去る春、君の声だけが在るIF
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目が覚めたらボクは猫だった。ついに来たか。両腕が前足になっている不思議な感覚、それだけでなく、自分の体が常と異なる状況に全身の筋肉がざわめいている。「心配いらないよ」と宥めるように息を吐き、四つ足の体をゆっくりと起こす。家主は誰かなんて探るまでもなかった。名前はベッドに横たわって静かに眠っている。パジャマを着ているから、今日は寝落ちしたわけではないらしい。
ボク自身猫を呼び出したことは数回あるが、呼び出されるのは初めての経験だった。まず最初にすることは、あの機械の確認。猫の体ではベッドの高さから飛び降りるのは勇気がいったが、猫の体は案外問題なく着地した。
あった、メーター。左端が「min」、右端が「max」。針は「呼び出した人間」の満足度を表し、これが「max」に到達すると猫は人間に戻れるという仕組みだ。メーターの針はまだ頂上にも達していないから長丁場を覚悟しなければならないだろう。
箱根の山神(東堂さんじゃない方)は随分と気まぐれで悪戯が好きらしい。ボクがそのことを知ったのは、去年の秋に正しくキャプテンの任を受け入れたその頃だった。前任者である福富さんから聞いた。強豪校の背負うプレッシャー、各人の悩み、苦しみ、それを見た箱根の山神がせめてもの癒しを提供するべく、親しい人間を猫の姿に変えて送り込むのだ。なんて迷惑な話だろう。初めて聞いた時は、正直……信じがたいと思ったが実際この身に降りかかってみれば、中々厄介だった。自分の精神状態がコントロールできない時に意図せず現れるふわふわの生き物。
ボクも去年は何度か「猫を呼び出した」ものだが、名前はそのことを知らない。ボクの場合は最初に新開さんを呼び出してしまって、翌朝姿の見えない新開さんを探し回って大変だった。部屋に取り残された制服を返し、「『呼んで』もらえるうちが華だよ。気にするな」と笑って返された日が懐かしい。その時新開さんから教えてもらったのは、先輩方もだいたい皆一度は猫を呼び出したことがあるいうこと。名前が初めて呼び出した相手である拓斗は「呼び出したことも、呼び出されたこともなかった」と言っていたけど、猫化現象 自体はある意味自転車部の冬の風物詩らしかった。
猫の体ではこの部屋の全てが大きく見える。何気なく見渡して、吊るしてある女子制服に気付き慌ててやめた。そうだ、ここは女子寮で、名前の部屋だった。呼ばれる側になれば「こういうこと」もあるのだと、ため息が出そうになる。名前は知らないが、名前は一度「猫として呼び出され」ボクの部屋に来たことがある。あの時も手に負えない事態に困らされたが、今回も同じくらい厄介な状況だ。女子寮への侵入は最悪停学措置……なるべく早く、夜明けより前に、自室に戻らなければいけない。
あの時……今からちょうど1年ほど前、ボクが「呼び出してしまった」猫の名前は一度も目を覚ますこともなく、眠っていた。ふわふわとした毛の、小さい猫だった。脱ぎ捨てられた制服の学生証を確認するまでもなく、名前という確信があった。ベッドのど真ん中で丸くなってしまったから、無理やり退かすわけにもいかず、ボクはそれを眺めているだけだった。撫でてやるどころか手を伸ばすことすらしないでいたのに、針はじわじわと「max」へ進み、不思議だったのを覚えている。
そういう訳だから、真波には引き継ぎついでに猫のことも伝えてあった。ボクが新開さんの猫を呼び出したように、いつか銅橋や名前に呼び出されることもあるだろうとは思っていた。呼び出されるうちが華だと、憧れの先輩と同じ言葉を口にするつもりでいた。それなのに、呼び出した側が寝ているのはいかがなものか。名前は静かに眠っていて、起きる気配もない。
振り返って、懸念のふたつめ……床に落ちている制服の塊を見る。名前は猫を制服ごと返す方法を知らないようで、全員全裸で自室に戻しているらしい。ある朝、ネクタイとブレザーなしの格好をしていた拓斗をユキが「朝帰りかよ?」と揶揄った。確かに珍しい格好ではあった。拓斗は否定せず、すごく答えづらそうにしていて、ユキとふたりで首を傾げた。
その後慌てた様子で制服を届けにきた名前が「猫の葦木場さん」と口にして、ボクは全ての事情を察し、ユキは絶句した。沈黙するボク達を見て、拓斗は「何もなかった」と必死に主張し、名前も半泣きで「私が悪いんです」と口にして事態をややこしくした。
あの時は訳もわからず猫の先輩を呼び出した挙句、翌朝目を覚まして脱ぎ捨てられた制服だけを発見する、その不安な心情を思って、ユキもボクも強く叱れなかったという訳だが。
しかしあの時詳しく話を聞いて、説明しておくべきだったのかもしれない。あの時「真波が詳しく話すだろう」とユキとふたりで問題を先送りにした結果、名前は猫として呼び出したふたり共を全裸で部屋に返している。あの時ちゃんと教えておけば良かった。
ボクらにとってこの状況はかなりまずい。寮は門限があり、そもそも女子寮は男子禁制だ。全裸だろうがなんだろうが自室に戻れればいいけど、帰還に失敗した時が問題だ。出入りがバレて反省文で済めばいいが、全裸で発見された場合は本当にまずい。停学どころではない。3年は受験を控え、後輩たちは次の夏に向けて努力している。寮則違反で停学になっている暇はない。「これまで」呼び出された部員は皆上手く名前を満足させて朝までに自室へ帰還している。ただし、全裸で。本当にどうしたものか……
「ん……」
声に驚いて、ベッドの上を見上げる。寝言だ。猫を呼び出たのだからストレスを感じているだろうに、そうは見えない呑気さ。
呼び出した本人が寝ていては針も進まないので、どうにかしてベッドを登ろうと画策する。帰還条件は「呼び出した人間が満足すること」。かつて呼び出した側でもあるボクもそれはよくわかっている。だから名前に起きてもらわないと……猫の体を駆使してベッドに飛びあがろうとしたら、失敗して床に転がった。ぜ、全然届かない……猫の体なら、これくらいの高さは簡単に飛び上がれる、というわけにはいかないらしい。こんなところまで元の体の能力を「引き継が」なくてもいいのに……人間の体でなくなってしまったせいで、アンディもフランクも大混乱中だ。早く元の体に戻って安心させてやらなければ……
「な、に……?」
まずい起こした。いや、起きてもらわないことには、解決しないのだけど。
「……ねこ?」
寝起きの声、名前はゆっくりと身を起こして、音の発生源であるベッドの下を覗き込む。寝起きの瞳がこちらを見ていた。潤んだ瞳がゆっくりと一度瞬きして、体の違いでただでさえ速い心臓が意味不明に暴れ回る。最悪、この猫が誰なのかはわかってもらえなくてもいい。朝までにこの30パーセントにも満たない満足度メーターを満タンにして、制服を連れて自室に帰還さえできれば。
名前は寝ぼけた顔のままこちらを見て「びにゃん」と呟き、直後カッと目を見開いた。
「って、泉田さん!?!?!?」
ああ、察しのいいことで。
「うわすみません、ついに泉田さんまで猫に……!」
名前はベッドを転がり落ちてきて、猫の顔を覗き込み「そうですよね!?この可憐なお顔立ち!間違いなく!」と勝手に納得した。一体何が決め手で判断したのか、よくわからないがとりあえず第一関門はクリアしたと言えよう。
「あ〜すみません、床冷たいでしょう、ちょっと失礼しますね」
「ニャッ」
「頼むよ」なんて一言も言ってないのに、脇を掴まれて持ち上げられてしまう。猫の体では床が遠く、宙ぶらりんの状況が恐ろしい……というのに名前は呑気なもので。慣れた手つきで抵抗する間もなく抱き抱えられてしまった。
「ニャナッニャニャッ」
「ヤですか?抱っこは上手なはずなんだけどな〜」
「ニャニャッ」
上手い下手かで言ったら多分上手いけど、気持ちの問題で嫌なんだよ!必死に鳴いて下ろしてくれとアピールしても、名前は「ふわふわ〜よしよ〜し」と被毛を撫でて、謎のメロディで歌いながら、呑気に揺れている。名前!
「ニャー……」
「大丈夫ですよ。みんなちゃんと人間に戻れてますから!なぜかみんな制服はここで脱いじゃったきりそのままみたいなんですけど……明日の朝ちゃんとお持ちしますので」
だ、か、ら!全く安心できないんだ!それに好んでここで制服を脱いだ訳じゃなくて、不可抗力!ジタバタ暴れても、名前は「あ、せっかくですし鏡見ときます?」と勧めてくる始末。こちらが事情を知らないと思われているらしい。ちなみに、1年前は猫の名前を制服の上に寝かしておく手法で、制服ごと送り返した。本当に、自分が呼び出される前に教えておくんだった!こちらの絶望をどう受け取ったのか、名前は「眠れないなら、朝までお付き合いしますよ」と笑って見せた。「大丈夫ですよ」とゆっくりと瞬きをする瞳を見つめ返し、答えるようにこちらも一度瞬き。しかし、何も安心できない。
いちばんまずいのは、こうして話をする間にも名前は猫の体を撫で続け、それをこの体は「悪くない」どころか「気持ちがいい」「嬉しい」と感じていることだ。困った。由々しき事態だ。本当に、取り返しのつかなくなる前に、早くこの腕の中から脱出して、かつ名前を満足させて、元の体を取り戻さなければ……!
名前がふうとため息をつく。
「……スーハーしてもいいですか?」
「ニャッ」
スーハー?首を傾げたのを同意と受け取ったのか、名前は「失礼します」と猫の体をベッドに下ろす。困惑している間にころんと転がされ。まずいと思った時にはすでに遅かった。
「あーーあったかいねこねこねこねこ……ねこだ……スーーーーーーーーー」
「ニャ……!?ニャニャ……!?」
「スーハー」って、猫の体の匂いを嗅ぐことか!?名前は短い被毛に顔を埋め、息を深く吸った。その間も名前は体を撫で回すことをやめず、猫の体は抵抗できずにぴくぴく震えた。常日頃意のままに動く自分の体が自分の意思に従わないことは恐ろしく、それなのに猫の体は抵抗しようにも思考すらままならない。耳のそばを撫でられれば甘えるような鳴き声が漏れて、それが自身の喉から発せられたことに愕然とする間もなく攻め手はやまない。
「ふふ、先輩見て。かわいいですね」
撫で回す手が止まり、腹部に触れる温かい感触も止んだ。名前の笑う声にはっとして目を開ける。猫のしっぽが「もっともっと」と言うように名前に擦り寄っていた。愕然とする。猫のしっぽ、されど今は自分の体だ。
「ニャッ」
本当の本当に、これ以上は言い訳できない。自分の意思で抑制できない自由なこの体、そしてこの体がとった行動は、「理性のない猫だったから」で言い逃れできるものではない気がする。明朝無事人間の体を取り戻したとして、名前の憧れる先輩の姿からかけ離れた姿を晒したことは、きっと恥じて己の未熟さを反省すべきことで、なのに、なんだこの感情は!?
「ふふん、最初は『二度と触るな下手くそ』だの『どこ触ってんだ馬鹿』だのみんなにさんざん言われましたけど、練習を重ねて上手になったんですよ!なでなで王と呼んでくれてもいいんですよ!」
馬鹿、そんな余計な練習積まなくていい、一体どこの誰で練習したんだ、ンニャッ!そこは、ふにゃ、あ、あああ……
「気持ちいですか?ふふん、そうでしょう、そうでしょう……ねこちゃんはみーんなこのほっぺのとこが好きなんですよ〜」
「ニャニャッニャ……!」
頼むユキ、今すぐこの部屋に突入してきて「早く寝ろ!」って大声出してくれないか。このまま撫で回されたらおかしくなる、理性のない猫の体は今に取り返しのつかないことをしでかすだろう。既にこの体はボクの理解の及ばない行動で好意を示そうとしている。揺れるしっぽ、名前の柔らかい膝に擦り寄る行為、甘えた鳴き声。小さい脳みその片隅で警鐘を鳴らす。
逃げよう。暴れてでも無理やりにでも、逃げるしかない。名前の柔らかい体に爪を立て傷つけることは本意ではないけど、好き勝手撫で回す名前の手を止めるにはそれくらいしか思いつかない。隙をついて身を捩り、拘束から抜け出す。無我夢中でベッドから飛び降りた。うっかり爪が出て、名前が「あっ」と小さな声をあげた。床に着地して、ベッドの上を振り返る。名前が驚いた顔でこちらを見ていた。手の甲の、真新しい引っかき傷に血が滲む。
「急に暴れないでください。爪!シーツに引っかけたら危ないですよ」
危ないのは君の方だろう!?痛い思いをしたのに、どうして。相反する感情を口にしようにも、喉から出るのは不満げなにゃあにゃあという鳴き声。名前を振り切って、例の機械を覗き込む。ギュインギュインとすごい勢いで右に向かって針が振れている。
「……」
耳がペタリと倒れた。反省したというより、「もういいや、どうにでもなれ」というのが正直な気持ちかもしれない。この猫かもよくわからない生き物(中身が人間であると言う時点で正しく猫であるかは疑わしい)を撫でることで、疲れきってすり減った後輩の心が休まると言うなら、黙って撫でられてやるのが良い先輩のあるべき姿なのかもしれない。拓斗もそう思って大人しく撫で回されたのかもしれない。
「撫ですぎでしたか?……嫌な気持ちにさせちゃいましたか」
だから、そんな困った顔を、不安そうな声を出さないでほしい。ベッドを振り返ると、泣きそうな顔で名前はこちらを見ていた。先ほどまで猫の体を撫で回していた両の手は心許なくパジャマを着た胸の前で組まれている。
タイマーを一瞥、針はすでに8割を越した。名前がこの行為で満たされていることの証明だった。諦めて、制服の上まで移動して横たわる。もうこうなったら、最後に制服と一緒に部屋に戻してもらえればなんだっていい。「おいで」と声をかけたはずが、やっぱり猫の鳴き声だった。
「ニャア」
「……いいんですか?」
猫の鳴き声でも正しく名前に意図は伝わった。さっきまでの態度は何だったのかと言いたくなるほど慎重に指先が触れる。
「ニャア」
「……嬉しいです。あったかいです」
名前は猫のあたたかさに感激していたけど、こうしてみると優しく撫でてくる人間の手の温かさというものも悪くはなかった。気持ちよくて目を閉じると、名前はすかさず頭を撫でてくる。後悔も反省も、人間の体に戻ってからでいいだろう。何せこの体はそういう複雑な感情が如実に体に現れる。もういいや、どうにでもなれ……いややっぱり、腹に顔を埋めるのだけは勘弁してほしい。腹を守るように体を丸めると、名前は「人間の時はところ構わず見せびらかしてる癖に……」と残念そうなため息を吐いた。
◼︎
目が覚めた。身を起こせば、「慣れた」体、見慣れた自室。全身の筋肉が「恐ろしい目に遭った」とざわめいている。「怖い思いをさせてすまなかったね」と労わろうとして、制服を着ていないことにため息をつく。名前に最後「床は冷たいでしょう」とベッドに連れ戻されたせいで、制服は一緒に帰してもらえなかったのだ。大失態だ。
「夢なら良かったのに」と一瞬悔やむが、夢だとしたらとんでもない夢だった。夢は自身の願望を写す鏡だと言うのなら、あれは夢じゃないと否定したくなる……制服を返してもらえなかった以上、間違いなく現実なのだが。
とにかく、制服を回収しないと。名前が朝練に行く時間にはまだ早いだろうか。しかし、もたもたしていてユキに見つかるような事態だけは避けたい……厄介なことになった。
……今後に備えて制服と一緒に返す方法を教えてやるべきか。あとは「タイマー」の終了を待たず寝落ちするのはやめるように言った方がいいかもしれない。やっぱり一度詳しい「猫を呼び出す仕組み」を説明しておくべきだろう。今度こそ、詳しく。しかし「どうして泉田さんがそんなこと知ってるんですか?」と言われたら困るな。自分もかつて猫を呼び出したことがあると伝えたら、きっとその原因を知った名前の顔は曇るだろう。昨晩と同じように。……それは避けたかった。
しかしキャプテンを真波に引き継いだ後も、後輩に悩まされるとは。今年「猫」を呼び出しているのは今のところ名前だけのようだが、他の部員も同じように呼び出す可能性も考えなければ。改めて真波に言っておくか……いや、名前も呼んでふたりまとめて話をしよう。朝練の後でいいか……他にやることは、何があるだろう。とりあえずパンツはこう。
ボク自身猫を呼び出したことは数回あるが、呼び出されるのは初めての経験だった。まず最初にすることは、あの機械の確認。猫の体ではベッドの高さから飛び降りるのは勇気がいったが、猫の体は案外問題なく着地した。
あった、メーター。左端が「min」、右端が「max」。針は「呼び出した人間」の満足度を表し、これが「max」に到達すると猫は人間に戻れるという仕組みだ。メーターの針はまだ頂上にも達していないから長丁場を覚悟しなければならないだろう。
箱根の山神(東堂さんじゃない方)は随分と気まぐれで悪戯が好きらしい。ボクがそのことを知ったのは、去年の秋に正しくキャプテンの任を受け入れたその頃だった。前任者である福富さんから聞いた。強豪校の背負うプレッシャー、各人の悩み、苦しみ、それを見た箱根の山神がせめてもの癒しを提供するべく、親しい人間を猫の姿に変えて送り込むのだ。なんて迷惑な話だろう。初めて聞いた時は、正直……信じがたいと思ったが実際この身に降りかかってみれば、中々厄介だった。自分の精神状態がコントロールできない時に意図せず現れるふわふわの生き物。
ボクも去年は何度か「猫を呼び出した」ものだが、名前はそのことを知らない。ボクの場合は最初に新開さんを呼び出してしまって、翌朝姿の見えない新開さんを探し回って大変だった。部屋に取り残された制服を返し、「『呼んで』もらえるうちが華だよ。気にするな」と笑って返された日が懐かしい。その時新開さんから教えてもらったのは、先輩方もだいたい皆一度は猫を呼び出したことがあるいうこと。名前が初めて呼び出した相手である拓斗は「呼び出したことも、呼び出されたこともなかった」と言っていたけど、
猫の体ではこの部屋の全てが大きく見える。何気なく見渡して、吊るしてある女子制服に気付き慌ててやめた。そうだ、ここは女子寮で、名前の部屋だった。呼ばれる側になれば「こういうこと」もあるのだと、ため息が出そうになる。名前は知らないが、名前は一度「猫として呼び出され」ボクの部屋に来たことがある。あの時も手に負えない事態に困らされたが、今回も同じくらい厄介な状況だ。女子寮への侵入は最悪停学措置……なるべく早く、夜明けより前に、自室に戻らなければいけない。
あの時……今からちょうど1年ほど前、ボクが「呼び出してしまった」猫の名前は一度も目を覚ますこともなく、眠っていた。ふわふわとした毛の、小さい猫だった。脱ぎ捨てられた制服の学生証を確認するまでもなく、名前という確信があった。ベッドのど真ん中で丸くなってしまったから、無理やり退かすわけにもいかず、ボクはそれを眺めているだけだった。撫でてやるどころか手を伸ばすことすらしないでいたのに、針はじわじわと「max」へ進み、不思議だったのを覚えている。
そういう訳だから、真波には引き継ぎついでに猫のことも伝えてあった。ボクが新開さんの猫を呼び出したように、いつか銅橋や名前に呼び出されることもあるだろうとは思っていた。呼び出されるうちが華だと、憧れの先輩と同じ言葉を口にするつもりでいた。それなのに、呼び出した側が寝ているのはいかがなものか。名前は静かに眠っていて、起きる気配もない。
振り返って、懸念のふたつめ……床に落ちている制服の塊を見る。名前は猫を制服ごと返す方法を知らないようで、全員全裸で自室に戻しているらしい。ある朝、ネクタイとブレザーなしの格好をしていた拓斗をユキが「朝帰りかよ?」と揶揄った。確かに珍しい格好ではあった。拓斗は否定せず、すごく答えづらそうにしていて、ユキとふたりで首を傾げた。
その後慌てた様子で制服を届けにきた名前が「猫の葦木場さん」と口にして、ボクは全ての事情を察し、ユキは絶句した。沈黙するボク達を見て、拓斗は「何もなかった」と必死に主張し、名前も半泣きで「私が悪いんです」と口にして事態をややこしくした。
あの時は訳もわからず猫の先輩を呼び出した挙句、翌朝目を覚まして脱ぎ捨てられた制服だけを発見する、その不安な心情を思って、ユキもボクも強く叱れなかったという訳だが。
しかしあの時詳しく話を聞いて、説明しておくべきだったのかもしれない。あの時「真波が詳しく話すだろう」とユキとふたりで問題を先送りにした結果、名前は猫として呼び出したふたり共を全裸で部屋に返している。あの時ちゃんと教えておけば良かった。
ボクらにとってこの状況はかなりまずい。寮は門限があり、そもそも女子寮は男子禁制だ。全裸だろうがなんだろうが自室に戻れればいいけど、帰還に失敗した時が問題だ。出入りがバレて反省文で済めばいいが、全裸で発見された場合は本当にまずい。停学どころではない。3年は受験を控え、後輩たちは次の夏に向けて努力している。寮則違反で停学になっている暇はない。「これまで」呼び出された部員は皆上手く名前を満足させて朝までに自室へ帰還している。ただし、全裸で。本当にどうしたものか……
「ん……」
声に驚いて、ベッドの上を見上げる。寝言だ。猫を呼び出たのだからストレスを感じているだろうに、そうは見えない呑気さ。
呼び出した本人が寝ていては針も進まないので、どうにかしてベッドを登ろうと画策する。帰還条件は「呼び出した人間が満足すること」。かつて呼び出した側でもあるボクもそれはよくわかっている。だから名前に起きてもらわないと……猫の体を駆使してベッドに飛びあがろうとしたら、失敗して床に転がった。ぜ、全然届かない……猫の体なら、これくらいの高さは簡単に飛び上がれる、というわけにはいかないらしい。こんなところまで元の体の能力を「引き継が」なくてもいいのに……人間の体でなくなってしまったせいで、アンディもフランクも大混乱中だ。早く元の体に戻って安心させてやらなければ……
「な、に……?」
まずい起こした。いや、起きてもらわないことには、解決しないのだけど。
「……ねこ?」
寝起きの声、名前はゆっくりと身を起こして、音の発生源であるベッドの下を覗き込む。寝起きの瞳がこちらを見ていた。潤んだ瞳がゆっくりと一度瞬きして、体の違いでただでさえ速い心臓が意味不明に暴れ回る。最悪、この猫が誰なのかはわかってもらえなくてもいい。朝までにこの30パーセントにも満たない満足度メーターを満タンにして、制服を連れて自室に帰還さえできれば。
名前は寝ぼけた顔のままこちらを見て「びにゃん」と呟き、直後カッと目を見開いた。
「って、泉田さん!?!?!?」
ああ、察しのいいことで。
「うわすみません、ついに泉田さんまで猫に……!」
名前はベッドを転がり落ちてきて、猫の顔を覗き込み「そうですよね!?この可憐なお顔立ち!間違いなく!」と勝手に納得した。一体何が決め手で判断したのか、よくわからないがとりあえず第一関門はクリアしたと言えよう。
「あ〜すみません、床冷たいでしょう、ちょっと失礼しますね」
「ニャッ」
「頼むよ」なんて一言も言ってないのに、脇を掴まれて持ち上げられてしまう。猫の体では床が遠く、宙ぶらりんの状況が恐ろしい……というのに名前は呑気なもので。慣れた手つきで抵抗する間もなく抱き抱えられてしまった。
「ニャナッニャニャッ」
「ヤですか?抱っこは上手なはずなんだけどな〜」
「ニャニャッ」
上手い下手かで言ったら多分上手いけど、気持ちの問題で嫌なんだよ!必死に鳴いて下ろしてくれとアピールしても、名前は「ふわふわ〜よしよ〜し」と被毛を撫でて、謎のメロディで歌いながら、呑気に揺れている。名前!
「ニャー……」
「大丈夫ですよ。みんなちゃんと人間に戻れてますから!なぜかみんな制服はここで脱いじゃったきりそのままみたいなんですけど……明日の朝ちゃんとお持ちしますので」
だ、か、ら!全く安心できないんだ!それに好んでここで制服を脱いだ訳じゃなくて、不可抗力!ジタバタ暴れても、名前は「あ、せっかくですし鏡見ときます?」と勧めてくる始末。こちらが事情を知らないと思われているらしい。ちなみに、1年前は猫の名前を制服の上に寝かしておく手法で、制服ごと送り返した。本当に、自分が呼び出される前に教えておくんだった!こちらの絶望をどう受け取ったのか、名前は「眠れないなら、朝までお付き合いしますよ」と笑って見せた。「大丈夫ですよ」とゆっくりと瞬きをする瞳を見つめ返し、答えるようにこちらも一度瞬き。しかし、何も安心できない。
いちばんまずいのは、こうして話をする間にも名前は猫の体を撫で続け、それをこの体は「悪くない」どころか「気持ちがいい」「嬉しい」と感じていることだ。困った。由々しき事態だ。本当に、取り返しのつかなくなる前に、早くこの腕の中から脱出して、かつ名前を満足させて、元の体を取り戻さなければ……!
名前がふうとため息をつく。
「……スーハーしてもいいですか?」
「ニャッ」
スーハー?首を傾げたのを同意と受け取ったのか、名前は「失礼します」と猫の体をベッドに下ろす。困惑している間にころんと転がされ。まずいと思った時にはすでに遅かった。
「あーーあったかいねこねこねこねこ……ねこだ……スーーーーーーーーー」
「ニャ……!?ニャニャ……!?」
「スーハー」って、猫の体の匂いを嗅ぐことか!?名前は短い被毛に顔を埋め、息を深く吸った。その間も名前は体を撫で回すことをやめず、猫の体は抵抗できずにぴくぴく震えた。常日頃意のままに動く自分の体が自分の意思に従わないことは恐ろしく、それなのに猫の体は抵抗しようにも思考すらままならない。耳のそばを撫でられれば甘えるような鳴き声が漏れて、それが自身の喉から発せられたことに愕然とする間もなく攻め手はやまない。
「ふふ、先輩見て。かわいいですね」
撫で回す手が止まり、腹部に触れる温かい感触も止んだ。名前の笑う声にはっとして目を開ける。猫のしっぽが「もっともっと」と言うように名前に擦り寄っていた。愕然とする。猫のしっぽ、されど今は自分の体だ。
「ニャッ」
本当の本当に、これ以上は言い訳できない。自分の意思で抑制できない自由なこの体、そしてこの体がとった行動は、「理性のない猫だったから」で言い逃れできるものではない気がする。明朝無事人間の体を取り戻したとして、名前の憧れる先輩の姿からかけ離れた姿を晒したことは、きっと恥じて己の未熟さを反省すべきことで、なのに、なんだこの感情は!?
「ふふん、最初は『二度と触るな下手くそ』だの『どこ触ってんだ馬鹿』だのみんなにさんざん言われましたけど、練習を重ねて上手になったんですよ!なでなで王と呼んでくれてもいいんですよ!」
馬鹿、そんな余計な練習積まなくていい、一体どこの誰で練習したんだ、ンニャッ!そこは、ふにゃ、あ、あああ……
「気持ちいですか?ふふん、そうでしょう、そうでしょう……ねこちゃんはみーんなこのほっぺのとこが好きなんですよ〜」
「ニャニャッニャ……!」
頼むユキ、今すぐこの部屋に突入してきて「早く寝ろ!」って大声出してくれないか。このまま撫で回されたらおかしくなる、理性のない猫の体は今に取り返しのつかないことをしでかすだろう。既にこの体はボクの理解の及ばない行動で好意を示そうとしている。揺れるしっぽ、名前の柔らかい膝に擦り寄る行為、甘えた鳴き声。小さい脳みその片隅で警鐘を鳴らす。
逃げよう。暴れてでも無理やりにでも、逃げるしかない。名前の柔らかい体に爪を立て傷つけることは本意ではないけど、好き勝手撫で回す名前の手を止めるにはそれくらいしか思いつかない。隙をついて身を捩り、拘束から抜け出す。無我夢中でベッドから飛び降りた。うっかり爪が出て、名前が「あっ」と小さな声をあげた。床に着地して、ベッドの上を振り返る。名前が驚いた顔でこちらを見ていた。手の甲の、真新しい引っかき傷に血が滲む。
「急に暴れないでください。爪!シーツに引っかけたら危ないですよ」
危ないのは君の方だろう!?痛い思いをしたのに、どうして。相反する感情を口にしようにも、喉から出るのは不満げなにゃあにゃあという鳴き声。名前を振り切って、例の機械を覗き込む。ギュインギュインとすごい勢いで右に向かって針が振れている。
「……」
耳がペタリと倒れた。反省したというより、「もういいや、どうにでもなれ」というのが正直な気持ちかもしれない。この猫かもよくわからない生き物(中身が人間であると言う時点で正しく猫であるかは疑わしい)を撫でることで、疲れきってすり減った後輩の心が休まると言うなら、黙って撫でられてやるのが良い先輩のあるべき姿なのかもしれない。拓斗もそう思って大人しく撫で回されたのかもしれない。
「撫ですぎでしたか?……嫌な気持ちにさせちゃいましたか」
だから、そんな困った顔を、不安そうな声を出さないでほしい。ベッドを振り返ると、泣きそうな顔で名前はこちらを見ていた。先ほどまで猫の体を撫で回していた両の手は心許なくパジャマを着た胸の前で組まれている。
タイマーを一瞥、針はすでに8割を越した。名前がこの行為で満たされていることの証明だった。諦めて、制服の上まで移動して横たわる。もうこうなったら、最後に制服と一緒に部屋に戻してもらえればなんだっていい。「おいで」と声をかけたはずが、やっぱり猫の鳴き声だった。
「ニャア」
「……いいんですか?」
猫の鳴き声でも正しく名前に意図は伝わった。さっきまでの態度は何だったのかと言いたくなるほど慎重に指先が触れる。
「ニャア」
「……嬉しいです。あったかいです」
名前は猫のあたたかさに感激していたけど、こうしてみると優しく撫でてくる人間の手の温かさというものも悪くはなかった。気持ちよくて目を閉じると、名前はすかさず頭を撫でてくる。後悔も反省も、人間の体に戻ってからでいいだろう。何せこの体はそういう複雑な感情が如実に体に現れる。もういいや、どうにでもなれ……いややっぱり、腹に顔を埋めるのだけは勘弁してほしい。腹を守るように体を丸めると、名前は「人間の時はところ構わず見せびらかしてる癖に……」と残念そうなため息を吐いた。
◼︎
目が覚めた。身を起こせば、「慣れた」体、見慣れた自室。全身の筋肉が「恐ろしい目に遭った」とざわめいている。「怖い思いをさせてすまなかったね」と労わろうとして、制服を着ていないことにため息をつく。名前に最後「床は冷たいでしょう」とベッドに連れ戻されたせいで、制服は一緒に帰してもらえなかったのだ。大失態だ。
「夢なら良かったのに」と一瞬悔やむが、夢だとしたらとんでもない夢だった。夢は自身の願望を写す鏡だと言うのなら、あれは夢じゃないと否定したくなる……制服を返してもらえなかった以上、間違いなく現実なのだが。
とにかく、制服を回収しないと。名前が朝練に行く時間にはまだ早いだろうか。しかし、もたもたしていてユキに見つかるような事態だけは避けたい……厄介なことになった。
……今後に備えて制服と一緒に返す方法を教えてやるべきか。あとは「タイマー」の終了を待たず寝落ちするのはやめるように言った方がいいかもしれない。やっぱり一度詳しい「猫を呼び出す仕組み」を説明しておくべきだろう。今度こそ、詳しく。しかし「どうして泉田さんがそんなこと知ってるんですか?」と言われたら困るな。自分もかつて猫を呼び出したことがあると伝えたら、きっとその原因を知った名前の顔は曇るだろう。昨晩と同じように。……それは避けたかった。
しかしキャプテンを真波に引き継いだ後も、後輩に悩まされるとは。今年「猫」を呼び出しているのは今のところ名前だけのようだが、他の部員も同じように呼び出す可能性も考えなければ。改めて真波に言っておくか……いや、名前も呼んでふたりまとめて話をしよう。朝練の後でいいか……他にやることは、何があるだろう。とりあえずパンツはこう。
