トリカブトと手を繋ぐ
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3人でぎゅうぎゅうし合ったまま、ベトベターの嗚咽が少しずつ小さくなってきた頃。不意に背後でからりと小さな音が響いた。
ベトベターがはっと顔を上げる。袖で乱暴に顔を擦りながら立ち上がり、駆け寄った。俺も急いで目元を拭い、ベトベターと社長さんに続く。
「あの……じっちゃんは……」
ギナは不安げなベトベターを静かに見つめ、ゆっくり口を開いた。
「彼が、君と話がしたいと。追い出しておいて申し訳ないが、行ってくれるかい?」
「……うん。でも、」
隣のベトベターを見上げれば小さな青と目が合う。さっき擦ったせいか、目の周りが真っ赤だ。
「ふたりで話すの、ちょっと怖ェから……お前も来てくんねェ?」
涙の跡がくっきり残った顔と弱々しい声でそんなこと言われて、ほっとけるわけないだろ。だらりと垂れ下がったベトベターの右手をぎゅっと握り、こっくり頷く。「……ありがとな」という小さな声と一緒に握り返された手は、やっぱりちょっと痛かった。
道を譲るようにギナが脇によける。ベトベターは深く息を吐き、そっとドアハンドルを引いた。握られた手の力が強くなる。それを握り返して、一緒に足を踏み出した。
おっさんはさっきと違い、ベッドの上で上体を起こしていた。珍しくフードを被っていない。「起きてていいのかよ」とベトベターが聞いたら、「ああ。今は落ち着いたし、薬も打った」と返ってくる。なんとなくだけど、今のおっさんの声も雰囲気も、いつもより刺々しくない気がした。
部屋の隅に積まれていた丸椅子を2つ引きずってきて枕元に並べる。奥側の椅子に腰を下ろしたベトベターがボソリと呟いた。
「……なんだよ、話って」
ちょっとぶっきらぼうなその言い方はおっさんと少し似ている。おっさんは目を伏せ、ゆっくり顔を上げた。黒い右目がまっすぐベトベターを映す。
「まずは、……病気だってずっと隠してたこと。今朝、置いて行こうとしたこと。……悪かった。悲しませちまうくらいなら知られたくなかったし、恨まれる方がマシだと思ったんだ」
深く深く、濃い紫の頭が下げられる。直後、「ふざけんな!!」という怒声と共にベトベターの椅子が激しい音を立てて倒れた。ベッドに片膝を乗り上げ、おっさんの胸倉を掴んで声を張り上げる。
「んだよそれ……ッ!意味わかんねェよ!マジ、ほんと、バッカじゃねェの!?今朝のことすげえムカついたし、つーか今もムカついてるし、めちゃくちゃ悲しかったよ!けど、あんなんで、俺があんたを恨むわけ……嫌いになるわけ、ねェだろうが……ッ!!」
ぼろぼろと、小さな青から大粒の涙が幾つも溢れ出す。しゃくりあげながらおっさんの胸板に頭を押し当てた。
「どんな理由でも、じっちゃんがいなくなんの、俺やだよ……」
消え入りそうな声は、痛いくらい切実で。思わず手を伸ばしかけて急停止。……そうだよな、あんたが先だ。
「……すまねェ」
褐色の手がそっとベトベターを抱き寄せる。紫に包まれ、緑の肩がびくりと跳ねた。おっさんはどこか遠慮がちだったけど、ベトベターが腕を背中に回してぎゅうっと力を込めると、目を見開いて――強く、強く、抱きしめた。
静かな部屋にベトベターのすすり泣く声だけが響く。
……一緒に来てって言われたけど、ここはふたりきりの方がいいんじゃねえかな。そろりと椅子から降りて抜き足差し足でドアの方へ向かおうとしたら、不意に後ろに引き戻された。振り返れば、ベトベターのシャツの裾がスライムみたいに伸びていて、俺の腰に巻きついている。お前こんなこともできたのか。器用な奴……。これは、まあ、「ここにいて」ってことだよな。
そういうことなら、とベトベターの背中にくっつき、そっと撫でた。ちゃんといるよ、と伝えるように。
「いつから、病気だったんだ」
おっさんの胸に顔を埋めたまま、ぽつりとベトベターが呟いた。おっさんはひどく簡潔に答える。
「12年前だ。カントーにいた頃に発病した」
「最初っからかよ……。ほんとふざけんな」
抗議するように頭をぐりぐり押し付ける。おっさんはもう一度「すまねェ」とだけ言った。
ベトベターは大きく鼻をすすり、再度口を開く。
「どういう病気?」
「〝モイライ症候群〟っつー、発病すると定期的に心臓に強い痛みの発作を繰り返した末に1年以内に突然心臓が止まる、ってやつだ。俺はなんでか、まだ生きてるが」
「今までも発作あった?」
「アローラに来てから段々落ち着いてたが……ここ最近、急に悪化した」
「それ、治んねェの」
「今も治療法は見つかってねェ」
「……どうにかなんねェのかよ」
「ならねェしできねェ」
「……もう、長くねェの」
「ああ。今朝の発作がデカいやつだったらしい。……あと10日、だと」
頭上で淡々と言葉が交わされる。最後の言葉を聞いて、ベトベターの背中が強張った。……おっさんが、あと、10日。急だし、全然ピンと来ないけど、でも、でも、こわい。思わずベトベターのシャツをぎゅうっと握りしめると、腰に巻きついたままだった緑の布がきゅっと締まった。
「やだ」
「そうか」
「絶対、やだ」
「……そうか」
「じっちゃんはやじゃねェの」
「……わかんねェ。とっくに腹ァ決めたつもりで、あの世 に会いてェ奴もいるが……テメェがいるから、惜しくなっちまった」
おっさんの声は、聞いたことがないくらい穏やかだった。「……ずりィよ、そういうの」とくぐもった声が零れ落ちる。背中越しにベトベターが震えているのが伝わった。腰の布が痛いくらい締まっているせいなのか、それとも他の理由かわからないけど、どうしようもなく息が詰まる。
ふと、ベトベターがゆっくり顔を上げた。おっさんの背中に回していた腕も、俺の腰に巻き付けていたシャツもそれぞれ解く。俺をくしゃりとひと撫でして、蹴り飛ばしたままだった椅子を起こした。そこにもう一度腰を下ろし、ぐしゃぐしゃの顔を袖でぐいぐい拭う。そして、パンパン、と両頬を強く叩いた。
「急に知らされたことばっかで、まだ全然、受け止めらんねェし、受け止めたくもねェけど。めそめそすんの終わり!」
目も鼻も真っ赤で、涙の跡はさっきより濃くなってるし、声だってガラガラだ。でも、今日、はじめて笑顔を見せた。
「なァじっちゃん、教えてくれよ。カントーにいた頃とか、アローラに来るまでとか、色々。……あんたのこと、ちゃんと知りたい」
無理してるって俺にもわかるくらい、ヘタクソな笑顔だけど。こいつは残り僅かな時間を、僅かだからこそ、笑って楽しく過ごしたいんだ。なら俺も、こわいのは一旦置いておこう。こいつとおっさんがさいごまで楽しく過ごせるように。
ベトベターを真似て頬を叩く。……よし、もう、だいじょうぶ。自分の椅子を引きずって、ベトベターの椅子とぴったりくっつけ、その上に座った。いつも授業を受ける時みたいに肩と肩が触れ合う距離だ。
ちらりと見上げたベトベターは呆気に取られたような顔をして――ふっと綻ばせた。あ、と思う間もなく急に寄りかかってきて、椅子から落ちそうになる。あっぶねえなお前!あと重い!
じゃれつくベトベターと、じゃれつかれる俺を交互に見ていたおっさんが緩やかに口元をやわらげる。
「……わかった。隠し事はもう、ナシだ」
その表情は、さっき一瞬だけ見えたベトベターのものとよく似ていた。
☆
「つーか、今更だけど……俺も聞いていいの?」
「ああ。別に面白くもなんともねェが、聞きてェなら好きにしろ。……それに、テメェも全くの無関係、ってわけでもねェしな」
じゃれてくるベトベターを押しのけながら尋ねれば、おっさんは小さく頷いた。後半、どういう意味だろう。全然心当たりねえんだけど。
ふと、コンコンと軽い音が響く。開いたドアの隙間から社長さんが顔を出した。
「話してるとこ悪い。今いいか?」
「ああ」
おっさんの首肯に、社長さんと、その後ろからギナが部屋に入ってくる。社長さんはおっさんをまっすぐ見つめ、ぐしゃりと顔を歪めた。
「……お前の容態のこと、先生から聞いたよ。言いてえことは山程あるが、一先ずこれだけ言わせてくれ。本当に……ここでいいのか」
「ああ。ここが、いいんだ。……お前さえ、よければ」
「バカヤロウ、いいに決まってんだろ……ッ!」
「……すまねェ」
社長さんは拳と肩を震わせながら口をきつく引き結ぶ。何かを堪えるようにぐっと目を閉じ、数拍おいてゆっくり息を吐き出した。開いた眼差しをベトベターに向け、穏やかに問いかける。
「お前は?どうしたい?」
「俺……じっちゃんの側にいたい。離れたくねェ」
「なら、好きなだけ側にいてやれ。仕事のことは気にすんな」
俯きがちで歯切れ悪く答えるベトベターに、社長さんはからりと笑った。その言葉にばっと顔を上げる。
「……いいの?」
「お前らふたりにゃ、これまで沢山助けられてきたからな。休暇だ休暇。ゆっくり過ごせ」
「……うん。ありがとう、ございます」
ぐしゃぐしゃ撫でられながら緑の頭が再び俯く。優しい笑顔はそのままで、今度は俺に視線を向けた。
「ボウズ。よければ一緒にいてやってくれねえか。俺らもちょくちょく様子見に来るけど、ベトベター ひとりじゃ心配でな」
願ってもない申し出に「うん!」と頷きかけ、はっとギナを見る。それだけで俺の言いたいことが伝わったのだろう、ギナはやわらかく頷いた。
「ホウヤたちには俺から伝えておこう。くれぐれも、無理はいけないよ」
今度こそ大きく頷いて、ギナとふたりで「お世話になります」と頭を下げる。社長はおどけて「お世話します」と歯を見せた。
「となると、寝床がいるな。んー……よし、あれ持ってくるか」
「お手伝いしましょう」
「お、すまねえな。よろしく頼んます」
そんなやり取りをした社長さんとギナが部屋を出て行き、5分程で戻ってきた。ギナはオリーブグリーンのやや小ぶりなソファを抱えている。それを見てベトベターが「あ」と声を漏らした。
「休憩室のやつ」
「おう。ベッドにしちゃ、ちょっと狭えけどな」
手分けして丸椅子をどかしてソファを設置し、その上に畳まれた毛布2枚をクッション代わりに並べる。「いい感じじゃねえか」と社長さんが満足げに頷いた。
突然、グウ~~ッと派手な音が部屋中に響き渡る。発信源は俺、ではなくその隣。皆の視線を一気に集めたベトベターはきまり悪そうに首を竦めた。
「いや、なんか……気持ちが落ち着いてきたら、急に腹減ってきて……」
「ははは、食欲があんのはいいことだ。カミさんに何か作ってもらおう。ボウズ、アレルギーとか苦手なモンあるか?」
「ううん、どっちもない」
「よしきた」
再び社長さんが部屋を出て行く。壁にかけられた時計を見上げれば、5時過ぎ。あれから1時間経ってたのか。長いような、短いような。
ふと、ギナが懐からゴツい腕時計のような機械を取り出してベトベターに差し出した。
「ベトベターくん。君にこれを持っていて欲しい」
「えっと、これは……?」
ベトベターは物珍しそうな、戸惑ったような目でギナと機械を交互に見ている。
「ライブキャスターといってね。遠くにいる相手と話ができるものなんだ」
「あ、デンワってやつ?」
「ああ。俺の連絡先が登録してあるから、何かあったら呼んでくれ。すぐに駆け付ける」
バンビも覚えておくといい。そう言って、俺とベトベターに使い方を教えてくれる。ベトベターはちょっと苦戦してたけど、何度か操作するうちに問題なく使えるようになった。
仕上げにテストとして、順番にギナのライブキャスターに電話をかけてみる。どっちもちゃんとかけられたから、ベトベターと顔を見合わせてほっと息を吐く。ギナも「よくできました」と言うように微笑んだ。
「それから。彼にも話したが、この薬を1日3錠、朝昼晩に1錠ずつ飲ませるようにしてくれ。僅かだが発作の痛みを緩和できる」
ギナは錠剤を見せながら「あそこにあるから」と枕元のサイドテーブルを示す。俺たちが頷くと、目元をやわらげ――まっすぐに、ベトベターを見つめた。いつものおどけた色は一切ない。
「俺にできることは少ない。けれど……最後まで、全力を尽くす」
「……でも、じっちゃん、治んねェんだろ」
「ああ。……だが、彼が穏やかな終わりを迎えられるよう、可能な限り手を尽くしたい。尽くさせてほしい」
真剣な真紅の眼差しを受けとめたベトベターはきゅっと唇を引き結び、ライブキャスターを握りしめる。数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……俺にも、何かできることねェかな」
「手を握ったり、足を優しくさすったりしてあげるといい」
うん、とさっきよりも大きく頷く。そこへ、コンコンとノックが響いた。
「待たせたな腹ペコども。とくと味わえ!」
意気揚々と帰還した社長さんの手の上の皿には山盛りのスパムにぎりが乗っていた。うわーっうまそう!正直あんまり空腹を感じてなかったけど、いざ目の前にご馳走を出されたらじわりと涎が溢れる。
「やったー!じっちゃんも食お……!?」
振り向いたベトベターがぎょっと目を剥く。つられて後ろを見れば、おっさんはぐったりと壁に頭をもたれかけ、固く目を閉じていた。え、と思う間もなく素早くギナが駆け寄り、脈を測る。そして――表情をやわらげた。
「心配ない。眠っているだけさ。先程薬を打ったから、それが効いてきたのだろう」
一同、深く息を吐く。よかった……マジでビビった……。さっきから静かだなとは思ったけど、寝てるだけか……。まだバクバク言ってる心臓を落ち着かせるため、胸をゆっくりさする。
ギナとベトベターでそっとおっさんを仰向けに寝かせて布団をかける。大皿と3人分のおいしい水をサイドテーブルに置いた社長さんは「お」とベトベターの手元に目を向けた。
「そのライブキャスター、先生からか?」
「うん。何かあったら連絡して、って」
「そーかそーか。なら俺の番号も登録してもらうか」
ちょっと貸してくれ、と言われて差し出す。受け取ったライブキャスターを難なく操作して、「ほい」と返された機械の画面には、ギナの下に社長さんの名前も表示されていた。
「じゃあ俺、仕事行くわ。何かあったらそれですぐ呼べよ」
ふたり一緒に頷けば、ふたりとも頭を撫でられた。それから、ギナに頭を下げる。
「慌ただしくてすんません。色々、ありがとうございます」
「いえ。あなたにも、俺の連絡先をお伝えします。何かあればすぐお呼びください」
ピピピ、とライブキャスターを操作し合う。敬語のギナ、初めて見たな。別に俺が使われてるわけじゃないのに慣れなくてなんかムズムズする。
「俺も病院に戻ります。今夜……そうだな、19時頃にまた伺います」
社長さんとベトベターに会釈して、俺にはひらりと手を振って、ポニーテールを揺らしながらドアの向こうに消える。続いて、「またな」と社長さんも部屋を後にした。
ふたり分の足音が遠ざかっていく。ちらりとベトベターを見上げたら、あいつもこっちを見ていた。いたずらっぽく目を細め、ぺろりと唇を舐める。
「とりあえず、食うか」
「うん」
社長さんの奥さん、いただきます!
おっさんの分は取っておいて、ふたりで奥さんお手製のスパムにぎりにかぶりついた。めっちゃうめえ。特にこのたまごも挟んであるやつ。
ベトベターもぱくぱく食べてたけど、流星群を見た時と比べると量は控えめだ。……まあ、そうだよな。うまいもんはうまいけど、それとこれとは別だし。
ごちそうさまでした、と手を合わせる。残った分にはラップをかぶせ直して、またサイドテーブルへ。
膨れた腹を抱えてソファに身を沈める。ベトベターは片方だけ立てた膝を抱え、そこに顎を乗せた。視線はまっすぐおっさんを見つめている。白にぽつんと浮かんだ小さな青は、ひどく痛々しい。「めそめそすんの終わり」という宣言通り、明るく振舞ってはいたけど。……でも、やっぱり。
何か言葉をかけたくても、全く何も浮かばない。だから、口は噤んだまま頭を傾けて少しだけ体重をかけた。
静寂が漂う。コチ、コチ、という秒針の音がやけに大きく聞こえた。
ベトベターがはっと顔を上げる。袖で乱暴に顔を擦りながら立ち上がり、駆け寄った。俺も急いで目元を拭い、ベトベターと社長さんに続く。
「あの……じっちゃんは……」
ギナは不安げなベトベターを静かに見つめ、ゆっくり口を開いた。
「彼が、君と話がしたいと。追い出しておいて申し訳ないが、行ってくれるかい?」
「……うん。でも、」
隣のベトベターを見上げれば小さな青と目が合う。さっき擦ったせいか、目の周りが真っ赤だ。
「ふたりで話すの、ちょっと怖ェから……お前も来てくんねェ?」
涙の跡がくっきり残った顔と弱々しい声でそんなこと言われて、ほっとけるわけないだろ。だらりと垂れ下がったベトベターの右手をぎゅっと握り、こっくり頷く。「……ありがとな」という小さな声と一緒に握り返された手は、やっぱりちょっと痛かった。
道を譲るようにギナが脇によける。ベトベターは深く息を吐き、そっとドアハンドルを引いた。握られた手の力が強くなる。それを握り返して、一緒に足を踏み出した。
おっさんはさっきと違い、ベッドの上で上体を起こしていた。珍しくフードを被っていない。「起きてていいのかよ」とベトベターが聞いたら、「ああ。今は落ち着いたし、薬も打った」と返ってくる。なんとなくだけど、今のおっさんの声も雰囲気も、いつもより刺々しくない気がした。
部屋の隅に積まれていた丸椅子を2つ引きずってきて枕元に並べる。奥側の椅子に腰を下ろしたベトベターがボソリと呟いた。
「……なんだよ、話って」
ちょっとぶっきらぼうなその言い方はおっさんと少し似ている。おっさんは目を伏せ、ゆっくり顔を上げた。黒い右目がまっすぐベトベターを映す。
「まずは、……病気だってずっと隠してたこと。今朝、置いて行こうとしたこと。……悪かった。悲しませちまうくらいなら知られたくなかったし、恨まれる方がマシだと思ったんだ」
深く深く、濃い紫の頭が下げられる。直後、「ふざけんな!!」という怒声と共にベトベターの椅子が激しい音を立てて倒れた。ベッドに片膝を乗り上げ、おっさんの胸倉を掴んで声を張り上げる。
「んだよそれ……ッ!意味わかんねェよ!マジ、ほんと、バッカじゃねェの!?今朝のことすげえムカついたし、つーか今もムカついてるし、めちゃくちゃ悲しかったよ!けど、あんなんで、俺があんたを恨むわけ……嫌いになるわけ、ねェだろうが……ッ!!」
ぼろぼろと、小さな青から大粒の涙が幾つも溢れ出す。しゃくりあげながらおっさんの胸板に頭を押し当てた。
「どんな理由でも、じっちゃんがいなくなんの、俺やだよ……」
消え入りそうな声は、痛いくらい切実で。思わず手を伸ばしかけて急停止。……そうだよな、あんたが先だ。
「……すまねェ」
褐色の手がそっとベトベターを抱き寄せる。紫に包まれ、緑の肩がびくりと跳ねた。おっさんはどこか遠慮がちだったけど、ベトベターが腕を背中に回してぎゅうっと力を込めると、目を見開いて――強く、強く、抱きしめた。
静かな部屋にベトベターのすすり泣く声だけが響く。
……一緒に来てって言われたけど、ここはふたりきりの方がいいんじゃねえかな。そろりと椅子から降りて抜き足差し足でドアの方へ向かおうとしたら、不意に後ろに引き戻された。振り返れば、ベトベターのシャツの裾がスライムみたいに伸びていて、俺の腰に巻きついている。お前こんなこともできたのか。器用な奴……。これは、まあ、「ここにいて」ってことだよな。
そういうことなら、とベトベターの背中にくっつき、そっと撫でた。ちゃんといるよ、と伝えるように。
「いつから、病気だったんだ」
おっさんの胸に顔を埋めたまま、ぽつりとベトベターが呟いた。おっさんはひどく簡潔に答える。
「12年前だ。カントーにいた頃に発病した」
「最初っからかよ……。ほんとふざけんな」
抗議するように頭をぐりぐり押し付ける。おっさんはもう一度「すまねェ」とだけ言った。
ベトベターは大きく鼻をすすり、再度口を開く。
「どういう病気?」
「〝モイライ症候群〟っつー、発病すると定期的に心臓に強い痛みの発作を繰り返した末に1年以内に突然心臓が止まる、ってやつだ。俺はなんでか、まだ生きてるが」
「今までも発作あった?」
「アローラに来てから段々落ち着いてたが……ここ最近、急に悪化した」
「それ、治んねェの」
「今も治療法は見つかってねェ」
「……どうにかなんねェのかよ」
「ならねェしできねェ」
「……もう、長くねェの」
「ああ。今朝の発作がデカいやつだったらしい。……あと10日、だと」
頭上で淡々と言葉が交わされる。最後の言葉を聞いて、ベトベターの背中が強張った。……おっさんが、あと、10日。急だし、全然ピンと来ないけど、でも、でも、こわい。思わずベトベターのシャツをぎゅうっと握りしめると、腰に巻きついたままだった緑の布がきゅっと締まった。
「やだ」
「そうか」
「絶対、やだ」
「……そうか」
「じっちゃんはやじゃねェの」
「……わかんねェ。とっくに腹ァ決めたつもりで、
おっさんの声は、聞いたことがないくらい穏やかだった。「……ずりィよ、そういうの」とくぐもった声が零れ落ちる。背中越しにベトベターが震えているのが伝わった。腰の布が痛いくらい締まっているせいなのか、それとも他の理由かわからないけど、どうしようもなく息が詰まる。
ふと、ベトベターがゆっくり顔を上げた。おっさんの背中に回していた腕も、俺の腰に巻き付けていたシャツもそれぞれ解く。俺をくしゃりとひと撫でして、蹴り飛ばしたままだった椅子を起こした。そこにもう一度腰を下ろし、ぐしゃぐしゃの顔を袖でぐいぐい拭う。そして、パンパン、と両頬を強く叩いた。
「急に知らされたことばっかで、まだ全然、受け止めらんねェし、受け止めたくもねェけど。めそめそすんの終わり!」
目も鼻も真っ赤で、涙の跡はさっきより濃くなってるし、声だってガラガラだ。でも、今日、はじめて笑顔を見せた。
「なァじっちゃん、教えてくれよ。カントーにいた頃とか、アローラに来るまでとか、色々。……あんたのこと、ちゃんと知りたい」
無理してるって俺にもわかるくらい、ヘタクソな笑顔だけど。こいつは残り僅かな時間を、僅かだからこそ、笑って楽しく過ごしたいんだ。なら俺も、こわいのは一旦置いておこう。こいつとおっさんがさいごまで楽しく過ごせるように。
ベトベターを真似て頬を叩く。……よし、もう、だいじょうぶ。自分の椅子を引きずって、ベトベターの椅子とぴったりくっつけ、その上に座った。いつも授業を受ける時みたいに肩と肩が触れ合う距離だ。
ちらりと見上げたベトベターは呆気に取られたような顔をして――ふっと綻ばせた。あ、と思う間もなく急に寄りかかってきて、椅子から落ちそうになる。あっぶねえなお前!あと重い!
じゃれつくベトベターと、じゃれつかれる俺を交互に見ていたおっさんが緩やかに口元をやわらげる。
「……わかった。隠し事はもう、ナシだ」
その表情は、さっき一瞬だけ見えたベトベターのものとよく似ていた。
☆
「つーか、今更だけど……俺も聞いていいの?」
「ああ。別に面白くもなんともねェが、聞きてェなら好きにしろ。……それに、テメェも全くの無関係、ってわけでもねェしな」
じゃれてくるベトベターを押しのけながら尋ねれば、おっさんは小さく頷いた。後半、どういう意味だろう。全然心当たりねえんだけど。
ふと、コンコンと軽い音が響く。開いたドアの隙間から社長さんが顔を出した。
「話してるとこ悪い。今いいか?」
「ああ」
おっさんの首肯に、社長さんと、その後ろからギナが部屋に入ってくる。社長さんはおっさんをまっすぐ見つめ、ぐしゃりと顔を歪めた。
「……お前の容態のこと、先生から聞いたよ。言いてえことは山程あるが、一先ずこれだけ言わせてくれ。本当に……ここでいいのか」
「ああ。ここが、いいんだ。……お前さえ、よければ」
「バカヤロウ、いいに決まってんだろ……ッ!」
「……すまねェ」
社長さんは拳と肩を震わせながら口をきつく引き結ぶ。何かを堪えるようにぐっと目を閉じ、数拍おいてゆっくり息を吐き出した。開いた眼差しをベトベターに向け、穏やかに問いかける。
「お前は?どうしたい?」
「俺……じっちゃんの側にいたい。離れたくねェ」
「なら、好きなだけ側にいてやれ。仕事のことは気にすんな」
俯きがちで歯切れ悪く答えるベトベターに、社長さんはからりと笑った。その言葉にばっと顔を上げる。
「……いいの?」
「お前らふたりにゃ、これまで沢山助けられてきたからな。休暇だ休暇。ゆっくり過ごせ」
「……うん。ありがとう、ございます」
ぐしゃぐしゃ撫でられながら緑の頭が再び俯く。優しい笑顔はそのままで、今度は俺に視線を向けた。
「ボウズ。よければ一緒にいてやってくれねえか。俺らもちょくちょく様子見に来るけど、
願ってもない申し出に「うん!」と頷きかけ、はっとギナを見る。それだけで俺の言いたいことが伝わったのだろう、ギナはやわらかく頷いた。
「ホウヤたちには俺から伝えておこう。くれぐれも、無理はいけないよ」
今度こそ大きく頷いて、ギナとふたりで「お世話になります」と頭を下げる。社長はおどけて「お世話します」と歯を見せた。
「となると、寝床がいるな。んー……よし、あれ持ってくるか」
「お手伝いしましょう」
「お、すまねえな。よろしく頼んます」
そんなやり取りをした社長さんとギナが部屋を出て行き、5分程で戻ってきた。ギナはオリーブグリーンのやや小ぶりなソファを抱えている。それを見てベトベターが「あ」と声を漏らした。
「休憩室のやつ」
「おう。ベッドにしちゃ、ちょっと狭えけどな」
手分けして丸椅子をどかしてソファを設置し、その上に畳まれた毛布2枚をクッション代わりに並べる。「いい感じじゃねえか」と社長さんが満足げに頷いた。
突然、グウ~~ッと派手な音が部屋中に響き渡る。発信源は俺、ではなくその隣。皆の視線を一気に集めたベトベターはきまり悪そうに首を竦めた。
「いや、なんか……気持ちが落ち着いてきたら、急に腹減ってきて……」
「ははは、食欲があんのはいいことだ。カミさんに何か作ってもらおう。ボウズ、アレルギーとか苦手なモンあるか?」
「ううん、どっちもない」
「よしきた」
再び社長さんが部屋を出て行く。壁にかけられた時計を見上げれば、5時過ぎ。あれから1時間経ってたのか。長いような、短いような。
ふと、ギナが懐からゴツい腕時計のような機械を取り出してベトベターに差し出した。
「ベトベターくん。君にこれを持っていて欲しい」
「えっと、これは……?」
ベトベターは物珍しそうな、戸惑ったような目でギナと機械を交互に見ている。
「ライブキャスターといってね。遠くにいる相手と話ができるものなんだ」
「あ、デンワってやつ?」
「ああ。俺の連絡先が登録してあるから、何かあったら呼んでくれ。すぐに駆け付ける」
バンビも覚えておくといい。そう言って、俺とベトベターに使い方を教えてくれる。ベトベターはちょっと苦戦してたけど、何度か操作するうちに問題なく使えるようになった。
仕上げにテストとして、順番にギナのライブキャスターに電話をかけてみる。どっちもちゃんとかけられたから、ベトベターと顔を見合わせてほっと息を吐く。ギナも「よくできました」と言うように微笑んだ。
「それから。彼にも話したが、この薬を1日3錠、朝昼晩に1錠ずつ飲ませるようにしてくれ。僅かだが発作の痛みを緩和できる」
ギナは錠剤を見せながら「あそこにあるから」と枕元のサイドテーブルを示す。俺たちが頷くと、目元をやわらげ――まっすぐに、ベトベターを見つめた。いつものおどけた色は一切ない。
「俺にできることは少ない。けれど……最後まで、全力を尽くす」
「……でも、じっちゃん、治んねェんだろ」
「ああ。……だが、彼が穏やかな終わりを迎えられるよう、可能な限り手を尽くしたい。尽くさせてほしい」
真剣な真紅の眼差しを受けとめたベトベターはきゅっと唇を引き結び、ライブキャスターを握りしめる。数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……俺にも、何かできることねェかな」
「手を握ったり、足を優しくさすったりしてあげるといい」
うん、とさっきよりも大きく頷く。そこへ、コンコンとノックが響いた。
「待たせたな腹ペコども。とくと味わえ!」
意気揚々と帰還した社長さんの手の上の皿には山盛りのスパムにぎりが乗っていた。うわーっうまそう!正直あんまり空腹を感じてなかったけど、いざ目の前にご馳走を出されたらじわりと涎が溢れる。
「やったー!じっちゃんも食お……!?」
振り向いたベトベターがぎょっと目を剥く。つられて後ろを見れば、おっさんはぐったりと壁に頭をもたれかけ、固く目を閉じていた。え、と思う間もなく素早くギナが駆け寄り、脈を測る。そして――表情をやわらげた。
「心配ない。眠っているだけさ。先程薬を打ったから、それが効いてきたのだろう」
一同、深く息を吐く。よかった……マジでビビった……。さっきから静かだなとは思ったけど、寝てるだけか……。まだバクバク言ってる心臓を落ち着かせるため、胸をゆっくりさする。
ギナとベトベターでそっとおっさんを仰向けに寝かせて布団をかける。大皿と3人分のおいしい水をサイドテーブルに置いた社長さんは「お」とベトベターの手元に目を向けた。
「そのライブキャスター、先生からか?」
「うん。何かあったら連絡して、って」
「そーかそーか。なら俺の番号も登録してもらうか」
ちょっと貸してくれ、と言われて差し出す。受け取ったライブキャスターを難なく操作して、「ほい」と返された機械の画面には、ギナの下に社長さんの名前も表示されていた。
「じゃあ俺、仕事行くわ。何かあったらそれですぐ呼べよ」
ふたり一緒に頷けば、ふたりとも頭を撫でられた。それから、ギナに頭を下げる。
「慌ただしくてすんません。色々、ありがとうございます」
「いえ。あなたにも、俺の連絡先をお伝えします。何かあればすぐお呼びください」
ピピピ、とライブキャスターを操作し合う。敬語のギナ、初めて見たな。別に俺が使われてるわけじゃないのに慣れなくてなんかムズムズする。
「俺も病院に戻ります。今夜……そうだな、19時頃にまた伺います」
社長さんとベトベターに会釈して、俺にはひらりと手を振って、ポニーテールを揺らしながらドアの向こうに消える。続いて、「またな」と社長さんも部屋を後にした。
ふたり分の足音が遠ざかっていく。ちらりとベトベターを見上げたら、あいつもこっちを見ていた。いたずらっぽく目を細め、ぺろりと唇を舐める。
「とりあえず、食うか」
「うん」
社長さんの奥さん、いただきます!
おっさんの分は取っておいて、ふたりで奥さんお手製のスパムにぎりにかぶりついた。めっちゃうめえ。特にこのたまごも挟んであるやつ。
ベトベターもぱくぱく食べてたけど、流星群を見た時と比べると量は控えめだ。……まあ、そうだよな。うまいもんはうまいけど、それとこれとは別だし。
ごちそうさまでした、と手を合わせる。残った分にはラップをかぶせ直して、またサイドテーブルへ。
膨れた腹を抱えてソファに身を沈める。ベトベターは片方だけ立てた膝を抱え、そこに顎を乗せた。視線はまっすぐおっさんを見つめている。白にぽつんと浮かんだ小さな青は、ひどく痛々しい。「めそめそすんの終わり」という宣言通り、明るく振舞ってはいたけど。……でも、やっぱり。
何か言葉をかけたくても、全く何も浮かばない。だから、口は噤んだまま頭を傾けて少しだけ体重をかけた。
静寂が漂う。コチ、コチ、という秒針の音がやけに大きく聞こえた。