トリカブトと手を繋ぐ
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
なんとなく寒さを感じて重い瞼をゆっくり持ち上げた。ぼんやりした視界は真っ暗だ。静まり返った部屋の中、時計のコチコチ動く音だけが小さく響いている。まだ夜中かな。
寝る直前にあんな話をされて寝付けなくなるかと思いきや、体は正直なもので、毛布にくるまって3秒で寝落ちした。自分で思ってる以上に疲れたのかもしれない。おっさんも今日はいつもより沢山話してたし、最後は内容が内容だったから、俺たちより先に寝息を立て始めていた。
もぞもぞ毛布を引っ張りげようとすれば――隣がぽっかり空いていた。ベトベターがいない。半分寝たままだった脳が一気に覚醒する。
急いでソファから滑り降りる。耳をそばだてておっさんがぐっすり寝てることを確認したら、抜き足差し足でドアへ向かった。
音を立てないようにそーっとドアを開ける。廊下に顔を出すと、すぐ目の前に何か大きなものがうずくまっていた。思わず悲鳴を上げそうになった口を慌てて押さえる。よくよく目を凝らせば……ベトベターだ。ここにいたのか。ビビらすなよ、もう。
戻ろう、と声をかけようして、再び口を噤む。ベトベターの抱えた膝の隙間から小さな啜り泣きが聞こえた。
きゅっと拳を握りしめる。こいつがどれだけつらいのか、苦しいのか、俺には全然わからない。わかってやれない。……でも、こんなとこで、ひとりで泣かなくてもいいのに。
声を殺して泣くベトベターの隣に腰を下ろした。そっと頭をもたれかければ、布越しに震えが伝わってくる。俺は何にもできないけど、ただ、こいつをひとりにしたくなかった。
「……悪ィ。冷えたろ」
いつの間にか嗚咽は聞こえなくなり、代わりにちょっと掠れた声が鼓膜を揺らした。「ううん、平気」と首を振る。ゆっくり顔を持ち上げたベトベターの目元はやっぱり赤く腫れていて、ぎゅっと喉が詰まる。
「あ、あの、さ」
「ん?」
思わず声をかけたけど、錆びて固くなった蛇口みたいに続きが出てこない。「……やっぱり、何でもない」と言えば「なんだそりゃ」と小さく笑った。それから、くしゅんと小さなくしゃみを零す。お前こそ冷えてるじゃん、早く戻ろう。
来た時と同じようにそろりそろりとソファへ向かう。おっさんは相変わらず寝息を立てていて、ふたりで胸を撫で下ろした。毛布にくるまったらなんだかほっとして、どんどん瞼が重たくなっていく。
「……がとな、ルヒカ」
微睡みでふやけていく意識の中、微かにあいつの声が聞こえたような気がした。
☆
次の日もそのまた次の日も、だいたい初日と同じように過ごした。おっさんが起きてる時は昔話を聞かせてもらって、寝てる間はベトベターとふたりで駄弁ったりじゃれたり本を眺めたり。
始業前や昼休み、仕事終わりはいろんな社員さんやベトベトンたちが代わる代わる顔を出し、おっさんと言葉を交わした。他愛のないことを笑いながら、あるいは、これまでのことを涙まじりに訥々と。後者の場合はそっと部屋を抜け出して、そのひとが出てくるまで廊下で待った。
夜になってギナが来たら、約束通り若い頃のおっさんのことを教えてもらう。失敗談とか若気の至りとかを嬉々としてバラすものだから、へそを曲げたおっさんがふて寝したこともあった。ベトベターが笑い過ぎたのも大きいかもしれない。
そのついでに、母ちゃんは父ちゃんとの出会いがきっかけで無茶な自己犠牲行動を改めたとも聞いて、ほっと一安心。そういえば前に〝父ちゃんのお陰で変われた〟って言ってたっけ。
おっさんは母ちゃんやゴーシュと会うつもりはないらしい。とっくに死んだと思ってるだろうから、って。おっさんの病気のことはギナしか知らないんだし、そんなことねえと思うけどな。ギナにこっそりそう零したら、「自分の弱っているところを見せたくないんだよ」と微笑まれた。そっちはよくわからなかったけど、もう1つの「……二度も彼を失う痛みを味わう必要はないさ」の方は、なんとなくわかるような、わからないような。
時間は穏やかに、けれど確実に過ぎていく。おっさんは少しずつ眠っている時間が長くなっていった。
ベトベターは相変わらず明るく振舞ってるけど、夜中とか誰かが会いに来てる時とかに時々こっそり抜け出して、誰もいない廊下の隅や建物の陰でひっそり泣いていた。初日の大号泣以来、こいつは絶対におっさんの前で涙を見せない。探し当てた緑色にもたれかかりながら、ギナが言ってた〝自分の弱っているところを見せたくない〟ってこういうことかな、とぼんやり考える。
軽々しく「元気出せよ」なんて言えるわけがないけど。また、前みたいに普通に笑ってるとこ、見てえな。
☆
――今日で、10日目。
おっさんは2日前からずっと眠り続けていて、ベトベターはその手を握り、片時も側を離れなかった。
ギナも昨日の夜から帰らずに一緒に居てくれている。安心する反面、いよいよその時がすぐそこに迫っているのを肌で感じて、肺が苦しくてたまらない。叫び出したいくらいの恐怖がじわじわ足元から這い寄ってくる。ぎゅうっとギナにしがみつけば、そっと背中を撫でてくれた。
夜が明ける前に社長さん夫婦とベトベトンがやってきて、日が昇ってからも他の社員さんやポケモンたちがぞくぞくと集まってくる。狭い仮眠室にみんなでぎゅうぎゅうになりながら、ベッドの上で固く目を閉じたままのおっさんを見守った。
コチ、コチ、コチ。働き者の秒針の足音だけが部屋を満たしていく。
「……ひでェツラだな」
不意に聞こえたその声に、みんながバッと顔を上げた。瞼の間から覗いた黒曜石は一度小さく細められ、一番近くの青に向けられる。
「なァ。俺ァよ……ほんとはずっと、死にたかったんだ」
穏やかな声が鼓膜を揺らす。ベトベターに握られた褐色の左手がゆっくりゆっくり持ち上がって、落っこちそうなくらい目を見開いたベトベターの顔へ少しずつ近付いていく。
「あいつは死んだのに俺は生きてて。約束だって守れなかった。だから、病気ンなって、やっと会いに行けるって、とっとと野垂れ死ぬつもりだったのに……何でかテメェを拾っちまって。だらだら過ごすうちに、うっかり生き延びて……いや、テメェがいたから、今日まで生きられたんだろうな。後悔だらけの生涯だが……テメェとの時間は悪くなかったぜ、どら息子」
するり、手の甲が頬を撫でる。その上を青から溢れた大粒の涙が伝っていった。ぼろぼろとめどなく零れる涙を拭いもせず、両手で包んだ左手を力いっぱい握って叫んだ。
「おれ、だって……親父がいたから……ッ!!親父と一緒だったから、笑って生きてこれたんだ!!」
「……親父、か。はは、いい響きだなァ……」
ぼやけて滲んだ視界の中でおっさんの唇が緩く弧を描く。ただ見ているだけなのに、全部の臓器が潰れて破裂しそうなくらい苦しい、痛い、苦しい。気付けば俺も手を伸ばし、ベトベターの両手ごとおっさんの手を握りしめていた。
「――社長。ギナ。ルヒカ。それから……どら息子」
ひとりひとりの顔を見て、ひとりひとりの名前を呼ぶ。安らかな微笑みを浮かべた口から優しい声が零れていく。
「楽し、かった。精々……長生き……しやが、れ……」
ゆっくりと、黒曜石が閉じられた。瞼も、左手も、もう動かない。
ぱた、ぱたぱた。重ねた手の上に熱い雫が幾つも降ってくる。ずっと声を殺して泣いていたベトベターは、喉が引き裂けそうなくらい、大きく大きく泣き叫んだ。
☆
はずれの岬の海べりで今日も今日とて海を眺める奴がいる。石にでもなったみたいに、膝を抱えた姿勢のままメレメレ島の方角をずっと見つめていた。何日も、何日も。
あれから。おっさん本人の希望で葬儀は行わずに火葬だけ行った。俺たちが泣いている間、大人たちで諸々の手続きを済ませたらしい。
仮眠室のベッドで3日間安置されて、どこかへ運ばれて行ったかと思ったら、小さな壺になって戻ってきた。かつてあのひとだったものを、ベトベター・ギナ・社長さん・社長さんのベトベトンで拾い集め、これに収めたそうだ。それを同じメンツがハウオリ霊園へ納骨しに行くのを港から見送ったのが1週間前。……あいつはメレメレ島から帰ってきて以来、ずっとあの場所でああしている。
あんなに食べることが好きだったのに、もう半月近く何も口にしていない。社長さんや先輩たちからの差し入れは置かれた場所に放置されたままだ。くるくる変わった表情は暗く沈み、よく動いた口は固く引き結ばれている。
悲しみに打ちひしがれたその姿は、見ているだけで全身を棘だらけの茨に締めつけられたような痛みが走る。何も言えないまま何度踵を返しただろう。でも、今日は、今日こそ。バクバクうるさい心臓を落ち着かせるため、ズボンの上から右ポケットをそっと撫でる。
さく、さく、ゆっくり草を踏み、あいつの隣に並んだ。太陽の光を反射してきらきら輝く水面が眩しくて少しだけ目を細める。こっそり深呼吸してそっと口を開いた。
「お前、これからどうするんだ」
「……わかんねェ」
返事が返ってきたことに驚いたけど、それ以上に、最後に耳にした時よりずっと弱々しい声にぎゅっと息が詰まった。ベトベターは虚ろな眼差しを海に向けたまま、ぽつぽつと言葉を零していく。
「バトルも、リサイクルプラントの仕事も、他のことも……親父が教えてくれるから楽しかったし、好きになったんだ。褒めて欲しくて、認めて欲しくて、頑張った。親父と一緒にいられれば、親父さえいてくれたら……何だって、よかったのに。……もう、自分が何すりゃいいのか、何がしてェのか、わかんねェよ」
ぽろ、と青い左目から雫が転がり落ちた。左からまた1つ、右からも1つ2つ。それを見て――何かがぷつんと切れた。あいつの正面に回り込み、右ポケットに入れていたものをずいっと突きつける。
「なあ。お前、俺のポケモンにならないか」
「……は?」
俺の右手に握られているのは、ぴかぴかのモンスターボール。ベトベターは間の抜けた声と共にぽかんと口を開けた。足が震えるのも構わずに早口でまくし立てる。
「ほんとは11歳になってから言うつもりだったんだ。でももう待てない。一緒に行こう。一緒にいろんなとこ行って、見て、触れて、いろんなことしよう。お前がしたいことも一緒に探そう。そしたら、いつかきっと、楽しくなるから……絶対、楽しいって思えるようにしてみせるから……!……俺と一緒に、生きよう」
最後の、一番伝えたい言葉だけはゆっくり吐き出した。左手を伸ばしてそっとベトベターの頬に触れる。白の真ん中に青を浮かべた瞳はまん丸に見開かれている。……言いたいことは全部言った。あとは、こいつ次第。
ギザギザの歯が覗く開けっ放しの口から、小さな音が零れ落ちる。
「……バカじゃねェの」
「俺も、そう思う」
「バッカじゃ、ねェの……」
初めて会った日と同じことを言ったあいつは、再びぽろぽろ雫を落とし始めた。こつんと額が重ねられる。
「俺なんかで、いいのかよ」
「お前がいいんだよ。お前じゃなきゃいやだ」
「へへ、そっかァ。俺も、さ……お前が手持ちにしてくれたらいいなって、思ってたんだ」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだけど、久しぶりに見た晴れやかな笑顔に胸の内であたたかいものが広がっていく。――ああ、笑ってくれた。
ちょっぴり目から滲んだ熱を指で拭い、鮮やかな青を覗き込む。
「……あのな。お前の名前、考えてたんだ」
「名前……?俺に?くれんの?」
「うん。トリカブトっていう猛毒の植物があってさ。だけど根っこは強心剤とか鎮痛剤とか、要は薬として使われてもいるんだ」
毒は、健康や生命を害するもの。ためにならないもの。わざわいになるもの。でも、使い方によっては誰かを助けて癒す薬にもなる。自分も誰かも、両方大事にしていけるように。俺の祈りとこいつの誓い、あのひとの願いを全部乗せて。
「その薬は――烏頭 。これが、お前の名前だ」
「ウヅ……」
ぽつんとそう呟いたきり、黙りこくってしまった。……もしかして気に入らなかった?一瞬過った不安はすぐに杞憂に終わる。
「……いいな。すごく、いい。今この瞬間から、俺はお前のウヅだ」
溢れんばかりの喜びを湛えた顔にやわらかな白い三日月が浮かんだ。つられてこっちの頬も緩む。
本来の姿に戻ったベトベター改めウヅは、腕を伸ばしてボールの真ん中を押した。緑の体が赤い光に包まれ、吸い込まれていく。
ころ、ころ、ころん。揺れが止まったボールをそっと拾って両手に乗せた。俺、こいつとパートナーになったんだ。その事実を噛みしめた瞬間、ぶわっと溢れた熱が全身を駆け抜けていく。
「よろしくな、ウヅ!」
ゆるゆるに緩みきった頬を摺り寄せれば、手の中のボールは返事をするようにカタリと揺れた。
☆
めでたく俺のパートナーとなったウヅは、今まで住んでいた洞穴から引っ越して、我が家で暮らすことになった。部屋は俺の隣。父ちゃんたちは快く迎えてくれて、社長さんたちも笑顔で送り出してくれた。
といっても旅に出るのはもう少し先だから、リサイクルプラントの勤務は続けるんだけど。社長さんと話した結果、そういうことになったらしい。勤務時間はちょっと変わるみたいだけど、休んだ分いっぱいう食うぞーって張り切ってた。
翌朝。珍しく早起きできたから意気揚々とドアを開ければ、同じタイミングで隣の部屋から緑色が現れた。なんとなくくすぐったくて小さく笑い合う。
「おはよ。よく寝れたか?」
「おはよォさん。ばっちり寝れたぜ、ダーリン」
「おい待て何だその呼び方」
へらりと笑ったウヅの口から飛び出したワードに速攻ツッコミを入れる。ウヅはよくぞ聞いてくれました!とばかりに朗々と語りだす。
「俺さんたち、昨日晴れてトレーナーとパートナーになったろォ? 折角だから呼び方もそれっぽくしようと思って」
「だからってもっと他にあるだろ。誰に聞いた?」
「ギナさん。面白ェ反応返ってきそうなやつがいいっつったら、〝ダーリンはどうだい?〟って」
「やっぱあいつか……」
バンビだのダーリンだの、ペットネームで呼ばれるの、こっ恥ずかしくてあんまり好きじゃねえんだけどな。あの野郎、絶対わかってて吹き込んだだろ。面白がりやがって。
深いため息と一緒に「まあいいよ。好きに呼べ」と吐き出せば「やっりィ!」とじゃれついてくる。
「サンキュー、ダーリン!」
「連呼すんな気持ち悪ぃ」
ふたりでじゃれ合いながら洗面所へ向かう。今日の朝メシ何かなァ、とご機嫌な横顔をこっそり見上げた。
こいつが抱えた痛みは、決して昨日今日で癒えるものではないけれど。一先ず今笑えるなら、笑ってくれるなら、それでいいや。
寝る直前にあんな話をされて寝付けなくなるかと思いきや、体は正直なもので、毛布にくるまって3秒で寝落ちした。自分で思ってる以上に疲れたのかもしれない。おっさんも今日はいつもより沢山話してたし、最後は内容が内容だったから、俺たちより先に寝息を立て始めていた。
もぞもぞ毛布を引っ張りげようとすれば――隣がぽっかり空いていた。ベトベターがいない。半分寝たままだった脳が一気に覚醒する。
急いでソファから滑り降りる。耳をそばだてておっさんがぐっすり寝てることを確認したら、抜き足差し足でドアへ向かった。
音を立てないようにそーっとドアを開ける。廊下に顔を出すと、すぐ目の前に何か大きなものがうずくまっていた。思わず悲鳴を上げそうになった口を慌てて押さえる。よくよく目を凝らせば……ベトベターだ。ここにいたのか。ビビらすなよ、もう。
戻ろう、と声をかけようして、再び口を噤む。ベトベターの抱えた膝の隙間から小さな啜り泣きが聞こえた。
きゅっと拳を握りしめる。こいつがどれだけつらいのか、苦しいのか、俺には全然わからない。わかってやれない。……でも、こんなとこで、ひとりで泣かなくてもいいのに。
声を殺して泣くベトベターの隣に腰を下ろした。そっと頭をもたれかければ、布越しに震えが伝わってくる。俺は何にもできないけど、ただ、こいつをひとりにしたくなかった。
「……悪ィ。冷えたろ」
いつの間にか嗚咽は聞こえなくなり、代わりにちょっと掠れた声が鼓膜を揺らした。「ううん、平気」と首を振る。ゆっくり顔を持ち上げたベトベターの目元はやっぱり赤く腫れていて、ぎゅっと喉が詰まる。
「あ、あの、さ」
「ん?」
思わず声をかけたけど、錆びて固くなった蛇口みたいに続きが出てこない。「……やっぱり、何でもない」と言えば「なんだそりゃ」と小さく笑った。それから、くしゅんと小さなくしゃみを零す。お前こそ冷えてるじゃん、早く戻ろう。
来た時と同じようにそろりそろりとソファへ向かう。おっさんは相変わらず寝息を立てていて、ふたりで胸を撫で下ろした。毛布にくるまったらなんだかほっとして、どんどん瞼が重たくなっていく。
「……がとな、ルヒカ」
微睡みでふやけていく意識の中、微かにあいつの声が聞こえたような気がした。
☆
次の日もそのまた次の日も、だいたい初日と同じように過ごした。おっさんが起きてる時は昔話を聞かせてもらって、寝てる間はベトベターとふたりで駄弁ったりじゃれたり本を眺めたり。
始業前や昼休み、仕事終わりはいろんな社員さんやベトベトンたちが代わる代わる顔を出し、おっさんと言葉を交わした。他愛のないことを笑いながら、あるいは、これまでのことを涙まじりに訥々と。後者の場合はそっと部屋を抜け出して、そのひとが出てくるまで廊下で待った。
夜になってギナが来たら、約束通り若い頃のおっさんのことを教えてもらう。失敗談とか若気の至りとかを嬉々としてバラすものだから、へそを曲げたおっさんがふて寝したこともあった。ベトベターが笑い過ぎたのも大きいかもしれない。
そのついでに、母ちゃんは父ちゃんとの出会いがきっかけで無茶な自己犠牲行動を改めたとも聞いて、ほっと一安心。そういえば前に〝父ちゃんのお陰で変われた〟って言ってたっけ。
おっさんは母ちゃんやゴーシュと会うつもりはないらしい。とっくに死んだと思ってるだろうから、って。おっさんの病気のことはギナしか知らないんだし、そんなことねえと思うけどな。ギナにこっそりそう零したら、「自分の弱っているところを見せたくないんだよ」と微笑まれた。そっちはよくわからなかったけど、もう1つの「……二度も彼を失う痛みを味わう必要はないさ」の方は、なんとなくわかるような、わからないような。
時間は穏やかに、けれど確実に過ぎていく。おっさんは少しずつ眠っている時間が長くなっていった。
ベトベターは相変わらず明るく振舞ってるけど、夜中とか誰かが会いに来てる時とかに時々こっそり抜け出して、誰もいない廊下の隅や建物の陰でひっそり泣いていた。初日の大号泣以来、こいつは絶対におっさんの前で涙を見せない。探し当てた緑色にもたれかかりながら、ギナが言ってた〝自分の弱っているところを見せたくない〟ってこういうことかな、とぼんやり考える。
軽々しく「元気出せよ」なんて言えるわけがないけど。また、前みたいに普通に笑ってるとこ、見てえな。
☆
――今日で、10日目。
おっさんは2日前からずっと眠り続けていて、ベトベターはその手を握り、片時も側を離れなかった。
ギナも昨日の夜から帰らずに一緒に居てくれている。安心する反面、いよいよその時がすぐそこに迫っているのを肌で感じて、肺が苦しくてたまらない。叫び出したいくらいの恐怖がじわじわ足元から這い寄ってくる。ぎゅうっとギナにしがみつけば、そっと背中を撫でてくれた。
夜が明ける前に社長さん夫婦とベトベトンがやってきて、日が昇ってからも他の社員さんやポケモンたちがぞくぞくと集まってくる。狭い仮眠室にみんなでぎゅうぎゅうになりながら、ベッドの上で固く目を閉じたままのおっさんを見守った。
コチ、コチ、コチ。働き者の秒針の足音だけが部屋を満たしていく。
「……ひでェツラだな」
不意に聞こえたその声に、みんながバッと顔を上げた。瞼の間から覗いた黒曜石は一度小さく細められ、一番近くの青に向けられる。
「なァ。俺ァよ……ほんとはずっと、死にたかったんだ」
穏やかな声が鼓膜を揺らす。ベトベターに握られた褐色の左手がゆっくりゆっくり持ち上がって、落っこちそうなくらい目を見開いたベトベターの顔へ少しずつ近付いていく。
「あいつは死んだのに俺は生きてて。約束だって守れなかった。だから、病気ンなって、やっと会いに行けるって、とっとと野垂れ死ぬつもりだったのに……何でかテメェを拾っちまって。だらだら過ごすうちに、うっかり生き延びて……いや、テメェがいたから、今日まで生きられたんだろうな。後悔だらけの生涯だが……テメェとの時間は悪くなかったぜ、どら息子」
するり、手の甲が頬を撫でる。その上を青から溢れた大粒の涙が伝っていった。ぼろぼろとめどなく零れる涙を拭いもせず、両手で包んだ左手を力いっぱい握って叫んだ。
「おれ、だって……親父がいたから……ッ!!親父と一緒だったから、笑って生きてこれたんだ!!」
「……親父、か。はは、いい響きだなァ……」
ぼやけて滲んだ視界の中でおっさんの唇が緩く弧を描く。ただ見ているだけなのに、全部の臓器が潰れて破裂しそうなくらい苦しい、痛い、苦しい。気付けば俺も手を伸ばし、ベトベターの両手ごとおっさんの手を握りしめていた。
「――社長。ギナ。ルヒカ。それから……どら息子」
ひとりひとりの顔を見て、ひとりひとりの名前を呼ぶ。安らかな微笑みを浮かべた口から優しい声が零れていく。
「楽し、かった。精々……長生き……しやが、れ……」
ゆっくりと、黒曜石が閉じられた。瞼も、左手も、もう動かない。
ぱた、ぱたぱた。重ねた手の上に熱い雫が幾つも降ってくる。ずっと声を殺して泣いていたベトベターは、喉が引き裂けそうなくらい、大きく大きく泣き叫んだ。
☆
はずれの岬の海べりで今日も今日とて海を眺める奴がいる。石にでもなったみたいに、膝を抱えた姿勢のままメレメレ島の方角をずっと見つめていた。何日も、何日も。
あれから。おっさん本人の希望で葬儀は行わずに火葬だけ行った。俺たちが泣いている間、大人たちで諸々の手続きを済ませたらしい。
仮眠室のベッドで3日間安置されて、どこかへ運ばれて行ったかと思ったら、小さな壺になって戻ってきた。かつてあのひとだったものを、ベトベター・ギナ・社長さん・社長さんのベトベトンで拾い集め、これに収めたそうだ。それを同じメンツがハウオリ霊園へ納骨しに行くのを港から見送ったのが1週間前。……あいつはメレメレ島から帰ってきて以来、ずっとあの場所でああしている。
あんなに食べることが好きだったのに、もう半月近く何も口にしていない。社長さんや先輩たちからの差し入れは置かれた場所に放置されたままだ。くるくる変わった表情は暗く沈み、よく動いた口は固く引き結ばれている。
悲しみに打ちひしがれたその姿は、見ているだけで全身を棘だらけの茨に締めつけられたような痛みが走る。何も言えないまま何度踵を返しただろう。でも、今日は、今日こそ。バクバクうるさい心臓を落ち着かせるため、ズボンの上から右ポケットをそっと撫でる。
さく、さく、ゆっくり草を踏み、あいつの隣に並んだ。太陽の光を反射してきらきら輝く水面が眩しくて少しだけ目を細める。こっそり深呼吸してそっと口を開いた。
「お前、これからどうするんだ」
「……わかんねェ」
返事が返ってきたことに驚いたけど、それ以上に、最後に耳にした時よりずっと弱々しい声にぎゅっと息が詰まった。ベトベターは虚ろな眼差しを海に向けたまま、ぽつぽつと言葉を零していく。
「バトルも、リサイクルプラントの仕事も、他のことも……親父が教えてくれるから楽しかったし、好きになったんだ。褒めて欲しくて、認めて欲しくて、頑張った。親父と一緒にいられれば、親父さえいてくれたら……何だって、よかったのに。……もう、自分が何すりゃいいのか、何がしてェのか、わかんねェよ」
ぽろ、と青い左目から雫が転がり落ちた。左からまた1つ、右からも1つ2つ。それを見て――何かがぷつんと切れた。あいつの正面に回り込み、右ポケットに入れていたものをずいっと突きつける。
「なあ。お前、俺のポケモンにならないか」
「……は?」
俺の右手に握られているのは、ぴかぴかのモンスターボール。ベトベターは間の抜けた声と共にぽかんと口を開けた。足が震えるのも構わずに早口でまくし立てる。
「ほんとは11歳になってから言うつもりだったんだ。でももう待てない。一緒に行こう。一緒にいろんなとこ行って、見て、触れて、いろんなことしよう。お前がしたいことも一緒に探そう。そしたら、いつかきっと、楽しくなるから……絶対、楽しいって思えるようにしてみせるから……!……俺と一緒に、生きよう」
最後の、一番伝えたい言葉だけはゆっくり吐き出した。左手を伸ばしてそっとベトベターの頬に触れる。白の真ん中に青を浮かべた瞳はまん丸に見開かれている。……言いたいことは全部言った。あとは、こいつ次第。
ギザギザの歯が覗く開けっ放しの口から、小さな音が零れ落ちる。
「……バカじゃねェの」
「俺も、そう思う」
「バッカじゃ、ねェの……」
初めて会った日と同じことを言ったあいつは、再びぽろぽろ雫を落とし始めた。こつんと額が重ねられる。
「俺なんかで、いいのかよ」
「お前がいいんだよ。お前じゃなきゃいやだ」
「へへ、そっかァ。俺も、さ……お前が手持ちにしてくれたらいいなって、思ってたんだ」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだけど、久しぶりに見た晴れやかな笑顔に胸の内であたたかいものが広がっていく。――ああ、笑ってくれた。
ちょっぴり目から滲んだ熱を指で拭い、鮮やかな青を覗き込む。
「……あのな。お前の名前、考えてたんだ」
「名前……?俺に?くれんの?」
「うん。トリカブトっていう猛毒の植物があってさ。だけど根っこは強心剤とか鎮痛剤とか、要は薬として使われてもいるんだ」
毒は、健康や生命を害するもの。ためにならないもの。わざわいになるもの。でも、使い方によっては誰かを助けて癒す薬にもなる。自分も誰かも、両方大事にしていけるように。俺の祈りとこいつの誓い、あのひとの願いを全部乗せて。
「その薬は――
「ウヅ……」
ぽつんとそう呟いたきり、黙りこくってしまった。……もしかして気に入らなかった?一瞬過った不安はすぐに杞憂に終わる。
「……いいな。すごく、いい。今この瞬間から、俺はお前のウヅだ」
溢れんばかりの喜びを湛えた顔にやわらかな白い三日月が浮かんだ。つられてこっちの頬も緩む。
本来の姿に戻ったベトベター改めウヅは、腕を伸ばしてボールの真ん中を押した。緑の体が赤い光に包まれ、吸い込まれていく。
ころ、ころ、ころん。揺れが止まったボールをそっと拾って両手に乗せた。俺、こいつとパートナーになったんだ。その事実を噛みしめた瞬間、ぶわっと溢れた熱が全身を駆け抜けていく。
「よろしくな、ウヅ!」
ゆるゆるに緩みきった頬を摺り寄せれば、手の中のボールは返事をするようにカタリと揺れた。
☆
めでたく俺のパートナーとなったウヅは、今まで住んでいた洞穴から引っ越して、我が家で暮らすことになった。部屋は俺の隣。父ちゃんたちは快く迎えてくれて、社長さんたちも笑顔で送り出してくれた。
といっても旅に出るのはもう少し先だから、リサイクルプラントの勤務は続けるんだけど。社長さんと話した結果、そういうことになったらしい。勤務時間はちょっと変わるみたいだけど、休んだ分いっぱいう食うぞーって張り切ってた。
翌朝。珍しく早起きできたから意気揚々とドアを開ければ、同じタイミングで隣の部屋から緑色が現れた。なんとなくくすぐったくて小さく笑い合う。
「おはよ。よく寝れたか?」
「おはよォさん。ばっちり寝れたぜ、ダーリン」
「おい待て何だその呼び方」
へらりと笑ったウヅの口から飛び出したワードに速攻ツッコミを入れる。ウヅはよくぞ聞いてくれました!とばかりに朗々と語りだす。
「俺さんたち、昨日晴れてトレーナーとパートナーになったろォ? 折角だから呼び方もそれっぽくしようと思って」
「だからってもっと他にあるだろ。誰に聞いた?」
「ギナさん。面白ェ反応返ってきそうなやつがいいっつったら、〝ダーリンはどうだい?〟って」
「やっぱあいつか……」
バンビだのダーリンだの、ペットネームで呼ばれるの、こっ恥ずかしくてあんまり好きじゃねえんだけどな。あの野郎、絶対わかってて吹き込んだだろ。面白がりやがって。
深いため息と一緒に「まあいいよ。好きに呼べ」と吐き出せば「やっりィ!」とじゃれついてくる。
「サンキュー、ダーリン!」
「連呼すんな気持ち悪ぃ」
ふたりでじゃれ合いながら洗面所へ向かう。今日の朝メシ何かなァ、とご機嫌な横顔をこっそり見上げた。
こいつが抱えた痛みは、決して昨日今日で癒えるものではないけれど。一先ず今笑えるなら、笑ってくれるなら、それでいいや。
18/18ページ