去る春、君の声だけが在るIF
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目が覚めたら、私はねこだった。とうとう私の番が来たようだ。何となく「そんな予感」はしていたので、思ったより驚いてはいない。暗い部屋を見渡す。デスクライトしかつけていない。暗い部屋だと気持ちまで暗くなるので電気をつけるべきだと思った。
この部屋には人間がひとり。こちらに背中を向け、備え付けの机に向かって、勉強か何かしている。やっぱり、バシさんだった。いつも見上げるほどに大きいというのに、今日は聳え立つ山の如きデカさだ。いや、私がねこだからなんだけど。大きい背中に向かって呼びかける。
「にゃーん」
当たり前だけど、ねこの声が出た。肩をぴくりと震わせたが、振り返らない。無視は傷つくんですけど!もう一度。
「にゃーん」
「あ?」
さすがに幻聴でないと気づいたバシさんが振り向く。床に視線を落とし、ちんまりと座っているねこに気づく。こちらを呆然と見たが、思ったほどの反応は得られない。ねこについての説明は、先日の事態を重くみた泉田さんと黒田さんによって再度なされている。そして、訳もわからずねこを呼び出した私と違って、バシさんは自身の精神状態についてもよく理解している。よし、寒空の下追い出されるようなことはなさそう。
「名前?」
「にゃーん!」
我々の友情!篤き我々の友情に乾杯!!嬉しすぎて一瞬溶けた。そのまま床を蹴って飛び上がる。我々の2年間に乾杯!ねこの体は結構高く飛んだ。
「お前、これどーすんだよ」
バシさんはまじまじと飛び上がって喜んだねこを見て、それから脱ぎ捨てられた制服を指差す。重たいため息。
「いや、オレが呼び出したんだった……」
「にゃー」
バシさんはくちゃくちゃの男子制服を片付けようとして、やめた。私は知らなかったが、帰還時にそこに乗っかっていれば制服も連れて自室に戻れるらしい。善意でいつも片付けちゃってたよ……
バシさんは床に座ってこちらを見下ろした。床に座ってもまだでかい。見上げて首が痛いのはいつものことだが、「食べられる!」「踏み潰される!」みたいな恐怖はなかった。
「ほらよ」
下から手を出され、こっちが近寄るのを待ってくれる。やったー!ねこの体は大喜びでその手に擦り寄った。ふんふん嗅ぐとくすぐったいのか一度揺れたが、諦めたのかその手が引っ込められることはなかった。味方判定するまでもなく、オッケーです。存分に撫でてください。
ゴロンと床に転がると、わかってると言わんばかりに、強めに撫でられて気持ちがいい…… 黒ねこちゃん がよく遊びに来るから、自転車部の人間は割とねこの扱いには慣れている。首のとこの、わしゃわしゃされるの最高。ねこの体はひっくり返って「もっともっと」と催促する。
「んやにゃにゃ」
「……お前警戒心なさすぎだろ」
失礼な!ちゃんと相手見て、甘えてますよ……ってあ、そこ、そこ最高です、もっとお願いします……ああ〜〜〜っそこ!
「んにゃんんやんんにゃ」
「お前ほんっとうにチョロいな……」
バシさんは感心と呆れ半々のため息を漏らし、それから雑に私の顎下をくすぐった。くそ、雑な触り方なのにちょう気持ちい、っていうかチョロいって何だよ失礼だな、んにゃんにゃん……
ねこの体は喜びに悶え、床を背中で這った末に、私の尻尾とバシさんの膝とがぶつかった。ねこのしっぽはビン洗いブラシみたいなふさふさしたやつだ。柔らかな毛がくすぐった程度だけど、私たちの体は硬直する。あ。
「っ」
「にゃ、にゃにゃ」
「別に、痛かねーよ」
「にゃ……」
本当に?私は思わず体を起こしていつもより遥か上方の友達を見上げた。険しい表情は、本当に傷に障ったのか、自転車に乗れないことを煩わしく思っているのか、考えが読めない。
数日前、バシさんは派手に落車して怪我を負った。膝をはじめ、まだ治りきらぬ傷痕は痛々しいが、幸い暫くの休養で復活できそうだった。珍しい怪我ではない。自転車乗りの脚はみんな傷だらけで、落車なんて単独だろうと集団だろうと珍しいことではない。バシさんの足にもまた傷が増えただけだった。
それでも、あの激しい音。バイクと一緒に地面に転がったその姿には心臓が冷えた。私は部員としてサポートのため柵外から見守っていたが、その瞬間は声も出なかった。他の人間が目に入らなくて、あのジャージ、あの自転車だけがはっきり見えた。一拍のち、「バシさん!」と意識確認のために叫んだ声はひび割れていた。本当に、死んじゃったかと思った。
すぐにバイクと共に起き上がって、意識もあったし自分で歩いて車に乗れた。そのまま病院に直行して、検査の結果幸い骨は無事だった。とはいえ流石の医者もすぐさま自転車に乗っていいと許可は出さず、レイさんも「少し休んだ方がいい」と静かな声で言った。
バシさんは驚くほど無感情に数日の休養を受け入れた。走れなくたって、できることはたくさんある。しかし、走れないことのもどかしさはどれほどだろう。私はなるべく普段通りにニコニコのほほんを心がけたけど、バシさんの顔はずっと険しい。だから、呼ばれてもおかしくはなかった。呼ばれるなら泉田さんか自分だろうという自惚れすらあった。いざ呼ばれてみれば、このザマだけど。
「にゃーん」
「んだよ」
「んにゃーん」
「どういう声なんだよ、それは」
心配してるんだよ。ねこの体が触っても、この足は痛むのだろうか。怪我してから飛びついたりくっついたりみたいなことはしてないから、うっかり触ってしまって焦った。だって、その体の痛みは本人しかわからないから。「元気出して」と手の甲に頭を擦り付けると、ふわふわの毛並みはくすぐったいらしく押し返される。
「やめろって」
「にゃーん」
「んだよ。何が不満だ?」
一応不満を感じ取って、どうにかしてくれるつもりはあるらしい。ねこを人間に戻すには、双方の協力が必要だ。泉田さんはこのねこ呼び出しシステムについて説明した後、私だけ残して「もし呼び出されるようなことがあっても、『君は』何もしなくていい」と言った。「誰かに何かをしてやろうとしなくていい」とも。私が呼び出した先輩や同期はみんな嫌々ながらたくさん撫でさせて、甘えさせてくれた。散々好き放題したのに、私だけ何もしなくていいだなんて、そんなこと。泉田さんは怖い顔で宣言した。
「男子寮なぞに同意もなしに呼び出された以上、奉仕精神は不要だ。わかるね?」
……そうなの?後ろで黒田さんがウンウン頷いてるから、きっとそうなのだと思う。後から教えてもらったけど、泉田さんはねこの私を呼び出したことがあり、ずっとそれを私に隠していたのだという。し、知らなかった……なぜ記憶がないかといえばねこの私は「最初から最後までずっと寝てた」らしい。泉田さんのベッドを占拠して。し、知らなかった……
何もしなくていい、って言いますけど。すみません、泉田さん、黒田さん。ぶっちゃけねこの体は私には制御不能です。やめろって言われても頭を擦り付けるのがやめられません。なんなら、嫌がられれば嫌がられるほど、もっとやりたくなってしまいます。無意味にコロコロその辺転げ回って部屋中めちゃくちゃにしてやりたくなります。これってねこになったせいですか?
「お前……」
「んにゃ!?んにゃ……!?」
バシさんは親指だけで私のほおをくすぐった まず、まずい、そこ……そこ撫でられると何も考えられなくなる。ふわふわして、気持ちよくて、頭とろーんってしてきた、こ、これはまずい……やめてよって抵抗しようとしたのに口を開けても「ちっせえ牙」って鼻で笑われて、会いた口に指先をちらつかされる始末。うにゃーーーーーん!む、むかつく……!ちっさいねこだからって、舐めた態度とりやがって!!身を捩って抵抗しようにも、ガラ空きの顎をわさわさされて陥落。黒ねこちゃん と仲良くなりたいバシさんに、「こうやってよしよししてあげるんだよ」と手取り足とり教えてあげたのが、まさかこんな形で帰ってくるとは!し、知らなかったんです!箱根の山神(東堂さんではない)の力で、人間がねこになるなんて怪事件……知ってたら教えなかったのに!
調子に乗ったバシさんに全身撫で回され、私はんにゃんにゃ鳴いて悶えた。おい尻!さすがに尻触るのはなしでしょーーーーが!尻トントンするのはなしでしょーーーーーが!!いくらねことはいえ、相手は全裸同級生女子だぞ!!な、何が「何かしてやろうとしなくていい」だ!普通に抵抗できないんですけど!!私はバシさんに全身撫で回され、んにゃんにゃぺろぺろしながら(途中から舌が出てて、出てるのはわかってるんだけどコントロールできなかった)小さい脳みその隅っこで懺悔した。ごめん、レイさん、自分が撫で回される身になって初めてわかったよ。これってすっごく恥ずかしいのにすっごく気持ちよくて、この世の終わりみたいな気持ちだ。
◼︎
目が覚めた。無意識に白いふわふわした猫を探したが、部屋のどこにもいなかった。もう、帰ったらしい。猫の名前が部屋に現れたことについては動揺したが取り乱す程ではなかった。自転車部員の間では「猫のあれ」という隠語で通じる、頻繁すぎる怪現象……それがとうとう自分の身に降りかかったというただそれだけ。箱根の迷惑な山神は本気で癒しを提供しているつもりなのだろうか。正直、かなり迷惑だ。
突然部屋に現れた、ふわふわした、小さい白い猫。泉田さんの「たぶん、見た瞬間にわかるよ」の言葉の通り、疑う余地もなく名前だった。何がって……顔が?
そもそも、「にゃー」と呼ぶ声に振り向いてしまったのが、多分よくなかった。「いる」って認識しないで、そのまま寝るのが正解だった。そうすれば名前は「かまって」と鳴いたかもしれないが、それを無視してでも寝るべきだった。寝たふりして、オロオロする白い猫の存在は見ないで、朝を待つべきだった。
こちらが認識した途端、餅みたいに床に溶けた猫。慰めるみたいに膝に触れて、甘えた声を出して頭を擦り付けてくる。雑な手つきでも撫でてやれば嬉しそうににゃーにゃー鳴くので、面白くなってしまって好き放題撫で回した。正直に言えば、こいつの飼い主になったみたいで、誰が上なのかわからせた気分になって、満たされたような気がした。頭の冷静な部分は「猫の小さい脳みそが取ったその行動にどれだけ意味がある?どれほど本人の意思が反映されてる?こいつは誰にだって尻尾振るし、腹もみせるし、甘えてくるんだ。わかってるだろ?」と訴える。「期待するな」と叫ぶ。が、抗えなかった。
自転車に乗れてないフラストレーションを発散した自覚はある。正直、終わってしまえばいい気分ではなかった。褒められない行為だ。他人の体を、好きな女の体を、力づくで好き勝手触った。怒られるに決まってる。誰に?本人に、それから事を知った憧れの人にも。去年、泉田さんは制服に猫を乗せる以外に猫に手出ししなかったらしい。オレとは、大違いだ。あー、大声を出して走り回りたい。今の怪我を治さないと自転車には乗れないし、大声出そうにもまだ日の出前。隣どころか近所一帯に迷惑だ。なんであんな事したんだ、昨日のオレ!
「……とりあえず、腹筋でもしとくか……」
この状況で二度寝できるほど呑気な性格はしていない。ベッドから降りて、筋トレ用にマットを敷いたままの床に足をつける。見覚えのないものが落ちていた。
「なんだこれ……」
制服は、ちゃんと返したはずだ。教わった通りに、力尽きて寝た猫を制服の上に寝かして、うまくいったはずだ。じゃあ、これは何だよ。この、布切れは……
「ぱ」
パンツだ。オレのじゃない。こんな色してないし、この大きさ……マジかよ。
「どーすんだよ、マジで……」
オレは同級生女子のパンツを手に立ち尽くした。どーすんだよこれ。とりあえず、頭をよぎったのは名前の転送に失敗した可能性だった。全裸でその辺に倒れていた場合、貧弱な名前は凍死もありうる。慌てて電話をかけて、祈るような気持ちで発信音を聞く。発信音が途切れ。
「名前!」
「バシさん私のパンツ持ってる!?」
「……持ってる」
「なるべく見ないで、なんかうまいこと朝練の時に返してくれる?なんかいい感じの袋に入れといて、こっそりちょうだい。あ、部屋には戻れましたのでご心配なく」
そういやこいつ、慣れてんだよな……返す側を三度経験しているだけある。最悪の慣れだ。オレは猫を呼び出すような事態は今回だけにしておきたい。
「バシさん?」
「あ?」
「……ちゃんと返してね?」
「ハア!?!?!?」
忍耐も虚しく、全員飛び起きるような大声が出た。朝練より前に説教が確定し、オレは肩を落とす。左手で「うるさ!近所迷惑でしょ!?」と喚くスマホ。誰のせいだよ。そして右手には握りしめたままのパンツ。名前の。か、返すに決まってんだろーが……
この部屋には人間がひとり。こちらに背中を向け、備え付けの机に向かって、勉強か何かしている。やっぱり、バシさんだった。いつも見上げるほどに大きいというのに、今日は聳え立つ山の如きデカさだ。いや、私がねこだからなんだけど。大きい背中に向かって呼びかける。
「にゃーん」
当たり前だけど、ねこの声が出た。肩をぴくりと震わせたが、振り返らない。無視は傷つくんですけど!もう一度。
「にゃーん」
「あ?」
さすがに幻聴でないと気づいたバシさんが振り向く。床に視線を落とし、ちんまりと座っているねこに気づく。こちらを呆然と見たが、思ったほどの反応は得られない。ねこについての説明は、先日の事態を重くみた泉田さんと黒田さんによって再度なされている。そして、訳もわからずねこを呼び出した私と違って、バシさんは自身の精神状態についてもよく理解している。よし、寒空の下追い出されるようなことはなさそう。
「名前?」
「にゃーん!」
我々の友情!篤き我々の友情に乾杯!!嬉しすぎて一瞬溶けた。そのまま床を蹴って飛び上がる。我々の2年間に乾杯!ねこの体は結構高く飛んだ。
「お前、これどーすんだよ」
バシさんはまじまじと飛び上がって喜んだねこを見て、それから脱ぎ捨てられた制服を指差す。重たいため息。
「いや、オレが呼び出したんだった……」
「にゃー」
バシさんはくちゃくちゃの男子制服を片付けようとして、やめた。私は知らなかったが、帰還時にそこに乗っかっていれば制服も連れて自室に戻れるらしい。善意でいつも片付けちゃってたよ……
バシさんは床に座ってこちらを見下ろした。床に座ってもまだでかい。見上げて首が痛いのはいつものことだが、「食べられる!」「踏み潰される!」みたいな恐怖はなかった。
「ほらよ」
下から手を出され、こっちが近寄るのを待ってくれる。やったー!ねこの体は大喜びでその手に擦り寄った。ふんふん嗅ぐとくすぐったいのか一度揺れたが、諦めたのかその手が引っ込められることはなかった。味方判定するまでもなく、オッケーです。存分に撫でてください。
ゴロンと床に転がると、わかってると言わんばかりに、強めに撫でられて気持ちがいい……
「んやにゃにゃ」
「……お前警戒心なさすぎだろ」
失礼な!ちゃんと相手見て、甘えてますよ……ってあ、そこ、そこ最高です、もっとお願いします……ああ〜〜〜っそこ!
「んにゃんんやんんにゃ」
「お前ほんっとうにチョロいな……」
バシさんは感心と呆れ半々のため息を漏らし、それから雑に私の顎下をくすぐった。くそ、雑な触り方なのにちょう気持ちい、っていうかチョロいって何だよ失礼だな、んにゃんにゃん……
ねこの体は喜びに悶え、床を背中で這った末に、私の尻尾とバシさんの膝とがぶつかった。ねこのしっぽはビン洗いブラシみたいなふさふさしたやつだ。柔らかな毛がくすぐった程度だけど、私たちの体は硬直する。あ。
「っ」
「にゃ、にゃにゃ」
「別に、痛かねーよ」
「にゃ……」
本当に?私は思わず体を起こしていつもより遥か上方の友達を見上げた。険しい表情は、本当に傷に障ったのか、自転車に乗れないことを煩わしく思っているのか、考えが読めない。
数日前、バシさんは派手に落車して怪我を負った。膝をはじめ、まだ治りきらぬ傷痕は痛々しいが、幸い暫くの休養で復活できそうだった。珍しい怪我ではない。自転車乗りの脚はみんな傷だらけで、落車なんて単独だろうと集団だろうと珍しいことではない。バシさんの足にもまた傷が増えただけだった。
それでも、あの激しい音。バイクと一緒に地面に転がったその姿には心臓が冷えた。私は部員としてサポートのため柵外から見守っていたが、その瞬間は声も出なかった。他の人間が目に入らなくて、あのジャージ、あの自転車だけがはっきり見えた。一拍のち、「バシさん!」と意識確認のために叫んだ声はひび割れていた。本当に、死んじゃったかと思った。
すぐにバイクと共に起き上がって、意識もあったし自分で歩いて車に乗れた。そのまま病院に直行して、検査の結果幸い骨は無事だった。とはいえ流石の医者もすぐさま自転車に乗っていいと許可は出さず、レイさんも「少し休んだ方がいい」と静かな声で言った。
バシさんは驚くほど無感情に数日の休養を受け入れた。走れなくたって、できることはたくさんある。しかし、走れないことのもどかしさはどれほどだろう。私はなるべく普段通りにニコニコのほほんを心がけたけど、バシさんの顔はずっと険しい。だから、呼ばれてもおかしくはなかった。呼ばれるなら泉田さんか自分だろうという自惚れすらあった。いざ呼ばれてみれば、このザマだけど。
「にゃーん」
「んだよ」
「んにゃーん」
「どういう声なんだよ、それは」
心配してるんだよ。ねこの体が触っても、この足は痛むのだろうか。怪我してから飛びついたりくっついたりみたいなことはしてないから、うっかり触ってしまって焦った。だって、その体の痛みは本人しかわからないから。「元気出して」と手の甲に頭を擦り付けると、ふわふわの毛並みはくすぐったいらしく押し返される。
「やめろって」
「にゃーん」
「んだよ。何が不満だ?」
一応不満を感じ取って、どうにかしてくれるつもりはあるらしい。ねこを人間に戻すには、双方の協力が必要だ。泉田さんはこのねこ呼び出しシステムについて説明した後、私だけ残して「もし呼び出されるようなことがあっても、『君は』何もしなくていい」と言った。「誰かに何かをしてやろうとしなくていい」とも。私が呼び出した先輩や同期はみんな嫌々ながらたくさん撫でさせて、甘えさせてくれた。散々好き放題したのに、私だけ何もしなくていいだなんて、そんなこと。泉田さんは怖い顔で宣言した。
「男子寮なぞに同意もなしに呼び出された以上、奉仕精神は不要だ。わかるね?」
……そうなの?後ろで黒田さんがウンウン頷いてるから、きっとそうなのだと思う。後から教えてもらったけど、泉田さんはねこの私を呼び出したことがあり、ずっとそれを私に隠していたのだという。し、知らなかった……なぜ記憶がないかといえばねこの私は「最初から最後までずっと寝てた」らしい。泉田さんのベッドを占拠して。し、知らなかった……
何もしなくていい、って言いますけど。すみません、泉田さん、黒田さん。ぶっちゃけねこの体は私には制御不能です。やめろって言われても頭を擦り付けるのがやめられません。なんなら、嫌がられれば嫌がられるほど、もっとやりたくなってしまいます。無意味にコロコロその辺転げ回って部屋中めちゃくちゃにしてやりたくなります。これってねこになったせいですか?
「お前……」
「んにゃ!?んにゃ……!?」
バシさんは親指だけで私のほおをくすぐった まず、まずい、そこ……そこ撫でられると何も考えられなくなる。ふわふわして、気持ちよくて、頭とろーんってしてきた、こ、これはまずい……やめてよって抵抗しようとしたのに口を開けても「ちっせえ牙」って鼻で笑われて、会いた口に指先をちらつかされる始末。うにゃーーーーーん!む、むかつく……!ちっさいねこだからって、舐めた態度とりやがって!!身を捩って抵抗しようにも、ガラ空きの顎をわさわさされて陥落。
調子に乗ったバシさんに全身撫で回され、私はんにゃんにゃ鳴いて悶えた。おい尻!さすがに尻触るのはなしでしょーーーーが!尻トントンするのはなしでしょーーーーーが!!いくらねことはいえ、相手は全裸同級生女子だぞ!!な、何が「何かしてやろうとしなくていい」だ!普通に抵抗できないんですけど!!私はバシさんに全身撫で回され、んにゃんにゃぺろぺろしながら(途中から舌が出てて、出てるのはわかってるんだけどコントロールできなかった)小さい脳みその隅っこで懺悔した。ごめん、レイさん、自分が撫で回される身になって初めてわかったよ。これってすっごく恥ずかしいのにすっごく気持ちよくて、この世の終わりみたいな気持ちだ。
◼︎
目が覚めた。無意識に白いふわふわした猫を探したが、部屋のどこにもいなかった。もう、帰ったらしい。猫の名前が部屋に現れたことについては動揺したが取り乱す程ではなかった。自転車部員の間では「猫のあれ」という隠語で通じる、頻繁すぎる怪現象……それがとうとう自分の身に降りかかったというただそれだけ。箱根の迷惑な山神は本気で癒しを提供しているつもりなのだろうか。正直、かなり迷惑だ。
突然部屋に現れた、ふわふわした、小さい白い猫。泉田さんの「たぶん、見た瞬間にわかるよ」の言葉の通り、疑う余地もなく名前だった。何がって……顔が?
そもそも、「にゃー」と呼ぶ声に振り向いてしまったのが、多分よくなかった。「いる」って認識しないで、そのまま寝るのが正解だった。そうすれば名前は「かまって」と鳴いたかもしれないが、それを無視してでも寝るべきだった。寝たふりして、オロオロする白い猫の存在は見ないで、朝を待つべきだった。
こちらが認識した途端、餅みたいに床に溶けた猫。慰めるみたいに膝に触れて、甘えた声を出して頭を擦り付けてくる。雑な手つきでも撫でてやれば嬉しそうににゃーにゃー鳴くので、面白くなってしまって好き放題撫で回した。正直に言えば、こいつの飼い主になったみたいで、誰が上なのかわからせた気分になって、満たされたような気がした。頭の冷静な部分は「猫の小さい脳みそが取ったその行動にどれだけ意味がある?どれほど本人の意思が反映されてる?こいつは誰にだって尻尾振るし、腹もみせるし、甘えてくるんだ。わかってるだろ?」と訴える。「期待するな」と叫ぶ。が、抗えなかった。
自転車に乗れてないフラストレーションを発散した自覚はある。正直、終わってしまえばいい気分ではなかった。褒められない行為だ。他人の体を、好きな女の体を、力づくで好き勝手触った。怒られるに決まってる。誰に?本人に、それから事を知った憧れの人にも。去年、泉田さんは制服に猫を乗せる以外に猫に手出ししなかったらしい。オレとは、大違いだ。あー、大声を出して走り回りたい。今の怪我を治さないと自転車には乗れないし、大声出そうにもまだ日の出前。隣どころか近所一帯に迷惑だ。なんであんな事したんだ、昨日のオレ!
「……とりあえず、腹筋でもしとくか……」
この状況で二度寝できるほど呑気な性格はしていない。ベッドから降りて、筋トレ用にマットを敷いたままの床に足をつける。見覚えのないものが落ちていた。
「なんだこれ……」
制服は、ちゃんと返したはずだ。教わった通りに、力尽きて寝た猫を制服の上に寝かして、うまくいったはずだ。じゃあ、これは何だよ。この、布切れは……
「ぱ」
パンツだ。オレのじゃない。こんな色してないし、この大きさ……マジかよ。
「どーすんだよ、マジで……」
オレは同級生女子のパンツを手に立ち尽くした。どーすんだよこれ。とりあえず、頭をよぎったのは名前の転送に失敗した可能性だった。全裸でその辺に倒れていた場合、貧弱な名前は凍死もありうる。慌てて電話をかけて、祈るような気持ちで発信音を聞く。発信音が途切れ。
「名前!」
「バシさん私のパンツ持ってる!?」
「……持ってる」
「なるべく見ないで、なんかうまいこと朝練の時に返してくれる?なんかいい感じの袋に入れといて、こっそりちょうだい。あ、部屋には戻れましたのでご心配なく」
そういやこいつ、慣れてんだよな……返す側を三度経験しているだけある。最悪の慣れだ。オレは猫を呼び出すような事態は今回だけにしておきたい。
「バシさん?」
「あ?」
「……ちゃんと返してね?」
「ハア!?!?!?」
忍耐も虚しく、全員飛び起きるような大声が出た。朝練より前に説教が確定し、オレは肩を落とす。左手で「うるさ!近所迷惑でしょ!?」と喚くスマホ。誰のせいだよ。そして右手には握りしめたままのパンツ。名前の。か、返すに決まってんだろーが……
