去る春、君の声だけが在る2
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インハイ最終日は帰校してから片付けと反省会、ミーティング……と続く、長い1日だった。去年よりやることが増えたせいか解散した時にはくたくたで、重い体を引きずってそのまま家に帰った。両親にインターハイの結果を報告するために。
両親は競技のことはわからないなりに、私の話を聞いてくれた。中学生で引きこもっていた娘がこうして部内で役割を持ったことには感慨深そうに、そして去年に続く二度目の準優勝という結果には少し気の毒そうにしていた。
いい話題は他にもあった。1年生ながら悠ちゃんがインハイを走り活躍したことにはうちの両親も隼人くんのママも喜んでくれた。うちの父親はいただき物の桃を届けにきた悠ちゃんを大袈裟に褒め称え、悠ちゃんは「ありがとうございます……」と気まずそうにして、そそくさと帰っていった。
明日の新体制始動に備え、1日早く寮に戻ったのはバシさんからの呼び出しのせいだ。てっきり決意表明か何かかと思って、のこのこ待ち合わせ場所に向かうとそこで待っていたのはバシさんともうひとり。
「泉田さん!お疲れ様です」
「お疲れ様。リフレッシュはできたかい」
「久しぶりの実家を満喫してまいりました!プール行って女子会もして大満足です」
「それはよかった」
久しぶりの実家、それも家族3人揃った状況は思ったほど地獄じゃなかった。母は久しぶりに寮から帰ってきた私の好物をたくさん作ってくれたし、私の帰省に合わせて単身赴任先から戻った父は休みの間私の送迎をしてくれた。寒咲さんと女子会を開催し、バシさんとプールに行った。バシさんは私の父と初めて顔を合わせ、かなり緊張していておもしろかった。父も娘が一緒にプールで遊ぶ相手が190センチ越えの大男ということに衝撃を受けていたようだが。帰ってから色々聞かれて面倒だったのはいうまでもない。
「それで、今日は……」
呼び出した張本人のバシさんを見ても、首を振る。要件は知らないらしい。と、いうことは。泉田さんは「心の準備が必要だろう?」とバシさんに視線を向ける。バシさんは女王様モードの泉田さんにたじろいだ。
「こ、心の準備?」
「先に新体制の話をしておこうと思ってね。明日にはわかることだが……それまでは内密に」
私たちはぎくりと体を跳ねさせる。わざわざ私たちふたりだけ呼び出して釘刺しするなんて、とんでもない人事の予感だ。私はあえてこの数日、新体制についてはあまり考えないようにしていた。
泉田さんの目が真夏の太陽光を受けてぎらりと光る。それから、もったいぶる様子もなく口を開く。
「真波がキャプテン、補佐に銅橋と高田城をつける」
……真波。隣で身じろぎした気配を感じ、私は先回って聞いておく。わざとらしく首を傾げて、緊張した空気を破るようにゆったりとした話し方を心がける。
「部を率いてまとめるという点では、真波は若干自由人すぎる気がしますが」
「はっきり言えばそうだね」
ハッキリ言った!私たちはそれぞれ肩を震わせたけど、口には出さなかった。真波の遅刻とか、サボりとかそういうのはキャプテンになるなら結構大きな障害になる気もするけど、泉田さんはもう真波に決めてるみたいだった。
「二度、総合優勝を逃した。今度こそ本気で取りに行ってもらわなければ。そうとなれば、真波しかあるまい」
私たちは頷く。その理屈で選ぶならば、真波以外にはいない。そもそも真波しか候補に上がらない。その役目を負うのは、バシさんではない。私はどうしても去年の秋、泉田さんが口にした「罪を背負う」という言葉が気がかりだったが、その観点で選ぶなら真波しかいない。その点においては私にとってこの人事はそれほど予想外ではない。泉田さんの話は続く。
「キャプテンの仕事は部を率いることだが、それだけではない。わかっているね。後輩を指導し、人を選び、レース中に指示を出す」
「はい」
「それら全てを真波ひとりに全て任せるというのはこちらとしても不安が残る。指導は銅橋、レースや練習において必要な指示は高田城が担うことになるだろう」
適任だ。私もバシさんも頷く。レイさんは自慢の頭脳と知識に加えてハコガク作戦隊長である黒田さんから戦略立案の手解きを受けた。バシさんはこの春からの活躍と面倒見のいい性格で後輩から慕われている。実力も申し分なく、この2人を差し置いて他に適任はいない。
3人がそれぞれ得意とする分野で部を支え、部員を導くというのなら、これ以上ない采配に思えた。が。なんとなくわかっているが、懸念がひとつ。泉田さんは私の表情を見て、言いたいことはわかったらしい。面白そうにその瞳を煌めかせ、頷きでもって私に発言を許可した。
「福富キャプテンも泉田キャプテンも……おふたりには部の運営に尽力いただきました。新しい機材の導入だったり、遠征体制の強化だったり……私自身も泉田さんには実務的な面でたくさんご指導いただきました」
「ボクは2年の時点でレギュラー入りしていたから、その辺りの経験値は他の人よりあったかもしれないね」
「……ただその理論でいくと真波は1年時点でレギュラー入りしてるんです!ですが実際のところ経験値は他の人より無いと思います!」
「……無いな」
「ですよね!?その辺りのこと、具体的に誰がやるのか、確認しておきたいです!」
私はバシさんを指差し、ついでに2本指を立ててここにいない新幹部2人を示す。ごくり。
「部の運営に関わる諸業務も3人で仲良く助け合い……ということですよね?そうと言ってください!」
「あっ……」
「……幸い仕事のできるマネージャーもいることだし。真波のキャプテンとして不足している部分を、銅橋と高田城と君が、大いに補ってくれることを期待しているよ」
やっぱり……!正直真波キャプテンに「次の合宿はどうしましょう、遠征スケジュールどうしましょう」「レースの手伝きお願いします」と頼んでる様子が想像できない。むしろ、私が「部長会議があるのになんで自転車乗ってるの!?」「エントリーの締切来週だけど、どうするの!?やり方わかる?」と慌ててる姿の方が想像できる。
「真波にその辺覚えさせられる気がしません……いっそ私がやっていいですか?私も真波よりはできるという程度ですけど、教えるよりはマシな気がします」
「『箱根学園の敏腕マネージャー』が随分と謙遜してみせるじゃないか」
「えっとぉ……」
「一連の流れは去年教えた時にメモを取った
だろう?それに組織の運営は君の得意分野だと認識しているよ」
「……まあ、おかげさまで……?」
「前主将から直々に依頼した方が部員も納得するというのなら、明日その話もしよう。ただし、銅橋も高田城と共に名前を手伝うこと」
「はい」
バシさんは静かに頷いた。別にふたりが手伝ってくれないことを心配しているわけじゃない。主将を差し置いてマネージャーがあれこれ言うのは不満を生むだろうし、真波が主将として舐められるようなことは、いちばん避けたい。泉田さんが前主将の立場で言ってくれるのなら多少はマシかもしれないが。真波に仕事を教える苦労よりは、多少……
「そんな顔しなくても。ユキもボクも卒業までは多少手伝ってやれるから、心配することじゃないよ」
「けけけ結構です!先輩方は受験勉強に専念してください」
今までキャプテンがやってきた面倒な諸手続きなんかがどうなるのかは薄々わかっていた。少なくとも今までみたいにレイさん頼みじゃいられないのはわかってた。
箱根学園自転車競技部は強豪ゆえに部員の数が多いし、レース参加や合宿・遠征も頻繁にある。その辺の手続きをやるなら個人でバラバラやるより取りまとめる人がいるし、お金関係のことはほとんど顧問から丸投げされている状況だから誰かがやらなくてはいけない。何より来年のインターハイは九州、ここ2年が関東開催だったのに比べるとかかる費用は恐ろしく高い。他に誰が部内でそんなこと気にしてるかというと……多分今のところ誰も気にしてない。二度も逃した王座奪還しか見えてない。来季参謀に内定したレイさんはコースと宿取りくらいは気にしてくれるかもしれないが。
正直、OB会との懇談や理事会への報告(つまり寄附や予算の話)が真波にできるかはかなり疑問だ。バシさんもどうだろう。ハコガクの陰湿な強豪運動部気質に苦しめられた人だからあんまり連れて行きたくはない。しかしふたりに比べて名前の売れてないレイさんを連れていくのも……うーん、今からやることが山積みすぎる。
「あ、あの……できるだけ自力で頑張りますけど、やっぱり、OB会訪問は一緒に行ってくれませんか」
「もちろんそのつもりだよ」
「ああ良かった。頑張れそうです。頑張ります」
振り返れば福富キャプテンとそれを支えた東堂さんがその辺優秀だったのは言うまでもない。寿一くんはお父様とお兄様が関係者だし、東堂さんの社交性と交渉術は高校生のレベルを逸していた。
敗北、史上初のスプリンター主将と逆境の中始動した泉田体制も、泉田さんは2年でレギュラー入りした上真面目な性格だからとにかくその辺キッチリしていた。私は去年、書類だの申請だのといった部内の手続きにあたって、散々泉田さんに手伝ってもらったし。
だから、まあ「今年はひとりでその辺のこと頑張りなさい」と言われたら、はーいと返事するしかないと思っていた。「真波を支えろ」と言う指示には「言われなくてもそのつもりです」と返すつもりでいた。真波が主将の任をどう受け止めるのかすら、まだわからないけど。流石に拒みはしないだろうけど、どんな反応をするのだろう。
泉田さんは私たちの顔を順番に見て諭す。
「名前も、銅橋も。今後何か困り事があれば相談に乗ろう。引退しても、君たちがボクのかわいい後輩であることに変わりはない。今度は君たちがチームを作り上げ、導く番だよ」
この1年箱根学園の主将を務め上げた人の、嬉しくも頼もしい言葉だった。バシさんは息を呑んで、それでも大きな声で返事をした。空気がビリビリ震えるくらいのいい返事だった。一方私の喉から漏れたのは、情けない涙声だった。
「……そんなのやですよ」
「……名前?」
「あと1年……来年も一緒にインターハイ出てくださいよ……!!」
「おい名前!」
私が馬鹿なことを言い出したからバシさんは厳しく私の名前を呼んだ。ここ数日、涙腺がばかになっていて、とにかく緩いわ、一度緩むと止まらないわで自分でも困っている。引退。代替わりしてすぐにというわけではないけど、新体制になるっていうことはそういうことだ。
「だって、だって……!」
考えただけで全然耐えられなかった。続きが言葉にならなくて、私はバシさんにくっついてわんわん泣いた。勝手にバシさんのTシャツの裾を持ち上げて、涙を拭いて。
「名前」
「だって……」
だって先輩、ほんとに引退しちゃう。バシさんたちはあと何回一緒に走れるんだろう。あと何回、学校や部活で顔を合わせた時に「名前」と優しい笑顔で名前を呼んでくれるんだろう。引退したら部活に顔を出さなくなって、卒業したら遠くに行ってしまう。
バシさんは私が急にわんわん泣き出したので、困惑した様子で「おい」と言った。私は無視してシクシク泣いた。私だって「あと1年」なんていうのは無理だとわかっている。留年したってインターハイには出られないし、先輩には先輩の人生があり、選択があるはずだ。
「もう1年ってお前な……泉田さんが困ってるだろ!」
「さすがにハコガクの主将を2年は耐えられないかな」
久しぶりに聞くその声のトーン、私はTシャツから手を離し、呆然とその人を見た。役目を終えたことをいやでもわからせるような、表情、声、その変化。
「や、やだ……」
バシさんが至極軽く私の背中を叩く。その拍子に大粒の涙が転がり落ちた。振り返って見上げた顔は、真夏の太陽光が上から刺しているせいで翳っている。それでもわかる、その表情はきつく歯を食いしばっている。いつも以上に視線がギラギラ光っているのは、なぜか。泣きたいのは、私だけじゃない。
表彰式の後、方々への挨拶を終えて撤収の時になってもバシさんは泣かなかった。帰りのバスでも隣の席はずっと静かだった。もしかしたらずっと我慢していたのかもしれない。
「だって、やだ……!やなんだもん……!!」
「わがまま言うな!」
厳しい口調で叱責されても、私は止まる気にはならなかった。バシさんは明日からの自分の役目をわかって、もう受け入れてる。泉田さんから何を託されて受け継いだのか、わかって受け入れてる。そうだよね、バシさんならわかるよね。この人がもう、キャプテンの荷を降ろしててしまったこと。
「ずっとハコガクで走ってくださいよ……」
この人がどんな覚悟で、この1年戦ってきたのか。その全てでなくても少しは知っているつもりだ。だから「もう1年」なんて叶わないと頭ではわかってるのに、わがままを言わずにいられない。バシさんが堪えてるのは涙か、わがままか、私だけワンワン泣いてずるいと思っているかもしれない。
バシさんも泉田さんも何も言わず、私はどうにもならない引退と卒業の未来を思って、蹲って泣いた。ふたりとも、覚悟の決まっていないマネージャーに呆れているのかもしれない。自転車に「乗らない」私は、引退して卒業してしまったら、そこで終わってしまう。何がって、関係性が。
バシさんや泉田さんは自転車に乗る人だ。自転車に乗る人の縁は自転車に乗り続ける限り、続いていく。道の上で築かれた友情の篤さを、絆の堅さを、引き合う運命の強さを、これまでの日々を通じて私は知っている。でも私は。私は選手じゃなくて、自転車に乗ることを選ばなくて、だから……本当の意味で自転車に乗る人の痛みを苦しみをその喜びを私は知らない。乗る人と乗らない人の間に、確かな隔たりがあることを今年のインターハイで改めて思い知った。
頭上に影がさして、私はのろのろと顔を上げる。笑っていた。初めてこの人を認識した時の、あの楽しそうに走る姿が忘れられない。隼人くんを慕って、追って、追って、走ったあの頃みたいな顔をしていた。それと同時にこの1年背負ったものの重さと努力の気配を纏っている。
「明日からは許されないよ。君たちは王者箱根学園の幹部学年になるんだからね」
私たちは言葉もなくその人を見た。バシさんが喉を鳴らす音だけがした。
憑き物が落ちたようだ。重荷を降ろして晴れやかですらある。本当に、夏が、インターハイが終わってしまったのだと、私たちは実感せざるを得ない。この人が何のために己を律し、己の信条に従い、走ってきたのか。その答え合わせをされたような。
本当に、終わっちゃった。代替わりしたって、もうしばらくはレースに出たり部活に顔出してくれるってわかっているけど。私がまたボロボロ泣いて、今度はバシさんも咎めなかった。代わりに不規則に息を吸って吐く呼吸音だけがした。泉田さんは何にも言わない私たちを見て、仕方ないなという風に苦笑して手招き。
「そんな風に泣いていいのは今日まで。満足するまで好きなだけ泣くといい。今日だけはボクが許そう」
夏はまだ真っ盛りで、建物の影とはいえ立っているだけで汗が吹き出る暑さだった。私たちの夏はもう数日前に終わってしまった。明日から次に向かって……今度こそ総合優勝を獲るために歩き出さなくちゃいけないのは、私もバシさんもわかっていた。今日だけは先輩の優しい言葉に甘えることにして、私たちはしばらくその場に留まった。
両親は競技のことはわからないなりに、私の話を聞いてくれた。中学生で引きこもっていた娘がこうして部内で役割を持ったことには感慨深そうに、そして去年に続く二度目の準優勝という結果には少し気の毒そうにしていた。
いい話題は他にもあった。1年生ながら悠ちゃんがインハイを走り活躍したことにはうちの両親も隼人くんのママも喜んでくれた。うちの父親はいただき物の桃を届けにきた悠ちゃんを大袈裟に褒め称え、悠ちゃんは「ありがとうございます……」と気まずそうにして、そそくさと帰っていった。
明日の新体制始動に備え、1日早く寮に戻ったのはバシさんからの呼び出しのせいだ。てっきり決意表明か何かかと思って、のこのこ待ち合わせ場所に向かうとそこで待っていたのはバシさんともうひとり。
「泉田さん!お疲れ様です」
「お疲れ様。リフレッシュはできたかい」
「久しぶりの実家を満喫してまいりました!プール行って女子会もして大満足です」
「それはよかった」
久しぶりの実家、それも家族3人揃った状況は思ったほど地獄じゃなかった。母は久しぶりに寮から帰ってきた私の好物をたくさん作ってくれたし、私の帰省に合わせて単身赴任先から戻った父は休みの間私の送迎をしてくれた。寒咲さんと女子会を開催し、バシさんとプールに行った。バシさんは私の父と初めて顔を合わせ、かなり緊張していておもしろかった。父も娘が一緒にプールで遊ぶ相手が190センチ越えの大男ということに衝撃を受けていたようだが。帰ってから色々聞かれて面倒だったのはいうまでもない。
「それで、今日は……」
呼び出した張本人のバシさんを見ても、首を振る。要件は知らないらしい。と、いうことは。泉田さんは「心の準備が必要だろう?」とバシさんに視線を向ける。バシさんは女王様モードの泉田さんにたじろいだ。
「こ、心の準備?」
「先に新体制の話をしておこうと思ってね。明日にはわかることだが……それまでは内密に」
私たちはぎくりと体を跳ねさせる。わざわざ私たちふたりだけ呼び出して釘刺しするなんて、とんでもない人事の予感だ。私はあえてこの数日、新体制についてはあまり考えないようにしていた。
泉田さんの目が真夏の太陽光を受けてぎらりと光る。それから、もったいぶる様子もなく口を開く。
「真波がキャプテン、補佐に銅橋と高田城をつける」
……真波。隣で身じろぎした気配を感じ、私は先回って聞いておく。わざとらしく首を傾げて、緊張した空気を破るようにゆったりとした話し方を心がける。
「部を率いてまとめるという点では、真波は若干自由人すぎる気がしますが」
「はっきり言えばそうだね」
ハッキリ言った!私たちはそれぞれ肩を震わせたけど、口には出さなかった。真波の遅刻とか、サボりとかそういうのはキャプテンになるなら結構大きな障害になる気もするけど、泉田さんはもう真波に決めてるみたいだった。
「二度、総合優勝を逃した。今度こそ本気で取りに行ってもらわなければ。そうとなれば、真波しかあるまい」
私たちは頷く。その理屈で選ぶならば、真波以外にはいない。そもそも真波しか候補に上がらない。その役目を負うのは、バシさんではない。私はどうしても去年の秋、泉田さんが口にした「罪を背負う」という言葉が気がかりだったが、その観点で選ぶなら真波しかいない。その点においては私にとってこの人事はそれほど予想外ではない。泉田さんの話は続く。
「キャプテンの仕事は部を率いることだが、それだけではない。わかっているね。後輩を指導し、人を選び、レース中に指示を出す」
「はい」
「それら全てを真波ひとりに全て任せるというのはこちらとしても不安が残る。指導は銅橋、レースや練習において必要な指示は高田城が担うことになるだろう」
適任だ。私もバシさんも頷く。レイさんは自慢の頭脳と知識に加えてハコガク作戦隊長である黒田さんから戦略立案の手解きを受けた。バシさんはこの春からの活躍と面倒見のいい性格で後輩から慕われている。実力も申し分なく、この2人を差し置いて他に適任はいない。
3人がそれぞれ得意とする分野で部を支え、部員を導くというのなら、これ以上ない采配に思えた。が。なんとなくわかっているが、懸念がひとつ。泉田さんは私の表情を見て、言いたいことはわかったらしい。面白そうにその瞳を煌めかせ、頷きでもって私に発言を許可した。
「福富キャプテンも泉田キャプテンも……おふたりには部の運営に尽力いただきました。新しい機材の導入だったり、遠征体制の強化だったり……私自身も泉田さんには実務的な面でたくさんご指導いただきました」
「ボクは2年の時点でレギュラー入りしていたから、その辺りの経験値は他の人よりあったかもしれないね」
「……ただその理論でいくと真波は1年時点でレギュラー入りしてるんです!ですが実際のところ経験値は他の人より無いと思います!」
「……無いな」
「ですよね!?その辺りのこと、具体的に誰がやるのか、確認しておきたいです!」
私はバシさんを指差し、ついでに2本指を立ててここにいない新幹部2人を示す。ごくり。
「部の運営に関わる諸業務も3人で仲良く助け合い……ということですよね?そうと言ってください!」
「あっ……」
「……幸い仕事のできるマネージャーもいることだし。真波のキャプテンとして不足している部分を、銅橋と高田城と君が、大いに補ってくれることを期待しているよ」
やっぱり……!正直真波キャプテンに「次の合宿はどうしましょう、遠征スケジュールどうしましょう」「レースの手伝きお願いします」と頼んでる様子が想像できない。むしろ、私が「部長会議があるのになんで自転車乗ってるの!?」「エントリーの締切来週だけど、どうするの!?やり方わかる?」と慌ててる姿の方が想像できる。
「真波にその辺覚えさせられる気がしません……いっそ私がやっていいですか?私も真波よりはできるという程度ですけど、教えるよりはマシな気がします」
「『箱根学園の敏腕マネージャー』が随分と謙遜してみせるじゃないか」
「えっとぉ……」
「一連の流れは去年教えた時にメモを取った
だろう?それに組織の運営は君の得意分野だと認識しているよ」
「……まあ、おかげさまで……?」
「前主将から直々に依頼した方が部員も納得するというのなら、明日その話もしよう。ただし、銅橋も高田城と共に名前を手伝うこと」
「はい」
バシさんは静かに頷いた。別にふたりが手伝ってくれないことを心配しているわけじゃない。主将を差し置いてマネージャーがあれこれ言うのは不満を生むだろうし、真波が主将として舐められるようなことは、いちばん避けたい。泉田さんが前主将の立場で言ってくれるのなら多少はマシかもしれないが。真波に仕事を教える苦労よりは、多少……
「そんな顔しなくても。ユキもボクも卒業までは多少手伝ってやれるから、心配することじゃないよ」
「けけけ結構です!先輩方は受験勉強に専念してください」
今までキャプテンがやってきた面倒な諸手続きなんかがどうなるのかは薄々わかっていた。少なくとも今までみたいにレイさん頼みじゃいられないのはわかってた。
箱根学園自転車競技部は強豪ゆえに部員の数が多いし、レース参加や合宿・遠征も頻繁にある。その辺の手続きをやるなら個人でバラバラやるより取りまとめる人がいるし、お金関係のことはほとんど顧問から丸投げされている状況だから誰かがやらなくてはいけない。何より来年のインターハイは九州、ここ2年が関東開催だったのに比べるとかかる費用は恐ろしく高い。他に誰が部内でそんなこと気にしてるかというと……多分今のところ誰も気にしてない。二度も逃した王座奪還しか見えてない。来季参謀に内定したレイさんはコースと宿取りくらいは気にしてくれるかもしれないが。
正直、OB会との懇談や理事会への報告(つまり寄附や予算の話)が真波にできるかはかなり疑問だ。バシさんもどうだろう。ハコガクの陰湿な強豪運動部気質に苦しめられた人だからあんまり連れて行きたくはない。しかしふたりに比べて名前の売れてないレイさんを連れていくのも……うーん、今からやることが山積みすぎる。
「あ、あの……できるだけ自力で頑張りますけど、やっぱり、OB会訪問は一緒に行ってくれませんか」
「もちろんそのつもりだよ」
「ああ良かった。頑張れそうです。頑張ります」
振り返れば福富キャプテンとそれを支えた東堂さんがその辺優秀だったのは言うまでもない。寿一くんはお父様とお兄様が関係者だし、東堂さんの社交性と交渉術は高校生のレベルを逸していた。
敗北、史上初のスプリンター主将と逆境の中始動した泉田体制も、泉田さんは2年でレギュラー入りした上真面目な性格だからとにかくその辺キッチリしていた。私は去年、書類だの申請だのといった部内の手続きにあたって、散々泉田さんに手伝ってもらったし。
だから、まあ「今年はひとりでその辺のこと頑張りなさい」と言われたら、はーいと返事するしかないと思っていた。「真波を支えろ」と言う指示には「言われなくてもそのつもりです」と返すつもりでいた。真波が主将の任をどう受け止めるのかすら、まだわからないけど。流石に拒みはしないだろうけど、どんな反応をするのだろう。
泉田さんは私たちの顔を順番に見て諭す。
「名前も、銅橋も。今後何か困り事があれば相談に乗ろう。引退しても、君たちがボクのかわいい後輩であることに変わりはない。今度は君たちがチームを作り上げ、導く番だよ」
この1年箱根学園の主将を務め上げた人の、嬉しくも頼もしい言葉だった。バシさんは息を呑んで、それでも大きな声で返事をした。空気がビリビリ震えるくらいのいい返事だった。一方私の喉から漏れたのは、情けない涙声だった。
「……そんなのやですよ」
「……名前?」
「あと1年……来年も一緒にインターハイ出てくださいよ……!!」
「おい名前!」
私が馬鹿なことを言い出したからバシさんは厳しく私の名前を呼んだ。ここ数日、涙腺がばかになっていて、とにかく緩いわ、一度緩むと止まらないわで自分でも困っている。引退。代替わりしてすぐにというわけではないけど、新体制になるっていうことはそういうことだ。
「だって、だって……!」
考えただけで全然耐えられなかった。続きが言葉にならなくて、私はバシさんにくっついてわんわん泣いた。勝手にバシさんのTシャツの裾を持ち上げて、涙を拭いて。
「名前」
「だって……」
だって先輩、ほんとに引退しちゃう。バシさんたちはあと何回一緒に走れるんだろう。あと何回、学校や部活で顔を合わせた時に「名前」と優しい笑顔で名前を呼んでくれるんだろう。引退したら部活に顔を出さなくなって、卒業したら遠くに行ってしまう。
バシさんは私が急にわんわん泣き出したので、困惑した様子で「おい」と言った。私は無視してシクシク泣いた。私だって「あと1年」なんていうのは無理だとわかっている。留年したってインターハイには出られないし、先輩には先輩の人生があり、選択があるはずだ。
「もう1年ってお前な……泉田さんが困ってるだろ!」
「さすがにハコガクの主将を2年は耐えられないかな」
久しぶりに聞くその声のトーン、私はTシャツから手を離し、呆然とその人を見た。役目を終えたことをいやでもわからせるような、表情、声、その変化。
「や、やだ……」
バシさんが至極軽く私の背中を叩く。その拍子に大粒の涙が転がり落ちた。振り返って見上げた顔は、真夏の太陽光が上から刺しているせいで翳っている。それでもわかる、その表情はきつく歯を食いしばっている。いつも以上に視線がギラギラ光っているのは、なぜか。泣きたいのは、私だけじゃない。
表彰式の後、方々への挨拶を終えて撤収の時になってもバシさんは泣かなかった。帰りのバスでも隣の席はずっと静かだった。もしかしたらずっと我慢していたのかもしれない。
「だって、やだ……!やなんだもん……!!」
「わがまま言うな!」
厳しい口調で叱責されても、私は止まる気にはならなかった。バシさんは明日からの自分の役目をわかって、もう受け入れてる。泉田さんから何を託されて受け継いだのか、わかって受け入れてる。そうだよね、バシさんならわかるよね。この人がもう、キャプテンの荷を降ろしててしまったこと。
「ずっとハコガクで走ってくださいよ……」
この人がどんな覚悟で、この1年戦ってきたのか。その全てでなくても少しは知っているつもりだ。だから「もう1年」なんて叶わないと頭ではわかってるのに、わがままを言わずにいられない。バシさんが堪えてるのは涙か、わがままか、私だけワンワン泣いてずるいと思っているかもしれない。
バシさんも泉田さんも何も言わず、私はどうにもならない引退と卒業の未来を思って、蹲って泣いた。ふたりとも、覚悟の決まっていないマネージャーに呆れているのかもしれない。自転車に「乗らない」私は、引退して卒業してしまったら、そこで終わってしまう。何がって、関係性が。
バシさんや泉田さんは自転車に乗る人だ。自転車に乗る人の縁は自転車に乗り続ける限り、続いていく。道の上で築かれた友情の篤さを、絆の堅さを、引き合う運命の強さを、これまでの日々を通じて私は知っている。でも私は。私は選手じゃなくて、自転車に乗ることを選ばなくて、だから……本当の意味で自転車に乗る人の痛みを苦しみをその喜びを私は知らない。乗る人と乗らない人の間に、確かな隔たりがあることを今年のインターハイで改めて思い知った。
頭上に影がさして、私はのろのろと顔を上げる。笑っていた。初めてこの人を認識した時の、あの楽しそうに走る姿が忘れられない。隼人くんを慕って、追って、追って、走ったあの頃みたいな顔をしていた。それと同時にこの1年背負ったものの重さと努力の気配を纏っている。
「明日からは許されないよ。君たちは王者箱根学園の幹部学年になるんだからね」
私たちは言葉もなくその人を見た。バシさんが喉を鳴らす音だけがした。
憑き物が落ちたようだ。重荷を降ろして晴れやかですらある。本当に、夏が、インターハイが終わってしまったのだと、私たちは実感せざるを得ない。この人が何のために己を律し、己の信条に従い、走ってきたのか。その答え合わせをされたような。
本当に、終わっちゃった。代替わりしたって、もうしばらくはレースに出たり部活に顔出してくれるってわかっているけど。私がまたボロボロ泣いて、今度はバシさんも咎めなかった。代わりに不規則に息を吸って吐く呼吸音だけがした。泉田さんは何にも言わない私たちを見て、仕方ないなという風に苦笑して手招き。
「そんな風に泣いていいのは今日まで。満足するまで好きなだけ泣くといい。今日だけはボクが許そう」
夏はまだ真っ盛りで、建物の影とはいえ立っているだけで汗が吹き出る暑さだった。私たちの夏はもう数日前に終わってしまった。明日から次に向かって……今度こそ総合優勝を獲るために歩き出さなくちゃいけないのは、私もバシさんもわかっていた。今日だけは先輩の優しい言葉に甘えることにして、私たちはしばらくその場に留まった。
