前日譚
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話せば話すほど惹かれていった。
アリアはシャトラールの課題を解きながら、最近昼食を共にするようになった紫髪を思い浮かべる。
特別内容のある会話をしていたわけではなかったが、それでも少しずつ着実にアリアの世界をクレドは彩っていったのだった。
記憶のないアリアの狭い世界に、怪人鷹が斬り込んできて、鮮やかな蒼がまず視界を覆った。その蒼に導かれるままに鷹に近づいていくと、アリアの心にアイリスの花が芽吹いたのだった。
始めは小さな一輪のアイリスは、昼食を共にし剣を交えるたびに、一輪、また一輪と咲き綻んでいった。
そしてあの日。
「貧弱な腕だな。」
「ああら失礼ね」
いつも通りのお昼時間、友人同士がする戯れごとのようにアリアはクレドにナイフを向けた。無論本気ではなかったし、クレドも同様に戯れだと思っていただろう。クレドの軽口を煽りで返したら予想外にも彼が本気になってしまい、アリアは純粋な力の差に勝てるはずもなく、呆気なく天を仰いでいたのだった。
「わっ…」
青い空を背景にクレドの端正な顔が覗き込んできて、間近に見つめ合う。楽しそうに自分を見下ろすアイリスの瞳を美しいと思った瞬間に、アリアの心の中のアイリスが満開になった。
ぶわっと花びらが目の前を舞うように爛漫として、アリアは心に根付いたアイリスの花の存在のその意味がわかってしまったのだった。
「え、なに」
「…ぁっ……あ…」
顔が赤くなってしまっているのが自分でもわかった。
腕を押さえつけられて上に覆い被さられ、クレドの匂いや存在を間近に感じるこの状況がアリアには刺激が強すぎて、拘束から解放されると一目散にクレドの前から逃げ出したのだった。
記憶のないアリアにとってクレドに抱いてしまったこの感情は初めてのものだった。恋というものがどう言うものなのかは潜在的に理解はしていたが、実際に抱いてみると儘ならぬ己の感情にアリアは翻弄され続けていた。
恋心を自覚してからアリアは気持ちの整理がつかず、クレドに会いに行けないまま時が過ぎていった。
どう言う顔で会えばいいのかもわからないし、会ったって何を話したら、どういう風に接したら良いかわからなかった。
それでも会いたい気持ちは募り、クレドからなんのアクションもないことに身勝手にも落胆さえした。
「…シャトラール?」
「どうかしたか?」
デスクで事務仕事をこなすシャトラールに話しかけると視線を上げずに返答が返ってくる。相変わらずの仕事人間ぷりに感心しながらも、胸の内に燻っていた疑問を問いかける。
「殆ど毎日会っていたのに、突然会いに来なくなってしまった人を放っておく理由は?」
「…誰のことだ?」
「誰とかいいから」
唐突な質問にシャトラールは小難しい顔をして視線を上げる。ほんの少しだけ考えた後、シャトラールは淡々と、はっきりと答えた。
「興味がないからではないか?関心があれば何事かと探しにくるだろう。」
「……」
興味がない。
グサリとアリアの心に突き刺さった。
自分の中にはアイリスの花が咲き乱れているのに、クレドの心には何も芽吹いてないと言うのか。
「最近昼に出かけない理由か?」
「……ち、違うもん…!」
無遠慮に図星を突かれ、アリアはムキになって言い返すと部屋を飛び出した。
突きつけられた現実にアリアは動揺しきっていた。
冷静になればそれは当然のことだと理解できたが、初めての恋心に翻弄されていたアリアには正しくそれを認識するまでに時間が掛かった。
そうか、彼が会いに来ないのはこの状況になにも思っていないからなのか。むしろサボり時間を騒がす邪魔な存在が居なくなって清々しているかもしれない。
逃げ出した先、ひと気の無い廊下の端に蹲りアリアは苦しくなる胸を押さえて深呼吸を繰り返した。
あの時間を楽しいと思っていたのは自分だけだったのだろうか。一方通行の感情にアリアの視界が涙で揺らいだ。
クレドにも自分をみてほしい。彼の心の中に芽吹くにはどうしたら良いのだろうか。アリアは考えた。
(…彼のこと、全然知らないわ)
名前と怪人であることと、戦闘とお酒が好きなこと、決められたことをするのが好きで無いこと、そして少しだけサンドイッチを気に入ってくれていること。たったこれしかアリアはクレドについて知らなかった。
この恋心も確かにアリアの心にあるものだが、何故なのかは漠然としたもので、あまりに過ごしてきた時間が短く、お互いのことを知らなさ過ぎなのだとアリアは涙を零しながら納得したのだった。
彼の心に芽吹くにはもっと彼を知り、彼に知ってもらわないといけない。
アリアは決意をかため、シャトラールの課題なんてすっぽかして家に帰ると、引き出しに丁重にしまっていた真紅のナイフを取り出す。
これはアリアの持ち物だ。
記憶が始まる前からの、アリアの知らないアリアの持ち物。
けれど驚くほど手に馴染む、魂に刻み込まれたようなアリアの得物。
なんだかこのナイフは簡単に使ってはいけない気がして、ずっとしまい込んでいたものだったが、使うべきは今なのだとアリアは確信していた。
クレドから勝ちを取り、想いをぶつける。
一世一代の勝負だ。
精神を統一するとアリアはクレドに会うべく夕日溢れるバルドゥークの市街へと出ていったのだった。
――
翌朝。
アリアは緊張半分、楽しみ半分といった気持ちで家を出た。
まだ登りきっていない太陽を見上げ、今日もいい天気だと心を落ち着かせる。
中央区、大聖堂前の大衆レストラン『ブランシュ』に向かうアリア。
昨日クレドから勝ち取った約束、朝食を共にするためである。
歩きながらアリアはクレドが来てくれないのではないかとだんだんと不安になった。早朝から約束事があるのは正直言って面倒ではある。朝の時間が貴重なことはアリアも十分理解ができる。1秒でも長く寝ていたい人も多いだろう。
それでもアリアはクレドとの時間を持ちたいがために勝負事の褒美として彼の朝の時間を強請ったのだった。
「……ぁ…」
向かいから歩いてくるライラック色の髪の彼にアリアは思わず足を止めた。大きな欠伸をしながら気怠げに、けれど。
(――来てくれた)
アリアはそれだけで泣いてしまいそうなほどに嬉しくて堪らなかった。
こちらに気がついた様子のクレドが少しだけ眉を寄せ、そのままそばに近づいてくる。
「お、はよ……」
「おう」
まだ眠たそうなアイリスの瞳をアリアはどうしようもなく愛おしく感じてしまい、緩んでしまう口元を隠すようにブランシュのテラス席へと着いた。
「ここのモーニング美味しいの、おすすめはチーズオムレツ!」
「んじゃそれで」
手早く店員に挨拶と注文を済ませ、アリアは向かいの席に座ったクレドに改めて視線を向ける。
「あ、の、来てくれてありがとう…!」
「ククッ、たっぷり感謝してくれや」
「えへへ…」
「ほんと、変なやつ」
クレドはアリアの気持ちに気がついている。
アリアはそう感じていた。アリアの気持ちを知っていても関係を拒まれないのは、きっと良い方向に考えても良いと言うことなのだろう。
初めの頃と比べたら圧倒的に柔らかくなった彼の雰囲気に、多少は気を許されているという自信を持つアリア。じゃなかったら、膝の上に向かい合って座らせ、至近距離で髪を撫でてきたりしないだろう。騎士団内に話を聞いても彼がプレイボーイだという噂は無かったのだから。
全くの脈無しというわけでもないのだろう。アリアはそう思えるだけで勇気が湧いてくるのであった。
先に運ばれてきたホットコーヒーにクレドが口をつける。アリアはミルクも砂糖も入れるのに彼はブラックで飲むのかと記憶に刻みつけていると、クレドがじっとアリアがコーヒーにミルクと砂糖を入れる様子を見ているのに首を傾げた。
「なあに?」
「いや、あんた、随分雰囲気がちげぇなと思って。」
「どゆこと…?」
「この間までやけに大人振ってると思ったら、実はブラックも飲めねえ、恋愛経験もねえ随分なお子ちゃまだなんてな」
「なっ……」
否定も肯定もできなかった。
クレドの言う通り最初の頃はスマートな女性を演じようと自分を繕っていたわけだが、それが慣れない感情によりぼろぼろと剥がれ、すっかり素のアリアが顕になってしまったわけだ。
けれど、正真正銘のアリアを知ってもらいたい。
かっこつけて変に繕った自分でなく、子供っぽくても飾らない自分をクレドに見てほしいとアリアは思った。
「……そんなお子ちゃまが、本当のわたしなの」
「おー、気色悪りぃ背伸びしてるより、ぽいわ」
「わ!」
わしゃわしゃとクレドの手が乱雑にアリアの頭を撫でてくる。せっかく早く起きてセットした髪型が乱れてしまい、アリアは恥じらいよりも不服が勝りクレドをじとっと睨みつけた。
「そういう…クレドは……たくさん経験あるの?」
「あぁ?なにが」
「恋愛」
アリアは緊張した。
自分でした質問なはずなのに、答えを聞くのが怖くなった。
そりゃ全くのゼロというわけではないだろう。けれど、クレドが自分の知らない女性の名前を呼んで、優しく見つめていたと想像すると、アリアの胸は苦しくて苦しくて息が止まってしまいそうになるのだ
「ククッ、そんな取っ替え引っ替えしてるように見えるか?」
「…そうじゃなくて…!クレド…かっこいいから……」
「……直球だねぇ」
アリアはこんなにもクレドの美しいアイリスの瞳を独り占めにしたいと思っているのだから、世の中の他の人もそう願ってもおかしくないだろうと思っていた。今までも、これからも。
クレドが頬肘を付き、少し呆れた視線を向けてくるのさえもアリアは嬉しく思い、自分のことながら重症だと肩を落とす。
気持ちが先走って空回りすぎては元々無い愛想を尽かされてしまいそうでアリアは不安になった。
「少なくとも無いってことはねえな」
「…そ、だよね……」
クレドの返答にあからさまに落胆してしまうアリア。
そんなアリアを見てクレドが小さくため息を吐いた。
「あのなぁ、その歳で無いあんたのほうがおかしいからな?」
「…そなのかな……もしかしたら…」
記憶がないだけでアリアも過去には誰かと恋に落ち、お互いの全てを許しあったのかもしれない。
「覚えてないだけで…したことあるのかも」
「だといいがな」
そう素っ気なく答えたクレドは運ばれてきた朝食に目が行き、もうアリアの恋愛事情については興味がないようだった。
アリアも出来立てのうちにいただこうとフォークを取りオムレツを食べ進める。ふっくらと綺麗な黄色い表面にバターの香ばしい香り、そしてとろけるチーズと卵の濃厚な風味でいつも通りの美味な仕上がりだったが、今日のアリアはいつもより美味しく感じることができなかったのだった。
「…あんた見た目だけは良いから、それこそ取っ替え引っ替えできるだろうよ」
「そ、そんなことしないもん…!わたしは貴方だけが好き…!」
クレドのアイリスが大きく見開かれた。
彼の少しだけ紅潮した頬にアリアの心臓が飛び跳ねた。
初めて口にした“好き”の言葉。それに彼が反応をしてくれた。
「あんた馬鹿っていわれねえ?」
「馬鹿って…!」
「なんで俺なんだ?不真面目で、粗暴で、協調性もねえ。あんたに好かれる要素がないんだが」
クレドが自嘲の笑みを浮かべて言う。アリアはクレドの自己評価に胸が痛くなる。何故そんなにも卑下するのだろうか。不真面目でも、粗暴でも、協調性がなくったって、アリアにとってのクレドはこの上なく輝いて見えているのに。
「…私、貴方の相槌が好き。話すのは私ばかりだけど、貴方は話を聞いてくれる。雑な返事でも必ず返してくれる。それが好き。」
この恋心は漠然としたものだったはず。
けれど、クレドが自分自身のことを悪く言うのが悲しくて、アリアは溢れる想いを勢いのままに言葉にしてぶつける。
「お昼ご飯、必ず私が取るのを待ってから自分のを取る貴方の気遣いが好き。陽の光が眩しい時、私の日避けになってくれる気遣いも好き。辻斬りの時も、絶対に私に傷をつけないようにしてくれてるのも伝わってる、それも好き。」
「ちょ、おい、」
湧き上がってくる言葉は止まることなくアリアの口から出てゆき、圧倒されたクレドが唖然とする。
「辻斬りの後、私が家に着くまで遠くで見守ってくれてるのも…好き。戦っている時の子供みたいに楽しそうな青の目も好き。朝早くまだ眠たげな紫の目も……」
「ちょ、まてまて!もうやめろ!」
突然の制止にアリアは驚いて口を噤む。
苦々しい顔をして舌打ちをしながらも、頬を染めるクレドの珍しい表情にアリアはぽかんとした。
「て、照れてる…?」
「うるせぇ!ホントとんでもねえ女だ…」
照れ隠しなのかオムレツを掻き込むクレドにアリアは自分はとんでもないことを口走ってしまったと今更ながらに恥ずかしくなってくる。朝っぱらから公衆の面前で愛の大告白をしてしまうだなんて。ブランシュの店員たちの生温い視線も相まって、アリアはまたもその場から逃げ出したくなる。けれど、嘘偽りのない気持ちだった。
ドン、と音を立ててコーヒーのマグを置いたクレド。
アリアの半分以上残ったままのオムレツを見て目を細めるとため息混じりに呟く。
「…早く食えよ、置いてくぞ」
「う、うん!」
「食わねえなら食っちまうぞ」
「食べるもん…!」
置いていかれなかっただけでも進展ありだ。
アリアは急いで食べ進めたオムレツをいつも通り美味しいと思ったのだった。
アリアはシャトラールの課題を解きながら、最近昼食を共にするようになった紫髪を思い浮かべる。
特別内容のある会話をしていたわけではなかったが、それでも少しずつ着実にアリアの世界をクレドは彩っていったのだった。
記憶のないアリアの狭い世界に、怪人鷹が斬り込んできて、鮮やかな蒼がまず視界を覆った。その蒼に導かれるままに鷹に近づいていくと、アリアの心にアイリスの花が芽吹いたのだった。
始めは小さな一輪のアイリスは、昼食を共にし剣を交えるたびに、一輪、また一輪と咲き綻んでいった。
そしてあの日。
「貧弱な腕だな。」
「ああら失礼ね」
いつも通りのお昼時間、友人同士がする戯れごとのようにアリアはクレドにナイフを向けた。無論本気ではなかったし、クレドも同様に戯れだと思っていただろう。クレドの軽口を煽りで返したら予想外にも彼が本気になってしまい、アリアは純粋な力の差に勝てるはずもなく、呆気なく天を仰いでいたのだった。
「わっ…」
青い空を背景にクレドの端正な顔が覗き込んできて、間近に見つめ合う。楽しそうに自分を見下ろすアイリスの瞳を美しいと思った瞬間に、アリアの心の中のアイリスが満開になった。
ぶわっと花びらが目の前を舞うように爛漫として、アリアは心に根付いたアイリスの花の存在のその意味がわかってしまったのだった。
「え、なに」
「…ぁっ……あ…」
顔が赤くなってしまっているのが自分でもわかった。
腕を押さえつけられて上に覆い被さられ、クレドの匂いや存在を間近に感じるこの状況がアリアには刺激が強すぎて、拘束から解放されると一目散にクレドの前から逃げ出したのだった。
記憶のないアリアにとってクレドに抱いてしまったこの感情は初めてのものだった。恋というものがどう言うものなのかは潜在的に理解はしていたが、実際に抱いてみると儘ならぬ己の感情にアリアは翻弄され続けていた。
恋心を自覚してからアリアは気持ちの整理がつかず、クレドに会いに行けないまま時が過ぎていった。
どう言う顔で会えばいいのかもわからないし、会ったって何を話したら、どういう風に接したら良いかわからなかった。
それでも会いたい気持ちは募り、クレドからなんのアクションもないことに身勝手にも落胆さえした。
「…シャトラール?」
「どうかしたか?」
デスクで事務仕事をこなすシャトラールに話しかけると視線を上げずに返答が返ってくる。相変わらずの仕事人間ぷりに感心しながらも、胸の内に燻っていた疑問を問いかける。
「殆ど毎日会っていたのに、突然会いに来なくなってしまった人を放っておく理由は?」
「…誰のことだ?」
「誰とかいいから」
唐突な質問にシャトラールは小難しい顔をして視線を上げる。ほんの少しだけ考えた後、シャトラールは淡々と、はっきりと答えた。
「興味がないからではないか?関心があれば何事かと探しにくるだろう。」
「……」
興味がない。
グサリとアリアの心に突き刺さった。
自分の中にはアイリスの花が咲き乱れているのに、クレドの心には何も芽吹いてないと言うのか。
「最近昼に出かけない理由か?」
「……ち、違うもん…!」
無遠慮に図星を突かれ、アリアはムキになって言い返すと部屋を飛び出した。
突きつけられた現実にアリアは動揺しきっていた。
冷静になればそれは当然のことだと理解できたが、初めての恋心に翻弄されていたアリアには正しくそれを認識するまでに時間が掛かった。
そうか、彼が会いに来ないのはこの状況になにも思っていないからなのか。むしろサボり時間を騒がす邪魔な存在が居なくなって清々しているかもしれない。
逃げ出した先、ひと気の無い廊下の端に蹲りアリアは苦しくなる胸を押さえて深呼吸を繰り返した。
あの時間を楽しいと思っていたのは自分だけだったのだろうか。一方通行の感情にアリアの視界が涙で揺らいだ。
クレドにも自分をみてほしい。彼の心の中に芽吹くにはどうしたら良いのだろうか。アリアは考えた。
(…彼のこと、全然知らないわ)
名前と怪人であることと、戦闘とお酒が好きなこと、決められたことをするのが好きで無いこと、そして少しだけサンドイッチを気に入ってくれていること。たったこれしかアリアはクレドについて知らなかった。
この恋心も確かにアリアの心にあるものだが、何故なのかは漠然としたもので、あまりに過ごしてきた時間が短く、お互いのことを知らなさ過ぎなのだとアリアは涙を零しながら納得したのだった。
彼の心に芽吹くにはもっと彼を知り、彼に知ってもらわないといけない。
アリアは決意をかため、シャトラールの課題なんてすっぽかして家に帰ると、引き出しに丁重にしまっていた真紅のナイフを取り出す。
これはアリアの持ち物だ。
記憶が始まる前からの、アリアの知らないアリアの持ち物。
けれど驚くほど手に馴染む、魂に刻み込まれたようなアリアの得物。
なんだかこのナイフは簡単に使ってはいけない気がして、ずっとしまい込んでいたものだったが、使うべきは今なのだとアリアは確信していた。
クレドから勝ちを取り、想いをぶつける。
一世一代の勝負だ。
精神を統一するとアリアはクレドに会うべく夕日溢れるバルドゥークの市街へと出ていったのだった。
――
翌朝。
アリアは緊張半分、楽しみ半分といった気持ちで家を出た。
まだ登りきっていない太陽を見上げ、今日もいい天気だと心を落ち着かせる。
中央区、大聖堂前の大衆レストラン『ブランシュ』に向かうアリア。
昨日クレドから勝ち取った約束、朝食を共にするためである。
歩きながらアリアはクレドが来てくれないのではないかとだんだんと不安になった。早朝から約束事があるのは正直言って面倒ではある。朝の時間が貴重なことはアリアも十分理解ができる。1秒でも長く寝ていたい人も多いだろう。
それでもアリアはクレドとの時間を持ちたいがために勝負事の褒美として彼の朝の時間を強請ったのだった。
「……ぁ…」
向かいから歩いてくるライラック色の髪の彼にアリアは思わず足を止めた。大きな欠伸をしながら気怠げに、けれど。
(――来てくれた)
アリアはそれだけで泣いてしまいそうなほどに嬉しくて堪らなかった。
こちらに気がついた様子のクレドが少しだけ眉を寄せ、そのままそばに近づいてくる。
「お、はよ……」
「おう」
まだ眠たそうなアイリスの瞳をアリアはどうしようもなく愛おしく感じてしまい、緩んでしまう口元を隠すようにブランシュのテラス席へと着いた。
「ここのモーニング美味しいの、おすすめはチーズオムレツ!」
「んじゃそれで」
手早く店員に挨拶と注文を済ませ、アリアは向かいの席に座ったクレドに改めて視線を向ける。
「あ、の、来てくれてありがとう…!」
「ククッ、たっぷり感謝してくれや」
「えへへ…」
「ほんと、変なやつ」
クレドはアリアの気持ちに気がついている。
アリアはそう感じていた。アリアの気持ちを知っていても関係を拒まれないのは、きっと良い方向に考えても良いと言うことなのだろう。
初めの頃と比べたら圧倒的に柔らかくなった彼の雰囲気に、多少は気を許されているという自信を持つアリア。じゃなかったら、膝の上に向かい合って座らせ、至近距離で髪を撫でてきたりしないだろう。騎士団内に話を聞いても彼がプレイボーイだという噂は無かったのだから。
全くの脈無しというわけでもないのだろう。アリアはそう思えるだけで勇気が湧いてくるのであった。
先に運ばれてきたホットコーヒーにクレドが口をつける。アリアはミルクも砂糖も入れるのに彼はブラックで飲むのかと記憶に刻みつけていると、クレドがじっとアリアがコーヒーにミルクと砂糖を入れる様子を見ているのに首を傾げた。
「なあに?」
「いや、あんた、随分雰囲気がちげぇなと思って。」
「どゆこと…?」
「この間までやけに大人振ってると思ったら、実はブラックも飲めねえ、恋愛経験もねえ随分なお子ちゃまだなんてな」
「なっ……」
否定も肯定もできなかった。
クレドの言う通り最初の頃はスマートな女性を演じようと自分を繕っていたわけだが、それが慣れない感情によりぼろぼろと剥がれ、すっかり素のアリアが顕になってしまったわけだ。
けれど、正真正銘のアリアを知ってもらいたい。
かっこつけて変に繕った自分でなく、子供っぽくても飾らない自分をクレドに見てほしいとアリアは思った。
「……そんなお子ちゃまが、本当のわたしなの」
「おー、気色悪りぃ背伸びしてるより、ぽいわ」
「わ!」
わしゃわしゃとクレドの手が乱雑にアリアの頭を撫でてくる。せっかく早く起きてセットした髪型が乱れてしまい、アリアは恥じらいよりも不服が勝りクレドをじとっと睨みつけた。
「そういう…クレドは……たくさん経験あるの?」
「あぁ?なにが」
「恋愛」
アリアは緊張した。
自分でした質問なはずなのに、答えを聞くのが怖くなった。
そりゃ全くのゼロというわけではないだろう。けれど、クレドが自分の知らない女性の名前を呼んで、優しく見つめていたと想像すると、アリアの胸は苦しくて苦しくて息が止まってしまいそうになるのだ
「ククッ、そんな取っ替え引っ替えしてるように見えるか?」
「…そうじゃなくて…!クレド…かっこいいから……」
「……直球だねぇ」
アリアはこんなにもクレドの美しいアイリスの瞳を独り占めにしたいと思っているのだから、世の中の他の人もそう願ってもおかしくないだろうと思っていた。今までも、これからも。
クレドが頬肘を付き、少し呆れた視線を向けてくるのさえもアリアは嬉しく思い、自分のことながら重症だと肩を落とす。
気持ちが先走って空回りすぎては元々無い愛想を尽かされてしまいそうでアリアは不安になった。
「少なくとも無いってことはねえな」
「…そ、だよね……」
クレドの返答にあからさまに落胆してしまうアリア。
そんなアリアを見てクレドが小さくため息を吐いた。
「あのなぁ、その歳で無いあんたのほうがおかしいからな?」
「…そなのかな……もしかしたら…」
記憶がないだけでアリアも過去には誰かと恋に落ち、お互いの全てを許しあったのかもしれない。
「覚えてないだけで…したことあるのかも」
「だといいがな」
そう素っ気なく答えたクレドは運ばれてきた朝食に目が行き、もうアリアの恋愛事情については興味がないようだった。
アリアも出来立てのうちにいただこうとフォークを取りオムレツを食べ進める。ふっくらと綺麗な黄色い表面にバターの香ばしい香り、そしてとろけるチーズと卵の濃厚な風味でいつも通りの美味な仕上がりだったが、今日のアリアはいつもより美味しく感じることができなかったのだった。
「…あんた見た目だけは良いから、それこそ取っ替え引っ替えできるだろうよ」
「そ、そんなことしないもん…!わたしは貴方だけが好き…!」
クレドのアイリスが大きく見開かれた。
彼の少しだけ紅潮した頬にアリアの心臓が飛び跳ねた。
初めて口にした“好き”の言葉。それに彼が反応をしてくれた。
「あんた馬鹿っていわれねえ?」
「馬鹿って…!」
「なんで俺なんだ?不真面目で、粗暴で、協調性もねえ。あんたに好かれる要素がないんだが」
クレドが自嘲の笑みを浮かべて言う。アリアはクレドの自己評価に胸が痛くなる。何故そんなにも卑下するのだろうか。不真面目でも、粗暴でも、協調性がなくったって、アリアにとってのクレドはこの上なく輝いて見えているのに。
「…私、貴方の相槌が好き。話すのは私ばかりだけど、貴方は話を聞いてくれる。雑な返事でも必ず返してくれる。それが好き。」
この恋心は漠然としたものだったはず。
けれど、クレドが自分自身のことを悪く言うのが悲しくて、アリアは溢れる想いを勢いのままに言葉にしてぶつける。
「お昼ご飯、必ず私が取るのを待ってから自分のを取る貴方の気遣いが好き。陽の光が眩しい時、私の日避けになってくれる気遣いも好き。辻斬りの時も、絶対に私に傷をつけないようにしてくれてるのも伝わってる、それも好き。」
「ちょ、おい、」
湧き上がってくる言葉は止まることなくアリアの口から出てゆき、圧倒されたクレドが唖然とする。
「辻斬りの後、私が家に着くまで遠くで見守ってくれてるのも…好き。戦っている時の子供みたいに楽しそうな青の目も好き。朝早くまだ眠たげな紫の目も……」
「ちょ、まてまて!もうやめろ!」
突然の制止にアリアは驚いて口を噤む。
苦々しい顔をして舌打ちをしながらも、頬を染めるクレドの珍しい表情にアリアはぽかんとした。
「て、照れてる…?」
「うるせぇ!ホントとんでもねえ女だ…」
照れ隠しなのかオムレツを掻き込むクレドにアリアは自分はとんでもないことを口走ってしまったと今更ながらに恥ずかしくなってくる。朝っぱらから公衆の面前で愛の大告白をしてしまうだなんて。ブランシュの店員たちの生温い視線も相まって、アリアはまたもその場から逃げ出したくなる。けれど、嘘偽りのない気持ちだった。
ドン、と音を立ててコーヒーのマグを置いたクレド。
アリアの半分以上残ったままのオムレツを見て目を細めるとため息混じりに呟く。
「…早く食えよ、置いてくぞ」
「う、うん!」
「食わねえなら食っちまうぞ」
「食べるもん…!」
置いていかれなかっただけでも進展ありだ。
アリアは急いで食べ進めたオムレツをいつも通り美味しいと思ったのだった。