去る春、君の声だけが在る2
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真波キャプテンは部員を率いて第一回の練習に出て行った。Dコース、平坦も登りもある初回にはまあまあふさわしいコース。真波があの短い登りで満足できるのだろうかと言う疑問があるが。
私も流石に今日のこの雰囲気、練習同行はやめておいた。1年前を彷彿とさせる、ざわついた雰囲気だ。ま、またこれか……と少々ゲンナリしてしまう。なぜうちの部員は一度は新しい主将に不満を示さずにはいられないのか……福富キャプテンの時はどうだったんだろう。今度隼人くんに聞いてみよう。
練習に出た部員達は初日とはいえ、すぐには戻らない。私も今のうちにインハイのデータでも更新しようかな、と踵を返したその時。
「名前」
「はい」
振り返れば先輩方が3人残っていた。他の部員はみんな練習に行ってしまった。そこに残れと床を示されて立ち止まる。
「急ぎの用は?」
「いいえ、何も」
「じゃちょっと付き合えよ」
「はい」
インハイの後にきっちり片付けまでしたし、新体制も動き出したばかりで、急ぎの用は何もない。この雰囲気の中、じっとしていられなくて、手を動かしたかっただけなので。
1年ぶりのこの雰囲気……新キャプテンに対する不安と猜疑心に満ちた、どこか剣呑で陰湿な空気。「強豪運動部らしい」雰囲気。しかし今回に限っては、私はあんまり不安に感じていない。真波が戸惑いなくキャプテンの指名を受け入れたから。
「バッシーも名前もあんまり驚いてなかったね」
「ええ、まあ……」
「歯切れ悪いな」
「バシさんは……幹部が動揺してたらカッコつかないじゃないですか」
「それはそうだけど」
気まず!泉田さん、事前告知したこと言ってないんだ?まさか真波指名も独断じゃないだろうな……チラッと見ても泉田さんは何も言わない。返ってきたのは「なにか不満でも?」と言わんばかりの微笑のみ。はい。泉田さんがそう言うなら名前も黙ります。
黒田さんが納得いかなそうにこちらを見る。
「なんだそのアイコンタクトは」
「なんでもないです」
部員に驚きをもたらした真波キャプテンの誕生だが、任命者の意向は真波本人がいちばんわかっているだろう。二度のインターハイを共にチームとして走ったこと、積み重ねた歳月、それらを根拠にした「真波ならわかってくれる」という泉田さんからの信頼があった。1年前のやりとりを思い出せば、私には当然の采配に思える。
一方、部内でバシさんを積極的に推す雰囲気が生まれることも予想外ではなかった。レースで強く、勝ち方はとにかくクリーン。面倒見が良く、ハッキリした性格で後輩から慕われている。私は1年前のあの惨状を覚えているから、自転車部史上退部回数最多のバシさんが箱根学園の主将に推されるというのは……なんだか不思議な感覚だった。1年生は実際に見てないからといえば、そうなんだけど。
それから、忘れもしない1年前のトラブルの原因のひとつは主将がスプリンターであることだった。今回の部内の雰囲気はバシさんが後輩に慕われる男だというだけでなく、泉田さんが1年の努力と結果で部内の常識を塗り替えたことの証明でもある。それがまさか真波のキャプテン就任の障害になるとは予想してなかったけど。
真波だって別に人望がないわけじゃない。面倒見という点で大きくバシさんに遅れを取ってるというだけで、ちゃんと後輩からはエースクライマーに相応しく畏怖と尊敬のまなざしを向けられている。かつての東堂さんがそうだったように。
葦木場さんはなぜか今日に限って携帯を手にしていた。度々通知の音がして、この人が短いスパンで誰かとメールのやり取りするのは珍しい。まじまじ見ると、視線に気付いたのか顔を上げた。
「名前はあんまり心配してなさそうだね?」
「はい。私も真波しかいないと思ってますし、本人も福富さんや泉田さんみたいにやる自信はなくても、受け入れたからあの返事したんだと思います。だから私がどうこう言う気は最初からないんですよ」
「なるほど」
黒田さんも葦木場さんも私の意見に頷いた。そしてようやく泉田さんが今季の幹部を3人選んだ理由を語る。「信じて任せるしかない」などという他人行儀な発言には少し寂しさも感じるけれど、おおよそ昨日聞いた通りだ。昨日は話の内容より、呼び出しそのものとその他のことに驚かされたから、2回目聞いてようやく自分の中で落ち着いた感じがある。
葦木場さんも泉田さんの説明に軽く頷いたのみで、ベンチで携帯を触り始めた。一方黒田さんは大人しく聞いていた私を見て。
「ホントに真波でいいんだな。間違いなく振り回されるぞ。銅橋が良かったって言うなら今のうちだ」
黒田さん、私がそんなこと言うわけないってわかってるくせに。
「それで来年勝てるなら本望ですね」
「ったく頼もしいぜ」
何も言わない泉田さんは、一体何を考えているのか。これまでの日々を思い出しているのか、腕を組んで私たちのやりとりを見ているだけ。
黙ってるのをいいことに私はこっそり泉田さんを観察する。昨日の今日で突然髪型が変わっていて、本当に驚いた。私は今朝おはようございますより先に「ピギャ」というよくわからない悲鳴をあげて硬直し、泉田さんは「コレも事前の告知が必要かい?」と笑ってた。願掛けで伸ばしていたのだから、それが決着したら切るのは当然だ。でも驚いた。あっさり切ったなとも思った。本人にとっては単に気持ちの切り替えでしかないのだろうけど……前にも「髪を伸ばすようになって乾かす手間ができた」って言ってたし……ううん……どれも本当で嘘はないんだろうけど、なんか気持ちが追いつかない。1年前に自分が髪を切った時すごく動揺してた先輩方の気持ちがやっとわかった。敏感にならざるを得ないタイミングでやられると、過剰に反応してしまうものだと。
私は急になんだか目を合わせられなくなってしまって、チラチラ泉田さんの様子を伺った。1年前と同じ髪型なのに、全然慣れない。
「うん。じゃあ……またね」
電話を終えた葦木場さんの一声で、全員そちらに意識が向く。
「総北の新しいキャプテンが決まったって」
葦木場さんの電話の相手は手嶋だったらしい。向こうも今日が代替わりの日だったようだ。
「2年連続個人総合優勝の」
そこまで聞いて私は目を伏せる。やっぱり強すぎる運命だった。出会いからしてドラマチックだったらしいのは、2人の断片的な話から察している。東堂さんと巻島さんの関係を見た時にも感じた引き合う運命の強さを、私はあのふたりにも感じている。
「小野田坂道だよ」
ゆっくりと顔をあげる。まあ、わかっていた。総北も主将が後任を指名すると聞いていたから、手嶋純太が選ぶならやつだと、わかっていた。
視線の先で泉田さんは予想通りの表情をしていた。葦木場さんも、黒田さんも一時の動揺は過ぎ去って、静かに泉田さんを見た。
泉田さんはこれから何が起こるのか、自分が手塩にかけて育てた後輩たちがどう戦っていくのか、楽しみで仕方ないという顔をしていた。何を見せてもらえるか楽しみだと言わんばかりに口角を上げて。
「総北は小野田坂道だそうだ。君はどう見る?」
「……まあ、当然ですね」
「当然?成績の話か」
「それももちろんですけど。先輩方もご存じかと思いますが、ボクがボクがっていうタイプではないですよね。『周囲の人のおかげです』ってペコペコ謙虚にやってきた。その方針でチームを引っ張るっていうなら……きっと強敵ですよ。間違いなく来年の箱根学園にとって、最終局面で必然的に戦わなくちゃいけないラスボスになる。手嶋純太キャプテンのチームメイクとしては妥当ですが、来年戦うこっちとしてはあんまり嬉しくないかな」
「んん……名前みたいなタイプは純ちゃん相手の方がやりやすかったかもね」
「葦木場さん私の性格が悪いって言ってます……?あと、小野田なので根性論に基づいた奇策を素面で出してくる可能性があります。やだなー」
「高田城との相性最悪じゃねーか!早めに一回ぶつけとくか?」
「となると峰ヶ山ですか?あ、あと……今泉か鳴子がキャプテンになるよりは揉め事が少なそう。あのふたりに『自分が小野田を支えなければ……』という結託感が生まれそう。やばい、ナンバーツーとナンバースリーがあれは強すぎるな……」
「……大丈夫か?」
「でもうちはあの真波がキャプテンですからね。『予想のつかなさ』では同レベル……いやちょっと上回ってるかも?同じくらい、向こうにとっては厄介だと思いますよ」
「はは、言えてる」
一通り新チームの品評会を終えて、私は沈黙する。2年連続でインターハイの総合優勝を争ったふたりが、とうとうキャプテンになって3年目を迎えることになった。なるべくしてなった、運命が強く引き合った結果。
「真波がうちのキャプテンになったってことは、大変ですよ。福富さんや泉田さんみたいには行かない」
「……そうだね」
「それでも真波が選ばれた。部員もみんな、これから思い知るでしょう。真波が来年にかける思いの強さを。それだけあれば、新しいチームには十分です」
「お前はどうすんだよ。わかってんだろ」
「チームはそうでも。思いの強さだけじゃ部は回っていかない」
黒田さんの懸念。葦木場さんの憂慮。きっと聞かなくても私の答えはわかっている。敢えて聞いた、覚悟を問うために。期待をかけられている。だから私にできるのは自信満々に答えるだけ。
「私はこれから1年ボロ雑巾になるまで働かされるのが確定してしまいましたが、むしろかかってこいって感じです。先輩方に仕込まれた箱根流のサポートで、必ず、来年こそ総合優勝を」
先輩方は静かに笑う。私は固く握った拳を先輩方に見られないように後ろ手を組む。私たちは去った夏でなく、次の夏に目を向けなくてはいけない。引退する先輩方の存在を、別れを惜しんでばかりはいられない。寂しいけど、寂しくて泣くのは昨日で終わりにした。優しい先輩に散々泣かせてもらって、代替わりしてから幹部学年として頑張ろうと決めた。
泉田さんが椅子から立ち上がり、そのまま私の正面に立った。私は何を言われるのかと身じろいだ。
「あ」
後ろに回した手を取られ。グローブ焼けの跡の目立つ手に、私の手がのせられる。近い。身を引こうとして諦める。手を握る力が思いの外強かったから。
「あ、あの……」
泉田さんと視線がかち合う。私は少しの動揺と共にそれを見つめ返す。見慣れないというか、緊張する。髪型は懐かしい1年前と同じなのに、視線の強さは段違いだ。私は1年後、この域に到達できるのだろうか。怯まずに見返して、安心して代替わりできるように。顎をあげて、なるべく挑戦的に、この1年舐められないように気高く強くあった先輩の姿をなぞるように。泉田さんは口を開く。
「ある意味最良にして最悪の組み合わせになってしまったと言わざるを得ない」
「私は……外から見ている人間としては、最悪の組み合わせですよ。真波は外野にゴチャゴチャ言われても気にしないから、部外者の杞憂ですけど」
泉田さんが沈黙した。黒田さんと葦木場さんの視線がすうっと鋭くなったのを見て、私は何か間違ったことを言ったかと冷や汗が出た。
「や、あの」
「君の部外者意識はまだ抜けないようだね」
「え?」
大きい黒目が黒曜石みたいに爛々と光る。部員が練習に出るついでに電気は消してしまって、薄暗い部屋。光はわずかに差し込む外からの光だけ。私は後退ろうとしたが叶わなかった。泉田さんは追及の手を緩めない。
「自転車に乗る者と乗らない者という隔たりが君の枷になると言うのなら。ここで取り払うのが先輩の役目だろう」
「は、」
私の動揺は握られた手から存分に伝わったことだろう。そこにぎゅうと力が込められる。そんな隔たりあって当然でしょう、だって違うんだから。私たちの間には埋めることの叶わない隔たりがあり、自転車に乗る人間同士しか真に理解しあうことはできない。
泉田さんだって知っているはずだ。インターハイ2日目に京都伏見とトラブルになった。岸神が私に突きつけた、選手と私の間にある大きな溝。岸神は何も間違ったことを言っていない。見ないふりしても確かにそこにある、自転車乗りとその他の人間の間の大きな隔たりを指摘しただけ。
「沿道からの声援は、選手に届かないとでも思っていたかい」
「えっ」
「どんなに小さな声でも、言葉にならない願いでも、選手はそれを受け取って走る」
「……な、何を言って」
「現に真波は君の声を聞いた。『獲って』という君の声に応えられなかったことを、やつは悔やんでいる」
真波が?あんな小さい声を、一生懸命走ってたのに聞いて?確かに真波は耳がいいし、すずこちゃんの応援にも必ず気づくと言っていた。でも。
「ボクも、ユキも拓斗も、君の声を聞いて走ってきた。当然銅橋や悠人にも、君の声援は届いている」
「あ……」
口を開いても言葉は出ない。「どうせ届かないだろう」と思っていたことを見透かされて、逃げ出したくなった。しかし泉田さんの視線は鋭く、逃げることを咎め、反論を許さない。
「レースの勝敗は自分には関係のないことだと、そう思っていたんだろう?ロードレースはチームの戦いだと、福富さんの教えを忘れたのか?」
こちらの動揺すら見透かし、笑顔でねじ伏せる。後輩を導く優しい先輩の顔でも、重い責を負わされた箱根学園のキャプテンの顔でもない。これまで幾度となく道の上で敵を捩じ伏せてきた、強者の顔をしていた。
「部外者意識はここで捨てろ。今度は君の番だ。来年の夏……君たちならできると、期待しているよ」
「は……」
何って、それは二度逃した総合優勝だろう。今度は私の番と言われても、私は女子でマネージャーだ。私が来年の夏、インターハイを走ることは天地がひっくり返ってもあり得ない。泉田さんもわかっているはずだ。部外者意識って、そんなの当たり前じゃないか。だって、私と自転車を乗る人の間には大きな隔たりがあって。
「選手が走るコースも、君の立つ沿道も、レースのために柵で区切られただけの同じ道だ。君が見ている隔たりは、本当にそこに存在するだろうか?」
私は呆然と先輩を見上げた。泉田さんは常と変わらず悠然と微笑んでこちらを見下ろしていた。
私も流石に今日のこの雰囲気、練習同行はやめておいた。1年前を彷彿とさせる、ざわついた雰囲気だ。ま、またこれか……と少々ゲンナリしてしまう。なぜうちの部員は一度は新しい主将に不満を示さずにはいられないのか……福富キャプテンの時はどうだったんだろう。今度隼人くんに聞いてみよう。
練習に出た部員達は初日とはいえ、すぐには戻らない。私も今のうちにインハイのデータでも更新しようかな、と踵を返したその時。
「名前」
「はい」
振り返れば先輩方が3人残っていた。他の部員はみんな練習に行ってしまった。そこに残れと床を示されて立ち止まる。
「急ぎの用は?」
「いいえ、何も」
「じゃちょっと付き合えよ」
「はい」
インハイの後にきっちり片付けまでしたし、新体制も動き出したばかりで、急ぎの用は何もない。この雰囲気の中、じっとしていられなくて、手を動かしたかっただけなので。
1年ぶりのこの雰囲気……新キャプテンに対する不安と猜疑心に満ちた、どこか剣呑で陰湿な空気。「強豪運動部らしい」雰囲気。しかし今回に限っては、私はあんまり不安に感じていない。真波が戸惑いなくキャプテンの指名を受け入れたから。
「バッシーも名前もあんまり驚いてなかったね」
「ええ、まあ……」
「歯切れ悪いな」
「バシさんは……幹部が動揺してたらカッコつかないじゃないですか」
「それはそうだけど」
気まず!泉田さん、事前告知したこと言ってないんだ?まさか真波指名も独断じゃないだろうな……チラッと見ても泉田さんは何も言わない。返ってきたのは「なにか不満でも?」と言わんばかりの微笑のみ。はい。泉田さんがそう言うなら名前も黙ります。
黒田さんが納得いかなそうにこちらを見る。
「なんだそのアイコンタクトは」
「なんでもないです」
部員に驚きをもたらした真波キャプテンの誕生だが、任命者の意向は真波本人がいちばんわかっているだろう。二度のインターハイを共にチームとして走ったこと、積み重ねた歳月、それらを根拠にした「真波ならわかってくれる」という泉田さんからの信頼があった。1年前のやりとりを思い出せば、私には当然の采配に思える。
一方、部内でバシさんを積極的に推す雰囲気が生まれることも予想外ではなかった。レースで強く、勝ち方はとにかくクリーン。面倒見が良く、ハッキリした性格で後輩から慕われている。私は1年前のあの惨状を覚えているから、自転車部史上退部回数最多のバシさんが箱根学園の主将に推されるというのは……なんだか不思議な感覚だった。1年生は実際に見てないからといえば、そうなんだけど。
それから、忘れもしない1年前のトラブルの原因のひとつは主将がスプリンターであることだった。今回の部内の雰囲気はバシさんが後輩に慕われる男だというだけでなく、泉田さんが1年の努力と結果で部内の常識を塗り替えたことの証明でもある。それがまさか真波のキャプテン就任の障害になるとは予想してなかったけど。
真波だって別に人望がないわけじゃない。面倒見という点で大きくバシさんに遅れを取ってるというだけで、ちゃんと後輩からはエースクライマーに相応しく畏怖と尊敬のまなざしを向けられている。かつての東堂さんがそうだったように。
葦木場さんはなぜか今日に限って携帯を手にしていた。度々通知の音がして、この人が短いスパンで誰かとメールのやり取りするのは珍しい。まじまじ見ると、視線に気付いたのか顔を上げた。
「名前はあんまり心配してなさそうだね?」
「はい。私も真波しかいないと思ってますし、本人も福富さんや泉田さんみたいにやる自信はなくても、受け入れたからあの返事したんだと思います。だから私がどうこう言う気は最初からないんですよ」
「なるほど」
黒田さんも葦木場さんも私の意見に頷いた。そしてようやく泉田さんが今季の幹部を3人選んだ理由を語る。「信じて任せるしかない」などという他人行儀な発言には少し寂しさも感じるけれど、おおよそ昨日聞いた通りだ。昨日は話の内容より、呼び出しそのものとその他のことに驚かされたから、2回目聞いてようやく自分の中で落ち着いた感じがある。
葦木場さんも泉田さんの説明に軽く頷いたのみで、ベンチで携帯を触り始めた。一方黒田さんは大人しく聞いていた私を見て。
「ホントに真波でいいんだな。間違いなく振り回されるぞ。銅橋が良かったって言うなら今のうちだ」
黒田さん、私がそんなこと言うわけないってわかってるくせに。
「それで来年勝てるなら本望ですね」
「ったく頼もしいぜ」
何も言わない泉田さんは、一体何を考えているのか。これまでの日々を思い出しているのか、腕を組んで私たちのやりとりを見ているだけ。
黙ってるのをいいことに私はこっそり泉田さんを観察する。昨日の今日で突然髪型が変わっていて、本当に驚いた。私は今朝おはようございますより先に「ピギャ」というよくわからない悲鳴をあげて硬直し、泉田さんは「コレも事前の告知が必要かい?」と笑ってた。願掛けで伸ばしていたのだから、それが決着したら切るのは当然だ。でも驚いた。あっさり切ったなとも思った。本人にとっては単に気持ちの切り替えでしかないのだろうけど……前にも「髪を伸ばすようになって乾かす手間ができた」って言ってたし……ううん……どれも本当で嘘はないんだろうけど、なんか気持ちが追いつかない。1年前に自分が髪を切った時すごく動揺してた先輩方の気持ちがやっとわかった。敏感にならざるを得ないタイミングでやられると、過剰に反応してしまうものだと。
私は急になんだか目を合わせられなくなってしまって、チラチラ泉田さんの様子を伺った。1年前と同じ髪型なのに、全然慣れない。
「うん。じゃあ……またね」
電話を終えた葦木場さんの一声で、全員そちらに意識が向く。
「総北の新しいキャプテンが決まったって」
葦木場さんの電話の相手は手嶋だったらしい。向こうも今日が代替わりの日だったようだ。
「2年連続個人総合優勝の」
そこまで聞いて私は目を伏せる。やっぱり強すぎる運命だった。出会いからしてドラマチックだったらしいのは、2人の断片的な話から察している。東堂さんと巻島さんの関係を見た時にも感じた引き合う運命の強さを、私はあのふたりにも感じている。
「小野田坂道だよ」
ゆっくりと顔をあげる。まあ、わかっていた。総北も主将が後任を指名すると聞いていたから、手嶋純太が選ぶならやつだと、わかっていた。
視線の先で泉田さんは予想通りの表情をしていた。葦木場さんも、黒田さんも一時の動揺は過ぎ去って、静かに泉田さんを見た。
泉田さんはこれから何が起こるのか、自分が手塩にかけて育てた後輩たちがどう戦っていくのか、楽しみで仕方ないという顔をしていた。何を見せてもらえるか楽しみだと言わんばかりに口角を上げて。
「総北は小野田坂道だそうだ。君はどう見る?」
「……まあ、当然ですね」
「当然?成績の話か」
「それももちろんですけど。先輩方もご存じかと思いますが、ボクがボクがっていうタイプではないですよね。『周囲の人のおかげです』ってペコペコ謙虚にやってきた。その方針でチームを引っ張るっていうなら……きっと強敵ですよ。間違いなく来年の箱根学園にとって、最終局面で必然的に戦わなくちゃいけないラスボスになる。手嶋純太キャプテンのチームメイクとしては妥当ですが、来年戦うこっちとしてはあんまり嬉しくないかな」
「んん……名前みたいなタイプは純ちゃん相手の方がやりやすかったかもね」
「葦木場さん私の性格が悪いって言ってます……?あと、小野田なので根性論に基づいた奇策を素面で出してくる可能性があります。やだなー」
「高田城との相性最悪じゃねーか!早めに一回ぶつけとくか?」
「となると峰ヶ山ですか?あ、あと……今泉か鳴子がキャプテンになるよりは揉め事が少なそう。あのふたりに『自分が小野田を支えなければ……』という結託感が生まれそう。やばい、ナンバーツーとナンバースリーがあれは強すぎるな……」
「……大丈夫か?」
「でもうちはあの真波がキャプテンですからね。『予想のつかなさ』では同レベル……いやちょっと上回ってるかも?同じくらい、向こうにとっては厄介だと思いますよ」
「はは、言えてる」
一通り新チームの品評会を終えて、私は沈黙する。2年連続でインターハイの総合優勝を争ったふたりが、とうとうキャプテンになって3年目を迎えることになった。なるべくしてなった、運命が強く引き合った結果。
「真波がうちのキャプテンになったってことは、大変ですよ。福富さんや泉田さんみたいには行かない」
「……そうだね」
「それでも真波が選ばれた。部員もみんな、これから思い知るでしょう。真波が来年にかける思いの強さを。それだけあれば、新しいチームには十分です」
「お前はどうすんだよ。わかってんだろ」
「チームはそうでも。思いの強さだけじゃ部は回っていかない」
黒田さんの懸念。葦木場さんの憂慮。きっと聞かなくても私の答えはわかっている。敢えて聞いた、覚悟を問うために。期待をかけられている。だから私にできるのは自信満々に答えるだけ。
「私はこれから1年ボロ雑巾になるまで働かされるのが確定してしまいましたが、むしろかかってこいって感じです。先輩方に仕込まれた箱根流のサポートで、必ず、来年こそ総合優勝を」
先輩方は静かに笑う。私は固く握った拳を先輩方に見られないように後ろ手を組む。私たちは去った夏でなく、次の夏に目を向けなくてはいけない。引退する先輩方の存在を、別れを惜しんでばかりはいられない。寂しいけど、寂しくて泣くのは昨日で終わりにした。優しい先輩に散々泣かせてもらって、代替わりしてから幹部学年として頑張ろうと決めた。
泉田さんが椅子から立ち上がり、そのまま私の正面に立った。私は何を言われるのかと身じろいだ。
「あ」
後ろに回した手を取られ。グローブ焼けの跡の目立つ手に、私の手がのせられる。近い。身を引こうとして諦める。手を握る力が思いの外強かったから。
「あ、あの……」
泉田さんと視線がかち合う。私は少しの動揺と共にそれを見つめ返す。見慣れないというか、緊張する。髪型は懐かしい1年前と同じなのに、視線の強さは段違いだ。私は1年後、この域に到達できるのだろうか。怯まずに見返して、安心して代替わりできるように。顎をあげて、なるべく挑戦的に、この1年舐められないように気高く強くあった先輩の姿をなぞるように。泉田さんは口を開く。
「ある意味最良にして最悪の組み合わせになってしまったと言わざるを得ない」
「私は……外から見ている人間としては、最悪の組み合わせですよ。真波は外野にゴチャゴチャ言われても気にしないから、部外者の杞憂ですけど」
泉田さんが沈黙した。黒田さんと葦木場さんの視線がすうっと鋭くなったのを見て、私は何か間違ったことを言ったかと冷や汗が出た。
「や、あの」
「君の部外者意識はまだ抜けないようだね」
「え?」
大きい黒目が黒曜石みたいに爛々と光る。部員が練習に出るついでに電気は消してしまって、薄暗い部屋。光はわずかに差し込む外からの光だけ。私は後退ろうとしたが叶わなかった。泉田さんは追及の手を緩めない。
「自転車に乗る者と乗らない者という隔たりが君の枷になると言うのなら。ここで取り払うのが先輩の役目だろう」
「は、」
私の動揺は握られた手から存分に伝わったことだろう。そこにぎゅうと力が込められる。そんな隔たりあって当然でしょう、だって違うんだから。私たちの間には埋めることの叶わない隔たりがあり、自転車に乗る人間同士しか真に理解しあうことはできない。
泉田さんだって知っているはずだ。インターハイ2日目に京都伏見とトラブルになった。岸神が私に突きつけた、選手と私の間にある大きな溝。岸神は何も間違ったことを言っていない。見ないふりしても確かにそこにある、自転車乗りとその他の人間の間の大きな隔たりを指摘しただけ。
「沿道からの声援は、選手に届かないとでも思っていたかい」
「えっ」
「どんなに小さな声でも、言葉にならない願いでも、選手はそれを受け取って走る」
「……な、何を言って」
「現に真波は君の声を聞いた。『獲って』という君の声に応えられなかったことを、やつは悔やんでいる」
真波が?あんな小さい声を、一生懸命走ってたのに聞いて?確かに真波は耳がいいし、すずこちゃんの応援にも必ず気づくと言っていた。でも。
「ボクも、ユキも拓斗も、君の声を聞いて走ってきた。当然銅橋や悠人にも、君の声援は届いている」
「あ……」
口を開いても言葉は出ない。「どうせ届かないだろう」と思っていたことを見透かされて、逃げ出したくなった。しかし泉田さんの視線は鋭く、逃げることを咎め、反論を許さない。
「レースの勝敗は自分には関係のないことだと、そう思っていたんだろう?ロードレースはチームの戦いだと、福富さんの教えを忘れたのか?」
こちらの動揺すら見透かし、笑顔でねじ伏せる。後輩を導く優しい先輩の顔でも、重い責を負わされた箱根学園のキャプテンの顔でもない。これまで幾度となく道の上で敵を捩じ伏せてきた、強者の顔をしていた。
「部外者意識はここで捨てろ。今度は君の番だ。来年の夏……君たちならできると、期待しているよ」
「は……」
何って、それは二度逃した総合優勝だろう。今度は私の番と言われても、私は女子でマネージャーだ。私が来年の夏、インターハイを走ることは天地がひっくり返ってもあり得ない。泉田さんもわかっているはずだ。部外者意識って、そんなの当たり前じゃないか。だって、私と自転車を乗る人の間には大きな隔たりがあって。
「選手が走るコースも、君の立つ沿道も、レースのために柵で区切られただけの同じ道だ。君が見ている隔たりは、本当にそこに存在するだろうか?」
私は呆然と先輩を見上げた。泉田さんは常と変わらず悠然と微笑んでこちらを見下ろしていた。
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