去る春、君の声だけが在るIF
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目が覚めたら猫だった。
薄暗い部屋、かたいベンチ。冷たい空気、におい、見慣れたロッカールームだ。人間はひとりだけ。真波。
箱根の山の神(東堂さんではない)の力が及ぶのはこの町だけだから、自宅生の真波は関係ないのかと思っていた。真波はベンチで片膝立てて俯いていた。寝てる?そろり、としっぽでその足を撫でる。反応なし。「起きろ」の意味でひと鳴き。
「ぅやーん」
「え」
俯いていた真波が、がばりと顔をあげた。音の発生元を探し、目が合う。見開かれた瞳がこちらをみて瞬き。
「……猫?」
「にゃーん」
「うわ猫だ」
そうだよ。寝起きなのか、起きていたけど考え事をしていたのか、その表情はあまり取り繕えていなかった。真波も、この猫が「何か」は流石にわかっているのだろう、へらっと笑いかけて「なんで……?っていうか誰?」とこちらに手を伸ばす。
上から降ってくる手に身構えたが、その手は頭を通り過ぎ、そっと背中の毛を撫でただけだった。流れに沿って、二度。上手だ……!?こいつ、撫で上手だ……!?私は一発で陥落してベンチで「溶けねこ」と化す。こ、こいつ顔だけでねこにモテているわけじゃなかったのか……!?
「にゃんやんん……」
「ん、もっと?」
そのまま先ほどよりしっかり撫でられる。優しい……思ったより……もっと乱暴に捏ね回されるものかと。その辺の手加減ができるのは意外だった。このまま存分に撫でられてやろうと思ったが、真波はすぐ手を引いた。
「あーでも……」
猫の顔を真波が無感動に見下ろした。
「にゃあ」
「えーと、部員の猫なんだよね。オレ、そろそろ帰るところなんだけど」
「にゃー!」
「困ったなー」
困るのはこっちだ!部屋を見渡しても誰も居ない。呼び出したのは真波で確定だ。つまり、真波が満足しないと私は人間に戻れない。それも今までと違い、今回は部室に呼び出された。のんびりしてたら誰かに見つかってもおかしくない。悠長なことしてられないのだ、こっちは!
「にゃんっやんやにゃあ!」
「誰かに押し付けて帰ろ。悠人とか……猫羨ましいって言ってたし」
だから、それじゃ、困るんだって!真波はおいでーと言いながら問答無用で猫を抱えあげた。暴れないでねーと言いつつ抱っこは上手だ。私は落っこちないように慎重に真波の腕の中でモゾモゾした。。まあ、悪くはない居心地だ抱き上げた真波が猫の背中に顔を埋めて、ぼそりと一言。
「小さいな……」
「んやん」
まあ、あんたらと比べたらね。ねこの葦木場さんなんて、本当にねこ?ってくらいデカかった。私は真波よりも背が低いし、もしねこの体が元の人間体の大きさを反映してるとしたら小さいのは当然だ。真波がねこの背中に息を吐きかける。ため息みたいな声が背中に降ってくる。
「東堂さんは結構デカかったんけど……」
え。私が思わず動きを止めると、失言に気付いた真波も気まずそうに固まった。そっとねこの体を抱え直す。ねこの首を精一杯伸ばして真波の顔を見上げようとしても、それはかなわない。真波の手のひらで視界を覆われたせいだ。
「ごめん、なんでもないや」
「にゃー」
「気にしないで」の返事もねこの鳴き声じゃ伝わらない。真波って東堂さんのねこを呼び出したことがあるんだ。いつ?東堂さんはもう、この呪いの圏外にいる。茨城は遠いし、大学生だ。地理的にも離れているし、箱根学園自転車競技部の部員でもない。なら、おそらく去年だろう。
去年、インターハイを終えた真波はスランプに陥った。「真波のせいで負けた」なんて先輩方は誰も言わなかったし、ただその時勝敗を決する最前線に真波がいただけのことだった。なのに真波はその敗北を取り返そうと無理ばっかりして、思い詰めた顔で日々を過ごしていた。散々八つ当たりもされた。言い争いもした。「オレのせいで負けたんだ」と悲痛な声で私に訴えた。「そういう話じゃないでしょう」という私の否定は届かなかった。
結局2月に東堂さんが小野田との仲を取り持つまで、真波はたった一度の敗北に苦しめられた。「最後の最後に競り負けるっていうのは、時に選手にとって大きな傷になる」。あれは、真波との関係性が悪化した時に、隼人くんが言った言葉。「何もしないで、待ってやってくれ」と真剣な目で言われて、あの時の私はただ頷くことしかできなかった。
1年前のあの長い冬に、猫を呼んだというなら納得がいく。真波は猫の頬を突つく。
「言わないでよ?」
「にゃ」
言わないよ。返事をしたけど、真波は「ハイかイイエか、わかんないなー」と呑気に言った。あの出来事ももう、1年前。
「まあ、いいよね。猫の記憶はあんまり残らないって東堂さん言ってたし」
嘘だ。残念ながら割としっかり記憶は残っている。それは多分、東堂さんがかわいい後輩のためについた嘘だ。
真波は今年のインターハイで小野田に負けた。同じ戦況で、二度目の敗北だった。またしても先輩達は「真波のせいで負けた」と言わなかったし、またしても勝敗を決する最前線に箱根学園が送り込んだのが真波だった、ただそれだけだった。そこに「今度こそ」という祈りがあったかは、選手にしかわからない。
インハイの後「真波の他はいない」とキャプテンに指名され、ますますエースクライマーとしてその走りは研ぎ澄まされていく。恐ろしいほどだ。誰も彼も、何もかも振り切って、誰も追いつけないほど遠くへ。その目はもう、ひとりしか見ていない。「ハコガク史上初の3度インハイを走った選手」として、来年の夏今度こそ総北に勝つ。「二度小野田坂道に敗けたクライマー」として、彼より早くラインを割る。ひとりだけの戦いだ。他に彼の苦しみと葛藤と絶望を分かる者は誰もいない。クライマーとして小野田に勝ちたい真波には、キャプテンの責は重い。邪魔ですらある。それでも「真波しかいない」と泉田さんが言った。私はその人の口から去年の秋に「罪を背負っている」と恐ろしい告白を聞いた。葦木場さんも口にした。罪。真波の罪はどれほどだろう。二度もインハイの総合優勝を逃した人間の、罪。それすら背負ってクライマーとして勝利し、チームを総合優勝に導けと、真波に下された罰はあまりにも重い。
二度の敗北を、託されたものを、先輩たちが罪と言い切ったものの正体を、真波はひとりで抱えている。卒業した先輩やすずこちゃんとは分かち合えるのだろうか。それすら私は知らない。私は、真波が呼べる「猫」は、今のこの部にはいないと思っていた。真波が弱みを晒し、甘えることのできる相手はいないと思っていたから。だが、私が呼ばれた。考えろ、この小さい脳みそで自分に何ができるのか。考えて。
「にゃあ」
「何?遊んで欲しかった?でも、オレ帰らないとなんだよね」
小さい脳みそで考えても答えは出ず、とりあえず前脚を真波の腕に乗せた。真波はその脚を取り上げて、ムニムニと肉球を揉んだ。あんまりいい気分がしなかったが、真波の方は「ぷにぷにしてるね」と悪くなさそうだったので、私は爪が出そうなのを我慢した。
真波はそのまま「さて、誰に預けようかな」と猫を抱いたまま足で部室のドアを開けようとした。私は「万が一にも落っことされることがありませんように」と祈り、じっとしていた。真波の心臓がどくどく鳴る音に目を閉じる。私を抱える腕は温かいし、抱っこは上手だし、よく眠れそうな気がした。
真波のつま先が届くより早く、ドアが開いた。
「あれ、泉田さん」
「真波。ってその猫……」
い、泉田さん!なぜここに!私はピャッと飛び上がり、逃げようとしたが真波に「危ないって」と抱き直されて逃げることは叶わなかった。お、怒られる、説教される……先日のトラウマが蘇り、私はブルブル震えた。
真波は「どうしたの?泉田さんだよー」と呑気に猫の頭を撫でた。やっぱり、撫で上手だ。私は一旦落ち着きを取り戻す。
「ちょうどよかった。オレ、寝てる間に『呼ん』じゃったみたいで。帰るのに困ってたんです。預けていいですか?」
「真波」
「オレは大丈夫です。前も呼んだことあるんですけど、自転車乗ってたらいつのまにか解決してて」
「それなら……わかった。こちらで預かろう」
「わー助かります。ほら、泉田さんが連れてってくれるって。よかったね」
真波に促されて、恐る恐る顔を出す。泉田さんと目があった。怒っていなさそうだ。ゆっくり一度瞬くと、泉田さんも同じように返す。真波に頭を撫でられて、「もっと!」と催促しようとしてやめた。前はそれで怒られたんだった。
泉田さんは、ねこの私を面白そうに見下ろして。怒っていないどころか、何か、もっと違う感情が。優しく微笑を浮かべてこちらを見下ろしている、けど。ねこの体では思考がままならない。私は「助かります」の意味でにゃーんと鳴いた。
「……久しぶりだね」
「にゃん」
「制服は?その様子だと、どこかに捨ててきたみたいだね」
「ゃーん」
制服!すっかり忘れていた……!どどどどこに捨ててきたんだろう……!?ちくりと刺すような言葉に体が震える。先日の説教がしっかりトラウマになっている。そもそも直前まで何してたか記憶がないんだよね。やらかしたか……!?
最悪の事態を想像し恐怖に震えていると、また真波が頭を撫でる。あーほんと、撫でだけは一級品だ。抱っこもうまいし……まあいいか、制服のことは。今更どうにもならないし、部屋にあることを祈りましょう。
「にゃーん」
「あ、制服のこと忘れてた……」
真波がため息をついて、ねこをベンチにおろした。どこで拾ったのか例のタイマーをポケットに入れ、私の体を長袖ジャージで包む。あ!これ真波の匂いがする!!ふんふん嗅いでいる間に真波と泉田さんの間で引き継ぎ作業が進む。寝落ちしたおおよその時間、現在の針の進み、念のため真波は帰宅後連絡をすること。それより先に猫が消失したら泉田さんから連絡すること。引き継ぎを終えた泉田さんが私を呼んだ。
「おいで」
「にゃーん」
やったー!お説教じゃなさそう!多分真波が寝てて、部室で何もなかったので、お説教ポイントが加算されなかったとみた。私ははい!と返事をしたつもりが、猫の喉が発したのは甘えたにゃーんの鳴き声だった。真波のジャージごと抱えられ、私はにゃーにゃー鳴いた。言いたいことは色々あるのに、何ひとつ叶わない。
泉田さんは構わず人語を話さないねこに話しかける。側から見たらおかしな光景だが、この人は筋肉に語りかける人なので、部員に見られても「なんだ、いつものか」で済ましてもらえるだろう。この、ねこの体は小さくて、真波のジャージで覆ってさえしまえば見えないし。
「ここで時間を潰すかい?外に出てもいいけど、女子寮に戻るわけには行かないからね。どうしようか」
「んにゃん」
「え?」
「それもそうですね」の相槌。部室を出ようとした真波の足が止まる。
「もしかして、苗字?」
「気づいていなかったのか?」
「ゃーん」
「え、全然……!あぶな、何もしなくてよかった」
失礼なやつ!私は誰が来ても割とすぐに猫が誰か分かったのに!いや、初回は葦木場さんを困らせたけど。「鈍すぎる」って怒られたし。自分を棚に上げて、精一杯真波を睨む。泉田さんに抱えられてる以上手出しはされないだろうと思って。
「にゃーん」
「ごめん。怒ってる?」
「んやん」
「ごめんって。あー、ほんと何もしなくてよかった……」
真波は最後にふわふわの猫毛を撫でて、帰っていった。私は勝手に振られた気分でやつを見送る。それよりも去り際、真波の暗い表情が気になった。面倒ごとを預けて、満足度を示すメーターも8割を過ぎ。やっと帰れるぞという表情ではない。何が……何が真波にそうさせる?
「にゃーん」
「追うかい?」
泉田さんが私にたずねる。私は泉田さんの腕の中で、じっとその言葉を聞いた。
「君の脚でも、今なら間に合うよ」
ぴくりと耳が跳ねた。ねこの体は正直だ。泉田さんはその反応に笑って、真波が閉めたばかりのドアを開けてくれた。私はピョーンと飛び降りて、泉田さんの手には真波のジャージだけが残った。
「あんまり遠くには行かないように。それから、部屋に戻ったら連絡だよ」
「にゃーん」
私はねこらしくいい子の返事をして、四つ足でたったか走る。開けてもらったドアを抜け、角を曲がったところで真波に追いつき、追い越し、その足にまとわりつく。真波はねこを蹴り飛ばさないように立ち止まり、非難の声を上げた。
「ちょっと!」
「にゃーーーん」
「何?文句言いに追いかけてきたの?」
「なーーーん」
「じゃあなんだって言うのさ」
なんだろう。私は真波を見上げることしかできない。お前の顔が、暗いから追いかけてきた。帰り道に自転車乗りながら考え事して、転ばれでもしたら寝覚めが悪いから。言葉にできない以上、伝えることは難しい。
「にゃあ」
「オレ?……大丈夫だよ」
「なーん」
何が大丈夫だ。大丈夫じゃないのは誰だって知ってる。私は今まで、負けた人間の苦しみを見てきた。それから、敗北の後の新キャプテンの責の重さも。真波が苦しみ傷つき、それでも走った今年の夏を見た。私は「自由に走れ」とも、「頑張って」も「負けないで」とも言えず、残り3キロの地点でお前の走りから目を背けた。負けたお前に寄り添えなかった。寄り添わなかった。かける言葉はなく、世代交代の忙しさに甘えて、ねこを呼び出す可能性にも気付かない振りをした。真波は強いから。もう負けないから。そう言い訳をして。
「なーん」
「まだ言いたいこと?」
真波がしゃがみ込む。いつもより遥かに低い視界からは、真波の表情は丸見えだった。その表情。苦しみ、後悔、焦燥、それから、煩わしさ。
真波が囁く。外廊下も、こんな時間では誰も通らないだろうに。それでも、ねこの耳は囁き声を拾い上げる。
「大丈夫だから、君も大丈夫って言って」
「にゃーん」
ねこの喉ではそんな難しいことはできない。真波が手を伸ばし、もう一度ねこの体を撫でる。その表情と裏腹に柔らかく、優しく。急速に消失する意識の端っこで私はもう一度「大丈夫だから」と真波の声を聞いた。霞がかる意識、文句を言おうにもねこの喉では人語を話せない。何が、大丈夫だ。この意地っ張り野郎。ちょっとくらい頼ってくれてもいいのに。大丈夫じゃないって言ってよ。だって、私たち、友達でしょう。ねえ。
▪️
東堂さんの「自由に走れ」と苗字の「自由に走って」は、似ているようで全く違う。わずかな言い回しの違い、それから自転車に乗る人間とそれを見守る人間の違い。
1年生だったオレはインターハイで総合優勝を逃し、不調に陥った。散々周りに迷惑かけたし、八つ当たりもした。
「苗字は、オレに期待しないことをいいことだと思ってる」
「なっ」
「頑張らないより頑張った方がいいに決まってる。苗字だって、もっとやる気出せって言ってたくせに。なのに、苗字はオレを止めるわけ」
「そういう話じゃないってば!」
「こうしてる間にも坂道くんは走ってるのに」
どうせ、苗字は連絡取ってるんだろうな。吐き捨てるようなオレの呟きに苗字の顔色が変わった。いつもキラキラしてる目が、その日はギラギラしていた。あ、泣きそうな顔だ。失言に気づき、オレが腰を浮かすより前に苗字が怒鳴った。
「小野田に直接言えばいいでしょ!私に『坂道くん』との伝言役でもやってほしいの?」
……あの時は東堂さんまで巻き込んで、大変だったなあ。東堂さんに「敗北を引きずっているのはお前だけでない」と諭され、酷い顔で戻ってきた名前がアクエリをくれた。
オレは知らなかったんだ。負けて、苦しんでるのはオレだけじゃないって。
オレがひたすらもがいてペダルを回す間、苗字もとにかく走り回っていた。考えていた。なんであの日オレが負けたのか。なんで、勝てなかったのか。
苗字は東堂さんに教えを請い、部員のデータベースを刷新し、秋のシーズンは全国の有力選手を見て周った。そうして勝利条件に最も近いのが「それ」ではないかと仮説を立てた。仮説というにはあまりにも拙い、理想論。そうして勝つために「自由に走れ」と、苗字はオレに願った。
それは一見オレのことを考えているようで、オレのことなんて少しも考えてなかった。惨めで、情けない気持ちになった。オレが、自由に?先輩たちの積み上げた実績を、期待を、信頼を裏切って、全部台無しにした。苗字も知っているはずだ。あの日、新開さんに連れられてバスに戻った君の顔を忘れられない。「3年生の引退と一緒に退部する」という噂が本当になってしまうと思った。オレが負けて、オレが弱くて、彼女が部を去るのだとそう思った。
だけど、苗字は辞めなかった。新体制発表の日、長かった髪をバッサリ切って平然と登校した。それで、辞めない代わりにその口が、次の夏は、もっと自由に走れと。オレに言った。自転車はいつだって自由だ。そんなことは、苗字に言われなくたって、わかっている。わかっていた。
風を切って、帰り道を急ぐ。途中携帯が鳴って、泉田さんからの電話で名前が無事に部屋に戻ったことを知った。制服はなぜか洗濯室に落ちてたのを黒田さんが速やかに回収した、らしい。明日、オレはこっぴどく怒られるだろう。
あの後廊下まで追いかけてきた猫……苗字は撫でるうちに眠ってしまって、オレは彼女を抱えて再び部室に戻らなければならなかった。ぐっすり眠る苗字を泉田さんに預け、それから自転車を取りにいったから、学校を出るのがかなり遅くなってしまった。
猫を、猫の名前を抱えた時の暖かさを思う。あれはストレス症状の具現なんだと、泉田さんから聞いた。泉田さんが立てた仮説でなく、泉田さんは福富さんから聞き、福富さんはその前の主将から聞いた。オレは福富さんの前のキャプテンは顔すら知らない。知らないのに、オレ達はきっと同じことで苦しんでいる。
箱根学園の自転車部のキャプテンっていうのはあまりにも自由でないポジションだ。ため息が出るほど、責任は重く、窮屈で、自由からかけ離れている。なのに、自由に走れだなんて、好き勝手言って。
オレの頭に響くのは、手嶋さんの声。あの夏、インハイ1日目での邂逅。時間にすればわずかだけど、鮮烈に残る景色。手嶋さんは「あいつは箱根学園の勝利のためならなんだってする」と吐き捨てた。名前のことだとすぐにわかった。手嶋さんに、他校の人間如きにわかられてたまるかとも思った。あの日 の敗北。手嶋さんが走っていないインターハイで、名前が泣いたこと。
手嶋さんの言葉に嘘はなかったと思う。動揺を誘う精神攻撃にしては拙く、オレも「そうですね」って返事をしてその後の加速で振り落とした。振り落とそうとした……結果は知っての通り。あの後「ゴールまで頑張って」と苗字に声をかけられた手嶋さんは何を思っただろう。今になって思えば、手嶋さんのあれは恨み言ではなかった。多分本心で、今のオレもその言葉は正しいと思う。良くも悪くも、名前は箱根学園の勝利を第一に行動している。
オレが見てきたキャプテンたち。オレはその誰にもなれないし、あの人たちの様にはやれない。オレは未熟で、箱根学園史上初の「二度も総合優勝を逃した」キャプテンだ。猫を呼ばないことが強さの証明になるんじゃないかって、福富さんや泉田さんを上回れるんじゃないかって考えなかったわけじゃなかった。
名前を呼んで困らせた。バシくんも名前を呼んだけど、困らされたのはバシくんの方。オレはそうなれなかった。うまくできなかった。「大丈夫って言って」なんて泣き言、マネージャーに言ったキャプテンはこれまでいなかっただろう。惨めで苦しくて、家までの下り道、走っても走っても満足なんてできなかった。名前が部屋に戻れても、結局こっちは満たされやしないまま。
まとまらない思考は絡まった糸のようで、解すことすら、面倒で煩わしい。いつか解消しなければいけないと分かっていても、先送りにしたくなる。心臓は締め付けられるように痛く、呼吸は不自然に引き攣れる。それでも走る。オレはこの先も猫を呼ぶだろう。優しく撫でて誤魔化して、それが「何」なのかは見ないふりをする。オレはただ走る。来年の夏、今度こそ勝つ。王者の座を取り返す。もう、他の誰にも負けることは許されない。走る。誰よりも速く。走って、走って、次の夏まで。今のオレにできることはそれだけだ。
薄暗い部屋、かたいベンチ。冷たい空気、におい、見慣れたロッカールームだ。人間はひとりだけ。真波。
箱根の山の神(東堂さんではない)の力が及ぶのはこの町だけだから、自宅生の真波は関係ないのかと思っていた。真波はベンチで片膝立てて俯いていた。寝てる?そろり、としっぽでその足を撫でる。反応なし。「起きろ」の意味でひと鳴き。
「ぅやーん」
「え」
俯いていた真波が、がばりと顔をあげた。音の発生元を探し、目が合う。見開かれた瞳がこちらをみて瞬き。
「……猫?」
「にゃーん」
「うわ猫だ」
そうだよ。寝起きなのか、起きていたけど考え事をしていたのか、その表情はあまり取り繕えていなかった。真波も、この猫が「何か」は流石にわかっているのだろう、へらっと笑いかけて「なんで……?っていうか誰?」とこちらに手を伸ばす。
上から降ってくる手に身構えたが、その手は頭を通り過ぎ、そっと背中の毛を撫でただけだった。流れに沿って、二度。上手だ……!?こいつ、撫で上手だ……!?私は一発で陥落してベンチで「溶けねこ」と化す。こ、こいつ顔だけでねこにモテているわけじゃなかったのか……!?
「にゃんやんん……」
「ん、もっと?」
そのまま先ほどよりしっかり撫でられる。優しい……思ったより……もっと乱暴に捏ね回されるものかと。その辺の手加減ができるのは意外だった。このまま存分に撫でられてやろうと思ったが、真波はすぐ手を引いた。
「あーでも……」
猫の顔を真波が無感動に見下ろした。
「にゃあ」
「えーと、部員の猫なんだよね。オレ、そろそろ帰るところなんだけど」
「にゃー!」
「困ったなー」
困るのはこっちだ!部屋を見渡しても誰も居ない。呼び出したのは真波で確定だ。つまり、真波が満足しないと私は人間に戻れない。それも今までと違い、今回は部室に呼び出された。のんびりしてたら誰かに見つかってもおかしくない。悠長なことしてられないのだ、こっちは!
「にゃんっやんやにゃあ!」
「誰かに押し付けて帰ろ。悠人とか……猫羨ましいって言ってたし」
だから、それじゃ、困るんだって!真波はおいでーと言いながら問答無用で猫を抱えあげた。暴れないでねーと言いつつ抱っこは上手だ。私は落っこちないように慎重に真波の腕の中でモゾモゾした。。まあ、悪くはない居心地だ抱き上げた真波が猫の背中に顔を埋めて、ぼそりと一言。
「小さいな……」
「んやん」
まあ、あんたらと比べたらね。ねこの葦木場さんなんて、本当にねこ?ってくらいデカかった。私は真波よりも背が低いし、もしねこの体が元の人間体の大きさを反映してるとしたら小さいのは当然だ。真波がねこの背中に息を吐きかける。ため息みたいな声が背中に降ってくる。
「東堂さんは結構デカかったんけど……」
え。私が思わず動きを止めると、失言に気付いた真波も気まずそうに固まった。そっとねこの体を抱え直す。ねこの首を精一杯伸ばして真波の顔を見上げようとしても、それはかなわない。真波の手のひらで視界を覆われたせいだ。
「ごめん、なんでもないや」
「にゃー」
「気にしないで」の返事もねこの鳴き声じゃ伝わらない。真波って東堂さんのねこを呼び出したことがあるんだ。いつ?東堂さんはもう、この呪いの圏外にいる。茨城は遠いし、大学生だ。地理的にも離れているし、箱根学園自転車競技部の部員でもない。なら、おそらく去年だろう。
去年、インターハイを終えた真波はスランプに陥った。「真波のせいで負けた」なんて先輩方は誰も言わなかったし、ただその時勝敗を決する最前線に真波がいただけのことだった。なのに真波はその敗北を取り返そうと無理ばっかりして、思い詰めた顔で日々を過ごしていた。散々八つ当たりもされた。言い争いもした。「オレのせいで負けたんだ」と悲痛な声で私に訴えた。「そういう話じゃないでしょう」という私の否定は届かなかった。
結局2月に東堂さんが小野田との仲を取り持つまで、真波はたった一度の敗北に苦しめられた。「最後の最後に競り負けるっていうのは、時に選手にとって大きな傷になる」。あれは、真波との関係性が悪化した時に、隼人くんが言った言葉。「何もしないで、待ってやってくれ」と真剣な目で言われて、あの時の私はただ頷くことしかできなかった。
1年前のあの長い冬に、猫を呼んだというなら納得がいく。真波は猫の頬を突つく。
「言わないでよ?」
「にゃ」
言わないよ。返事をしたけど、真波は「ハイかイイエか、わかんないなー」と呑気に言った。あの出来事ももう、1年前。
「まあ、いいよね。猫の記憶はあんまり残らないって東堂さん言ってたし」
嘘だ。残念ながら割としっかり記憶は残っている。それは多分、東堂さんがかわいい後輩のためについた嘘だ。
真波は今年のインターハイで小野田に負けた。同じ戦況で、二度目の敗北だった。またしても先輩達は「真波のせいで負けた」と言わなかったし、またしても勝敗を決する最前線に箱根学園が送り込んだのが真波だった、ただそれだけだった。そこに「今度こそ」という祈りがあったかは、選手にしかわからない。
インハイの後「真波の他はいない」とキャプテンに指名され、ますますエースクライマーとしてその走りは研ぎ澄まされていく。恐ろしいほどだ。誰も彼も、何もかも振り切って、誰も追いつけないほど遠くへ。その目はもう、ひとりしか見ていない。「ハコガク史上初の3度インハイを走った選手」として、来年の夏今度こそ総北に勝つ。「二度小野田坂道に敗けたクライマー」として、彼より早くラインを割る。ひとりだけの戦いだ。他に彼の苦しみと葛藤と絶望を分かる者は誰もいない。クライマーとして小野田に勝ちたい真波には、キャプテンの責は重い。邪魔ですらある。それでも「真波しかいない」と泉田さんが言った。私はその人の口から去年の秋に「罪を背負っている」と恐ろしい告白を聞いた。葦木場さんも口にした。罪。真波の罪はどれほどだろう。二度もインハイの総合優勝を逃した人間の、罪。それすら背負ってクライマーとして勝利し、チームを総合優勝に導けと、真波に下された罰はあまりにも重い。
二度の敗北を、託されたものを、先輩たちが罪と言い切ったものの正体を、真波はひとりで抱えている。卒業した先輩やすずこちゃんとは分かち合えるのだろうか。それすら私は知らない。私は、真波が呼べる「猫」は、今のこの部にはいないと思っていた。真波が弱みを晒し、甘えることのできる相手はいないと思っていたから。だが、私が呼ばれた。考えろ、この小さい脳みそで自分に何ができるのか。考えて。
「にゃあ」
「何?遊んで欲しかった?でも、オレ帰らないとなんだよね」
小さい脳みそで考えても答えは出ず、とりあえず前脚を真波の腕に乗せた。真波はその脚を取り上げて、ムニムニと肉球を揉んだ。あんまりいい気分がしなかったが、真波の方は「ぷにぷにしてるね」と悪くなさそうだったので、私は爪が出そうなのを我慢した。
真波はそのまま「さて、誰に預けようかな」と猫を抱いたまま足で部室のドアを開けようとした。私は「万が一にも落っことされることがありませんように」と祈り、じっとしていた。真波の心臓がどくどく鳴る音に目を閉じる。私を抱える腕は温かいし、抱っこは上手だし、よく眠れそうな気がした。
真波のつま先が届くより早く、ドアが開いた。
「あれ、泉田さん」
「真波。ってその猫……」
い、泉田さん!なぜここに!私はピャッと飛び上がり、逃げようとしたが真波に「危ないって」と抱き直されて逃げることは叶わなかった。お、怒られる、説教される……先日のトラウマが蘇り、私はブルブル震えた。
真波は「どうしたの?泉田さんだよー」と呑気に猫の頭を撫でた。やっぱり、撫で上手だ。私は一旦落ち着きを取り戻す。
「ちょうどよかった。オレ、寝てる間に『呼ん』じゃったみたいで。帰るのに困ってたんです。預けていいですか?」
「真波」
「オレは大丈夫です。前も呼んだことあるんですけど、自転車乗ってたらいつのまにか解決してて」
「それなら……わかった。こちらで預かろう」
「わー助かります。ほら、泉田さんが連れてってくれるって。よかったね」
真波に促されて、恐る恐る顔を出す。泉田さんと目があった。怒っていなさそうだ。ゆっくり一度瞬くと、泉田さんも同じように返す。真波に頭を撫でられて、「もっと!」と催促しようとしてやめた。前はそれで怒られたんだった。
泉田さんは、ねこの私を面白そうに見下ろして。怒っていないどころか、何か、もっと違う感情が。優しく微笑を浮かべてこちらを見下ろしている、けど。ねこの体では思考がままならない。私は「助かります」の意味でにゃーんと鳴いた。
「……久しぶりだね」
「にゃん」
「制服は?その様子だと、どこかに捨ててきたみたいだね」
「ゃーん」
制服!すっかり忘れていた……!どどどどこに捨ててきたんだろう……!?ちくりと刺すような言葉に体が震える。先日の説教がしっかりトラウマになっている。そもそも直前まで何してたか記憶がないんだよね。やらかしたか……!?
最悪の事態を想像し恐怖に震えていると、また真波が頭を撫でる。あーほんと、撫でだけは一級品だ。抱っこもうまいし……まあいいか、制服のことは。今更どうにもならないし、部屋にあることを祈りましょう。
「にゃーん」
「あ、制服のこと忘れてた……」
真波がため息をついて、ねこをベンチにおろした。どこで拾ったのか例のタイマーをポケットに入れ、私の体を長袖ジャージで包む。あ!これ真波の匂いがする!!ふんふん嗅いでいる間に真波と泉田さんの間で引き継ぎ作業が進む。寝落ちしたおおよその時間、現在の針の進み、念のため真波は帰宅後連絡をすること。それより先に猫が消失したら泉田さんから連絡すること。引き継ぎを終えた泉田さんが私を呼んだ。
「おいで」
「にゃーん」
やったー!お説教じゃなさそう!多分真波が寝てて、部室で何もなかったので、お説教ポイントが加算されなかったとみた。私ははい!と返事をしたつもりが、猫の喉が発したのは甘えたにゃーんの鳴き声だった。真波のジャージごと抱えられ、私はにゃーにゃー鳴いた。言いたいことは色々あるのに、何ひとつ叶わない。
泉田さんは構わず人語を話さないねこに話しかける。側から見たらおかしな光景だが、この人は筋肉に語りかける人なので、部員に見られても「なんだ、いつものか」で済ましてもらえるだろう。この、ねこの体は小さくて、真波のジャージで覆ってさえしまえば見えないし。
「ここで時間を潰すかい?外に出てもいいけど、女子寮に戻るわけには行かないからね。どうしようか」
「んにゃん」
「え?」
「それもそうですね」の相槌。部室を出ようとした真波の足が止まる。
「もしかして、苗字?」
「気づいていなかったのか?」
「ゃーん」
「え、全然……!あぶな、何もしなくてよかった」
失礼なやつ!私は誰が来ても割とすぐに猫が誰か分かったのに!いや、初回は葦木場さんを困らせたけど。「鈍すぎる」って怒られたし。自分を棚に上げて、精一杯真波を睨む。泉田さんに抱えられてる以上手出しはされないだろうと思って。
「にゃーん」
「ごめん。怒ってる?」
「んやん」
「ごめんって。あー、ほんと何もしなくてよかった……」
真波は最後にふわふわの猫毛を撫でて、帰っていった。私は勝手に振られた気分でやつを見送る。それよりも去り際、真波の暗い表情が気になった。面倒ごとを預けて、満足度を示すメーターも8割を過ぎ。やっと帰れるぞという表情ではない。何が……何が真波にそうさせる?
「にゃーん」
「追うかい?」
泉田さんが私にたずねる。私は泉田さんの腕の中で、じっとその言葉を聞いた。
「君の脚でも、今なら間に合うよ」
ぴくりと耳が跳ねた。ねこの体は正直だ。泉田さんはその反応に笑って、真波が閉めたばかりのドアを開けてくれた。私はピョーンと飛び降りて、泉田さんの手には真波のジャージだけが残った。
「あんまり遠くには行かないように。それから、部屋に戻ったら連絡だよ」
「にゃーん」
私はねこらしくいい子の返事をして、四つ足でたったか走る。開けてもらったドアを抜け、角を曲がったところで真波に追いつき、追い越し、その足にまとわりつく。真波はねこを蹴り飛ばさないように立ち止まり、非難の声を上げた。
「ちょっと!」
「にゃーーーん」
「何?文句言いに追いかけてきたの?」
「なーーーん」
「じゃあなんだって言うのさ」
なんだろう。私は真波を見上げることしかできない。お前の顔が、暗いから追いかけてきた。帰り道に自転車乗りながら考え事して、転ばれでもしたら寝覚めが悪いから。言葉にできない以上、伝えることは難しい。
「にゃあ」
「オレ?……大丈夫だよ」
「なーん」
何が大丈夫だ。大丈夫じゃないのは誰だって知ってる。私は今まで、負けた人間の苦しみを見てきた。それから、敗北の後の新キャプテンの責の重さも。真波が苦しみ傷つき、それでも走った今年の夏を見た。私は「自由に走れ」とも、「頑張って」も「負けないで」とも言えず、残り3キロの地点でお前の走りから目を背けた。負けたお前に寄り添えなかった。寄り添わなかった。かける言葉はなく、世代交代の忙しさに甘えて、ねこを呼び出す可能性にも気付かない振りをした。真波は強いから。もう負けないから。そう言い訳をして。
「なーん」
「まだ言いたいこと?」
真波がしゃがみ込む。いつもより遥かに低い視界からは、真波の表情は丸見えだった。その表情。苦しみ、後悔、焦燥、それから、煩わしさ。
真波が囁く。外廊下も、こんな時間では誰も通らないだろうに。それでも、ねこの耳は囁き声を拾い上げる。
「大丈夫だから、君も大丈夫って言って」
「にゃーん」
ねこの喉ではそんな難しいことはできない。真波が手を伸ばし、もう一度ねこの体を撫でる。その表情と裏腹に柔らかく、優しく。急速に消失する意識の端っこで私はもう一度「大丈夫だから」と真波の声を聞いた。霞がかる意識、文句を言おうにもねこの喉では人語を話せない。何が、大丈夫だ。この意地っ張り野郎。ちょっとくらい頼ってくれてもいいのに。大丈夫じゃないって言ってよ。だって、私たち、友達でしょう。ねえ。
▪️
東堂さんの「自由に走れ」と苗字の「自由に走って」は、似ているようで全く違う。わずかな言い回しの違い、それから自転車に乗る人間とそれを見守る人間の違い。
1年生だったオレはインターハイで総合優勝を逃し、不調に陥った。散々周りに迷惑かけたし、八つ当たりもした。
「苗字は、オレに期待しないことをいいことだと思ってる」
「なっ」
「頑張らないより頑張った方がいいに決まってる。苗字だって、もっとやる気出せって言ってたくせに。なのに、苗字はオレを止めるわけ」
「そういう話じゃないってば!」
「こうしてる間にも坂道くんは走ってるのに」
どうせ、苗字は連絡取ってるんだろうな。吐き捨てるようなオレの呟きに苗字の顔色が変わった。いつもキラキラしてる目が、その日はギラギラしていた。あ、泣きそうな顔だ。失言に気づき、オレが腰を浮かすより前に苗字が怒鳴った。
「小野田に直接言えばいいでしょ!私に『坂道くん』との伝言役でもやってほしいの?」
……あの時は東堂さんまで巻き込んで、大変だったなあ。東堂さんに「敗北を引きずっているのはお前だけでない」と諭され、酷い顔で戻ってきた名前がアクエリをくれた。
オレは知らなかったんだ。負けて、苦しんでるのはオレだけじゃないって。
オレがひたすらもがいてペダルを回す間、苗字もとにかく走り回っていた。考えていた。なんであの日オレが負けたのか。なんで、勝てなかったのか。
苗字は東堂さんに教えを請い、部員のデータベースを刷新し、秋のシーズンは全国の有力選手を見て周った。そうして勝利条件に最も近いのが「それ」ではないかと仮説を立てた。仮説というにはあまりにも拙い、理想論。そうして勝つために「自由に走れ」と、苗字はオレに願った。
それは一見オレのことを考えているようで、オレのことなんて少しも考えてなかった。惨めで、情けない気持ちになった。オレが、自由に?先輩たちの積み上げた実績を、期待を、信頼を裏切って、全部台無しにした。苗字も知っているはずだ。あの日、新開さんに連れられてバスに戻った君の顔を忘れられない。「3年生の引退と一緒に退部する」という噂が本当になってしまうと思った。オレが負けて、オレが弱くて、彼女が部を去るのだとそう思った。
だけど、苗字は辞めなかった。新体制発表の日、長かった髪をバッサリ切って平然と登校した。それで、辞めない代わりにその口が、次の夏は、もっと自由に走れと。オレに言った。自転車はいつだって自由だ。そんなことは、苗字に言われなくたって、わかっている。わかっていた。
風を切って、帰り道を急ぐ。途中携帯が鳴って、泉田さんからの電話で名前が無事に部屋に戻ったことを知った。制服はなぜか洗濯室に落ちてたのを黒田さんが速やかに回収した、らしい。明日、オレはこっぴどく怒られるだろう。
あの後廊下まで追いかけてきた猫……苗字は撫でるうちに眠ってしまって、オレは彼女を抱えて再び部室に戻らなければならなかった。ぐっすり眠る苗字を泉田さんに預け、それから自転車を取りにいったから、学校を出るのがかなり遅くなってしまった。
猫を、猫の名前を抱えた時の暖かさを思う。あれはストレス症状の具現なんだと、泉田さんから聞いた。泉田さんが立てた仮説でなく、泉田さんは福富さんから聞き、福富さんはその前の主将から聞いた。オレは福富さんの前のキャプテンは顔すら知らない。知らないのに、オレ達はきっと同じことで苦しんでいる。
箱根学園の自転車部のキャプテンっていうのはあまりにも自由でないポジションだ。ため息が出るほど、責任は重く、窮屈で、自由からかけ離れている。なのに、自由に走れだなんて、好き勝手言って。
オレの頭に響くのは、手嶋さんの声。あの夏、インハイ1日目での邂逅。時間にすればわずかだけど、鮮烈に残る景色。手嶋さんは「あいつは箱根学園の勝利のためならなんだってする」と吐き捨てた。名前のことだとすぐにわかった。手嶋さんに、他校の人間如きにわかられてたまるかとも思った。
手嶋さんの言葉に嘘はなかったと思う。動揺を誘う精神攻撃にしては拙く、オレも「そうですね」って返事をしてその後の加速で振り落とした。振り落とそうとした……結果は知っての通り。あの後「ゴールまで頑張って」と苗字に声をかけられた手嶋さんは何を思っただろう。今になって思えば、手嶋さんのあれは恨み言ではなかった。多分本心で、今のオレもその言葉は正しいと思う。良くも悪くも、名前は箱根学園の勝利を第一に行動している。
オレが見てきたキャプテンたち。オレはその誰にもなれないし、あの人たちの様にはやれない。オレは未熟で、箱根学園史上初の「二度も総合優勝を逃した」キャプテンだ。猫を呼ばないことが強さの証明になるんじゃないかって、福富さんや泉田さんを上回れるんじゃないかって考えなかったわけじゃなかった。
名前を呼んで困らせた。バシくんも名前を呼んだけど、困らされたのはバシくんの方。オレはそうなれなかった。うまくできなかった。「大丈夫って言って」なんて泣き言、マネージャーに言ったキャプテンはこれまでいなかっただろう。惨めで苦しくて、家までの下り道、走っても走っても満足なんてできなかった。名前が部屋に戻れても、結局こっちは満たされやしないまま。
まとまらない思考は絡まった糸のようで、解すことすら、面倒で煩わしい。いつか解消しなければいけないと分かっていても、先送りにしたくなる。心臓は締め付けられるように痛く、呼吸は不自然に引き攣れる。それでも走る。オレはこの先も猫を呼ぶだろう。優しく撫でて誤魔化して、それが「何」なのかは見ないふりをする。オレはただ走る。来年の夏、今度こそ勝つ。王者の座を取り返す。もう、他の誰にも負けることは許されない。走る。誰よりも速く。走って、走って、次の夏まで。今のオレにできることはそれだけだ。
