トリカブトと手を繋ぐ
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***
不意に物音がして、重い瞼をゆっくり持ち上げた。
ぼんやりした視界の中、紫が揺れている。あれ、は……じっちゃんのマントだ。
「……じっちゃん?」
寝ぼけた掠れ声に右目が振り返る。いつもなら「野暮用だ。始業時間までに戻る」とか言われて、俺は二度寝して、帰ってきたじっちゃんに叩き起こされて、一緒にリサイクルプラントに行って……。
でも、今日は、じっちゃんは何も言わずに出て行った。まだ上手く働かない脳みそにひやりとしたものが走って、思わずマントの端を掴む。それをしっかり握りしめ、寝床の割れ目から急いで這い出した。空はまだ仄暗い。頭を振って眠気を振り払う。
「どこ行くんだよ」
「どこでもいいだろ。テメェにゃ関係ねェ」
いつもより冷たい声に少し怯む。なんで?怒ってる?でも、なんかわかんねえけど、行かせたくなくて、引き留めたくて、必死に食い下がった。
「そう、だ、けど……関係ねェけど、関係なくねェよ!だって、だってあんたは俺の、」
言い終わる前にマントを握っていた手を振り払われる。俺と正面から向き合ったじっちゃんは、なにかを懸命に押し殺しているような顔をしていて、それに再度怯んだ。
「もう関係ねェんだよ、テメェも、社長 らも。……俺ァ今日、ここを出て行く」
「……は?」
間抜けな声が零れ落ちる。低く低く吐き出された言葉が、飲み込めない。飲み込みたくなんかない。なんで、急に、そんな、
「まって……待ってくれよ、なんで、」
「前から思ってたことだ。ここは空気も水も澄み過ぎてる。住みづれェったらありゃしねェ」
「んなこと言ってずっと住んできたじゃねェか!仕事だって……社長さんたちには、」
「話した。〝今までありがとう。もう大丈夫だ〟だとよ」
口にした先から淡々と切り捨てられる。なんで、なんで、なんで。
「どうしても出て行くってんなら、俺も行く!俺も連れてってくれ!」
「駄目だ。テメェはもうひとりで生きていけるだろ」
「そんなの関係ねェよ!俺はあんたとずっと、」
一緒にいたいんだよ。いさせてくれよ。
「もう子守りはウンザリなんだよ!!」
一番伝えたいことを言葉にする前に、激しい拒絶が耳をつんざいた。土嚢でぶん殴られたようなずしんとした衝撃に襲われ、伸ばしかけた手がびたりと止まる。
じっちゃんの右目がはっと見開かれて、ぐしゃりと歪む。そのまま――ぐらり、傾いた。
動けなくて、ただ、見ていた。どさ、と重い音が鈍く響いた瞬間、全身の温度が急激に下がる。
「じっちゃん……?じっちゃん!!おい!!どうしたんだよ、じっちゃん!!」
どんなに呼んでもゆすっても、瞼は固く閉じられたまま。
なんでなんでなんでなんで、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭の中は真っ白で、そのくせぐちゃぐちゃで。紫の背中にぼたぼた染みを作りながら、わけもわからずじっちゃんを呼び続けた。時折漏れる苦しそうな声に寒さとぐちゃぐちゃが加速する。
「おーい!どうした!?」
滲んだ視界の中、水色が駆け寄ってくる。それが社長さんだと気付いた途端、視界が更にぼやけて歪む。
「しゃちょ……どうしよ、じ、じっちゃんが、たおれて、おきなくてっ、」
社長さんは大きく目を見開き、ぎゅっと唇を引き結んで俺の両肩をしっかり掴んだ。真剣な眼差しにまっすぐ見つめられ、ぐちゃぐちゃが少しだけ収まる。
「いいか、よく聞け。ベーやんは俺が仮眠室に連れて行く。その間、お前は医者を呼んできてくれ。マリエシティのコークム医院、お前のダチの家だ。医者が来てくれれば、どうにかなるかもしれねえ。……できるか?」
ルヒカの家。場所も道順も覚えてる。腕のいい医者が沢山いるって、あいつはいつも話してた。
こっくり頷いて地面に飛び込んだ。土の中を全速力で滑っていく。
じっちゃん、待ってて。すぐ呼んでくるから。すげえ医者連れてくるから。だから、だから……目、開けてくれよ。
☆
「――バンビ。バンビ。起きたまえ」
「んん……」
薄く目を開くと、目の前にギナの顔があった。……なんで?起こしに来るの、いつもジンコなのに。
「昨日、朝摘みをしようと言ったろう。4時だよ」
やわらかな声と一緒に前髪を撫でられる。あー……思い出した。まだ眠い目をこすりつつ、もぞもぞ布団から這い出す。
着替えを済ませてそっとドアを開けると、廊下は真っ暗だった。まだ日が昇る前だから、うちで一番早起きのミバも流石に寝てるらしい。
「足元、気を付けて」
ギナの囁きに頷きを返し、なるべく音を立てないように洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗って、漸く意識がしゃっきりする。
廊下で待っていたギナと一緒にそろりそろりと階段を下りていく。飛び跳ねたいくらいわくわくしてるけど、階段で暴れると危ないし、みんなを起こしちゃ悪いから、がまんがまん。
家族用玄関から庭に出る。深呼吸して、夜明け前のひんやりした空気を胸いっぱい吸い込んだ。
ギナに渡されたランプラー型のランタンに明かりを灯す。それに驚いたのか、きのみ畑からレディバが数匹飛び立った。
「ルヒカ!!」
突然大声で名前を呼ばれ、肩が跳ねる。振り向くや否や、涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃにしたベトベターに両肩を引っ掴まれた。
「ベトベター!?お前、なんで」
「じっちゃんが……じっちゃんが倒れたんだ。俺、医者呼んできてって言われて、そんで、」
おっさんが、倒れた?ひゅっと背中が凍りつく。寒くて寒くて足が震えて、カシャン、と俺の手から滑り落ちたランタンが草の上に転がった。
そっと、温かいものが背中に触れる。ギナの手だ。ギナはゆっくり俺とベトベターの背中を撫でながら、穏やかに声をかけた。
「落ち着いて。ゆっくり息をして。俺は医者だ。〝じっちゃん〟がいつどこで倒れたのか、教えてくれるかい?」
「さ、さっき……リサイクルプラントの前……。話してたら、急に倒れて、苦しそうで……呼んでも、全然、目ェ開けてくんねェんだッ」
小さな青が浮かんだ三白眼からぼろぼろ雫を溢れさせながら、ベトベターの手が俺の肩から外れる。手の甲で乱暴に顔を拭って、ギナに深く深く頭を下げた。
「お願いします……ッ!じっちゃんを、たすけて……」
ギナはぐっと唇を引き結び、真剣な眼差しで「全力を尽くそう」と答えた。転がったままのランタンを拾い上げ、もう一度俺に手渡す。
「バンビ。彼の側にいてあげてくれるかい」
「うん」
「ありがとう、よろしく頼む。薬箱を取ってくるから、少しだけ待っていてくれ」
ベトベターが頷いたのを確認し、すぐさまタスキを翻して家に戻っていった。
バタン、扉が閉じて、静寂が訪れる。こっそりベトベターを見上げると、相変わらず顔中ぐしゃぐしゃだ。声をかけてやりたいけど、なんて言えばいいかわからない。でも、何かしたくて、そっとベトベターの手を握った。
ベトベターははっと俺を見て、くしゃりと顔を歪ませた。痛いくらいの強さでぎゅうっと握り返される。ギナが戻ってくるまで、無言のまま手を握り合っていた。
☆
数分もしないうちにギナが戻ってきた。薬箱を持っていない方の手で手招きされて、寄っていったらそののまま抱き上げられる。ああ、急がないとだから、俺が自分で歩くよりこっちのが速いもんな。落ちないようにギナの服にしっかり掴まる。
「待たせたね。行こう」
しんと静まり返った町中を、ふたつの緑が駆け抜けていく。ヒトの姿をしていてもポケモンだから、ただ走るだけでもすごく速い。気付けばリサイクルプラントに着いていた。
入り口の前で社長さんが待っていて、俺たちを見るなり安堵を滲ませる。
「ああ、戻ったか!よく来てくだすった……!あんたが先生かい」
「はい。コークム医院のギナといいます。患者はどちらに?」
こっちだ、と案内されたのは仮眠室。「ベーやん、入るぜ」と社長さんが軽くノックしてドアを開ける。中のベッドに横たわっていたおっさんは、薄っすらまぶたを持ち上げ――大きく目を見開いた。すぐ近くからも鋭く息を飲む音が聞こえる。思わず見上げたギナの視線は、おっさんに釘付けになっていた。
ギナ、と呼ぶ前にそっと床に降ろされる。ギナはベッドサイドのテーブルに薬箱を置き、くるりとこちらを向いた。もう、医者の顔に戻っている。
「今から診察をします。すまないが、暫し席を外していただけないだろうか」
「いやだ」
小さな声が拒絶する。俯きがちのベトベターは、おっさんに掛けられた布団の端を握りしめ、ゆるゆる首を振った。
「もう、じっちゃんの側離れんの、いやだ」
幼い子どものように首を振り続けるベトベターの背中は、いつもよりずっと小さく見えて、息が詰まる。
誰も何も言えないままの沈黙を破ったのは、おっさんだった。
「……頼む。こいつとふたりで話がしてェ」
カラカラに掠れた声はひどく切実で。ベトベターはぎゅっと唇を噛みしめ、入り口の近くにいた社長さんを押しのけるように部屋を出て行った。咄嗟に俺も後を追う。背後でドアを閉める音がして、社長さんが横に並ぶ。
ずんずん足早に歩いていたあいつは、不意に足を止めた。大きく項垂れ、右手で顔を覆う。
「……ルヒカも社長も、知ってたんだろ、じっちゃんのこと」
低く吐き出された言葉に、伸ばしかけた手が止まる。ばっと振り向いたあいつは、ぼろぼろ泣きながら叫んだ。
「みんな知ってんのに!!何で俺だけ知らねェんだよ!!なァ!?おかしいだろ!!」
悲痛な絶叫が突き刺さる。じわりと滲み出そうになった熱を必死で抑え込んだ。一番泣きたいのは、つらいのは、あいつだ。
「違う、俺とコイツだけが知ってたんだ。お前だけ知らなかった訳じゃ……」
「でも俺に隠してたのは事実じゃねェか!!何で教えてくれなかったんだ!!」
社長さんの言葉を遮り、俺たちをギッと睨みつけた。小さな青い瞳には、どうしようもないくらいの怒りと悲しみが渦巻いている。……ああ、もう、だめだ。
「じっちゃんもあんたらも、隠し事ばっかで!大事なこと何も言ってくれねェ!!俺そんなに信用ねェかよ……っ」
気付けば床を蹴っていて、泣き叫ぶあいつに思いっきり抱きついた。ぎゅうっと回した腕に力を込める。
「ごめん、黙ってて。俺たちが悪い。お前は、何も悪くねえから。……ほんとに、ごめんな」
ぱたぱた、と熱い雫が幾つも降ってくる。大人しくなったベトベターは、ずるずる崩れ落ちて膝をついた。急な重みによろめいたけど、社長さんが背中を支えてくれたから倒れずに済んだ。緑色の頭をしっかり抱きしめ直す。
「……なんで、おれ……ずっといっしょにいたのに……。なんでだよォ……。おれ、じっちゃんのこと……なんもしらねェ……」
あいつは俺の左肩に顔を埋め、弱々しく呟いた。左肩がじわじわ湿っていく。俺もあいつの左肩に顔を押し付け、さっきから何度も何度も込み上がってくるものを押し留める。
不意に背中にあった温もりが離れた。大きくてゴツゴツした手にわしわし頭を撫でられ、上からベトベターごと力いっぱい抱きしめられる。
あんまりぎゅうぎゅうされて息苦しいから、ちょっとだけ涙が滲んだ。
不意に物音がして、重い瞼をゆっくり持ち上げた。
ぼんやりした視界の中、紫が揺れている。あれ、は……じっちゃんのマントだ。
「……じっちゃん?」
寝ぼけた掠れ声に右目が振り返る。いつもなら「野暮用だ。始業時間までに戻る」とか言われて、俺は二度寝して、帰ってきたじっちゃんに叩き起こされて、一緒にリサイクルプラントに行って……。
でも、今日は、じっちゃんは何も言わずに出て行った。まだ上手く働かない脳みそにひやりとしたものが走って、思わずマントの端を掴む。それをしっかり握りしめ、寝床の割れ目から急いで這い出した。空はまだ仄暗い。頭を振って眠気を振り払う。
「どこ行くんだよ」
「どこでもいいだろ。テメェにゃ関係ねェ」
いつもより冷たい声に少し怯む。なんで?怒ってる?でも、なんかわかんねえけど、行かせたくなくて、引き留めたくて、必死に食い下がった。
「そう、だ、けど……関係ねェけど、関係なくねェよ!だって、だってあんたは俺の、」
言い終わる前にマントを握っていた手を振り払われる。俺と正面から向き合ったじっちゃんは、なにかを懸命に押し殺しているような顔をしていて、それに再度怯んだ。
「もう関係ねェんだよ、テメェも、
「……は?」
間抜けな声が零れ落ちる。低く低く吐き出された言葉が、飲み込めない。飲み込みたくなんかない。なんで、急に、そんな、
「まって……待ってくれよ、なんで、」
「前から思ってたことだ。ここは空気も水も澄み過ぎてる。住みづれェったらありゃしねェ」
「んなこと言ってずっと住んできたじゃねェか!仕事だって……社長さんたちには、」
「話した。〝今までありがとう。もう大丈夫だ〟だとよ」
口にした先から淡々と切り捨てられる。なんで、なんで、なんで。
「どうしても出て行くってんなら、俺も行く!俺も連れてってくれ!」
「駄目だ。テメェはもうひとりで生きていけるだろ」
「そんなの関係ねェよ!俺はあんたとずっと、」
一緒にいたいんだよ。いさせてくれよ。
「もう子守りはウンザリなんだよ!!」
一番伝えたいことを言葉にする前に、激しい拒絶が耳をつんざいた。土嚢でぶん殴られたようなずしんとした衝撃に襲われ、伸ばしかけた手がびたりと止まる。
じっちゃんの右目がはっと見開かれて、ぐしゃりと歪む。そのまま――ぐらり、傾いた。
動けなくて、ただ、見ていた。どさ、と重い音が鈍く響いた瞬間、全身の温度が急激に下がる。
「じっちゃん……?じっちゃん!!おい!!どうしたんだよ、じっちゃん!!」
どんなに呼んでもゆすっても、瞼は固く閉じられたまま。
なんでなんでなんでなんで、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭の中は真っ白で、そのくせぐちゃぐちゃで。紫の背中にぼたぼた染みを作りながら、わけもわからずじっちゃんを呼び続けた。時折漏れる苦しそうな声に寒さとぐちゃぐちゃが加速する。
「おーい!どうした!?」
滲んだ視界の中、水色が駆け寄ってくる。それが社長さんだと気付いた途端、視界が更にぼやけて歪む。
「しゃちょ……どうしよ、じ、じっちゃんが、たおれて、おきなくてっ、」
社長さんは大きく目を見開き、ぎゅっと唇を引き結んで俺の両肩をしっかり掴んだ。真剣な眼差しにまっすぐ見つめられ、ぐちゃぐちゃが少しだけ収まる。
「いいか、よく聞け。ベーやんは俺が仮眠室に連れて行く。その間、お前は医者を呼んできてくれ。マリエシティのコークム医院、お前のダチの家だ。医者が来てくれれば、どうにかなるかもしれねえ。……できるか?」
ルヒカの家。場所も道順も覚えてる。腕のいい医者が沢山いるって、あいつはいつも話してた。
こっくり頷いて地面に飛び込んだ。土の中を全速力で滑っていく。
じっちゃん、待ってて。すぐ呼んでくるから。すげえ医者連れてくるから。だから、だから……目、開けてくれよ。
☆
「――バンビ。バンビ。起きたまえ」
「んん……」
薄く目を開くと、目の前にギナの顔があった。……なんで?起こしに来るの、いつもジンコなのに。
「昨日、朝摘みをしようと言ったろう。4時だよ」
やわらかな声と一緒に前髪を撫でられる。あー……思い出した。まだ眠い目をこすりつつ、もぞもぞ布団から這い出す。
着替えを済ませてそっとドアを開けると、廊下は真っ暗だった。まだ日が昇る前だから、うちで一番早起きのミバも流石に寝てるらしい。
「足元、気を付けて」
ギナの囁きに頷きを返し、なるべく音を立てないように洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗って、漸く意識がしゃっきりする。
廊下で待っていたギナと一緒にそろりそろりと階段を下りていく。飛び跳ねたいくらいわくわくしてるけど、階段で暴れると危ないし、みんなを起こしちゃ悪いから、がまんがまん。
家族用玄関から庭に出る。深呼吸して、夜明け前のひんやりした空気を胸いっぱい吸い込んだ。
ギナに渡されたランプラー型のランタンに明かりを灯す。それに驚いたのか、きのみ畑からレディバが数匹飛び立った。
「ルヒカ!!」
突然大声で名前を呼ばれ、肩が跳ねる。振り向くや否や、涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃにしたベトベターに両肩を引っ掴まれた。
「ベトベター!?お前、なんで」
「じっちゃんが……じっちゃんが倒れたんだ。俺、医者呼んできてって言われて、そんで、」
おっさんが、倒れた?ひゅっと背中が凍りつく。寒くて寒くて足が震えて、カシャン、と俺の手から滑り落ちたランタンが草の上に転がった。
そっと、温かいものが背中に触れる。ギナの手だ。ギナはゆっくり俺とベトベターの背中を撫でながら、穏やかに声をかけた。
「落ち着いて。ゆっくり息をして。俺は医者だ。〝じっちゃん〟がいつどこで倒れたのか、教えてくれるかい?」
「さ、さっき……リサイクルプラントの前……。話してたら、急に倒れて、苦しそうで……呼んでも、全然、目ェ開けてくんねェんだッ」
小さな青が浮かんだ三白眼からぼろぼろ雫を溢れさせながら、ベトベターの手が俺の肩から外れる。手の甲で乱暴に顔を拭って、ギナに深く深く頭を下げた。
「お願いします……ッ!じっちゃんを、たすけて……」
ギナはぐっと唇を引き結び、真剣な眼差しで「全力を尽くそう」と答えた。転がったままのランタンを拾い上げ、もう一度俺に手渡す。
「バンビ。彼の側にいてあげてくれるかい」
「うん」
「ありがとう、よろしく頼む。薬箱を取ってくるから、少しだけ待っていてくれ」
ベトベターが頷いたのを確認し、すぐさまタスキを翻して家に戻っていった。
バタン、扉が閉じて、静寂が訪れる。こっそりベトベターを見上げると、相変わらず顔中ぐしゃぐしゃだ。声をかけてやりたいけど、なんて言えばいいかわからない。でも、何かしたくて、そっとベトベターの手を握った。
ベトベターははっと俺を見て、くしゃりと顔を歪ませた。痛いくらいの強さでぎゅうっと握り返される。ギナが戻ってくるまで、無言のまま手を握り合っていた。
☆
数分もしないうちにギナが戻ってきた。薬箱を持っていない方の手で手招きされて、寄っていったらそののまま抱き上げられる。ああ、急がないとだから、俺が自分で歩くよりこっちのが速いもんな。落ちないようにギナの服にしっかり掴まる。
「待たせたね。行こう」
しんと静まり返った町中を、ふたつの緑が駆け抜けていく。ヒトの姿をしていてもポケモンだから、ただ走るだけでもすごく速い。気付けばリサイクルプラントに着いていた。
入り口の前で社長さんが待っていて、俺たちを見るなり安堵を滲ませる。
「ああ、戻ったか!よく来てくだすった……!あんたが先生かい」
「はい。コークム医院のギナといいます。患者はどちらに?」
こっちだ、と案内されたのは仮眠室。「ベーやん、入るぜ」と社長さんが軽くノックしてドアを開ける。中のベッドに横たわっていたおっさんは、薄っすらまぶたを持ち上げ――大きく目を見開いた。すぐ近くからも鋭く息を飲む音が聞こえる。思わず見上げたギナの視線は、おっさんに釘付けになっていた。
ギナ、と呼ぶ前にそっと床に降ろされる。ギナはベッドサイドのテーブルに薬箱を置き、くるりとこちらを向いた。もう、医者の顔に戻っている。
「今から診察をします。すまないが、暫し席を外していただけないだろうか」
「いやだ」
小さな声が拒絶する。俯きがちのベトベターは、おっさんに掛けられた布団の端を握りしめ、ゆるゆる首を振った。
「もう、じっちゃんの側離れんの、いやだ」
幼い子どものように首を振り続けるベトベターの背中は、いつもよりずっと小さく見えて、息が詰まる。
誰も何も言えないままの沈黙を破ったのは、おっさんだった。
「……頼む。こいつとふたりで話がしてェ」
カラカラに掠れた声はひどく切実で。ベトベターはぎゅっと唇を噛みしめ、入り口の近くにいた社長さんを押しのけるように部屋を出て行った。咄嗟に俺も後を追う。背後でドアを閉める音がして、社長さんが横に並ぶ。
ずんずん足早に歩いていたあいつは、不意に足を止めた。大きく項垂れ、右手で顔を覆う。
「……ルヒカも社長も、知ってたんだろ、じっちゃんのこと」
低く吐き出された言葉に、伸ばしかけた手が止まる。ばっと振り向いたあいつは、ぼろぼろ泣きながら叫んだ。
「みんな知ってんのに!!何で俺だけ知らねェんだよ!!なァ!?おかしいだろ!!」
悲痛な絶叫が突き刺さる。じわりと滲み出そうになった熱を必死で抑え込んだ。一番泣きたいのは、つらいのは、あいつだ。
「違う、俺とコイツだけが知ってたんだ。お前だけ知らなかった訳じゃ……」
「でも俺に隠してたのは事実じゃねェか!!何で教えてくれなかったんだ!!」
社長さんの言葉を遮り、俺たちをギッと睨みつけた。小さな青い瞳には、どうしようもないくらいの怒りと悲しみが渦巻いている。……ああ、もう、だめだ。
「じっちゃんもあんたらも、隠し事ばっかで!大事なこと何も言ってくれねェ!!俺そんなに信用ねェかよ……っ」
気付けば床を蹴っていて、泣き叫ぶあいつに思いっきり抱きついた。ぎゅうっと回した腕に力を込める。
「ごめん、黙ってて。俺たちが悪い。お前は、何も悪くねえから。……ほんとに、ごめんな」
ぱたぱた、と熱い雫が幾つも降ってくる。大人しくなったベトベターは、ずるずる崩れ落ちて膝をついた。急な重みによろめいたけど、社長さんが背中を支えてくれたから倒れずに済んだ。緑色の頭をしっかり抱きしめ直す。
「……なんで、おれ……ずっといっしょにいたのに……。なんでだよォ……。おれ、じっちゃんのこと……なんもしらねェ……」
あいつは俺の左肩に顔を埋め、弱々しく呟いた。左肩がじわじわ湿っていく。俺もあいつの左肩に顔を押し付け、さっきから何度も何度も込み上がってくるものを押し留める。
不意に背中にあった温もりが離れた。大きくてゴツゴツした手にわしわし頭を撫でられ、上からベトベターごと力いっぱい抱きしめられる。
あんまりぎゅうぎゅうされて息苦しいから、ちょっとだけ涙が滲んだ。