去る春、君の声だけが在るIF
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真波は高校生の時もあんなんだったから、付き合ってもあんまりベタベタしてこないタイプだと思ってたんだけどな。見誤った……というか、知らなかった。
外では別段どうとかないけど、部屋とか人がいなければにこにこしてくっついてくる。冬は特に。
髪を片方に寄せて流してると、後ろからくっついてきて、空いた方に顎を乗せてくるのはいつも通り。この髪だって2年の夏、代替わりを前に真波から「無理して切らなくてもいいんじゃない」と言われて伸ばした。当時の私たちに部活の同級生、選手とマネージャー以上の関係はなくて。でもあんまり言いづらそうにしていたから「まあ私も憧れの先輩に倣い願掛けしようかな」と安易に伸ばして、以降切るタイミングを失って高1以来のロングヘアを維持している。あの夏の日、モニョモニョ言われた限りでは、高1の私が髪を切った時のやり取りを1年経っても気にしていたらしい。大したことじゃないのに。
それから、あれは?これは?と構ってくるのも想定外。今日だって「りんご食べる?」って聞いてきた。
「切ってくれるの?」
「うん」
「やったラッキー」
「小さいラッキーだね」
真波は笑って、腕まくりして冷蔵庫の野菜室を覗く。包丁を滑らせれば、ゆっくりだけど危なげなくりんごの皮が落ちていく。私は見てるだけ。皿は出した。
人に剥いてもらった果物がいちばん美味しいって言ってから、真波はたまに「果物あるよ」と私に聞く。バナナまで綺麗に外の皮を剥いて出してくれるのだ。そのくらいできるよ、と言ったらもう剥いてくれなくなるかもと思って言えてない。とんでもなくお姫様待遇。あの真波が、だよ。意外でしょう。
部員が見たら、目を丸くするだろう。なんだったんだよ、高校生の頃さんざ世話を焼かされたのは……って。いや、みんな積極的に焼いてただけで、当時から別にできなくはなかったのかもしれない。今となっては真相を確かめる術もないが。
あの頃私は自転車に乗っている真波しか知らなかったから、いや、あえて言うなら目を向けて来なかったから。私が知らないだけで、もっと真波と向き合ってきた人たちにとっては何を今更という話なのかもしれなかった。
少し前、小鞠に会いにいこうと新幹線のチケットを取ろうとしたら、真波の方が詳しかったことがある。その時は熱でもあるのかと思ったけど真波は「小田原って新幹線止まるんだよ。知ってた?」と小馬鹿にするでもなくヘラヘラ笑った。知っとるわ。
その時に話の流れで「小さい時に新幹線好きだったんだよね」と言っていたけど、私は彼の幼少期もなにも知らなかったことに気づいた。
私の知ってる真波は、自由人ですぐどっか行っちゃって、山が好きで、3年になっても懲りずにフリフリエプロンを嫌がって、ふわふわしてるのにその視線は冷たくて、GPSを頼りにそこらじゅう走り回ってようやく捕まえたと思ったら「迎えにきてくれたの?」ってニコニコしてて、全国の同年代クライマーがその名を聞けば震え上がるような実力の持ち主で……
「前はそれで良かったけど。今は……もっとわかってほしいと思ってる。わがままでも」
そう呟いたのは、部員も外練を諦めるほどの降雪、3年の冬。引退しても真波は好き勝手走っていたが流石にその日は諦めた。「やめとけ」の声を振り切って走りに出てって、途中で戻ってきた。いつものように白い自転車を引いて、いつかのように頭に雪を積もらせて帰ってきて。
「やー無理だった」とヘラヘラするかと思いきや、「オレ、苗字のことやっぱり好き。付き合おうよ」と言い放ったのだ。どんどん雪がひどくなる窓の外を見て「いつ帰ってくるのか、この大事な時期に風邪引かせたなんてことになればお家の人に申し訳ない」と気を揉んでいたこっちとしては、もう、何がなんだかって感じだった。
話を聞いてみれば、至極当然のように言葉を尽くされて(真波は1年の頃から不思議なやつだけど、レースの道理などは独自の価値観を持っていて、それがまた常人でも納得させられるようなしっかりとしたものなのだ)、動揺した私は「とりあえず、ハイになっているだけな気もするから、一回シャワーね」とあろうことか告白をないものとした。私の悪いくせだ。真波にも散々恨み言を言われた。
付き合ってみれば、新発見ばかりだった。私は最後の最後まで進路が決まらず、長らく寮にて受験勉強に苦しめられた。その間真波は自宅からせっせと学校まで登ってきては最後とばかりに箱根の山を走り、休憩に戻ってきては何をするでもなく私の勉強を眺めていた。
自由にフラフラしているタイプかと思いきや、(それは確かにそうなんだけど)、部屋にくればいつもくっついてくる。私が朝から顔中ぺたぺた塗りたくっているのを見て「分けて」と邪魔してきたり、ショートカットの頃の倍時間がかかるドライヤーをじっと見ていたり、私がひいひい言いながら試験勉強するところを飽きずに眺めたり。
最後に限っては何が面白いと言うのか。先輩や同期に散々口を酸っぱく「よく考えて進路は決めなさい」と言われ、その通りよく考えて決めたはずが、私は大学でも変わらず勉強に苦しむ日々を送っている。
一方真波は、変わらず自由に自転車に乗っている。一度自転車に乗ってしまえば、あっという間に遠ざかる。何も変わらない。ただ、元気に坂を登る後ろ姿を見送る心境は、高校3年間よりはるかに気が楽だ。怪我が恐ろしいのは相変わらずだが、勝った負けたの罪だなんだの……そういう柵 を全て取っ払ってしまえば、真波の走りはとても気持ちがいいものだった。
引退して、マネージャー業も終わり、ようやく真波の走りを「頑張れ!」と素直に応援できるようになった。昔はとてもじゃないけど言えなかった言葉も、素直にかけられるようになった。良いことだと……思う。
今になって思えば、「頑張って」「勝って」「自由に走って」……そのどれも重荷になると思って飲み込んだ日々は、私の自己満足でしかなかったのだ。本当は、3年のインハイで気づければ良かったのだけど。
強豪自転車競技部マネージャーの看板を下ろしてようやく真波や小野田、同期や後輩、そして先輩方……全部ひっくるめた自転車ファンになれた。そういう感じがする。隼人くんに勧誘された頃には思いもしなかった。
それに私と真波は3年の夏まで付かず離れず、喧嘩もしたしギクシャクもしたし……まさかこんな関係になるとは。知り合いにも「お前と真波が!?」って驚かれるが、いちばん驚いてるのは私だ。
剥いてもらったりんごを食べて一息。剥いてもらった以上、あと片付けは自分でやるのがマナー。私は皿を持ってキッチンに逆戻り。
「ご馳走様、美味しかった」
「結構たくさんもらったから、持って帰れば」
「本当に?ありがとう」
何かもらった時は美味しいよ。何かしてもらった時はありがとう、助かった。減るものでもないから、出し惜しみしないように。そうしたら気持ちよく次もやってくれるから。ふわふわと掴みどころのない性格、部内外でのトラブル防止のためにしつこく仕込んだ甲斐あって、真波は夕飯に何が出てもそれを言える。私が育てた。私もなるべく心がけている。またりんご剥いてほしいから。
ただ……男女混合の食事会に連れて行かれても(本人は友達誘ってご飯食べようと言われただけだよっているけど、あれは絶対騙されて合コンに連れて行かれている)、何を食べてもふわふわの笑顔でニコニコ「美味しいね」って言うらしい。気絶。そして女の子はみんな真波を持ち帰ろうと必死になり、その時になってようやく気付いた真波が「え?ごめん彼女いるから……」と断るも時すでに遅し。彼女持ちを隠して合コンを荒らした真波(本人にその自覚なし)は普通に大顰蹙である。誘った方が悪いけどな!?でも真波も時と場合を選べ!そろそろ真波の周囲に根回しして合コン誘い自体を回避した方がいいかもしれない。まさか自分が……真波と付き合って、こんな重くてめんどくさい一面に気付かされるとは思わなかった。真波が悪いんだ、ふらふらしてて危なっかしいから。
皿を水切りカゴに立てて終わり。皿洗い中も突き刺さるような視線を感じていたのだろう、真波が顔を上げる。
「オレの顔に何かついてる」
「ううん、キレーな顔してるなって」
「いつもそれ言うよね」
「1年の頃は本当にかわいかった。顔だけね」
「それも言うよね」
「不満か」
「不満だよ。ずっと」
どうして。褒めてるのに。思いっきり顔に出ていたのか、真波はため息をつく。指先が私の顔に触れて、離れる。真波の方は背も伸びたし、髪も伸ばしたり切ったり繰り返して、印象は大分かわった。気がする。私からしてみれば。
小野田なんかは、「真波くん?全然変わってないと思うよ」というけど、それは本質というか……自転車乗ってるときはもう、そうでしょう。そりゃ短い高校3年そこらじゃ人間の芯のところは変わらないでしょう。っていう感じだ。
「……あのね、かわいいは褒め言葉じゃないんだよ」
「なんだと」
「あのねー悠人はかわいいで喜んだかもしれないけど、普通の男は好きな女の子にかわいいって言われるのは嫌なんだよ」
「……そういうもの?」
「そういうものだよ」
納得しかねる様子の私に苦笑して、真波はおいでと私の手を引いた。乗り気でない私をよいしょよいしょと後ろから抱え込み、肩に顎を乗せる。とっくに慣れた、息がかかる程近い、近すぎる距離。逆に拍子抜けだ。てっきりこのままベッドにひっくり返されるのかと。真波が囁く。
「……大好き。だから、カワイイじゃ嫌なんだよ」
……明日は都会も大雪だな。間違いない。
「ちょっと」
「まだ何も言ってない」
「言ってないだけでしょ」
顔は見られていないはずなのに、変な顔をしているのがバレてる。おまけに本当だよ、と念押しを食らってしまった。全然伝わってない。と不満げに指先で頬をつつくおまけ付きで。
お前ね……いくら自分にない肉だからって。どいつもこいつも昔っから自分にはない肉を面白がって……いや、どちらかというと真波は気の毒がっていた方だった。
ファンライドも自力で走れば?と煽ったくせに、出走前に真剣な面持ちで「無理だと思う前にリタイアして」と忠告してきた。あれは多分、新主将としての責任感だったのだろうけど、楽しい楽しい追い出しレースににつかわしくない妙な顔をしていた。突然そんなことを言われた私はポカンとして「……ああ、そのつもり」と口にしたが、真波の顔は晴れなかった。
それから2年の時だったか、私が真波の身体測定結果を見て落ち込んだ時も。あのあと、露骨に腫れ物に触るみたいにされて「別にもう気にしてないから、気まずい態度やめて」と偉そうに言ったら「……優しくしたつもりなんだけど。ダメだった?」と納得のいかない顔をされて。昔っから、よくわからない。真波のことは。
「名前」
「あーごめん、全然違うこと考えてた。やっぱりかわいかったのは最初だけだなって」
「絶対オレじゃないやつだ。銅橋 くん?悠人?」
「あはは、真波山岳だよ。高校2年の時」
「……昔のオレのことはもういいでしょ」
「なんで」
「負けたような気になるから。昔のかわいかった真波山岳に」
「バカだな、全然今の方が興味あるよ。真波に……うわっ」
抱え込まれたまま、後ろに転がる。二人して仰向けで、私に至っては真波を下に敷いている。重くないか、と身じろぎすれば、逃げようとしていると思われたのか、手の力が強まって。追い討ちにはあと深いため息。
「名前、ほんとにオレに興味なかったんだね」
「なくはなかったよ!」
「嘘だあ」
「遠慮してたんだよ、お前が年々、触れるもの皆傷つけるみたいなギラッギラのエースクライマーになってくから!」
「えーオレのせい?」
不満げに口を尖らせて、そのまま頬にキス。そこにあったからって感じで。思わず「わ」って声が出たけど、当の真波は「納得いかない……」と唸って全然気にしていなかった。
「ね、ちょっともう降りていい」
「……」
ほんとに、ベタベタしてこないタイプだと思ってたんだけどな。昔は。無言で解かれた腕を退けて、仰向けの真波から降りる。冷たい床に寝転がって目を閉じている真波、今しかないなと思って仕返し。間違っても反撃されないように(頭突きはごめんだ)、肩を床に押さえつけてから、ちゅ!これで満足してくれ。私は逃げるから。
するだけして、さっさと離れた私を、呆然と見開かれた青い目が追う。私はいつも真波に驚かされてばかりで、驚かせる側に回れるのは珍しい。
「え、ちょっと、今の」
「仕返ししただけだよ。お前がいつも好き勝手チュッチュしてくるから」
「……もう一回」
「え、なに真波山岳お前照れてるの!?」
「もーほんと最悪……」
「マジで照れてるじゃん!顔赤い」
「ちょっと黙って」
ニコニコ嬉しそうな顔なら散々見た。3年も箱根学園のふわふわの王子様の同級生をしてきたのだから。でも、こんな嬉しいし悔しいし、いっぱいいっぱいみたいな顔は見たことなかったな。知らないことばっかりだ。まだ。私はもう一度腕を伸ばして真波の頬を突く。真波は不満そうに目を細める。あーもう、本当に、全然可愛くなくなっちゃったな。
外では別段どうとかないけど、部屋とか人がいなければにこにこしてくっついてくる。冬は特に。
髪を片方に寄せて流してると、後ろからくっついてきて、空いた方に顎を乗せてくるのはいつも通り。この髪だって2年の夏、代替わりを前に真波から「無理して切らなくてもいいんじゃない」と言われて伸ばした。当時の私たちに部活の同級生、選手とマネージャー以上の関係はなくて。でもあんまり言いづらそうにしていたから「まあ私も憧れの先輩に倣い願掛けしようかな」と安易に伸ばして、以降切るタイミングを失って高1以来のロングヘアを維持している。あの夏の日、モニョモニョ言われた限りでは、高1の私が髪を切った時のやり取りを1年経っても気にしていたらしい。大したことじゃないのに。
それから、あれは?これは?と構ってくるのも想定外。今日だって「りんご食べる?」って聞いてきた。
「切ってくれるの?」
「うん」
「やったラッキー」
「小さいラッキーだね」
真波は笑って、腕まくりして冷蔵庫の野菜室を覗く。包丁を滑らせれば、ゆっくりだけど危なげなくりんごの皮が落ちていく。私は見てるだけ。皿は出した。
人に剥いてもらった果物がいちばん美味しいって言ってから、真波はたまに「果物あるよ」と私に聞く。バナナまで綺麗に外の皮を剥いて出してくれるのだ。そのくらいできるよ、と言ったらもう剥いてくれなくなるかもと思って言えてない。とんでもなくお姫様待遇。あの真波が、だよ。意外でしょう。
部員が見たら、目を丸くするだろう。なんだったんだよ、高校生の頃さんざ世話を焼かされたのは……って。いや、みんな積極的に焼いてただけで、当時から別にできなくはなかったのかもしれない。今となっては真相を確かめる術もないが。
あの頃私は自転車に乗っている真波しか知らなかったから、いや、あえて言うなら目を向けて来なかったから。私が知らないだけで、もっと真波と向き合ってきた人たちにとっては何を今更という話なのかもしれなかった。
少し前、小鞠に会いにいこうと新幹線のチケットを取ろうとしたら、真波の方が詳しかったことがある。その時は熱でもあるのかと思ったけど真波は「小田原って新幹線止まるんだよ。知ってた?」と小馬鹿にするでもなくヘラヘラ笑った。知っとるわ。
その時に話の流れで「小さい時に新幹線好きだったんだよね」と言っていたけど、私は彼の幼少期もなにも知らなかったことに気づいた。
私の知ってる真波は、自由人ですぐどっか行っちゃって、山が好きで、3年になっても懲りずにフリフリエプロンを嫌がって、ふわふわしてるのにその視線は冷たくて、GPSを頼りにそこらじゅう走り回ってようやく捕まえたと思ったら「迎えにきてくれたの?」ってニコニコしてて、全国の同年代クライマーがその名を聞けば震え上がるような実力の持ち主で……
「前はそれで良かったけど。今は……もっとわかってほしいと思ってる。わがままでも」
そう呟いたのは、部員も外練を諦めるほどの降雪、3年の冬。引退しても真波は好き勝手走っていたが流石にその日は諦めた。「やめとけ」の声を振り切って走りに出てって、途中で戻ってきた。いつものように白い自転車を引いて、いつかのように頭に雪を積もらせて帰ってきて。
「やー無理だった」とヘラヘラするかと思いきや、「オレ、苗字のことやっぱり好き。付き合おうよ」と言い放ったのだ。どんどん雪がひどくなる窓の外を見て「いつ帰ってくるのか、この大事な時期に風邪引かせたなんてことになればお家の人に申し訳ない」と気を揉んでいたこっちとしては、もう、何がなんだかって感じだった。
話を聞いてみれば、至極当然のように言葉を尽くされて(真波は1年の頃から不思議なやつだけど、レースの道理などは独自の価値観を持っていて、それがまた常人でも納得させられるようなしっかりとしたものなのだ)、動揺した私は「とりあえず、ハイになっているだけな気もするから、一回シャワーね」とあろうことか告白をないものとした。私の悪いくせだ。真波にも散々恨み言を言われた。
付き合ってみれば、新発見ばかりだった。私は最後の最後まで進路が決まらず、長らく寮にて受験勉強に苦しめられた。その間真波は自宅からせっせと学校まで登ってきては最後とばかりに箱根の山を走り、休憩に戻ってきては何をするでもなく私の勉強を眺めていた。
自由にフラフラしているタイプかと思いきや、(それは確かにそうなんだけど)、部屋にくればいつもくっついてくる。私が朝から顔中ぺたぺた塗りたくっているのを見て「分けて」と邪魔してきたり、ショートカットの頃の倍時間がかかるドライヤーをじっと見ていたり、私がひいひい言いながら試験勉強するところを飽きずに眺めたり。
最後に限っては何が面白いと言うのか。先輩や同期に散々口を酸っぱく「よく考えて進路は決めなさい」と言われ、その通りよく考えて決めたはずが、私は大学でも変わらず勉強に苦しむ日々を送っている。
一方真波は、変わらず自由に自転車に乗っている。一度自転車に乗ってしまえば、あっという間に遠ざかる。何も変わらない。ただ、元気に坂を登る後ろ姿を見送る心境は、高校3年間よりはるかに気が楽だ。怪我が恐ろしいのは相変わらずだが、勝った負けたの罪だなんだの……そういう
引退して、マネージャー業も終わり、ようやく真波の走りを「頑張れ!」と素直に応援できるようになった。昔はとてもじゃないけど言えなかった言葉も、素直にかけられるようになった。良いことだと……思う。
今になって思えば、「頑張って」「勝って」「自由に走って」……そのどれも重荷になると思って飲み込んだ日々は、私の自己満足でしかなかったのだ。本当は、3年のインハイで気づければ良かったのだけど。
強豪自転車競技部マネージャーの看板を下ろしてようやく真波や小野田、同期や後輩、そして先輩方……全部ひっくるめた自転車ファンになれた。そういう感じがする。隼人くんに勧誘された頃には思いもしなかった。
それに私と真波は3年の夏まで付かず離れず、喧嘩もしたしギクシャクもしたし……まさかこんな関係になるとは。知り合いにも「お前と真波が!?」って驚かれるが、いちばん驚いてるのは私だ。
剥いてもらったりんごを食べて一息。剥いてもらった以上、あと片付けは自分でやるのがマナー。私は皿を持ってキッチンに逆戻り。
「ご馳走様、美味しかった」
「結構たくさんもらったから、持って帰れば」
「本当に?ありがとう」
何かもらった時は美味しいよ。何かしてもらった時はありがとう、助かった。減るものでもないから、出し惜しみしないように。そうしたら気持ちよく次もやってくれるから。ふわふわと掴みどころのない性格、部内外でのトラブル防止のためにしつこく仕込んだ甲斐あって、真波は夕飯に何が出てもそれを言える。私が育てた。私もなるべく心がけている。またりんご剥いてほしいから。
ただ……男女混合の食事会に連れて行かれても(本人は友達誘ってご飯食べようと言われただけだよっているけど、あれは絶対騙されて合コンに連れて行かれている)、何を食べてもふわふわの笑顔でニコニコ「美味しいね」って言うらしい。気絶。そして女の子はみんな真波を持ち帰ろうと必死になり、その時になってようやく気付いた真波が「え?ごめん彼女いるから……」と断るも時すでに遅し。彼女持ちを隠して合コンを荒らした真波(本人にその自覚なし)は普通に大顰蹙である。誘った方が悪いけどな!?でも真波も時と場合を選べ!そろそろ真波の周囲に根回しして合コン誘い自体を回避した方がいいかもしれない。まさか自分が……真波と付き合って、こんな重くてめんどくさい一面に気付かされるとは思わなかった。真波が悪いんだ、ふらふらしてて危なっかしいから。
皿を水切りカゴに立てて終わり。皿洗い中も突き刺さるような視線を感じていたのだろう、真波が顔を上げる。
「オレの顔に何かついてる」
「ううん、キレーな顔してるなって」
「いつもそれ言うよね」
「1年の頃は本当にかわいかった。顔だけね」
「それも言うよね」
「不満か」
「不満だよ。ずっと」
どうして。褒めてるのに。思いっきり顔に出ていたのか、真波はため息をつく。指先が私の顔に触れて、離れる。真波の方は背も伸びたし、髪も伸ばしたり切ったり繰り返して、印象は大分かわった。気がする。私からしてみれば。
小野田なんかは、「真波くん?全然変わってないと思うよ」というけど、それは本質というか……自転車乗ってるときはもう、そうでしょう。そりゃ短い高校3年そこらじゃ人間の芯のところは変わらないでしょう。っていう感じだ。
「……あのね、かわいいは褒め言葉じゃないんだよ」
「なんだと」
「あのねー悠人はかわいいで喜んだかもしれないけど、普通の男は好きな女の子にかわいいって言われるのは嫌なんだよ」
「……そういうもの?」
「そういうものだよ」
納得しかねる様子の私に苦笑して、真波はおいでと私の手を引いた。乗り気でない私をよいしょよいしょと後ろから抱え込み、肩に顎を乗せる。とっくに慣れた、息がかかる程近い、近すぎる距離。逆に拍子抜けだ。てっきりこのままベッドにひっくり返されるのかと。真波が囁く。
「……大好き。だから、カワイイじゃ嫌なんだよ」
……明日は都会も大雪だな。間違いない。
「ちょっと」
「まだ何も言ってない」
「言ってないだけでしょ」
顔は見られていないはずなのに、変な顔をしているのがバレてる。おまけに本当だよ、と念押しを食らってしまった。全然伝わってない。と不満げに指先で頬をつつくおまけ付きで。
お前ね……いくら自分にない肉だからって。どいつもこいつも昔っから自分にはない肉を面白がって……いや、どちらかというと真波は気の毒がっていた方だった。
ファンライドも自力で走れば?と煽ったくせに、出走前に真剣な面持ちで「無理だと思う前にリタイアして」と忠告してきた。あれは多分、新主将としての責任感だったのだろうけど、楽しい楽しい追い出しレースににつかわしくない妙な顔をしていた。突然そんなことを言われた私はポカンとして「……ああ、そのつもり」と口にしたが、真波の顔は晴れなかった。
それから2年の時だったか、私が真波の身体測定結果を見て落ち込んだ時も。あのあと、露骨に腫れ物に触るみたいにされて「別にもう気にしてないから、気まずい態度やめて」と偉そうに言ったら「……優しくしたつもりなんだけど。ダメだった?」と納得のいかない顔をされて。昔っから、よくわからない。真波のことは。
「名前」
「あーごめん、全然違うこと考えてた。やっぱりかわいかったのは最初だけだなって」
「絶対オレじゃないやつだ。
「あはは、真波山岳だよ。高校2年の時」
「……昔のオレのことはもういいでしょ」
「なんで」
「負けたような気になるから。昔のかわいかった真波山岳に」
「バカだな、全然今の方が興味あるよ。真波に……うわっ」
抱え込まれたまま、後ろに転がる。二人して仰向けで、私に至っては真波を下に敷いている。重くないか、と身じろぎすれば、逃げようとしていると思われたのか、手の力が強まって。追い討ちにはあと深いため息。
「名前、ほんとにオレに興味なかったんだね」
「なくはなかったよ!」
「嘘だあ」
「遠慮してたんだよ、お前が年々、触れるもの皆傷つけるみたいなギラッギラのエースクライマーになってくから!」
「えーオレのせい?」
不満げに口を尖らせて、そのまま頬にキス。そこにあったからって感じで。思わず「わ」って声が出たけど、当の真波は「納得いかない……」と唸って全然気にしていなかった。
「ね、ちょっともう降りていい」
「……」
ほんとに、ベタベタしてこないタイプだと思ってたんだけどな。昔は。無言で解かれた腕を退けて、仰向けの真波から降りる。冷たい床に寝転がって目を閉じている真波、今しかないなと思って仕返し。間違っても反撃されないように(頭突きはごめんだ)、肩を床に押さえつけてから、ちゅ!これで満足してくれ。私は逃げるから。
するだけして、さっさと離れた私を、呆然と見開かれた青い目が追う。私はいつも真波に驚かされてばかりで、驚かせる側に回れるのは珍しい。
「え、ちょっと、今の」
「仕返ししただけだよ。お前がいつも好き勝手チュッチュしてくるから」
「……もう一回」
「え、なに真波山岳お前照れてるの!?」
「もーほんと最悪……」
「マジで照れてるじゃん!顔赤い」
「ちょっと黙って」
ニコニコ嬉しそうな顔なら散々見た。3年も箱根学園のふわふわの王子様の同級生をしてきたのだから。でも、こんな嬉しいし悔しいし、いっぱいいっぱいみたいな顔は見たことなかったな。知らないことばっかりだ。まだ。私はもう一度腕を伸ばして真波の頬を突く。真波は不満そうに目を細める。あーもう、本当に、全然可愛くなくなっちゃったな。
