去る春、君の声だけが在るIF
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「今年の誕生日プレゼント、何がほしい?」
「えー、なんでもいい」
私の誕生日の翌月、真波が誕生日を迎える。お金も時間もない寮暮らしの高校生、お誕生日祝いには毎年頭を悩ませている。寮に入ってると当日にお家の人から直接祝ってもらうことが難しいし、何かしたいなって気持ちがあって……去年は先輩たちにケーキを焼いたり同期と小田原まで行ってドーナツ食べたりアイス食べたりしたけど、今年はどうしよう。そう思って真波に聞いたらこの反応。こいつはそういうやつだった。
「この辺か小田原辺りで調達できそうな何かとなると……」
「ラーメンでいいだろ」
「名前はラーメンで嬉しかったけど!別にラーメンに拘らなくてもいいのよ!さあバシさんもリクエストどうぞ!」
「リクエスト……」
「あ、オレあれがいいな。お手伝い券」
「お手伝い券?」
レイさんがぴくりと眉を跳ね上げる。嫌な予感がしたのかもしれない。真波は2年の時より苦労なく3年に進級できたが、この後大学入試が控えている。レイさんは業務遂行意識が高いから、もしかしたらお手伝い券1枚で「志望校に合格できるよう『お手伝い』お願いします」とかいうような無茶ぶりだって叶えてくれるかもしれない。でもまあ、みんな優秀なレイさんはともかく、私には無茶ぶりしてこないだろうし……
「まあ、無理のない範囲のお願い事でよろしくね」
「やった」
そもそもマネージャー業も3年目だから、ある意味部員の頼み事には慣れている。私はお気に入りのポムポムプリンのメモ帳を1枚千切って、ペンを拾う。
「えーっと『なんでも言うこと聞く券』でいいんだっけ?」
「だから『なんでも』はやめておけ。『良識の範囲内で』とかにして、期限もきちんと設けてだな……」
「高田城 くん顔怖ー」
「レイさん楽しそうね」
「これが楽しそうに見えるか?」
「あはは……名前も誕生日プレゼントにお手伝い券お願いすればよかったな〜」
思わずそう漏らす(だってなんかワクワクしない?)と、話を聞いてたバシさんが黙って生徒手帳のメモを1枚千切った。そのまま胸ポケットからペンを取り「お手伝い券」「一回」「苗字名前のみ卒業まで有効」と書いた。
「これでいいな?」
バシさんが唸る。え、怖。
「でも私誕生日にラーメン奢ってもらったし」
「黙ってもらっとけ」
「はい」
バシさんの顔も声もすごく怖かったので、私は大人しく頷いておいた。レイさんも真波も生徒手帳のメモを千切る。そうして私は3人にポムポムプリン柄の「なんでも言うこと聞く券」をそれぞれ1枚ずつ発行し、それと引き換えに当代ハコガクスリートップから「お手伝い券」「お手伝い券 但し良識の範囲内に限る」「なんでもお願い聞く券」を手に入れたのだ。
卒業までの11ヶ月で私はそれらを消費した。もちろん私の方もバシさんとレイさんがその券を使った時にはちゃんと役目を果たした。しかし発案者の真波だけはなんだかんだ卒業まで使わなくて。肝心な時に真波が券を持っていなかったり、私も少しの頼み事なら券がなくたってやるし……結局卒業するまで出番がなかった。レイさんが「だから使用期限を決めておけと……」と渋い顔をしたのを覚えている。
そして、あの日から何年かが経ち、まだ寒さの残る春先のこと。私のアパートの部屋に真波が帰ってきて、コートも靴も脱がず、ただいまの後のひとことめ。
「……オレと結婚して」
私は真波山岳にプロポーズをされた。高校生の頃とは違い、私たちは恋人同士で。何より冗談や揶揄いの類いでないことは、その目を見ればわかる。
私は即答しなかった。一瞬迷った。各地を転戦する真波の生活、私の仕事はリモートワークが難しいこと、好調な真波の成績のこと、私が今の仕事と職場を気に入っていること、真波がいつまで現役選手として走り続けるのかということ……いくつかの現実的な懸念が頭を過った。
真波のことは好き。これは迷いなく言える。ただ、暮らしが変わるのが怖いだけ。
真波山岳がいつまで或いはどこまで走り続けるのか、その終着点は未だ見えない。昔はゴールの見えないそれに寄り添うことが恐ろしくて仕方なかったけど、今はそうでもない。だから、こんな大きな決断を即決していいのか……少し怖いだけ。
「えっと、返事の前にちょっと色々聞きたいんだけど」
「ダメだよ。名前には拒否権ないから」
「え?」
真波にしては珍しい強気の発言、そしてその目がきらっと光る。この目が好きだ。レース中はヘルメットの影でギラギラ光り、家に帰ってくれば穏やかに「ただいま」と私に笑いかける。
「これ見て」
真波が左手を突き出す。指輪ではない。私の趣味やこだわりを真波はよく知っているから自分で選ぶようなことはしない。その手に四つ折りの紙切れが乗っていた。ほとんど開きかけているそれを、私は覗き込む。中の絵も、字も見覚えがある。
「これ……」
ポムポムプリンの絵が描いてあるメモだった。私の字だ。高校生の頃、よく使っていた……
「なんでも言うこと聞く券、今使おうと思って」
「なんでも言うこと聞く券……」
「いいよね?」
一瞬で記憶が蘇る。期限は未来永劫に設定した。レイさんは「期限をハッキリ定めるべきだ」と主張したけど、まあまあって真波が言って、バシさんが嫌そうな顔をしたので、私がおもしろがって、そうした。あれは、高校3年の時同期にあげた誕生日プレゼントだ。そう、「苗字名前が真波山岳の言うことなんでも言う聞く券」。
真波が私にくれた「なんでもお願い聞く券」は発行されて割とすぐ、インハイの前に使ったのだった。「キャプテンの責務とは別に、クライマーの真波山岳として3日間自由に楽しく走ってほしい」とそう願った。真波は「わかった」と頷いた。忘れもしない3年目の、インターハイ。
あれから何年も経ち、私たちの関係性は変わった。ギクシャクしていたあの頃みたいに距離を測りかねて悩んだり、落ち込む背中に声をかけようとして諦めるようなことは、もうない。
そういえば真波はもらっておいて使わなかったんだっけ。私が……いや部員が皆真波を甘やかしていたから、あの券の出番はなかったのだ。でもあの日、真波は「なんでもお願い聞く券」の分、私の願い事を聞いてくれたから。私は頷く。なるべく軽く、呑気そうに。
「いいよ、この券まだ未使用だからね」
「うん」
真波はほっとしたみたいに息をついた。強張っていた表情がわずかに緩む。
「本当に結婚してくれるの」
「うん」
「自分で言うのもなんだけど……今の、ロマンチックじゃなかった自覚あるよ」
「ロマンチックにやりたかったの?」
「名前はロマンチックなのがいいんじゃないの?」
「私?私の希望を聞いてくれるつもりだったの」
「まあ、なるべく……?」
「歯切れ悪いな」
ロマンチックに……ディズニーランドとか?高級レストランとか?そりゃ高校生の頃は多少憧れたけど……実際は私の家の玄関だし、真波は帰宅したばかりでまだ靴もコートも脱いでいない。
「部屋戻ってさ、これ慌てて取ってきたんだ」
「部屋にあったの?」
「そうだよ。いつか出番が来るんじゃないかと思って、取っといて良かった」
「……あのね、一応言っとくと、それが無くてもちゃんとハイって返事したからね」
「わかってるよ」
真波は今一応部屋は借りてるけどほとんど私の家に入り浸ってる有様で、このメモだって、てっきり小田原の実家の……箱根学園の生徒手帳か何かに挟まれて埃をかぶっているんじゃないかと思ってた。なんなら今の今まで私は存在を忘れてた。
私は気になっていたこと……なんとなく予想がつくけど今日の外出先と、それから急にこんなことを言い出した理由を尋ねる。
「それで、今季のこと決まった?」
「うん。どうにかなったよ」
真波の進路決定は割といつも突然で、ギリギリで、慌ただしい。別に真波が常にギリギリで生きてるわけじゃなくて、自転車ってどうやら世界中でそういう業界風土らしい。若手が活躍の場を求めて短期間でチームを変えること自体珍しくないが、見ている側としてはかなりハラハラする。真波は今回シーズン開幕ギリギリになってもあれこれ忙しくしていて、次の所属チームすら私はまだ知らない。そして、今になって急に結婚の提案 を言い出したのだから、おそらくチームに残留せず新天地を選んだのだろう。私はもう完全に専門外というか部外者なので、真波が納得したならそれでいい。ネガティブな意味でなくどこでも好きなところに行けばいいと思っているし、自分の満足する走り・役割のためにチームを選ぶことは当然だと思っている。
「それで……えっと、ごめん。今季がどういうアレなのかは、まだ言えないんだけど……」
真波は気まずそうに視線を逸らす。「拠点の場所も、そのチームで何をやらされるのかも言えないけど、結婚はしたいです」というのが割と無茶な要求なのはさすがに理解しているらしい。私はその点不満はないので軽く頷く。
「私は真波がやりたいようにやるのがいいと思ってるよ。いつもね」
「うん」
「これからも私が近くで見てていいって真波が言うなら……見てたいなと思うよ。ご存知の通り、私には何もできないけど」
「何もできなくないよ。名前がここにいてくれるだけで、オレは頑張れるから」
「……うん」
私の納得してない返事を聞いて、真波がムッとした表情を作る。
「名前はさ、昔っから!ぜんっぜん!わかってくれないけど」
「はい」
「オレは本当にそう思ってるから」
「うん」
「本当だからね」
真剣にそう言われるのは恥ずかしく、むず痒く、返事の代わりに真波に抱きつく。やってることは恥ずかしいけど、顔が見えない分マシだ。真波の腕が背中に回って、私たちの距離はゼロになる。昔は色気も恋愛感情もない、アニマルセラピーみたいなものだと受け入れていたけど、今は事情が違うことを私は知っている。
「私だって」
「うん」
拗ねたような甘えたような声が出た。真波は揶揄ったりせず、優しい声で続きを促す。私を抱きしめる腕に力が込められて、真波が私を甘やかそうとしているのだとわかった。
「真波はわかってくれないけど……真波が好きなように走るのがいちばん大事なの。チームのことなんて気にしないで好き勝手走って、私のことなんて気にせずどこへでも行ってほしいと思ってる」
「うん」
「勿論ネガティブな意味じゃなくてだよ。真波に期待してないって意味でもないからね」
「うん、知ってる」
「真波が走ってない時ここにいてくれるだけでいいって、私本気でそう思ってる」
「うん」
「だから、結婚したら、ずっと……ずっと、一緒にいてくれるってことでいい?」
「当たり前でしょ。一生ってことだよ」
『ずっと一緒に』が朝から晩まで365日という意味じゃないことは伝わったらしい。私は、自転車が好きな真波山岳が好き。その真波が自転車に乗っていない時、そして遠い未来も一緒にいてくれるのなら、こんなに嬉しいことはないと思った。私が好きになったのは、あの白い自転車で坂を登って、一瞬で通り過ぎ、あっという間に遠ざかるあの背中だから。
「私ね、本当に……本当に、自転車が好きな真波山岳が好きなの。だから、すっごく嬉しいよ」
「……すごい殺し文句だね」
きっと私の本心は正しく伝わったのだと思う。真波は一層強く私を抱きしめる。「大好き」と呟く声は甘く、鼓動は大きく、こちらを見下ろす瞳は優しく融けている。私は結構疑り深い性格だけど、真波にこうされる度に「この人は私のことが好きなんだ」と納得させられる。真波にそういう愛情表現ができるなんて、思ってもいなかった。
そうして暖かい体に抱かれて、思い出すのはやっぱり高校生の頃の自転車に乗って走り去る後ろ姿だった。あの頃の私が知らなかった真波山岳を今の私は愛していて、真波の方もきっと同じように私を愛してくれている。
「えー、なんでもいい」
私の誕生日の翌月、真波が誕生日を迎える。お金も時間もない寮暮らしの高校生、お誕生日祝いには毎年頭を悩ませている。寮に入ってると当日にお家の人から直接祝ってもらうことが難しいし、何かしたいなって気持ちがあって……去年は先輩たちにケーキを焼いたり同期と小田原まで行ってドーナツ食べたりアイス食べたりしたけど、今年はどうしよう。そう思って真波に聞いたらこの反応。こいつはそういうやつだった。
「この辺か小田原辺りで調達できそうな何かとなると……」
「ラーメンでいいだろ」
「名前はラーメンで嬉しかったけど!別にラーメンに拘らなくてもいいのよ!さあバシさんもリクエストどうぞ!」
「リクエスト……」
「あ、オレあれがいいな。お手伝い券」
「お手伝い券?」
レイさんがぴくりと眉を跳ね上げる。嫌な予感がしたのかもしれない。真波は2年の時より苦労なく3年に進級できたが、この後大学入試が控えている。レイさんは業務遂行意識が高いから、もしかしたらお手伝い券1枚で「志望校に合格できるよう『お手伝い』お願いします」とかいうような無茶ぶりだって叶えてくれるかもしれない。でもまあ、みんな優秀なレイさんはともかく、私には無茶ぶりしてこないだろうし……
「まあ、無理のない範囲のお願い事でよろしくね」
「やった」
そもそもマネージャー業も3年目だから、ある意味部員の頼み事には慣れている。私はお気に入りのポムポムプリンのメモ帳を1枚千切って、ペンを拾う。
「えーっと『なんでも言うこと聞く券』でいいんだっけ?」
「だから『なんでも』はやめておけ。『良識の範囲内で』とかにして、期限もきちんと設けてだな……」
「
「レイさん楽しそうね」
「これが楽しそうに見えるか?」
「あはは……名前も誕生日プレゼントにお手伝い券お願いすればよかったな〜」
思わずそう漏らす(だってなんかワクワクしない?)と、話を聞いてたバシさんが黙って生徒手帳のメモを1枚千切った。そのまま胸ポケットからペンを取り「お手伝い券」「一回」「苗字名前のみ卒業まで有効」と書いた。
「これでいいな?」
バシさんが唸る。え、怖。
「でも私誕生日にラーメン奢ってもらったし」
「黙ってもらっとけ」
「はい」
バシさんの顔も声もすごく怖かったので、私は大人しく頷いておいた。レイさんも真波も生徒手帳のメモを千切る。そうして私は3人にポムポムプリン柄の「なんでも言うこと聞く券」をそれぞれ1枚ずつ発行し、それと引き換えに当代ハコガクスリートップから「お手伝い券」「お手伝い券 但し良識の範囲内に限る」「なんでもお願い聞く券」を手に入れたのだ。
卒業までの11ヶ月で私はそれらを消費した。もちろん私の方もバシさんとレイさんがその券を使った時にはちゃんと役目を果たした。しかし発案者の真波だけはなんだかんだ卒業まで使わなくて。肝心な時に真波が券を持っていなかったり、私も少しの頼み事なら券がなくたってやるし……結局卒業するまで出番がなかった。レイさんが「だから使用期限を決めておけと……」と渋い顔をしたのを覚えている。
そして、あの日から何年かが経ち、まだ寒さの残る春先のこと。私のアパートの部屋に真波が帰ってきて、コートも靴も脱がず、ただいまの後のひとことめ。
「……オレと結婚して」
私は真波山岳にプロポーズをされた。高校生の頃とは違い、私たちは恋人同士で。何より冗談や揶揄いの類いでないことは、その目を見ればわかる。
私は即答しなかった。一瞬迷った。各地を転戦する真波の生活、私の仕事はリモートワークが難しいこと、好調な真波の成績のこと、私が今の仕事と職場を気に入っていること、真波がいつまで現役選手として走り続けるのかということ……いくつかの現実的な懸念が頭を過った。
真波のことは好き。これは迷いなく言える。ただ、暮らしが変わるのが怖いだけ。
真波山岳がいつまで或いはどこまで走り続けるのか、その終着点は未だ見えない。昔はゴールの見えないそれに寄り添うことが恐ろしくて仕方なかったけど、今はそうでもない。だから、こんな大きな決断を即決していいのか……少し怖いだけ。
「えっと、返事の前にちょっと色々聞きたいんだけど」
「ダメだよ。名前には拒否権ないから」
「え?」
真波にしては珍しい強気の発言、そしてその目がきらっと光る。この目が好きだ。レース中はヘルメットの影でギラギラ光り、家に帰ってくれば穏やかに「ただいま」と私に笑いかける。
「これ見て」
真波が左手を突き出す。指輪ではない。私の趣味やこだわりを真波はよく知っているから自分で選ぶようなことはしない。その手に四つ折りの紙切れが乗っていた。ほとんど開きかけているそれを、私は覗き込む。中の絵も、字も見覚えがある。
「これ……」
ポムポムプリンの絵が描いてあるメモだった。私の字だ。高校生の頃、よく使っていた……
「なんでも言うこと聞く券、今使おうと思って」
「なんでも言うこと聞く券……」
「いいよね?」
一瞬で記憶が蘇る。期限は未来永劫に設定した。レイさんは「期限をハッキリ定めるべきだ」と主張したけど、まあまあって真波が言って、バシさんが嫌そうな顔をしたので、私がおもしろがって、そうした。あれは、高校3年の時同期にあげた誕生日プレゼントだ。そう、「苗字名前が真波山岳の言うことなんでも言う聞く券」。
真波が私にくれた「なんでもお願い聞く券」は発行されて割とすぐ、インハイの前に使ったのだった。「キャプテンの責務とは別に、クライマーの真波山岳として3日間自由に楽しく走ってほしい」とそう願った。真波は「わかった」と頷いた。忘れもしない3年目の、インターハイ。
あれから何年も経ち、私たちの関係性は変わった。ギクシャクしていたあの頃みたいに距離を測りかねて悩んだり、落ち込む背中に声をかけようとして諦めるようなことは、もうない。
そういえば真波はもらっておいて使わなかったんだっけ。私が……いや部員が皆真波を甘やかしていたから、あの券の出番はなかったのだ。でもあの日、真波は「なんでもお願い聞く券」の分、私の願い事を聞いてくれたから。私は頷く。なるべく軽く、呑気そうに。
「いいよ、この券まだ未使用だからね」
「うん」
真波はほっとしたみたいに息をついた。強張っていた表情がわずかに緩む。
「本当に結婚してくれるの」
「うん」
「自分で言うのもなんだけど……今の、ロマンチックじゃなかった自覚あるよ」
「ロマンチックにやりたかったの?」
「名前はロマンチックなのがいいんじゃないの?」
「私?私の希望を聞いてくれるつもりだったの」
「まあ、なるべく……?」
「歯切れ悪いな」
ロマンチックに……ディズニーランドとか?高級レストランとか?そりゃ高校生の頃は多少憧れたけど……実際は私の家の玄関だし、真波は帰宅したばかりでまだ靴もコートも脱いでいない。
「部屋戻ってさ、これ慌てて取ってきたんだ」
「部屋にあったの?」
「そうだよ。いつか出番が来るんじゃないかと思って、取っといて良かった」
「……あのね、一応言っとくと、それが無くてもちゃんとハイって返事したからね」
「わかってるよ」
真波は今一応部屋は借りてるけどほとんど私の家に入り浸ってる有様で、このメモだって、てっきり小田原の実家の……箱根学園の生徒手帳か何かに挟まれて埃をかぶっているんじゃないかと思ってた。なんなら今の今まで私は存在を忘れてた。
私は気になっていたこと……なんとなく予想がつくけど今日の外出先と、それから急にこんなことを言い出した理由を尋ねる。
「それで、今季のこと決まった?」
「うん。どうにかなったよ」
真波の進路決定は割といつも突然で、ギリギリで、慌ただしい。別に真波が常にギリギリで生きてるわけじゃなくて、自転車ってどうやら世界中でそういう業界風土らしい。若手が活躍の場を求めて短期間でチームを変えること自体珍しくないが、見ている側としてはかなりハラハラする。真波は今回シーズン開幕ギリギリになってもあれこれ忙しくしていて、次の所属チームすら私はまだ知らない。そして、今になって急に
「それで……えっと、ごめん。今季がどういうアレなのかは、まだ言えないんだけど……」
真波は気まずそうに視線を逸らす。「拠点の場所も、そのチームで何をやらされるのかも言えないけど、結婚はしたいです」というのが割と無茶な要求なのはさすがに理解しているらしい。私はその点不満はないので軽く頷く。
「私は真波がやりたいようにやるのがいいと思ってるよ。いつもね」
「うん」
「これからも私が近くで見てていいって真波が言うなら……見てたいなと思うよ。ご存知の通り、私には何もできないけど」
「何もできなくないよ。名前がここにいてくれるだけで、オレは頑張れるから」
「……うん」
私の納得してない返事を聞いて、真波がムッとした表情を作る。
「名前はさ、昔っから!ぜんっぜん!わかってくれないけど」
「はい」
「オレは本当にそう思ってるから」
「うん」
「本当だからね」
真剣にそう言われるのは恥ずかしく、むず痒く、返事の代わりに真波に抱きつく。やってることは恥ずかしいけど、顔が見えない分マシだ。真波の腕が背中に回って、私たちの距離はゼロになる。昔は色気も恋愛感情もない、アニマルセラピーみたいなものだと受け入れていたけど、今は事情が違うことを私は知っている。
「私だって」
「うん」
拗ねたような甘えたような声が出た。真波は揶揄ったりせず、優しい声で続きを促す。私を抱きしめる腕に力が込められて、真波が私を甘やかそうとしているのだとわかった。
「真波はわかってくれないけど……真波が好きなように走るのがいちばん大事なの。チームのことなんて気にしないで好き勝手走って、私のことなんて気にせずどこへでも行ってほしいと思ってる」
「うん」
「勿論ネガティブな意味じゃなくてだよ。真波に期待してないって意味でもないからね」
「うん、知ってる」
「真波が走ってない時ここにいてくれるだけでいいって、私本気でそう思ってる」
「うん」
「だから、結婚したら、ずっと……ずっと、一緒にいてくれるってことでいい?」
「当たり前でしょ。一生ってことだよ」
『ずっと一緒に』が朝から晩まで365日という意味じゃないことは伝わったらしい。私は、自転車が好きな真波山岳が好き。その真波が自転車に乗っていない時、そして遠い未来も一緒にいてくれるのなら、こんなに嬉しいことはないと思った。私が好きになったのは、あの白い自転車で坂を登って、一瞬で通り過ぎ、あっという間に遠ざかるあの背中だから。
「私ね、本当に……本当に、自転車が好きな真波山岳が好きなの。だから、すっごく嬉しいよ」
「……すごい殺し文句だね」
きっと私の本心は正しく伝わったのだと思う。真波は一層強く私を抱きしめる。「大好き」と呟く声は甘く、鼓動は大きく、こちらを見下ろす瞳は優しく融けている。私は結構疑り深い性格だけど、真波にこうされる度に「この人は私のことが好きなんだ」と納得させられる。真波にそういう愛情表現ができるなんて、思ってもいなかった。
そうして暖かい体に抱かれて、思い出すのはやっぱり高校生の頃の自転車に乗って走り去る後ろ姿だった。あの頃の私が知らなかった真波山岳を今の私は愛していて、真波の方もきっと同じように私を愛してくれている。
