イヌサフランの芽吹き/age.5

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主人公

 処置室の一番奥、既に清潔そうな白いタオルが敷かれている処置台に、ツツケラはいた。術衣に着替えたホウヤは、そこから少し離れた場所に踏み台を置き、その上にルヒカを立たせた。

「落ちないよう気をつけろ。声も出すな」

 父の言葉にこくりと頷く。帽子とマスクの間から覗く青い瞳が少しだけ細められた。

 見知らぬ場所に連れ込まれて身を固くしているツツケラに、ギナが穏やかな声音で話しかける。弱々しくも甲高い警戒音を上げていたツツケラだったが、ギナと言葉を交わすうちに徐々に大人しくなっていった。

「彼は巣立ちしたばかりらしくてね。餌を求めてマリエシティに来たら、街灯柱に嘴をぶつけてしまったらしい」

 ルヒカもホウヤもポケモンの言葉がわからない。その代わり、擬人化したポケモンであるギナたちが通訳してくれていた。

 ギナは手袋を嵌めた両手で包み込むようにツツケラを抱き上げ、右手で首元を支えながら嘴を開けさせた。赤黒く染まった口の中は下嘴の右側が大きく欠けており、その破片が内側の肉に突き刺さっている。血塗れのそれは想像より遥かにショッキングで、ルヒカは視線を逸らしたくなるのと吐き気が込み上がってくるのを必死で堪えた。自分が知りたいと我儘を言ったのだ、きちんと見届けなければ。
 ホウヤは鉗子でそっと抽出した嘴の破片をツツケラとルヒカに見せた。

「こいつは下顎骨。人間でいうと下顎の骨だ。これが折れると嘴の強度が落ちて餌を捕食するのが難しくなる。から、ワイヤー使って固定する」

 両者へ向けて手短に解説すると、破片を手元の膿盆に入れ、ギナに視線を送る。

「ワイヤー締結で固定する。糸はアリアドスのやつ頼む」
「承知した」

 ホウヤはアリアドスの糸が材質の縫合糸を好んで使っていた。ある地域で機織りにも使われているそれは、非常に丈夫なのである。
 ツツケラを一旦処置台に寝かせたギナが器具の用意をしている間、ホウヤは普段の素っ気なさからかけ離れた優しい視線と声で、ツツケラに語りかけた。

「今からお前の嘴を治療する。怖えだろうが少しだけ我慢してくれ。必ず元通りにしてやる」

 ツツケラが小さく、けれどしっかり頷いたのを見届け、ホウヤは準備を終えたギナに目配せした。今度はギナが頷く。

「ねむりごな」

 かざした右手から緑色の粉が噴射され、ツツケラに降り注ぐ。途端、ツツケラの瞼がゆっくりと落ちていき、かくりと首が垂れた。緩やかに上下する体から小さな寝息が聞こえてくる。ギナはその体に、右腕から伸ばしたつるを優しくゆっくりと巻き付けていき、左手で体を支えた。それから、そっと右手で首元を支えてもう一度嘴を開けさせる。

 ホウヤは下嘴の内側にガーゼを敷いて、ピンドリルを構え、側面から少しずつ下嘴に穴を開けていった。じわり、真っ白なガーゼが鮮やかな赤に染められていく。ルヒカは飛び出そうになった悲鳴を無理矢理飲み込んだ。
 ドリルが貫通すると、それを引き抜いて開いたピンホールに注射針を挿入する。注射針にワイヤーを通し、対面に出ている先端が針になっている側から出して鉗子で把持する。その後、注射針を引き抜いてワイヤーだけを下嘴に残した。ワイヤーで下嘴を締結し、同じ要領で骨折部の前後にワイヤー締結を施す。最後に破れた嘴外皮を縫合して修復し──治療は終了した。

 1時間に満たない時間だったが、ルヒカにはあっという間のような、もっと長かったように感じた。カサカサになった唇をゆっくり舐めると、ほんのり鉄の味がする。声を上げるまいと何度も噛み締めたせいで、少し切れてしまったようだ。
 未だ安らかな寝息を立てているツツケラをギナに預け、ホウヤはマスクと手袋を外して大きく伸びをする。

「あとはポケモンセンターに預けて、最低10日は経過観察だな。ポケモンは人間より自然治癒力が高いから、きちんと手当すりゃこのくらいの怪我なら1ヶ月くらいで治る。完治したら抜糸して、元気になったら野生に返す」

 ルヒカは聞いているのかいないのか、どこかぼんやりとした面持ちでホウヤとツツケラを交互に眺めていた。緊張の糸が切れたのだろう。時間のかからない簡単な処置から見せた方がよかったかもしれないという反省と、言いつけ通り一度も声を出さなかったことへの賞賛を兼ねて、息子の頭に手を乗せる。

「よく頑張ったな。疲れたろ、飯食って昼寝しろ」

 わしわし撫でられながら、少年は緩慢な動きでやっと頷いた。

 半ば逃げ出すように3階の居住スペースに戻ったルヒカは、サラダサンドをなんとか胃袋に詰め、自室のベッドに潜り込む。体は睡眠を欲しているのに、どんなに固く目を閉じても何度寝返りを打っても、ツツケラの血に塗れた口の中と、父の真剣な眼差しが脳裏に焼き付いて、なかなか寝付けなかった。



 結局その後、ルヒカが昼寝から目覚めたのは夕飯時だった。随分寝てしまった、父に聞いておきたいことがあったのに。目を擦りながら開けたドアの先から、とろりとしたミルクのような匂いが漂ってくる。シチューだろうか。
 廊下を抜けてリビングに入ると、一層いい匂いがした。キッチンを覗けば、大柄なブレイズヘアの女性が鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。

「ジンコ」
「あら~~ルヒカちゃん起きた~~?おはよう~~。もうすぐだから、ちょっと待っててね~~」
「うん。シチュー?」
「そうよ~~」

 後ろから声をかけると、彼女──ジンコは振り返ってにっこり笑った。どちらかと言えばせっかちなルヒカだが、のんびり屋の彼女と話していると程よく気が抜ける。
 ジンコと取り留めのない会話を交わしながら配膳を手伝う。全員分の配膳が終わる頃、複数の階段を上る足音がした。数秒後、わらわら入ってきたカラフルな男たちが口々に「ただいま」を言う。

「あー腹減った」
「当然だ馬鹿者!またしても昼食をゼリー飲料で済ませおって、食事はきちんと摂れと何度言ったら……おい、聞いているのか!」
「悪かったって。声でけえんだよハイボ野郎」
「誰がハイパーボイス野郎だ!俺は君の健康を憂慮して、」
「まあまあミバくん、ホウヤくんのこれは今更直らないでしょ」
「黙れ、君もだぞゴーシュ!ゴーストタイプはあまり食事を必要としないとはいえ、栄養摂取を疎かにするな!」
「あれ、何でおじさんも怒られてるの」
「今日もおいしそうだねジンコ嬢。俺の胃も心も、すっかり君の虜だよ」

 洗面所に直行するホウヤの呟きにドデカバシのミバが噛み付き、宥めようとしたゲンガーのゴーシュにも小言が飛び火する。ミバは父の、ゴーシュは母の手持ちだ。騒ぐ3名をまるっと無視してジンコにウインクを飛ばすのはギナである。

 最初に手洗いうがいを済ませて席に着いたホウヤにルヒカは尋ねた。

「母ちゃんは?」
「まだ作業終わらねえから先食っててくれってよ」

 ふうん、と気のない返事をする。ルヒカの家では、食事時に家族が全員揃わないのはよくあることだった。6人も揃った今日は珍しいケースだ。ちなみに一番ルヒカと食事のタイミングが合わないのは、しょっちゅう食事を忘れて仕事に没頭するホウヤ……ではなく、様々な地方を飛び回っていて、家を空けることの多い母である。今回は1週間ほどアローラにいるらしい。

 全員が席に着いてから、揃って「いただきます」を唱え、一斉にスプーンを動かす。コクのあるクリーミーなルーと野菜の甘みが口の中でとろけ合い、胃に熱を届ける。一口目で自分が空腹だったことに気が付いたルヒカは、早速ほくほくのじゃがいもにかぶりついた。

 食事と後片付けが済むと、それぞれ自室や仕事場へ引っ込んだ。まだやることがあるらしい。オトナは大変だな、と思いつつルヒカも部屋に戻り、読みかけのリージョンフォーム図鑑を開いた。
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