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「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
お母さんから伊集院先生のご家族の方が今夜私を訪ねてくるとは聞いていた。娘さんかな、と勝手に思って前に話していたハーブティーをいれよう、それに冷凍庫にいただきものの美味しいアイスクリームがあったはず……お話が済んだらせっかくだから今夜はふわふわのルームウェアに着替えて女子会しよう、なんて思っていたのに母の案内で私の部屋に来たのは、先生の息子の北斗さんだった。
ドアの向こうに立つ笑顔の彼をみた途端、私はドアを閉めた。堪えるような笑い声がドア越しに聞こえる。私のびっくりしたマヌケ顔がそんなに面白かったのだろうか……
「すみません、開けてもらえませんか?」
「は、はい……」
まだ着替えてなくて化粧も落としてなくてよかった。ゆっくりドアを開けるとにっこりと微笑む北斗さんが変わらずに立っていた。
「お久しぶりです。前に……コンクール以来かな?」
「そ、そうですね……」
私はもともと北斗さんのお母様、伊集院先生からピアノを習っていたのでその頃はたまに話したりすることもあった。でも、北斗さんよりも妹さんの方が年が近いのもあって仲が良かったし結局私はピアノをやめて同じように小さい時から続けていたバレエに本腰を入れることにしたので北斗さんとはそれきりだったのだ。妹さんの方とは未だに仲良くしているけど、北斗さんは怪我が原因でピアノを離れモデルやアイドルになったから疎遠だった。
「えっと……とりあえず座ってくださいね。飲み物出しますから……」
「手伝いますよ」
「わっ…」
すかさず滑らかな動作でティーポットを奪われ、取り返す間も無く準備をされてしまう。準備も仕草も手馴れていて完璧で思わずため息が漏れそうになる。以前出演する映画のチケットを妹さん経由でもらったのを思い出した。あの時も執事の役をしていたからそこで覚えたのだろうか。
蒸らしている間に北斗さんはお土産だと高級店のマカロンをテーブルに出す。この時点で私は、北斗さんがただ妹の友達に遊びに来たのではなく、面倒ごとを抱えて来たのだろうなと察した。何でもかんでもできすぎるのも大変だと私はありがたく1つ口に運んだ。夜の食事は厳しい体重管理に励むバレリーナには罪深すぎるけど今夜くらいは許してほしい。
「本題、入ってもらっていいですよ」
「ふふ、ありがとうございます」
華やかな香りの立ちのぼる、ガラスのティーカップを音も立てずに下ろして、私たちの間の空白の期間なんてものともせず北斗さんは微笑んだ。
「今やってる仕事なんだけど」
北斗さんが教えてくれたのは、次の仕事のお話だった。怪しい館に招き入れられた兄弟、音楽を密かに愛する執事、彼らをもてなす館の主人……そこで繰り広げられるのは皆が美しい仮面で本当の姿を隠した舞踏会。お話を聞くに四人にぴったりのお仕事だ。
共演者の人たちもそれぞれ課題を抱えながらもレッスンを行う過程で解決していったのだという。ただひとり、彼を除いては。
「そんなに満足いかなかったんですか?」
「……どこかしっくりこないというか、自分の目指す完成形にあと一歩及ばなくてね。名前ちゃんなら、何かわかるかなと思って」
「私もただのバレエ専攻の学生だし、何かお役に立てそうなところがあるかな……録画みた限りではステップも綺麗ですけど……」
「けど?」
「満足のいかない顔で踊ってるのは、わかります。舞踊を習ってるからとかじゃなくて、それは普通に」
「驚いた、あまりスタッフさんにも気づかれなかったんだけどな」
それは昔から北斗さんがピアノを弾くのをみていたからですかね、とは言わなかった。周りの人がどんなに賞賛しても彼は、自分の納得がいく出来にならなければいつだって困ったような煩わしいような顔をする。
「一曲かけて考えませんか?撮影のお話聞いて雰囲気がこの曲っぽいなって思ったんです」
「そうだね、お願いするよ」
ソファを立ち、私は大きなミュージックプレーヤーにたくさん並んだ中から一枚のCDを入れた。
途端に流れ出す怪しげで優雅なメロディに北斗さんは肩の力を抜く。
「ハチャトリャーンの仮面舞踏会だね」
「曲名もそのままだし、剣の舞よりはこっちかなって……」
「まあ、あれでワルツを踊るのは難しいな」
苦笑してそのまま北斗さんは立ち上がると私の手を取った。
「一曲踊ってみようか、君がニーナなら俺はアルベーニンかな?」
「……ワルツは専門外な上、私浮気を疑われて殺されるんですか……」
文句を言いつつも始まった曲に途中から合わせてステップを踏む。撮影のために練習しただけあって北斗さんのワルツは完璧だった。私の方はバレエの中でもワルツなんてまともに組んで踊ったのはくるみ割り人形とかシンデレラくらいだけど、足元を見ずに踊って足も踏まないのは上出来だと思う。
「アルベーニンは貞淑な妻を、その訴えすら信じきれずに殺し、自らの犯した過ちに気づいた時には全てを失い気が触れてしまう……」
「お似合いですよ、そういう役も」
「ひどいなあ、悪いことはしていないつもりなんだけど」
ステップはおろかホールドも完璧、ターンも完璧、そっと伸ばした指先の触れ具合まで完璧にお手本みたいに美しい。どこに不満があるんだろうと不思議なくらいだけど、言ってしまえばその満足のいかない顔が問題なのだ。
「……もっと好きなようにやったらどうですか?」
「え?」
「全部完璧ですよ、専門外から言われても納得いかない……でしょうけど」
「……それは嬉しいね。現役バレリーナから褒めの言葉をいただけるとは」
北斗さんは茶化すように笑って、でも次の瞬間には考え込むような顔をした。昔から何でもかんでも考えすぎで上手くやれば全部人生うまくいく素質があるのに、思いつめてやらなくていいこと見なくていいことまで見てしまったような人だ。ピアノを断念して疎遠にはなったけど、モデルをやったりアイドルになったり、事務所を辞めたりした話くらいは噂で聞いたりして薄々察していた。
「思うままに、踊ったらどうですか。四人も美形がいるんですしただの美形たちのワルツじゃなくて、四人の、伊集院北斗のワルツが求められてるんじゃないんですか」
「……」
気づけば短いワルツも終盤で、北斗さんはパッと私をホールドから解放すると曲の終わりに合わせて優雅にお辞儀をした。私もつまむほどの長い裾ではないけど形ばかりつまんで後ろ足を引いてお辞儀を返す。
「…すみません、私アイドルのお仕事詳しくないのに余計なこと、言ったりして」
「もう一曲いこう。そうだな……掴めるまで今夜はお付き合いねがえますか?」
「もしかしなくても一曲で終わらないやつですか!?いや、お付き合いさせていただきます……他に踊れるワルツは、何がいいかな……」
反論しようとするもきらりと光る青い目に制されて私は今晩踊り続ける覚悟を決めた。密かにため息をつく私とは対象的に北斗さんは楽しそうに詰め込まれたCDを見ながらワルツの曲を決め始めた。
「プロコフィエフのシンデレラ、ロメオとジュリエット……このCDの量ならブラームス、チャイコフスキーあたりのワルツ集がありそうだけど……」
「わかりました、今夜はとことん踊りましょうね……とりあえずその辺ブラームスなので探してもらっていいですか?」
「承知しました、プリンセス」
「や……やめてください、そういうこと言って一晩中踊らせようとして……そうはいきませんから」
パソコンを起動して速やかにCDを入れて簡易的なプレイリストを作成する。
そのまま再生ボタンを押して、2人で向き合う。先ほどの曲がゆっくり流れる。冒頭は小さな音だけど段々と楽器が増えて大きく壮大なメロディになるはずだ。
「命尽きるまで、踊ってください。俺と」
窓の外に雲に覆われた月まで背負って、目つきだけは本気そのもので優雅に手を差し出すから困ってしまう。でもきっと私が一晩中踊り続けなくても、役柄ならもうほとんど北斗さんが掴んでしまっている。役に入れば私なんて必要なくなるのに、彼はどこまでもパートナーを尊重して2人きりのワルツを完成させるつもりらしかった。
「こ、こんばんは……」
お母さんから伊集院先生のご家族の方が今夜私を訪ねてくるとは聞いていた。娘さんかな、と勝手に思って前に話していたハーブティーをいれよう、それに冷凍庫にいただきものの美味しいアイスクリームがあったはず……お話が済んだらせっかくだから今夜はふわふわのルームウェアに着替えて女子会しよう、なんて思っていたのに母の案内で私の部屋に来たのは、先生の息子の北斗さんだった。
ドアの向こうに立つ笑顔の彼をみた途端、私はドアを閉めた。堪えるような笑い声がドア越しに聞こえる。私のびっくりしたマヌケ顔がそんなに面白かったのだろうか……
「すみません、開けてもらえませんか?」
「は、はい……」
まだ着替えてなくて化粧も落としてなくてよかった。ゆっくりドアを開けるとにっこりと微笑む北斗さんが変わらずに立っていた。
「お久しぶりです。前に……コンクール以来かな?」
「そ、そうですね……」
私はもともと北斗さんのお母様、伊集院先生からピアノを習っていたのでその頃はたまに話したりすることもあった。でも、北斗さんよりも妹さんの方が年が近いのもあって仲が良かったし結局私はピアノをやめて同じように小さい時から続けていたバレエに本腰を入れることにしたので北斗さんとはそれきりだったのだ。妹さんの方とは未だに仲良くしているけど、北斗さんは怪我が原因でピアノを離れモデルやアイドルになったから疎遠だった。
「えっと……とりあえず座ってくださいね。飲み物出しますから……」
「手伝いますよ」
「わっ…」
すかさず滑らかな動作でティーポットを奪われ、取り返す間も無く準備をされてしまう。準備も仕草も手馴れていて完璧で思わずため息が漏れそうになる。以前出演する映画のチケットを妹さん経由でもらったのを思い出した。あの時も執事の役をしていたからそこで覚えたのだろうか。
蒸らしている間に北斗さんはお土産だと高級店のマカロンをテーブルに出す。この時点で私は、北斗さんがただ妹の友達に遊びに来たのではなく、面倒ごとを抱えて来たのだろうなと察した。何でもかんでもできすぎるのも大変だと私はありがたく1つ口に運んだ。夜の食事は厳しい体重管理に励むバレリーナには罪深すぎるけど今夜くらいは許してほしい。
「本題、入ってもらっていいですよ」
「ふふ、ありがとうございます」
華やかな香りの立ちのぼる、ガラスのティーカップを音も立てずに下ろして、私たちの間の空白の期間なんてものともせず北斗さんは微笑んだ。
「今やってる仕事なんだけど」
北斗さんが教えてくれたのは、次の仕事のお話だった。怪しい館に招き入れられた兄弟、音楽を密かに愛する執事、彼らをもてなす館の主人……そこで繰り広げられるのは皆が美しい仮面で本当の姿を隠した舞踏会。お話を聞くに四人にぴったりのお仕事だ。
共演者の人たちもそれぞれ課題を抱えながらもレッスンを行う過程で解決していったのだという。ただひとり、彼を除いては。
「そんなに満足いかなかったんですか?」
「……どこかしっくりこないというか、自分の目指す完成形にあと一歩及ばなくてね。名前ちゃんなら、何かわかるかなと思って」
「私もただのバレエ専攻の学生だし、何かお役に立てそうなところがあるかな……録画みた限りではステップも綺麗ですけど……」
「けど?」
「満足のいかない顔で踊ってるのは、わかります。舞踊を習ってるからとかじゃなくて、それは普通に」
「驚いた、あまりスタッフさんにも気づかれなかったんだけどな」
それは昔から北斗さんがピアノを弾くのをみていたからですかね、とは言わなかった。周りの人がどんなに賞賛しても彼は、自分の納得がいく出来にならなければいつだって困ったような煩わしいような顔をする。
「一曲かけて考えませんか?撮影のお話聞いて雰囲気がこの曲っぽいなって思ったんです」
「そうだね、お願いするよ」
ソファを立ち、私は大きなミュージックプレーヤーにたくさん並んだ中から一枚のCDを入れた。
途端に流れ出す怪しげで優雅なメロディに北斗さんは肩の力を抜く。
「ハチャトリャーンの仮面舞踏会だね」
「曲名もそのままだし、剣の舞よりはこっちかなって……」
「まあ、あれでワルツを踊るのは難しいな」
苦笑してそのまま北斗さんは立ち上がると私の手を取った。
「一曲踊ってみようか、君がニーナなら俺はアルベーニンかな?」
「……ワルツは専門外な上、私浮気を疑われて殺されるんですか……」
文句を言いつつも始まった曲に途中から合わせてステップを踏む。撮影のために練習しただけあって北斗さんのワルツは完璧だった。私の方はバレエの中でもワルツなんてまともに組んで踊ったのはくるみ割り人形とかシンデレラくらいだけど、足元を見ずに踊って足も踏まないのは上出来だと思う。
「アルベーニンは貞淑な妻を、その訴えすら信じきれずに殺し、自らの犯した過ちに気づいた時には全てを失い気が触れてしまう……」
「お似合いですよ、そういう役も」
「ひどいなあ、悪いことはしていないつもりなんだけど」
ステップはおろかホールドも完璧、ターンも完璧、そっと伸ばした指先の触れ具合まで完璧にお手本みたいに美しい。どこに不満があるんだろうと不思議なくらいだけど、言ってしまえばその満足のいかない顔が問題なのだ。
「……もっと好きなようにやったらどうですか?」
「え?」
「全部完璧ですよ、専門外から言われても納得いかない……でしょうけど」
「……それは嬉しいね。現役バレリーナから褒めの言葉をいただけるとは」
北斗さんは茶化すように笑って、でも次の瞬間には考え込むような顔をした。昔から何でもかんでも考えすぎで上手くやれば全部人生うまくいく素質があるのに、思いつめてやらなくていいこと見なくていいことまで見てしまったような人だ。ピアノを断念して疎遠にはなったけど、モデルをやったりアイドルになったり、事務所を辞めたりした話くらいは噂で聞いたりして薄々察していた。
「思うままに、踊ったらどうですか。四人も美形がいるんですしただの美形たちのワルツじゃなくて、四人の、伊集院北斗のワルツが求められてるんじゃないんですか」
「……」
気づけば短いワルツも終盤で、北斗さんはパッと私をホールドから解放すると曲の終わりに合わせて優雅にお辞儀をした。私もつまむほどの長い裾ではないけど形ばかりつまんで後ろ足を引いてお辞儀を返す。
「…すみません、私アイドルのお仕事詳しくないのに余計なこと、言ったりして」
「もう一曲いこう。そうだな……掴めるまで今夜はお付き合いねがえますか?」
「もしかしなくても一曲で終わらないやつですか!?いや、お付き合いさせていただきます……他に踊れるワルツは、何がいいかな……」
反論しようとするもきらりと光る青い目に制されて私は今晩踊り続ける覚悟を決めた。密かにため息をつく私とは対象的に北斗さんは楽しそうに詰め込まれたCDを見ながらワルツの曲を決め始めた。
「プロコフィエフのシンデレラ、ロメオとジュリエット……このCDの量ならブラームス、チャイコフスキーあたりのワルツ集がありそうだけど……」
「わかりました、今夜はとことん踊りましょうね……とりあえずその辺ブラームスなので探してもらっていいですか?」
「承知しました、プリンセス」
「や……やめてください、そういうこと言って一晩中踊らせようとして……そうはいきませんから」
パソコンを起動して速やかにCDを入れて簡易的なプレイリストを作成する。
そのまま再生ボタンを押して、2人で向き合う。先ほどの曲がゆっくり流れる。冒頭は小さな音だけど段々と楽器が増えて大きく壮大なメロディになるはずだ。
「命尽きるまで、踊ってください。俺と」
窓の外に雲に覆われた月まで背負って、目つきだけは本気そのもので優雅に手を差し出すから困ってしまう。でもきっと私が一晩中踊り続けなくても、役柄ならもうほとんど北斗さんが掴んでしまっている。役に入れば私なんて必要なくなるのに、彼はどこまでもパートナーを尊重して2人きりのワルツを完成させるつもりらしかった。
