トリカブトと手を繋ぐ
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おやつタイムが終われば昔話の続きが始まる。女の子は本が好きで、よく家から本を持ってきておっさんやキャロルに見せていたそうだ。俺らみたいだな、とベトベターと笑い合う。
中でもキャロルは星座の本をいたく気に入って、夜になると貸してもらったその本を広げ、屋敷の窓からずっと星空を眺めてたんだって。
「そっかァ。じっちゃんが星詳しいの、キャロルの影響なんだなァ」
「ああ。星座見つける度にいちいち報告してきてよ。しつけェほど聞かされちゃァ嫌でも覚える」
そうは言いつつ、おっさんの眼差しにはやわらかな温もりが滲んでいた。なんだかこっちまでぽかぽかしてくる。
ぽつぽつ言葉を交わすうちに、太陽に代わって月と星が空を見守る番になっていたらしい。軽いノックの後、仕事を終えた社長さんと社長のベトベトン、それから社員さん5人がやってきた。おっさんと仲がいい古参の人たちだってベトベターがこっそり耳打ちしてくれる。
ベッドの周りにぐるっと椅子を並べ、昼休みの時みたいに――俺とベトベターは夕食のサンドイッチを齧りながら――みんなで他愛のない話に花を咲かせた。社長さん以外のひととはあんまりちゃんと話したことなかったけど、みんな楽しくていいひとたちだなあ。おっさんも相変わらず口悪いけど、普段より声や表情が和やかだ。社長のベトベトンと軽口を叩き合ってる時は特に楽しそうにしてる。
「っと、あんまり長居すると疲れちまうよな」
時計を確認した社長さんが腰を上げれば、他のみんなもそれに倣う。ひとりずつ順番におっさんに言葉をかけ――最後のベトベトンだけは何も言わず、おっさんを強く抱きしめた。その背にそっと褐色の手が回される。みんなで喋ってる時は一番賑やかだったベトベトンは、無言のままおっさんを離すや、真っ先に部屋を出て行った。
ドアの向こうへ消えた相棒に社長さんは小さく苦笑のようなものを零し、「俺らも行くか」とみんなを見回す。口々に「また来る」「おやすみ」を言い合って、水色の作業着たちを見送った。
やがてもう一度ドアが叩かれ、今度はギナが顔を出した。やあ、と微笑む見慣れた顔になんだかほっとする。
椅子は1つだけ残して、あとは重ねて隅に寄せていく。その間、ギナはおっさんに幾つか質問を投げかけた。たぶんモンシンってやつだ。……あ、そういやギナに聞きたいことあったんだっけ。ふたりのやり取りが済んでから口を開いた。
「あのさ。朝に『手とか足とかさすってあげるといい』って言ってたけど、コツっていうか……どういう風にやればいい?」
「そうだな。ゆっくり・優しく・丁寧に、かな」
ギナのしなやかな右手がおっさんの左手を持ち上げ、反対の手でゆっくり撫でていく。ふむふむとベトベターとふたりで観察してたら褐色がべっと白を払い除けた。
「気色悪ィ真似するんじゃねェ」
「失敬な、手本を見せていただけじゃないか。相変わらず照れ屋だな君は」
「黙ってろクソガエル」
おっさんの罵倒と〝にらみつける〟を涼しい顔で受け流すギナ。父ちゃんともよくこんな感じのやり取りしてるからすげえ既視感がある。さっきふたりが古い知り合いって聞いたから余計に。
チッと舌打ちしたおっさんは錠剤を口に放り込み、残っていたおいしい水を飲み干した。それを見届けたギナは、ソファに腰を落ち着かせた俺たちに視線を向ける。その表情からさっきのおどけた雰囲気は消えていて、ぴん、と空気が張り詰めるのを感じた。みぞおちの辺りがきゅっと縮こまる。
「朝より随分落ち着いているけれど、だんだん眠る時間が増えていくから、話したいことは今のうちに。もし発作が起きたらすぐに俺を呼んでくれ。……あと10日とは言ったが、いつその時 が訪れてもおかしくないと、頭に入れておいて欲しい」
静かに紡がれるテノールにベトベターは両手をきつく握りしめながら小さく頷いた。俯きがちな緑の頭に浅黒い手が乗せられる。ぎゅっと目を閉じたベトベターはやがて深く深く息を吐き出して、「もう、平気」と顔と瞼を持ち上げた。それから、ギナに人懐っこく笑いかける。
「なァ、ギナ先生ってじっちゃんのこと昔から知ってんだろ。あんたの話も聞かせてくれよ」
その言葉にギナの赤い瞳が微かに揺れた。すぐ微笑みの形に戻った口から思いのほか低い声が零れる。
「どこまで、聞いたんだい?」
「俺とあいつが名前もらったとこまでだ」
おっさんの黒とギナの真紅が視線を交わす。そこから何を読み取ったのか、ギナはきゅっと唇を引き結び――いつものようににっこり微笑んだ。
「すまない。彼も疲れているようだし、また次の機会でいいだろうか。明日以降も毎晩顔を出すから」
明らかにはぐらかそうとしてるけど、ギナの言い分も尤もだ。さっきまで社長さんたちと話してたもんな。ベトベターは小さな青でじっとギナを見つめ、数泊置いてへらりと相好を崩した。
「わかった。いつでもいいけど、絶対だぜェ?」
「ああ。約束しよう」
「じゃァ、これ」
す、と小指が差し出される。ギナは口元をやわらげ、自分の小指を絡ませた。
「指切りげんまん、嘘ついたら……なんだっけ?」
「ハリーセン飲ます、だよ」
「おォ、それそれ。ハリーセン飲ーます」
ギナに助け船を出されつつ決まり文句を唱え上げ、2つの小指が解かれた。なんだか右の小指がくすぐったい。
「では、そろそろ失礼するよ。何かあればいつでも連絡を」
徐に立ち上がり、胸に手を当てて一礼する。そのまま出て行くかと思いきや、ずっと肩にかけていたカバンを下ろして俺に渡した。中を覗くと俺のお気に入りの本たち。ぱっと見上げた先で赤が穏やかに細められる。
「気を紛らせればと思って、幾つか持ってきたんだ。読みたいもの、或いは見せたいものがあれば言ってくれ」
「うん。ありがと」
「どういたしまして。おやすみ」
俺の頭でやわらかく手を跳ねさせ、もう一度お辞儀してから帰っていった。なになに?と首を伸ばしてくるベトベターにカバンの中を見せれば、感嘆の声が上がった。明日一緒に読もうな。
「テメェら、まだ眠くはねェか」
不意に響いた低い声にそれぞれ「平気」「ぜェんぜん」と返す。おっさんは「そうか」と呟いて、静かな黒に俺たちを映した。なんとなくこれまでと違う雰囲気を感じ取り、きちんと座り直す。
「まだ動けるうちに、話しておきてェことがある」
そっと眼帯に触れながら、ゆっくり口を開いた。
***
ガキに名前をもらった数日後。旅の予行練習とか言って、いつもみてェにポケモン屋敷を探検してたら……突然、地面が揺れた。俺もキャロルも他のポケモン も、全員妙な胸騒ぎを感じて、早くここから離れなきゃならねェって、揺れも収まらねェうちに急いで逃げ出した。
その途中、一際デケェ揺れがあって、俺はどっかから飛んできた石ころに目ェ抉られて。……ガキを庇ったキャロルが、崩れた壁の下敷きになった。
自分 がそんなザマだってのに、あいつは……どこまでも他人ばっかり気にして。自分はもう助からねェから、俺にガキを守ってくれだとか抜かしやがった。……だから、ガキを連れて逃げた。まだ息のあるあいつを、置き去りにして。
*
おっさんは一度言葉を切り、ぎり、と眼帯を握りしめた。
言葉が、出ない。全身に凍った石をぎゅうぎゅう詰め込まれたみたいに、寒くて、痛くて、苦しくて。
これまでの話で、おっさんがどれだけキャロルを、キャロルと過ごした日々を大切に思っているか、いっぱい伝わった。……なのに。なんで、こんな。
必死に奥歯を噛みしめたけど、堪え切れなかった涙が1つ2つと溢れ出す。不意に、やわらかいものが目元を撫でた。正体は紫の布――おっさんのマント。朝のベトベターと同じようにマントの裾を伸ばし、俺とベトベターの顔をそっと拭ってくれた。
「……別に、泣くほどのことじゃねェだろ」
低い呟きにふたりで力いっぱい首を横に振れば、おっさんの右目が少しだけやわらいだ。
*
屋敷を出てすぐ、運よくギナと合流できてよ。クソデケェ噴火が起きたってそこで知った。人混みン中からガキの親探して送り届けて、そのまま島の奴らと、本土から来たっつう船に乗って避難した。ニンゲンは全員助かったらしいが……ポケモン屋敷の連中がどうなったかは知らねェ。まァ、俺みてェに船に乗れたか、逃げ遅れて死んだかのどっちかだろうな。
島から出た後、親戚が住んでるとかでガキの一家はトキワシティに、俺とギナはトキワの森に身を寄せることになった。毎日ガキの様子を見に行ってたギナが言うには、部屋にこもってずっと泣いてたんだと。……ダチを亡くしたんだ、無理もねェ。
それから……あの噴火からどのくらい経ったか覚えてねェが、ある日ガキが森にやってきた。新品のボール握りしめて、旅に出てェ、ついてきてくれるか、ってよ。
元々そういう約束してて、キャロルにも頼まれたからな。俺は正式にそいつの手持ちになった。先に手持ちに加わってたギナを含めた3人で旅に出て。仲間が増えたり、ジムに挑んだりしながら、色んな場所を巡った。……それだけなら、よかったのに。
***
眼帯を握る褐色の手に更に力が込められる。眉間に深いシワを刻み、肩と唇を震わせながら言葉を重ねた。
「あのガキ、傷ついたポケモンを見かけるとなりふり構わず助けようとやがって。何度危険な目に遭おうが俺らが止めようがお構いなしで、自分の身を一切顧みやしねェ。何がテメェをそうさせるんだって問い質したら〝助けられたから助けたい。そうじゃないと助けてもらった価値 がない〟だとかほざきやがる!……あいつはそんなことして欲しくて助けたんじゃねェって……何度言っても、届かなかった」
血を吐くような激しい叫びは、徐々に途切れ、掠れていく。
ふと、ある人の言葉が脳裏に蘇った。瞳に暗い影を落とし、ぽつりぽつりと語られた言葉。
──助けられなかった子がいるの。私だけが助かってしまった。
──だから、できるだけ多くの命を助けたい。この命に替えても。……前はそんな風に考えていたから、随分無茶をしたわ。自分の身を顧みず、それが私を大切にしてくれるひとたちにどんな思いをさせるかなんて考えもせず……ただ我武者羅に、命を救おうと躍起になっていた。
どくん、どくん、どくん。心臓が早鐘を打ち鳴らす。
膝をつき、両手を組んで、まるで咎人が己の罪を告白するように言葉を紡いだのは。
「そいつが18になる頃、俺はモイライ症候群 を患って、ギナから余命1年だって言われて。俺まで目の前で死んだらもっとひでェことになるって容易に想像できた。……俺も俺で心底ウンザリしててよ。いい機会だから、ボールぶっ壊してそいつから離れた」
──そのせいで……仲間がひとり、去ってしまった。
あの、声の主は。
片方だけの黒曜石がまっすぐ俺を見つめる。
「俺の元トレーナーの名は、サニア。……テメェの、母親だ」
……やっぱり。未だバクバクしている心臓をよそに、告げられた事実は案外すとんと胸に落ちた。これまでの不可解だったおっさんの言動にも色々納得がいく。俺の髪も目も顔立ちも、ぜんぶ母ちゃん譲りだから。
「いいか、テメェら」
かけられた言葉に俯きかけた顔を持ち上げる。褐色の手が伸びてきて、俺とベトベターの肩を掴んだ。
「誰かを助けるなら、自分 も無事で助けろ。テメェが傷つきゃ悲しむ奴がいるってこと、忘れんな。俺は上手くいかなかったが……悲しませたくねえ奴を、悲しませねえような生き方をしてくれ」
それは、祈るような懇願で。黒い右目に宿った熱から、肩を掴む手の強さから、どれだけ切な願いであるか痛いくらいに伝わってくる。それと同じくらい、強くて大きな温もりも。
「……うん。俺、大事にするよ。誰かのことも、自分のことも」
「俺も……あんたが胸張れるように、ちゃんと生きてく」
それぞれ思いを言葉に変えて、頷きと共に送り出す。それが届いたのか――じんわりと、体の内側から火が灯ったような、あたたかい微笑みを浮かべた。
「そうか。……そうか」
噛みしめるように何度も何度も呟くおっさんの右頬を、雫が1つ、そっと滑り落ちていった。
中でもキャロルは星座の本をいたく気に入って、夜になると貸してもらったその本を広げ、屋敷の窓からずっと星空を眺めてたんだって。
「そっかァ。じっちゃんが星詳しいの、キャロルの影響なんだなァ」
「ああ。星座見つける度にいちいち報告してきてよ。しつけェほど聞かされちゃァ嫌でも覚える」
そうは言いつつ、おっさんの眼差しにはやわらかな温もりが滲んでいた。なんだかこっちまでぽかぽかしてくる。
ぽつぽつ言葉を交わすうちに、太陽に代わって月と星が空を見守る番になっていたらしい。軽いノックの後、仕事を終えた社長さんと社長のベトベトン、それから社員さん5人がやってきた。おっさんと仲がいい古参の人たちだってベトベターがこっそり耳打ちしてくれる。
ベッドの周りにぐるっと椅子を並べ、昼休みの時みたいに――俺とベトベターは夕食のサンドイッチを齧りながら――みんなで他愛のない話に花を咲かせた。社長さん以外のひととはあんまりちゃんと話したことなかったけど、みんな楽しくていいひとたちだなあ。おっさんも相変わらず口悪いけど、普段より声や表情が和やかだ。社長のベトベトンと軽口を叩き合ってる時は特に楽しそうにしてる。
「っと、あんまり長居すると疲れちまうよな」
時計を確認した社長さんが腰を上げれば、他のみんなもそれに倣う。ひとりずつ順番におっさんに言葉をかけ――最後のベトベトンだけは何も言わず、おっさんを強く抱きしめた。その背にそっと褐色の手が回される。みんなで喋ってる時は一番賑やかだったベトベトンは、無言のままおっさんを離すや、真っ先に部屋を出て行った。
ドアの向こうへ消えた相棒に社長さんは小さく苦笑のようなものを零し、「俺らも行くか」とみんなを見回す。口々に「また来る」「おやすみ」を言い合って、水色の作業着たちを見送った。
やがてもう一度ドアが叩かれ、今度はギナが顔を出した。やあ、と微笑む見慣れた顔になんだかほっとする。
椅子は1つだけ残して、あとは重ねて隅に寄せていく。その間、ギナはおっさんに幾つか質問を投げかけた。たぶんモンシンってやつだ。……あ、そういやギナに聞きたいことあったんだっけ。ふたりのやり取りが済んでから口を開いた。
「あのさ。朝に『手とか足とかさすってあげるといい』って言ってたけど、コツっていうか……どういう風にやればいい?」
「そうだな。ゆっくり・優しく・丁寧に、かな」
ギナのしなやかな右手がおっさんの左手を持ち上げ、反対の手でゆっくり撫でていく。ふむふむとベトベターとふたりで観察してたら褐色がべっと白を払い除けた。
「気色悪ィ真似するんじゃねェ」
「失敬な、手本を見せていただけじゃないか。相変わらず照れ屋だな君は」
「黙ってろクソガエル」
おっさんの罵倒と〝にらみつける〟を涼しい顔で受け流すギナ。父ちゃんともよくこんな感じのやり取りしてるからすげえ既視感がある。さっきふたりが古い知り合いって聞いたから余計に。
チッと舌打ちしたおっさんは錠剤を口に放り込み、残っていたおいしい水を飲み干した。それを見届けたギナは、ソファに腰を落ち着かせた俺たちに視線を向ける。その表情からさっきのおどけた雰囲気は消えていて、ぴん、と空気が張り詰めるのを感じた。みぞおちの辺りがきゅっと縮こまる。
「朝より随分落ち着いているけれど、だんだん眠る時間が増えていくから、話したいことは今のうちに。もし発作が起きたらすぐに俺を呼んでくれ。……あと10日とは言ったが、いつ
静かに紡がれるテノールにベトベターは両手をきつく握りしめながら小さく頷いた。俯きがちな緑の頭に浅黒い手が乗せられる。ぎゅっと目を閉じたベトベターはやがて深く深く息を吐き出して、「もう、平気」と顔と瞼を持ち上げた。それから、ギナに人懐っこく笑いかける。
「なァ、ギナ先生ってじっちゃんのこと昔から知ってんだろ。あんたの話も聞かせてくれよ」
その言葉にギナの赤い瞳が微かに揺れた。すぐ微笑みの形に戻った口から思いのほか低い声が零れる。
「どこまで、聞いたんだい?」
「俺とあいつが名前もらったとこまでだ」
おっさんの黒とギナの真紅が視線を交わす。そこから何を読み取ったのか、ギナはきゅっと唇を引き結び――いつものようににっこり微笑んだ。
「すまない。彼も疲れているようだし、また次の機会でいいだろうか。明日以降も毎晩顔を出すから」
明らかにはぐらかそうとしてるけど、ギナの言い分も尤もだ。さっきまで社長さんたちと話してたもんな。ベトベターは小さな青でじっとギナを見つめ、数泊置いてへらりと相好を崩した。
「わかった。いつでもいいけど、絶対だぜェ?」
「ああ。約束しよう」
「じゃァ、これ」
す、と小指が差し出される。ギナは口元をやわらげ、自分の小指を絡ませた。
「指切りげんまん、嘘ついたら……なんだっけ?」
「ハリーセン飲ます、だよ」
「おォ、それそれ。ハリーセン飲ーます」
ギナに助け船を出されつつ決まり文句を唱え上げ、2つの小指が解かれた。なんだか右の小指がくすぐったい。
「では、そろそろ失礼するよ。何かあればいつでも連絡を」
徐に立ち上がり、胸に手を当てて一礼する。そのまま出て行くかと思いきや、ずっと肩にかけていたカバンを下ろして俺に渡した。中を覗くと俺のお気に入りの本たち。ぱっと見上げた先で赤が穏やかに細められる。
「気を紛らせればと思って、幾つか持ってきたんだ。読みたいもの、或いは見せたいものがあれば言ってくれ」
「うん。ありがと」
「どういたしまして。おやすみ」
俺の頭でやわらかく手を跳ねさせ、もう一度お辞儀してから帰っていった。なになに?と首を伸ばしてくるベトベターにカバンの中を見せれば、感嘆の声が上がった。明日一緒に読もうな。
「テメェら、まだ眠くはねェか」
不意に響いた低い声にそれぞれ「平気」「ぜェんぜん」と返す。おっさんは「そうか」と呟いて、静かな黒に俺たちを映した。なんとなくこれまでと違う雰囲気を感じ取り、きちんと座り直す。
「まだ動けるうちに、話しておきてェことがある」
そっと眼帯に触れながら、ゆっくり口を開いた。
***
ガキに名前をもらった数日後。旅の予行練習とか言って、いつもみてェにポケモン屋敷を探検してたら……突然、地面が揺れた。俺もキャロルも他の
その途中、一際デケェ揺れがあって、俺はどっかから飛んできた石ころに目ェ抉られて。……ガキを庇ったキャロルが、崩れた壁の下敷きになった。
*
おっさんは一度言葉を切り、ぎり、と眼帯を握りしめた。
言葉が、出ない。全身に凍った石をぎゅうぎゅう詰め込まれたみたいに、寒くて、痛くて、苦しくて。
これまでの話で、おっさんがどれだけキャロルを、キャロルと過ごした日々を大切に思っているか、いっぱい伝わった。……なのに。なんで、こんな。
必死に奥歯を噛みしめたけど、堪え切れなかった涙が1つ2つと溢れ出す。不意に、やわらかいものが目元を撫でた。正体は紫の布――おっさんのマント。朝のベトベターと同じようにマントの裾を伸ばし、俺とベトベターの顔をそっと拭ってくれた。
「……別に、泣くほどのことじゃねェだろ」
低い呟きにふたりで力いっぱい首を横に振れば、おっさんの右目が少しだけやわらいだ。
*
屋敷を出てすぐ、運よくギナと合流できてよ。クソデケェ噴火が起きたってそこで知った。人混みン中からガキの親探して送り届けて、そのまま島の奴らと、本土から来たっつう船に乗って避難した。ニンゲンは全員助かったらしいが……ポケモン屋敷の連中がどうなったかは知らねェ。まァ、俺みてェに船に乗れたか、逃げ遅れて死んだかのどっちかだろうな。
島から出た後、親戚が住んでるとかでガキの一家はトキワシティに、俺とギナはトキワの森に身を寄せることになった。毎日ガキの様子を見に行ってたギナが言うには、部屋にこもってずっと泣いてたんだと。……ダチを亡くしたんだ、無理もねェ。
それから……あの噴火からどのくらい経ったか覚えてねェが、ある日ガキが森にやってきた。新品のボール握りしめて、旅に出てェ、ついてきてくれるか、ってよ。
元々そういう約束してて、キャロルにも頼まれたからな。俺は正式にそいつの手持ちになった。先に手持ちに加わってたギナを含めた3人で旅に出て。仲間が増えたり、ジムに挑んだりしながら、色んな場所を巡った。……それだけなら、よかったのに。
***
眼帯を握る褐色の手に更に力が込められる。眉間に深いシワを刻み、肩と唇を震わせながら言葉を重ねた。
「あのガキ、傷ついたポケモンを見かけるとなりふり構わず助けようとやがって。何度危険な目に遭おうが俺らが止めようがお構いなしで、自分の身を一切顧みやしねェ。何がテメェをそうさせるんだって問い質したら〝助けられたから助けたい。そうじゃないと
血を吐くような激しい叫びは、徐々に途切れ、掠れていく。
ふと、ある人の言葉が脳裏に蘇った。瞳に暗い影を落とし、ぽつりぽつりと語られた言葉。
──助けられなかった子がいるの。私だけが助かってしまった。
──だから、できるだけ多くの命を助けたい。この命に替えても。……前はそんな風に考えていたから、随分無茶をしたわ。自分の身を顧みず、それが私を大切にしてくれるひとたちにどんな思いをさせるかなんて考えもせず……ただ我武者羅に、命を救おうと躍起になっていた。
どくん、どくん、どくん。心臓が早鐘を打ち鳴らす。
膝をつき、両手を組んで、まるで咎人が己の罪を告白するように言葉を紡いだのは。
「そいつが18になる頃、俺は
──そのせいで……仲間がひとり、去ってしまった。
あの、声の主は。
片方だけの黒曜石がまっすぐ俺を見つめる。
「俺の元トレーナーの名は、サニア。……テメェの、母親だ」
……やっぱり。未だバクバクしている心臓をよそに、告げられた事実は案外すとんと胸に落ちた。これまでの不可解だったおっさんの言動にも色々納得がいく。俺の髪も目も顔立ちも、ぜんぶ母ちゃん譲りだから。
「いいか、テメェら」
かけられた言葉に俯きかけた顔を持ち上げる。褐色の手が伸びてきて、俺とベトベターの肩を掴んだ。
「誰かを助けるなら、
それは、祈るような懇願で。黒い右目に宿った熱から、肩を掴む手の強さから、どれだけ切な願いであるか痛いくらいに伝わってくる。それと同じくらい、強くて大きな温もりも。
「……うん。俺、大事にするよ。誰かのことも、自分のことも」
「俺も……あんたが胸張れるように、ちゃんと生きてく」
それぞれ思いを言葉に変えて、頷きと共に送り出す。それが届いたのか――じんわりと、体の内側から火が灯ったような、あたたかい微笑みを浮かべた。
「そうか。……そうか」
噛みしめるように何度も何度も呟くおっさんの右頬を、雫が1つ、そっと滑り落ちていった。