Dear my cherry blossom/side:G
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【side:Green】
彼女と出会ったのは、気まぐれに訪れたカントーの小さな島だった。
当時、俺はグレンタウンのポケモン診療所に身を寄せていた。人手不足が深刻なのだと頼み込まれ、断る理由が特にないから引き受けた。
訪れるポケモンたちに手当てを施し、出会うすべての女性に甘い言葉を囁く。そうやって、漫然と日々を過ごした。
そんな中、怪我をしたロコンを連れてやってきた幼い彼女と、ほんの些細なやりとりがあった。あまりにちっぽけで、他人が聞いたら鼻で笑うような。
よく晴れた日のことだった。
*
「軽い捻挫だね。安静にしていれば数日で元気になるよ。少し脱水気味だから点滴を打とうか」
診断結果を告げると、ずっと不安げだった少女の蜂蜜色の瞳がほっと緩む。「元気になるって。よかったね」と処置台の上のロコンに笑いかければ、6本の尻尾がぱたぱた揺れた。
ロコンの前足に包帯を巻き、皮下点滴を行う。活発そうなロコンだったが、少女の「じっとしててね」という声がけのお陰か、終始腕の中で大人しくしていた。
処置がひと段落したタイミングで同僚に呼ばれた。痛みで暴れるカブトプスが運ばれてきたから、手を貸して欲しいと。
「すまない、一度席を外す。ここで少し待っていてくれるかい?」
少女たちが頷くのを見届けて同僚の後に続く。ふと視線をやれば、閉じかけのドアの隙間から、ロコンと笑い合う少女の横顔が見えた。
処置を終えて部屋に戻ると、ロコンは丸くなって寝息を立てていた。眠るロコンを見つめる少女の眼差しはひどくあたたかだ。その蜂蜜色が俺へ向けられ、大きく見開かれる。
「あの、血が出てる……!」
少女が示した左手を見れば、人差し指の先にほんの微かな切り傷があった。先ほどカブトプスを相手にしていた時についたのだろう。
「何でもないよ。すぐに治る」
「だめ。出して」
少女はひどく真剣な眼差しでそう言って、俺に手を伸ばす。今度は俺が目を見開いた。
戸惑いながら、恐る恐る手を出せば、小さな手にきゅっと握られた。
「小さくても怪我したら痛いでしょ。そんなの、ほっといたらだめ」
肩に下げたポシェットから絆創膏を取り出し、俺の指に丁寧に巻きつけていく。それから両手で優しく包み込み、「痛いの痛いのとんでいけ」と囁いた。
本当に、何でもないんだ。この体に〝傷〟と認識されない程度のもの。文字通り痛くもかゆくもない。気付いてしまえばすぐに塞がる。
けれど。
俺自身が気付かない傷を、彼女は見つけた。
「……ありが、とう」
「どういたしまして。お兄さんも、はやくよくなってね」
ぎこちなく感謝を述べると、少女は花が咲いたように笑った。
その笑顔と、握られた手のぬくもりが焼きついて。
思い返せばそこからだ。君から目が離せなくなったのは。
*
彼女は毎日見舞いに訪れ、よく喋るロコンとあれこれ語らった。ロコンが再び歩けるようになる頃にはすっかり意気投合したようだ。なんでも、互いをパートナーにと約束したのだとか。嬉しそうに話す彼女の笑顔を、よく覚えている。
退院してからも彼女たちは度々顔を見せに来て、友人だというベトベトンも連れてきた。くるくる表情が変わる少女たちと違い、無愛想な男だった。彼の視線は常にロコンを追っていて、俺がその意味を知るのはずっと後になってからだった。
やがてロコンはキャロルに、ベトベトンはトビーになった。
10歳になったら旅に出るのだと弾んだ声で言っていた。買ったばかりのモンスターボールを見つめる彼女の眼差しを、よく覚えている。
……けれど、彼女とキャロルの約束が果たされることは、なかった。
大きな地震と噴火があったあの日。彼女はひどく泣いていた。
左目から血を流したトビーに抱えられ、何度も何度もそこにいないキャロルの名を呼び続けた。
トキワシティへ着いてからも、彼女はずっと泣いていた。泣いて泣いて泣き続けて、そのまま枯れてしまうんじゃないかというくらい、泣いた。
彼女の涙にやけに心臓がざわついた。また笑って欲しい。その一心で、かける言葉も見つからないまま毎日彼女の家へ足を運んだ。
そうして、どれほど時が経ったのか。
「……ギナ」
久しぶりに彼女に名を呼ばれた。それが再び心臓をざわつかせる。だが、以前のそれとは形が違う。まっすぐ俺を見つめる蜂蜜色から目が離せない。
「私、旅に出たい。一緒に来てくれる?」
差し出されたのは赤と白のボール。本来はキャロルに贈られるはずだったもの。そこに俺が入っていいのなら。俺を入れてくれるというのなら。
「喜んで」
微笑みと共に膝をつき、ボールごと小さな両手を包み込む。はじめて出会った日、君が俺にそうしてくれたように。
*
かくして彼女は俺とトビーを連れて旅に出た。道中、妙なゴーストに何故か懐かれる羽目になったが、彼女のための剣と盾は多いに越したことはない。どうやら俺には従順なようだし、使い物になるようにきちんと躾けるとしよう。
彼女の旅はつつがなく進んだ。町を巡り、時にはジムへ挑み、様々な人やポケモンと関わった。ゴースト──もといゴーシュの他に、仲間も2匹増えた。当初は沈みがちだった彼女の表情も徐々に明るさを取り戻していった。
それでも彼女は度々顔を曇らせた。決まってトビーと衝突した際に。
彼女の〝衝動〟に気付いたのはいつだったか。
そもそも俺と彼女の出会いは、彼女が怪我をしたキャロルを連れてきたのがきっかけだ。もとより傷ついたものを放っておけない質だったのだろう。それがキャロルの死で加速した。医を志すのもむべなるかな。
「ギナはどうしてお医者さんになったの?」
「向いていたからさ」
一番身近な医者にそう尋ねた彼女へ、やわらかく微笑んでみせる。
半分は本当だ。種族がら毒にも植物にも精通している。それに、素性の知れないよそ者が町や群れに溶け込むには、医者という職業は都合がよかった。……残りの半分は。
その程度が動機の俺と違い、彼女は確固たる信念を持って傷ついたポケモンたちに関わった。
助けられたから助けたい。そうじゃないと助けてもらった価値 がない。
そう言って、ひとつきりの脆く儚い命を、必死に誰かのために差し出そうとした。
地上を照らす太陽でも、夜空に輝く一等星でもない。吹けばたやすく消えてしまいそうな、けれど、懸命に燃える蝋燭の灯火。
己の身を削ってほんのわずかな光とぬくもりを届けようとする生き様に、どうしようもなく焦がれた。
彼女は俺にだけ手を差し伸べたのではないし、救おうとしたのも俺だけではない。
だが。それでも。
俺に手を伸ばしてくれたのは、俺の手を取ってくれたのは、彼女がはじめてだったんだ。
彼女が笑うと胸の内があたたかくなり、同時に胸がしめつけられる。
彼女の我が身を惜しまぬ姿に焦がれながら、痛ましさに胸が軋む。
いろんな顔が見たいと思う一方、曇れば無性に落ち着かない。
意味もなく、訳もなく、彼女のことばかり頭に浮かぶ。何の憂いも痛みもなく、幸福に満ちた生を送って欲しい。そのために俺ができることは何でもやろう。
彼女が笑ってくれるなら何だっていい。そして、その笑顔の行き先が、……俺であったなら。
どれも知らない。わからない。こう なるのは彼女だけだ。俺はすべての女性の笑顔と幸せを望んでいるのに。何が違うというのだろう。
胸に芽生えた正体不明なものに戸惑っているうちに、彼女は恋をした。
*
彼女が恋をした瞬間を、ずっと覚えている。薄紅に染まった頬も。陽に当てた琥珀のようにきらめく眼差しも。
その横顔は、瓦礫と煤の中で膝を抱えた幼子が、雲ひとつない青空と澄み渡る海を見つけたかのようで。手持ち には、俺には、一度も向けたことのないものだった。
そこではじめて、彼女へ抱くものの名は〝恋〟だと知り──心臓が凍りついた。
この思いは隠し通そう。俺のさだめに彼女を巻き込みたくない。巻き込んではならない。
彼女は普通 に生きて、普通 に死ぬべきだ。
彼女は彼女が恋をした相手と少しずつ愛を育んだ。それでいい。これでいい。彼女は俺を手持ちとしか見ていないし、俺では彼女を笑顔にも幸せにもできない。
ああ、君が彼と結ばれるのだと聞いた時、俺はちゃんと笑えていただろうか。これでも心から祝福しているんだ。
愚かな俺だけれど、このまま君のそばで、君の笑顔と幸せを見守ることだけは、どうか許して欲しい。
……そう願ったのが間違いだった。彼女を愛したなら、愛したからこそ、彼女から離れるべきだったんだ。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。
すべて放って、投げ出して、忘れたふりをして。そんなことが許されるなら、その程度で逃れられるなら、世界はとうに××××いる。××××なんて必要ない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
深夜の病室で、いっそあの子を殺してしまおうか、とすら考えた。それが過ぎった途端、あまりの罪深さと浅ましさに心底吐き気がした。
悪いのは俺なのに。何の罪もないあの子を、彼女の愛する息子を、手にかけるなんて。
憎い。許せない。憎い、憎い、憎い憎い憎い許せない憎い許せない許せない憎い許せない許せない許せない許さない殺してやる!!
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も、穿ち、貫き、引き裂いた。
けれど、首と胴は繋がったまま。あれだけ暴れて傷ひとつ残らない。心臓は何事もなかったかのように平然と脈打っている。赤く汚れた大地がひたすらに虚しい。
絶対に、殺してやる。
どんな手を使ってでも。
「殺してやるから殺してくれ」
上弦がふたつ、下弦がひとつ。みっつの赤い三日月が笑う。眼前の深紅に映った男は、愚かで、無様で、惨めで、醜い。
薄ら滲んだ視界に血の気のない左手が差し出された。恍惚とはまさにこのこと。宵闇に爛々と輝く血の色の瞳は、殺意で満ち満ちている。
「おれをもらって。きみをちょうだい」
彼女への思いが〝恋〟ならば。
その眼差しで、その言葉で、この胸に芽生えたものはなんだろう。
伸ばした手がわずかにゴーシュの指に触れる。
冷え切った指先が、ほんの少しだけ熱を取り戻した。
*
新たに交わした〝約束〟のもと、数多の命を刈り取り、この手を血で濡らした。同じ数だけ毒をあおり、己を毒に染めていく。
本来相反するもの同士ではあるが、少しずつ馴染んできた。だが、まだ足りない。俺が適応できる程度の毒などなんの意味も価値もない。もっと、もっと、もっと。
ゴーシュはFallゆえか、オーラがよく馴染んでいるようだ。許容量も俺よりよほど多いと見える。
殺すべくはふたり。毒杯はふたつ。ちょうどいい。撒き餌としてもタンクとしても利用価値があるとは、いい拾い物をした。
あの夜から11年。今日も今日とて毒を喰らう。焼け付くような痛みも吐き気も、とうに過ぎ去った。この身に宿した毒をもって、俺とあのひとを必ず殺す。
彼女が俺の所業を知れば、烈火の如く怒るだろう。あるいは打ちのめされて悲嘆に暮れるだろう。それでも。
君の笑顔を守るためなら、君 が泣こうと構わない。
彼女と出会ったのは、気まぐれに訪れたカントーの小さな島だった。
当時、俺はグレンタウンのポケモン診療所に身を寄せていた。人手不足が深刻なのだと頼み込まれ、断る理由が特にないから引き受けた。
訪れるポケモンたちに手当てを施し、出会うすべての女性に甘い言葉を囁く。そうやって、漫然と日々を過ごした。
そんな中、怪我をしたロコンを連れてやってきた幼い彼女と、ほんの些細なやりとりがあった。あまりにちっぽけで、他人が聞いたら鼻で笑うような。
よく晴れた日のことだった。
*
「軽い捻挫だね。安静にしていれば数日で元気になるよ。少し脱水気味だから点滴を打とうか」
診断結果を告げると、ずっと不安げだった少女の蜂蜜色の瞳がほっと緩む。「元気になるって。よかったね」と処置台の上のロコンに笑いかければ、6本の尻尾がぱたぱた揺れた。
ロコンの前足に包帯を巻き、皮下点滴を行う。活発そうなロコンだったが、少女の「じっとしててね」という声がけのお陰か、終始腕の中で大人しくしていた。
処置がひと段落したタイミングで同僚に呼ばれた。痛みで暴れるカブトプスが運ばれてきたから、手を貸して欲しいと。
「すまない、一度席を外す。ここで少し待っていてくれるかい?」
少女たちが頷くのを見届けて同僚の後に続く。ふと視線をやれば、閉じかけのドアの隙間から、ロコンと笑い合う少女の横顔が見えた。
処置を終えて部屋に戻ると、ロコンは丸くなって寝息を立てていた。眠るロコンを見つめる少女の眼差しはひどくあたたかだ。その蜂蜜色が俺へ向けられ、大きく見開かれる。
「あの、血が出てる……!」
少女が示した左手を見れば、人差し指の先にほんの微かな切り傷があった。先ほどカブトプスを相手にしていた時についたのだろう。
「何でもないよ。すぐに治る」
「だめ。出して」
少女はひどく真剣な眼差しでそう言って、俺に手を伸ばす。今度は俺が目を見開いた。
戸惑いながら、恐る恐る手を出せば、小さな手にきゅっと握られた。
「小さくても怪我したら痛いでしょ。そんなの、ほっといたらだめ」
肩に下げたポシェットから絆創膏を取り出し、俺の指に丁寧に巻きつけていく。それから両手で優しく包み込み、「痛いの痛いのとんでいけ」と囁いた。
本当に、何でもないんだ。この体に〝傷〟と認識されない程度のもの。文字通り痛くもかゆくもない。気付いてしまえばすぐに塞がる。
けれど。
俺自身が気付かない傷を、彼女は見つけた。
「……ありが、とう」
「どういたしまして。お兄さんも、はやくよくなってね」
ぎこちなく感謝を述べると、少女は花が咲いたように笑った。
その笑顔と、握られた手のぬくもりが焼きついて。
思い返せばそこからだ。君から目が離せなくなったのは。
*
彼女は毎日見舞いに訪れ、よく喋るロコンとあれこれ語らった。ロコンが再び歩けるようになる頃にはすっかり意気投合したようだ。なんでも、互いをパートナーにと約束したのだとか。嬉しそうに話す彼女の笑顔を、よく覚えている。
退院してからも彼女たちは度々顔を見せに来て、友人だというベトベトンも連れてきた。くるくる表情が変わる少女たちと違い、無愛想な男だった。彼の視線は常にロコンを追っていて、俺がその意味を知るのはずっと後になってからだった。
やがてロコンはキャロルに、ベトベトンはトビーになった。
10歳になったら旅に出るのだと弾んだ声で言っていた。買ったばかりのモンスターボールを見つめる彼女の眼差しを、よく覚えている。
……けれど、彼女とキャロルの約束が果たされることは、なかった。
大きな地震と噴火があったあの日。彼女はひどく泣いていた。
左目から血を流したトビーに抱えられ、何度も何度もそこにいないキャロルの名を呼び続けた。
トキワシティへ着いてからも、彼女はずっと泣いていた。泣いて泣いて泣き続けて、そのまま枯れてしまうんじゃないかというくらい、泣いた。
彼女の涙にやけに心臓がざわついた。また笑って欲しい。その一心で、かける言葉も見つからないまま毎日彼女の家へ足を運んだ。
そうして、どれほど時が経ったのか。
「……ギナ」
久しぶりに彼女に名を呼ばれた。それが再び心臓をざわつかせる。だが、以前のそれとは形が違う。まっすぐ俺を見つめる蜂蜜色から目が離せない。
「私、旅に出たい。一緒に来てくれる?」
差し出されたのは赤と白のボール。本来はキャロルに贈られるはずだったもの。そこに俺が入っていいのなら。俺を入れてくれるというのなら。
「喜んで」
微笑みと共に膝をつき、ボールごと小さな両手を包み込む。はじめて出会った日、君が俺にそうしてくれたように。
*
かくして彼女は俺とトビーを連れて旅に出た。道中、妙なゴーストに何故か懐かれる羽目になったが、彼女のための剣と盾は多いに越したことはない。どうやら俺には従順なようだし、使い物になるようにきちんと躾けるとしよう。
彼女の旅はつつがなく進んだ。町を巡り、時にはジムへ挑み、様々な人やポケモンと関わった。ゴースト──もといゴーシュの他に、仲間も2匹増えた。当初は沈みがちだった彼女の表情も徐々に明るさを取り戻していった。
それでも彼女は度々顔を曇らせた。決まってトビーと衝突した際に。
彼女の〝衝動〟に気付いたのはいつだったか。
そもそも俺と彼女の出会いは、彼女が怪我をしたキャロルを連れてきたのがきっかけだ。もとより傷ついたものを放っておけない質だったのだろう。それがキャロルの死で加速した。医を志すのもむべなるかな。
「ギナはどうしてお医者さんになったの?」
「向いていたからさ」
一番身近な医者にそう尋ねた彼女へ、やわらかく微笑んでみせる。
半分は本当だ。種族がら毒にも植物にも精通している。それに、素性の知れないよそ者が町や群れに溶け込むには、医者という職業は都合がよかった。……残りの半分は。
その程度が動機の俺と違い、彼女は確固たる信念を持って傷ついたポケモンたちに関わった。
助けられたから助けたい。そうじゃないと
そう言って、ひとつきりの脆く儚い命を、必死に誰かのために差し出そうとした。
地上を照らす太陽でも、夜空に輝く一等星でもない。吹けばたやすく消えてしまいそうな、けれど、懸命に燃える蝋燭の灯火。
己の身を削ってほんのわずかな光とぬくもりを届けようとする生き様に、どうしようもなく焦がれた。
彼女は俺にだけ手を差し伸べたのではないし、救おうとしたのも俺だけではない。
だが。それでも。
俺に手を伸ばしてくれたのは、俺の手を取ってくれたのは、彼女がはじめてだったんだ。
彼女が笑うと胸の内があたたかくなり、同時に胸がしめつけられる。
彼女の我が身を惜しまぬ姿に焦がれながら、痛ましさに胸が軋む。
いろんな顔が見たいと思う一方、曇れば無性に落ち着かない。
意味もなく、訳もなく、彼女のことばかり頭に浮かぶ。何の憂いも痛みもなく、幸福に満ちた生を送って欲しい。そのために俺ができることは何でもやろう。
彼女が笑ってくれるなら何だっていい。そして、その笑顔の行き先が、……俺であったなら。
どれも知らない。わからない。
胸に芽生えた正体不明なものに戸惑っているうちに、彼女は恋をした。
*
彼女が恋をした瞬間を、ずっと覚えている。薄紅に染まった頬も。陽に当てた琥珀のようにきらめく眼差しも。
その横顔は、瓦礫と煤の中で膝を抱えた幼子が、雲ひとつない青空と澄み渡る海を見つけたかのようで。
そこではじめて、彼女へ抱くものの名は〝恋〟だと知り──心臓が凍りついた。
この思いは隠し通そう。俺のさだめに彼女を巻き込みたくない。巻き込んではならない。
彼女は
彼女は彼女が恋をした相手と少しずつ愛を育んだ。それでいい。これでいい。彼女は俺を手持ちとしか見ていないし、俺では彼女を笑顔にも幸せにもできない。
ああ、君が彼と結ばれるのだと聞いた時、俺はちゃんと笑えていただろうか。これでも心から祝福しているんだ。
愚かな俺だけれど、このまま君のそばで、君の笑顔と幸せを見守ることだけは、どうか許して欲しい。
……そう願ったのが間違いだった。彼女を愛したなら、愛したからこそ、彼女から離れるべきだったんだ。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。
すべて放って、投げ出して、忘れたふりをして。そんなことが許されるなら、その程度で逃れられるなら、世界はとうに××××いる。××××なんて必要ない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
深夜の病室で、いっそあの子を殺してしまおうか、とすら考えた。それが過ぎった途端、あまりの罪深さと浅ましさに心底吐き気がした。
悪いのは俺なのに。何の罪もないあの子を、彼女の愛する息子を、手にかけるなんて。
憎い。許せない。憎い、憎い、憎い憎い憎い許せない憎い許せない許せない憎い許せない許せない許せない許さない殺してやる!!
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も、穿ち、貫き、引き裂いた。
けれど、首と胴は繋がったまま。あれだけ暴れて傷ひとつ残らない。心臓は何事もなかったかのように平然と脈打っている。赤く汚れた大地がひたすらに虚しい。
絶対に、殺してやる。
どんな手を使ってでも。
「殺してやるから殺してくれ」
上弦がふたつ、下弦がひとつ。みっつの赤い三日月が笑う。眼前の深紅に映った男は、愚かで、無様で、惨めで、醜い。
薄ら滲んだ視界に血の気のない左手が差し出された。恍惚とはまさにこのこと。宵闇に爛々と輝く血の色の瞳は、殺意で満ち満ちている。
「おれをもらって。きみをちょうだい」
彼女への思いが〝恋〟ならば。
その眼差しで、その言葉で、この胸に芽生えたものはなんだろう。
伸ばした手がわずかにゴーシュの指に触れる。
冷え切った指先が、ほんの少しだけ熱を取り戻した。
*
新たに交わした〝約束〟のもと、数多の命を刈り取り、この手を血で濡らした。同じ数だけ毒をあおり、己を毒に染めていく。
本来相反するもの同士ではあるが、少しずつ馴染んできた。だが、まだ足りない。俺が適応できる程度の毒などなんの意味も価値もない。もっと、もっと、もっと。
ゴーシュはFallゆえか、オーラがよく馴染んでいるようだ。許容量も俺よりよほど多いと見える。
殺すべくはふたり。毒杯はふたつ。ちょうどいい。撒き餌としてもタンクとしても利用価値があるとは、いい拾い物をした。
あの夜から11年。今日も今日とて毒を喰らう。焼け付くような痛みも吐き気も、とうに過ぎ去った。この身に宿した毒をもって、俺とあのひとを必ず殺す。
彼女が俺の所業を知れば、烈火の如く怒るだろう。あるいは打ちのめされて悲嘆に暮れるだろう。それでも。
君の笑顔を守るためなら、
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