ハロー・アコニタム/age.7
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ハンカチよし。ティッシュよし。弁当とモーモーミルクよし。図書館の利用者カードよし。
リュックの中身を確認する。忘れ物なし。しっかり蓋を閉めたそれを背負って、腕時計を嵌めれば準備オッケー。
〝マリエとしょかんに行ってきます。5時までにかえります〟
そう書いたメモをリビングのテーブルに残し、階段を下りていく。「行ってきます」と呟いて家族用玄関から外に出れば、眩しい陽光のお出迎え。雪山があるウラウラ島は他の島より少し気温が低いけれど、常夏のアローラ地方は今日も今日とて暖かい。
「お出かけ?」
突然聞こえた声に肩を飛び上がらせる。声のした方を向くと、色とりどりのきのみが山のように盛られたかごを抱えたゴーシュが、音もなく歩み寄ってきた。本人に悪気はないんだろうけど、気配も足音もなく近寄られるとめちゃくちゃ心臓に悪い。ゴーストタイプってみんなこうなのかな。こっそり呼吸を整えながら答える。
「うん、マリエ図書館。ゴーシュは畑当番?」
「そうだよ。今日はリュガの実とズアの実も取れたんだ」
ゴーシュは不思議な形をした、青紫色のきのみと青と緑のツートンカラーのきのみを、掌に乗せて見せてくれた。「触っていい?」と尋ねたら頷きが返ってきたので、早速親指と人差し指で摘んでみる。おお~硬え。
俺の家のすぐ側には、きのみや薬草を育てている結構広い畑がある。食用や薬の材料の他に、珍しい植物も栽培していて、新薬の研究機関とかに提供しているんだとか。それの手入れや世話、収穫は一応当番制ってことになっているけど、ジンコとギナは畑で見かける頻度が高いような気がする。タイプ的に土いじりが好きなのかもしれない。
それにしても、こんなに小さいのに、ピンチの時に食べればぼうぎょやとうくぼうが上がるってんだから、きのみは奥が深い。HPやPPを回復したり、状態異常を治したり、いったいどんな成分が詰まってんだろ。きのみ図鑑にはそこまで書かれてねえんだよな。
時折質問を挟みつつリュガの実とズアの実を気が済むまでじっくり観察してからゴーシュに返すと、代わりに小さなビニール袋を手渡された。中にはオボンの実とラムの実が2つずつ入っている。
「デザートに食べて。行ってらっしゃい」
「ありがと。行ってきます」
貰ったきのみをリュックサックに詰め込む。「気を付けてね」という声に手を振り返し、石畳の道を踏みつけた。
☆
読み終わった「島の守り神」という本を棚に戻し、さて次は何を読もうかと視線を巡らせると、ぐうう、と奇妙な音が聞こえた。発信源は俺。他の利用者の生温かい目が刺さる刺さる。いたたまれなくなって、逃げるミミロルの如く図書館から飛び出した。くそっ、はずい……!ブビィにでもなった気分だ!
図書館の出入り口から右に進めば、ちょっとしたスペースがある。街はずれだから人通りが少なく静かで、建物の壁沿いにベンチが置かれていている俺のお気に入りスポットだ。ここに座って海を眺めながら昼飯を食うのが密かな楽しみだったりする。
いつもみたいにベンチに腰を下ろし、リュックサックから風呂敷に包まれた弁当箱を取り出す。今日は何が入っているかワクワクしながら包みを解こうとした時、視界の端で何かが動いた。顔を上げて辺りをそっと見渡してみると、ベンチの右斜め前に聳える大木の根元から、何か細長いものが飛び出ている。どう見ても根っこじゃない。あれ、……もしかして、人間の足?
それに気付いた瞬間、さっきまで火照っていた顔からサッと熱が引いた。嫌な想像が頭の中を駆け巡る。だって、あんな所に人間の足が転がってるなんておかしい。絶対やばい。関わっちゃダメだ。早く逃げないと。荷物をしっかり抱きしめ、音を立てないようにベンチから滑り降りる。よし、そのまま後ろを向いて、振り返らずに家まで走れ。
……でも。でも、もし、あそこにいるのが、怪我をして動けない人だったら?
そんな考えが浮かんで、今すぐ立ち去れと警鐘を鳴らし続ける脳の命令を無視した右足が一歩前に出る。大丈夫、少し様子を見るだけ。もう一歩。何が大丈夫なんだよ、いいから逃げろ。俺にだって、大人を呼んでくるくらいならできる。さらにもう一歩。
生まれたてのシキジカみたいにぶるぶる震える足を少しずつ動かす度に、大木とその根元のアレが近付いていく。大丈夫、大丈夫、ほんのちょっとだけだから。バクバク鳴り続ける心臓に言い聞かせて、そろーっと根元を覗き込む。
そこでは、固く目を閉ざした若い男が、両足を投げ出して、木の幹に体を預けるようにもたれかかっていた。
血塗れバラバラ死体じゃなかったことにひとまず安堵して、そっと深く息を吐いた。あちこち傷だらけだけど、微かに胸が上下しているから、まだ息はある、と思う。
ほっとしたのも束の間、大きく裂けた左袖から覗く二の腕から、赤黒い血がじわじわと湧き出ているのを見つけてしまって、一気に頭が真っ白になる。どうしよう、こういう時、どうすればいいんだっけ。ミャクとか測って、それともキドウカクホ?違う、そうじゃない、一番最初にやるべきこと。ええと、そうだ、イシキカクニンだ。
「……あの、大丈夫、ですか?」
できるだけ顔の近くにしゃがんで耳元に声をかける。何度か声をかけるけれど反応はない。恐る恐る人差し指を伸ばしてそいつの肩を軽くつつくと、瞼がぴくりと震え、ゆっくり持ち上げられていく。真っ白なキャンバスに真っ青な絵の具を一滴垂らしたような目が現れる。しばらくゆらゆら揺れていたそれは、俺を捉えた瞬間大きく見開かれた。
「ッ、ニンゲン……ッ!?」
うわ、今ゴンッっていった。すげえ痛そう。驚いたのか、上体を仰け反らせて木の幹に後頭部を強打したそいつは、後頭部を抑えて声もなく悶えている。
とりあえず、意識が戻ってよかった。でもこいつ、変なこと言うな。自分だって人間じゃ……ん?
頭をさすりながら顔を上げた相手の容姿をまじまじと見る。米粒くらいの青い目。やや暗めの緑の髪。頬から鼻の頭、顔の真ん中を横断するように施された、髪よりも濃い緑のペイント。ギザギザの歯に青い舌。緑と濃い緑の横縞で、ひだのあるやけにダボダボしたカットソー。首には目に痛い真っ黄色のストール。やけに見覚えのある色合いに、お気に入りの本のあるページが思い浮かぶ。
「あんた……もしかして、ベトベター?」
「な、」
再び相手の目が大きく見開かれる。当てずっぽうだったけど、どうやら図星みたいだ。気まずそうに視線を逸らしたそいつ──ベトベターは、口をへの字に曲げてボヤいた。
「んだよォ、擬人化してりゃァポケモンってバレねェんじゃねェのかよ。じっちゃんのバァカ」
「俺だって最初は気づかなかったよ。けど、人間は人間見て『人間だ』っておどろいたりしねえもん」
「……それもそうかァ」
へらりと笑ったベトベターの顔が、不意に苦しげに歪む。そうだ、こいつ怪我してるんだ。血が出てるんだ。早くしないと。
「俺、誰か呼んでくるから、」
ここで待ってて、と言い終わる前に素早く手首を掴まれた。軽く掴まれてるだけなのに、怪我して弱ってるはずなのに、びくともしない。
「やめろ。余計なことすんな」
さっきまでの陽気な雰囲気と一変した低い声が鼓膜を揺らす。
「起こしてくれたのはありがとよ。けど、これ以上は余計なお世話だ。今見たモンは全部忘れて、とっととお家に帰んな。手持ちもいねェのに手負いの野性にちょっかい出すなんざ、殺されても文句言えねェぞ」
刃物のような鋭い視線に射抜かれる。ギリ、と手首を掴む手に力が込められた。ヒュッと息が詰まる。こいつがその気になれば、いいやならなくても、俺の手首だろうと首だろうと一瞬でへし折れるのだと、身をもって思い知らされる。いたい。いたい。こわい。くるしい。……でも。
俺は、この目を知っている。うちの病院に連れられてくるポケモンたちと、あの日のツツケラと同じ目だ。痛くて、怖くて、苦しいって目だ。
少しだけ、頭の中が冷静になる。俺にできること。俺でもできること。何か、何かあるはずだ。こういう時のために、教えてもらったことがあるはずだ。
ふと、抱えたままだった弁当箱が目に映る。……ああ、そうだ。これだ。カラカラの喉で無理矢理唾を飲み下し、震える唇を持ち上げる。
「……じゃあ、止血、だけ。そしたら、すぐ帰るから」
三度、ベトベターが目を見開く。何か言いかけたけど、構わず話し続けた。今黙ったらもう喋れない。
「ちょっと教わった、だけだけど。きっと、何もしないより、マシだから。生き物は、血を流しすぎたら、死んじゃうから」
自分でもわけがわからない。めちゃくちゃ言ってるし、父ちゃんみたいな本物の医者からしたら、大したことない怪我かもしれない。
出会ったのは数分前で、言葉を交わしたのは数回で。
それでも、目の前の命が死んでしまうのは、こいつに殺されるよりも、いやだ。
「……バカじゃねェの」
「俺も、そう思う」
呆気にとられた顔で呟かれた言葉にこっくり頷き返す。もう一度、噛み締めるように「バッカじゃねェの」と呟いたベトベターは、あろうことかゲラゲラ笑い始めた。
「な、何笑ってんだよ!こっちは真面目に、」
「いやァ〜ギャヒヒヒ、脅かして悪かった。ちょっと逃げててさァ、騒ぎ起こして見つかりたくなかったんだ。ヒヒ、そんなビビると思わなくて、」
全く堪えきれてない笑いを噛み殺しながら、言い訳を並び立てるベトベター。ちくしょう、ムカつく。何がムカつくって、どこぞのおさげ野郎みたいな、いっそ気持ちがいいくらいの笑いっぷりがムカつく。
本っ当にムカつくけど。……さっきの「こわい」と「いやだ」は、きっと忘れちゃいけないやつだ。
リュックの中身を確認する。忘れ物なし。しっかり蓋を閉めたそれを背負って、腕時計を嵌めれば準備オッケー。
〝マリエとしょかんに行ってきます。5時までにかえります〟
そう書いたメモをリビングのテーブルに残し、階段を下りていく。「行ってきます」と呟いて家族用玄関から外に出れば、眩しい陽光のお出迎え。雪山があるウラウラ島は他の島より少し気温が低いけれど、常夏のアローラ地方は今日も今日とて暖かい。
「お出かけ?」
突然聞こえた声に肩を飛び上がらせる。声のした方を向くと、色とりどりのきのみが山のように盛られたかごを抱えたゴーシュが、音もなく歩み寄ってきた。本人に悪気はないんだろうけど、気配も足音もなく近寄られるとめちゃくちゃ心臓に悪い。ゴーストタイプってみんなこうなのかな。こっそり呼吸を整えながら答える。
「うん、マリエ図書館。ゴーシュは畑当番?」
「そうだよ。今日はリュガの実とズアの実も取れたんだ」
ゴーシュは不思議な形をした、青紫色のきのみと青と緑のツートンカラーのきのみを、掌に乗せて見せてくれた。「触っていい?」と尋ねたら頷きが返ってきたので、早速親指と人差し指で摘んでみる。おお~硬え。
俺の家のすぐ側には、きのみや薬草を育てている結構広い畑がある。食用や薬の材料の他に、珍しい植物も栽培していて、新薬の研究機関とかに提供しているんだとか。それの手入れや世話、収穫は一応当番制ってことになっているけど、ジンコとギナは畑で見かける頻度が高いような気がする。タイプ的に土いじりが好きなのかもしれない。
それにしても、こんなに小さいのに、ピンチの時に食べればぼうぎょやとうくぼうが上がるってんだから、きのみは奥が深い。HPやPPを回復したり、状態異常を治したり、いったいどんな成分が詰まってんだろ。きのみ図鑑にはそこまで書かれてねえんだよな。
時折質問を挟みつつリュガの実とズアの実を気が済むまでじっくり観察してからゴーシュに返すと、代わりに小さなビニール袋を手渡された。中にはオボンの実とラムの実が2つずつ入っている。
「デザートに食べて。行ってらっしゃい」
「ありがと。行ってきます」
貰ったきのみをリュックサックに詰め込む。「気を付けてね」という声に手を振り返し、石畳の道を踏みつけた。
☆
読み終わった「島の守り神」という本を棚に戻し、さて次は何を読もうかと視線を巡らせると、ぐうう、と奇妙な音が聞こえた。発信源は俺。他の利用者の生温かい目が刺さる刺さる。いたたまれなくなって、逃げるミミロルの如く図書館から飛び出した。くそっ、はずい……!ブビィにでもなった気分だ!
図書館の出入り口から右に進めば、ちょっとしたスペースがある。街はずれだから人通りが少なく静かで、建物の壁沿いにベンチが置かれていている俺のお気に入りスポットだ。ここに座って海を眺めながら昼飯を食うのが密かな楽しみだったりする。
いつもみたいにベンチに腰を下ろし、リュックサックから風呂敷に包まれた弁当箱を取り出す。今日は何が入っているかワクワクしながら包みを解こうとした時、視界の端で何かが動いた。顔を上げて辺りをそっと見渡してみると、ベンチの右斜め前に聳える大木の根元から、何か細長いものが飛び出ている。どう見ても根っこじゃない。あれ、……もしかして、人間の足?
それに気付いた瞬間、さっきまで火照っていた顔からサッと熱が引いた。嫌な想像が頭の中を駆け巡る。だって、あんな所に人間の足が転がってるなんておかしい。絶対やばい。関わっちゃダメだ。早く逃げないと。荷物をしっかり抱きしめ、音を立てないようにベンチから滑り降りる。よし、そのまま後ろを向いて、振り返らずに家まで走れ。
……でも。でも、もし、あそこにいるのが、怪我をして動けない人だったら?
そんな考えが浮かんで、今すぐ立ち去れと警鐘を鳴らし続ける脳の命令を無視した右足が一歩前に出る。大丈夫、少し様子を見るだけ。もう一歩。何が大丈夫なんだよ、いいから逃げろ。俺にだって、大人を呼んでくるくらいならできる。さらにもう一歩。
生まれたてのシキジカみたいにぶるぶる震える足を少しずつ動かす度に、大木とその根元のアレが近付いていく。大丈夫、大丈夫、ほんのちょっとだけだから。バクバク鳴り続ける心臓に言い聞かせて、そろーっと根元を覗き込む。
そこでは、固く目を閉ざした若い男が、両足を投げ出して、木の幹に体を預けるようにもたれかかっていた。
血塗れバラバラ死体じゃなかったことにひとまず安堵して、そっと深く息を吐いた。あちこち傷だらけだけど、微かに胸が上下しているから、まだ息はある、と思う。
ほっとしたのも束の間、大きく裂けた左袖から覗く二の腕から、赤黒い血がじわじわと湧き出ているのを見つけてしまって、一気に頭が真っ白になる。どうしよう、こういう時、どうすればいいんだっけ。ミャクとか測って、それともキドウカクホ?違う、そうじゃない、一番最初にやるべきこと。ええと、そうだ、イシキカクニンだ。
「……あの、大丈夫、ですか?」
できるだけ顔の近くにしゃがんで耳元に声をかける。何度か声をかけるけれど反応はない。恐る恐る人差し指を伸ばしてそいつの肩を軽くつつくと、瞼がぴくりと震え、ゆっくり持ち上げられていく。真っ白なキャンバスに真っ青な絵の具を一滴垂らしたような目が現れる。しばらくゆらゆら揺れていたそれは、俺を捉えた瞬間大きく見開かれた。
「ッ、ニンゲン……ッ!?」
うわ、今ゴンッっていった。すげえ痛そう。驚いたのか、上体を仰け反らせて木の幹に後頭部を強打したそいつは、後頭部を抑えて声もなく悶えている。
とりあえず、意識が戻ってよかった。でもこいつ、変なこと言うな。自分だって人間じゃ……ん?
頭をさすりながら顔を上げた相手の容姿をまじまじと見る。米粒くらいの青い目。やや暗めの緑の髪。頬から鼻の頭、顔の真ん中を横断するように施された、髪よりも濃い緑のペイント。ギザギザの歯に青い舌。緑と濃い緑の横縞で、ひだのあるやけにダボダボしたカットソー。首には目に痛い真っ黄色のストール。やけに見覚えのある色合いに、お気に入りの本のあるページが思い浮かぶ。
「あんた……もしかして、ベトベター?」
「な、」
再び相手の目が大きく見開かれる。当てずっぽうだったけど、どうやら図星みたいだ。気まずそうに視線を逸らしたそいつ──ベトベターは、口をへの字に曲げてボヤいた。
「んだよォ、擬人化してりゃァポケモンってバレねェんじゃねェのかよ。じっちゃんのバァカ」
「俺だって最初は気づかなかったよ。けど、人間は人間見て『人間だ』っておどろいたりしねえもん」
「……それもそうかァ」
へらりと笑ったベトベターの顔が、不意に苦しげに歪む。そうだ、こいつ怪我してるんだ。血が出てるんだ。早くしないと。
「俺、誰か呼んでくるから、」
ここで待ってて、と言い終わる前に素早く手首を掴まれた。軽く掴まれてるだけなのに、怪我して弱ってるはずなのに、びくともしない。
「やめろ。余計なことすんな」
さっきまでの陽気な雰囲気と一変した低い声が鼓膜を揺らす。
「起こしてくれたのはありがとよ。けど、これ以上は余計なお世話だ。今見たモンは全部忘れて、とっととお家に帰んな。手持ちもいねェのに手負いの野性にちょっかい出すなんざ、殺されても文句言えねェぞ」
刃物のような鋭い視線に射抜かれる。ギリ、と手首を掴む手に力が込められた。ヒュッと息が詰まる。こいつがその気になれば、いいやならなくても、俺の手首だろうと首だろうと一瞬でへし折れるのだと、身をもって思い知らされる。いたい。いたい。こわい。くるしい。……でも。
俺は、この目を知っている。うちの病院に連れられてくるポケモンたちと、あの日のツツケラと同じ目だ。痛くて、怖くて、苦しいって目だ。
少しだけ、頭の中が冷静になる。俺にできること。俺でもできること。何か、何かあるはずだ。こういう時のために、教えてもらったことがあるはずだ。
ふと、抱えたままだった弁当箱が目に映る。……ああ、そうだ。これだ。カラカラの喉で無理矢理唾を飲み下し、震える唇を持ち上げる。
「……じゃあ、止血、だけ。そしたら、すぐ帰るから」
三度、ベトベターが目を見開く。何か言いかけたけど、構わず話し続けた。今黙ったらもう喋れない。
「ちょっと教わった、だけだけど。きっと、何もしないより、マシだから。生き物は、血を流しすぎたら、死んじゃうから」
自分でもわけがわからない。めちゃくちゃ言ってるし、父ちゃんみたいな本物の医者からしたら、大したことない怪我かもしれない。
出会ったのは数分前で、言葉を交わしたのは数回で。
それでも、目の前の命が死んでしまうのは、こいつに殺されるよりも、いやだ。
「……バカじゃねェの」
「俺も、そう思う」
呆気にとられた顔で呟かれた言葉にこっくり頷き返す。もう一度、噛み締めるように「バッカじゃねェの」と呟いたベトベターは、あろうことかゲラゲラ笑い始めた。
「な、何笑ってんだよ!こっちは真面目に、」
「いやァ〜ギャヒヒヒ、脅かして悪かった。ちょっと逃げててさァ、騒ぎ起こして見つかりたくなかったんだ。ヒヒ、そんなビビると思わなくて、」
全く堪えきれてない笑いを噛み殺しながら、言い訳を並び立てるベトベター。ちくしょう、ムカつく。何がムカつくって、どこぞのおさげ野郎みたいな、いっそ気持ちがいいくらいの笑いっぷりがムカつく。
本っ当にムカつくけど。……さっきの「こわい」と「いやだ」は、きっと忘れちゃいけないやつだ。