ミリアッドカラーズ
初めに目に入ったのは、こちらを覗き込む少年の姿だった。
「大丈夫か?」
うっすら目を開けたリアムは、少年の顔をじっと見つめる。絹のような
返事がないリアムに少年は眉をひそめ、顔の前で手を振っては反応を確かめた。
「おーい……」
「だ、大丈夫……」
リアムはゆっくり身を起こし、辺りの景色に目を見張る。
そこは意識を失った廃墟の中ではなく、一面が銀色に染まる世界。数えきれないほどの鏡が浮遊している
なんの感情も感じ取れない無機質な空間に、リアムは不気味さと懐かしいという相反する気持ちを抱いた。
「ここは?」
リアムの質問に、傍らで片膝をつく少年は視線を横に逸らす。都合が悪い質問をしてしまったのだろうかと不安になるリアムに、少年は口を開く。
「……ここは《
「そんな世界が……」
現実味がないおとぎ話のような話だが、夢ではなく現実であることはじんじんと感じる
「オマエもどっかの鏡から迷い込んだなら、その鏡が近くにあるはずなんだが……どうにも見当たらなくてな」
少年は申し訳なさそうに眉尻を下げたが、次にはキリッと眉を釣り上げる。
「でも心配しないでくれ。オレが必ず帰してやるからな!」
「う、うん……」
勢いに押されリアムは頷くも、何が何だかさっぱりである。ひとまずリアムは、目の前の少年について行くことにした。
「あっそうだ。オマエ、名前はなんていうんだ?」
「リアムだよ。君は?」
「オレはアステル。そう呼んでくれ」
先導するアステルと名乗る少年に続いたリアムは、忙しなく視線を周囲へ向ける。
辺りに浮遊する大小様々な鏡面にはあらゆる景色がありありと映し出されていた。忙しなく行き交う人々、笑顔溢れる少年ら、メイクを整える女の子、物悲しい部屋の中。ひとつひとつの鏡に映る光景はどれをとっても同じではない。『世界中の鏡と繋がっている』というのは本当のようだ。
知らない場所、知らない景色。
(こんな世界があるんだ……)
一生かけても見られない多くの景色。それをここ《鏡界》は可能とする。
改めて世界は広く不思議に満ちているのだ、と実感した。
「ねえ、アステル君」
「何だ?」
「僕達は今何処に向かってるの?」
どちらが右で左で前で後ろなのか。判別材料もない空間でアステルの足取りはしっかりしていた。先程の『必ず帰してやる』発言を信用するならば、出口へと案内しているはずだ。
「オマエが通ってきた鏡がわからないって話をしただろ?」
「うん。さっき言ってたね」
「その鏡がどこにあるかを教えてもらおうと思って」
「……どなたに?」
「
アステル曰く《鏡界》全体を把握・管理する人物にリアムが通った鏡が何処にあるのかを聞くため、その人物が待つ空間に繋がる鏡のもとへ向かっている、との話。
「アステル君以外にも人がいるんだね」
「……まあ、な。とにかくソイツなら知ってるから、聞いてみよう」
アステルの気遣いが心に染みる。リアムは「ありがとう」と笑いかけた。
「そういえばさ、アステル君はここで何をしているの?」
「オレ? オレは《鏡界》を歩き回ったりしてるな。たまにモンスターが入ってくるんだよ。それを追い出したり倒したり……」
「へえ〜! 用心棒的なことをしてるんだ。凄いね!」
リアムの眼差しに、アステルは首を振って否定しながら苦笑。
「別に凄いことじゃあない。追い払うだけで精一杯な敵も沢山いるしな」
「そんなことないよ! 僕なんてモンスターに遭遇したら回れ右の逃げるが勝ちだもん。立ち向かってるだけでも凄いことだよ」
(褒められてるらしいが素直に喜べない……)
「あっ」
足を止めたリアムに釣られ、アステルもそちらを見遣る。
「『ロバツス諸島』にも繋がってるんだ! いいなぁ、一回行ってみたいな〜」
地平線の向こう岸に続くターコイズブルーの海、見渡す限り広がる白い砂浜、視界を彩るのは赤いハイビスカス。
鏡に映る景色にリアムが目を輝かせるのを、アステルは不思議そうに見つめる。
「ロバ……なんちゃらって有名なとこなのか?」
「うんっ! 世界三大絶景の一つにも認定されてる『ロバツス諸島』だよ、知らない?」
「……悪い、その……オレ『外の世界』について詳しくなくて……」
リアムは途端に冷や汗を体中から噴き出す。
「ごめんなさい!」
「ああ、いや、気にしないでくれ。教えてもらって嬉しかったから」
恐る恐る下げた頭を上げながら、リアムは尋ねる。
「……アステル君はどのぐらい《
「……さあな。わっかんねぇや」
そう返したアステルの『嘘っぽい』笑顔に、リアムは視線を落としたがすぐに。
「さっきさ、《鏡界》は世界中の鏡と繋がってるって言ったよね」
「あ、ああ。そうだな」
急にどうしたんだと尋ねるより速く、リアムはアステルと目線を合わせては言葉を紡ぐ。
「なら僕が帰っても、鏡越しに会話出来る?」
「……え」
「話し相手ぐらいにはなるよ。せっかくいろいろな場所の景色を見られるのに何か分からないなんてつまらないじゃん? 僕が知ってることなら教えるし、知らなかったら一緒に調べようよ」
ねっ? と微笑むリアムに、答えようとアステルが喉を震わせた――その瞬間。
「――‼︎」
ばっとアステルは後方へと振り向く。リアムも肩越しに覗き込むが何もない。
「あ、アステル君⁇」
「……モンスターが入って来たみたいだ」
「うえっ⁉︎ どどどどうしよううう」
「違う空間だからこっちには来ない」
アステルは先程とは打って変わり、険しい顔つきで近くの鏡に手を触れる。すると鏡面の景色がぐにゃりと変化し、この空間と似た景色が映し出され水面のように波打つ。
「悪いリアム。オレ行かなくちゃ」
「だっ大丈夫なの⁉︎」
「平気平気。先に『アイツ』のとこに行っててくれ。あそこに見えるのがそうだから」
アステルが示した方向に建つ二つの柱、その中央には他より
「うん、分かった。気をつけてね」
「おう。……リアム、約束してくれ。アイツから願い事を聞かれても――絶対に答えるな。絶対に」
そう告げた理由も、リアムの返答も待たず、アステルは鏡の向こうへと姿を消す。
残されたリアムは不安と恐怖を胸に。一歩、二歩と、管理者が待つ鏡へと歩む。
鏡を潜り抜けた先にも広がる銀色の世界。だが、特殊な空間であることは一目で分かった。
(結晶……?)
空間にぽつんと存在する銀の結晶。結晶の表面はまるで万華鏡の如く、リアムともう一人――少女の姿を宿す。彼女こそが《鏡界》の管理者だ、と直感する。
「――ようやく会えた」
艶やかな月白の髪を揺らした少女は、そうリアムを迎えた。
初対面の相手にそんな言葉をかけられれば戸惑うのも当然。リアムは眉根を寄せる。
「どういう意味……?」
「それが貴方の『願い』なら答えるわ。貴方が知りたいこと全て、私が叶えてあげる」
眉ひとつ動かさず淡々と告げる少女。
つい先程言われたアステルの言葉が、リアムの脳裏を駆け巡った。
(アステル君は『願い事を聞かれても答えるな』って言ってた。……)
「――分かった。聞かせてほしい」
でも。
「これは『願い』じゃない。君の気が向かないなら答えなくていい」
震える声を抑えつけ見据えるリアムに、少女は長い
「……そう言われたのは初めてね」
短い沈黙を経て、少女は目を開けた。
「いいわ、教えてあげる」
密かに安堵したリアムを双眸に映し、少女は言い放つ。
「貴方を《鏡界》に引き入れたのは私」
「うえええ何で⁉︎」
「それは――
貴方が私と同じ『精霊王』だから」
頭をガツンと殴られたほどの衝撃。呆然、唖然を通り越して――虚無の領域へ。
それは欠けていたピースが、ある日突然見つかったように。
安堵と落胆の気持ちで情緒がぐちゃぐちゃになるあの感覚が、リアムを虚無から引き摺り出す。
『嘘』の一文字が脳内を羅列するが、否定の言葉が出てこない。
僕の中にある『剣』が――ようやく気付いたのか――と嗤った気がした。
他方、別の鏡へと移ったアステルは《鏡界》に侵入したモンスターとエンカウントする。
討ち取った戦士の遺品だろうか――両手に
(見るからに頑丈な体だな……ここは《鏡界》から追い出すのがいいか)
はち切れんばかりに膨れ上がった肉体は、盾そのもの。強力な攻撃
タイミングを合わせ――矢を番えたアステルはミノタウロスに向けて放つ――が、先にミノタウロスのほうがアステルの存在に気づいてしまう。
闘牛の如く暴れ狂うミノタウロスは異様な速さでアステルに接近。その体つきからは想像もできない
「【
展開される星形の障壁が、アステルをミノタウロスの突進から守る。
しかし衝撃全てを押し殺すことはできず、反動でアステルの体は大きく後退。接近したミノタウロスの影がアステルを覆い尽くす。
(まず――)
死を予感したアステルの視界に瞬く青閃。
間髪入れず血飛沫が噴出、切り離されたミノタウロスの『首』が宙を舞う。
呆然とするアステルの眼前。残されたミノタウロスの体がぐらりと傾き、地に沈む。その奥では、血に塗れた剣をヒュンッと振り鳴らす少年の姿が。
少年――ルシャントが視線をアステルへと移すと、彼らは互いに瞠目する。
「「どうしてここに……⁉︎」」
見知った人物、それも『《鏡界》にいないと思っていた人物』との
「『ティナクル』! 会いたかった……ずっと、会いたかった!」
目端に涙を滲ませ、アステルは必死に叫ぶ。
ルシャントは苦々しく顔を歪め、ぐっと目を瞑る。
「……その言葉だって嘘に決まってる」
「そ、れは……っ、ティナクル、話が」
聞くつもりはないと言わんばかりに立ち去るルシャントの背に手を伸ばす。
――アステル、来て。
(……今の声)
その時、アステルは幻聴を耳にした。彼女の声を。気のせいかで片付けるには嫌な予感が付き纏う。
遠ざかるルシャントに後ろ髪を引かれながらも、アステルは踵を返した。目指すはリアムが向かったのと同じ鏡。
「?」
背後から聞こえた足音に、ルシャントは訝しげに振り返る。
そこにはアステルの姿はなく、ミノタウロスの死骸が鎮座するのみ。
目を