夢と現と妄想と〜Rêve et réalité et illusion et〜
「……ごめんなさい」
彼の帰り際、そう言った。
玄関で靴を履いていた彼が、驚いたように振り向く。
「どうして?カノンちゃんが謝ること、何もないよ?」
彼は、優しく笑ってそう言った。
「急に、あんなこと言ったりして……」
「何で?俺は、君の気持ちが聞けて嬉しかったけど?」
「でもっ……このままじゃ、そのうち迷惑をかけちゃいます……だから……」
もう、これで会うのをやめよう。そう思っていたのに、喉でつっかえて言葉が出てこない。理性と本能とで、真逆のことを考えている。
どっちにしたって、傷付くのは分かっているから、声に出すのが怖かったのかもしれない。
「……それ以上は言わないで」
彼の指が唇に触れた。
「っ……」
「大丈夫。迷惑だなんて思ってないし、カノンちゃんが心配することは何もないから」
「でもっ……」
「また時間できたら連絡するね」
「っ……はい。下まで送ります……」
それ以上、何かを言うのはやめた。
二人で玄関を出て、階段を降りていく。下に着くと、彼が振り向いて、私の頭にポンと手を置いた。
「じゃあね。またトリートメントして欲しいな」
「いいですよ。帰り……気を付けてくださいね」
「ありがとう」
そうして、彼の背中を夜の闇で見えなくなるまで見送ってから、自宅に戻った。
なんとなく、頭に彼の温もりが残っている感じがして、少しだけ触れてみたけれど、別に温かくはなかった。
そんな行動を取ってしまうくらい、離れるのが嫌だったのか……と、自分でも驚いている。
レイさんは『心配することはない』なんて、言っていたけれど……。
でも、終わりにしないと、と思っている自分も中にいる。
「これ、夢だったりしないかな……」
溜息混じりにそう呟いた。
こんなに気持ちが揺れることなんて、数年はなかったから、自分でも全くついていけない。
今までのことが夢だったなら、朝起きて『素敵な夢が見られた!よし、今日も頑張ろう!』
なんて、またいつも通りの日常に戻れる。彼は、手の届かない憧れの人のままで良い。
それなら、誰も傷つけないし、私も傷つかない。
そんな風に現実逃避をしていたら、テーブルに置いていたスマホが震えた。
「あれ?」
メッセージの主はレイさんだった。
《ごめんね、ストール忘れちゃったみたい。次に行く時に持って帰るから、それまで置いといてくれる?》
「ストール……?」
部屋の中を見回すと、ダイニングのイスにストールが引っ掛けてあった。帰る時に、そこに引っ掛けて忘れたんだ……。
《ダイニングのイスにかかってました。預かっておきますね》
《ありがとう》
スマホをテーブルに置いて、彼のストールを取りにいく。とりあえずは、クローゼットにしまっておこう。そう思って手に取った瞬間、彼の香水がふわっと香った。
「……」
なんて意地悪な忘れ物をしていったんだ……。
この香りで余計に思い出すし、やっぱり夢じゃないって、現実を突きつけてくるじゃないか。
彼の香りや、温もりを思い出して、少しだけ胸が温かくなるけれど、これ以上は辛くなると思ったから、ストールをハンガーにかけてクローゼットにしまった。
「……明日の支度しよ」
そう言って溜息を吐いた。
明日は、予約が朝一の一件だけだから、当日予約を期待しつつ、月末業務を片付けなければ。
そう思ってパソコンを立ち上げた時に、ふとカレンダーが目に入る。
……あぁ、来週は由貴人との記念日か……。
今更、カレンダーにわざわざ記入なんてしないけれど、長年染み付いた癖というのはなかなか抜けないものだ。
さて……今年は何を用意しようか。
さすがに長く付き合ってるとプレゼントのネタもなくなる。ちょっと高めのワインでもあげようかしらね。
そんなことを考えながら、明日の予約を確認をして、寝る支度を始めた……。
***
あれから暫く経った。
ありがたいことに結構忙しくて、由貴人との記念日も過ぎてしまったけれど、なんとかプレゼントのワインは用意できた。買い物を終えたタイミングで、由貴人にメッセージを送る。
《ごめんね。記念日、忙しくて過ぎちゃったけど、飲みに行けそうな日ある?》
あっちも不規則で忙しくしてるから、当日に連絡をよこせなんて言わないけれど、そういえば何もなかったなぁ。そう思いながら、帰路についた。
家に着いてから、スマホを見ると通知が出ていた。返事だ。
とりあえず、荷物を片付けたり、部屋着に着替えたりしてから、メッセージを開けた。
《記念日、今日だっけ? ごめん忘れてたよ。今月ちょっと忙しいんだけど、夜なら少し時間取れそうだから、華音の都合いい時に飲みに行こうか》
………。記念日は3日前です。私、記念日過ぎたけどって送ってるのに……。
この人は読まないで返事しているのか……。年々、彼の残念っぷりが増している気がする。
《忙しいのね。私もちょっと予約が立て込んでるから、無理しなくていいよ》
そう、メッセージを打ち込んで送った。
すっかり、彼の返事に気持ちが萎えてしまって、わざわざ空いてる日を探す気になれなかった。
「はぁ……」
記念日がそんなに大事かというと、そこではなくて。
なんとなく、気にしている私との温度差があると思っている……。
普段会ってない分、せめてそういう節目くらいはちゃんと会ってもいいんじゃないかと思うのにきっと、由貴人にとってそこは重要ではないのでしょう。
「………バカみたい」
そう呟いて、さっき買ってきたワインのラッピングを剥がす。
美味しそうなワインは、私が独り占めしてやる。
こういう時は、適当に摘みながら、録り溜めた番組とか映画を見るに限る。
「これにしよう」
今夜は映画を選んだ。SFもの観るのは久しぶりだな……。
今の気持ちには、これくらい現実逃避できるものがいい。
自分の気持ちと、現実の隔たりが、あまりにも大きすぎるから……。
グラスに注いだワインを喉に流し込むようにして、そのまま映画の世界に入り込んだ……。
彼の帰り際、そう言った。
玄関で靴を履いていた彼が、驚いたように振り向く。
「どうして?カノンちゃんが謝ること、何もないよ?」
彼は、優しく笑ってそう言った。
「急に、あんなこと言ったりして……」
「何で?俺は、君の気持ちが聞けて嬉しかったけど?」
「でもっ……このままじゃ、そのうち迷惑をかけちゃいます……だから……」
もう、これで会うのをやめよう。そう思っていたのに、喉でつっかえて言葉が出てこない。理性と本能とで、真逆のことを考えている。
どっちにしたって、傷付くのは分かっているから、声に出すのが怖かったのかもしれない。
「……それ以上は言わないで」
彼の指が唇に触れた。
「っ……」
「大丈夫。迷惑だなんて思ってないし、カノンちゃんが心配することは何もないから」
「でもっ……」
「また時間できたら連絡するね」
「っ……はい。下まで送ります……」
それ以上、何かを言うのはやめた。
二人で玄関を出て、階段を降りていく。下に着くと、彼が振り向いて、私の頭にポンと手を置いた。
「じゃあね。またトリートメントして欲しいな」
「いいですよ。帰り……気を付けてくださいね」
「ありがとう」
そうして、彼の背中を夜の闇で見えなくなるまで見送ってから、自宅に戻った。
なんとなく、頭に彼の温もりが残っている感じがして、少しだけ触れてみたけれど、別に温かくはなかった。
そんな行動を取ってしまうくらい、離れるのが嫌だったのか……と、自分でも驚いている。
レイさんは『心配することはない』なんて、言っていたけれど……。
でも、終わりにしないと、と思っている自分も中にいる。
「これ、夢だったりしないかな……」
溜息混じりにそう呟いた。
こんなに気持ちが揺れることなんて、数年はなかったから、自分でも全くついていけない。
今までのことが夢だったなら、朝起きて『素敵な夢が見られた!よし、今日も頑張ろう!』
なんて、またいつも通りの日常に戻れる。彼は、手の届かない憧れの人のままで良い。
それなら、誰も傷つけないし、私も傷つかない。
そんな風に現実逃避をしていたら、テーブルに置いていたスマホが震えた。
「あれ?」
メッセージの主はレイさんだった。
《ごめんね、ストール忘れちゃったみたい。次に行く時に持って帰るから、それまで置いといてくれる?》
「ストール……?」
部屋の中を見回すと、ダイニングのイスにストールが引っ掛けてあった。帰る時に、そこに引っ掛けて忘れたんだ……。
《ダイニングのイスにかかってました。預かっておきますね》
《ありがとう》
スマホをテーブルに置いて、彼のストールを取りにいく。とりあえずは、クローゼットにしまっておこう。そう思って手に取った瞬間、彼の香水がふわっと香った。
「……」
なんて意地悪な忘れ物をしていったんだ……。
この香りで余計に思い出すし、やっぱり夢じゃないって、現実を突きつけてくるじゃないか。
彼の香りや、温もりを思い出して、少しだけ胸が温かくなるけれど、これ以上は辛くなると思ったから、ストールをハンガーにかけてクローゼットにしまった。
「……明日の支度しよ」
そう言って溜息を吐いた。
明日は、予約が朝一の一件だけだから、当日予約を期待しつつ、月末業務を片付けなければ。
そう思ってパソコンを立ち上げた時に、ふとカレンダーが目に入る。
……あぁ、来週は由貴人との記念日か……。
今更、カレンダーにわざわざ記入なんてしないけれど、長年染み付いた癖というのはなかなか抜けないものだ。
さて……今年は何を用意しようか。
さすがに長く付き合ってるとプレゼントのネタもなくなる。ちょっと高めのワインでもあげようかしらね。
そんなことを考えながら、明日の予約を確認をして、寝る支度を始めた……。
***
あれから暫く経った。
ありがたいことに結構忙しくて、由貴人との記念日も過ぎてしまったけれど、なんとかプレゼントのワインは用意できた。買い物を終えたタイミングで、由貴人にメッセージを送る。
《ごめんね。記念日、忙しくて過ぎちゃったけど、飲みに行けそうな日ある?》
あっちも不規則で忙しくしてるから、当日に連絡をよこせなんて言わないけれど、そういえば何もなかったなぁ。そう思いながら、帰路についた。
家に着いてから、スマホを見ると通知が出ていた。返事だ。
とりあえず、荷物を片付けたり、部屋着に着替えたりしてから、メッセージを開けた。
《記念日、今日だっけ? ごめん忘れてたよ。今月ちょっと忙しいんだけど、夜なら少し時間取れそうだから、華音の都合いい時に飲みに行こうか》
………。記念日は3日前です。私、記念日過ぎたけどって送ってるのに……。
この人は読まないで返事しているのか……。年々、彼の残念っぷりが増している気がする。
《忙しいのね。私もちょっと予約が立て込んでるから、無理しなくていいよ》
そう、メッセージを打ち込んで送った。
すっかり、彼の返事に気持ちが萎えてしまって、わざわざ空いてる日を探す気になれなかった。
「はぁ……」
記念日がそんなに大事かというと、そこではなくて。
なんとなく、気にしている私との温度差があると思っている……。
普段会ってない分、せめてそういう節目くらいはちゃんと会ってもいいんじゃないかと思うのにきっと、由貴人にとってそこは重要ではないのでしょう。
「………バカみたい」
そう呟いて、さっき買ってきたワインのラッピングを剥がす。
美味しそうなワインは、私が独り占めしてやる。
こういう時は、適当に摘みながら、録り溜めた番組とか映画を見るに限る。
「これにしよう」
今夜は映画を選んだ。SFもの観るのは久しぶりだな……。
今の気持ちには、これくらい現実逃避できるものがいい。
自分の気持ちと、現実の隔たりが、あまりにも大きすぎるから……。
グラスに注いだワインを喉に流し込むようにして、そのまま映画の世界に入り込んだ……。