トリカブトと手を繋ぐ
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おっさんに言われるがまま家に帰って、それからどう過ごしたのか、全然覚えてない。気付いたら夜で、ベッドに潜り込んでいた。
苦しそうなおっさんの姿と、交わした言葉が頭の中でずっとぐるぐる回っていて。怖くて、不安で、ぐちゃぐちゃで、布団にくるまって一晩中泣いた。よくわかんねえ怖い夢を繰り返し見て、ずっとずっと泣いた。
後から聞いた話だけど、俺は帰ってきて早々、高熱を出して寝込んだらしい。心因性発熱、いわゆる知恵熱ってやつだ。ギナやジンコが色々声をかけてくれてたような気もするけど、ほとんど覚えてない。
熱が下がってからも大事を取って1日中ベッドの上で大人しくしていた。病み上がりだからか無性に寂しかったけど、みんなが交代でそばに居てくれたから、寂しさも不安も少しずつ和らいでいった。
寝込んでいる時も、ベッドで過ごす間も、何度も何度もおっさんのことが頭を過った。
あれから3日。数日ぶりにはずれの岬に遊びに行ったら、ベトベターから熱烈な歓迎を受けた。頭をわしゃわしゃ撫でくり回される。
「ひっさしぶりだなァ~!つっても3日くらいか!急に来なくなっからどうしたのかと思ったら、風邪引いてたんだってなァ。体、もうヘーキか?」
「うん。最近ちょっと夜更かししててさ、それが祟ったみたいだ。心配かけてごめん」
「いーっていーって。元気になったんならよかった」
明るい笑顔にチクリと胸が痛む。俺が床に臥せっている間、ベトベターが様子を見にうちに来たことはジンコから聞いていた。ぶっ倒れてたのは事実だけど、その原因がおっさんの秘密を知ったから、なんて言えるわけがない。だけどやっぱり、めちゃくちゃ後ろめたい。
そっと視線を巡らせる。いつもの場所に紫の姿はない。それがなんだか急に怖くなって、少し震えた声を出す。
「……なあ、おっさんは?」
「野暮用っつってどっか行っちまった。ここ最近そうなんだよなァ。夜には帰ってくるんだけど」
「最近って……どのくらい?」
「10日前くらいかなァ。今日は朝からだけど、仕事の合間とか、授業の後とか、急にフラッといなくなるんだ。社長さんもセンパイたちもどこにいるか知らねェってさ」
それってやっぱり、この前の発作みたいなやつと関係あるのかな。こいつや皆に知られないように、苦しくなったら姿を消して、ひとりで痛みをやり過ごしてるのかな。
……もし、ひとりでいる時に、そのまま死んじゃったら、おっさんは。大好きなひとが自分の知らないところで苦しんでて、自分が知らないうちに死んじゃったら、ベトベターは。
さむい。こわい。くるしい。いきが、うまく、できない。
「おーい。大丈夫かァ?」
ベトベターの声にはっと我に返る。いっそ、こいつに全部話した方が。でも。でも。……でも。
「……ごめん、ちょっと、ボーッとしてた」
結局答えは出せなくて言い訳を口にする。ベトベターは何か言いたそうだったけど、何も言わずに俺の頭にふわりと手を置いた。
「やっぱまだ本調子じゃねェんじゃね?あんま無理すんなよ」
「……うん。ごめん」
あったかい声と手にじわりと涙が滲む。それに気付かれたくなくて、頷くフリをして俯いた。
あの日からずっと、喉の奥に針みたいなものが引っかかっている。
……なんか、やだな。こいつと話すの、いつもすっげえ楽しいのに。今日は全然、楽しくない。
☆
おっさんがどっか悪いってことをベトベターに隠してるのは、よくないと思う。知らされるのが遅ければ遅いほどあいつはきっと悲しむ。……けど、知ってしまったら、あいつはどうなるんだろう。どれほど悲しむだろう。どのみち悲しませてしまうなら、やっぱり黙ってた方がいいのかな。でも。だけど。でも。
どんなに考えてもどうすればいいのか全然わからない。こういう時、話を聞いて欲しいのは。
2階に降りて、右手側の一番手前にある部屋のドアを叩く。すぐに「どうぞ」と落ち着いたテノールが返ってきたから、少しだけドアを開けて顔をのぞかせる。
「ギナ。今、いい?」
「おや。どうしたんだい、バンビ」
椅子に座ったままくるりと振り向いたギナは、僅かに目を丸くして、緩やかに三日月を作った。おいでと手招きされ、きちんと整った部屋に足を踏み入れる。
俺や父ちゃんと違い、ギナの部屋は綺麗だ。本や資料は全部本棚に収まってるし、机の上にあるのはノートパソコンとペン立てだけ。ミバやジンコと比べると、必要最低限の物しか置いてないって感じ。ああいや、ゴーシュの方がすごいか。あいつの部屋、ベッドしかないもんな。パソコンとか仕事で使うものはスタッフルームに置いてるんだっけ。
閑話休題。示されたベッドに腰を下ろし、赤い瞳を見上げる。ギナは穏やかな表情で俺が言葉を発するのを待っていた。深呼吸を1つして、ゆっくり口を開く。
「……あのな。知り合いの、なんつーか……でけえ秘密を知っちゃって。誰にも言うなって言われたんだ。でも、俺の友達はそのひとがすげえ大事で大好きだから、その秘密を知らないままなのは……たぶん嫌だし、つらいと思う。けど、だからって俺が勝手に話しちゃうのも違うよな、って」
ギナだったら、どうする?
最後にそう付け加え、もう一度赤を見上げた。口元はさっきと同じで穏やかだけど、赤の奥に浮かぶ色の正体がわからなくて少しゾクリとする。
「……そうだな。俺なら、秘密にするよ。隠しておきたい相手が死ぬまで」
ギナの答えは半分予想通りだった。予想外の方の半分をオウム返しにする。
「相手が死ぬまで?自分が死ぬまで、じゃなくて?」
「ああ。俺の死後、どこから秘密が漏れてしまうか分からないだろう?相手が知らないまま死ねば、文字通り生涯知られることはない」
静かな声でそう言って、すっと目を細めた。
「そのひとの秘密は、知った者を悲しませたり、心配をかけてしまうようなものではないかい?」
「……うん。あいつが知ったら、すげえショックだと思う」
「きっとそのひとは、君の友人がとても大切なのだろうね。大切だから悲しませたくない、心配させたくない、傷ついて欲しくない。……そういう気持ちは、よくわかる」
目を伏せながらやけに実感のこもった言い方でぽつぽつと吐露するギナは、……ほんの少し、こわい。ふと頭に浮かんだのは灼熱のマグマを限界まで溜め込んだ火山と、泣き出す寸前の赤ん坊だった。一度瞼に覆われて、再び露になった赤がまっすぐ俺を映す。
「いいかい、バンビ」
どこか冷たくて、でも何となく見覚えのある眼差し。そこから目を逸らせなくて、逸らしたくなくて、じっと見つめ返した。
「この世には知っておくべきこと、知っておいた方がいいこと、知ると楽しいことが沢山ある。……けれど、知らなくてもいいこと、知らない方がいいことも、あるんだ」
紡がれたその言葉は、諭すような、懇願するような響きを持っていた。胸がぎゅうっとなって思わず目を伏せる。
ギナの言うことは、きっと正しい。……でも。もう一度、真紅と視線をぶつけ合う。
「それでも俺は……知りたい。例え知らなくてもいいこと、知らない方がいいことでも。知らなければよかったって傷ついたとしても。知らないことを知らないままでいるのは、いやだ」
沸々と内側から湧き出でたものを言葉に変える。知らないより知ってる方が、ちゃんと戦える気がするんだ。「何と」かはわかんねえけど。あいつもきっと、そうだと思う。やっぱりおっさんからちゃんと伝えなきゃだめだ。そのために、俺ができることは。
「……そうか」
ギナは真意の読めない表情のあと、緩くまなじりを下げた。見慣れた顔にちょっぴりほっとする。
「何か答えは出せたかい?」
「うん。せめてあいつには話そう、って言ってみる。それで考えが変わるとは思わねえけど……でも、とにかく話すよ。何度でも」
「そうか。頑張れ」
穏やかな微笑みと一緒に大きな手が俺の頭の上でやわらかく跳ねた。……うん、いつものギナだ。
何となく、さっきのやけに実感のこもった言い方が気になったから聞いてみる。
「なあ、ギナにも秘密にしたいこととかある?」
「勿論。色男と美女には秘密がつきものだからね」
途端に笑みをキザったらしいものに変え、シャラリーンと効果音がつきそうな動作で束ねた髪を払った。ほんっとお前さあ。ぺっと頭に置かれた手を払い除ける。
何がおかしいのかくすくす笑っていたギナがふと思い出したように「そういえば」と切り出した。
「以前、きのみによって収穫に最適な時間が異なると教えたろう?明日の畑当番は俺なんだが、君も朝摘み、やってみるかい?」
「えっ、やる!やりたい!」
「わかった。明日は4時に起こすから、もう寝たまえ」
えー、とぶうたれつつ時計を見れば、20時少し過ぎ。今から寝たら睡眠時間は8時間だからいつもより少なめだ。……起きれなかったらやだし、寝るかあ。
***
同日、深夜。リサイクルプラントの休憩室でふたりの男が向かい合っていた。水色の作業着の男――社長が沈黙を破る。
「話って何だよ、改まって」
「……明日の朝、ここを出て行く」
紫のフードを目深に被った男――ベトベトンが押し出した言葉に社長は大きく目を見開いた。プルタブを開けようとしていた缶ビールをテーブルの上に戻す。
「……随分急じゃねえか。理由、聞いてもいいか?」
「発作がひどくなった。……たぶん、そろそろだ」
淡々と告げられる答えに社長はぐっと眉根を寄せ、「……そうか」と深く深く息を吐いた。
「聞いちゃいたけど、お前全然そんな素振り見せねえからよ。俺ァてっきり、もう良くなったんだとばかり……。ああくそ、ちょっと待ってろ!」
手で目元を覆った社長の声がどんどん震えていく。テーブルの上のティッシュを乱暴に引き抜き、盛大に鼻をかんだ。ベトベトンはじっと黙ったまま微動だにしない。
「これまでも、発作はあったのか」
「頻繁にってわけじゃねェが、年に何度かな。ここ数年は随分落ち着いてたんだが……原因に、心当たりはなくもねェ」
そっと左胸に手を当てる。彼が抱える病のことを社長だけが知っていた。つい数日前までは。
何が原因だ、と内心己を嘲笑う。責任転嫁してんじゃねェよクソッタレ。身から出た錆、全部自分 のツケだろうが。この期に及んでみっともねェ。
ズキリ。左目に走る痛みと同時にもう1つの〝持病〟が鎌首をもたげそうになったので、無理矢理踏みつけて奥の底まで蹴飛ばした。小さく息を吐き、低い声で問いかける。
「借りは、返せたか」
「十分過ぎるくらいだ。……今まで、本当にありがとう」
「……すまねェ」
目を潤ませながらあたたかく微笑む社長に深く深く頭を下げた。積年の感謝と謝罪をこめて。
「よせよ。元々〝うちで働かねえか〟って持ちかけたのは俺だろ。みんなにも俺から話しとく」
からりと笑ってベトベトンの肩を叩く。ゆっくり持ち上げられたフードの下の顔はいつもよりずっと険しい。しょうがねえ奴、と腹の中で独りごちた。
「あいつは、どうするんだ」
「置いて行く」
「……だよなぁ。連れて行っちゃ、意味ねェもんな」
ベトベトンは何も言わなかった。「誰にも知られるわけにはいかない。特に、ベトベター には」。痛みに襲われる度、それだけを握り締めていた。けれど、もう。
「世話になった。ありがとよ」
「おう。……じゃあな」
紫の背中は一度も振り返らずにドアの向こうへ消える。「バカヤロウ」と呟いて、もう一度鼻をすすった。
苦しそうなおっさんの姿と、交わした言葉が頭の中でずっとぐるぐる回っていて。怖くて、不安で、ぐちゃぐちゃで、布団にくるまって一晩中泣いた。よくわかんねえ怖い夢を繰り返し見て、ずっとずっと泣いた。
後から聞いた話だけど、俺は帰ってきて早々、高熱を出して寝込んだらしい。心因性発熱、いわゆる知恵熱ってやつだ。ギナやジンコが色々声をかけてくれてたような気もするけど、ほとんど覚えてない。
熱が下がってからも大事を取って1日中ベッドの上で大人しくしていた。病み上がりだからか無性に寂しかったけど、みんなが交代でそばに居てくれたから、寂しさも不安も少しずつ和らいでいった。
寝込んでいる時も、ベッドで過ごす間も、何度も何度もおっさんのことが頭を過った。
あれから3日。数日ぶりにはずれの岬に遊びに行ったら、ベトベターから熱烈な歓迎を受けた。頭をわしゃわしゃ撫でくり回される。
「ひっさしぶりだなァ~!つっても3日くらいか!急に来なくなっからどうしたのかと思ったら、風邪引いてたんだってなァ。体、もうヘーキか?」
「うん。最近ちょっと夜更かししててさ、それが祟ったみたいだ。心配かけてごめん」
「いーっていーって。元気になったんならよかった」
明るい笑顔にチクリと胸が痛む。俺が床に臥せっている間、ベトベターが様子を見にうちに来たことはジンコから聞いていた。ぶっ倒れてたのは事実だけど、その原因がおっさんの秘密を知ったから、なんて言えるわけがない。だけどやっぱり、めちゃくちゃ後ろめたい。
そっと視線を巡らせる。いつもの場所に紫の姿はない。それがなんだか急に怖くなって、少し震えた声を出す。
「……なあ、おっさんは?」
「野暮用っつってどっか行っちまった。ここ最近そうなんだよなァ。夜には帰ってくるんだけど」
「最近って……どのくらい?」
「10日前くらいかなァ。今日は朝からだけど、仕事の合間とか、授業の後とか、急にフラッといなくなるんだ。社長さんもセンパイたちもどこにいるか知らねェってさ」
それってやっぱり、この前の発作みたいなやつと関係あるのかな。こいつや皆に知られないように、苦しくなったら姿を消して、ひとりで痛みをやり過ごしてるのかな。
……もし、ひとりでいる時に、そのまま死んじゃったら、おっさんは。大好きなひとが自分の知らないところで苦しんでて、自分が知らないうちに死んじゃったら、ベトベターは。
さむい。こわい。くるしい。いきが、うまく、できない。
「おーい。大丈夫かァ?」
ベトベターの声にはっと我に返る。いっそ、こいつに全部話した方が。でも。でも。……でも。
「……ごめん、ちょっと、ボーッとしてた」
結局答えは出せなくて言い訳を口にする。ベトベターは何か言いたそうだったけど、何も言わずに俺の頭にふわりと手を置いた。
「やっぱまだ本調子じゃねェんじゃね?あんま無理すんなよ」
「……うん。ごめん」
あったかい声と手にじわりと涙が滲む。それに気付かれたくなくて、頷くフリをして俯いた。
あの日からずっと、喉の奥に針みたいなものが引っかかっている。
……なんか、やだな。こいつと話すの、いつもすっげえ楽しいのに。今日は全然、楽しくない。
☆
おっさんがどっか悪いってことをベトベターに隠してるのは、よくないと思う。知らされるのが遅ければ遅いほどあいつはきっと悲しむ。……けど、知ってしまったら、あいつはどうなるんだろう。どれほど悲しむだろう。どのみち悲しませてしまうなら、やっぱり黙ってた方がいいのかな。でも。だけど。でも。
どんなに考えてもどうすればいいのか全然わからない。こういう時、話を聞いて欲しいのは。
2階に降りて、右手側の一番手前にある部屋のドアを叩く。すぐに「どうぞ」と落ち着いたテノールが返ってきたから、少しだけドアを開けて顔をのぞかせる。
「ギナ。今、いい?」
「おや。どうしたんだい、バンビ」
椅子に座ったままくるりと振り向いたギナは、僅かに目を丸くして、緩やかに三日月を作った。おいでと手招きされ、きちんと整った部屋に足を踏み入れる。
俺や父ちゃんと違い、ギナの部屋は綺麗だ。本や資料は全部本棚に収まってるし、机の上にあるのはノートパソコンとペン立てだけ。ミバやジンコと比べると、必要最低限の物しか置いてないって感じ。ああいや、ゴーシュの方がすごいか。あいつの部屋、ベッドしかないもんな。パソコンとか仕事で使うものはスタッフルームに置いてるんだっけ。
閑話休題。示されたベッドに腰を下ろし、赤い瞳を見上げる。ギナは穏やかな表情で俺が言葉を発するのを待っていた。深呼吸を1つして、ゆっくり口を開く。
「……あのな。知り合いの、なんつーか……でけえ秘密を知っちゃって。誰にも言うなって言われたんだ。でも、俺の友達はそのひとがすげえ大事で大好きだから、その秘密を知らないままなのは……たぶん嫌だし、つらいと思う。けど、だからって俺が勝手に話しちゃうのも違うよな、って」
ギナだったら、どうする?
最後にそう付け加え、もう一度赤を見上げた。口元はさっきと同じで穏やかだけど、赤の奥に浮かぶ色の正体がわからなくて少しゾクリとする。
「……そうだな。俺なら、秘密にするよ。隠しておきたい相手が死ぬまで」
ギナの答えは半分予想通りだった。予想外の方の半分をオウム返しにする。
「相手が死ぬまで?自分が死ぬまで、じゃなくて?」
「ああ。俺の死後、どこから秘密が漏れてしまうか分からないだろう?相手が知らないまま死ねば、文字通り生涯知られることはない」
静かな声でそう言って、すっと目を細めた。
「そのひとの秘密は、知った者を悲しませたり、心配をかけてしまうようなものではないかい?」
「……うん。あいつが知ったら、すげえショックだと思う」
「きっとそのひとは、君の友人がとても大切なのだろうね。大切だから悲しませたくない、心配させたくない、傷ついて欲しくない。……そういう気持ちは、よくわかる」
目を伏せながらやけに実感のこもった言い方でぽつぽつと吐露するギナは、……ほんの少し、こわい。ふと頭に浮かんだのは灼熱のマグマを限界まで溜め込んだ火山と、泣き出す寸前の赤ん坊だった。一度瞼に覆われて、再び露になった赤がまっすぐ俺を映す。
「いいかい、バンビ」
どこか冷たくて、でも何となく見覚えのある眼差し。そこから目を逸らせなくて、逸らしたくなくて、じっと見つめ返した。
「この世には知っておくべきこと、知っておいた方がいいこと、知ると楽しいことが沢山ある。……けれど、知らなくてもいいこと、知らない方がいいことも、あるんだ」
紡がれたその言葉は、諭すような、懇願するような響きを持っていた。胸がぎゅうっとなって思わず目を伏せる。
ギナの言うことは、きっと正しい。……でも。もう一度、真紅と視線をぶつけ合う。
「それでも俺は……知りたい。例え知らなくてもいいこと、知らない方がいいことでも。知らなければよかったって傷ついたとしても。知らないことを知らないままでいるのは、いやだ」
沸々と内側から湧き出でたものを言葉に変える。知らないより知ってる方が、ちゃんと戦える気がするんだ。「何と」かはわかんねえけど。あいつもきっと、そうだと思う。やっぱりおっさんからちゃんと伝えなきゃだめだ。そのために、俺ができることは。
「……そうか」
ギナは真意の読めない表情のあと、緩くまなじりを下げた。見慣れた顔にちょっぴりほっとする。
「何か答えは出せたかい?」
「うん。せめてあいつには話そう、って言ってみる。それで考えが変わるとは思わねえけど……でも、とにかく話すよ。何度でも」
「そうか。頑張れ」
穏やかな微笑みと一緒に大きな手が俺の頭の上でやわらかく跳ねた。……うん、いつものギナだ。
何となく、さっきのやけに実感のこもった言い方が気になったから聞いてみる。
「なあ、ギナにも秘密にしたいこととかある?」
「勿論。色男と美女には秘密がつきものだからね」
途端に笑みをキザったらしいものに変え、シャラリーンと効果音がつきそうな動作で束ねた髪を払った。ほんっとお前さあ。ぺっと頭に置かれた手を払い除ける。
何がおかしいのかくすくす笑っていたギナがふと思い出したように「そういえば」と切り出した。
「以前、きのみによって収穫に最適な時間が異なると教えたろう?明日の畑当番は俺なんだが、君も朝摘み、やってみるかい?」
「えっ、やる!やりたい!」
「わかった。明日は4時に起こすから、もう寝たまえ」
えー、とぶうたれつつ時計を見れば、20時少し過ぎ。今から寝たら睡眠時間は8時間だからいつもより少なめだ。……起きれなかったらやだし、寝るかあ。
***
同日、深夜。リサイクルプラントの休憩室でふたりの男が向かい合っていた。水色の作業着の男――社長が沈黙を破る。
「話って何だよ、改まって」
「……明日の朝、ここを出て行く」
紫のフードを目深に被った男――ベトベトンが押し出した言葉に社長は大きく目を見開いた。プルタブを開けようとしていた缶ビールをテーブルの上に戻す。
「……随分急じゃねえか。理由、聞いてもいいか?」
「発作がひどくなった。……たぶん、そろそろだ」
淡々と告げられる答えに社長はぐっと眉根を寄せ、「……そうか」と深く深く息を吐いた。
「聞いちゃいたけど、お前全然そんな素振り見せねえからよ。俺ァてっきり、もう良くなったんだとばかり……。ああくそ、ちょっと待ってろ!」
手で目元を覆った社長の声がどんどん震えていく。テーブルの上のティッシュを乱暴に引き抜き、盛大に鼻をかんだ。ベトベトンはじっと黙ったまま微動だにしない。
「これまでも、発作はあったのか」
「頻繁にってわけじゃねェが、年に何度かな。ここ数年は随分落ち着いてたんだが……原因に、心当たりはなくもねェ」
そっと左胸に手を当てる。彼が抱える病のことを社長だけが知っていた。つい数日前までは。
何が原因だ、と内心己を嘲笑う。責任転嫁してんじゃねェよクソッタレ。身から出た錆、全部
ズキリ。左目に走る痛みと同時にもう1つの〝持病〟が鎌首をもたげそうになったので、無理矢理踏みつけて奥の底まで蹴飛ばした。小さく息を吐き、低い声で問いかける。
「借りは、返せたか」
「十分過ぎるくらいだ。……今まで、本当にありがとう」
「……すまねェ」
目を潤ませながらあたたかく微笑む社長に深く深く頭を下げた。積年の感謝と謝罪をこめて。
「よせよ。元々〝うちで働かねえか〟って持ちかけたのは俺だろ。みんなにも俺から話しとく」
からりと笑ってベトベトンの肩を叩く。ゆっくり持ち上げられたフードの下の顔はいつもよりずっと険しい。しょうがねえ奴、と腹の中で独りごちた。
「あいつは、どうするんだ」
「置いて行く」
「……だよなぁ。連れて行っちゃ、意味ねェもんな」
ベトベトンは何も言わなかった。「誰にも知られるわけにはいかない。特に、
「世話になった。ありがとよ」
「おう。……じゃあな」
紫の背中は一度も振り返らずにドアの向こうへ消える。「バカヤロウ」と呟いて、もう一度鼻をすすった。