イヌサフランの芽吹き/age.5
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「あのさ、父ちゃん」
「なんだ」
「今日のツツケラ……ツツケラだけじゃなくて、うちにくるポケモンたち。ポケモンセンターで回復できねえの?」
口にした瞬間、一度大きく見開かれた父の眼差しがみるみる鋭くなっていく。いつものように些細な質問のつもりだった少年は戸惑う。コトン、と机にマグカップを置く音がやけに部屋に響いた。
険しい顔のままの父に手招きされ、床の物を踏まないように気をつけながらおずおずと歩み寄れば、抱き上げられて膝の上に乗せられた。
「ルヒカ、覚えとけ。ダメージと傷病、回復と治療は別物だ」
そう言いながら、ホウヤは机の上に積み重ねられていたもののうちから紺色の表紙の本を引っ張り出し、全体の4分の1程のページを開いた。左右のページにそれぞれポケモンの写真が載っており、その下に細かい文字がびっしり書かれている。タイトルも内容も見慣れない単語ばかり並んでいて、ちんぷんかんぷんだ。ホウヤは右手でルヒカを抱え直すと、左手で右ページの写真を示し、徐に口を開いた。
「ダメージはざっくり言えば、肉体への負荷とか疲労みたいなもんだ。激しい運動すると疲れて体が重くなるのに近い。公式戦でも草試合でも、バトルは殺し合いじゃねえ。双方のトレーナーとポケモンがそう認識してるからこそ、ポケモンは戦闘不能やダメージを受ける程度で済んでるし、ポケモンセンターやキズぐすりで回復できる」
写真の中の、あちこち擦り傷だらけで目を回している、大きな耳に水色と黒の体を持つ小さな四足獣を観察する。言われてみれば、激務を終えて自室に戻る体力すらなく、リビングのソファでぶっ倒れている時の父に似ていた。初めて見るこのポケモンの名前を尋ねると、〝コリンク〟というらしい。でんきタイプで、主にシンオウ地方に生息しているのだとか。
「……まあ、ダメージだって回復せずに放置してりゃ、死に至る場合もあるけどな。ダメージが癒える前にバトルしまくった野生ポケモンが死にかけたり、回復させないままバトルに出した手持ちポケモンのダメージが悪化して、傷病の原因になったり。それから、さっきバトルは殺し合いじゃねえって言ったけど。両方、或いはどちらかの目的が、バトルや捕獲以外……例えば相手をただ痛めつけることだったら、わざを食らった側が負うのは、ダメージじゃなくて怪我だ」
父の声のトーンが一段低くなった。表情を伺おうと上げかけた視線は、ホウヤの左手が左ページに移動したのでそちらに移す。茶色い体に尖った耳、ふさふさした首元と大きな尻尾を持つ獣。こちらは知っている。イーブイだ。右前足がぶ厚い布のようなものに覆われている。後で訊いたところ、スプリントという骨折患部を固定する装具を、更にギプスで固定しているのだそうだ。
「そんで、事故、公害、害意のある攻撃……要はダメージ以外の、特に人間が原因で 負った怪我や病気を〝傷病〟、それらを癒すための行為を〝治療〟と呼ぶ。野生ポケモンだったら、治療後に野生に帰れるようになるまで、ジョーイさんたちと協力して世話をする。他にも、生まれつき、もしくは何らかの理由で病気になった手持ちポケモンを治療したり。飛行機とか船の中とか、医療設備がねえとこで傷病を負ったポケモンがいたら手当てしたり。そういうのを生業にしてんのが、俺たちポケモンドクターだ」
ホウヤは真剣な、それでいてどこか誇らしげな口調で語りながら、慈しむように写真の中のポケモンたちに指を滑らせる。どうか健やかに生きて欲しい、と願うように。
「せっかくポケモンと支え合って暮らしてんだ。人間が迷惑かけちまってるとこは、少しでもどうにかしてやりてえだろ。……つっても、大人しく治療させてくれねえ患者も多いけどな。痛い思いしてんだから当然だ。イワンコみてえに小せえのでも暴れられると一苦労なのに、キテルグマとかリザードンとかが相手だと命懸けだ」
そう言いつつ本を閉じて元の位置に戻すホウヤの腕をじっと見つめる。アローラ人らしい程よく日に焼けた腕には、引っかき傷や咬傷などの細かい傷が随分刻まれている。父がしょっちょう生傷をこしらえているのは知っていたが、改めて見てみると思っていたよりずっと多かった。ギナたちの腕にはあまり傷は見られないけれど、これも人間とポケモンの自然治癒能力の差なのだろうか。
人間とポケモンの差、といえば。不意に以前父から教わったことを思い出す。人間の肉体はポケモンに比べて遥かに脆弱で、例えばコラッタのかみつく、ロコンのこおりのつぶてのような比較的威力の低いわざでも、人間が喰らえば大怪我になりかねない。当たり所が悪ければ死ぬことだってある、という話だった。ただ噛まれるのと、わざを使われるのでは、威力も脅威も全く違うのだと。
町でよく見かける小さくて可愛らしいポケモンですらそうなのだ。それこそキテルグマやリザードンのように、体が大きく力も強いポケモンだったら、殴られたり噛まれたりするだけで重症だ。いいや、それどころか、死んでしまってもおかしくない。……歯が鳴る。息が苦しい。頭がぐらぐらする。
思わず父の右腕にぎゅっとしがみつく。へそ付近に位置していた父の右手が、ぽん、ぽん、と赤ん坊を寝かしつけるようなゆったりしたリズムで動いた。少し呼吸が楽になる。
そこでもう1つ思い出した。〝死〟とは怖いものである、と。
「……こわく、ねえの?」
「怖えよ。死ぬのも、殺されるのも、ポケモンに殺しをさせちまうのも、めちゃくちゃ怖え」
口を衝いて出た言葉に対する答えは、即答だった。死ぬのは怖い。殺されたら死んでしまうから怖い。ここまではルヒカもぼんやりと理解しているが、3つめはピンと来ない。それが顔に出ていたのだろう、父は数拍置いて、絞り出すような声で呟いた。
「……人間を殺したポケモンは、野生だろうと手持ちだろうと、殺処分を下される場合もあるんだ。人間の味を覚えた野生なら、尚更」
サツショブン、という聞き慣れない単語が混じっていたけれど、父の沈鬱な声や文脈からきっと良くないことなのだろうと察しが着いたし、何となく今は意味を尋ねることも憚られた。気になるならあとで辞書を引けばいい。
「殺意があろうとなかろうと、ポケモンはみんな人間なんて簡単に殺せる力を持ってるし、人間だってポケモンを殺す手段を持ってる」
ルヒカは自分を抱える右腕に力が込もったような気がして、ホウヤを見上げた。父の青に自分の淡い金色が映っている。海の中に月があるみたいだ。
「ポケモンドクターは助けるだけじゃない。殺されない、殺させない、死なないことも必要だ。少なくとも俺はそう考えてる。死んだら誰も助けられねえから」
父の話は難しくて半分も理解できなかった。それは自分が幼いからか、医療や命に携わることの重要性や難儀さ故なのかはわからない。けれど、わからないなりにどうにか咀嚼しようとしかめっ面をしていたら、ホウヤの空いていた左手が伸びてきて、ぎゅっと眉間を摘まれた。
「今はまだわからなくていい。お前が本気でポケモンドクターを目指すことになったら、また改めて教えてやる」
今までのシリアスな顔と一転し、悪戯小僧のようにニヤッと笑った父に前髪をぐしゃぐしゃにされる。少々乱暴なこの撫で方は、少年が最も慣れ親しんだものだった。彼を震えさせていた「何か」は、いつの間にかどこかへ逃げて行ったようだ。
しばらく父子でじゃれ合っているうちに、ふと芽生えた疑問を口にする。
「父ちゃんさ、なんでポケモンドクターになったんだ?」
「ガキの頃に海に落ちて溺死しかけた時、ポケモンに助けて貰ったのがきっかけだな。家族でも仲間でも、ましてや同種ですらねえ俺を、あいつは助けてくれた。ポケモンに救われた命でポケモンたちに恩返ししたい、今度は俺があいつらの生きる助けになりたい、ってな。ついでに、せっかく助けて貰ったんだから自分の命も大事にしよう、って考えるようになった」
すっかり冷めてしまったロズレイティーで口を湿らせ、ホウヤは20年以上前の記憶を言葉でなぞっていく。忘れもしない、9歳の夏。あの日の海の色と助けてくれたポケモンの姿は、今でもはっきり覚えている。
なあ、元気にしてるか。俺はお前のお陰で、医者にも旦那にも父親にもなれたよ。息子の乳幼児特有のもちもちほっぺたを指でむにむにしながら、胸の内で恩人に語りかける。
「あとはまあ、単純な話。ポケモンが好きなんだよ。好きだから助けてえし、生きて欲しい。その気持ちがあるから、俺は医者を続けてられんだろうな」
その時父が浮かべた笑顔は、アローラ地方に燦々と降り注ぐ陽射しのようだった。素の表情が仏頂面なだけで案外笑う人なのだ、と言っていたのは母だったか。
自分はどうなのだろう。好きか嫌いかと言われれば好きだけれど。今はそれよりも〝知りたい〟という気持ちが強い、と思う。
「やべ、こんな時間か。もう寝ろ」
壁に掛けられている時計の短針はとうに11を通り過ぎていた。ホウヤがルヒカを膝から下ろした時、コンコン、とドアを叩く音がする。
「ホウヤ、今いい?ジンジャーさんのヤングースのことなんだけど」
聞こえたのは涼やかな女性の声だった。途端に慌ててベッドに隠れようとしたルヒカをとっ捕まえ、「おう」と答える。
扉の向こうから現れたのは、ルヒカと同じ色の髪と瞳を持つ華奢な女性だった。顔立ちもよく似ており、まるでルヒカを女にしてそのまま成長させたかのような容姿である。彼女は少年の母であり、名をサニアといった。サニアは息子を見つけるや否や細い眉を吊り上げる。
「ちょっとルヒカ、まだ起きてたの?」
咎めるような彼女の視線から父子揃って目を逸らし、同じように口を尖らせた。
「今寝かせるとこだったんだよ」
「ひるねいっぱいしたから眠くねえんだもん」
まったくもう、と言わんばかりの溜め息を零し、抱えていたカルテを挟んだクリップボードをホウヤに手渡す。
「これに目を通しておいて。この子寝かせてくるわ」
「いいよ、もうひとりでねれるし」
「駄目。そう言ってこの前、朝まで本読んでたじゃない。今日はちゃんと寝入るまで見張ってるから」
抵抗を試みるもあっさり打ち砕かれ、父と「おやすみ」を交わし合ってから、母に連れられ部屋を出た。真向かいの自室に戻り、枕元に本が積まれているベッドに潜り込む。母はテーブルランプを点け、「こんな所まで似なくていいのに」と苦笑しながら、本の山をベッドサイドテーブルの上に移動させていく。
ルヒカは目を閉じてメリープを数え始めるが、眠気は一向にやってこず、20も数えないうちに瞼を持ち上げた。
「母ちゃん」
「なに?」
先程父に投げかけた時と同じように「どうしてポケモンドクターになったのか」と尋ねた。振り向いた母は大きく目を見開き、眉を寄せて視線を落とす。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「……助けられなかった子がいるの。私だけが助かってしまった」
ぽつり。沈黙の後、独り言のような言葉が母の口から零れ落ちた。自分と同じ蜂蜜色の瞳に、暗い影が宿っている。昏い炎が揺らめいている。
「だから、できるだけ多くの命を助けたい。この命に替えても。……前はそんな風に考えていたから、随分無茶をしたわ。自分の身を顧みず、それが私を大切にしてくれるひとたちにどんな思いをさせるかなんて考えもせず……ただ我武者羅に、命を救おうと躍起になっていた。そのせいで……仲間がひとり、去ってしまった。もっと早く気付けばよかった」
膝をついて両手を組み、目を伏せたままぽつぽつと語る母の姿は全く知らない人間に見えて、背筋に冷たいものが走る。懺悔。不意にそんな文字が脳裏を過った。あれは何て読むんだっけ。どんな意味を持っていたっけ。
「そんな私を、ホウヤが……お父さんが変えてくれたの。あの人のお陰で変われた、とも言えるわね」
締め括るようにそう言った母は、花が咲いたような笑みを浮かべた。陰っていた瞳が光を取り戻す。よかった、いつもの母ちゃんだ。
母は鼓動を確かめるようにルヒカの左胸に耳を寄せ、育ち盛りの細い首から頬にかけてをするりと撫でる。それから、どくどく脈打つ心臓に言い聞かせるように囁いた。
「ルヒカ。命を大切にするのは素敵なことよ。でも、みんなの命と同じくらい、自分の命も大切にして」
母の言葉も、やっぱり難しくてよくわからない。それを言うと、「今はまだわからなくてもいいから、覚えておいて」と微笑まれた。何だか煙に巻かれたような気がする。
「寝かせに来たのに長話してたら意味がないわね。さ、もう寝なさい」
身を起こした母は苦笑いを1つ零すと、明かりを消してゆるやかに口を開いた。
歩き続けて どこまでゆくの?
風にたずねられて 空を見る
歩き続けて どこまでゆこうか
風といっしょにまた 歩きだそう
母の唇から紡がれる穏やかな旋律が、優しく鼓膜を揺らす。アローラから遠く離れた母の故郷でよく歌われる歌らしい。赤ん坊の頃から子守唄代わりに何度も聞かせてもらったから、すっかり耳に馴染んでいる。徐々に瞼が重くなり、意識も曖昧になっていく。
「おやすみなさい。いい夢を」
額にやわらかな温もりが触れる。
ゆっくり水中に沈んでいくように、少年は眠りに落ちた。
「なんだ」
「今日のツツケラ……ツツケラだけじゃなくて、うちにくるポケモンたち。ポケモンセンターで回復できねえの?」
口にした瞬間、一度大きく見開かれた父の眼差しがみるみる鋭くなっていく。いつものように些細な質問のつもりだった少年は戸惑う。コトン、と机にマグカップを置く音がやけに部屋に響いた。
険しい顔のままの父に手招きされ、床の物を踏まないように気をつけながらおずおずと歩み寄れば、抱き上げられて膝の上に乗せられた。
「ルヒカ、覚えとけ。ダメージと傷病、回復と治療は別物だ」
そう言いながら、ホウヤは机の上に積み重ねられていたもののうちから紺色の表紙の本を引っ張り出し、全体の4分の1程のページを開いた。左右のページにそれぞれポケモンの写真が載っており、その下に細かい文字がびっしり書かれている。タイトルも内容も見慣れない単語ばかり並んでいて、ちんぷんかんぷんだ。ホウヤは右手でルヒカを抱え直すと、左手で右ページの写真を示し、徐に口を開いた。
「ダメージはざっくり言えば、肉体への負荷とか疲労みたいなもんだ。激しい運動すると疲れて体が重くなるのに近い。公式戦でも草試合でも、バトルは殺し合いじゃねえ。双方のトレーナーとポケモンがそう認識してるからこそ、ポケモンは戦闘不能やダメージを受ける程度で済んでるし、ポケモンセンターやキズぐすりで回復できる」
写真の中の、あちこち擦り傷だらけで目を回している、大きな耳に水色と黒の体を持つ小さな四足獣を観察する。言われてみれば、激務を終えて自室に戻る体力すらなく、リビングのソファでぶっ倒れている時の父に似ていた。初めて見るこのポケモンの名前を尋ねると、〝コリンク〟というらしい。でんきタイプで、主にシンオウ地方に生息しているのだとか。
「……まあ、ダメージだって回復せずに放置してりゃ、死に至る場合もあるけどな。ダメージが癒える前にバトルしまくった野生ポケモンが死にかけたり、回復させないままバトルに出した手持ちポケモンのダメージが悪化して、傷病の原因になったり。それから、さっきバトルは殺し合いじゃねえって言ったけど。両方、或いはどちらかの目的が、バトルや捕獲以外……例えば相手をただ痛めつけることだったら、わざを食らった側が負うのは、ダメージじゃなくて怪我だ」
父の声のトーンが一段低くなった。表情を伺おうと上げかけた視線は、ホウヤの左手が左ページに移動したのでそちらに移す。茶色い体に尖った耳、ふさふさした首元と大きな尻尾を持つ獣。こちらは知っている。イーブイだ。右前足がぶ厚い布のようなものに覆われている。後で訊いたところ、スプリントという骨折患部を固定する装具を、更にギプスで固定しているのだそうだ。
「そんで、事故、公害、害意のある攻撃……要はダメージ以外の、特に
ホウヤは真剣な、それでいてどこか誇らしげな口調で語りながら、慈しむように写真の中のポケモンたちに指を滑らせる。どうか健やかに生きて欲しい、と願うように。
「せっかくポケモンと支え合って暮らしてんだ。人間が迷惑かけちまってるとこは、少しでもどうにかしてやりてえだろ。……つっても、大人しく治療させてくれねえ患者も多いけどな。痛い思いしてんだから当然だ。イワンコみてえに小せえのでも暴れられると一苦労なのに、キテルグマとかリザードンとかが相手だと命懸けだ」
そう言いつつ本を閉じて元の位置に戻すホウヤの腕をじっと見つめる。アローラ人らしい程よく日に焼けた腕には、引っかき傷や咬傷などの細かい傷が随分刻まれている。父がしょっちょう生傷をこしらえているのは知っていたが、改めて見てみると思っていたよりずっと多かった。ギナたちの腕にはあまり傷は見られないけれど、これも人間とポケモンの自然治癒能力の差なのだろうか。
人間とポケモンの差、といえば。不意に以前父から教わったことを思い出す。人間の肉体はポケモンに比べて遥かに脆弱で、例えばコラッタのかみつく、ロコンのこおりのつぶてのような比較的威力の低いわざでも、人間が喰らえば大怪我になりかねない。当たり所が悪ければ死ぬことだってある、という話だった。ただ噛まれるのと、わざを使われるのでは、威力も脅威も全く違うのだと。
町でよく見かける小さくて可愛らしいポケモンですらそうなのだ。それこそキテルグマやリザードンのように、体が大きく力も強いポケモンだったら、殴られたり噛まれたりするだけで重症だ。いいや、それどころか、死んでしまってもおかしくない。……歯が鳴る。息が苦しい。頭がぐらぐらする。
思わず父の右腕にぎゅっとしがみつく。へそ付近に位置していた父の右手が、ぽん、ぽん、と赤ん坊を寝かしつけるようなゆったりしたリズムで動いた。少し呼吸が楽になる。
そこでもう1つ思い出した。〝死〟とは怖いものである、と。
「……こわく、ねえの?」
「怖えよ。死ぬのも、殺されるのも、ポケモンに殺しをさせちまうのも、めちゃくちゃ怖え」
口を衝いて出た言葉に対する答えは、即答だった。死ぬのは怖い。殺されたら死んでしまうから怖い。ここまではルヒカもぼんやりと理解しているが、3つめはピンと来ない。それが顔に出ていたのだろう、父は数拍置いて、絞り出すような声で呟いた。
「……人間を殺したポケモンは、野生だろうと手持ちだろうと、殺処分を下される場合もあるんだ。人間の味を覚えた野生なら、尚更」
サツショブン、という聞き慣れない単語が混じっていたけれど、父の沈鬱な声や文脈からきっと良くないことなのだろうと察しが着いたし、何となく今は意味を尋ねることも憚られた。気になるならあとで辞書を引けばいい。
「殺意があろうとなかろうと、ポケモンはみんな人間なんて簡単に殺せる力を持ってるし、人間だってポケモンを殺す手段を持ってる」
ルヒカは自分を抱える右腕に力が込もったような気がして、ホウヤを見上げた。父の青に自分の淡い金色が映っている。海の中に月があるみたいだ。
「ポケモンドクターは助けるだけじゃない。殺されない、殺させない、死なないことも必要だ。少なくとも俺はそう考えてる。死んだら誰も助けられねえから」
父の話は難しくて半分も理解できなかった。それは自分が幼いからか、医療や命に携わることの重要性や難儀さ故なのかはわからない。けれど、わからないなりにどうにか咀嚼しようとしかめっ面をしていたら、ホウヤの空いていた左手が伸びてきて、ぎゅっと眉間を摘まれた。
「今はまだわからなくていい。お前が本気でポケモンドクターを目指すことになったら、また改めて教えてやる」
今までのシリアスな顔と一転し、悪戯小僧のようにニヤッと笑った父に前髪をぐしゃぐしゃにされる。少々乱暴なこの撫で方は、少年が最も慣れ親しんだものだった。彼を震えさせていた「何か」は、いつの間にかどこかへ逃げて行ったようだ。
しばらく父子でじゃれ合っているうちに、ふと芽生えた疑問を口にする。
「父ちゃんさ、なんでポケモンドクターになったんだ?」
「ガキの頃に海に落ちて溺死しかけた時、ポケモンに助けて貰ったのがきっかけだな。家族でも仲間でも、ましてや同種ですらねえ俺を、あいつは助けてくれた。ポケモンに救われた命でポケモンたちに恩返ししたい、今度は俺があいつらの生きる助けになりたい、ってな。ついでに、せっかく助けて貰ったんだから自分の命も大事にしよう、って考えるようになった」
すっかり冷めてしまったロズレイティーで口を湿らせ、ホウヤは20年以上前の記憶を言葉でなぞっていく。忘れもしない、9歳の夏。あの日の海の色と助けてくれたポケモンの姿は、今でもはっきり覚えている。
なあ、元気にしてるか。俺はお前のお陰で、医者にも旦那にも父親にもなれたよ。息子の乳幼児特有のもちもちほっぺたを指でむにむにしながら、胸の内で恩人に語りかける。
「あとはまあ、単純な話。ポケモンが好きなんだよ。好きだから助けてえし、生きて欲しい。その気持ちがあるから、俺は医者を続けてられんだろうな」
その時父が浮かべた笑顔は、アローラ地方に燦々と降り注ぐ陽射しのようだった。素の表情が仏頂面なだけで案外笑う人なのだ、と言っていたのは母だったか。
自分はどうなのだろう。好きか嫌いかと言われれば好きだけれど。今はそれよりも〝知りたい〟という気持ちが強い、と思う。
「やべ、こんな時間か。もう寝ろ」
壁に掛けられている時計の短針はとうに11を通り過ぎていた。ホウヤがルヒカを膝から下ろした時、コンコン、とドアを叩く音がする。
「ホウヤ、今いい?ジンジャーさんのヤングースのことなんだけど」
聞こえたのは涼やかな女性の声だった。途端に慌ててベッドに隠れようとしたルヒカをとっ捕まえ、「おう」と答える。
扉の向こうから現れたのは、ルヒカと同じ色の髪と瞳を持つ華奢な女性だった。顔立ちもよく似ており、まるでルヒカを女にしてそのまま成長させたかのような容姿である。彼女は少年の母であり、名をサニアといった。サニアは息子を見つけるや否や細い眉を吊り上げる。
「ちょっとルヒカ、まだ起きてたの?」
咎めるような彼女の視線から父子揃って目を逸らし、同じように口を尖らせた。
「今寝かせるとこだったんだよ」
「ひるねいっぱいしたから眠くねえんだもん」
まったくもう、と言わんばかりの溜め息を零し、抱えていたカルテを挟んだクリップボードをホウヤに手渡す。
「これに目を通しておいて。この子寝かせてくるわ」
「いいよ、もうひとりでねれるし」
「駄目。そう言ってこの前、朝まで本読んでたじゃない。今日はちゃんと寝入るまで見張ってるから」
抵抗を試みるもあっさり打ち砕かれ、父と「おやすみ」を交わし合ってから、母に連れられ部屋を出た。真向かいの自室に戻り、枕元に本が積まれているベッドに潜り込む。母はテーブルランプを点け、「こんな所まで似なくていいのに」と苦笑しながら、本の山をベッドサイドテーブルの上に移動させていく。
ルヒカは目を閉じてメリープを数え始めるが、眠気は一向にやってこず、20も数えないうちに瞼を持ち上げた。
「母ちゃん」
「なに?」
先程父に投げかけた時と同じように「どうしてポケモンドクターになったのか」と尋ねた。振り向いた母は大きく目を見開き、眉を寄せて視線を落とす。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「……助けられなかった子がいるの。私だけが助かってしまった」
ぽつり。沈黙の後、独り言のような言葉が母の口から零れ落ちた。自分と同じ蜂蜜色の瞳に、暗い影が宿っている。昏い炎が揺らめいている。
「だから、できるだけ多くの命を助けたい。この命に替えても。……前はそんな風に考えていたから、随分無茶をしたわ。自分の身を顧みず、それが私を大切にしてくれるひとたちにどんな思いをさせるかなんて考えもせず……ただ我武者羅に、命を救おうと躍起になっていた。そのせいで……仲間がひとり、去ってしまった。もっと早く気付けばよかった」
膝をついて両手を組み、目を伏せたままぽつぽつと語る母の姿は全く知らない人間に見えて、背筋に冷たいものが走る。懺悔。不意にそんな文字が脳裏を過った。あれは何て読むんだっけ。どんな意味を持っていたっけ。
「そんな私を、ホウヤが……お父さんが変えてくれたの。あの人のお陰で変われた、とも言えるわね」
締め括るようにそう言った母は、花が咲いたような笑みを浮かべた。陰っていた瞳が光を取り戻す。よかった、いつもの母ちゃんだ。
母は鼓動を確かめるようにルヒカの左胸に耳を寄せ、育ち盛りの細い首から頬にかけてをするりと撫でる。それから、どくどく脈打つ心臓に言い聞かせるように囁いた。
「ルヒカ。命を大切にするのは素敵なことよ。でも、みんなの命と同じくらい、自分の命も大切にして」
母の言葉も、やっぱり難しくてよくわからない。それを言うと、「今はまだわからなくてもいいから、覚えておいて」と微笑まれた。何だか煙に巻かれたような気がする。
「寝かせに来たのに長話してたら意味がないわね。さ、もう寝なさい」
身を起こした母は苦笑いを1つ零すと、明かりを消してゆるやかに口を開いた。
歩き続けて どこまでゆくの?
風にたずねられて 空を見る
歩き続けて どこまでゆこうか
風といっしょにまた 歩きだそう
母の唇から紡がれる穏やかな旋律が、優しく鼓膜を揺らす。アローラから遠く離れた母の故郷でよく歌われる歌らしい。赤ん坊の頃から子守唄代わりに何度も聞かせてもらったから、すっかり耳に馴染んでいる。徐々に瞼が重くなり、意識も曖昧になっていく。
「おやすみなさい。いい夢を」
額にやわらかな温もりが触れる。
ゆっくり水中に沈んでいくように、少年は眠りに落ちた。