去る春、君の声だけが在る2
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え?泉田さん、完走した?私の耳が正常なら、あの人は私の知らないところで3日目のスプリントも確定させたらしい。今日のはもう、バトルすらなく粛々と通過したらしいけど。だからその価値はさておき、私にとっては生存報告も同じ。
観戦客に「待ってください今の話本当ですか?」と駆け寄って話を聞きたかったが、嘘だと言われたら立ち直れないので、私は黙って見送った。
「名前」
背中に声がかかる。いつも私が恐れているこのトーンも今だけは、私を安心させた。この人が「箱根学園の泉田主将」として私に声をかける時、私はそれがこの人の覚悟と努力の表れだと思い知る。誇らしくて怖くて、それで、泣きたくなる。
「ここにいたのか」
振り返って、「ああ本当に終わったんだな」と思った。昨日や一昨日のゴール後はまだレース中の雰囲気を纏っていたけど、今はそれとははっきり違う。今年の、2年目のインターハイが終わった。泉田さんにとっては最後のインターハイだった。
泉田さん。なんで、ここに。いや、ゴールしたんだ。きっと。別にリタイアしててもここにいるのはおかしくないけど。
私が救護テントで聞いたのは、結局真波の結果だけ。その後ゴール地点に向けて移動してしまったから、それ以外の結果は人の噂で聞くばかり。虫食い状態で。それで、じゃあここにいるってことは。本当の、本当に……
なんて声をかけたらいいのかわからなくて、私はせめてマネージャーらしい態度を取り繕おうとした。
「ぬ、濡れてないですか?雨結構降ったでしょう、あ、着替えっ」
「問題ないよ。そっちの方こそ随分と降られたみたいだ。タオルは?」
「あ、と、ちょっと、現場でバタバタしまして、えっとタオル……」
「貸してごらん」
「い、いいです大丈夫です、カッパ着てたし、そんな濡れてないんです」
バタバタしていたのは事実だが、困る、別にこんな話がしたいのではない。私は。見届けられなかった。残り3キロ、名前を呼んで声援を送る役目を放棄して。真波と黒田さんを黙って見送った。だから、謝罪の言葉、違う。……違う。
「あ、あの、私……」
「わかってるよ」
背後で誰かの足音がした。その足音を聞いても私は目を逸さなかった。それどころではなかったから。私が今日、何をしていたか。持ち場を離れてまで誰に付き添ったのか。私が説明するまでもなく泉田さんは知っているようだった。この人に責められたら今度こそ恥も外聞もなく泣いてしまう。泉田さんも背後の足音を無視することにしたらしく、私を見た。逃げ場もなく、視線がかち合う。
全然控えテントに帰ってこない私を探しにきたのか、何してたんだって叱られるのかと、怖かったけど。でも、この目を見たらわかる。きっと満足したんだ。走って、3年間戦って、今日全ての力尽くして。その目を見たから、謝罪より先にかけるべき言葉が見つかった。頭を下げる。
「お疲れ様でした」
ゆっくり顔を上げる。声は震えなかった。だって、それ以外にかける言葉はない。
昨日の分の賞賛は昨日のうちに済んでいる。この1年、この人は賞賛を求めることをしなかったから。許されるなら、本当は、もっと。もっと……失礼な言い方かもしれないけど、褒めてあげたかった。
昨日の勝利だって、バシさんとふたりで大はしゃぎしたかったのに、しっかりと目で牽制されてしまって叶わなかった。私たちはあの視線にすごく弱い。今日はそういう咎めるような、牽制の眼差しはしていない。
泉田さんが口を開く。
「表彰台、1位以外はウチが独占状態だ。総北はリタイアも多かった」
「……はい」
「走り切ったよ、今年は」
静かに、平坦な声のトーンに一体どれだけのものが込められているんだろう。直接その口から告げられて、私は情けないことに涙が止まらなかった。泣かないって決めたのに。
溢れ出る涙の温度には辟易するし、すでに散々泣いた目元がひどく滲みるというのに、自分の意思ではどうにもならない。嬉しくて泣いてるんだか、感傷で泣いてるんだかわからないけど涙が止まらない。
「よかった……」
「うん」
やった、やったんだ。ちゃんとゴールしたんだ。見たか、ちゃんと史上初のスプリンター主将で、この人はちゃんと仕事して、ゴールまでして、ゼッケンも確定させた。1年前に散々文句言ったやつら、全員泉田さんに謝罪しろ、「オレが間違ってました」と言え。多分この人はそんなこと望んでいないので、そんな汚い言葉はかろうじて飲み込んで。私はポシェットから引っ張り出したタオルで涙を拭いた。折角時間をかけて冷やしたのに、多分もう意味ない。
「ゴール、見たかったな……」
自分で決めて救護テントに行ったんだから、仕方ないことなんだけど。どうしてもそう思ってしまう。だって「今年見れなかったから来年ね」という風にはいかないから。こぼれた涙をタオルで吸う。
泉田さんは不自然に周囲を確認して、私は少し冷静さを取り戻し、寿一くんの「泣くなら誰もいない救護テントにしろ」という言葉を思い出して冷や汗をかいた。まずい、思いっきり約束を破っている……私はタオルを畳み、帽子を深く被り直す。これで、なかったことに。
「もういいのか?」
「もういい」の言葉に心当たりはない。私は存分好き勝手したし、怒られる覚悟でいる。今の泉田さんは説教を始める雰囲気でなかった。それよりも、困ったように気まずそうに指先が宙を掻いて。見覚えのある仕草だ。昔はこれを殴られる前のモーションだと思っていた。
「何が……ですか?」
「何って……その」
「誰かに、何か言われましたか?」
途端に言いづらそうな顔になって、視線が惑う様子に笑ってしまう。なるほど。私の同期達はそんなこと言えるはずないから、きっと黒田さんあたりだろう。「今日くらい泣かせてやれ」とか、「褒め言葉も素直に受け取ってやれ」とか、言ったのかもしれない。主将なんだから、それくらい面倒見ろって。
私だって、許されるならわんわん大声あげて泣きたいし、それと同じくらいこの人の頑張りを褒めてあげたい。だけど、今じゃなくていい。寿一くんの厳しい言葉は私を自転車部の一員だと認めてくれたからこそだ。
私は息を深く吸って、下げたばかりのキャップのつばを持ち上げる。にっこりと笑う。無理はしていない。
「箱根学園の自転車部の一員として、みっともない真似晒せません。私去年、福富キャプテンから『たった一度の勝ち負けで大袈裟に騒ぎ立てるような部員は大会には連れて行けない』って言われてるんで……寿一くんの中では私、泣き虫のクソガキのままなんです」
当時3年の先輩方は過保護だった。男所帯に内気な女子がひとり入ってくることを先輩方はかなり心配していたようだった。迷子防止のTシャツ、帰宅時間、いじめられていないか目を光らせ、私の顔色を見ながら厳しく指導してくれた。
今年の7月頭、寿一くんは珍しくメールをくれて「インターハイの後泣くなら救護テントの中にしろ」と言われた。もう卒業したのに、相変わらず過保護なことだと笑ってしまった。黒田さんが考えたプランは完璧で私たちは総合優勝を逃すなんて考えもしなかった。考えないようにしていた。
寿一くんのメールは一見それに水を差すようだったが、不登校の、泣き虫のクソガキの印象を強く覚えているならそれも当然だろう。
卒業しても相変わらず過保護な2個上の先輩方。だから、もう平気だ。今年は想定外のタイミングで救護テントにいくはめになったから、これ幸いともう泣いてきた。先輩方の教えの通り、テントを出たその瞬間から王者ハコガク、その末席にふさわしい態度を。涙は枯れた。……予定外に泣かされたけど、もうここでは泣かない、そのつもりだった。
「なので、大丈夫です。私もテントに戻ります」
グーとパーを両手で作って力強く叩きつける。そう、全然大丈夫だ。表彰式に出る人たちの準備、片付け、テント撤収、応援に来てくれた生徒にお礼、OBへの挨拶。他校への労いと情報交換。やることは山積み。私の分の仕事を肩代わりしてくれたレイさんは、きっと今頃てんてこ舞いになっているだろう。
「頼もしいよ、本当に」
泉田さんは表情を綻ばせ、私は一瞬呆気に取られる。そういう顔を見るのはいつぶりかと思って。
この1年、この人が何に身を捧げ、何のために先陣切って走ってきたのか、改めて思い知る。そして、本当にインハイが終わったのだと……長い3日間の戦いが漸く終わったのだと思い知る。本当に、終わってしまった。私は何ができただろう。去年よりどれだけチームに貢献できただろう。私はもう一度最後に涙を拭う。
「行こうか。表彰式の前に皆に顔を見せてやってくれ。ユキも拓斗も心配していたからね」
「はい」
涙は出ていなかった。そういうことにしておいてほしい。
泉田さんが方向転換して、神奈川代表テントの方へつま先を向ける。その背中を……箱根学園のエーススプリンターの証、4番を背負ったその背中を、しっかり目に焼き付けて。私もその背を追って歩き出す。ひとりで行くのは嫌だったけど、この人の後ろについていけば怖いものなんて何もなかった。
観戦客に「待ってください今の話本当ですか?」と駆け寄って話を聞きたかったが、嘘だと言われたら立ち直れないので、私は黙って見送った。
「名前」
背中に声がかかる。いつも私が恐れているこのトーンも今だけは、私を安心させた。この人が「箱根学園の泉田主将」として私に声をかける時、私はそれがこの人の覚悟と努力の表れだと思い知る。誇らしくて怖くて、それで、泣きたくなる。
「ここにいたのか」
振り返って、「ああ本当に終わったんだな」と思った。昨日や一昨日のゴール後はまだレース中の雰囲気を纏っていたけど、今はそれとははっきり違う。今年の、2年目のインターハイが終わった。泉田さんにとっては最後のインターハイだった。
泉田さん。なんで、ここに。いや、ゴールしたんだ。きっと。別にリタイアしててもここにいるのはおかしくないけど。
私が救護テントで聞いたのは、結局真波の結果だけ。その後ゴール地点に向けて移動してしまったから、それ以外の結果は人の噂で聞くばかり。虫食い状態で。それで、じゃあここにいるってことは。本当の、本当に……
なんて声をかけたらいいのかわからなくて、私はせめてマネージャーらしい態度を取り繕おうとした。
「ぬ、濡れてないですか?雨結構降ったでしょう、あ、着替えっ」
「問題ないよ。そっちの方こそ随分と降られたみたいだ。タオルは?」
「あ、と、ちょっと、現場でバタバタしまして、えっとタオル……」
「貸してごらん」
「い、いいです大丈夫です、カッパ着てたし、そんな濡れてないんです」
バタバタしていたのは事実だが、困る、別にこんな話がしたいのではない。私は。見届けられなかった。残り3キロ、名前を呼んで声援を送る役目を放棄して。真波と黒田さんを黙って見送った。だから、謝罪の言葉、違う。……違う。
「あ、あの、私……」
「わかってるよ」
背後で誰かの足音がした。その足音を聞いても私は目を逸さなかった。それどころではなかったから。私が今日、何をしていたか。持ち場を離れてまで誰に付き添ったのか。私が説明するまでもなく泉田さんは知っているようだった。この人に責められたら今度こそ恥も外聞もなく泣いてしまう。泉田さんも背後の足音を無視することにしたらしく、私を見た。逃げ場もなく、視線がかち合う。
全然控えテントに帰ってこない私を探しにきたのか、何してたんだって叱られるのかと、怖かったけど。でも、この目を見たらわかる。きっと満足したんだ。走って、3年間戦って、今日全ての力尽くして。その目を見たから、謝罪より先にかけるべき言葉が見つかった。頭を下げる。
「お疲れ様でした」
ゆっくり顔を上げる。声は震えなかった。だって、それ以外にかける言葉はない。
昨日の分の賞賛は昨日のうちに済んでいる。この1年、この人は賞賛を求めることをしなかったから。許されるなら、本当は、もっと。もっと……失礼な言い方かもしれないけど、褒めてあげたかった。
昨日の勝利だって、バシさんとふたりで大はしゃぎしたかったのに、しっかりと目で牽制されてしまって叶わなかった。私たちはあの視線にすごく弱い。今日はそういう咎めるような、牽制の眼差しはしていない。
泉田さんが口を開く。
「表彰台、1位以外はウチが独占状態だ。総北はリタイアも多かった」
「……はい」
「走り切ったよ、今年は」
静かに、平坦な声のトーンに一体どれだけのものが込められているんだろう。直接その口から告げられて、私は情けないことに涙が止まらなかった。泣かないって決めたのに。
溢れ出る涙の温度には辟易するし、すでに散々泣いた目元がひどく滲みるというのに、自分の意思ではどうにもならない。嬉しくて泣いてるんだか、感傷で泣いてるんだかわからないけど涙が止まらない。
「よかった……」
「うん」
やった、やったんだ。ちゃんとゴールしたんだ。見たか、ちゃんと史上初のスプリンター主将で、この人はちゃんと仕事して、ゴールまでして、ゼッケンも確定させた。1年前に散々文句言ったやつら、全員泉田さんに謝罪しろ、「オレが間違ってました」と言え。多分この人はそんなこと望んでいないので、そんな汚い言葉はかろうじて飲み込んで。私はポシェットから引っ張り出したタオルで涙を拭いた。折角時間をかけて冷やしたのに、多分もう意味ない。
「ゴール、見たかったな……」
自分で決めて救護テントに行ったんだから、仕方ないことなんだけど。どうしてもそう思ってしまう。だって「今年見れなかったから来年ね」という風にはいかないから。こぼれた涙をタオルで吸う。
泉田さんは不自然に周囲を確認して、私は少し冷静さを取り戻し、寿一くんの「泣くなら誰もいない救護テントにしろ」という言葉を思い出して冷や汗をかいた。まずい、思いっきり約束を破っている……私はタオルを畳み、帽子を深く被り直す。これで、なかったことに。
「もういいのか?」
「もういい」の言葉に心当たりはない。私は存分好き勝手したし、怒られる覚悟でいる。今の泉田さんは説教を始める雰囲気でなかった。それよりも、困ったように気まずそうに指先が宙を掻いて。見覚えのある仕草だ。昔はこれを殴られる前のモーションだと思っていた。
「何が……ですか?」
「何って……その」
「誰かに、何か言われましたか?」
途端に言いづらそうな顔になって、視線が惑う様子に笑ってしまう。なるほど。私の同期達はそんなこと言えるはずないから、きっと黒田さんあたりだろう。「今日くらい泣かせてやれ」とか、「褒め言葉も素直に受け取ってやれ」とか、言ったのかもしれない。主将なんだから、それくらい面倒見ろって。
私だって、許されるならわんわん大声あげて泣きたいし、それと同じくらいこの人の頑張りを褒めてあげたい。だけど、今じゃなくていい。寿一くんの厳しい言葉は私を自転車部の一員だと認めてくれたからこそだ。
私は息を深く吸って、下げたばかりのキャップのつばを持ち上げる。にっこりと笑う。無理はしていない。
「箱根学園の自転車部の一員として、みっともない真似晒せません。私去年、福富キャプテンから『たった一度の勝ち負けで大袈裟に騒ぎ立てるような部員は大会には連れて行けない』って言われてるんで……寿一くんの中では私、泣き虫のクソガキのままなんです」
当時3年の先輩方は過保護だった。男所帯に内気な女子がひとり入ってくることを先輩方はかなり心配していたようだった。迷子防止のTシャツ、帰宅時間、いじめられていないか目を光らせ、私の顔色を見ながら厳しく指導してくれた。
今年の7月頭、寿一くんは珍しくメールをくれて「インターハイの後泣くなら救護テントの中にしろ」と言われた。もう卒業したのに、相変わらず過保護なことだと笑ってしまった。黒田さんが考えたプランは完璧で私たちは総合優勝を逃すなんて考えもしなかった。考えないようにしていた。
寿一くんのメールは一見それに水を差すようだったが、不登校の、泣き虫のクソガキの印象を強く覚えているならそれも当然だろう。
卒業しても相変わらず過保護な2個上の先輩方。だから、もう平気だ。今年は想定外のタイミングで救護テントにいくはめになったから、これ幸いともう泣いてきた。先輩方の教えの通り、テントを出たその瞬間から王者ハコガク、その末席にふさわしい態度を。涙は枯れた。……予定外に泣かされたけど、もうここでは泣かない、そのつもりだった。
「なので、大丈夫です。私もテントに戻ります」
グーとパーを両手で作って力強く叩きつける。そう、全然大丈夫だ。表彰式に出る人たちの準備、片付け、テント撤収、応援に来てくれた生徒にお礼、OBへの挨拶。他校への労いと情報交換。やることは山積み。私の分の仕事を肩代わりしてくれたレイさんは、きっと今頃てんてこ舞いになっているだろう。
「頼もしいよ、本当に」
泉田さんは表情を綻ばせ、私は一瞬呆気に取られる。そういう顔を見るのはいつぶりかと思って。
この1年、この人が何に身を捧げ、何のために先陣切って走ってきたのか、改めて思い知る。そして、本当にインハイが終わったのだと……長い3日間の戦いが漸く終わったのだと思い知る。本当に、終わってしまった。私は何ができただろう。去年よりどれだけチームに貢献できただろう。私はもう一度最後に涙を拭う。
「行こうか。表彰式の前に皆に顔を見せてやってくれ。ユキも拓斗も心配していたからね」
「はい」
涙は出ていなかった。そういうことにしておいてほしい。
泉田さんが方向転換して、神奈川代表テントの方へつま先を向ける。その背中を……箱根学園のエーススプリンターの証、4番を背負ったその背中を、しっかり目に焼き付けて。私もその背を追って歩き出す。ひとりで行くのは嫌だったけど、この人の後ろについていけば怖いものなんて何もなかった。
