Dear my cherry blossom/side:G
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***
夜もすっかり深まった時刻。テンカラットヒルの最奥で、月光に照らされて佇む影がひとつ。それがゆらりと振り向いた。
「やあ、ギナ」
血の色をした瞳が弧を描く。その足元には青く汚れた何かが3匹。長い四肢を折り曲げて力なく横たわるそれらをギナの赤が一瞥する。
「殺していないだろうな」
「まさか。ちゃんと我慢したよ」
ゴーシュはくすくす笑いながら右手に舌を這わせた。ギナを待つ間に毛繕いをしていたのだろう、青い染みが残っているのは一箇所だけだった。
ねえ、と上擦った声で囁く。綺麗になった右手がネクタイを緩め、白い首と鎖骨を夜風に晒した。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ、ちょうだい?」
熱を孕んだ懇願にギナは目を眇めた。普段は全く血の気を感じない頬を上気させたゴーシュとは対照的に、淡々と言い放つ。
「明日はバンビの旅立ちの日だ。忘れたとは言わせないぞ」
「わかってる。だからオーラは使わない。ほんの少しでいいんだ。……ねえ、お願い、いいでしょ?」
言葉の合間に赤く濡れた舌がちらつき、乱れた息が零れ落ちる。飢えた犬のようにぎらつく眼差しで今か今かとギナの答えを待った。
僅かに逡巡する。今日の収穫は3匹。以前はこちらの許可なくなりふり構わず飛びかかってきたものだが、かなり自制が効くようになった。現に今も、完全にスイッチが入っていながら「待て」ができている。……ならば、まあ。たまには飴をくれてやろう。
ギナは軽くため息を吐き、「3分だ」とだけ返した。瞬間、ギナの真紅から温度が消え、ゴーシュの深紅と唇が凶悪な三日月を描く。
「こごえるかぜ」
「はなふぶき」
白い冷気と赤い花びらが激しくぶつかり合う。砂埃がもうもうと舞う中、ゴーシュが忽然と姿を消した。すぐさまギナは自身の背後にマジカルリーフを飛ばす。
そうだね、俺はゴーストダイブでいつも背中を狙うよね。けど。
音もなくギナの眼前に現れ、心臓目掛けて漆黒の爪を振り下ろした。咄嗟に急所を守ったギナの白い左腕から真っ赤な雫が弾け、柳の眉が微かに歪む。
ぞくぞくぞくっ、甘い痺れが背中を駆け抜ける。火照った体の中心にどんどん熱が集まっていく。
まだだよ。もっと、もっと、もっと!!
カッと双眸を見開いた。くろいまなざし。ギナがびたりと硬直する。もっと見せて。もっと味わわせて。
左手に闇色のオーラを凝縮する。ゼロ距離でシャドーボールを叩きこもうと振りかぶり――下から上へ、バンバドロに蹴り飛ばされたような衝撃に腹を抉られた。呼吸が止まり、視界と臓腑がぐわりと揺れる。しまった。だいちのちからだ。
ぐらぐら霞んだ視界の中、綺麗な綺麗な真紅の宝石に映るのは、冷たい殺意。
それがゴーシュを熱くする。体の内側も外側もどこもかしこも熱い。思わず熱のこもった吐息が溢れた。
はやくあの目に俺だけ映してくれたらいいのに。ぜんぶひとりじめしたい。
どさり、固い地面に倒れた。たった一撃。しかも加減されている。なのになんて重いんだろう、なんて痛いんだろう。今のを本気でぶつけられたら、どんなに――どんなに、しあわせだろう。
蕩けきった表情のゴーシュをギナは冷めた目で見下ろす。いつの間にか、彼の腕の傷は跡形もなく消えていた。それに気付いたゴーシュがどうにか首だけ動かせば、右手の下の土が黒く濡れている。
「……だめ。おれ、の」
ずしりと重い右手を持ち上げ、ゆっくりゆっくり口元へ運んでいく。はやく。はやく。待ちきれずに突き出した舌にやっとギナの血が触れた。脳が焼き切れるくらいの熱と甘さが喉を伝って腹に落ちていく。
無我夢中で貪るうちに無意識に腰が反れ、ビクビク跳ねた。舌の間から零れる自分の息も熱い。
ねぶってしゃぶって飲み干して、身を焦がすような昂りがようやく鎮まった。ちらりと視線だけギナに向ければ、ちょうど2匹めのフェローチェの胴体を貫いたところだった。冷えきった赤い眼差しにぶるりと震える。
あーあ、1匹見逃しちゃった。惜しいことしたな。でも久々にギナを味わえたからいいや。フェローチェだってあともう1匹いるし。
身を起こす元気はまだないから寝転んだまま空を見上げた。漆黒の夜空に黄金の満月がひとつ。周囲の星が霞むほどのきらめきを煌々と放っている。
「月、綺麗だねえ。覚えてる?君と初めて出会ったのも月が綺麗な夜だった」
「そうだったか?忘れたよ」
「もー、ブレないなあ」
笑いながら思い返す。ギナとの出会いを。それから――もっと昔のことを。
*
今から20年と少し前。ゴーストに進化したばかりの頃だったかな。ある日、突然現れた不思議な穴にうっかり吸い込まれた。
目が覚めたら何故か傷だらけで、全然知らない場所にいて。おまけに自分の記憶もあやふやだからすごく不安だったっけ。
そんなボロボロの俺を見つけて、手当してくれた女の子がいた。やさしくて笑顔のかわいい子だった。だから殺した。
ゴース時代のことはあまり覚えてない。はっきりしてるのは自分の名前、森の中の古い屋敷に住んでたこと、初めて殺意を持って 殺した時のこと。
記憶を失くしてからも誰かを殺す感触はひどく手に馴染んでいたから、昔からこういう生き方をしてたんだと思う。あとは……俺は暑いのが苦手だから、カントーより寒い場所にいたんじゃないかな。
初めて殺したひとは、おかあさん。血の繋がりはなかったような。みんなが「おかあさん」って呼ぶから俺もそう呼んでた……気がする。
おかあさん、たくさんのきょうだいたちと森のお屋敷で暮らしてた。その頃の記憶は朧気で断片的だけど、とても楽しくて、しあわせだったのは覚えてる。
――ねえおかあさん。どうしてごはんのとき「いただきます」っていうの?おれ、なにからなにをもらってるの?
――命よ。きのみも草木もポケモンも人間も、全部生き物でしょう?私たちは生きるために誰かの命を貰っているのよ。
――じゃあ、さっきたべたミミロルのいのちは、おれがもらったの?
――ええ。そのミミロルが食べたきのみや草木の命ごとあなたは「いただいた」の。あなたがこれまで食べた命はあなたの命になって、あなたを生かしてくれている。そうやって生き物は命を繋いでいくの。
幼い俺とおかあさんの会話。微かに残った欠片のひとつ。
やさしくてあったかい、だいすきなひと。
おかあさんはいろんなことを教えてくれた。
食べるとは命をもらうこと。「いただいた」命に生かされるということ。
おれが今まで食べたものは、おれの命と一緒になって、一緒に生きてるんだって。だから、おれの命と体は「いただいた」ものでできている。
食べるとは命をもらうこと。食べるとは殺すこと。つまり、殺すとは命をもらうこと。
せっかくもらうなら、すきなものがいいな。命はだいじなものだから、何でもかんでもじゃなく、すきなものだけ。
すきなものを殺した分だけすきなものに生かされる。すきなものと一緒になれる。なんてすてきなんだろう。
すきなもの。すきなひと。
それはもちろん、おかあさん。
一番はおかあさんだけど、きょうだいたちもだいすき。
――いいこと思いついた。
*
あの日はどう過ごしたんだったかな。みんなと森で遊び回ったのか、それともごはんを集めに行ったんだっけ。
思い出せないけど、まんまるお月さまがすごく綺麗で。だから今夜にしようと思ったんだ。
ひとり、おかあさんの部屋へ向かう。コンコンとドアを叩けばやさしい声がお出迎え。
「おかあさん」
「あら。どうしたのゴーシュ」
本を閉じて振り向くおかあさん。そのやわらかい微笑みが、声が、おれのこころに火を灯した。
「……ぎゅってして」
「ふふふ、珍しく甘えたさんね。おいで」
広がる腕の中にそっと身を委ねた。あったかくて、やわらかくて、いい匂いがする。おかあさんの匂い。
おかあさん。おかあさん。だいすき。だいすき。だいすき。
溢れる思いは右手を包み込み――毒に染まったその腕で、おかあさんの心臓を貫いた。
あの感触は今でもはっきり覚えてる。だいすきなひとの命の温度。右手から熱くてあまくて熱いものが津波のように押し寄せ、ぶるり、大きく震えた。はあ、とおれの口からも熱が溢れる。
「おかあさん」
左手でやさしくおかあさんの頬を撫でた。おかあさん、ひどく驚いた顔をしてたっけ。何が起きたのかわからない、というような。そんなおかあさんに微笑みかけ、熱く濡れた右手と綺麗な左手でぎゅっと抱きしめた。
これで、おかあさんはおれのもの。
当時はよくわからなかったけど今ならわかる。あのともしびの名前は〝いとしい〟。
溢れて溢れて止まらない。名残惜しいけど、冷たくなり始めたおかあさんから腕を引き抜いた。もっと、もっと、もっと。
「……なに、してるの……?」
かぼそい声に振り向けば、半開きのドアの間にすぐ下の妹が立っていた。大きな目に涙をいっぱい溜めてがたがた震えている。
その目が血塗れのおかあさんを映した途端、ガラスが割れたような金切り声を上げた。かわいそうに。こわいものを見たんだね。でも大丈夫。おれがずっと一緒だよ。
今度は左腕でやわらかいお腹を突き破った。あったかい。胸のともしびがぶわりと大きくなる。
騒ぎを聞きつけたきょうだいたちが広間に集まりだす。よかった、会いに行く手間が省けた。
逃がさないようにくろいまなざし。みんなそれぞれ何か言ってた気がするけど、何も思い出せないのは失くしてしまったからなのか。それとも。
腹を抉って、喉を穿って、頭を潰して。その度にびりびり、ぞわぞわ、ぞくぞく。よくわからない電流がおれの体を駆け回る。
「――あはッ」
なんだかふわふわする。頭の中はとうに蕩けて何も考えられない。ただ、溢れる衝動に突き動かされるまま命を刈り取った。
どちゃり、さいごのひとりが床に落ちる。床も壁も元の色がわからないくらい真っ赤に染まっていた。
同じくらい真っ赤な両手を見下ろす。体もこころもぽかぽかだ。あったかくて、うれしくて、しあわせで――思わず大声で笑い出した。しんとした静寂におれの声だけ響き渡る。
笑いながら血の海にひっくり返った。左胸に手を伸ばせば、どくんどくんと命の音。
おかあさん。みんな。見てる?聞こえる?
おれ、生きてるよ。みんなの命に生かされてるよ。
これからずっと一緒だね。ずっと一緒に生きていこうね。
夜もすっかり深まった時刻。テンカラットヒルの最奥で、月光に照らされて佇む影がひとつ。それがゆらりと振り向いた。
「やあ、ギナ」
血の色をした瞳が弧を描く。その足元には青く汚れた何かが3匹。長い四肢を折り曲げて力なく横たわるそれらをギナの赤が一瞥する。
「殺していないだろうな」
「まさか。ちゃんと我慢したよ」
ゴーシュはくすくす笑いながら右手に舌を這わせた。ギナを待つ間に毛繕いをしていたのだろう、青い染みが残っているのは一箇所だけだった。
ねえ、と上擦った声で囁く。綺麗になった右手がネクタイを緩め、白い首と鎖骨を夜風に晒した。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ、ちょうだい?」
熱を孕んだ懇願にギナは目を眇めた。普段は全く血の気を感じない頬を上気させたゴーシュとは対照的に、淡々と言い放つ。
「明日はバンビの旅立ちの日だ。忘れたとは言わせないぞ」
「わかってる。だからオーラは使わない。ほんの少しでいいんだ。……ねえ、お願い、いいでしょ?」
言葉の合間に赤く濡れた舌がちらつき、乱れた息が零れ落ちる。飢えた犬のようにぎらつく眼差しで今か今かとギナの答えを待った。
僅かに逡巡する。今日の収穫は3匹。以前はこちらの許可なくなりふり構わず飛びかかってきたものだが、かなり自制が効くようになった。現に今も、完全にスイッチが入っていながら「待て」ができている。……ならば、まあ。たまには飴をくれてやろう。
ギナは軽くため息を吐き、「3分だ」とだけ返した。瞬間、ギナの真紅から温度が消え、ゴーシュの深紅と唇が凶悪な三日月を描く。
「こごえるかぜ」
「はなふぶき」
白い冷気と赤い花びらが激しくぶつかり合う。砂埃がもうもうと舞う中、ゴーシュが忽然と姿を消した。すぐさまギナは自身の背後にマジカルリーフを飛ばす。
そうだね、俺はゴーストダイブでいつも背中を狙うよね。けど。
音もなくギナの眼前に現れ、心臓目掛けて漆黒の爪を振り下ろした。咄嗟に急所を守ったギナの白い左腕から真っ赤な雫が弾け、柳の眉が微かに歪む。
ぞくぞくぞくっ、甘い痺れが背中を駆け抜ける。火照った体の中心にどんどん熱が集まっていく。
まだだよ。もっと、もっと、もっと!!
カッと双眸を見開いた。くろいまなざし。ギナがびたりと硬直する。もっと見せて。もっと味わわせて。
左手に闇色のオーラを凝縮する。ゼロ距離でシャドーボールを叩きこもうと振りかぶり――下から上へ、バンバドロに蹴り飛ばされたような衝撃に腹を抉られた。呼吸が止まり、視界と臓腑がぐわりと揺れる。しまった。だいちのちからだ。
ぐらぐら霞んだ視界の中、綺麗な綺麗な真紅の宝石に映るのは、冷たい殺意。
それがゴーシュを熱くする。体の内側も外側もどこもかしこも熱い。思わず熱のこもった吐息が溢れた。
はやくあの目に俺だけ映してくれたらいいのに。ぜんぶひとりじめしたい。
どさり、固い地面に倒れた。たった一撃。しかも加減されている。なのになんて重いんだろう、なんて痛いんだろう。今のを本気でぶつけられたら、どんなに――どんなに、しあわせだろう。
蕩けきった表情のゴーシュをギナは冷めた目で見下ろす。いつの間にか、彼の腕の傷は跡形もなく消えていた。それに気付いたゴーシュがどうにか首だけ動かせば、右手の下の土が黒く濡れている。
「……だめ。おれ、の」
ずしりと重い右手を持ち上げ、ゆっくりゆっくり口元へ運んでいく。はやく。はやく。待ちきれずに突き出した舌にやっとギナの血が触れた。脳が焼き切れるくらいの熱と甘さが喉を伝って腹に落ちていく。
無我夢中で貪るうちに無意識に腰が反れ、ビクビク跳ねた。舌の間から零れる自分の息も熱い。
ねぶってしゃぶって飲み干して、身を焦がすような昂りがようやく鎮まった。ちらりと視線だけギナに向ければ、ちょうど2匹めのフェローチェの胴体を貫いたところだった。冷えきった赤い眼差しにぶるりと震える。
あーあ、1匹見逃しちゃった。惜しいことしたな。でも久々にギナを味わえたからいいや。フェローチェだってあともう1匹いるし。
身を起こす元気はまだないから寝転んだまま空を見上げた。漆黒の夜空に黄金の満月がひとつ。周囲の星が霞むほどのきらめきを煌々と放っている。
「月、綺麗だねえ。覚えてる?君と初めて出会ったのも月が綺麗な夜だった」
「そうだったか?忘れたよ」
「もー、ブレないなあ」
笑いながら思い返す。ギナとの出会いを。それから――もっと昔のことを。
*
今から20年と少し前。ゴーストに進化したばかりの頃だったかな。ある日、突然現れた不思議な穴にうっかり吸い込まれた。
目が覚めたら何故か傷だらけで、全然知らない場所にいて。おまけに自分の記憶もあやふやだからすごく不安だったっけ。
そんなボロボロの俺を見つけて、手当してくれた女の子がいた。やさしくて笑顔のかわいい子だった。だから殺した。
ゴース時代のことはあまり覚えてない。はっきりしてるのは自分の名前、森の中の古い屋敷に住んでたこと、初めて
記憶を失くしてからも誰かを殺す感触はひどく手に馴染んでいたから、昔からこういう生き方をしてたんだと思う。あとは……俺は暑いのが苦手だから、カントーより寒い場所にいたんじゃないかな。
初めて殺したひとは、おかあさん。血の繋がりはなかったような。みんなが「おかあさん」って呼ぶから俺もそう呼んでた……気がする。
おかあさん、たくさんのきょうだいたちと森のお屋敷で暮らしてた。その頃の記憶は朧気で断片的だけど、とても楽しくて、しあわせだったのは覚えてる。
――ねえおかあさん。どうしてごはんのとき「いただきます」っていうの?おれ、なにからなにをもらってるの?
――命よ。きのみも草木もポケモンも人間も、全部生き物でしょう?私たちは生きるために誰かの命を貰っているのよ。
――じゃあ、さっきたべたミミロルのいのちは、おれがもらったの?
――ええ。そのミミロルが食べたきのみや草木の命ごとあなたは「いただいた」の。あなたがこれまで食べた命はあなたの命になって、あなたを生かしてくれている。そうやって生き物は命を繋いでいくの。
幼い俺とおかあさんの会話。微かに残った欠片のひとつ。
やさしくてあったかい、だいすきなひと。
おかあさんはいろんなことを教えてくれた。
食べるとは命をもらうこと。「いただいた」命に生かされるということ。
おれが今まで食べたものは、おれの命と一緒になって、一緒に生きてるんだって。だから、おれの命と体は「いただいた」ものでできている。
食べるとは命をもらうこと。食べるとは殺すこと。つまり、殺すとは命をもらうこと。
せっかくもらうなら、すきなものがいいな。命はだいじなものだから、何でもかんでもじゃなく、すきなものだけ。
すきなものを殺した分だけすきなものに生かされる。すきなものと一緒になれる。なんてすてきなんだろう。
すきなもの。すきなひと。
それはもちろん、おかあさん。
一番はおかあさんだけど、きょうだいたちもだいすき。
――いいこと思いついた。
*
あの日はどう過ごしたんだったかな。みんなと森で遊び回ったのか、それともごはんを集めに行ったんだっけ。
思い出せないけど、まんまるお月さまがすごく綺麗で。だから今夜にしようと思ったんだ。
ひとり、おかあさんの部屋へ向かう。コンコンとドアを叩けばやさしい声がお出迎え。
「おかあさん」
「あら。どうしたのゴーシュ」
本を閉じて振り向くおかあさん。そのやわらかい微笑みが、声が、おれのこころに火を灯した。
「……ぎゅってして」
「ふふふ、珍しく甘えたさんね。おいで」
広がる腕の中にそっと身を委ねた。あったかくて、やわらかくて、いい匂いがする。おかあさんの匂い。
おかあさん。おかあさん。だいすき。だいすき。だいすき。
溢れる思いは右手を包み込み――毒に染まったその腕で、おかあさんの心臓を貫いた。
あの感触は今でもはっきり覚えてる。だいすきなひとの命の温度。右手から熱くてあまくて熱いものが津波のように押し寄せ、ぶるり、大きく震えた。はあ、とおれの口からも熱が溢れる。
「おかあさん」
左手でやさしくおかあさんの頬を撫でた。おかあさん、ひどく驚いた顔をしてたっけ。何が起きたのかわからない、というような。そんなおかあさんに微笑みかけ、熱く濡れた右手と綺麗な左手でぎゅっと抱きしめた。
これで、おかあさんはおれのもの。
当時はよくわからなかったけど今ならわかる。あのともしびの名前は〝いとしい〟。
溢れて溢れて止まらない。名残惜しいけど、冷たくなり始めたおかあさんから腕を引き抜いた。もっと、もっと、もっと。
「……なに、してるの……?」
かぼそい声に振り向けば、半開きのドアの間にすぐ下の妹が立っていた。大きな目に涙をいっぱい溜めてがたがた震えている。
その目が血塗れのおかあさんを映した途端、ガラスが割れたような金切り声を上げた。かわいそうに。こわいものを見たんだね。でも大丈夫。おれがずっと一緒だよ。
今度は左腕でやわらかいお腹を突き破った。あったかい。胸のともしびがぶわりと大きくなる。
騒ぎを聞きつけたきょうだいたちが広間に集まりだす。よかった、会いに行く手間が省けた。
逃がさないようにくろいまなざし。みんなそれぞれ何か言ってた気がするけど、何も思い出せないのは失くしてしまったからなのか。それとも。
腹を抉って、喉を穿って、頭を潰して。その度にびりびり、ぞわぞわ、ぞくぞく。よくわからない電流がおれの体を駆け回る。
「――あはッ」
なんだかふわふわする。頭の中はとうに蕩けて何も考えられない。ただ、溢れる衝動に突き動かされるまま命を刈り取った。
どちゃり、さいごのひとりが床に落ちる。床も壁も元の色がわからないくらい真っ赤に染まっていた。
同じくらい真っ赤な両手を見下ろす。体もこころもぽかぽかだ。あったかくて、うれしくて、しあわせで――思わず大声で笑い出した。しんとした静寂におれの声だけ響き渡る。
笑いながら血の海にひっくり返った。左胸に手を伸ばせば、どくんどくんと命の音。
おかあさん。みんな。見てる?聞こえる?
おれ、生きてるよ。みんなの命に生かされてるよ。
これからずっと一緒だね。ずっと一緒に生きていこうね。
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