夢と現と妄想と〜Rêve et réalité et illusion et〜
あのニュースから一ヶ月ほど経った。
季節もだいぶ進んで、毎朝起きるのが辛いくらい冷え込んでいる。
通勤時や帰宅時に、つい周りを気にしてしまうが、今のところ追いかけられたりなどは無いので無事に過ごせている。
もし、万が一ゴシップ探しの記者に鉢合わせたとしても、付き合っていることは事実だし、余計なことを喋らなければいいだけ。
頭では分かっているけれど、いざ遭遇したら冷静でいられるか自信はない。
「さて、飛び込みあるかなぁ……」
今日は、予約が午前中の一番長いコースのお客様だけだったので、夕方にもう一件入れられそうだった。
お店のホームページやSNSに『本日15時から空いております。お問い合わせください』
と書いて投稿した。
たまに、飛び込みで短いコースが入ることもあるけれど、今日は平日だしどうかなぁ……?
特にこの閑散期だし……。あまり期待せずに、今のうちに休憩も取って、次の講座の準備もしておこう。
***
パソコンで仕事をしていると、お店のドアのベルが鳴る。
顔を上げると、長い髪を緩く巻いた、綺麗な人が入ってきていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。今ならすぐご案内できますよ」
と、言ったものの、彼女のお腹がふっくらしていることに気付く。
妊婦さんだ。トリートメントのメニューが限られるから、どうかしら……?
「あ、その前に少しお伺いしたいことがあって」
私の言葉に、彼女はそう返した。
「はい、なんでしょうか?」
「カノンさんって、あなたですか?」
「はい、そうです」
「……怜の彼女さん?」
「‼︎」
彼女の言葉に、驚きすぎて冷や汗が噴き出した。
え? 誰? いきなりそんなことを言われて、頭がパニックになっている。落ち着け、私!
「えっ、あ、その……ごめんなさい。どちら様ですか……?」
「新谷 絹恵 と申します。怜の、前妻です」
「ぅえっ……?」
びっくりしすぎて変な声が出た。
え? 何故、ここにレイさんの元奥さんがいるの?
一体どういうこと? 私、この人に何されるの?
さっきから変な汗が止まらない。落ち着け、落ち着け私!
「急にごめんなさいね。別にあなたをどうこうしようと思って来たわけじゃないの。だから、そんなに怯えた顔しないで」
冷や汗をかいている私とは対照的に、ふふふ、と上品に笑う彼女。
「え、じゃあ、どうして……?」
「うーん、興味本位といえば興味本位なんだけど……。どんな子なのかしらって。そしたら、お友達がここ教えてくれたのよ」
「お友達……?」
「昔できたお友達よ。多分、ここの常連さんだと思うけれど?」
「あ……もしかして……」
察しがついたが、まさか、そこが繋がっているとは思わなかった。
世間というのは、本当に狭い。
「本当は外からお顔だけ見て帰ろうかと思ったんだけど……ちょっと話したくなって。大丈夫。私も、もう再婚してるし、今更、怜とどうこうなんて思ってないわ」
「そうですか……」
彼女の淡々とした様子に、まだ警戒しつつも、妊婦さんに立ち話をさせるのも悪いと思ったので、とりあえずコンサルテーションテーブルにかけてもらった。
「絹恵さん、とお呼びしていいですか?」
「えぇ」
「絹恵さん、ルイボスティーなら飲めますか? いつも、お客様にはハーブティをお出しするんですけど、妊婦さんなのであまり刺激が無いものが良いかと……」
「ルイボスティー好きよ。ありがとう」
彼女は、微笑んでそう言った。なんて、綺麗に笑う人なんだろう……。レイさんの元奥さん……めちゃくちゃ美人じゃん……。
自分との差に、つい落ち込んでしまうが、今はそれどころではない。
「どうぞ。まだ熱いと思うのでお気をつけて」
「ありがとう」
そう言って、絹恵さんは、出したルイボスティーを口にして、ふぅと一息ついた。
「……一人でお店、やってらっしゃるんでしょう? 忙しそうね」
「えぇ、まぁ……。でも、忙しいことを楽しんでますよ」
「だから、きっとうまくいっているんでしょうね。お互いの時間も大切にしてるから……」
彼女の言葉に、ハッと気づかされる。
「……こんなこと言ったら、失礼かもしれないですが……。所謂、世間一般的な夫婦になりたいと思ったら、レイさん相手だと難しいかもしれないですよね……」
「そうそう。頭では分かっていたんだけど、やっぱり現実と、自分の理想がどうしても乖離してきてね……」
ふふふ。と笑う彼女。色々あったのだろうと思ったけれど、口にはしなかった。
「なんとなく、あなたで良かった、と思うわ」
「え?」
「ふふふ。あなた可愛らしいし、きっと色んなことに寛容でしょ」
「そっ、そんなことないですよ! むしろすぐ怒るし……。絹恵さんの方がよっぽど品もあるし寛容な感じがします!」
慌てる私を見て、また上品に笑う絹恵さん。
「私、見かけによらず結構キツイって言われるのよねぇ。だから、きっとカノンさんが思っているような人じゃないわよ?」
そう言って、また笑う絹恵さん。
そうなのか……? 彼女に色々と聞いてみたいこともあるけれど、会っていきなり根掘り葉掘り聞くのもどうかと思って、口を噤んだ。
「ところで……」
「はい」
「妊婦でもこちらのサロンはトリートメントしていただけるのかしら?」
「え、あ! はい! ちょっとコースが限られてしまいますが、できますよ!」
「じゃあ、お願いします」
そう言って微笑む絹恵さん。
慌てて、レジカウンターからバインダーに挟んだコンサルテーションシートを取ってきて、
彼女に記入をお願いする。
その間に、お店のホームページとSNSを更新した。
『本日の受付は終了致しました。ありがとうございました』
***
「あら、素敵」
「絹恵さん。どうぞ、こちらへお掛けください」
絹恵さんをトリートメントルームへ案内する。
間接照明のオレンジ色の光が、気持ちを和らげてくれるような気がして、いつも部屋は少し暗めにしてある。彼女は、部屋全体を見渡して、少し嬉しそうな様子だった。
リクライニングで半分上げて、ソファのようにしたベッドに掛けてもらった。
先ほど作ったバスソルトを、フットバスボウルに溶かすと、ふわっと、香りが立ち昇る。
「では、こちらにゆっくり足を入れてくださいね」
「いい香り……」
「マンダリンオレンジとネロリです。妊婦さんでも安心して使える香りなんです。いかがですか?」
「すごくいい香り。ありがとう」
そう言った絹恵さんの表情が和らいでいた。
しばらく、フットバスをしてもらっている間に、私は脚に使うトリートメントオイルを作った。バスソルトと同じ香りで、通常より精油の濃度は低く作って用意した。
その後は、足にクレイマスクをして、マスクを置いている間にヘッドトリートメントを行った。
部屋に焚いている香りも、今日のトリートメントオイルの香りと混ざると、更に良い香りになるようにブレンドしてある。
クレイマスクを落とした後に、脚のトリートメントを始めると、時折、絹恵さんが深く呼吸をする様子が見られた。
***
「カノンさんって、怜のこと聞いてこないのね」
トリートメント中、ぽつりと絹恵さんが言った。
突然のことに、一瞬手が止まってしまったが、そのままトリートメントを続けた。
「えっと……まぁ、聞きたい気もしますけど……。私から、昔の男の話をわざわざ聞きだすのもどうかと思いますし……」
「ふふふ……面白い事言うのね。別にもう気にしないから何でも話すわよ」
眩しくないように、絹恵さんにはタオルで目隠しをしているので、表情はあまり読み取れなかったけれど、声音が明るいので、本当に気にしていないのだろう。
あんなハイスペックな男をあっさり過去の人にできるのだから、絹恵さんって凄いなぁ……。
「あぁ、強いて言えば……ですけど……」
「何かしら?」
「トキさんから、レイは家庭を顧みない奴だったからって聞いたんですよ。それが……?」
私の問いに、少し笑った絹恵さん。
「それもそうだけど、一番の理由は、子供ね」
「そうですか……」
「まだ、あの頃は若かったから……。今も彼がそう思っているかは分からないけれど」
彼女の脚に手を滑らせながら、聞いて良かったのかな……と、少し後悔した。
「ごめんなさい。変なこと聞いて……」
「謝らないで。私は全然気にしてないから」
絹恵さんは、笑いながらそう言うと、そのまま呼吸が穏やかになっていき、お休みになられたのか、しばらく言葉を交わすことはなかった。
そっか……。やっと、しっくりくる理由が分かった気がした。
今時、結婚したら必ず子供がいるとは限らない。
子供を作らないという選択だってしていいはず。でも、二人で合意できなければ仕方ない……。
レイさんは、今でもそうなのかな……?
私は…………。
***
「ありがとうございました」
「こちらこそ、突然お伺いしたのに、ご丁寧にありがとうございました。あなたに会えて良かったわ」
「そう言って頂けて嬉しいです。寒いので、お身体、どうぞお大事にしてくださいね。またいつでも来てください」
「えぇ。ありがとう。また来ます」
ニッコリと笑った絹恵さんを見送って、お店のドアを閉めた。そのまま、入口のブラインドを下げて早めに閉店作業を始める。
明日は休みだし、ゆっくりお酒を飲もう……。
レイさんに、絹恵さんの話をするのどうしようかな……? レイさん、今日は遅いかな?
番組の収録って言ってたっけ。そんなことを考えながら、作業を終えて帰り支度をした。
***
日が落ちると一段と冷え込む。
あまりの寒さに、巻いていたマフラーに鼻から下を埋めた。週末でもないのに、なんだか今日は駅前が賑わっていた。
あぁ、新しくまたタピオカドリンクの店が出来たんだ。すごい行列だし、買った人たちはお店の周りで撮影会だ。そんなに『映える』ものなのかしら?
洗濯しようと、持って帰ってきたタオルを詰めたバッグが嵩張るせいで、人混みを抜けるのが少々大変。とは言え、帰るしかない。
仕方がないので、人混みを掻き分けるように歩いていた。
あぁ早く帰りたい……。
そう思いながら、スマホを取り出して、レイさんにメッセージを送る。
《今日は早く閉めたのでこれから帰りますね。レイさんも終わったら連絡下さい》
さて、帰ったら何をしよう? レイさんと、録ってある映画でも見ようかな? 休みの前は、少しだけ心が躍る。
ドンッッッ‼︎
「わっ!」
突然、前から人がぶつかってきた。
私が浮かれていたせいかもしれないけれど、本当に正面衝突だったので、普通こんなぶつかり方しないでしょと、少し苛立った。
「えっ……?」
ぶつかってきた女の人は、顔を上げずに私の前から動かない。
真っ黒な、長い髪の毛で顔が隠れていて表情も窺えない。
不思議に思っていると、急に左の腹部に激痛が走る。
「痛っ……」
じわじわとお腹に温かいものが広がっていく……。
「なに……?」
立ち尽くしている女の人の顔を見る。全く誰だか分からない。
目が合うと、彼女はこう言った。
「うふふ、やっと見つけたぁ……。私のレイくんに、触らないでよ……。あんたなんか、いなくなれ……レイくんは私のなんだから……」
彼女の手元で光るナイフで、やっと、自分が彼女に刺されたことを認識した。
どういうこと……? あなた誰なの……?
何で、私とレイさんのこと……知ってるの……?
「あ……」
頭に浮かんだ疑問よりも、痛みの方が強くなってきて、膝から崩れ落ちる……。
真っ黒な女と、血のついたナイフと、私が座り込んだことで辺りが騒がしくなる。
「キャ—————‼︎」
誰かが叫んだ。
私を刺した真っ黒な女は、ナイフを捨てて走り出した。
遠くで、アイツを捕まえろ! って、誰かが叫んでる。
痛いのと、血が出てるせいか、だんだんと意識が薄れてきてる。
だめ……なんとか、意識を保たないと……。
「カノンさん⁉︎ カノンさんしっかりして‼︎」
あれ……?
ぼんやりしてきた中、聞き覚えのある声に少しだけ顔を上げる。
「カノンさん! わかる?」
あぁ、絹恵さんだ……まだ近くにいらしたんだ……。
彼女の問いかけに小さく頷いた。
けれど、もう、意識が限界だった……。
早く救急車‼︎ 急いで‼︎
カノンさん‼︎ ダメよ! こっち見て‼︎
辛うじて聞き取れた言葉はそれだけで、あとはもう、ザワザワとしか聞こえなかった……。
そして、そのまま、私の意識は遠のいていった……。
季節もだいぶ進んで、毎朝起きるのが辛いくらい冷え込んでいる。
通勤時や帰宅時に、つい周りを気にしてしまうが、今のところ追いかけられたりなどは無いので無事に過ごせている。
もし、万が一ゴシップ探しの記者に鉢合わせたとしても、付き合っていることは事実だし、余計なことを喋らなければいいだけ。
頭では分かっているけれど、いざ遭遇したら冷静でいられるか自信はない。
「さて、飛び込みあるかなぁ……」
今日は、予約が午前中の一番長いコースのお客様だけだったので、夕方にもう一件入れられそうだった。
お店のホームページやSNSに『本日15時から空いております。お問い合わせください』
と書いて投稿した。
たまに、飛び込みで短いコースが入ることもあるけれど、今日は平日だしどうかなぁ……?
特にこの閑散期だし……。あまり期待せずに、今のうちに休憩も取って、次の講座の準備もしておこう。
***
パソコンで仕事をしていると、お店のドアのベルが鳴る。
顔を上げると、長い髪を緩く巻いた、綺麗な人が入ってきていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。今ならすぐご案内できますよ」
と、言ったものの、彼女のお腹がふっくらしていることに気付く。
妊婦さんだ。トリートメントのメニューが限られるから、どうかしら……?
「あ、その前に少しお伺いしたいことがあって」
私の言葉に、彼女はそう返した。
「はい、なんでしょうか?」
「カノンさんって、あなたですか?」
「はい、そうです」
「……怜の彼女さん?」
「‼︎」
彼女の言葉に、驚きすぎて冷や汗が噴き出した。
え? 誰? いきなりそんなことを言われて、頭がパニックになっている。落ち着け、私!
「えっ、あ、その……ごめんなさい。どちら様ですか……?」
「
「ぅえっ……?」
びっくりしすぎて変な声が出た。
え? 何故、ここにレイさんの元奥さんがいるの?
一体どういうこと? 私、この人に何されるの?
さっきから変な汗が止まらない。落ち着け、落ち着け私!
「急にごめんなさいね。別にあなたをどうこうしようと思って来たわけじゃないの。だから、そんなに怯えた顔しないで」
冷や汗をかいている私とは対照的に、ふふふ、と上品に笑う彼女。
「え、じゃあ、どうして……?」
「うーん、興味本位といえば興味本位なんだけど……。どんな子なのかしらって。そしたら、お友達がここ教えてくれたのよ」
「お友達……?」
「昔できたお友達よ。多分、ここの常連さんだと思うけれど?」
「あ……もしかして……」
察しがついたが、まさか、そこが繋がっているとは思わなかった。
世間というのは、本当に狭い。
「本当は外からお顔だけ見て帰ろうかと思ったんだけど……ちょっと話したくなって。大丈夫。私も、もう再婚してるし、今更、怜とどうこうなんて思ってないわ」
「そうですか……」
彼女の淡々とした様子に、まだ警戒しつつも、妊婦さんに立ち話をさせるのも悪いと思ったので、とりあえずコンサルテーションテーブルにかけてもらった。
「絹恵さん、とお呼びしていいですか?」
「えぇ」
「絹恵さん、ルイボスティーなら飲めますか? いつも、お客様にはハーブティをお出しするんですけど、妊婦さんなのであまり刺激が無いものが良いかと……」
「ルイボスティー好きよ。ありがとう」
彼女は、微笑んでそう言った。なんて、綺麗に笑う人なんだろう……。レイさんの元奥さん……めちゃくちゃ美人じゃん……。
自分との差に、つい落ち込んでしまうが、今はそれどころではない。
「どうぞ。まだ熱いと思うのでお気をつけて」
「ありがとう」
そう言って、絹恵さんは、出したルイボスティーを口にして、ふぅと一息ついた。
「……一人でお店、やってらっしゃるんでしょう? 忙しそうね」
「えぇ、まぁ……。でも、忙しいことを楽しんでますよ」
「だから、きっとうまくいっているんでしょうね。お互いの時間も大切にしてるから……」
彼女の言葉に、ハッと気づかされる。
「……こんなこと言ったら、失礼かもしれないですが……。所謂、世間一般的な夫婦になりたいと思ったら、レイさん相手だと難しいかもしれないですよね……」
「そうそう。頭では分かっていたんだけど、やっぱり現実と、自分の理想がどうしても乖離してきてね……」
ふふふ。と笑う彼女。色々あったのだろうと思ったけれど、口にはしなかった。
「なんとなく、あなたで良かった、と思うわ」
「え?」
「ふふふ。あなた可愛らしいし、きっと色んなことに寛容でしょ」
「そっ、そんなことないですよ! むしろすぐ怒るし……。絹恵さんの方がよっぽど品もあるし寛容な感じがします!」
慌てる私を見て、また上品に笑う絹恵さん。
「私、見かけによらず結構キツイって言われるのよねぇ。だから、きっとカノンさんが思っているような人じゃないわよ?」
そう言って、また笑う絹恵さん。
そうなのか……? 彼女に色々と聞いてみたいこともあるけれど、会っていきなり根掘り葉掘り聞くのもどうかと思って、口を噤んだ。
「ところで……」
「はい」
「妊婦でもこちらのサロンはトリートメントしていただけるのかしら?」
「え、あ! はい! ちょっとコースが限られてしまいますが、できますよ!」
「じゃあ、お願いします」
そう言って微笑む絹恵さん。
慌てて、レジカウンターからバインダーに挟んだコンサルテーションシートを取ってきて、
彼女に記入をお願いする。
その間に、お店のホームページとSNSを更新した。
『本日の受付は終了致しました。ありがとうございました』
***
「あら、素敵」
「絹恵さん。どうぞ、こちらへお掛けください」
絹恵さんをトリートメントルームへ案内する。
間接照明のオレンジ色の光が、気持ちを和らげてくれるような気がして、いつも部屋は少し暗めにしてある。彼女は、部屋全体を見渡して、少し嬉しそうな様子だった。
リクライニングで半分上げて、ソファのようにしたベッドに掛けてもらった。
先ほど作ったバスソルトを、フットバスボウルに溶かすと、ふわっと、香りが立ち昇る。
「では、こちらにゆっくり足を入れてくださいね」
「いい香り……」
「マンダリンオレンジとネロリです。妊婦さんでも安心して使える香りなんです。いかがですか?」
「すごくいい香り。ありがとう」
そう言った絹恵さんの表情が和らいでいた。
しばらく、フットバスをしてもらっている間に、私は脚に使うトリートメントオイルを作った。バスソルトと同じ香りで、通常より精油の濃度は低く作って用意した。
その後は、足にクレイマスクをして、マスクを置いている間にヘッドトリートメントを行った。
部屋に焚いている香りも、今日のトリートメントオイルの香りと混ざると、更に良い香りになるようにブレンドしてある。
クレイマスクを落とした後に、脚のトリートメントを始めると、時折、絹恵さんが深く呼吸をする様子が見られた。
***
「カノンさんって、怜のこと聞いてこないのね」
トリートメント中、ぽつりと絹恵さんが言った。
突然のことに、一瞬手が止まってしまったが、そのままトリートメントを続けた。
「えっと……まぁ、聞きたい気もしますけど……。私から、昔の男の話をわざわざ聞きだすのもどうかと思いますし……」
「ふふふ……面白い事言うのね。別にもう気にしないから何でも話すわよ」
眩しくないように、絹恵さんにはタオルで目隠しをしているので、表情はあまり読み取れなかったけれど、声音が明るいので、本当に気にしていないのだろう。
あんなハイスペックな男をあっさり過去の人にできるのだから、絹恵さんって凄いなぁ……。
「あぁ、強いて言えば……ですけど……」
「何かしら?」
「トキさんから、レイは家庭を顧みない奴だったからって聞いたんですよ。それが……?」
私の問いに、少し笑った絹恵さん。
「それもそうだけど、一番の理由は、子供ね」
「そうですか……」
「まだ、あの頃は若かったから……。今も彼がそう思っているかは分からないけれど」
彼女の脚に手を滑らせながら、聞いて良かったのかな……と、少し後悔した。
「ごめんなさい。変なこと聞いて……」
「謝らないで。私は全然気にしてないから」
絹恵さんは、笑いながらそう言うと、そのまま呼吸が穏やかになっていき、お休みになられたのか、しばらく言葉を交わすことはなかった。
そっか……。やっと、しっくりくる理由が分かった気がした。
今時、結婚したら必ず子供がいるとは限らない。
子供を作らないという選択だってしていいはず。でも、二人で合意できなければ仕方ない……。
レイさんは、今でもそうなのかな……?
私は…………。
***
「ありがとうございました」
「こちらこそ、突然お伺いしたのに、ご丁寧にありがとうございました。あなたに会えて良かったわ」
「そう言って頂けて嬉しいです。寒いので、お身体、どうぞお大事にしてくださいね。またいつでも来てください」
「えぇ。ありがとう。また来ます」
ニッコリと笑った絹恵さんを見送って、お店のドアを閉めた。そのまま、入口のブラインドを下げて早めに閉店作業を始める。
明日は休みだし、ゆっくりお酒を飲もう……。
レイさんに、絹恵さんの話をするのどうしようかな……? レイさん、今日は遅いかな?
番組の収録って言ってたっけ。そんなことを考えながら、作業を終えて帰り支度をした。
***
日が落ちると一段と冷え込む。
あまりの寒さに、巻いていたマフラーに鼻から下を埋めた。週末でもないのに、なんだか今日は駅前が賑わっていた。
あぁ、新しくまたタピオカドリンクの店が出来たんだ。すごい行列だし、買った人たちはお店の周りで撮影会だ。そんなに『映える』ものなのかしら?
洗濯しようと、持って帰ってきたタオルを詰めたバッグが嵩張るせいで、人混みを抜けるのが少々大変。とは言え、帰るしかない。
仕方がないので、人混みを掻き分けるように歩いていた。
あぁ早く帰りたい……。
そう思いながら、スマホを取り出して、レイさんにメッセージを送る。
《今日は早く閉めたのでこれから帰りますね。レイさんも終わったら連絡下さい》
さて、帰ったら何をしよう? レイさんと、録ってある映画でも見ようかな? 休みの前は、少しだけ心が躍る。
ドンッッッ‼︎
「わっ!」
突然、前から人がぶつかってきた。
私が浮かれていたせいかもしれないけれど、本当に正面衝突だったので、普通こんなぶつかり方しないでしょと、少し苛立った。
「えっ……?」
ぶつかってきた女の人は、顔を上げずに私の前から動かない。
真っ黒な、長い髪の毛で顔が隠れていて表情も窺えない。
不思議に思っていると、急に左の腹部に激痛が走る。
「痛っ……」
じわじわとお腹に温かいものが広がっていく……。
「なに……?」
立ち尽くしている女の人の顔を見る。全く誰だか分からない。
目が合うと、彼女はこう言った。
「うふふ、やっと見つけたぁ……。私のレイくんに、触らないでよ……。あんたなんか、いなくなれ……レイくんは私のなんだから……」
彼女の手元で光るナイフで、やっと、自分が彼女に刺されたことを認識した。
どういうこと……? あなた誰なの……?
何で、私とレイさんのこと……知ってるの……?
「あ……」
頭に浮かんだ疑問よりも、痛みの方が強くなってきて、膝から崩れ落ちる……。
真っ黒な女と、血のついたナイフと、私が座り込んだことで辺りが騒がしくなる。
「キャ—————‼︎」
誰かが叫んだ。
私を刺した真っ黒な女は、ナイフを捨てて走り出した。
遠くで、アイツを捕まえろ! って、誰かが叫んでる。
痛いのと、血が出てるせいか、だんだんと意識が薄れてきてる。
だめ……なんとか、意識を保たないと……。
「カノンさん⁉︎ カノンさんしっかりして‼︎」
あれ……?
ぼんやりしてきた中、聞き覚えのある声に少しだけ顔を上げる。
「カノンさん! わかる?」
あぁ、絹恵さんだ……まだ近くにいらしたんだ……。
彼女の問いかけに小さく頷いた。
けれど、もう、意識が限界だった……。
早く救急車‼︎ 急いで‼︎
カノンさん‼︎ ダメよ! こっち見て‼︎
辛うじて聞き取れた言葉はそれだけで、あとはもう、ザワザワとしか聞こえなかった……。
そして、そのまま、私の意識は遠のいていった……。