残雪とハデスの兜

スポットの最期
【銀星の散華さんげ

 きっかけは本当に些細なこと。普通なら喉に引っかかることなく飲み下せてしまいそうな小さな小さな骨。何となく拾い上げてみたら、それが1つじゃなく、幾つも散らばっていることに気付いてしまった。気付いたが最後、見過ごすなんてできない。だって──。



 はあ、はあ、はあ、はあ、 
 かつ。こつ。かつ。こつ。

 喉が、肺が、心臓が、引きちぎれそうなほど痛い。足だってとっくに鉛みたいに重いのに、どれだけ走っても背後の靴音と一向に距離が広がらない。

 塩辛い水がとめどなく頬や額や背中を流れ落ちていく。滲む視界を何度も拭い、恐怖と酸欠でぐちゃぐちゃの脳を必死にフル回転させた。
 こうそくいどうは──無駄だ。くろいきりで解除されてしまった。
 けむりだまは──もうない。さっき使ったのが最後。
 原型に戻って飛ぶ?──否。狙撃手の前で空へ逃げるなんて愚の骨頂だ。すばやさの差だって覆らないし、原型の僕は小回りが利かない。

 なんでなんでなんでなんで。いつも通りやれば・・・・・・・・、今回だって上手くいくはずだったのに!!
 僕は、ずっと、そうやって、

 パァン。現れた路地へ駆け込もうとした寸前、足元で弾丸が跳ねた。慌てて方向転換、もつれかける足に鞭打ってどうにか体勢を立て直す。どんどん人気のない方へ追い込まれているのに、為す術なく逃げ回るしかない。
 おかしい、こんなの絶対おかしい。誰もいない、誰にも出会わない。どうしてこんな時に限って!!ねえ、おねがい、だれか、

〝誰か〟が助けてくれたことなんて、ただの一度もなかったじゃないか。

 頭の奥で声が響く。あ、と思った時には僕の体は宙に投げ出されていた。直後、固い地面に叩きつけられ、両膝に熱と痛みが走る。真っ白になった頭が「転んだ」と理解するのに4秒かかった。

「いやはや、さすが我が隊誇る天才少年軍師どのだ。俺の正体に気付いたのはお前さんが初めてだぜ」

 かつ。こつ。かつ。段々声と足音が近付いてくる。
 歯を食いしばり、石畳に爪を立て、ぶるぶる震える腕に必死に力を込めた。けれど恐怖と焦燥で上手くいかない。がくんと倒れ、額を強かぶつけた。

「ひとりでコソコソ嗅ぎ回ってたのは〝バリオス副隊長が内通者だなんて僕が言っても信じてもらえるわけがない。せっかくここまで登りつめたのに、下手を打てば全ての苦労が水の泡だ。ならひとりで証拠を掴むしかない〟〝だって身近に内通者がいるなんて、いつ殺されてしまうかわからないじゃないか!〟ってとこか?だがよスポット、お前さん、ちと賢すぎたな」

 かつ。こつ。鼓膜を揺らす声はいつもと同じ、飄々とした軽い調子のもの。それがより一層恐ろしさを掻き立てた。
 立て、起きろ、早く!!早く、逃げなきゃ、

「お前さんはまず、ヨハンに相談すべきだったんだ。あいつは嫌疑をかけられたのが例え副官兼親友だろうと、仲間の言葉にきちんと耳を傾けてくれたのに」

 かつん。
 やっとのことで上体が持ち上がる。はあ、はあ、荒く乱れた呼吸もろくに整えないまま後ろを振り返れば──橙色と視線がぶつかった。羽根の形の耳飾りを揺らし、いつものようにへらりと笑う。

「悲しいねえ。まだ11のガキが信じられるのは自分だけ、他者を疑わなきゃ生きていけねえなんてよ。ま、戦時中こんなご時世じゃ無理もねえか」

 おどけた眼差しの奥に潜む昏く赤い瞳孔に射抜かれ、ヒュッと息が詰まった。
 ……まだ。まだだ。僕しか僕を助けられないんだから、僕が諦めちゃだめだ。震える拳をぎゅっと握り、精一杯の笑顔を貼り付ける。

「あ……あなたのことは、誰にも言いません。あなたが望むならそちら・・・につきます。僕が知ってること全部話すし、スパイでも何でもします。だから……だから、」
「おいおい、あんま健気なことすんなよ。泣けちまうだろ」

 あいつはお前さんのそういうとこが気に入ったんだろうなあ。
 彼の呟きはもう耳に入らない。無造作に銃口を突きつけられた瞬間、張りつめていた糸がぷつんと切れた。

「い、いやだ、いやだぁ……!!死にたくないよお……ッ!!」

 壊れたダムみたいに、必死で蓋をしていた感情が一気に溢れ出す。いやだ。こわい。やめて。ゆるして。なんでぼくが。どうして。なんでもするから。ころさないで。しにたくない。涙と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにしながら滅茶苦茶に喚き散らした。

「ごめんなあ。怖えよな、痛えよな。だけどどっちも一瞬だ、すぐに済む。そのあとは永遠の安らぎが待ってるぜ。お前さんはもう、誰かを疑うことも、死の恐怖に怯えることもねえ。あいつの冥界くにはそういうとこだ」

 泣き止まない子どもをあやすような穏やかな声が耳を撫で、手のかかる弟に向けるような慈愛を浮かべた瞳がゆるりと弧を描く。その声が、眼差しが、真綿みたいにゆっくりゆっくり僕の首を絞めていく。頬を滑る雫の温度ももうわからない。

「っと、いけねえ。ダラダラ喋ってちゃお前さんはいつまでも怖えままだな」

 暗く冷たい穴が僕の眉間をまっすぐ狙う。
 いやだ。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ、

またな・・・冥界向こうで会おうぜ」

 突如、貧民街で歯を食いしばっていた頃からみんなと過ごした日々が頭の中を駆け巡った。ヨハン隊長。アレクシスさん。ヨハン隊のみんな。テディくん。ガブリエラ隊長。紅風さん。……バリオス副隊長。浮かんだ顔はどれも笑顔で。

 僕の何がいけなかったの?どこで間違えたの?どうすればよかったの?ねえ、おしえてよ。

 僕は、ただ、
 ‪✕✕になりたかったのに。

***

 ──タァン。
 乾いた銃声が響き渡る。恐怖と絶望で歪んだ顔を涙で濡らしたまま、スポットの小さな体はゆっくりと崩れ落ちた。
 彼の魂が愛する友のもとへ旅立ったのを見届け、バリオスは硝煙が立ち上る銃を肩に預けて振り返る。

「よお。ヨハン」

 返り血の飛んだ顔に見慣れた笑みを浮かべる右腕とも。その足元に転がっているのは大切な部下なかま。穏やかな微笑を湛えていた赤眼はひどく虚ろで、誰より懸命に生へしがみついていた四肢はもう動かない。

 己の目に映ったものを現実だと思いたくなかった。雪より白くに染まった唇から掠れた音が零れ落ちる。

「……バリオス……?」

to be continued.



散華:①花をまいて仏に供養すること。②死ぬこと。特に、若くして戦死すること。
最期の「✕✕」は「幸せ」「大人」どちらでも。両方でもアリ。彼がヨハンたちのことを本当はどう思っていたのかご想像にお任せします。
スポットは一度も「助けて」と口にしていない。理由は作中にある通り。誰かに助けを求めるという選択肢がない/持っていない。
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