番外編・SS
ビティスとナズナのハロウィン
【Sweets for my girl】
ナズナと出会って幾度目かの秋。木々が色鮮やかに紅葉した山の中。首元と裾に白いファーがあしらわれた紺色のケープコートに身を包んだナズナが、きのみや山菜をせっせと集めている。ビティスはそれを、少し離れた場所から大木に背を預けて眺めていた。
ポケモンの血を引き、手足が暖かな毛皮に覆われているとはいえ、あくまで人間ベースのナズナが寒さに耐えられるように、と与えた上着の丈が与えた当時よりも短くなっている。正確に言えば、ナズナの背が伸びた。
出会った頃は頭1つ分以上差のあった背丈は今ではほとんど同じくらいだ。瞬く間に大きくなったように思えるのは、少女の常人よりも早い肉体の成長速度故か、己の時間感覚故かは判断がつかなかった。
そうだ、コートだけではない。普段着のワンピースも短くなってきた。そろそろ新しいものを用意しなくては。ナズナは今のワンピースもコートもいたく気に入っているから、似たようなデザインのものを探してやろう。
不意にナズナが足を止めた。ある方向をじっと見つめ、三角形の耳をしきりに動かしている。この近辺に生息するポケモンが近付いて来た時はもっと警戒した素振りを見せるから、その線は薄そうだ。馴染みのない音でも拾ったのだろうか。例えば……銃声。
ビティスが耳を済ませるのと、ナズナがこてりと首を傾げたのは同時だった。少女は紺色を翻し、少年を見上げる。
「ビティスさま。にぎやか、やまのした」
ナズナが指差す方角には、確か人里があった。少女の表情に不安や怯えは浮かんでいない。ただ不思議そうにしている。ビティスはナズナが示した方角へ意識を向け、全神経のいくらかを視覚と聴覚に集中させた。
まもなく、カボチャを模したものが至る所に飾られてオレンジ色に染まった街が、妙な出で立ちの人間やポケモンでごった返しているのが見えた。浮かれた音楽や笑い声も聞き取れる。
「ああ、そういえばこの時期はハロウィンがあったな」
「はろいん?」
ビティスの呟きにナズナがもう一度首を傾げる。ビティスは視覚と聴覚を通常に戻し、ふむ、と言葉を探した。
「その年の収穫を祝うだとか、先祖の霊を迎えるだとかいう人間の考えた祭りだ。現代ではほぼ形骸化し、普段と異なる格好に扮して菓子を食う行事になっているようだが」
「ふうん」
ナズナは頷きつつもいまいちピンと来ない顔をしている。人間もポケモンも滅多に寄り付かない僻地で過ごすことが多く、ほとんど人里に降りたことがないナズナは人間の文化に疎い。寝物語に語ってやる話にはどこぞの小僧と同じように目を輝かせているから、それなりに興味を抱いてはいるのだろうけれど。
歪な存在として生み 出され、過酷な環境に置かれて人間からもポケモンからも嫌忌され、それ故人間もポケモンも恐れている少女を、衆目に晒す気はなかったし、したくもなかった。が。
「……ふむ、仮装か。好都合だな」
少年はどこか楽しげに呟く。少女は不思議そうに瞬きしながら、彼の次の言葉を待った。
☆
ここ数日ねぐらにしている洞窟に引き上げ、ナズナが集めた食料を壁の割れ目に放り込む。随分貯まったけれど、冬を越すにはまだ足りないから、そろそろ別の場所に移ってもいいかもしれない。
「ナズナ、出かけるぞ」
す、と手を伸ばせばやわらかな右手が乗せられる。閉じた瞼の奥に目的地を思い浮かべようとして、ついと目を開いた。
「俺様も相応の格好をせねば不自然だな。桃色のポケモン……エネコでいいか」
頭部から三角形の耳を、臀部から大きな楕円形の尾を生やす。念には念を、どこで誰に見られるかわかったものじゃない。別に見られても構わなかったが、今日はなるべく面倒事を避けたい。
耳をぴこぴこ動かしてみたり、尾をゆらゆら揺らしてみたりして具合を確かめる。よし、それなりに動く。
さて行くか、と顔を上げれば、ナズナの目がエネコの尻尾に釘付けになっていた。試しにぱたりと尾を右に振ると、少女の視線も右に動く。左に振ると左へ。また右へ振るとまた右へ。左へ。右へ。左へ。「……触るか?」という問いにこっくり頷いた。
体の向きを変えて尻尾を差し出してやると、ナズナは壊れ物を扱うかのようにそっと手を滑らせていく。赤い瞳が大きく見開かれ、三日月形に細められた。
「ふさふさ、いっしょ。とんがりみみ、いっしょ」
ナズナにも尾が生えていれば、ぱたぱた振っていることだろう。ビティスは小さく苦笑とも微笑ともつかないものを零し、少女の気が済むまで好きにさせてやった。
漸く尻尾が解放され、再び手を重ね合わせる。ビティスは脳裏に麓の街の路地裏を描き、そこと寸分違わぬ場所にテレポートした。一拍置いて、喧騒がどっと耳に飛び込んでくる。
テレポートの余波でしきりに瞬きしていたナズナだったが、表通りに大勢の人間やポケモンが行き交っていることに気づいた瞬間、さっと顔を強ばらせた。繋いだ手にぎゅっと力が込もる。「大丈夫だ」と囁いて握り返してやるが、少女の耳はすっかり垂れきっていて、肩は小刻みに震えている。
ビティスは浅慮だったか、と奥歯を噛んだ。こういう顔をさせるために連れてきたのではない。世界の事象は概ね理解したつもりでいたが、どうにもそうではないらしいと、この数年で何度も味わった。
帰るぞ、と声をかけようとして、開きかけた唇をそのまま閉じた。先程まで恐怖一色に塗り潰されていたナズナの赤眼が表通りをじっと見つめている。下がっていた耳が少しずつ持ち上がり、時折ぴくぴく動いた。
「みんな、ある。みみ、しっぽ、つの。どうして?おんなじ、ナズナと?」
ナズナの視力では山から人々やポケモンたちが仮装していることまで見えなかったのだろう。見上げてくる2つの赤には恐怖の他に一縷の期待が宿っている。……そうか。そう、捉えたのか。
「普段と異なる格好に扮する、と言ったな。具体的に言えば、人間はポケモンに、ポケモンは人間に扮し、どちらも人間とポケモンの混ざりもの のような風貌に見せかけているのだ」
あえてこういう言い回しをすると、ナズナの耳が僅かに垂れ下がった。
「……じゃあ、にせもの、ぜんぶ?」
「そうだな。ポケモンどもは擬人化しつつ己の耳やら尾やらを出しているだけの者が多いが、人間どものあれは全て飾り、偽物だ」
「……そう」
「しかし、これだけ大勢の偽物がうろついているのだ。本物 が紛れているなど、誰も気が付くまい」
しゅんと肩を落とすナズナの頭に手を乗せ、愉快そうに口角を吊り上げてみせる。少女の赤い瞳に先程とは異なる色の期待が微かに灯った。
「どうする。行くか?帰るか?」
静かな声音で穏やかに問いかける。しばし躊躇うように視線と耳を上下させていたナズナだったが、やがて蚊の鳴くような声で答えた。
「……いき、たい」
ビティスは満足そうに目を細め、「では、行くか」とナズナの手を引いて表通りに足を踏み入れた。視界が急に明るくなり、オレンジ色に埋め尽くされる。不安げに周囲を見渡しているナズナに微笑んでみせ、「今から俺様が言う言葉を真似ろ」と囁く。そのまま、近くで子供たちにお菓子を配っていた女性に歩み寄った。
「トリック・オア・トリート!」
「と、とりっく、おあ、とりーと」
少年はいつもの不遜な笑みとはかけ離れた、子どもらしい無邪気な笑顔を浮かべ、つるかご──普段きのみなどを集める時に使用しているものだ──を差し出した。ナズナも彼に倣い、たどたどしく続ける。女性はにっこり笑って「エネコとアブソルの仮装ね、かわいいわ。ハッピーハロウィン!」とクッキーが入った包みを2つ入れてくれた。お礼を述べてその場を離れる。
包み越しにクッキーの情報を読み取り、毒が入っていないことを確認してから1枚取り出した。戸惑ったままのナズナに渡してやれば、警戒と興味が半々といった様子で念入りに匂いを嗅ぎ、伺うようにビティスを見上げた。
「これ、なに?」
「クッキーという名の食料だ。毒ではない」
クッキーをもう1枚取り出して口に放り込み、ざくざく噛み砕いて飲み込んでみせる。ビティスが平然としているのを確認すると、ナズナは恐る恐るクッキーの端を齧った。刹那、骨の髄まで蕩けそうな快感が走り抜ける。きのみの爽やかな甘みとは異なる、脳を揺さぶる初めての甘露の味に味覚を支配され、少女の瞳はルビーのように煌めいた。
「ビティスさま!これ、あまい、おいしい、すごい……!」
「そうか。それらは全て貴様のものだ。存分に食らうがいい」
上擦った声で報告してくるナズナにかごを持たせてやれば、一層目を輝かせて夢中でクッキーを頬張った。ビティスは自然と口元を綻ばせ、近くの屋台でモーモーミルクを購入する。ナズナがクッキーを完食したのを見届け、かごと取り換えるように蓋を外した瓶を渡した。一息に半分ほど飲み干した少女が瓶から口を離すのを待ち、切り出す。
「次はどれが食いたい」
「……いいの?」
「構わん」
大きく目を見開き、おずおずと尋ねてくるナズナに尊大な笑みを返す。少女はふわりと頬を染め、鼻を熱心に動かし始めた。
まず最初に向かったのは綿飴の屋台だった。くるくると砂糖の雲が巻き取られていき、仕上げに桃色のフードペンでペロッパフの顔が描かれていくのを、ナズナは一瞬たりとも目を離さず見つめていた。
その後もナナの実のチョコレートがけ、きのみとヒウンアイスをふんだんに使用したクレープ、カルメ焼き、コイキング焼き、チュロス、ぼんぐり飴、ベビーカステラ、水飴、金平糖、といった甘味を扱う屋台を次々巡っていく。時折出会うお菓子を配っている者からキャンディーやらグミやらを貰い受けるうちに、いつの間にかかごがいっぱいになっていた。
ビティスはナズナが興味を示したもの、受け取ったお菓子は全て情報を読み取り 、合間合間に水分補給をさせてやる。嬉しそうにお菓子を口にする少女と、目を細めてあれこれ少女の世話を焼く少年を、誰もが微笑ましげに見送った。
何件目かわからない屋台で購入したバケッチャ型のパンプキンパイを頬張りながら、ナズナが何か言いたげな様子でビティスを見上げた。言おうか言うまいか迷っている顔だ。許可の意味を込めて頷いてみせれば、そろりと口を開いた。
「ビティスさま。どうして、きょう、おでかけ?」
「食事がいつも山や森で採れるものばかりでは新鮮味に欠ける。たまには違ったものでも食わせてやろうと思ってな。……不満か?」
ナズナは首を横に振り、小さく口端を持ち上げる。
「うれしい、たのしくて、おいしくて。だれもしない、いたいこと、こわいこと。ナズナのきらい、ぜんぶ、ない」
「そうか」
「それから。ビティスさま、いっしょ。にこにこ、いっしょ。うれしい、とっても」
少女の言葉にビティスは思わず口元に手を当てた。確かに快然たる心地ではあるが。俺様ともあろう者が、気を緩めていたとでもいうのか。……まあ、とりあえず今は、どうでもいい。今回の目的に比べれば些細なことだ。
人間もポケモンも恐れているナズナとて、年端のいかぬ幼子だ。ビティスが常に側にいるとはいえ、人恋しい時も、賑やかさに憧れることもあるだろう。
恐怖や怯えを抱えたままでも、ナズナが〝普通〟の子どもと同じように祭りにはしゃいだり、甘い菓子を頬張って頬を染めたりすることが許されない道理などないはずだ。もしも許されないとして、〝それが許されないこと〟をビティスは許さない。
「……ありがとう、ビティスさま。たくさん、うれしい、くれて」
……そんな理屈はさておき。要はナズナが笑っていればそれでいいのだ。ビティスはナズナの苦痛と恐怖に歪んだ顔より、雲間から差し込む光のような笑顔が見たかった。少年の碧眼と唇が緩やかに弧を描く。
「精々貪ることだ。就寝前のうがいは念入りにな」
「うん」
食べかけのパンプキンパイを食べ終えたナズナは、ふとビティスが最初に貰ったクッキー以外何も口にしていないことに気が付いた。あまり食事を必要としないのだと聞かされてはいるけれど、胸の内とお腹いっぱいに詰め込んだ〝あまい〟と〝おいしい〟を、ビティスとこそ分かち合いたい。
「ビティスさま。たべない、なにか?」
「……そうだな。あれにするか。金の使い方は教えたろう。貴様の分と合わせて2つ買って来い」
ビティスは首を振りかけて、少女の好きにさせてやろうと思い直す。所狭しと並ぶ屋台をぐるりと見渡し、何となく目についた林檎飴を指差した。こっくり頷いたナズナの白い掌に硬貨を落とす。少女はそれを大事そうに握りしめ、ぱっと駆け出した。
赤を見ると思い浮かぶのは、ナズナの瞳。己の瞳と耳飾り。それから。
余計な方向に逸れかけた思考を打ち消す。どうにも今日は気が散る。慣れないことをしているせいだろうか。
心の奥底からじわじわ滲み出ようとする苛立ちを紛らわすように、ぱたりとエネコの尻尾を振る。直後、すぐ近くからバシャリという音がして、つんとアルコールの香りが鼻をついた。ゆるりと視線だけをそちらに向ける。サングラスをかけた男の衣服が不自然に濡れており、その手は僅かにビールが残ったプラスチックコップを握っていた。状況を理解したビティスはすぐに興味を失い、視線を元の位置に戻す。
「おいおいボウズ……何してくれてんだ?あ?」
「許せ。何分慣れぬ装いでな」
「このクソガキ!アニキにビールぶっかけといてなんだその態度……!?」
低い声で凄んでくる男のことなどまるで意に介さず、鷹揚に答える。男は額に青筋が浮かべ、コップをグシャリと握り潰した。すぐさま男の脇にいた青年がビティスに掴みかかろうとするが、びたりと動きを止める。否、動けなくなった。
テメェ何しやがった、と叫ぼうとして、声も出せないことに気が付く。青年は見ることができなかったが、サングラスの男も同様に石のように固まっていた。青い瞳がもう一度彼らに向けられ、艶やかな唇が動く。
「無礼な。誰が触れてよいと言った」
その眼差しと声音を認識した瞬間、男たちはヒュッと息を呑んだ。得体の知れないバケモノに心臓を直に踏みつけられたような、正体不明の恐怖が全身を駆け巡る。一体何なんだこいつは。俺たちは何をされたんだ。今すぐ目を逸らしたいのに、逃げ出したいのに、体は全く言うことを聞かない。彼らは悲鳴を上げることも助けを乞うことも許されず、ただただその場で立ち尽くすしかなかった。
彼の視線は、少女に向けていた時とは一転した冷ややかなものだった。徐に男たちに人差し指を向ける。服についた塵を払うように、2つの心臓を停止させようとして──何となく、気が変わった。
祭りの最中に死体が見つかれば即座に中止になるだろう。それは些か不本意だ。まだ回っていない屋台もある。道端の石ころを砕くのも素通りするのも大差はない。少年は冷淡な眼差しのまま、口角だけを吊り上げた。
「喜べ、今の俺様はすこぶる機嫌が良い。よって、視界から消すだけに留めてやろう」
ビティスが軽く指を振れば、男たちの姿は跡形もなく掻き消えた。カラン、と乾いた音を立ててコップが地面に落ちる。祭りを楽しむ者たちは、誰ひとりとしてこの数分の出来事に気が付かなかった。
フンと鼻を鳴らしておさげ髪を払う。視界の端でうっかりコップを踏みつけた子どもが足を滑らせたけれど、彼は眉一つ動かさなかった。林檎飴を両手に握り、ぶつからないように、落とさないように、ゆっくり戻ってくるナズナを待つ。
「ビティスさま、ただいま。はい」
「ご苦労」
差し出された林檎飴を受け取り、反対の手をナズナの頬に滑らせた。少女はくすぐったそうにはにかんで擦り寄ってくる。ビティスは込み上がる〝何か〟を飲み下すように、艶やかな赤に歯を突き立てた。パリパリした飴の甘味とシャリシャリの林檎の酸味が口内に広がる。いつぶりかのそれは、記憶にあるものより幾らか美味だった。ナズナもビティスの顔と林檎飴を交互に見比べ、満足気に頷いている。
「ビティスさま、もっとある、おいしい。いこう、つぎ」
「ああ」
今度はナズナに手を引かれ、されるがままに歩き出す。手も、背丈も、初めて出会った頃より随分大きくなった。随分、笑うようになった。
彩られた街を、楽しげな人々やポケモンたちを、そして隣にいる少女の笑顔を順に見遣ったビティスの碧眼がつう、と細められる。
「……〝創造〟とは、斯くも尊いものだ」
彼の独り言は祭りの喧騒に飲まれ、誰の耳に届くことなく溶けて消えた。
Fin.
【Sweets for my girl】
ナズナと出会って幾度目かの秋。木々が色鮮やかに紅葉した山の中。首元と裾に白いファーがあしらわれた紺色のケープコートに身を包んだナズナが、きのみや山菜をせっせと集めている。ビティスはそれを、少し離れた場所から大木に背を預けて眺めていた。
ポケモンの血を引き、手足が暖かな毛皮に覆われているとはいえ、あくまで人間ベースのナズナが寒さに耐えられるように、と与えた上着の丈が与えた当時よりも短くなっている。正確に言えば、ナズナの背が伸びた。
出会った頃は頭1つ分以上差のあった背丈は今ではほとんど同じくらいだ。瞬く間に大きくなったように思えるのは、少女の常人よりも早い肉体の成長速度故か、己の時間感覚故かは判断がつかなかった。
そうだ、コートだけではない。普段着のワンピースも短くなってきた。そろそろ新しいものを用意しなくては。ナズナは今のワンピースもコートもいたく気に入っているから、似たようなデザインのものを探してやろう。
不意にナズナが足を止めた。ある方向をじっと見つめ、三角形の耳をしきりに動かしている。この近辺に生息するポケモンが近付いて来た時はもっと警戒した素振りを見せるから、その線は薄そうだ。馴染みのない音でも拾ったのだろうか。例えば……銃声。
ビティスが耳を済ませるのと、ナズナがこてりと首を傾げたのは同時だった。少女は紺色を翻し、少年を見上げる。
「ビティスさま。にぎやか、やまのした」
ナズナが指差す方角には、確か人里があった。少女の表情に不安や怯えは浮かんでいない。ただ不思議そうにしている。ビティスはナズナが示した方角へ意識を向け、全神経のいくらかを視覚と聴覚に集中させた。
まもなく、カボチャを模したものが至る所に飾られてオレンジ色に染まった街が、妙な出で立ちの人間やポケモンでごった返しているのが見えた。浮かれた音楽や笑い声も聞き取れる。
「ああ、そういえばこの時期はハロウィンがあったな」
「はろいん?」
ビティスの呟きにナズナがもう一度首を傾げる。ビティスは視覚と聴覚を通常に戻し、ふむ、と言葉を探した。
「その年の収穫を祝うだとか、先祖の霊を迎えるだとかいう人間の考えた祭りだ。現代ではほぼ形骸化し、普段と異なる格好に扮して菓子を食う行事になっているようだが」
「ふうん」
ナズナは頷きつつもいまいちピンと来ない顔をしている。人間もポケモンも滅多に寄り付かない僻地で過ごすことが多く、ほとんど人里に降りたことがないナズナは人間の文化に疎い。寝物語に語ってやる話にはどこぞの小僧と同じように目を輝かせているから、それなりに興味を抱いてはいるのだろうけれど。
歪な存在として
「……ふむ、仮装か。好都合だな」
少年はどこか楽しげに呟く。少女は不思議そうに瞬きしながら、彼の次の言葉を待った。
☆
ここ数日ねぐらにしている洞窟に引き上げ、ナズナが集めた食料を壁の割れ目に放り込む。随分貯まったけれど、冬を越すにはまだ足りないから、そろそろ別の場所に移ってもいいかもしれない。
「ナズナ、出かけるぞ」
す、と手を伸ばせばやわらかな右手が乗せられる。閉じた瞼の奥に目的地を思い浮かべようとして、ついと目を開いた。
「俺様も相応の格好をせねば不自然だな。桃色のポケモン……エネコでいいか」
頭部から三角形の耳を、臀部から大きな楕円形の尾を生やす。念には念を、どこで誰に見られるかわかったものじゃない。別に見られても構わなかったが、今日はなるべく面倒事を避けたい。
耳をぴこぴこ動かしてみたり、尾をゆらゆら揺らしてみたりして具合を確かめる。よし、それなりに動く。
さて行くか、と顔を上げれば、ナズナの目がエネコの尻尾に釘付けになっていた。試しにぱたりと尾を右に振ると、少女の視線も右に動く。左に振ると左へ。また右へ振るとまた右へ。左へ。右へ。左へ。「……触るか?」という問いにこっくり頷いた。
体の向きを変えて尻尾を差し出してやると、ナズナは壊れ物を扱うかのようにそっと手を滑らせていく。赤い瞳が大きく見開かれ、三日月形に細められた。
「ふさふさ、いっしょ。とんがりみみ、いっしょ」
ナズナにも尾が生えていれば、ぱたぱた振っていることだろう。ビティスは小さく苦笑とも微笑ともつかないものを零し、少女の気が済むまで好きにさせてやった。
漸く尻尾が解放され、再び手を重ね合わせる。ビティスは脳裏に麓の街の路地裏を描き、そこと寸分違わぬ場所にテレポートした。一拍置いて、喧騒がどっと耳に飛び込んでくる。
テレポートの余波でしきりに瞬きしていたナズナだったが、表通りに大勢の人間やポケモンが行き交っていることに気づいた瞬間、さっと顔を強ばらせた。繋いだ手にぎゅっと力が込もる。「大丈夫だ」と囁いて握り返してやるが、少女の耳はすっかり垂れきっていて、肩は小刻みに震えている。
ビティスは浅慮だったか、と奥歯を噛んだ。こういう顔をさせるために連れてきたのではない。世界の事象は概ね理解したつもりでいたが、どうにもそうではないらしいと、この数年で何度も味わった。
帰るぞ、と声をかけようとして、開きかけた唇をそのまま閉じた。先程まで恐怖一色に塗り潰されていたナズナの赤眼が表通りをじっと見つめている。下がっていた耳が少しずつ持ち上がり、時折ぴくぴく動いた。
「みんな、ある。みみ、しっぽ、つの。どうして?おんなじ、ナズナと?」
ナズナの視力では山から人々やポケモンたちが仮装していることまで見えなかったのだろう。見上げてくる2つの赤には恐怖の他に一縷の期待が宿っている。……そうか。そう、捉えたのか。
「普段と異なる格好に扮する、と言ったな。具体的に言えば、人間はポケモンに、ポケモンは人間に扮し、どちらも
あえてこういう言い回しをすると、ナズナの耳が僅かに垂れ下がった。
「……じゃあ、にせもの、ぜんぶ?」
「そうだな。ポケモンどもは擬人化しつつ己の耳やら尾やらを出しているだけの者が多いが、人間どものあれは全て飾り、偽物だ」
「……そう」
「しかし、これだけ大勢の偽物がうろついているのだ。
しゅんと肩を落とすナズナの頭に手を乗せ、愉快そうに口角を吊り上げてみせる。少女の赤い瞳に先程とは異なる色の期待が微かに灯った。
「どうする。行くか?帰るか?」
静かな声音で穏やかに問いかける。しばし躊躇うように視線と耳を上下させていたナズナだったが、やがて蚊の鳴くような声で答えた。
「……いき、たい」
ビティスは満足そうに目を細め、「では、行くか」とナズナの手を引いて表通りに足を踏み入れた。視界が急に明るくなり、オレンジ色に埋め尽くされる。不安げに周囲を見渡しているナズナに微笑んでみせ、「今から俺様が言う言葉を真似ろ」と囁く。そのまま、近くで子供たちにお菓子を配っていた女性に歩み寄った。
「トリック・オア・トリート!」
「と、とりっく、おあ、とりーと」
少年はいつもの不遜な笑みとはかけ離れた、子どもらしい無邪気な笑顔を浮かべ、つるかご──普段きのみなどを集める時に使用しているものだ──を差し出した。ナズナも彼に倣い、たどたどしく続ける。女性はにっこり笑って「エネコとアブソルの仮装ね、かわいいわ。ハッピーハロウィン!」とクッキーが入った包みを2つ入れてくれた。お礼を述べてその場を離れる。
包み越しにクッキーの情報を読み取り、毒が入っていないことを確認してから1枚取り出した。戸惑ったままのナズナに渡してやれば、警戒と興味が半々といった様子で念入りに匂いを嗅ぎ、伺うようにビティスを見上げた。
「これ、なに?」
「クッキーという名の食料だ。毒ではない」
クッキーをもう1枚取り出して口に放り込み、ざくざく噛み砕いて飲み込んでみせる。ビティスが平然としているのを確認すると、ナズナは恐る恐るクッキーの端を齧った。刹那、骨の髄まで蕩けそうな快感が走り抜ける。きのみの爽やかな甘みとは異なる、脳を揺さぶる初めての甘露の味に味覚を支配され、少女の瞳はルビーのように煌めいた。
「ビティスさま!これ、あまい、おいしい、すごい……!」
「そうか。それらは全て貴様のものだ。存分に食らうがいい」
上擦った声で報告してくるナズナにかごを持たせてやれば、一層目を輝かせて夢中でクッキーを頬張った。ビティスは自然と口元を綻ばせ、近くの屋台でモーモーミルクを購入する。ナズナがクッキーを完食したのを見届け、かごと取り換えるように蓋を外した瓶を渡した。一息に半分ほど飲み干した少女が瓶から口を離すのを待ち、切り出す。
「次はどれが食いたい」
「……いいの?」
「構わん」
大きく目を見開き、おずおずと尋ねてくるナズナに尊大な笑みを返す。少女はふわりと頬を染め、鼻を熱心に動かし始めた。
まず最初に向かったのは綿飴の屋台だった。くるくると砂糖の雲が巻き取られていき、仕上げに桃色のフードペンでペロッパフの顔が描かれていくのを、ナズナは一瞬たりとも目を離さず見つめていた。
その後もナナの実のチョコレートがけ、きのみとヒウンアイスをふんだんに使用したクレープ、カルメ焼き、コイキング焼き、チュロス、ぼんぐり飴、ベビーカステラ、水飴、金平糖、といった甘味を扱う屋台を次々巡っていく。時折出会うお菓子を配っている者からキャンディーやらグミやらを貰い受けるうちに、いつの間にかかごがいっぱいになっていた。
ビティスはナズナが興味を示したもの、受け取ったお菓子は全て
何件目かわからない屋台で購入したバケッチャ型のパンプキンパイを頬張りながら、ナズナが何か言いたげな様子でビティスを見上げた。言おうか言うまいか迷っている顔だ。許可の意味を込めて頷いてみせれば、そろりと口を開いた。
「ビティスさま。どうして、きょう、おでかけ?」
「食事がいつも山や森で採れるものばかりでは新鮮味に欠ける。たまには違ったものでも食わせてやろうと思ってな。……不満か?」
ナズナは首を横に振り、小さく口端を持ち上げる。
「うれしい、たのしくて、おいしくて。だれもしない、いたいこと、こわいこと。ナズナのきらい、ぜんぶ、ない」
「そうか」
「それから。ビティスさま、いっしょ。にこにこ、いっしょ。うれしい、とっても」
少女の言葉にビティスは思わず口元に手を当てた。確かに快然たる心地ではあるが。俺様ともあろう者が、気を緩めていたとでもいうのか。……まあ、とりあえず今は、どうでもいい。今回の目的に比べれば些細なことだ。
人間もポケモンも恐れているナズナとて、年端のいかぬ幼子だ。ビティスが常に側にいるとはいえ、人恋しい時も、賑やかさに憧れることもあるだろう。
恐怖や怯えを抱えたままでも、ナズナが〝普通〟の子どもと同じように祭りにはしゃいだり、甘い菓子を頬張って頬を染めたりすることが許されない道理などないはずだ。もしも許されないとして、〝それが許されないこと〟をビティスは許さない。
「……ありがとう、ビティスさま。たくさん、うれしい、くれて」
……そんな理屈はさておき。要はナズナが笑っていればそれでいいのだ。ビティスはナズナの苦痛と恐怖に歪んだ顔より、雲間から差し込む光のような笑顔が見たかった。少年の碧眼と唇が緩やかに弧を描く。
「精々貪ることだ。就寝前のうがいは念入りにな」
「うん」
食べかけのパンプキンパイを食べ終えたナズナは、ふとビティスが最初に貰ったクッキー以外何も口にしていないことに気が付いた。あまり食事を必要としないのだと聞かされてはいるけれど、胸の内とお腹いっぱいに詰め込んだ〝あまい〟と〝おいしい〟を、ビティスとこそ分かち合いたい。
「ビティスさま。たべない、なにか?」
「……そうだな。あれにするか。金の使い方は教えたろう。貴様の分と合わせて2つ買って来い」
ビティスは首を振りかけて、少女の好きにさせてやろうと思い直す。所狭しと並ぶ屋台をぐるりと見渡し、何となく目についた林檎飴を指差した。こっくり頷いたナズナの白い掌に硬貨を落とす。少女はそれを大事そうに握りしめ、ぱっと駆け出した。
赤を見ると思い浮かぶのは、ナズナの瞳。己の瞳と耳飾り。それから。
余計な方向に逸れかけた思考を打ち消す。どうにも今日は気が散る。慣れないことをしているせいだろうか。
心の奥底からじわじわ滲み出ようとする苛立ちを紛らわすように、ぱたりとエネコの尻尾を振る。直後、すぐ近くからバシャリという音がして、つんとアルコールの香りが鼻をついた。ゆるりと視線だけをそちらに向ける。サングラスをかけた男の衣服が不自然に濡れており、その手は僅かにビールが残ったプラスチックコップを握っていた。状況を理解したビティスはすぐに興味を失い、視線を元の位置に戻す。
「おいおいボウズ……何してくれてんだ?あ?」
「許せ。何分慣れぬ装いでな」
「このクソガキ!アニキにビールぶっかけといてなんだその態度……!?」
低い声で凄んでくる男のことなどまるで意に介さず、鷹揚に答える。男は額に青筋が浮かべ、コップをグシャリと握り潰した。すぐさま男の脇にいた青年がビティスに掴みかかろうとするが、びたりと動きを止める。否、動けなくなった。
テメェ何しやがった、と叫ぼうとして、声も出せないことに気が付く。青年は見ることができなかったが、サングラスの男も同様に石のように固まっていた。青い瞳がもう一度彼らに向けられ、艶やかな唇が動く。
「無礼な。誰が触れてよいと言った」
その眼差しと声音を認識した瞬間、男たちはヒュッと息を呑んだ。得体の知れないバケモノに心臓を直に踏みつけられたような、正体不明の恐怖が全身を駆け巡る。一体何なんだこいつは。俺たちは何をされたんだ。今すぐ目を逸らしたいのに、逃げ出したいのに、体は全く言うことを聞かない。彼らは悲鳴を上げることも助けを乞うことも許されず、ただただその場で立ち尽くすしかなかった。
彼の視線は、少女に向けていた時とは一転した冷ややかなものだった。徐に男たちに人差し指を向ける。服についた塵を払うように、2つの心臓を停止させようとして──何となく、気が変わった。
祭りの最中に死体が見つかれば即座に中止になるだろう。それは些か不本意だ。まだ回っていない屋台もある。道端の石ころを砕くのも素通りするのも大差はない。少年は冷淡な眼差しのまま、口角だけを吊り上げた。
「喜べ、今の俺様はすこぶる機嫌が良い。よって、視界から消すだけに留めてやろう」
ビティスが軽く指を振れば、男たちの姿は跡形もなく掻き消えた。カラン、と乾いた音を立ててコップが地面に落ちる。祭りを楽しむ者たちは、誰ひとりとしてこの数分の出来事に気が付かなかった。
フンと鼻を鳴らしておさげ髪を払う。視界の端でうっかりコップを踏みつけた子どもが足を滑らせたけれど、彼は眉一つ動かさなかった。林檎飴を両手に握り、ぶつからないように、落とさないように、ゆっくり戻ってくるナズナを待つ。
「ビティスさま、ただいま。はい」
「ご苦労」
差し出された林檎飴を受け取り、反対の手をナズナの頬に滑らせた。少女はくすぐったそうにはにかんで擦り寄ってくる。ビティスは込み上がる〝何か〟を飲み下すように、艶やかな赤に歯を突き立てた。パリパリした飴の甘味とシャリシャリの林檎の酸味が口内に広がる。いつぶりかのそれは、記憶にあるものより幾らか美味だった。ナズナもビティスの顔と林檎飴を交互に見比べ、満足気に頷いている。
「ビティスさま、もっとある、おいしい。いこう、つぎ」
「ああ」
今度はナズナに手を引かれ、されるがままに歩き出す。手も、背丈も、初めて出会った頃より随分大きくなった。随分、笑うようになった。
彩られた街を、楽しげな人々やポケモンたちを、そして隣にいる少女の笑顔を順に見遣ったビティスの碧眼がつう、と細められる。
「……〝創造〟とは、斯くも尊いものだ」
彼の独り言は祭りの喧騒に飲まれ、誰の耳に届くことなく溶けて消えた。
Fin.
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