去る春、君の声だけが在る2
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最近フラフラしているなとは思っていた。誰って、名前のことだ。春が来て、各校の新体制に目を輝かせ、ビデオや過去の戦績を見るのに夢中になっているらしい。それからSNSでの情報収集も欠かさない。SNSに詳しいメカニックを中心に部のSNSは運用されているが、名前もそれを任されるようになって「私が守ってあげなくちゃ……」と使命感に燃えている。誰を、何から守るのかは不明だが。「夢中になるのもいいけど程々にしろよ」というユキの指摘は聞いているんだか、いないんだか。
そうして楽しそうにしている名前の姿、かつて荒北さんが「ニコニコフワフワ」と表現したのはなるほどその通りで、軽い足取りでそこらじゅうパタパタ走り回っているところを見ると、納得してしまう説得力がある。
今日も部室に向かう途中、名前は「ニコニコフワフワ」していた。昇降口で靴を履き替える名前を見かけて、声をかけたら嬉しそうに走り寄ってきて、話題は近頃トレーニング指針を変えて調子が上がった新2年生のこと。苦楽を共にした同級生の成長、躍進はやはり嬉しいものだろう。部としても選手層の厚みは武器であり、戦力の拡充は素直に喜ばしい。名前のいつも軽い足取りが、少し遅れる。一度言葉を切って、その続きを尋ねようと名前を見る。名前が話す度、短くしてしまった髪は軽やかに揺れて……そしていつもなら紅潮する頬は今日は血の気が引いて真っ白だった。去年の夏以降名前は練習にもついてくるようになり、時折休憩地点で見失うと、いつも立ったまま日焼け止めを塗っている。夏も冬も白い肌はそうやって保たれている。それとは違う、血の気の失せた顔色。気にしてみれば、声もいつもより小さいというか……名前の体調不良はいつも突然だ。合宿の夜、追い出しレースの後、気がついた時にはいつも遅い。
「名前?」
「……どうかしましたか?」
「どうかしたのは君の方だろう」
「え、と……すみません」
「具合が悪い?」
「あの、大丈夫なので先行って……」
手の甲で日差しを遮るような仕草、正面から向き合えば、体調が悪いのは一目瞭然だった。唇が震え、不快な感覚を打ち消すように指先がこめかみに添えられ、ぎゅっと目を瞑る。
「名前」
「えと、その、ちょっと気持ち悪いというか、視界が悪くて……」
「視界」
「砂嵐でよく見えてないっていうか」
「は?」
「大丈夫です、すぐ復活するので」
「大丈夫って」
名前は距離を取ろうとフラフラと二、三歩蹈鞴を踏み、そしてかくんと糸が切れたようにそのまま膝から力が抜けた。慌てて体を支えたが、名前は「すみません……」と唸ったきり目も開けない。体に触れたのもこんなに近くで顔を見たのも初めてで、何もかもが小さくて細くて頼りない、力の抜けた体。血の気の引いた顔。閉じた瞼がぴくりと痙攣した。
「名前」
「も、やだ……なんで今なの……」
「どうしたらいい?保健室?」
「ごめんなさい、全然大したことないんです、ただの貧血……」
「貧血?」
地面に座らせて、そのまま体を抱え起こす。信じられないほど長袖の下の手首が冷え切っている。なのに首筋を汗がつたう。掠れた声、唇は色を失っている。血の気のない頬。見慣れた元気いっぱいの笑顔からかけ離れた、苦悶の表情は初めて見た。
「すみません、すぐ……」
「無理に動かなくていい、落ち着いたら部室に」
「あの、大丈夫です、すぐ復活するから、先行ってほしくて」
「は?この状態で放っておけるわけ……」
何が大丈夫だ。こんな……死にかけの顔色で。冷え切ったからだ、息は荒く、ボクを押しのけようとする腕の力も弱い。なにが大丈夫か。感じたのは、心配と同じくらいの怒りだった。
「このままここで蹲って、誰かが通りかかるのを待つつもりかい」
病人にかけるべきでない冷え切った声だった。名前は「ほんとに、大丈夫ですから」と繰り返すばかり。
「名前」
視線がかち合う。違う、先程砂嵐と言った通り恐らく名前はこちらが見えていなかった。きっとこの辺りだろうと見当をつけてぼんやりと見上げているだけ。ボクを見ているのに、見えていない。叱ろうとして、言葉に詰まる。名前の目から大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。強く叱った覚えはない。なんで、泣いて。
「お前ら何……ってまじで何やってんだ!?」
ユキの大声で我に帰る。自力ではどうにもできない状況で、救世主のように思えた。ひと足先に部室で着替え終えたのだろうユキはジャージ姿だった。ユキは靴を履くのもそこそこにこちらに駆け寄り、背中に引っ掛けていたタオルを引っ張り出して名前の汗を拭い、そのまま頭にかけてやった。名前の頭のてっぺんに手のひらを当てて、思った程熱くなかったからか首を傾げる。
「熱中症か?」
「ひ、んけつ」
「は?どうせ昨日寝てないとかだろ」
「う……寝ました」
「寝るギリギリまでスマホいじって日付変わってから寝たのはちゃんと寝たって言わねーんだよ」
「すごい、黒田さんなんでわかるの……」
「フツーにわかるわ!こんなとこでひっくり返ってないで一旦部室行くぞ」
「はい……」
「塔一郎」
「ああ」
ユキの視線は全く冷静で冷えきっていた。悪い意味でなく、1ミリの動揺もない。頼もしい幼馴染だ。ユキがお前が背負ってやれと言葉もなく顎で名前を指し示す。
「名前」
「っ本当にごめんなさい……」
「謝罪は元気になってから聞こう」
顔色の悪いままの名前を背負うため、その両腕を己の肩に回す。知らず詰めていた息を吐き出した。本当にいらいらする。何をされるか理解した名前が精一杯抵抗したが、それは随分弱々しく、ボクの前では抵抗にすらならなかった。鍛え抜いたこの体を持ってすれば、彼女が何をしたって……どんなに激しく抵抗しようと容易くねじ伏せられるだろう。いつもはそんなこと思わないのに、今日だけはそういう気分だった。
「ま、待ってください」
「待たないよ」
「自分で歩けます」
「馬鹿言うな、ゾンビより酷い顔してるくせに」
「ゾンビって酷い……」
「部室着いたら鏡見せてやるよ」
「う……」
ユキが名前が言い募るのをあっさりねじ伏せ、ようやく観念したのか名前の体重が背中にかかる。名前が顔を伏せて肩に息が掛かる。つらそうに息を吐くのは見ていられないから、これでよかったのだと言い聞かせる。スカートが捲れないように注意して、太ももの裏に手を回す。視界の端、手のやり場に困ったのだろう名前が自分の右手首を左手で握ったのを見た。
「……重くてすみません」
立ち上がる拍子に声をかけられ反応が遅れた。重くて、すみません。とは。
「何言ってんだ、負荷にもなんねーよ。塔一郎がいつも何キロ設定でやってるか見てんだろ」
代わりにユキが即座に返事をする。不機嫌そうに「ほらさっさと行くぞ」と続けて。名前が「ふふ」と息を漏らす。ああそういう話か。何か言おうとして。
「塔一郎」
口を開く前にユキに止められたのは、多分、感謝するべきだった。視線がぶつかる。名前が見ていないのをいいことに、ユキは怖い顔をしていた。ユキはボクたちが放り出したカバンを拾う。自分がどんな顔をしていたか知る由もないが、同じように“それ“が表情に出てたのなら、多分名前の憧れるかっこいい先輩失格だった。名前に見られなくてよかったと思う。ふたりの間のアイコンタクトなどなかったかのように、ユキは名前に説教を始める。自分の役目ではないとわかっているから、ボクは黙って足を進める。
「これから気温も上がる。その辺でぶっ倒れても今日みたいにすぐ助けてやれるとは限らない。体調だけは今まで以上に気をつけろよ」
「……」
名前は返事をしない。不満そうな雰囲気を察したユキは語調を強める。
「おい、今更男女の違いがどうのこうの言わせる気か?お前はオレたちみたいに頑丈にできてない。同じようにはいかないんだよ」
「……はい」
「心配してんの、わかるな?もしインハイでスタート前にお前が倒れたりしたら、部員は安心して走れない。自覚しろよ」
「そんなこと、」
「今の塔一郎の顔見て同じこと言えるんなら、オレも今の発言撤回してやるよ」
「う」
名前の体がぴくりと震える。ああ、余計なことを。そんなこと態々言わなくていいのに。睨みつけてもユキは全く堪えていない。
「……すみませんでした。気をつけます」
「最初からそう言ってんだろ。ったく、どいつもこいつも無駄に意地はりやがって……」
力なく謝罪する声、震える喉、触れ合う体は残酷にも全て伝えてくる。それでも慰めの言葉は出てこない。ユキは必要なだけの罪悪感を与えて反省させた。拓斗だったら謝罪の時点で頭を撫でて許してやるだろう。ボクは、何も行動を起こすつもりはなかった。
部室に向かう足取りは人ひとり背負っていても、いつもと変わらない。名前が気にする体重は本当に、負荷にすらならなかった。この歩みを止める枷にすらならない。その程度だ。好きな女の子に向ける言葉として間違っているのはわかっているが、名前の存在はその程度でしかない。
「塔一郎、お前から言っとくことあるか?」
先を歩くユキがこちらを振り返る。睨め付ける視線、その瞳の奥は冷え切って冷静そのものだった。本当にユキの冷静さにはいつも救われる。それと同時に己の愚かさを突きつけられるようでもある。視線を伏せる。そう。本当に、愚かだ。
「十分だよ、ユキ。名前もこれに懲りたら、無理な情報収集はやめるように」
「はい」
多分、ボクは名前の笑った顔が見たいんだと思った。この子が好きで、この子の笑った顔が見たい。これまで突き放し、遠ざけた日々は全くの無意味だったと今更気づく。立場が邪魔だ。それでも与えられ、自分で選んだ立場だから放棄することは許されない。
今更、キャプテンにならなければよかったとは思わない。拓斗の言葉を聞いた日から、ボクは正しくその責を……罪の重さを受け入れた。秋から貫いた「この姿勢」は、箱根学園の勝利のために、彼女が憧れる自分であるために、必要なことだった。しかしいずれ訪れる夏までの期限付きの立場であっても、未熟な己にとって手に負えない感情はひどく煩わしくもどかしい。手放すべきだったのだ。実らない感情、成就しない恋など、勝利のためには不要なものだ。あれもこれも器用に熟せる性質でないことは自分がいちばんわかっている。持て余している。きっとこれが己に課された罪の重さなのだろうと、重石にするには軽すぎる名前を背負ってボクは改めて思い知った。
「部室で休んだら、今日は寮に戻れよ」
「大丈夫です、5分休めば回復しますから」
「このバカ、説教が足りなかったみたいだな?」
ユキが低く作った声音で名前を叱る。背中に触れた体温は触れ合う面積の分だけ熱く、籠って、苛立ちを誘う。恋とはもっと楽しいものだと思っていた。実際は煩わしく、しかし同時に離し難く他の誰かに譲る気にもならない。己の未熟さを思ってため息を吐くと、怒らせたと思ったのか名前がびくりと体を震わせる。
「ごめんなさい……」
「……謝らなくていいから。頼むから、こんなこと二度と無いようにしてくれ」
「はい……」
こんなこと。君が力なく倒れ伏して、視線も合わないようなこと。苦しいのに自分が何もしてやれない無力を味わうようなこと。名前が甘えるように額をボクの肩に擦り付ける。何もしてないのに、首の後ろがチリチリする。ああ、本当に煩わしい。手放すべき感情だ、喜んでいる場合じゃない。今は、今為すべきことは、練習を重ねペダルを回し1秒でも速く走ること。キャプテンとしてエーススプリンターとして、チームを総合優勝へと導くこと。だからこんなことに拘 っている暇はない。
きっとこの先の未来、この日々を振り返っても後悔ばかりだ。何もかも、正しい道を歩んできたと自信を持って誇れはしない。彼女にかぎっては、もっと早くに手放してやるべきだった。突き放すならもっとハッキリと、この手の内に留めておくならもっと優しく甘やかして。それでも何度岐路に立とうとも、ボクは同じ選択を選び続ける。これこそが、箱根学園の主将として正しい選択だと信じて。まだ夏も迎えていないというのに、ボクは未来のことばかり考えている。それを名前の体温が、息が、匂いが、現実に引きずり戻す。
「つーか部のインスタこそこそ更新すんのやめろ!選手にもやらせろ!」
「ダメです、ほんとに……あれは選手の関わっていいものじゃないんですって……」
「はあ?」
ふたりのやり取りを聞き流し、息を吸って吐く。全身に酸素の行き渡る擬似的な感覚。こんなにも迷っているのは自分だけで、全身の筋肉は頼もしく落ち着き払って、今か今かと勝負の時を待っている。ボクは何を焦っていたのだろう。
(そうだね、今は……)
語りかければ全身の筋肉が呼応する。ボクの為すべきことを。体を鍛え、ペダルを回し、箱根学園に再び勝利を。ボクに今できることはそれだけだ。
そうして楽しそうにしている名前の姿、かつて荒北さんが「ニコニコフワフワ」と表現したのはなるほどその通りで、軽い足取りでそこらじゅうパタパタ走り回っているところを見ると、納得してしまう説得力がある。
今日も部室に向かう途中、名前は「ニコニコフワフワ」していた。昇降口で靴を履き替える名前を見かけて、声をかけたら嬉しそうに走り寄ってきて、話題は近頃トレーニング指針を変えて調子が上がった新2年生のこと。苦楽を共にした同級生の成長、躍進はやはり嬉しいものだろう。部としても選手層の厚みは武器であり、戦力の拡充は素直に喜ばしい。名前のいつも軽い足取りが、少し遅れる。一度言葉を切って、その続きを尋ねようと名前を見る。名前が話す度、短くしてしまった髪は軽やかに揺れて……そしていつもなら紅潮する頬は今日は血の気が引いて真っ白だった。去年の夏以降名前は練習にもついてくるようになり、時折休憩地点で見失うと、いつも立ったまま日焼け止めを塗っている。夏も冬も白い肌はそうやって保たれている。それとは違う、血の気の失せた顔色。気にしてみれば、声もいつもより小さいというか……名前の体調不良はいつも突然だ。合宿の夜、追い出しレースの後、気がついた時にはいつも遅い。
「名前?」
「……どうかしましたか?」
「どうかしたのは君の方だろう」
「え、と……すみません」
「具合が悪い?」
「あの、大丈夫なので先行って……」
手の甲で日差しを遮るような仕草、正面から向き合えば、体調が悪いのは一目瞭然だった。唇が震え、不快な感覚を打ち消すように指先がこめかみに添えられ、ぎゅっと目を瞑る。
「名前」
「えと、その、ちょっと気持ち悪いというか、視界が悪くて……」
「視界」
「砂嵐でよく見えてないっていうか」
「は?」
「大丈夫です、すぐ復活するので」
「大丈夫って」
名前は距離を取ろうとフラフラと二、三歩蹈鞴を踏み、そしてかくんと糸が切れたようにそのまま膝から力が抜けた。慌てて体を支えたが、名前は「すみません……」と唸ったきり目も開けない。体に触れたのもこんなに近くで顔を見たのも初めてで、何もかもが小さくて細くて頼りない、力の抜けた体。血の気の引いた顔。閉じた瞼がぴくりと痙攣した。
「名前」
「も、やだ……なんで今なの……」
「どうしたらいい?保健室?」
「ごめんなさい、全然大したことないんです、ただの貧血……」
「貧血?」
地面に座らせて、そのまま体を抱え起こす。信じられないほど長袖の下の手首が冷え切っている。なのに首筋を汗がつたう。掠れた声、唇は色を失っている。血の気のない頬。見慣れた元気いっぱいの笑顔からかけ離れた、苦悶の表情は初めて見た。
「すみません、すぐ……」
「無理に動かなくていい、落ち着いたら部室に」
「あの、大丈夫です、すぐ復活するから、先行ってほしくて」
「は?この状態で放っておけるわけ……」
何が大丈夫だ。こんな……死にかけの顔色で。冷え切ったからだ、息は荒く、ボクを押しのけようとする腕の力も弱い。なにが大丈夫か。感じたのは、心配と同じくらいの怒りだった。
「このままここで蹲って、誰かが通りかかるのを待つつもりかい」
病人にかけるべきでない冷え切った声だった。名前は「ほんとに、大丈夫ですから」と繰り返すばかり。
「名前」
視線がかち合う。違う、先程砂嵐と言った通り恐らく名前はこちらが見えていなかった。きっとこの辺りだろうと見当をつけてぼんやりと見上げているだけ。ボクを見ているのに、見えていない。叱ろうとして、言葉に詰まる。名前の目から大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。強く叱った覚えはない。なんで、泣いて。
「お前ら何……ってまじで何やってんだ!?」
ユキの大声で我に帰る。自力ではどうにもできない状況で、救世主のように思えた。ひと足先に部室で着替え終えたのだろうユキはジャージ姿だった。ユキは靴を履くのもそこそこにこちらに駆け寄り、背中に引っ掛けていたタオルを引っ張り出して名前の汗を拭い、そのまま頭にかけてやった。名前の頭のてっぺんに手のひらを当てて、思った程熱くなかったからか首を傾げる。
「熱中症か?」
「ひ、んけつ」
「は?どうせ昨日寝てないとかだろ」
「う……寝ました」
「寝るギリギリまでスマホいじって日付変わってから寝たのはちゃんと寝たって言わねーんだよ」
「すごい、黒田さんなんでわかるの……」
「フツーにわかるわ!こんなとこでひっくり返ってないで一旦部室行くぞ」
「はい……」
「塔一郎」
「ああ」
ユキの視線は全く冷静で冷えきっていた。悪い意味でなく、1ミリの動揺もない。頼もしい幼馴染だ。ユキがお前が背負ってやれと言葉もなく顎で名前を指し示す。
「名前」
「っ本当にごめんなさい……」
「謝罪は元気になってから聞こう」
顔色の悪いままの名前を背負うため、その両腕を己の肩に回す。知らず詰めていた息を吐き出した。本当にいらいらする。何をされるか理解した名前が精一杯抵抗したが、それは随分弱々しく、ボクの前では抵抗にすらならなかった。鍛え抜いたこの体を持ってすれば、彼女が何をしたって……どんなに激しく抵抗しようと容易くねじ伏せられるだろう。いつもはそんなこと思わないのに、今日だけはそういう気分だった。
「ま、待ってください」
「待たないよ」
「自分で歩けます」
「馬鹿言うな、ゾンビより酷い顔してるくせに」
「ゾンビって酷い……」
「部室着いたら鏡見せてやるよ」
「う……」
ユキが名前が言い募るのをあっさりねじ伏せ、ようやく観念したのか名前の体重が背中にかかる。名前が顔を伏せて肩に息が掛かる。つらそうに息を吐くのは見ていられないから、これでよかったのだと言い聞かせる。スカートが捲れないように注意して、太ももの裏に手を回す。視界の端、手のやり場に困ったのだろう名前が自分の右手首を左手で握ったのを見た。
「……重くてすみません」
立ち上がる拍子に声をかけられ反応が遅れた。重くて、すみません。とは。
「何言ってんだ、負荷にもなんねーよ。塔一郎がいつも何キロ設定でやってるか見てんだろ」
代わりにユキが即座に返事をする。不機嫌そうに「ほらさっさと行くぞ」と続けて。名前が「ふふ」と息を漏らす。ああそういう話か。何か言おうとして。
「塔一郎」
口を開く前にユキに止められたのは、多分、感謝するべきだった。視線がぶつかる。名前が見ていないのをいいことに、ユキは怖い顔をしていた。ユキはボクたちが放り出したカバンを拾う。自分がどんな顔をしていたか知る由もないが、同じように“それ“が表情に出てたのなら、多分名前の憧れるかっこいい先輩失格だった。名前に見られなくてよかったと思う。ふたりの間のアイコンタクトなどなかったかのように、ユキは名前に説教を始める。自分の役目ではないとわかっているから、ボクは黙って足を進める。
「これから気温も上がる。その辺でぶっ倒れても今日みたいにすぐ助けてやれるとは限らない。体調だけは今まで以上に気をつけろよ」
「……」
名前は返事をしない。不満そうな雰囲気を察したユキは語調を強める。
「おい、今更男女の違いがどうのこうの言わせる気か?お前はオレたちみたいに頑丈にできてない。同じようにはいかないんだよ」
「……はい」
「心配してんの、わかるな?もしインハイでスタート前にお前が倒れたりしたら、部員は安心して走れない。自覚しろよ」
「そんなこと、」
「今の塔一郎の顔見て同じこと言えるんなら、オレも今の発言撤回してやるよ」
「う」
名前の体がぴくりと震える。ああ、余計なことを。そんなこと態々言わなくていいのに。睨みつけてもユキは全く堪えていない。
「……すみませんでした。気をつけます」
「最初からそう言ってんだろ。ったく、どいつもこいつも無駄に意地はりやがって……」
力なく謝罪する声、震える喉、触れ合う体は残酷にも全て伝えてくる。それでも慰めの言葉は出てこない。ユキは必要なだけの罪悪感を与えて反省させた。拓斗だったら謝罪の時点で頭を撫でて許してやるだろう。ボクは、何も行動を起こすつもりはなかった。
部室に向かう足取りは人ひとり背負っていても、いつもと変わらない。名前が気にする体重は本当に、負荷にすらならなかった。この歩みを止める枷にすらならない。その程度だ。好きな女の子に向ける言葉として間違っているのはわかっているが、名前の存在はその程度でしかない。
「塔一郎、お前から言っとくことあるか?」
先を歩くユキがこちらを振り返る。睨め付ける視線、その瞳の奥は冷え切って冷静そのものだった。本当にユキの冷静さにはいつも救われる。それと同時に己の愚かさを突きつけられるようでもある。視線を伏せる。そう。本当に、愚かだ。
「十分だよ、ユキ。名前もこれに懲りたら、無理な情報収集はやめるように」
「はい」
多分、ボクは名前の笑った顔が見たいんだと思った。この子が好きで、この子の笑った顔が見たい。これまで突き放し、遠ざけた日々は全くの無意味だったと今更気づく。立場が邪魔だ。それでも与えられ、自分で選んだ立場だから放棄することは許されない。
今更、キャプテンにならなければよかったとは思わない。拓斗の言葉を聞いた日から、ボクは正しくその責を……罪の重さを受け入れた。秋から貫いた「この姿勢」は、箱根学園の勝利のために、彼女が憧れる自分であるために、必要なことだった。しかしいずれ訪れる夏までの期限付きの立場であっても、未熟な己にとって手に負えない感情はひどく煩わしくもどかしい。手放すべきだったのだ。実らない感情、成就しない恋など、勝利のためには不要なものだ。あれもこれも器用に熟せる性質でないことは自分がいちばんわかっている。持て余している。きっとこれが己に課された罪の重さなのだろうと、重石にするには軽すぎる名前を背負ってボクは改めて思い知った。
「部室で休んだら、今日は寮に戻れよ」
「大丈夫です、5分休めば回復しますから」
「このバカ、説教が足りなかったみたいだな?」
ユキが低く作った声音で名前を叱る。背中に触れた体温は触れ合う面積の分だけ熱く、籠って、苛立ちを誘う。恋とはもっと楽しいものだと思っていた。実際は煩わしく、しかし同時に離し難く他の誰かに譲る気にもならない。己の未熟さを思ってため息を吐くと、怒らせたと思ったのか名前がびくりと体を震わせる。
「ごめんなさい……」
「……謝らなくていいから。頼むから、こんなこと二度と無いようにしてくれ」
「はい……」
こんなこと。君が力なく倒れ伏して、視線も合わないようなこと。苦しいのに自分が何もしてやれない無力を味わうようなこと。名前が甘えるように額をボクの肩に擦り付ける。何もしてないのに、首の後ろがチリチリする。ああ、本当に煩わしい。手放すべき感情だ、喜んでいる場合じゃない。今は、今為すべきことは、練習を重ねペダルを回し1秒でも速く走ること。キャプテンとしてエーススプリンターとして、チームを総合優勝へと導くこと。だからこんなことに
きっとこの先の未来、この日々を振り返っても後悔ばかりだ。何もかも、正しい道を歩んできたと自信を持って誇れはしない。彼女にかぎっては、もっと早くに手放してやるべきだった。突き放すならもっとハッキリと、この手の内に留めておくならもっと優しく甘やかして。それでも何度岐路に立とうとも、ボクは同じ選択を選び続ける。これこそが、箱根学園の主将として正しい選択だと信じて。まだ夏も迎えていないというのに、ボクは未来のことばかり考えている。それを名前の体温が、息が、匂いが、現実に引きずり戻す。
「つーか部のインスタこそこそ更新すんのやめろ!選手にもやらせろ!」
「ダメです、ほんとに……あれは選手の関わっていいものじゃないんですって……」
「はあ?」
ふたりのやり取りを聞き流し、息を吸って吐く。全身に酸素の行き渡る擬似的な感覚。こんなにも迷っているのは自分だけで、全身の筋肉は頼もしく落ち着き払って、今か今かと勝負の時を待っている。ボクは何を焦っていたのだろう。
(そうだね、今は……)
語りかければ全身の筋肉が呼応する。ボクの為すべきことを。体を鍛え、ペダルを回し、箱根学園に再び勝利を。ボクに今できることはそれだけだ。
