのに、ショックを受けている自分がいた。あのシーンは……あれから18年も経ったのに未だ私の記憶に鮮明に焼きついている。
あのエピソードを読んでからこちらにきたのだから、意味があるに違いないと、そう信じ続けてきた。もしかしたら、結末が変わるんじゃないかと期待もしていた。そうでもないと、あの子が報われないでしょう。母親すら自分の勝利を信じてくれないなんて、あの子がかわいそうでしょう。
照文が暗かったのは帰宅したその時だけだった。次の日いつも通りの早い時間に起きてきて、「メンバーには入れなかったけど、リザーバーとして九州には行くんだ。今日からまた練習するよ」と告げた。表情は合宿に行く前の気合の入った様子とも違って、穏やかだった。無理をしているのは一目でわかった。
「照文、家では無理をするのをやめて」
「うん」
「学校では好きなだけ無理していいけど、家でも無理していたら疲れちゃうよ」
「……うん」
なるべく「お兄ちゃんだから」と言わずに育てたつもりなんだけどな。どうしても家だと「お兄ちゃんだからね」と言わせてしまいがちだ。そうさせてしまった。反省しているつもりだけど、でも原作でもそうだったしなあと思ってあまり積極的には止めなかった。大した反抗期もなかった。高校に入ってからは周りに刺激されたのか、勝手に歩き出して。順当に親の手を離れていった。夫はそれでいいと言った。私もそれでいいと思った。原作の通りだから、これでいい。その結果がこれだ。私がこの子にしてやれたことは少ない。今になって、後悔している。
「照文、君が今何を考えているのか教えて。母さんにもわかるように」
「母さん、今年の総北は強いよ」
知っている。私が子どもたちに直接何を考えてるか聞くのは、本当に何を考えているのかわからない時だ。子供たちが小さい頃から繰り返し尋ねたおかげで、私がこう聞く時ふたりは言葉を尽くして説明してくれる。
「メンバーは4人がインハイを走った経験がある。初出場の段竹は僕を破ってメンバー入りした。もちろん最後のひとり……1年生にも期待してるんだ、ボクは。過去2年に引けを取らない、実力者揃いだよ。その上リザーバーにはボクが入るからね、当然メンバーに何があっても大丈夫なように仕上げるよ。だから、」
まっすぐこちらを見る目は、当然一晩じゃ立ち直れてなかった。でも、立ち直ろうとしていた。きっと今日、学校で彼はいつも通りに振る舞うだろう。彼が、杉元照文だから。
私は、高校3年の夏を前に照文の物語は終わったものだとばかり思っていた。まだ終わってなかったんだ。急なインターハイ出走の裏にはどんなドラマがあったんだろう。いやいい、想像するまでもなく、あと2日のレースが終わって帰ってきたら、余すことなく話して聞かせてくれるだろう。照文はお喋りだから。
窓を閉めて、エアコンをつけて。そろそろ夕飯の支度をしなければ。子ども達がいないから、今夜も簡単でいい。高校生になってから、ふたりとも信じられない量を食べるようになって毎日大変だけど、いない日はなんだか寂しい。
夕食の支度の前に早朝便とバスの手配をしなければ。ホテルも。夏休み価格には目を瞑ろう……かわいい我が子の晴れ舞台だから。それよりどう頑張っても今夜のうちには九州に飛べないことが残念だった。定時、もう少し早く連絡をくれれば最終便に滑り込めたのに……いやいやあの子もチームのサポートで忙しかったはずだ。急遽照文が抜けることになって、色々大変だったことだろう。何かサポート組に差し入れをしようか……あの川田に差し入れするのはなんか癪だが……
全ての予約を終えたその時、再び着信。今度は、照文だった。無駄にワンコール待ってしまう。照文。なんて声をかけようか。
「母さん?今いいかい」
声は、わずかな高揚、それから疲労している様子も。一刻も早く顔が見たいと思った。初日に頑張りすぎると2日目に苦労するのが弱虫ペダルのセオリーだから、親としては心配になってしまう。今年そのお約束に巻き込まれるのはもしかしたら、照文かもしれない……明日の朝はとりあえず、ゴールに向かうつもりだったけど、スタート地点に行った方がいい?でも、もう飛行機取っちゃった……不安を、飲み込んで。
「大丈夫だよ。照くん、どうかした?」
「母さん、実は……」
ずっと、この18年他人の人生を奪って生きてきたと感じていた。結果を知っているせいでずっと照文のことを心から応援できない自分がいた。でも、これからは。明日からの、インターハイは心から、我が子を、杉元照文を応援できる。
「実はね、走ってるんだ。インターハイを!初めてのインターハイだよ。総北じゃないけど、走って……今日は8位でゴールしたんだ。選抜チームのみんなのおかげだよ」
「うん。おめでとう」
「ありがとう、急に決まったから母さんが観に来れないのは残念だけど……でも今大会は配信があるからね、母さんも家でゆっくり配信を……」
「何言ってるの。行くよ、息子の晴れ舞台だもの。明日から、見にいくよ」
「え!?明日から!?九州まで!?コースも知らないのにかい!?」
「明日別府からでしょ。知ってるよ……」
「なんで!?」
「家にいる間中君たちずーっとインターハイの話してるからさすがに覚えたよ。明日、定くんと合流できたらいいけど、まあ無理そうなら勝手に応援するわ。照くん頑張ってね」
「……心配だよ。だって母さん、自転車競技のこと全然詳しくないじゃないか」
た、たしかに自転車競技には詳しくないけど、まあどうにかなるでしょう。多分、多分だけどゴールで待ってればいいんでしょ……言葉に詰まった隙に照文が呆れたように言った。
「あのね、母さん。夏のレースは過酷なんだよ、まず暑さがね」
「あ!!母さん明日の支度しなくちゃなんだった!!もう切るね」
「逃げようとしているね!?でも本当に気候が違うんだ。どうか気をつけて、」
「気をつけてはこっちのセリフだよ。過酷なんでしょ。心配だよ」
「……うん」
本当ならもっと手放しで喜びたいし、頑張ったねと褒めてあげたい。しかし彼のインターハイ出場は予想外すぎて、喜ぶより動揺が勝っている。だから口から出るのは心配の言葉ばかり。
「いい、照くん。ちゃんとご飯食べて早く寝るんだよ。興奮して寝れない!とか言ってる場合じゃないからね」
「う、うん。あ、宿は総北の方がボクの分空いてるかもしれないよ、ちょっと事情があってボクからは連絡が取れないんだけど、定時に頼めばどうにか」
「あのね、照くん。マジで母さんの心配してる場合じゃないから。照文が母さんのことが気になって、実力出しきれないっていうなら、母さんは行くのやめる。お家で見るよ」
「……」
「照文」
「うん」
「照文、君の考えが聞きたい。今、君が何を考えているか教えて」
なんの覚悟もないまま君の母になって、私は子供の考えていることを推し量るだけの想像力もなく、意思疎通の為にできたのは何を考えているのか直接聞くことだけだった。照文は小さい頃から言葉を尽くし一生懸命何を考えているのか教えてくれて、私たち母子はそれのおかげでなんとかコミュニケーションが取れていた。
「やっと、インターハイを走れたんだ。正直、夢みたいだよ。まだ……」
嫌だな、と思って眉を寄せる。もう満足したみたいな言い方をしないでほしい。まだ1日目でしょう。言いたいことはたくさんあるのにどれも声にならない。照文は話し続ける。
「だから、見に来てほしい。明日以降、今日みたいな成績を残せるかわからない……いや、頑張りたいけど、それだけ厳しい戦いなんだ。外から見ていた時より実際はずっと厳しいよ。でも、ボクはずっと……」
照文が言葉を切る。私は淡々と言い聞かせるような言い方に、少し既視感を覚える。漫画で読んだ3年生の杉元照文はこういう話し方をしていたのかもしれない。
「自分でインターハイを走りたかったし、家族にインターハイを走る姿を見せたかったんだ。走るよ、明日も、明後日も。選抜チームの杉元照文は、最後まで全力を尽くすよ」
私はそれに何と返事をして、何を言って電話を切ったのだろう。気づいたら通話終了になっていたスマホを握りしめて、その場に座り込んだ。
初日8位は、きっと、すごいことなんだろう。しかも今日初めて会った人とチームを組んで、その順位でゴールしたのだから……きっと、そうだ。照文はすごい。本当に。
真夏の九州、最後のインターハイ。まさか照文が走ると思っていなかったから、夢の中みたいだ。当の本人すら実感がまだ湧かないという、急なエントリー。照文はその実感を噛み締める暇もないまま、あと2日走り抜くのかもしれない。
私の方は……明日照文が選抜のジャージを着て走る姿を見てようやく実感が湧くのだろうか。選抜のジャージって、何色なんだろう?でも、照文が何色のジャージ着てても、必ず見つけると思う。私は君を18年もの間見てきた、君のお母さんだから。
「え?」
「兄ちゃんホントのホントに、すごいおんー!!」
「ちょっと待て、定くん。まずなんで照くんがインターハイに?」
8月、夜といえどまだ外は明るい。自宅にて。インターハイに帯同しているはずの次男・定時から突然の電話。ちょっと嫌な予感がした。長男・照文よりは連絡まめでない次男・定時からの電話……まさか体調不良かと身構えたが。どうやら違うらしい。
定時が色々言って教えてくれたが、自転車レースに詳しくない私はあまり状況を掴めず。そもそも、照文は誰かが怪我や体調不良の時のための補欠登録をされていたはずだ。メンバーの誰かが、体調を……?それにしては定時は嬉しそうで……理解が追いつかない。
「母さんには話がよく……定くん、母さんにわかるように、順番に話してもらっていいかね?」
「あっ」
「定時?」
誰かに呼ばれたのか、急に声が遠くなる。遠くで話し声。しばらく放置された後、電話は「兄ちゃんのホテルに荷物届けるおん!!母ちゃん、おやすみ!」という言葉を最後にアッサリ切れてしまった。もー。
インターハイ、1日目、夜。今年の開催地は灼熱の九州。照文にとっては高校最後の夏。今年の春に「メンバー入りしたら観にきてほしい」と言ったけどそれは叶わなかったから、私は千葉で留守番している。千葉も今日は蒸し暑く、夜風にあたろうと窓を開けたが生ぬるい風が肌をなでる。子供たちのいる大分はどれほどの気温だろうと天気アプリを開く。大分。
「照文が、インターハイを……」
口に出しても、信じがたい。杉元照文、18歳。高校3年生。今年のインターハイは総北のリザーバーとして登録されていたはずだった。確かにそう本人の口から聞いた。
杉元照文は私の子どもで、そして弱虫ペダルのキャラクター。私は前世の記憶……小野田坂道が主人公の漫画の記憶があり、そうでありながら杉元兄弟の母をやっている。私が照文と出会ってからもう、18年にもなる。
“あの時”、私は無料公開中の弱虫ペダルを徹夜で読んでいた。やっと小野田坂道が3年生になり、最後の合宿。段竹と杉元のバトル、繰り返すドロー、その勝負にようやく決着がついた、午前3時。大きく息を吐いて、緊張に強張った体をベッドに寝かせる。最後まで勝敗のわからない……読んでて疲れるバトルだった。しばらく脳内を整理するように、余韻に浸るように目を閉じる。話が一区切りついて今すぐ眠りたいけど、先にシャワーを浴びた方がいいだろう……渋々目を開けたその瞬間。私は産院のベッドの上で小さな子供を抱かされていた。
「……え?」
私が取り落としそうになり、腕の中でふにゃーーんと頼りなく泣いた、それが、杉元照文だった。とにかく当時はその状況に混乱していて、隣にいた知らない男性に腕の中の新生児を押し付けた。
「なに、なに、なんなの」
さっきまでいたアパートの部屋は?この子は何?体が痛いのはどうして?小さくてほにゃほにゃで、泣いてる、この子は、だれ?この子のお母さんはどこ?私の方が泣きたいのに、
「こ、このこのお母さんはどこ?」
子どもを押し付けられたその人は、半狂乱の私に一つずつ説明をした。出産に時間がかかってたくさん血が出て、“母体“は危ない状況にあったこと。幸い生まれた赤ちゃんはこの通り元気だと言うこと。“キミ“がやっと目を覚まして体調も少し持ち直して、初めて“我が子“を抱いたのが、今。この子のお母さんは私で、父親がこの人で、この子は私たちふたりの子どもで、名前はふたりで相談して決めた照文だということ。そう、杉元照文。
嘘みたいな話だけど、とにかく私は生死の境を彷徨っていた杉元母の体に憑依してしまった……そういう状態らしかった。そんなこと医者に相談できないから、とにかくそうらしいと自分の中で結論づけた。だって、否定したくても私はここにいて、体が痛くて、目の前の子どもは母親を求めて泣いていて、母親は私の他にいないから。
しかしそこからがなかなか大変だった。端的に言って、地獄……今まで生きてきた誰かの人生を横取りしたこと、それから覚悟もないまま子どもの親になってしまったこと。独身彼氏なし、結婚願望出産願望ともになし……だった私は当然子育てのやり方なんて知らなくて、最初はうまくいかないことばかりだった。「夢なら覚めて」と泣く子を抱えて何度も祈った。うまく意思疎通が取れないのは、本当のお母さんじゃないからだと、自分を責めた。この子に、本当のお母さんを返してあげて。でも……祈っても祈っても、夢は覚めなくて。
私は突然知らない子どもの命の責任を負わなきゃいけなくなって、投げ出そうにもそれができなくて、私無しで生きていけないのだというこの小さな生き物のことがとにかく恐ろしかった。AIかインターネットがあれば、もうちょっと不安も軽減されただろうけど、当時の……90年代のインターネットってほんとに魔境すぎてとてもじゃないけどそんなこと相談できなかったのだ。
ある程度大きくなってからも、とにかく照文のことでは気を揉まされた。なんなら高校決める時だって、正直総北には行かせたくなかった。照文は当然のように県内一の自転車強豪校に行きたがったけど、私はそこに行っても杉元照文の活躍の場がないことを知っている。彼が総北で結果を残したレースなんて……何かあったかな?正直あんまり記憶にない。とにかく、インハイ出てリザルトやゴールに絡むようなことはなかった。だから、他の学校に行って、同じくらいの仲間と和気藹々やった方がいいと思ったのだ、私は。今泉くんなんて追いかけても、どうせ報われないからやめなさいと、我が子を心配する気持ちも少しあって。
しかし杉元照文は意見を曲げなかった。私は何度も「3年頑張ってもインターハイに出れないんだぞ」という言葉を飲み込んだ。その後の……高校入学後の杉元照文についてはご存知の通り。
そしてつい先日、最後の合宿に出ていく朝には、私の前世の記憶通りの「完璧な杉元照文」になっていた。見送ってから「やっぱり原作ってすごい」と感心してしまったくらい。散々気を揉んだのはなんだったんだろう。本当に私の手の届かないところで、彼は勝手に育っていった。
そして、私が知っている通りに、3年間一度もインハイのメンバーに選ばれなかった。私は合宿から帰ってきた日の、照文の顔を忘れられない。
「メンバーに入れなかったよ」と静かに告げた。散々作り笑いを浮かべたのだろう、顔が不自然に引き攣って、諦めて、何も形作らずに終わった。それでいい、と思った。親の前でそんな無理して笑わなくていい。だから私はそう、と軽く頷くだけに留めておいた。
「洗濯、定くんと順番で回してね。干すとこ、空けといたから」
「うん」
知っている結末なのに、ショックを受けている自分がいた。あのシーンは……あれから18年も経ったのに未だ私の記憶に鮮明に焼きついている。
あのエピソードを読んでからこちらにきたのだから、意味があるに違いないと、そう信じ続けてきた。もしかしたら、結末が変わるんじゃないかと期待もしていた。そうでもないと、あの子が報われないでしょう。母親すら自分の勝利を信じてくれないなんて、あの子がかわいそうでしょう。
照文が暗かったのは帰宅したその時だけだった。次の日いつも通りの早い時間に起きてきて、「メンバーには入れなかったけど、リザーバーとして九州には行くんだ。今日からまた練習するよ」と告げた。表情は合宿に行く前の気合の入った様子とも違って、穏やかだった。無理をしているのは一目でわかった。
「照文、家では無理をするのをやめて」
「うん」
「学校では好きなだけ無理していいけど、家でも無理していたら疲れちゃうよ」
「……うん」
なるべく「お兄ちゃんだから」と言わずに育てたつもりなんだけどな。どうしても家だと「お兄ちゃんだからね」と言わせてしまいがちだ。そうさせてしまった。反省しているつもりだけど、でも原作でもそうだったしなあと思ってあまり積極的には止めなかった。大した反抗期もなかった。高校に入ってからは周りに刺激されたのか、勝手に歩き出して。順当に親の手を離れていった。夫はそれでいいと言った。私もそれでいいと思った。原作の通りだから、これでいい。その結果がこれだ。私がこの子にしてやれたことは少ない。今になって、後悔している。
「照文、君が今何を考えているのか教えて。母さんにもわかるように」
「母さん、今年の総北は強いよ」
知っている。私が子どもたちに直接何を考えてるか聞くのは、本当に何を考えているのかわからない時だ。子供たちが小さい頃から繰り返し尋ねたおかげで、私がこう聞く時ふたりは言葉を尽くして説明してくれる。
「メンバーは4人がインハイを走った経験がある。初出場の段竹は僕を破ってメンバー入りした。もちろん最後のひとり……1年生にも期待してるんだ、ボクは。過去2年に引けを取らない、実力者揃いだよ。その上リザーバーにはボクが入るからね、当然メンバーに何があっても大丈夫なように仕上げるよ。だから、」
まっすぐこちらを見る目は、当然一晩じゃ立ち直れてなかった。でも、立ち直ろうとしていた。きっと今日、学校で彼はいつも通りに振る舞うだろう。彼が、杉元照文だから。
私は、高校3年の夏を前に照文の物語は終わったものだとばかり思っていた。まだ終わってなかったんだ。急なインターハイ出走の裏にはどんなドラマがあったんだろう。いやいい、想像するまでもなく、あと2日のレースが終わって帰ってきたら、余すことなく話して聞かせてくれるだろう。照文はお喋りだから。
窓を閉めて、エアコンをつけて。そろそろ夕飯の支度をしなければ。子ども達がいないから、今夜も簡単でいい。高校生になってから、ふたりとも信じられない量を食べるようになって毎日大変だけど、いない日はなんだか寂しい。
夕食の支度の前に早朝便とバスの手配をしなければ。ホテルも。夏休み価格には目を瞑ろう……かわいい我が子の晴れ舞台だから。それよりどう頑張っても今夜のうちには九州に飛べないことが残念だった。定時、もう少し早く連絡をくれれば最終便に滑り込めたのに……いやいやあの子もチームのサポートで忙しかったはずだ。急遽照文が抜けることになって、色々大変だったことだろう。何かサポート組に差し入れをしようか……あの川田に差し入れするのはなんか癪だが……
全ての予約を終えたその時、再び着信。今度は、照文だった。無駄にワンコール待ってしまう。照文。なんて声をかけようか。
「母さん?今いいかい」
声は、わずかな高揚、それから疲労している様子も。一刻も早く顔が見たいと思った。初日に頑張りすぎると2日目に苦労するのが弱虫ペダルのセオリーだから、親としては心配になってしまう。今年そのお約束に巻き込まれるのはもしかしたら、照文かもしれない……明日の朝はとりあえず、ゴールに向かうつもりだったけど、スタート地点に行った方がいい?でも、もう飛行機取っちゃった……不安を、飲み込んで。
「大丈夫だよ。照くん、どうかした?」
「母さん、実は……」
ずっと、この18年他人の人生を奪って生きてきたと感じていた。結果を知っているせいでずっと照文のことを心から応援できない自分がいた。でも、これからは。明日からの、インターハイは心から、我が子を、杉元照文を応援できる。
「実はね、走ってるんだ。インターハイを!初めてのインターハイだよ。総北じゃないけど、走って……今日は8位でゴールしたんだ。選抜チームのみんなのおかげだよ」
「うん。おめでとう」
「ありがとう、急に決まったから母さんが観に来れないのは残念だけど……でも今大会は配信があるからね、母さんも家でゆっくり配信を……」
「何言ってるの。行くよ、息子の晴れ舞台だもの。明日から、見にいくよ」
「え!?明日から!?九州まで!?コースも知らないのにかい!?」
「明日別府からでしょ。知ってるよ……」
「なんで!?」
「家にいる間中君たちずーっとインターハイの話してるからさすがに覚えたよ。明日、定くんと合流できたらいいけど、まあ無理そうなら勝手に応援するわ。照くん頑張ってね」
「……心配だよ。だって母さん、自転車競技のこと全然詳しくないじゃないか」
た、たしかに自転車競技には詳しくないけど、まあどうにかなるでしょう。多分、多分だけどゴールで待ってればいいんでしょ……言葉に詰まった隙に照文が呆れたように言った。
「あのね、母さん。夏のレースは過酷なんだよ、まず暑さがね」
「あ!!母さん明日の支度しなくちゃなんだった!!もう切るね」
「逃げようとしているね!?でも本当に気候が違うんだ。どうか気をつけて、」
「気をつけてはこっちのセリフだよ。過酷なんでしょ。心配だよ」
「……うん」
本当ならもっと手放しで喜びたいし、頑張ったねと褒めてあげたい。しかし彼のインターハイ出場は予想外すぎて、喜ぶより動揺が勝っている。だから口から出るのは心配の言葉ばかり。
「いい、照くん。ちゃんとご飯食べて早く寝るんだよ。興奮して寝れない!とか言ってる場合じゃないからね」
「う、うん。あ、宿は総北の方がボクの分空いてるかもしれないよ、ちょっと事情があってボクからは連絡が取れないんだけど、定時に頼めばどうにか」
「あのね、照くん。マジで母さんの心配してる場合じゃないから。照文が母さんのことが気になって、実力出しきれないっていうなら、母さんは行くのやめる。お家で見るよ」
「……」
「照文」
「うん」
「照文、君の考えが聞きたい。今、君が何を考えているか教えて」
なんの覚悟もないまま君の母になって、私は子供の考えていることを推し量るだけの想像力もなく、意思疎通の為にできたのは何を考えているのか直接聞くことだけだった。照文は小さい頃から言葉を尽くし一生懸命何を考えているのか教えてくれて、私たち母子はそれのおかげでなんとかコミュニケーションが取れていた。
「やっと、インターハイを走れたんだ。正直、夢みたいだよ。まだ……」
嫌だな、と思って眉を寄せる。もう満足したみたいな言い方をしないでほしい。まだ1日目でしょう。言いたいことはたくさんあるのにどれも声にならない。照文は話し続ける。
「だから、見に来てほしい。明日以降、今日みたいな成績を残せるかわからない……いや、頑張りたいけど、それだけ厳しい戦いなんだ。外から見ていた時より実際はずっと厳しいよ。でも、ボクはずっと……」
照文が言葉を切る。私は淡々と言い聞かせるような言い方に、少し既視感を覚える。漫画で読んだ3年生の杉元照文はこういう話し方をしていたのかもしれない。
「自分でインターハイを走りたかったし、家族にインターハイを走る姿を見せたかったんだ。走るよ、明日も、明後日も。選抜チームの杉元照文は、最後まで全力を尽くすよ」
私はそれに何と返事をして、何を言って電話を切ったのだろう。気づいたら通話終了になっていたスマホを握りしめて、その場に座り込んだ。
初日8位は、きっと、すごいことなんだろう。しかも今日初めて会った人とチームを組んで、その順位でゴールしたのだから……きっと、そうだ。照文はすごい。本当に。
真夏の九州、最後のインターハイ。まさか照文が走ると思っていなかったから、夢の中みたいだ。当の本人すら実感がまだ湧かないという、急なエントリー。照文はその実感を噛み締める暇もないまま、あと2日走り抜くのかもしれない。
私の方は……明日照文が選抜のジャージを着て走る姿を見てようやく実感が湧くのだろうか。選抜のジャージって、何色なんだろう?でも、照文が何色のジャージ着てても、必ず見つけると思う。私は君を18年もの間見てきた、君のお母さんだから。
