去る春、君の声だけが在るIF
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「冷たっ!何すんだよっ」
夏の通学のお供、冷たいスプレー、シャツサムーイ。これをシャツに噴射すると、暑い夏でも大学までの徒歩10分をなんとか乗り切れる。多分体に直でかけちゃいけないんだけど、今の私には関係ない。風呂上がりで半裸の手嶋に容赦なく直スプレー、手嶋は嫌そうに身を捩る。2回3回と連続噴射して。
「多い多い!」
「お前を二度とプールに行けないカラダにしてやるの!!」
「なんだそりゃ」
「いいから大人しくして!」
追いスプレー、手嶋は嫌がる割に逃げなかった。多分、なんだそりゃとか言いつつ、私がなんでこんな行動に出たか分かっているからだ……そこも、また、ムカつく!スプレー追加!
「マジでやめろって!」
程よく冷えて、感覚も過敏になったことだろう。私は黙って手嶋の胸に腕を伸ばす。手嶋は怯えて引き攣った顔で身を引いた。避けるな!
「なになになに!?」
「開発してやる……」
「はあ!?!?なんだよ、開発って」
「乳首開発してやるって言ってんの!!」
「待て待て待て!怒ってるのはわかったからさ!?ソコはマジで困るって!?わかるだろ?」
わかるだろ?と言った顔、眉の下がった情けない顔……そんな顔も私の苛つきを増長するだけ。私はグッと息を呑んで。
「わかるよ。上半身見せびらかして走るからちょうどいいなって思ったの」
「よくねーー!」
手嶋は器用に私の両腕を纏めて掴み、「一回座って話そう?な?アイス買ってあるからさ、お前の好きなのあるよ」と早口で捲し立てる。私は渋々頷く。私のスプレー噴射攻撃の緩んだその隙に、手嶋は慌ててTシャツを被った。
◻︎
時は少し遡り、大学1年生、夏休み前。試験もなんとか終わったので、ふたりでプールに行こうという話になった。結構大きいプールが市の外れにあって、手嶋がそこに連れてってくれるという。
試験終わりにたまたま食堂で遭遇して、疲労困憊のそのままプールの話をしたのが良くなかった。いつもなら、そういう話はこんなところでしない。言い訳するならふたりとも、試験終わりで頭が回ってなかった。
「えー手嶋くんプール行くの?」
ドキ!私と手嶋、それぞれ冷やし中華の具を拾う手が止まった。見なくてもわかる、手嶋の同級生……のお姉さんだ。私の一個上、私はほとんど喋ったことないけど、たまに手嶋と距離近めで話してたり、写真に映る時隣にいるから知ってる。たぶん、多分だけど、この人手嶋が好きなんだと思う。
「苗字さんも行くの?」
「はい……」
き、気まずい。出会った時からは想像もつかなかったことだが、大学で再会した私たちはなんだかんだで付き合うことになった。手嶋はまあ……当然というか、なんというか、学内でも知り合いは多いしささやかにモテていたらしく、2年生になって突然彼女ができた手嶋は「わがまま放題の年下彼女に振り回される手嶋クン」としてなかなか同級生から同情されてるぽいのだった。手嶋はそういう風に言われると「オレの方が本気でアタックしたんだよ」なんていつもの顔で笑っていて……私はこういう時1歳の年の差が、どう頑張っても埋まらない差が、悔しくなる。
あー、やだな。今だってそうだ。このお姉さんからは「試験終わりで疲れてるのにワガママ彼女にプールに連れてけとせがまれて、手嶋くん可哀想〜」みたいな雰囲気がしている。私は黙って冷やし中華を完食した。
「そーなんだよ、あそこ名前行ったことないから、デートの計画」
……今「デート」強調した?ちらっと顔を見ても手嶋はいつも通りにヘラヘラしている。気のせいか。それを横目に、「特別講義あるから行くね」とトレーを手に立ち上がった。
さっさと逃げ出した私が悪いのだが、そんなこんなでまあ……当然というか、手嶋の同級生何人かと私という超気まずいメンバーでプールに行くことになった。「デートはまた今度な」って言った手嶋の、あの本当に困ってそうな八の字眉毛を見ると、「なんでキッパリ断ってくれなかったの!」と責める気も起きない。多忙な上に友達が多くてモテる男のキャンパスライフは大変なんだということを、友達の少ない大学生活を送る身でもなんとなく知っているので。
手嶋は「デートはまた今度にして、今回名前は無理して来なくていい」と人見知りの私を気遣って見せたが、私だって売られた喧嘩を買う気はある。手嶋はそう思ってないかもしれないけど、多分喧嘩を売られている。いい根性してんじゃナァイ!私はあの箱根学園荒北さんと黒田さんの後輩なんだから、売られた喧嘩を買わない理由はないのだ。いざ尋常に勝負っ!
◻︎
「名前」
待ちに待ったプール当日、勝負だの売られた喧嘩だの言ったが、私はプールが結構好きなので普通に楽しみにしてた。大学生になったのだからと新しく水着も買った。バシさんに「勘弁してくれ」と言われたビキニよりさらに派手で過激なやつだ!
……なのに。
「焼きそば食うだろ?休憩しよう」
「……食べる」
なのに手嶋は前日、吊るしてある水着を見て「マジであれ着んの?」と宣ったのだ。そして「なー上着着るよな?」「流石にあれは面積少なすぎるって」と散々文句を垂れ……まあ……なんつーかその……色々の事情もあって、今の私はせっかくの可愛い水着を隠すように長めのラッシュガードを着ている。あんなにダイエットも頑張ったのに、こんなの着てちゃシルエットも何もあったもんじゃない。
一方焼きそば2個持っている手嶋は、自転車で鍛えた上半身を曝け出し、プールサイドの視線を独り占めである。デートのはずがみんなでの遊びになったこと、それからラッシュガードを着せたことを悪いと思っているのか、今日の手嶋は私にほとんど付きっきりだった。私は焼きそばに釣られて冷たい水から上がる。
「なー機嫌直せって」
「やだ。焼きそばくらいじゃ直んない」
「あと何食う?かき氷?」
「アメリカンドッグ」
「わかった」
不幸中の幸いというべきか、ラッシュガードを着ているせいで、焼きそばなんて食べたらお腹が出ちゃうとかそういうことは気にしなくて良くなった。手嶋は「誰かに声かけられてもついてくなよ」と子どもに言い聞かせるように言う。かちーん。
「こんなダサいの着てたらナンパされるわけないじゃん」
「あのな……」
手嶋は私のラッシュガードの首元に手をかける。いちばん上まで上がっているジッパーを念を押すように上に引っ張って。
「脱ぐなよ?」
「脱げるかっ!!誰のせいだと……ひっ」
手嶋の人差し指がラッシュガードの中に侵入して、素肌に触れる。手嶋は見えてないのに、「そこ」に「何が」あるか分かっているような手つきで肌をなぞる。多分、そこに昨日ヤツがつけた跡があるのだ。何って……その、キスマークってやつが。ひとつどころじゃなく、幾つも。それのせいでラッシュガードを着る羽目になった!
「さっさとアメリカンドッグ買ってきてっ!」
「すぐ戻ってくるから、脱ぐなよ」
「脱がないっ!」
手嶋はサッと手を引いて、私の食い気味の返事を笑った。そしてパラソルの下に焼きそば2個と私を残して、来た道を引き返す。
私はパラソルの下でその後ろ姿を黙って見送る。ほっそい腰と、発達した前腕が作る隙間……後外向きに開いた膝。なんていうか、自転車乗り特有のシルエット。
その時、少し離れたところでおしゃべりしていた女の子たちが「ねえ、あの人……!」とはしゃいだ声を上げた。
「ねえ今の人見た?ポニテの人!体超すっごい!」
「見た!私あれくらいが好みかも!」
「かっこい〜!」
……なーにが「あれくらいが好み」だ。今日の手嶋は濡れると大変なんだよって長い後ろ髪をひとつに括って、私と違ってラッシュガードを羽織りもせずに上半身を曝け出している。
まあ見ようによってはポニテだし、自転車乗りの山を登る体は一見細くても脱いだらすごい……不摂生な暮らしをしてる大学生の「脂肪がなくて浮いたささやかな腹筋」とは一線を画す、自転車に乗るために作り上げた体だ。当然腹は割れてるし、そこらの大学生なんて目じゃないくらい筋肉ついてるから、「超すっごい」は間違いなく褒め言葉だ。手嶋が聞いたら「いやーオレは貧弱な方つーか」と謙遜しながらもテレテレするだろう。本人も筋肉つけるのに苦労してるから褒められて悪い気はしないはず。
今の私は、あれが本人の死に物狂いの努力の賜物だということも知っているので、「あれくらい」なんて発言にはちょっとムッとしちゃうけど。
そりゃ私も最初はクライマーのカラダは貧相だな〜なんて風呂上がりパンイチの手嶋を眺めて思ったりしたけど……それは高校生活3年間、超トンデモ肉体仕上がり男……銅橋正清が隣にいたので感覚がバグっているせいだ。あと付け加えると、ハコガクの人たちは泉田さん然り真波然り、脱ぎがちだった。見せびらかしがちだった。それで目が肥えた……っていうか標準の基準がおかしくなってたんだって、最近気づいた。
そうなの、最近気づいたけど手嶋って、普通にスポーツマンなんだよ!真波や葦木場さんと山岳賞を競い合い、総北を連覇に導いた、スポーツマン中のスポーツマンなんだよ!あいつ、実は超エリートスポーツマンなんだよ!世間一般から見たら、手嶋も、相当に、バキバキに、仕上がったイイカラダをしてるんだよ!!すっかり失念していたけど!
あーあ、プールなんて来るんじゃなかった。例のお姉さんは行きの車でここぞとばかりに手嶋に話しかけ……いや、もしふたりで来てたとしても周りの女の子の視線が気になって楽しめなかっただろう。
「……バシさん誘ってまたプール行こうかな」
今頃進学先の厳しい自転車競技部でせっせとストイックに練習しているだろう、友達を思う。事情を話せば「お前、いまだに友達いねえのかよ」っ呆れた顔でこっちを見下ろし、きっと今年もプールに連れてってくれるはずだ。そうだ、そうしよう。ラッシュガードなんてなしで思いっきり泳いで、うきわで浮いて、会えなかった間の話をしよう。
◻︎
「なー機嫌なおせって」
「……」
「なー」
「しつこい!」
で!結局、結局こうなるのだ。連日行為に及んで尚ヘラヘラしてるこの男、本人は凡人などと謙遜するが、こいつは本当にエリートスポーツマンだよ!もう、一般女子大生とは体力からして違うんだよ!しかもこいつプールで散々泳いだ後だぜ!?男子たちは最後25メートルプールで全力で競争してたし。なんでそんな元気なんだよ!そもそも大学生の夏休みってこんなに爛れてるモンなの!?
私たちは昨日に続いて今日も、狭い下宿先の狭いベッドでくっついて、せっかくプールと冷却スプレーで冷やした体は汗ばんで、シーツの上からかぶせた敷きパッドまで熱を持っている。ベタつく体が気になって、せめて体を離そうとする。ベッドは狭いから大して距離は取れないけど。
あのあと冷却スプレーは没収されて、うまいことベッドに連れ込まれた次第である。今気づいたけど私、多分あの顔に弱い。八の字眉毛に、それと対照的にギラギラする紫の目の、あの組み合わせに圧倒的に弱い。あの顔されると、ギュンってなって、突っかかる言葉が何にも出て来なくなる。ああもう、全く私は、今日も手嶋に絆されて……!
“おかげさまで“あの新しい水着はしばらく着れないだろう。今度はラッシュガードを着たって隠れない、太ももにまで跡をつけられた。そこらじゅうにつけられた跡、さすがにこれを見せびらかしてまでプールで遊びたいわけじゃない。ラッシュガードを着たって下半身のは隠せないし……!こういうのって何日くらいで消えるんだろう……だめだ、怒りが湧いてきた。
「さいてー!本当にさいてー」
「そんな怒んなよ……」
「アナタご自分は鍛えた立派なカラダ晒してプールでモテモテで!?私はダッサいラッシュガード着てろ!?それどころかプールも行けないなんて、不平等でしょ!」
「お前、少し前までは貧相な体って言ってたのに」
手嶋はくすくす笑って私の首を撫でる。やけに嬉しそうにニマニマしてるから多分そこにもつけたんだろう。最中そこらじゅうにするから、私はもうその跡が全身のどこにあるか把握すらしてない。
一方手嶋は綺麗なカラダをしている。私は爪を短く切ってるから、背中に引っ掻き傷もつけられない。一生懸命爪を立てたとしても、三日月形の爪痕はすぐに消える。
プールサイドで、それか部室のロッカールームで、見た人がギョッとするほどのをつけてやりたい。引っ掻き傷でも、爪痕でも、なんだっていい。それができないなら、コレしかないでしょ……!私は静かに上下する手嶋の胸を睨みつけて、手を伸ばす。エイッ!!
「む!か!つく!」
「いって!マジでヒネるのやめろ!」
「ムカつく〜!」
「その触り方もやめろ!」
「やだ?乳首むずむずする?変な感じする?ロッカーで更衣する時ちょっとドキドキソワソワしちゃう?」
「なんでそんな嬉しそうなんだよ……」
「手嶋ばっかり脱いでてズルいから!」
「ズルじゃないだろ、脱いだり着替えたりが日常的に発生するスポーツなんだよ、自転車は!」
「……」
「なに?」
責める気持ちも萎んでしまう。さっきまでの意地悪な態度が嘘のように、少年みたいな笑顔だった。こいつは本当に自転車が好きだ。
私が見る手嶋は……自転車に乗ってる手嶋は、いつも死にそうで辛そうで、必死こいて走っている姿だ。インターハイのが印象に強いが、大学生になってからも辛そうな姿ばっかり見ている。勝つとこだって……表彰台に乗るとこだって、ほとんど見てない。勝てないのに、手嶋は自転車が好きだ。本人の口から聞く限りは自転車が好きで、好きで、好きなんて言葉じゃ表現しきれないくらい大好きで……
多分、私の本当のライバルは手嶋の同級生のお姉さんなんかじゃなくて、あの、ピカピカの自転車の方だ。しかも、どう頑張っても一生勝てない。
「恥ずっ!あたし自転車に嫉妬してたってこと!?」
「は?」
「うわ〜っないわ!ないない!自転車乗り相手ならそんなとこで嫉妬してたらキリないってわかってたはずなのに〜!」
「エッなに!?待てよ、ちょっと詳しく!」
「ないわ〜!」
私はバタバタとベッドを降りて、バスルームに駆け込んだ。追いかけてくる手嶋の声をシャットアウトするようにバスルームの折り戸を閉めて、お湯を出す。
浴室の鏡に映る裸の体は、少しの日焼けもなく、かわりに新しいのと古いのと、グロい鬱血痕がいくつもついていた。最悪。最悪だけど、まああのド健全男の嫉妬の証かもしれないと思えば、気分はマシだ。風呂から出たら問い詰めてみよう。「お前、嫉妬したの?」って。あの困った顔で「そーだよ!」ってやけっぱちに叫ぶところを見れたら、少しはスカッとするだろう。
夏の通学のお供、冷たいスプレー、シャツサムーイ。これをシャツに噴射すると、暑い夏でも大学までの徒歩10分をなんとか乗り切れる。多分体に直でかけちゃいけないんだけど、今の私には関係ない。風呂上がりで半裸の手嶋に容赦なく直スプレー、手嶋は嫌そうに身を捩る。2回3回と連続噴射して。
「多い多い!」
「お前を二度とプールに行けないカラダにしてやるの!!」
「なんだそりゃ」
「いいから大人しくして!」
追いスプレー、手嶋は嫌がる割に逃げなかった。多分、なんだそりゃとか言いつつ、私がなんでこんな行動に出たか分かっているからだ……そこも、また、ムカつく!スプレー追加!
「マジでやめろって!」
程よく冷えて、感覚も過敏になったことだろう。私は黙って手嶋の胸に腕を伸ばす。手嶋は怯えて引き攣った顔で身を引いた。避けるな!
「なになになに!?」
「開発してやる……」
「はあ!?!?なんだよ、開発って」
「乳首開発してやるって言ってんの!!」
「待て待て待て!怒ってるのはわかったからさ!?ソコはマジで困るって!?わかるだろ?」
わかるだろ?と言った顔、眉の下がった情けない顔……そんな顔も私の苛つきを増長するだけ。私はグッと息を呑んで。
「わかるよ。上半身見せびらかして走るからちょうどいいなって思ったの」
「よくねーー!」
手嶋は器用に私の両腕を纏めて掴み、「一回座って話そう?な?アイス買ってあるからさ、お前の好きなのあるよ」と早口で捲し立てる。私は渋々頷く。私のスプレー噴射攻撃の緩んだその隙に、手嶋は慌ててTシャツを被った。
◻︎
時は少し遡り、大学1年生、夏休み前。試験もなんとか終わったので、ふたりでプールに行こうという話になった。結構大きいプールが市の外れにあって、手嶋がそこに連れてってくれるという。
試験終わりにたまたま食堂で遭遇して、疲労困憊のそのままプールの話をしたのが良くなかった。いつもなら、そういう話はこんなところでしない。言い訳するならふたりとも、試験終わりで頭が回ってなかった。
「えー手嶋くんプール行くの?」
ドキ!私と手嶋、それぞれ冷やし中華の具を拾う手が止まった。見なくてもわかる、手嶋の同級生……のお姉さんだ。私の一個上、私はほとんど喋ったことないけど、たまに手嶋と距離近めで話してたり、写真に映る時隣にいるから知ってる。たぶん、多分だけど、この人手嶋が好きなんだと思う。
「苗字さんも行くの?」
「はい……」
き、気まずい。出会った時からは想像もつかなかったことだが、大学で再会した私たちはなんだかんだで付き合うことになった。手嶋はまあ……当然というか、なんというか、学内でも知り合いは多いしささやかにモテていたらしく、2年生になって突然彼女ができた手嶋は「わがまま放題の年下彼女に振り回される手嶋クン」としてなかなか同級生から同情されてるぽいのだった。手嶋はそういう風に言われると「オレの方が本気でアタックしたんだよ」なんていつもの顔で笑っていて……私はこういう時1歳の年の差が、どう頑張っても埋まらない差が、悔しくなる。
あー、やだな。今だってそうだ。このお姉さんからは「試験終わりで疲れてるのにワガママ彼女にプールに連れてけとせがまれて、手嶋くん可哀想〜」みたいな雰囲気がしている。私は黙って冷やし中華を完食した。
「そーなんだよ、あそこ名前行ったことないから、デートの計画」
……今「デート」強調した?ちらっと顔を見ても手嶋はいつも通りにヘラヘラしている。気のせいか。それを横目に、「特別講義あるから行くね」とトレーを手に立ち上がった。
さっさと逃げ出した私が悪いのだが、そんなこんなでまあ……当然というか、手嶋の同級生何人かと私という超気まずいメンバーでプールに行くことになった。「デートはまた今度な」って言った手嶋の、あの本当に困ってそうな八の字眉毛を見ると、「なんでキッパリ断ってくれなかったの!」と責める気も起きない。多忙な上に友達が多くてモテる男のキャンパスライフは大変なんだということを、友達の少ない大学生活を送る身でもなんとなく知っているので。
手嶋は「デートはまた今度にして、今回名前は無理して来なくていい」と人見知りの私を気遣って見せたが、私だって売られた喧嘩を買う気はある。手嶋はそう思ってないかもしれないけど、多分喧嘩を売られている。いい根性してんじゃナァイ!私はあの箱根学園荒北さんと黒田さんの後輩なんだから、売られた喧嘩を買わない理由はないのだ。いざ尋常に勝負っ!
◻︎
「名前」
待ちに待ったプール当日、勝負だの売られた喧嘩だの言ったが、私はプールが結構好きなので普通に楽しみにしてた。大学生になったのだからと新しく水着も買った。バシさんに「勘弁してくれ」と言われたビキニよりさらに派手で過激なやつだ!
……なのに。
「焼きそば食うだろ?休憩しよう」
「……食べる」
なのに手嶋は前日、吊るしてある水着を見て「マジであれ着んの?」と宣ったのだ。そして「なー上着着るよな?」「流石にあれは面積少なすぎるって」と散々文句を垂れ……まあ……なんつーかその……色々の事情もあって、今の私はせっかくの可愛い水着を隠すように長めのラッシュガードを着ている。あんなにダイエットも頑張ったのに、こんなの着てちゃシルエットも何もあったもんじゃない。
一方焼きそば2個持っている手嶋は、自転車で鍛えた上半身を曝け出し、プールサイドの視線を独り占めである。デートのはずがみんなでの遊びになったこと、それからラッシュガードを着せたことを悪いと思っているのか、今日の手嶋は私にほとんど付きっきりだった。私は焼きそばに釣られて冷たい水から上がる。
「なー機嫌直せって」
「やだ。焼きそばくらいじゃ直んない」
「あと何食う?かき氷?」
「アメリカンドッグ」
「わかった」
不幸中の幸いというべきか、ラッシュガードを着ているせいで、焼きそばなんて食べたらお腹が出ちゃうとかそういうことは気にしなくて良くなった。手嶋は「誰かに声かけられてもついてくなよ」と子どもに言い聞かせるように言う。かちーん。
「こんなダサいの着てたらナンパされるわけないじゃん」
「あのな……」
手嶋は私のラッシュガードの首元に手をかける。いちばん上まで上がっているジッパーを念を押すように上に引っ張って。
「脱ぐなよ?」
「脱げるかっ!!誰のせいだと……ひっ」
手嶋の人差し指がラッシュガードの中に侵入して、素肌に触れる。手嶋は見えてないのに、「そこ」に「何が」あるか分かっているような手つきで肌をなぞる。多分、そこに昨日ヤツがつけた跡があるのだ。何って……その、キスマークってやつが。ひとつどころじゃなく、幾つも。それのせいでラッシュガードを着る羽目になった!
「さっさとアメリカンドッグ買ってきてっ!」
「すぐ戻ってくるから、脱ぐなよ」
「脱がないっ!」
手嶋はサッと手を引いて、私の食い気味の返事を笑った。そしてパラソルの下に焼きそば2個と私を残して、来た道を引き返す。
私はパラソルの下でその後ろ姿を黙って見送る。ほっそい腰と、発達した前腕が作る隙間……後外向きに開いた膝。なんていうか、自転車乗り特有のシルエット。
その時、少し離れたところでおしゃべりしていた女の子たちが「ねえ、あの人……!」とはしゃいだ声を上げた。
「ねえ今の人見た?ポニテの人!体超すっごい!」
「見た!私あれくらいが好みかも!」
「かっこい〜!」
……なーにが「あれくらいが好み」だ。今日の手嶋は濡れると大変なんだよって長い後ろ髪をひとつに括って、私と違ってラッシュガードを羽織りもせずに上半身を曝け出している。
まあ見ようによってはポニテだし、自転車乗りの山を登る体は一見細くても脱いだらすごい……不摂生な暮らしをしてる大学生の「脂肪がなくて浮いたささやかな腹筋」とは一線を画す、自転車に乗るために作り上げた体だ。当然腹は割れてるし、そこらの大学生なんて目じゃないくらい筋肉ついてるから、「超すっごい」は間違いなく褒め言葉だ。手嶋が聞いたら「いやーオレは貧弱な方つーか」と謙遜しながらもテレテレするだろう。本人も筋肉つけるのに苦労してるから褒められて悪い気はしないはず。
今の私は、あれが本人の死に物狂いの努力の賜物だということも知っているので、「あれくらい」なんて発言にはちょっとムッとしちゃうけど。
そりゃ私も最初はクライマーのカラダは貧相だな〜なんて風呂上がりパンイチの手嶋を眺めて思ったりしたけど……それは高校生活3年間、超トンデモ肉体仕上がり男……銅橋正清が隣にいたので感覚がバグっているせいだ。あと付け加えると、ハコガクの人たちは泉田さん然り真波然り、脱ぎがちだった。見せびらかしがちだった。それで目が肥えた……っていうか標準の基準がおかしくなってたんだって、最近気づいた。
そうなの、最近気づいたけど手嶋って、普通にスポーツマンなんだよ!真波や葦木場さんと山岳賞を競い合い、総北を連覇に導いた、スポーツマン中のスポーツマンなんだよ!あいつ、実は超エリートスポーツマンなんだよ!世間一般から見たら、手嶋も、相当に、バキバキに、仕上がったイイカラダをしてるんだよ!!すっかり失念していたけど!
あーあ、プールなんて来るんじゃなかった。例のお姉さんは行きの車でここぞとばかりに手嶋に話しかけ……いや、もしふたりで来てたとしても周りの女の子の視線が気になって楽しめなかっただろう。
「……バシさん誘ってまたプール行こうかな」
今頃進学先の厳しい自転車競技部でせっせとストイックに練習しているだろう、友達を思う。事情を話せば「お前、いまだに友達いねえのかよ」っ呆れた顔でこっちを見下ろし、きっと今年もプールに連れてってくれるはずだ。そうだ、そうしよう。ラッシュガードなんてなしで思いっきり泳いで、うきわで浮いて、会えなかった間の話をしよう。
◻︎
「なー機嫌なおせって」
「……」
「なー」
「しつこい!」
で!結局、結局こうなるのだ。連日行為に及んで尚ヘラヘラしてるこの男、本人は凡人などと謙遜するが、こいつは本当にエリートスポーツマンだよ!もう、一般女子大生とは体力からして違うんだよ!しかもこいつプールで散々泳いだ後だぜ!?男子たちは最後25メートルプールで全力で競争してたし。なんでそんな元気なんだよ!そもそも大学生の夏休みってこんなに爛れてるモンなの!?
私たちは昨日に続いて今日も、狭い下宿先の狭いベッドでくっついて、せっかくプールと冷却スプレーで冷やした体は汗ばんで、シーツの上からかぶせた敷きパッドまで熱を持っている。ベタつく体が気になって、せめて体を離そうとする。ベッドは狭いから大して距離は取れないけど。
あのあと冷却スプレーは没収されて、うまいことベッドに連れ込まれた次第である。今気づいたけど私、多分あの顔に弱い。八の字眉毛に、それと対照的にギラギラする紫の目の、あの組み合わせに圧倒的に弱い。あの顔されると、ギュンってなって、突っかかる言葉が何にも出て来なくなる。ああもう、全く私は、今日も手嶋に絆されて……!
“おかげさまで“あの新しい水着はしばらく着れないだろう。今度はラッシュガードを着たって隠れない、太ももにまで跡をつけられた。そこらじゅうにつけられた跡、さすがにこれを見せびらかしてまでプールで遊びたいわけじゃない。ラッシュガードを着たって下半身のは隠せないし……!こういうのって何日くらいで消えるんだろう……だめだ、怒りが湧いてきた。
「さいてー!本当にさいてー」
「そんな怒んなよ……」
「アナタご自分は鍛えた立派なカラダ晒してプールでモテモテで!?私はダッサいラッシュガード着てろ!?それどころかプールも行けないなんて、不平等でしょ!」
「お前、少し前までは貧相な体って言ってたのに」
手嶋はくすくす笑って私の首を撫でる。やけに嬉しそうにニマニマしてるから多分そこにもつけたんだろう。最中そこらじゅうにするから、私はもうその跡が全身のどこにあるか把握すらしてない。
一方手嶋は綺麗なカラダをしている。私は爪を短く切ってるから、背中に引っ掻き傷もつけられない。一生懸命爪を立てたとしても、三日月形の爪痕はすぐに消える。
プールサイドで、それか部室のロッカールームで、見た人がギョッとするほどのをつけてやりたい。引っ掻き傷でも、爪痕でも、なんだっていい。それができないなら、コレしかないでしょ……!私は静かに上下する手嶋の胸を睨みつけて、手を伸ばす。エイッ!!
「む!か!つく!」
「いって!マジでヒネるのやめろ!」
「ムカつく〜!」
「その触り方もやめろ!」
「やだ?乳首むずむずする?変な感じする?ロッカーで更衣する時ちょっとドキドキソワソワしちゃう?」
「なんでそんな嬉しそうなんだよ……」
「手嶋ばっかり脱いでてズルいから!」
「ズルじゃないだろ、脱いだり着替えたりが日常的に発生するスポーツなんだよ、自転車は!」
「……」
「なに?」
責める気持ちも萎んでしまう。さっきまでの意地悪な態度が嘘のように、少年みたいな笑顔だった。こいつは本当に自転車が好きだ。
私が見る手嶋は……自転車に乗ってる手嶋は、いつも死にそうで辛そうで、必死こいて走っている姿だ。インターハイのが印象に強いが、大学生になってからも辛そうな姿ばっかり見ている。勝つとこだって……表彰台に乗るとこだって、ほとんど見てない。勝てないのに、手嶋は自転車が好きだ。本人の口から聞く限りは自転車が好きで、好きで、好きなんて言葉じゃ表現しきれないくらい大好きで……
多分、私の本当のライバルは手嶋の同級生のお姉さんなんかじゃなくて、あの、ピカピカの自転車の方だ。しかも、どう頑張っても一生勝てない。
「恥ずっ!あたし自転車に嫉妬してたってこと!?」
「は?」
「うわ〜っないわ!ないない!自転車乗り相手ならそんなとこで嫉妬してたらキリないってわかってたはずなのに〜!」
「エッなに!?待てよ、ちょっと詳しく!」
「ないわ〜!」
私はバタバタとベッドを降りて、バスルームに駆け込んだ。追いかけてくる手嶋の声をシャットアウトするようにバスルームの折り戸を閉めて、お湯を出す。
浴室の鏡に映る裸の体は、少しの日焼けもなく、かわりに新しいのと古いのと、グロい鬱血痕がいくつもついていた。最悪。最悪だけど、まああのド健全男の嫉妬の証かもしれないと思えば、気分はマシだ。風呂から出たら問い詰めてみよう。「お前、嫉妬したの?」って。あの困った顔で「そーだよ!」ってやけっぱちに叫ぶところを見れたら、少しはスカッとするだろう。
