夢と現と妄想と〜Rêve et réalité et illusion et〜
あれから、また時間が経ち、毎日暑い日が続いて、すっかり夏らしくなっていた。
あの日以来、ハルカさんから何も連絡はなかった。少し気にしつつも、今日もいつもと変わらずしっかり仕事をしている。
今日は、仕事終わりにレイさんがお店に寄ってくれるというので、そのままレイトショーでも観に行こうかと約束をしていた。会うのは、彼がプロモーションで地方に行った日以来だから、久しぶり。彼に会えるのが楽しみだった。
今日の最後のお客様を見送って、閉店作業に取り掛かる。
暫く作業をしていると、カウンターの中に置いていたスマホが震えた。画面を見ると、レイさんだった。そのままメッセージを開けば、今お店に向かっているとのことだったので、片付けの手を早めた。
急いで閉店作業を終えて、お店のシャッターを下ろした。あとはレイさんが来るのを待つだけ。スマホを取り出し、SNSのチェックをして時間を潰していた。
「カノンさん」
「っ!」
声をかけられて、顔を上げると、ハルカさんがいた。
「どうしたんですか? もうお店は閉めてますし……」
突然の来訪に動揺してしまったけれど、なんとか平静を装って話す。
「カノンさん……あの、この前のこと謝りたくて……」
「謝る……?」
「なんか、その……怒らせちゃったみたいだし……ホント、ごめんなさい‼︎」
そう言って、私に向かって、思いきり頭を下げるハルカさん。
「ちょっと……頭、上げてください」
慌てて、ハルカさんに頭を上げてもらおうと、肩に触れる。
「許してくれますか?」
「……それとこれとは別。でも、頭下げられるのは苦手なんです」
そう言って、彼から離れた。
「そっか……。でも、僕、カノンさんのこと好きなのは変わらないです」
「きっと、それは一時的なもの。私に肌を触られて、好きだと錯覚しているだけ」
優しく接してもらえるから、そういう気持ちになってしまう人は結構多い。だから、そういうことが無いように、お店を女性限定にしているのだ。私がそう言うと、彼が首を横に振った。
「そんなことないです! 僕は……初めて会った時から……」
「一目惚れなんて、尚更、一過性のものだと私は思います」
「っ……どうして⁉︎」
ハルカさんに腕を掴まれた。
「どうして、僕じゃダメなんですか!」
ストレートに気持ちをぶつけられて驚いてしまい、彼の手を振り払うこともできなかった。
「離してください……」
「ねぇ、カノンさんの彼氏ってどんな人なんですか? 絶対、僕の方が、カノンさんのこと幸せにできますから!」
そんなに積極的にアプローチされると、戸惑ってばかりで言葉が何も出てこない。
どうしたら、分かってもらえるのかな……? 返答に困っていたその時、
「カノンちゃんの彼氏は俺ですが?」
背後から抱きしめられて、一瞬、身体が固まるが、ふわりと香った香りに、ホッと胸を撫で下ろした。
レイさんだ。
とはいえ、そう言ったレイさんの声音は、とても冷たくて、硬くて刺さりそうだった。
「え……」
「って、ハルじゃん」
レイさんの声のトーンが一瞬柔らかくなり、空気が一変する。
「カノンさんの彼氏って……レイさん……?」
明らかに戸惑っているハルカさんの問いには答えず、私はレイさんの顔を見る。
「あの、レイさん、ハルカさんのこと知っているんですか?」
「あぁ、うん。コイツら上京してきた時に、ちょっとね。最近は、フェスくらいでしか会わなくなったけど」
やっぱり、二人の接点はあったんだ……。
でも、ハルカさんから見たら、レイさんは大先輩ですよね。この状況、ハルカさんは不利でしょう……。
あぁ、よかった。やっと終わる。早く帰ろうと、思った矢先、
「っ……いくらレイさんの人でも、僕だってカノンさんのことが好きなんです。僕、諦めませんから」
ハルカさんの言葉に耳を疑った。嘘でしょ?
「へぇ。俺も、お前にカノンちゃんを渡すつもりはないけど?」
レイさんが、冷たい声でそう言う。どうしよう、この空気……。いや、私が原因なのか。
レイさんの、纏う空気が怖い……。でも、ここから逃がしてやらないと言わんばかりに、しっかりと抱き締められていて、身動きがとれない。
「二人ともやめてください……」
やっと出た声も、情けないくらい弱々しいものだった。当然、そんな声では二人には届かなかった……。
「ねぇ、カノンさん。俺とレイさんどっち選びます? 俺がお店のお客さんだからとか考えないで、男として選んでください」
「そんなの……」
「おい、ハル。カノンちゃんを困らせるのやめろ」
レイさんが私を庇うように、私の前に立った。
「そんなこと言って、カノンさんから答えを聞くのが怖いんじゃないですか?」
ハルカさんが、そう言ってレイさんを挑発した。ちょっと、これマズイことになるんじゃ……。
「そう言うお前もそうじゃないのか? 弱い奴ほどよく吠えるだろ」
「なっ……!」
レイさんの嘲笑混じりの言葉に、ハルカさんが、レイさんの胸倉を掴んだ。
「もうやめて‼︎」
私がそう叫んだら、一瞬、空気が止まった。
「やめて……」
「カノンさん……」
「ハルカさん、申し訳ございませんが、本日はお引き取りください。お願いします……」
そう言って、私が頭を下げる。
私の言葉から察したのか、ハルカさんの足音がだんだん遠のいていくのが聞こえた。
「ごめんね」
ずっと頭を下げていたところに、レイさんの声が降ってきたのでそっと息を吐く。
私は、頭を上げて、レイさんをちらりと睨んだ。
「レイさんも大人気ない……」
「うん。珍しくカッとなった……ごめんね」
彼がそう言って苦笑いする。緊迫した空気が解けて、思わず大きな溜息が出た。
「……レイさん、ごめんなさい。今日は帰りたいです。映画見る元気なくなりました」
「そっか。じゃあ、俺がカノンちゃん家に行くのはオッケー?」
「はい……」
あぁ、良かった。なんて笑いながらそう言ったレイさん。
ただでさえ、仕事終わりで疲れているのに、なんでこんなことになってしまったのか……。
もう、溜息しか出なかった。
***
家に着いて、荷物を片付けたり、帰宅時のルーティンをこなす。
レイさんは、家に入ると慣れたようにリビングのソファに向かっていた。
「レイさん、ビールでいいですか?」
「うん。ありがとう」
「手を洗ってからですよ」
「はいはい」
冷蔵庫を開けて、缶ビールを2本取る。
洗面所から戻ってきたレイさんがソファにかけたので、その隣に座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人でビールを開けて、飲んだ。
「「あー……」」
そして、ほぼ、同時に声が出た。顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
「カノンちゃん、聞いてもいい?」
「……ハルカさんのことですか?」
私が不機嫌そうにそう返すと、彼は苦笑いしながら頷いた。
「少し前に言ってた紹介の子って、ハルだったの?」
「えぇ。話せばレイさんも知ってるかなとは思いましたけど、あまりお客さんのことは喋りたくないので……」
「それは構わないよ。ただ、ハルがあんなにアプローチしてるからさ……」
「わっ、私は断ってましたよ!彼氏がレイさんだなんて言えないから、そこは誤魔化していましたけど……。ハルカさんの押しがすごくて、根負けして、少しバーでお酒を飲んだくらいです」
「そっか……」
「何か疑ってます?」
彼の煮え切らない様子に苛立ちを覚える。信用ならないと言うのなら、ハッキリそう言ってくれたほうがいい。
「そうじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「カノンちゃん、本当に俺でいいの?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からず、彼の顔を見たまま固まってしまった。
「俺は、カノンちゃんと居たい。けれど、俺バツイチだし、カノンちゃんもまだ若いから、俺が縛るのもどうかなって思ってる。ハルみたいに、ストレートにカノンちゃんを幸せにしますって、正直、俺は言える自信はない。だから、カノンちゃんがハルのところに行って幸せになれるのなら、俺は……」
「レイさんのバカっっ‼︎」
思わずそう口から出てしまった。レイさんが驚いて絶句している。けれど、ここで黙っていられなかった。
「もうっ、レイさんもハルカさんも自分のことばっかり! 私の気持ちなんて、聞く気、全然ないじゃないですか!」
「カノンちゃん……」
「あぁもう! 自分勝手にそんなこと言わないでください! いいですか? 正直に言いますよ? ドン引きするかもしれませんけど……」
ここまで一気にまくし立ててしまったので、一度深呼吸をする。
「私は、今までの人生で、あなた以上に好きになった人はいません‼︎ 手が届かないと思っていた人がそばにいるのに、それ以上の幸せなんて考えられない!だいたい、幸せかどうか決めるのは私です!勝手に私の幸せを決めないでください‼︎」
そこまで言ったら、涙が出てきた。
別に悲しいとかじゃないけれど、溜まっていたものが涙と一緒に出てしまった感じだった。
「カノンちゃん……ごめん。でも、さっきのことホント……?」
レイさんに対してこんなに声を荒げたのも初めてだから、レイさんが戸惑っている。
けれど、どこか嬉しそうな様子だった。
「私、そんなしょうもない嘘つきません。こんな風に出会えなかったら、私は、ただの拗らせた痛いファンです」
怒りに任せて言ってしまったとはいえ、いくら事実でもだんだん恥ずかしくなってきた……。
いや、ほんと。ただの拗らせたファンなの……。
色々と恥ずかしくなり、顔を手で覆うが、ちらっと、レイさんを見ると、やっぱりどことなく嬉しそうにしている。
「……好きな子に、そんなこと言われたら……」
レイさんがそう言って、私を抱きしめる。
「あぁ、どうしよう。すごく嬉しい……」
「……さっきまでウジウジしてたのに」
照れてるレイさんが、可愛いなぁとは思ったけれど、彼の腕の中で悪態をついた。
「カノンちゃんが、ちゃんと俺に気持ちを言わないから」
「そうやって、人のせいにしないでください」
「だって、ハルに対してはっきり断ってなかったし。心配になるじゃん」
「あんなに押されたら言葉も出てこないですよ……。それに、紹介のお客さんだし……」
まぁ、あの場でハッキリ言ってしまえば良かったのだろうけど……。その前に、ハルカさんがレイさんを挑発してたからなぁ。
「ハルにも、さっきみたいに怒れば良かったじゃん……」
「きっと、私が言うよりも、レイさんが手を回した方が効果ありますよ」
「怖いこと言うねぇ……」
くすくすと笑いながら、レイさんが私の顔に触れる。そっと、目元に残っていた涙を指で
拭ってくれた。
「レイさん……」
「ねぇ、カノンちゃんは、今、幸せ?」
「えぇ。とても」
そう答えたら、唇が重なった。
「よかった……」
「それに、私、レイさんのこと、放っておけないです……。色々心配ですから」
「あぁ、すみません」
少しがっかりした様子の彼が愛おしくなって、私からもう一度キスをする。
すると、レイさんが少し照れた様子で笑った。
「あぁ、もう可愛い。早く家においでよ……」
「今、準備してますから……もう少し待っててください」
もうすぐ、一番大好きな人と一緒に暮らせるというのに、それ以上の幸せなんて、私には想像
つかない……。
そんなことを思いながら、今夜は彼と何をするわけでもなく、ゆっくり過ごしていた。
***
あの日から、2ヶ月ほど経った。
あれ以来、ハルカさんから予約が入ることもなく、パッタリと音沙汰がなくなってしまった。
その間に、少しだけお店を閉めて、私は、レイさんの家に引っ越した。
お店から少し遠くはなったけれど、それ以外はさほど不便もせず新しい生活を楽しんでいる。
あの、変な階段を毎日上らなくて良いのだから快適だ。
「あ、そういえば、ハルカがなんかやらかしたみたいね?」
楠木さんが、アフターコンサルテーションを終えた時にそう言った。
「え? 別に、私からハルカさんを出禁にはしていませんよ?」
「え? そうなの? ハルカがカノンちゃんを口説いて出禁になったって噂だけど……」
わぉ。すごい噂! とは思ったけれど、口には出さなかった。
「やだぁ、私はそんなに人の悪いセラピストじゃないですよ? ちゃんとお代を頂ければトリートメントしますもの」
「あっははは……カノンちゃん、それじゃ良い人に聞こえないわぁ」
楠木さんが豪快に笑う。『じゃあ、なんでそんな噂になったんだろうね?』なんて、話しながら、楠木さんは帰っていった。
何でなのかは、なんとなく想像はついたけれど、
『世の中には知らない方が幸せなこともある』という言葉もあるくらいだから、敢えて知る必要もないでしょう。
さて、お店片付けて、早く帰ろう。レイさんが待ってる。
あの日以来、ハルカさんから何も連絡はなかった。少し気にしつつも、今日もいつもと変わらずしっかり仕事をしている。
今日は、仕事終わりにレイさんがお店に寄ってくれるというので、そのままレイトショーでも観に行こうかと約束をしていた。会うのは、彼がプロモーションで地方に行った日以来だから、久しぶり。彼に会えるのが楽しみだった。
今日の最後のお客様を見送って、閉店作業に取り掛かる。
暫く作業をしていると、カウンターの中に置いていたスマホが震えた。画面を見ると、レイさんだった。そのままメッセージを開けば、今お店に向かっているとのことだったので、片付けの手を早めた。
急いで閉店作業を終えて、お店のシャッターを下ろした。あとはレイさんが来るのを待つだけ。スマホを取り出し、SNSのチェックをして時間を潰していた。
「カノンさん」
「っ!」
声をかけられて、顔を上げると、ハルカさんがいた。
「どうしたんですか? もうお店は閉めてますし……」
突然の来訪に動揺してしまったけれど、なんとか平静を装って話す。
「カノンさん……あの、この前のこと謝りたくて……」
「謝る……?」
「なんか、その……怒らせちゃったみたいだし……ホント、ごめんなさい‼︎」
そう言って、私に向かって、思いきり頭を下げるハルカさん。
「ちょっと……頭、上げてください」
慌てて、ハルカさんに頭を上げてもらおうと、肩に触れる。
「許してくれますか?」
「……それとこれとは別。でも、頭下げられるのは苦手なんです」
そう言って、彼から離れた。
「そっか……。でも、僕、カノンさんのこと好きなのは変わらないです」
「きっと、それは一時的なもの。私に肌を触られて、好きだと錯覚しているだけ」
優しく接してもらえるから、そういう気持ちになってしまう人は結構多い。だから、そういうことが無いように、お店を女性限定にしているのだ。私がそう言うと、彼が首を横に振った。
「そんなことないです! 僕は……初めて会った時から……」
「一目惚れなんて、尚更、一過性のものだと私は思います」
「っ……どうして⁉︎」
ハルカさんに腕を掴まれた。
「どうして、僕じゃダメなんですか!」
ストレートに気持ちをぶつけられて驚いてしまい、彼の手を振り払うこともできなかった。
「離してください……」
「ねぇ、カノンさんの彼氏ってどんな人なんですか? 絶対、僕の方が、カノンさんのこと幸せにできますから!」
そんなに積極的にアプローチされると、戸惑ってばかりで言葉が何も出てこない。
どうしたら、分かってもらえるのかな……? 返答に困っていたその時、
「カノンちゃんの彼氏は俺ですが?」
背後から抱きしめられて、一瞬、身体が固まるが、ふわりと香った香りに、ホッと胸を撫で下ろした。
レイさんだ。
とはいえ、そう言ったレイさんの声音は、とても冷たくて、硬くて刺さりそうだった。
「え……」
「って、ハルじゃん」
レイさんの声のトーンが一瞬柔らかくなり、空気が一変する。
「カノンさんの彼氏って……レイさん……?」
明らかに戸惑っているハルカさんの問いには答えず、私はレイさんの顔を見る。
「あの、レイさん、ハルカさんのこと知っているんですか?」
「あぁ、うん。コイツら上京してきた時に、ちょっとね。最近は、フェスくらいでしか会わなくなったけど」
やっぱり、二人の接点はあったんだ……。
でも、ハルカさんから見たら、レイさんは大先輩ですよね。この状況、ハルカさんは不利でしょう……。
あぁ、よかった。やっと終わる。早く帰ろうと、思った矢先、
「っ……いくらレイさんの人でも、僕だってカノンさんのことが好きなんです。僕、諦めませんから」
ハルカさんの言葉に耳を疑った。嘘でしょ?
「へぇ。俺も、お前にカノンちゃんを渡すつもりはないけど?」
レイさんが、冷たい声でそう言う。どうしよう、この空気……。いや、私が原因なのか。
レイさんの、纏う空気が怖い……。でも、ここから逃がしてやらないと言わんばかりに、しっかりと抱き締められていて、身動きがとれない。
「二人ともやめてください……」
やっと出た声も、情けないくらい弱々しいものだった。当然、そんな声では二人には届かなかった……。
「ねぇ、カノンさん。俺とレイさんどっち選びます? 俺がお店のお客さんだからとか考えないで、男として選んでください」
「そんなの……」
「おい、ハル。カノンちゃんを困らせるのやめろ」
レイさんが私を庇うように、私の前に立った。
「そんなこと言って、カノンさんから答えを聞くのが怖いんじゃないですか?」
ハルカさんが、そう言ってレイさんを挑発した。ちょっと、これマズイことになるんじゃ……。
「そう言うお前もそうじゃないのか? 弱い奴ほどよく吠えるだろ」
「なっ……!」
レイさんの嘲笑混じりの言葉に、ハルカさんが、レイさんの胸倉を掴んだ。
「もうやめて‼︎」
私がそう叫んだら、一瞬、空気が止まった。
「やめて……」
「カノンさん……」
「ハルカさん、申し訳ございませんが、本日はお引き取りください。お願いします……」
そう言って、私が頭を下げる。
私の言葉から察したのか、ハルカさんの足音がだんだん遠のいていくのが聞こえた。
「ごめんね」
ずっと頭を下げていたところに、レイさんの声が降ってきたのでそっと息を吐く。
私は、頭を上げて、レイさんをちらりと睨んだ。
「レイさんも大人気ない……」
「うん。珍しくカッとなった……ごめんね」
彼がそう言って苦笑いする。緊迫した空気が解けて、思わず大きな溜息が出た。
「……レイさん、ごめんなさい。今日は帰りたいです。映画見る元気なくなりました」
「そっか。じゃあ、俺がカノンちゃん家に行くのはオッケー?」
「はい……」
あぁ、良かった。なんて笑いながらそう言ったレイさん。
ただでさえ、仕事終わりで疲れているのに、なんでこんなことになってしまったのか……。
もう、溜息しか出なかった。
***
家に着いて、荷物を片付けたり、帰宅時のルーティンをこなす。
レイさんは、家に入ると慣れたようにリビングのソファに向かっていた。
「レイさん、ビールでいいですか?」
「うん。ありがとう」
「手を洗ってからですよ」
「はいはい」
冷蔵庫を開けて、缶ビールを2本取る。
洗面所から戻ってきたレイさんがソファにかけたので、その隣に座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人でビールを開けて、飲んだ。
「「あー……」」
そして、ほぼ、同時に声が出た。顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
「カノンちゃん、聞いてもいい?」
「……ハルカさんのことですか?」
私が不機嫌そうにそう返すと、彼は苦笑いしながら頷いた。
「少し前に言ってた紹介の子って、ハルだったの?」
「えぇ。話せばレイさんも知ってるかなとは思いましたけど、あまりお客さんのことは喋りたくないので……」
「それは構わないよ。ただ、ハルがあんなにアプローチしてるからさ……」
「わっ、私は断ってましたよ!彼氏がレイさんだなんて言えないから、そこは誤魔化していましたけど……。ハルカさんの押しがすごくて、根負けして、少しバーでお酒を飲んだくらいです」
「そっか……」
「何か疑ってます?」
彼の煮え切らない様子に苛立ちを覚える。信用ならないと言うのなら、ハッキリそう言ってくれたほうがいい。
「そうじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「カノンちゃん、本当に俺でいいの?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からず、彼の顔を見たまま固まってしまった。
「俺は、カノンちゃんと居たい。けれど、俺バツイチだし、カノンちゃんもまだ若いから、俺が縛るのもどうかなって思ってる。ハルみたいに、ストレートにカノンちゃんを幸せにしますって、正直、俺は言える自信はない。だから、カノンちゃんがハルのところに行って幸せになれるのなら、俺は……」
「レイさんのバカっっ‼︎」
思わずそう口から出てしまった。レイさんが驚いて絶句している。けれど、ここで黙っていられなかった。
「もうっ、レイさんもハルカさんも自分のことばっかり! 私の気持ちなんて、聞く気、全然ないじゃないですか!」
「カノンちゃん……」
「あぁもう! 自分勝手にそんなこと言わないでください! いいですか? 正直に言いますよ? ドン引きするかもしれませんけど……」
ここまで一気にまくし立ててしまったので、一度深呼吸をする。
「私は、今までの人生で、あなた以上に好きになった人はいません‼︎ 手が届かないと思っていた人がそばにいるのに、それ以上の幸せなんて考えられない!だいたい、幸せかどうか決めるのは私です!勝手に私の幸せを決めないでください‼︎」
そこまで言ったら、涙が出てきた。
別に悲しいとかじゃないけれど、溜まっていたものが涙と一緒に出てしまった感じだった。
「カノンちゃん……ごめん。でも、さっきのことホント……?」
レイさんに対してこんなに声を荒げたのも初めてだから、レイさんが戸惑っている。
けれど、どこか嬉しそうな様子だった。
「私、そんなしょうもない嘘つきません。こんな風に出会えなかったら、私は、ただの拗らせた痛いファンです」
怒りに任せて言ってしまったとはいえ、いくら事実でもだんだん恥ずかしくなってきた……。
いや、ほんと。ただの拗らせたファンなの……。
色々と恥ずかしくなり、顔を手で覆うが、ちらっと、レイさんを見ると、やっぱりどことなく嬉しそうにしている。
「……好きな子に、そんなこと言われたら……」
レイさんがそう言って、私を抱きしめる。
「あぁ、どうしよう。すごく嬉しい……」
「……さっきまでウジウジしてたのに」
照れてるレイさんが、可愛いなぁとは思ったけれど、彼の腕の中で悪態をついた。
「カノンちゃんが、ちゃんと俺に気持ちを言わないから」
「そうやって、人のせいにしないでください」
「だって、ハルに対してはっきり断ってなかったし。心配になるじゃん」
「あんなに押されたら言葉も出てこないですよ……。それに、紹介のお客さんだし……」
まぁ、あの場でハッキリ言ってしまえば良かったのだろうけど……。その前に、ハルカさんがレイさんを挑発してたからなぁ。
「ハルにも、さっきみたいに怒れば良かったじゃん……」
「きっと、私が言うよりも、レイさんが手を回した方が効果ありますよ」
「怖いこと言うねぇ……」
くすくすと笑いながら、レイさんが私の顔に触れる。そっと、目元に残っていた涙を指で
拭ってくれた。
「レイさん……」
「ねぇ、カノンちゃんは、今、幸せ?」
「えぇ。とても」
そう答えたら、唇が重なった。
「よかった……」
「それに、私、レイさんのこと、放っておけないです……。色々心配ですから」
「あぁ、すみません」
少しがっかりした様子の彼が愛おしくなって、私からもう一度キスをする。
すると、レイさんが少し照れた様子で笑った。
「あぁ、もう可愛い。早く家においでよ……」
「今、準備してますから……もう少し待っててください」
もうすぐ、一番大好きな人と一緒に暮らせるというのに、それ以上の幸せなんて、私には想像
つかない……。
そんなことを思いながら、今夜は彼と何をするわけでもなく、ゆっくり過ごしていた。
***
あの日から、2ヶ月ほど経った。
あれ以来、ハルカさんから予約が入ることもなく、パッタリと音沙汰がなくなってしまった。
その間に、少しだけお店を閉めて、私は、レイさんの家に引っ越した。
お店から少し遠くはなったけれど、それ以外はさほど不便もせず新しい生活を楽しんでいる。
あの、変な階段を毎日上らなくて良いのだから快適だ。
「あ、そういえば、ハルカがなんかやらかしたみたいね?」
楠木さんが、アフターコンサルテーションを終えた時にそう言った。
「え? 別に、私からハルカさんを出禁にはしていませんよ?」
「え? そうなの? ハルカがカノンちゃんを口説いて出禁になったって噂だけど……」
わぉ。すごい噂! とは思ったけれど、口には出さなかった。
「やだぁ、私はそんなに人の悪いセラピストじゃないですよ? ちゃんとお代を頂ければトリートメントしますもの」
「あっははは……カノンちゃん、それじゃ良い人に聞こえないわぁ」
楠木さんが豪快に笑う。『じゃあ、なんでそんな噂になったんだろうね?』なんて、話しながら、楠木さんは帰っていった。
何でなのかは、なんとなく想像はついたけれど、
『世の中には知らない方が幸せなこともある』という言葉もあるくらいだから、敢えて知る必要もないでしょう。
さて、お店片付けて、早く帰ろう。レイさんが待ってる。