Angel's No.3

仕事を終えて、一人暮らしの家に帰る。
家に着いてから、帰宅後のルーティンを片付けてソファで寛いでいると、窓の外からポタポタと音がすることに気づく。
ソファから立ち上がって、カーテンを少し開けて見れば、外は激しい雨が降っていた。
帰る時には降っていなかったから、通り雨だろう。この大雨に降られなくて良かったと思いながら、俺はまたカーテンを閉めた。

明日は休みだから、少しゆっくり起きてから家事を片付けるかな……。
あぁ、新しく発表された論文も目を通しておかないとな……。

そんなことをぼんやりと考えていたら、インターホンが鳴った。
何かネットで買った覚えはない。母さんが荷物を送る時はいつも事前に連絡をくれるはずだけど、何か送ってきたのだろうか?

「はい」
インターホンの通話ボタンを押してそう言った。
「……突然ごめん……。僕。ミズキ」
低いけれど幼さも残る聞き覚えのある声に驚いて、慌てて玄関のドアを開けた。
そこには、全身びしょびしょに濡れて俯いている幼馴染、瑞貴がいた。
「瑞貴、どうしたの?」
幼馴染とはいえ、別に近所に住んでいるわけでもないし、会うのは年に数回。時々連絡は取っているくらいの仲だ。
そんな彼が、連絡もなく突然家に押し掛けてくるなんて一体何があったのか……。
「ごめん……急に……あの……」
「とにかく、そのままじゃ風邪ひくから入って」
俯いたままの濡れ鼠を玄関の中に入れて、俺は洗面所からバスタオルを取ってきて、彼の頭に掛けた。そして、そのまま頭をゴシゴシ拭いてやると、瑞貴が慌ててバスタオルに手をかける。
「あっ、自分で拭くからいいよ……」
「そう?とにかく、詳しい話は後で聞くから、まずはシャワーしな」
そう言って、彼を家の中に入れて風呂場へ連れて行った。
「えっと、これがシャンプー。こっちがボディソープね。着替えは置いておくから。濡れたやつはそのまま洗濯機に入れちゃって」
「あ……うん」
口数が少ないのは、こんな状況だからなのだろうか? 瑞貴があまり喋らないなと思いながら、俺は脱衣所の扉を閉めて、彼に渡す着替えを探しにクローゼットへ行く。自分よりもだいぶ小柄だからな……とりあえず部屋着でいいか、と適当なシャツとパンツを出して、再び脱衣所に戻った。
濡れ鼠は、おとなしくシャワーを浴びている様だったので、そのまま着替えを置いて脱衣所の扉をしめた。


***


さて。このソファに膝を抱えて座っている子をどう家に帰そうか……。
シャワーの後、バツが悪そうに膝を抱えてソファに座っている瑞貴。なんでこんなことになったのか、普通に聞きたいだけなのだけど、あまり尋問するのも良くないであろう空気が漂っている。
とりあえず、コーヒーでもどうかと出してみたものの、手を付けてもらえずにそのまま置いてある。
「……夕飯は食べた?」
他愛のない話を振ってみる。瑞貴は、俺の質問に小さく首を横に振る。
「まだ。仕事終わって、そのままだから」
「そっか。じゃあ、何か用意するね」
「……うん。ありがと……」

瑞貴って、こんなに口数少なかったっけ?
いや、たまに遊んだ時は、女子高生かな?ってくらいめちゃくちゃ喋る子だ。だいたいは仕事とか父親の愚痴で、それを頷きながら聞いてるのが俺のスタイルだ。
それが、どうして今日はこんなに話が進まないのだろう……。
このままでは埒があかない。俺もお腹空いたし、早く寝たい。
そう思って単刀直入に訊いてみた。

「で、今日は突然どうしたの? 連絡もなしに、突然来るなんて、瑞貴らしくないんじゃない?」
そう言うと、瑞貴は抱えた膝に顔を埋めるようにして黙った。
あぁ、失敗したか。なかなか扱いの難しい子だ。
長い付き合いの俺ですら、地雷を踏む時があるのだから、この子をうまく扱える人など存在するのだろうか?
そう思っていると、ボソボソと瑞貴が喋り出した。
「……仕事から帰ってすぐ、父親とケンカした。いつもなら、無視して部屋に籠るんだけど、今日はものすごく腹が立って、そのまま家を飛び出してきた」
「……やっぱり」
「僕も疲れてたんだと思うけど……人が一生懸命やっていることをバカにする奴は人間として最低だと思う」
そう言って、また瑞貴は黙ってしまった。
瑞貴の家は、資産家で父親は代々続く大企業の取締役。そして、瑞貴には歳の離れた兄が二人いて、事業を継ぐのはその兄達だそうだ。
どうやら、二人の兄が優秀だからというわけではないらしい。いわゆる昔ながらの家父長制。長男が継ぐのが当たり前だというのがまだ根強いせいで、瑞貴は最初からそのルートには乗せてもらえなかったそうだ。
代わりに、母親が瑞貴を愛情たっぷりに(甘やかして)育てたので、のびのびと好きなことをやり、美大を卒業した後、美術館で働いているのだけれど、どうやら父親はそれが気に入らないのか、馬鹿にしてるのかでよくケンカをするらしい。
家が家だから、こういった話をできる友人も限られるそうで、だいたい瑞貴の家のいざこざは俺が聞かされている。

「……まぁ、虫の居所が悪い時もあるよね。でも、連絡くらいくれても良かったと思うよ?」
「……雨で……」
「え?」
「雨に降られて……傘を買うよりも先にびしょびしょになって……もう、家に行った方が早い気がしたから」

そこは妙に合理的なんだね。と、感心しつつ俺はため息をつく。
「たまたま俺が家に帰ってたから良かったけど、残業とかして帰ってなかったどうするつもりだったの?」
「玄関の前で待ってるつもりだった」
「えっ。それは近所の目があるから……」
「……だって、安慈のことだから突然行っても『ダメ』って言わないと思ったから」
随分と信用されてるんだな……ということに驚きつつ、少し嬉しくもなる。
「あと……他の友達と違って、絶対彼女いないから、家に行っても大丈夫だと思って」
「う……それはなんか複雑な気持ちになるね……」
「……いないでしょ」
「えぇ。年単位で」
瑞貴の言っていることは何も間違っていない。
俺が自分の『欠陥』だと思っているところだから。どうやら、俺は恋愛というものができない人間らしい。『友達』としての好き嫌いはある。家族に向ける愛情もあるはず。けれど、恋愛となると明確な感情が分からない。
学生の頃も何人か告白されて付き合ってみたことはある。なんとか相手の『好き』という気持ちに応えようと努力をしてきたけれど、結局続かないことが多かった。
『本当は私のこと好きじゃないんでしょ?』と、フラれるんだ。
好きって、相手に興味がある、とは違うんだなぁ……と漠然とは思っているけれど。
だから、俺は恋愛ができない人間なんだなって思っている。恋愛対象が女じゃない、かどうかもよく分からない。そういう気持ちになったことがない。今時は、恋愛感情がない人も珍しくもないのだろうけれど。

「なんか、それ聞いて安心しちゃった」
そう言った瑞貴の顔に少し笑顔が見られた。
「なんで?さりげなくひどくない?まぁ、自覚はあるからいいけど」
「安慈が変わってなくて良かったってこと」
「そう? それで、話を戻すけど。これからどうするの?家にはいつ帰る?」
「……できれば帰りたくない」
「だよね。明日は俺休みだから、明日いっぱいは別に構わないよ」
「僕も明日は休み……。明日には出るよ」
「ちゃんと家に帰る?」
「……気分次第かな」
「ちゃんと家に帰ってよぉ。心配だから」
そう言ったと同時に、ローテーブルに置いていた瑞貴のスマホが震えた。画面には『母』と表示されているが、瑞貴は画面をチラッと見るだけで、手に取らなかった。
「出ないの?」
「出たくない」
「もう、世話が焼けるんだから」
そう言って、俺はブルブルと震える瑞貴のスマホを手に取った。
「あ!安慈!」
瑞貴が慌てて手を伸ばすが、俺はそのまま立ち上がって電話に出た。
《あ!瑞貴!今どこにいるの⁉︎》
「もしもし。しーちゃん、お久しぶりです。安慈です」
俺の言葉に、電話口のしーちゃん、もとい瑞貴の母の雫さんは『あれ⁉︎』︎ と、驚いた様子だった。
《安慈くん? これ瑞貴の電話よね?》
「はい。瑞貴は俺の家にいます。電話に出ないって不貞腐れていたので、代わりに出ました」
《やだぁ、瑞貴が突然ごめんなさいね。お父さんとまた喧嘩して。いつものことなんだけど、今日は飛び出して行っちゃったから心配で……。電話も全然出てくれないし》
「瑞貴から聞きました。今夜はちゃんと俺の家にいるので安心してください。本人も、明日には帰るって言ってるので」
そう言うと、瑞貴が何か言いたげな顔をしてこちらを見ているが、見なかったことにした。
《ごめんなさいね。瑞貴は今出られるかしら?》
「えぇ。代わりますね」
そう言って、俺は瑞貴にスマホを返す。
スマホを受け取った瑞貴は、電話に出るのかと思いきや、そのまま電話を切ってしまった。
「あ、しーちゃん心配してたのに」
「人の母親をしーちゃんって呼ばないでよ」
「瑞貴だって、俺の母親をマヤちゃんって呼ぶじゃん」
「うるさいなぁ。僕の生存確認はできたんだから大丈夫だよ。家族にはほっといて欲しいんだ」
そう言って、瑞貴はスマホの電源を切ってテーブルに置いた。
瑞貴、相当荒れてるんだな……と思いながら、俺はため息を吐いた。

「分かった。とりあえず、積もる話は食べながらしようか。夕飯何食べる? デリバリーしちゃおう」
「えっ……いいの?」
「うん、今から作る気しないし、せっかく二人だからピザとか一人で食べづらいの頼もうよ」
「うん」

俺がソファに掛けて、スマホでデリバリーのサイトを開くと、瑞貴が隣に来て画面を覗き込んできた。
……あれ、こんないい香りだっけ?
瑞貴が動いた時にふわりとシャンプーの香りがした。けれど、自分が使った時とは違う香りがして、戸惑ってしまった。
「どうかした?」
無意識に瑞貴を見つめていたのか、彼はこちらを向いてそう言った。
「え?ううん。なんでもないよ。どこの店にする?」
「僕、ここのがいい」

画面を見ている瑞貴は、さっきの不機嫌顔はどこかへ行ってしまったようで、とても楽しそうに見えた。
この日、通り雨が連れてきた子が、この先の俺の淡々とした日々に、少しずつ色をつけていくなんて、この時は思いもしていなかった。

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