前日譚
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今日はそこそこにいい日だった。
帰路に着いた月夜にアリアは思った。
記憶がないからと受けている授業はあいも変わらず気怠く退屈だったが、昼下がりに参加した騎士団訓練では剣を振るい、久々に良い緊張感を肌で感じることができた。
中でも三戦目の小隊長の男。
今でも思い出せるあからさまな蔑視と、まとわり付くような支配欲。
勘違いした少し力のある男が、目下の女にする目付きだった。甚振り甲斐がありそうな男だと気分が高揚したとアリアは追想する。
力では根負けしそうだったので、早期決着ということで少しだけ本気を出して捻じ伏せてやったのだった。
――なんと気分の良いことか。
男の屈辱に歪む顔を思い出しアリアは爽快な気分だった。
レストランブランシュで帰りがけに購入したフライドフィッシュと自宅で冷えているエールをディナーにいただくのもとても楽しみで、ついつい鼻唄交じりに足取り軽く帰路に着いたそこそこに良い日の夜だった。
漬けておいたピクルスがそろそろ食べ頃だななんて考えながら中央区の広場を通り過ぎ自宅のある裏路地に入ると、数メライ先に立ち憚るかのように立っている人影が月明かりに照らされていて歩みを止めるアリア。
誰だろうか?この道に帰りがけ人を見たことは一度もなかった。
月明かりは薄暗くはっきりとは見えないが、体格からして性別は男だ。青を基調とした奇抜な服装をしている。髪は明るめの金髪、瞳は閉じられ表情は読み取れない。
不審に思いながらも、一歩、歩みを進めると閉じられていたまぶたが開かれ、妖しく光るスカイブルーの瞳がアリアを捉えた。
その瞬間シャトラールの言葉がアリアの脳裏を過った。
『鷹という粗暴な怪人が天珠と称して騎士団や民間人を襲っている』
細かな特徴は聞いていなかったが、出立ちや取り巻く空気感がそうだと言っている気がする。そしてなにより今更だが、その両手には短剣が握られていることに気付き、シャトラールが鷹は双剣を振り回すとも言っていたかもしれないとアリアは記憶の奥底に思い出した。
「…噂の怪人さんが何かご用?」
張り詰める沈黙を破り声をかける。
いつその刃が襲ってきても反応できるように、脚のホルスターに意識を持っていく。呼吸のリズムが狂うだけで壊れそうな空気の中、浅い呼吸をひとつすると男が楽しげに言う。
「怪人だと知っているなら話は早い。さっそく、一手ご教授願おうか!」
言い終わるや否や張り詰めていた糸が切れたように空気感がガラリと変わり、狂気じみた闘気が肌を刺した。咄嗟に身を引くと目と鼻の先を剣先が通過し、フィッシュフライの入った手提げ袋が無惨にも切り落とされる。
「うそっ……!」
楽しみにしていた晩餐が散ったことを嘆く間も無く追撃が振り上げられナイフで受けると、直近に楽しそうに笑う鷹の顔がありアリアは迫り合いをしながらついその端正な顔を眺めてしまう。
整った目鼻立ちに鮮やかなブルーの瞳。
闇夜でもはっきりとその獰猛な瞳が見え、なんなら発光しているとさえ感じる。
何度も打ち付けられる重い剣撃に防御だけでは埒が開かないと、アリアは反撃に出ることにする。身を躱し、からぶった隙に斬りかかると、同じように体が引かれ躱される。より近くなった距離にベルガモットのような香りがアリアの鼻腔をくすぐった。
怪人も身だしなみを気にするのかと意外に思ったところで、すぐに鷹の剣が襲いかかってくるのにアリアは一度飛び退き距離を取った。
その後も何度か競り合いといなしが繰り返される間、アリアは悶々といろいろなことを考えていたが、なぜこの鷹は自分を標的にしたのだろうかという疑問に答えは出なかった。けれど、彼の高揚を隠さない笑みと、瞳の光が印象に強く焼き付いた。
お互いに息も切れ切れになってきた頃、深夜の街中だと言うのに木箱や樽を壊す音が鳴り渡り、極め付けにアリアの放った投擲用の小ナイフが窓ガラスを割る音でロムン兵が駆けつけてきたのだった。
「おい!何事だ…か、怪人?!!」
「…おっと、お楽しみの時間がすぎるのは早いなァ。じゃあな、また来るぜ。」
そう言い残し、身を翻し鷹が早々と闇に消えてしまうのに、アリアは盛大にため息を吐いた。ようやく戦闘が終わったという安堵というより取り残された面倒臭さが勝る。当然シャトラールに知られ、また懇々とお説教をうけることになるだろう。
先のことを考えるとうんざりするし、とにかく今夜は疲れていたアリアはロムン兵に軽く事情を説明し、診療所を勧めてくるのを適当にかわして逃げるように帰宅したのであった。
なんだったのだ、彼は。
いきなり剣を振るってきて。
釈然としない疑問が湧いてきて、酒の肴もなく取り出したエールをアリアは一気に呷った。
火照った身体と興奮した頭をスッと冷やし、たちまち冷静になる。
それでも釈然とはしなかったが、思い起こすと「楽しかったな」という感情が勝る。
手緩い騎士団の訓練とは比にならないほど、ヒリヒリと神経を焦がすような戦いだった。一瞬でも判断を違えるようだったら斬られる緊張感。あの時の高揚が十分に肴になったようで、気づけば手元のエールは空になっていた。
『またくるぜぇ』
そう彼は言った。
「鷹ねえ。」
アリアはテーブルに肘をつき、窓から姿を覗かせる月を見上げる、ほとんど満月に近い。
目の醒めるような青。残光が走るような鋭い目つき。そして、あの殺気にも近い闘気。
あれ、似たようなものをまさに今日、別の瞬間に感じたような…
アリアはその既視感を思い出そうとしたが、その日ははっきりとは思い出せず、モヤモヤもしたままベットに転がり込んだのだ。
そしてそれは2回3回と剣を交えるうちにふと思い出された。もはや閃きに近かったかもしれない。
ライラックの花のような髪の色。
それが鮮明に思い出された。
次に明るい赤みかかったアイリスの瞳。
それはあの日、たまたま参加した騎士団合同訓練の日。
ナイフのように放たれた殺気だった。
もうほとんど反射的に殺気の先に視線をやったことをアリアは思い出す。その先に彼がいた。姿形は違うが、多分同じ。間違いない。アリアは確信した。
日中は騎士団の甲冑を身に纏い、街の平穏を保っている。それが夜になればたちまち人を脅かす存在になるだなんて、アリアはまるでサイコパスのようだと面白く思った。
アリアは鷹の正体を特定しようと思った。
それは咎めようとか辞めさせようとかつまらない正義感からではなく、単純に彼への興味からだった。夜には怪しく光る青の瞳が、昼間はどんな色を放つのか気になったのだ。
強烈に覚えている色のイメージ、これだけでは彼を特定するのは難しいと思われたが、案外すんなりと彼の名前、所属が判明した。
名前はクレド・アイブリンガー
所属は騎士団支部だ。
まあ支部での合同訓練の時に見かけたのだから、高確率で支部の所属というのはすぐにわかる話だった。非常に不真面目で、なにかと理由をつけてサボり真剣に任務などこなす事はほぼ無いそうだ。
そんなやる気は無さそうな人間だが、戦闘欲は人並み以上にあり怪人鷹の姿で辻斬りなど行なっている。
何故辻斬りの対象にアリアが選ばれたのかという理由。それはあの時の訓練試合を目撃したのだろう。小隊長の男を打ち負かした女に興味を持ったのだと想像に易い。
鷹の素性が判明した途端、アリアの心は優越感に満たされた。
奴との戦いでは勝ちというには今ひとつ決め手に欠けているが、その傍若無人な鷹の正体はバルドゥークの治安を守るべき騎士団員であるということをアリアは知ったのだ。流石にあの鷹といえども素性を周知されるのは都合が悪いだろう。
といっても、アリアにその優位性を行使する気はさらさらなかった。彼の素性を突き止めたのは単に怪人鷹という存在に興味があっただけなのだ。なんなら戦いは楽しいと言ってもいい。
さあ、これからどうしようか。
アリアは口元に笑みを浮かべると武器のナイフを取り出し念入りに手入れを始めるのであった。
◆
幾分か夏が近づき、増す湿度も相まって気怠げな昼過ぎ。相変わらず乗り気のしない警備任務をサボった日だった。
いつものサボり場所の屋根上の死角に寝転がり、暑すぎない日差しにウトウトしかけていたクレドはこのあと待ち構えているであろう友人ユオンの説教をどう回避しようかと夢現に考えていた。
いい加減放っておいてほしいものであるが、奴は全く諦めるそぶりを見せない。まあ今回も適当に撒いてしまえば良いだろうと欠伸を一つすると日差しが遮られ影がかかった気がして瞼を開ける。
「こんにちは、いいお天気ね」
「ッ?!」
すぐそばに薄桃色の髪をした女が立ち自分を見下ろしていてクレドは驚いた。吹き抜けた風が彼女の長い髪とワンピースの裾を靡かせ、口元に浮かべた美しい笑みにクレドは身体を起こすことも忘れて見入ってしまっていた。
「こんな日はお昼寝にうってつけね、鷹さん?」
「は、おま、えっ?!」
女の口から自分の怪人の時の名前が飛び出してきてクレドは慌てて飛び起きようとするが、それよりも先に女が馬乗りになって来てナイフを顔の横に突き立ててくるのに息を呑む。
「失礼、今はこちらね。クレド・アイブリンガーさん?」
完全に勝ち誇ったように釣り上がる口の端にクレドはしてやられたと舌打ちを漏らした。
どうしてだか自分の正体を知っている女が馬乗りになりナイフを突き立ててくる理由なんて明白だった。
もう何度も“辻斬り”と称し帰宅途中の彼女に斬りかかっている。
心底愉快そうに細まる薄ピンクの瞳もふわりとただよう花の香りもクレドにとっては最早馴染み深くありつつあった。
「ククッ、何が目的だ?騎士様よろしく監獄にぶち込むか?」
もうこうなっては怪人の力を使っても彼女から逃れることはできないだろう。突き立てられたナイフの刀身は彼女の気分次第で頸動脈を容易く切り裂ける位置にあった。ここで果てるのも、それもまた人生かと思ったが、流石に早すぎる。
彼女は笑みを崩さず、しばらくクレドの観念して開き直ったように余裕ぶった様子を見下ろしていたが、やがてナイフをホルスターに戻すと身体を解放するのに、クレドは彼女の行動の意図が読めず眉を顰めた。
「あぁ?どういうつもりだ?」
「どうも何も、わたし貴方の驚いた顔を見に来ただけよ」
あっけらかんという女にクレドはまんまと驚いてしまいそうになるが、努めて冷静を装い女の動向を窺った。
「それなのに貴方と来たら、全然驚かないんだもの。残念」
ふふっ、とそよ風のような笑いを漏らして女がクレドの横に腰掛けた。そしてグーッと伸びをすると「いい場所ね」と優しく笑いかけてくるのにクレドは今度こそ驚いた顔をしてしまうのであった。
「ねえ、私の勝ちよね。」
「勝ちだぁ?寝込み襲って不意打ちだなんてセコいことしやがって」
「それでも勝ちは勝ちよ」
悪びれもなく強情な女を見ると、女もこちらを見ていて視線が絡むのにクレドの胸が形容し難い高揚感を覚える。
「結局要望があったわけか、初めから言えや」
「…ふふ、そうね。じゃあお言葉に甘えて。」
女の視線が外れ、薄桃色の瞳が空を見上げた。
その横顔からは何も読み取れなかったが、少なくとも守備隊に突き出される様子はないことは分かりクレドは然程構えることなく女の言葉を待った。
「私もこれからここに来てもいい?」
「……はぁ?」
「いい場所だもの、気に入っちゃった」
もう一度伸びをして深呼吸をする女は、言うように本当にこの場所を気に入っているようで、リラックスしたようにその場に寝転がった。クレドはその気楽な様子に呆気にとられ、女とは逆に身体を起こすと周りを警戒する。何か罠に嵌められているかと思ったが、周囲はいつもと変わりなく気配はない。どうやら違うようだ。
「…もう襲ってくるなとか言うんじゃねえのかよ」
「いいえ、いつでも来たらいいわ、辻斬り」
「ハッ、随分な自信だこと。俺が勝ってもなんか聞いてくれんのか?」
「それはもちろん。好きなことを願ってちょうだい」
緩い笑みを浮かべながら豪語する女。それは虚勢でも強がりでもなんでもなく、純粋な自信と享楽からくる余裕なのだろう。
確かに彼女の戦闘能力の高さは己の身を持って知っている。そしてあの戦闘を彼女が楽しんでいるということもクレドは感じていた。
改めて寝転がる女の美しい風貌を見下ろし、クレドは世の中不思議なこともあるもんだと感心する。
怪人でもない生身の人間がこんなにも高い戦闘能力を持っていることにも驚きだが、人目を引くほどの整った容姿をしていることにも驚きである。とてもじゃないがナイフを振り回し、機敏な動きで剣撃を躱し、隙あらば体術を叩き込んでくるようには見えない。
「なぁに?」
視線に気がついた女が甘く微笑んでくるのにもクレドは不可思議な気持ちでいた。
「いや。あんた、何者なんだ?」
「あれ、知らなかったの?」
女は身体を起こすとクレドと向き合い、寝転がり乱れた髪を整えると、少し恥ずかしそうにはにかんでクレドに手を差し出した。
「わたし、アリア。アリア・ラプランカだよ。よろしくね、クレド」
いや、名前なんてとっくに知っているし、そういう“何者”じゃないんだがなぁ、と内心苦笑いを漏らすが、アリアの変に律儀な様子が面白くクレドは珍しく素直に差し出された手を取ると「…よろしくしてやる」と小さく呟いたのだった。
帰路に着いた月夜にアリアは思った。
記憶がないからと受けている授業はあいも変わらず気怠く退屈だったが、昼下がりに参加した騎士団訓練では剣を振るい、久々に良い緊張感を肌で感じることができた。
中でも三戦目の小隊長の男。
今でも思い出せるあからさまな蔑視と、まとわり付くような支配欲。
勘違いした少し力のある男が、目下の女にする目付きだった。甚振り甲斐がありそうな男だと気分が高揚したとアリアは追想する。
力では根負けしそうだったので、早期決着ということで少しだけ本気を出して捻じ伏せてやったのだった。
――なんと気分の良いことか。
男の屈辱に歪む顔を思い出しアリアは爽快な気分だった。
レストランブランシュで帰りがけに購入したフライドフィッシュと自宅で冷えているエールをディナーにいただくのもとても楽しみで、ついつい鼻唄交じりに足取り軽く帰路に着いたそこそこに良い日の夜だった。
漬けておいたピクルスがそろそろ食べ頃だななんて考えながら中央区の広場を通り過ぎ自宅のある裏路地に入ると、数メライ先に立ち憚るかのように立っている人影が月明かりに照らされていて歩みを止めるアリア。
誰だろうか?この道に帰りがけ人を見たことは一度もなかった。
月明かりは薄暗くはっきりとは見えないが、体格からして性別は男だ。青を基調とした奇抜な服装をしている。髪は明るめの金髪、瞳は閉じられ表情は読み取れない。
不審に思いながらも、一歩、歩みを進めると閉じられていたまぶたが開かれ、妖しく光るスカイブルーの瞳がアリアを捉えた。
その瞬間シャトラールの言葉がアリアの脳裏を過った。
『鷹という粗暴な怪人が天珠と称して騎士団や民間人を襲っている』
細かな特徴は聞いていなかったが、出立ちや取り巻く空気感がそうだと言っている気がする。そしてなにより今更だが、その両手には短剣が握られていることに気付き、シャトラールが鷹は双剣を振り回すとも言っていたかもしれないとアリアは記憶の奥底に思い出した。
「…噂の怪人さんが何かご用?」
張り詰める沈黙を破り声をかける。
いつその刃が襲ってきても反応できるように、脚のホルスターに意識を持っていく。呼吸のリズムが狂うだけで壊れそうな空気の中、浅い呼吸をひとつすると男が楽しげに言う。
「怪人だと知っているなら話は早い。さっそく、一手ご教授願おうか!」
言い終わるや否や張り詰めていた糸が切れたように空気感がガラリと変わり、狂気じみた闘気が肌を刺した。咄嗟に身を引くと目と鼻の先を剣先が通過し、フィッシュフライの入った手提げ袋が無惨にも切り落とされる。
「うそっ……!」
楽しみにしていた晩餐が散ったことを嘆く間も無く追撃が振り上げられナイフで受けると、直近に楽しそうに笑う鷹の顔がありアリアは迫り合いをしながらついその端正な顔を眺めてしまう。
整った目鼻立ちに鮮やかなブルーの瞳。
闇夜でもはっきりとその獰猛な瞳が見え、なんなら発光しているとさえ感じる。
何度も打ち付けられる重い剣撃に防御だけでは埒が開かないと、アリアは反撃に出ることにする。身を躱し、からぶった隙に斬りかかると、同じように体が引かれ躱される。より近くなった距離にベルガモットのような香りがアリアの鼻腔をくすぐった。
怪人も身だしなみを気にするのかと意外に思ったところで、すぐに鷹の剣が襲いかかってくるのにアリアは一度飛び退き距離を取った。
その後も何度か競り合いといなしが繰り返される間、アリアは悶々といろいろなことを考えていたが、なぜこの鷹は自分を標的にしたのだろうかという疑問に答えは出なかった。けれど、彼の高揚を隠さない笑みと、瞳の光が印象に強く焼き付いた。
お互いに息も切れ切れになってきた頃、深夜の街中だと言うのに木箱や樽を壊す音が鳴り渡り、極め付けにアリアの放った投擲用の小ナイフが窓ガラスを割る音でロムン兵が駆けつけてきたのだった。
「おい!何事だ…か、怪人?!!」
「…おっと、お楽しみの時間がすぎるのは早いなァ。じゃあな、また来るぜ。」
そう言い残し、身を翻し鷹が早々と闇に消えてしまうのに、アリアは盛大にため息を吐いた。ようやく戦闘が終わったという安堵というより取り残された面倒臭さが勝る。当然シャトラールに知られ、また懇々とお説教をうけることになるだろう。
先のことを考えるとうんざりするし、とにかく今夜は疲れていたアリアはロムン兵に軽く事情を説明し、診療所を勧めてくるのを適当にかわして逃げるように帰宅したのであった。
なんだったのだ、彼は。
いきなり剣を振るってきて。
釈然としない疑問が湧いてきて、酒の肴もなく取り出したエールをアリアは一気に呷った。
火照った身体と興奮した頭をスッと冷やし、たちまち冷静になる。
それでも釈然とはしなかったが、思い起こすと「楽しかったな」という感情が勝る。
手緩い騎士団の訓練とは比にならないほど、ヒリヒリと神経を焦がすような戦いだった。一瞬でも判断を違えるようだったら斬られる緊張感。あの時の高揚が十分に肴になったようで、気づけば手元のエールは空になっていた。
『またくるぜぇ』
そう彼は言った。
「鷹ねえ。」
アリアはテーブルに肘をつき、窓から姿を覗かせる月を見上げる、ほとんど満月に近い。
目の醒めるような青。残光が走るような鋭い目つき。そして、あの殺気にも近い闘気。
あれ、似たようなものをまさに今日、別の瞬間に感じたような…
アリアはその既視感を思い出そうとしたが、その日ははっきりとは思い出せず、モヤモヤもしたままベットに転がり込んだのだ。
そしてそれは2回3回と剣を交えるうちにふと思い出された。もはや閃きに近かったかもしれない。
ライラックの花のような髪の色。
それが鮮明に思い出された。
次に明るい赤みかかったアイリスの瞳。
それはあの日、たまたま参加した騎士団合同訓練の日。
ナイフのように放たれた殺気だった。
もうほとんど反射的に殺気の先に視線をやったことをアリアは思い出す。その先に彼がいた。姿形は違うが、多分同じ。間違いない。アリアは確信した。
日中は騎士団の甲冑を身に纏い、街の平穏を保っている。それが夜になればたちまち人を脅かす存在になるだなんて、アリアはまるでサイコパスのようだと面白く思った。
アリアは鷹の正体を特定しようと思った。
それは咎めようとか辞めさせようとかつまらない正義感からではなく、単純に彼への興味からだった。夜には怪しく光る青の瞳が、昼間はどんな色を放つのか気になったのだ。
強烈に覚えている色のイメージ、これだけでは彼を特定するのは難しいと思われたが、案外すんなりと彼の名前、所属が判明した。
名前はクレド・アイブリンガー
所属は騎士団支部だ。
まあ支部での合同訓練の時に見かけたのだから、高確率で支部の所属というのはすぐにわかる話だった。非常に不真面目で、なにかと理由をつけてサボり真剣に任務などこなす事はほぼ無いそうだ。
そんなやる気は無さそうな人間だが、戦闘欲は人並み以上にあり怪人鷹の姿で辻斬りなど行なっている。
何故辻斬りの対象にアリアが選ばれたのかという理由。それはあの時の訓練試合を目撃したのだろう。小隊長の男を打ち負かした女に興味を持ったのだと想像に易い。
鷹の素性が判明した途端、アリアの心は優越感に満たされた。
奴との戦いでは勝ちというには今ひとつ決め手に欠けているが、その傍若無人な鷹の正体はバルドゥークの治安を守るべき騎士団員であるということをアリアは知ったのだ。流石にあの鷹といえども素性を周知されるのは都合が悪いだろう。
といっても、アリアにその優位性を行使する気はさらさらなかった。彼の素性を突き止めたのは単に怪人鷹という存在に興味があっただけなのだ。なんなら戦いは楽しいと言ってもいい。
さあ、これからどうしようか。
アリアは口元に笑みを浮かべると武器のナイフを取り出し念入りに手入れを始めるのであった。
◆
幾分か夏が近づき、増す湿度も相まって気怠げな昼過ぎ。相変わらず乗り気のしない警備任務をサボった日だった。
いつものサボり場所の屋根上の死角に寝転がり、暑すぎない日差しにウトウトしかけていたクレドはこのあと待ち構えているであろう友人ユオンの説教をどう回避しようかと夢現に考えていた。
いい加減放っておいてほしいものであるが、奴は全く諦めるそぶりを見せない。まあ今回も適当に撒いてしまえば良いだろうと欠伸を一つすると日差しが遮られ影がかかった気がして瞼を開ける。
「こんにちは、いいお天気ね」
「ッ?!」
すぐそばに薄桃色の髪をした女が立ち自分を見下ろしていてクレドは驚いた。吹き抜けた風が彼女の長い髪とワンピースの裾を靡かせ、口元に浮かべた美しい笑みにクレドは身体を起こすことも忘れて見入ってしまっていた。
「こんな日はお昼寝にうってつけね、鷹さん?」
「は、おま、えっ?!」
女の口から自分の怪人の時の名前が飛び出してきてクレドは慌てて飛び起きようとするが、それよりも先に女が馬乗りになって来てナイフを顔の横に突き立ててくるのに息を呑む。
「失礼、今はこちらね。クレド・アイブリンガーさん?」
完全に勝ち誇ったように釣り上がる口の端にクレドはしてやられたと舌打ちを漏らした。
どうしてだか自分の正体を知っている女が馬乗りになりナイフを突き立ててくる理由なんて明白だった。
もう何度も“辻斬り”と称し帰宅途中の彼女に斬りかかっている。
心底愉快そうに細まる薄ピンクの瞳もふわりとただよう花の香りもクレドにとっては最早馴染み深くありつつあった。
「ククッ、何が目的だ?騎士様よろしく監獄にぶち込むか?」
もうこうなっては怪人の力を使っても彼女から逃れることはできないだろう。突き立てられたナイフの刀身は彼女の気分次第で頸動脈を容易く切り裂ける位置にあった。ここで果てるのも、それもまた人生かと思ったが、流石に早すぎる。
彼女は笑みを崩さず、しばらくクレドの観念して開き直ったように余裕ぶった様子を見下ろしていたが、やがてナイフをホルスターに戻すと身体を解放するのに、クレドは彼女の行動の意図が読めず眉を顰めた。
「あぁ?どういうつもりだ?」
「どうも何も、わたし貴方の驚いた顔を見に来ただけよ」
あっけらかんという女にクレドはまんまと驚いてしまいそうになるが、努めて冷静を装い女の動向を窺った。
「それなのに貴方と来たら、全然驚かないんだもの。残念」
ふふっ、とそよ風のような笑いを漏らして女がクレドの横に腰掛けた。そしてグーッと伸びをすると「いい場所ね」と優しく笑いかけてくるのにクレドは今度こそ驚いた顔をしてしまうのであった。
「ねえ、私の勝ちよね。」
「勝ちだぁ?寝込み襲って不意打ちだなんてセコいことしやがって」
「それでも勝ちは勝ちよ」
悪びれもなく強情な女を見ると、女もこちらを見ていて視線が絡むのにクレドの胸が形容し難い高揚感を覚える。
「結局要望があったわけか、初めから言えや」
「…ふふ、そうね。じゃあお言葉に甘えて。」
女の視線が外れ、薄桃色の瞳が空を見上げた。
その横顔からは何も読み取れなかったが、少なくとも守備隊に突き出される様子はないことは分かりクレドは然程構えることなく女の言葉を待った。
「私もこれからここに来てもいい?」
「……はぁ?」
「いい場所だもの、気に入っちゃった」
もう一度伸びをして深呼吸をする女は、言うように本当にこの場所を気に入っているようで、リラックスしたようにその場に寝転がった。クレドはその気楽な様子に呆気にとられ、女とは逆に身体を起こすと周りを警戒する。何か罠に嵌められているかと思ったが、周囲はいつもと変わりなく気配はない。どうやら違うようだ。
「…もう襲ってくるなとか言うんじゃねえのかよ」
「いいえ、いつでも来たらいいわ、辻斬り」
「ハッ、随分な自信だこと。俺が勝ってもなんか聞いてくれんのか?」
「それはもちろん。好きなことを願ってちょうだい」
緩い笑みを浮かべながら豪語する女。それは虚勢でも強がりでもなんでもなく、純粋な自信と享楽からくる余裕なのだろう。
確かに彼女の戦闘能力の高さは己の身を持って知っている。そしてあの戦闘を彼女が楽しんでいるということもクレドは感じていた。
改めて寝転がる女の美しい風貌を見下ろし、クレドは世の中不思議なこともあるもんだと感心する。
怪人でもない生身の人間がこんなにも高い戦闘能力を持っていることにも驚きだが、人目を引くほどの整った容姿をしていることにも驚きである。とてもじゃないがナイフを振り回し、機敏な動きで剣撃を躱し、隙あらば体術を叩き込んでくるようには見えない。
「なぁに?」
視線に気がついた女が甘く微笑んでくるのにもクレドは不可思議な気持ちでいた。
「いや。あんた、何者なんだ?」
「あれ、知らなかったの?」
女は身体を起こすとクレドと向き合い、寝転がり乱れた髪を整えると、少し恥ずかしそうにはにかんでクレドに手を差し出した。
「わたし、アリア。アリア・ラプランカだよ。よろしくね、クレド」
いや、名前なんてとっくに知っているし、そういう“何者”じゃないんだがなぁ、と内心苦笑いを漏らすが、アリアの変に律儀な様子が面白くクレドは珍しく素直に差し出された手を取ると「…よろしくしてやる」と小さく呟いたのだった。